2005年2月28日月曜日

ヨセンカイ

 高校時代の交換日記から。

1952年3月8日(土)雨

(Ted)

 ヨセンカイとは何だろうと思っていたら、予餞会。といっても、この疑問が解けたのは、きょうではない。きょう、これが行われたのだ。芸術? [1]
 『新樹』が発行される。誤字が多い。"Lt is imperquect. But . . ." だって。A・U 君の文章は、うま過ぎるように思えてならない。「目はばらだった」というのは、国語甲の時間に、新感覚派の表現の例として聞かされた文だ。構成と理論ががっちりしている。FJ 君の小説もみごとだ。どうしてこんなものが書けたのだろう。[2]
 『週刊朝日』3月16日号に、先週 S・T 先生に聞いた話が載っている。

夢声:これは漱石の話ですがね。教室でふところ手をしている生徒がいるんで、漱石が怒った。「お前、ひとが講義しているのに失礼じゃないか」「先生、ぼく片手ないんです」これにゃ参ったけれども即座に「おれだって、ない知恵をしぼって講義してる。お前もない手を出してきいたらいいじゃないか」これは本洒落ですな。

「読者と編集者」欄に「新カナづかいに一言」として、前号の夢声の発言についてぼくが3月1日に書いたのと同じ意見が載っている。

(Sam)

 九時からというのが二十分遅れて始まった。一年の執行委員は正面玄関で卒業祝いの記念品を贈るための仕事をしていたので、始めの方は見られなかった。午前中の出し物の中では、馬術部のトンチンカン音楽が最も面白かった。
 昼食時に CIE と体協から借りてきた映画をする。題名は「美しきアメリカ」「空の威力」「ヘルシンキへの道」。「美しきアメリカ」は、ひじょうに断片的なものだった。その他は、よく見ていられなかったから、分からない。
 演劇部の「早春」は動作より言葉の方が主な劇だったが、声がよく通っていなかったので、大して成功だとは思われなかった。舞台装置はなかなか大がかりなものだった。「私は誰でしょう」で問題が余り、会場から解答者を求められた時、ぼくがすたすたと出ていき、第二ヒントで「リンゴに関係があるんだ」と二回繰り返したあと、「ウイリアム・テル!」と答え、一箱二十円のキャラメルを二箱貰っちゃった。
 他にも面白いものがあったが、それはプログラムを見て貰うことにしよう。その時、話すことがあったら話す。今夜は書こうとすることがぜんぜんまとまらない。
 予定の時間より大分遅れて、六時にやっと全部終った。後始末をして帰ったら九時だった。


 引用時の注

  1. 予餞会で、1年生の NS さんが「カルメン」をあまりにもアクロバチックに、また妖艶に踊ったことについて、「芸術?」としか書けなかったようである。これだけでは何のことだったか思い出せなかったが、翌9日の日記がヒントとなった。

  2. A・U 君も FJ 君も新聞部の2年生。

2005年2月27日日曜日

青大将君がいっそう青く

 高校時代の交換日記から。

1952年3月7日(金)曇り

(Sam)

 ズックを脇に、弁当を右手にぶら下げて、下駄をはいて学校へでかける。明日の送別会の準備をしなければならないのである。まず、各ホームおよび水泳部の部室から教壇を運んでステージを組む。各学校から借り集めて来た暗幕を張り、天井へ上がって舞台の幕を張る。これだけのことが午前中にできた。これらの準備をしたのは、執行委員と馬術、陸上競技、山岳、篭球各部の部員および各ホームから一人ずつの準備委員である。彼らがすべて出席扱いにされることはいうまでもない。
 ぼくは二限だけ授業に出てきた。英語は一日でも欠かせば困ると思ったから。
 荷車を引いて、スポーツ会館へ映写機を取りに行く。これは大した労働だった。済んで家へ帰ったのは八時。詳しいことを書いているのはおっくうだ。


(Ted)

 虹彩と書くべきところへ網膜と書き、尿のうを中胚葉からとし、エビの眼の再生に関する問題で二つとも間違った。力の使い方を知らないものに等しいような有り様だ。どうして、こう抜かっているのだろう。
 ホームで弁当を食べているとき、廊下が騒がしくなり、YMD 君が3日前の夕刊にあった地震の名前を持ちだしたのだったが、放課後、編集室で校正をしていると、ほんとうに地震が来た! あだ名が青大将の FJ 君がいっそう青くなって、庭球場へ飛び出した。TK 君、HN 君、それにぼくも続いた。(KJ 君らは帰宅して、いなかった。)講堂で明日の準備をしていたものたちも、外へ出てきて、木の下に黒くかたまっていた。近くにある KS 君の家の犬がほえ続け、それが周囲にこだました。この騒ぎに、ぼくは TK 君が誰かに借りたのだという赤鉛筆をどこかへやってしまった。1回の揺れが終ってから、火鉢に火が残っていたことに気づいたわれわれでもあった。

告白性と虚構性(2)

Sさん

 題名がすでに登録済みということを想像しないではなかったのですが、前回は取りあえず、いいたいことをいわせて貰いました。きょうは、おっしゃったように題名はそのまま、という条件のもとで、目次以下のやや詳細な点について提言します。

(1) 目次について

   三島由紀夫と『仮面の告白』の「私」との相違

という節があれば、

   三島由紀夫と『仮面の告白』の「私」との類似

という節も欲しいところです。「告白」という言葉を含む作品を中心にする論文である以上、類似を先に持って来たい気がしますが、それはどちらでもよいでしょう。類似の節の中身は、『仮面の告白』中の告白的特徴を持つ部分として、いまの草稿案第二部がそのまま入るでしょう。そうすれば、第二部の題名として上記の二番目の題名を用いて、現在の第二部の題名を、次のように副題にすることが考えられます。

   三島由紀夫と『仮面の告白』の「私」との類似
    ―「私」に芽生えた同性への執着―

 これらの節との関係で見るとき、いまの第三節はどういう意味のものか、が気になります。三島の正常な家庭生活を考えると、ここに紹介してある部分は、『仮面の告白』の中で、創作性の強い部分といえないでしょうか。そのせいか、私はその辺りを読んだとき、それ以前の部分よりも強烈さが乏しく、メロドラマ風だと感じたのでした。この見方がよければ、第三節の題名を

   『仮面の告白』の「私」の創造的部分
    ―思春期における対象―

のようにすることが考えられます。
 なお、上記のように、私の語には「」をつけるのがよいと思います。

(2) 序論について

 序論に考察がかなり入り込んでいる感じがします。いつか「論文はどんな論文でも、問題と答えである。レトリックの問題としてとらえる。」とは、どういう意味かとお尋ねでしたが、まさにこの文が教えているように、序論には、結論を導くための「問い」をしっかり書いておくべきです。たとえば、

 『仮面の告白』の「私」は、どこまでが三島自身の告白であり、どこからが三島の創作・脚色だろうか。『仮面の告白』の「私」は三島自身の性格の二面性(一般性と特殊性の共存)を示唆するといえるだろうか。本論文ではこれらの点について考察してみたい。

というように。そして、考察的な部分は「結論」の前に「考察」というような節を設けて、そちらにまとめてはどうでしょうか。

(3) 『仮面の告白』の自伝性(告白性)の一論拠

 新潮文庫版巻末の佐伯彰一の解説は、「自伝的小説と受けとる方がいい」と述べています(p. 234半ば)。この前後の文は『仮面の告白』の自伝性の一論拠として有用でしょう(指導教官氏は、作者と主人公は別物とお考えだそうですが)。

(4) 参考文献の利用

 参考文献が沢山挙げてありますが、それらの中から、関連する有用な記述をできるだけ引用するのがよいと思います(各引用毎に、出所を明記して)。私のある文系の友人は、文系の論文を書く仕事は、参考論文をよく調べ、よく利用することがほとんどすべてだ、というようなことをいっていました。

 なお、私がアマゾンへ投稿した『仮面の告白』の書評を下に引用しておきます。ご利用できる部分があれば、適当に使って貰って結構です。

【華麗な漆絵のように描かれた性の悩み】

 主人公「私」の出生から23歳にいたるまでが、性に関する告白の形で述べられている。幼年期の「私」の経験には、少なくない男性が多少なりとも共通した記憶を呼び覚まされるであろう。…(中略)…作者24歳のときの、最初の書下ろし長編である。巻末の解説にいう「自伝的小説と受けとる方がいい」に賛成する。[1]

  1. このレビューの全文はこちらでご覧になれます。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 02/27/2005 13:23
 私の意見を忌憚なく述べさせて頂きますので、ご友人の参考にして頂ければ、と望みます。
 卒論題目は「三島由紀夫と『仮面の告白』の「私」との相違」という目次を主内容とした題目でしょうか(語感がよくないです。)。『仮面の告白』における「私」を「」書きにするのは当然ですが、そもそも、三島由紀夫というのは作家名でして、実物の三島由紀夫(平岡公威)とは別人でして、三島由紀夫は、『仮面の告白』他の大変な独自性の高い小説を生み出すために、人生のかなりの部分を生きたわけです。その作家・三島由紀夫(こちらは作家のプロ)と、『仮面の告白』中の「私」(こちらは主人公のプロ)との相違、類似、といったテーマで論文を書かれる発想が、作家・小説家が何者であるのか、彼らはなぜ「作品を通して」、実人物ではないけれども作家としての彼ら(三島由紀夫ら)、そして実人生の苦しみや悲しみなどを生きた彼らが、読者におのずと伝わってくるのか、小説を読んだ感動にとどまらず、三島作品でも次々と読んでいけば、そのような「心の連鎖」が「読者」の中に生まれるはずです。
 つまり、『仮面の告白』の「私」と三島由紀夫に注目した卒論を書かれるなら、客観的にこの作品の何々の相違とか、類似性とかを述べるのではなくて、この小説を読まれた「読者」(卒論執筆者)の心の連鎖を論理構成してゆくほうが、「主観的世界を生かし切った論文」として評価されるのでは、と思います。
 さらに、「序論には、結論を導くための『問い』をしっかり書いておくべきです」と書かれていますが、これは間違いだと思います。文科系で、始めから解っている結論を導くための「序論」を置く、という論文の書き方は、「拝啓 敬具」のお手紙や受験数学と違うのですから、実に文科系論文執筆の創造性に欠ける書き方です。京大でも大学院でも、私は、結論などなくてもよい、ぶっとんでいてもよいという研究者教育でしたが(せめて「今後の課題」にとどまりませんか? これは定番すぎますが)。このような地点に自らの感性と一体となった思考が到達するであろう「予測的発想・思考」は、卒論においても生じえますが、書いているうちに必ずどんどん裏返され、章立て変更、書き直し、削除だらけの作業です。そして論文執筆者の「生きる・生きた体験」=この場合は読書の主観的体験を深めてゆく中で、どのような論理や創造的批判点が見出せるか…ここまでくれば、自然にこれらの論述は実現可能です。
 まず、読者さんなのですから、三島由紀夫の処女長編の、このとんでもない独自芸術の文章、男性性への憧憬や執着と、男性としての自己の脆弱さ、それがどのように作品中で「告白」されているか、「仮面」はなぜ、どのように「告白」し、それが読者の心にどのような影響を及ぼすのか、といったことについて書かれたらよいのに、…等などと思います。
 また、続きの意見を書かせて頂いてよいなら、空いている時間に書きますので、ご参考になさってくださいね。

Ted 02/27/2005 15:28
 本記事にアクセスしていただいた時点では、前編へのアクセスが不能の状態だったかと思います。記事公開の選び方が間違っていました。ご不便をおかけし、すみませんでした。
 私も、卒論は主観的構成がよいとは思います。しかし、S さんはどちらかといえば論理構成を得意としない人であり、原稿用紙100枚程度書かなければならないと聞いて、自己の主観でそれだけ書くのは難しいと考えたと思います。それで、S さんは過去の評論同士の比較を多く盛り込もうと、いろいろ参考書を読みあさっており、すでに指導教官のアドバイスも一、二度受けています。そういう時点での私の助言は、あまり大きく方針を覆す形では出せなかったことをご理解下さい。
 「『序論』に結論を導くための『問い』を書いておくべき」というのは、確かに間違いかも知れません。私がいいたかったのは、始めに「緒言」があって、そこに「問い」が書かれているべきだということです。これは論文の読者に論文の見通しを与え、その理解を容易にするためのサービスとして必要と思います。「緒言」は「結論」あるいは「今後の課題」を書いたあとで書いて、前に置けばよいのです。「章立て変更、書き直し、削除だらけの作業」があっても、その結果としてでき上がった論文は読みやすい形に整えるべきです。S さんに大学から与えられた卒論執筆の指導書に「論文はどんな論文でも、問題と答えである。レトリックの問題としてとらえる」という言葉があったということを以前に聞いていましたので、私は、それを尊重する意味でも、レトリックとしての問いを先に書くことをSさんに注意すべきだと思いました。
 続きのご意見を歓迎します。

Y 02/27/2005 17:47
 Ted さんの先のブログにある論文題目への提案、「三島由紀夫の作品における告白性と虚構性――『仮面の告白』を通して」に私も賛成です。もちろん、出来上がった論文は、読みやすい、説得力のある、そしてこう言うべきなのですが、格好の決まったものでなければならないのですが(題目、章立てひとつとっても)、もうひとつ、やはり文学も教育学も哲学も、人間学としての精神病理学でも、文科系論文は「芸術的な思考・感性作品」でなければならず、そのための章の入れ替え、書き直しなどの作業であるわけです。ですので、大学の通信教育で卒業するのはいかに大変か、多くの体験者が言っているのですが(仏教大学でも、8年在籍して退学、などの多い世界です。難関そうに言われている大学の通信は、卒業率3%など)、S さんが指導教官から、論文は問題と答えであり、レトリックである、と教えられているのは、(過去の研究をふまえたうえで)「問題」をまず提示せよ、という部分以外は、「違いますね」と、私の受けてきた学者教育から、言うことができます。
 それで、先行研究ですが、本当の文学研究を調べないと、文芸評論というのは、文学そのものとはかなり一線を画しているという問題があると私は思っていますから、そうして、参考文献をふまえるのは当然でして、だいたい、卒論レベルだと、大物一冊(ご友人の場合だと『仮面の告白』で十分です)を相手にして、体当たりで執筆するのであって、先行研究や参考文献を大いに引用しても、それで「飾りつけ」をしてはいけない、ということです。「緒言」「問題」は最後に書く、という人は多いですよ。とにかく、私が前にブログで哲学というものについて一般の方に語りましたように、「知的に操作的に書いた、あるいは他の誰かの影響を引きずった、自分自身のものでない」卒論は、全部見破れるのが、本場の教官というものなのです。これは大学院でもそうでしたので。なので、大物一冊にちっぽけな自分が体当たりするためには、論文執筆作業でいろいろな組み換えや、卒論執筆者「自身」がそれまで生きてきた範囲をこえて、人間的に変わらなければならない…これが、私がまず学部レベルで教え込まれたことです。
 いろいろな重要文献・名著を多彩にあやつって、自分の言いたいことを論文体裁で書けるようになるのは、私のいたような大学の助手・助教授以上になってから、の話です。ですので、ご友人が『仮面の告白』一冊に絞っておられるのは、大変正解でした。
 流派がまったく違っても、私が個人的に指導を再びお願いしようとしている東京の哲学者が書かれた一般向けの本のタイトルをご覧になっても、論文を書くということと彼の一般向け著書の執筆とが切り離せないということで、上記の私の論文にかんする方針がおわかりいただけるのでは、と思います。

Ted 02/27/2005 19:59
 「論文は問題と答えであり、レトリックである」と教えられているのではないのです。原文は「論文はどんな論文でも、問題と答えである。レトリックの問題としてとらえる」です。これは、もっと丁寧にいえば、「論文はどんな論文でも、問題と答えである、ということができるが、これは、論文のレトリック面をいっているのである」ということでしょう。論文の内容について、レトリックであれ、といっているのではないのです。この点を理解して貰えば、S さんの教えられたことが、間違いということにはならないと思います。
 「大物一冊を相手にして、体当たりで執筆するのであって、先行研究や参考文献を大いに引用しても、それで『飾りつけ』をしてはいけない」は、よい言葉と思います。S さんに伝えましょう。ありがとうございました。

Y 02/27/2005 20:49
 なるほど、指導教官の方のお言葉の趣旨など、よくわかりました。その意味での論文のレトリックをまず身につけるのが最初にするべきことですし、「問題」を提示しておいて、それに自分なりに立派に「答え」ようとしない執筆者は認められませんから、その通りです。
 そのような基本的体裁・技術を身につけたうえで(参考文献の表記方法、一マス・三行空けなど、校正はすべて、執筆者がしなければなりませんしね)、ご友人には、私が上に書かせて頂いたような内容を、Ted さんのご判断でお伝えください。

Ted 02/27/2005 21:57
 はい。由名さんの貴重なご意見を参考にして、もう一度助言をしておきましょう。

2005年2月26日土曜日

二百円の広告

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年3月4日(火)曇り

 クラブ活動の時間には、第十七号の広告を取りに行った。
[1] YM 君と尾張町付近の商店へ行って、頼んで歩いた。正直のところ、こんなことは経験がなくて、苦手で、嫌いだ。最初の目的の店の前で、長い間ちゅうちょしていたが、これでは始まらないからと、勇気を出して中へ入った。そこは、主人が病気のため駄目、次の店は主人が留守、といった具合で、五軒目まで、一件の収穫もなし。六軒目、その店は南陽堂だった。もう断られることには慣れてしまって、断られるのを覚悟で行ったのだが、交渉もうまくなっていた上に、案外すらすらといき、予期に反して二百円の広告を出していただくことになった。それで、やっとわれわれの面目がたったという次第。

(Ted)

1952年3月4日(火)雨

 「八郎君、試験も近づいたが、元気で最後の仕上げに励んでいる事だろうね。東京から来る君ならば、金沢大学ぐらい何でもないだろうが…。所で、君がこちらへ来る時、伯父さんに頼んで写真機を借りて持って来てくれ給え。」
まだ8字ほど使えるのだから、何か挨拶を書けばよいか、写真機を持って来て貰うことが主目的なのだから、「東京から来る君…」という激励をもっと短くして、頼み方を丁寧にした方がよいか、「所で、…くれ給え。」は少し変か、などと思ったのに、これで合格だとさ。先週から病気欠勤中の HR 先生に代わって国語甲の時間に来ておられる S・T 先生が、昨日の夕刊に出ていた金沢大学入試の作文問題をわれわれに試されたのだ。先生は20分で集めて、1枚1枚答を読み上げながら、「これはぜんぜん落第。これは、まあ、ここだ。」などと順位をつけて教卓へ並べて行かれた。「伯父さん」という言葉を使うことに気づいたのがほとんどなく、ピントはずれのものや、自分が太郎の立場になって書かなければならないのを逆にしたものや、余分なことをもったいないほどの名文で書いたのや、こっけいなくらいくどくどしいのや…という調子で、時間の終りまでに、最初に読まれたぼくの文の右に出るのはなかった。
 このあと、S・T 先生のところへ KJ 君を連れて、いろいろ質問に行った。昼食後は、逆に KJ君 につき従って、Y・S 先生のところへ行った。1限に指数関数から昨日習ったところまでの試験があったのだ。SNN 君が次のような問題を始め、多くの難問を持ち込んでいた。
 「m, x, y が正の整数の時、次のようなことがあるか。
  log(xm + ym) = log(xm) + log(ym)」

 引用時の注

  1. Sam はタイプ部以外に、私と同じく新聞部にも入っていたようだ。

告白性と虚構性

 大学の通信教育を受けている友人が、卒論を準備するところまで漕ぎ着けた。卒論のテーマとしては、三島由紀夫の『仮面の告白』を取り上げている。指導教官に草稿案を見て貰ったところ、友人とは意見が異なり、また、「論拠」はどこにあるかをはっきりさせるようにいわれたとのことで、どうすれば、論理的な論文になるか助言して欲しい、といってきた。私は次のような返信を送った。


S さん

 速達拝受。『仮面の告白』は私も新潮文庫版を持っていましたので、送って貰わなくてもよかったのですが。

 指導教官が三島と『仮面の告白』の「私」が別物だというお考えならば、「三島由紀夫における〈二面性〉――『仮面の告白』を通して」という題でまとめようとすれば、真っ向から対立することになり、なかなか OK が出ないような気がします。

 本当の学術論文ではなく卒論なのですから、少し妥協して「三島由紀夫の作品における告白性と虚構性――『仮面の告白』を通して」という題にしてはどうでしょうか。あるいは「三島由紀夫」の代わりに『仮面の告白』を中心に据えてもよければ、もう少し簡潔に「三島由紀夫の『仮面の告白』における告白性と虚構性」とすることも考えられます。

 このようにしても、三島の二面性に言及できることは同じです。ただ、同性愛者という可能な一面を結婚以前の若い時代の経験に限定し、しかも作品上は、告白を含みながらも文学的脚色が大いになされている(虚構も大いに入り込んでいる)だろう、ということを述べれば、指導教官と真っ向から対立する程ではなくなるでしょう。「結論」に書かれている「三島は実生活においては、申し分のない良家の夫であった」ということとも矛盾しません。

 少年時代の一時期、格好いい、あるいは逞しい同性に惹かれるということは、少なくない男性が経験することと思います(私にも、そのような時期がありました)。しかし、三島の場合は、彼の感受性の豊かさも手伝い、その経験がかなり強烈で永続的なものだったと想像されます。

 草稿案の p. 2 に引用されている三島の二つの叙述(どこから取ったかを記入しておくとよいと思います)は、この作品が彼の体験に根差していることを示しており、そこに告白性を主張できる「論拠」があるでしょう。また、三島がこの作品の続編のような『禁色』を書いていることも、三島の同性愛への関心の深さを裏付けるものでしょう。

 しかし、他方、草稿案 p. 3 の始めに引用されている三島の二つの文は、『仮面の告白』が完全な告白ではないこと、つまりそこには虚構性があることの「論拠」になります。

 その他、『仮面の告白』の文章と、三島の実生活に関する記述のいくつかの比較も、告白性あるいは虚構性のどちらかの「論拠」に振り分けることが出来るでしょう。

 新潮文庫版末尾にある福田恆存の解説でも、――この解説は高尚な表現で書かれていて、論旨の把握がやや困難ですが、――この作品には告白性と虚構性の両面のあることが述べられていると思います。

 論文の題名を変えては、という大胆な提言をしましたので、面食らわれたかも知れませんが、指導教官のお考えを尊重するとともに、『仮面の告白』を中心にして三島について言えることを考えるとき、三島の生涯を通じて、愛情における一般性と特殊性(同性愛)の二面性があったと論じ切ることは困難かと思い、上記のような提案を書いてみました。

Ted

その日は何曜日? / 時の有効度

 高校時代の交換日記から。

1952年3月5日(水)晴れ

(Sam)

 "My shadow" [1] の詩を覚えなければならない。
 タイプ部の人気は大したものだ。この頃は、毎日のように数人の新加入者がある。


(Ted)

 アチーブメント・テストの日程が発表になる。13日:国甲、社。14日:解、保。15日:英。それに17日にもかかることになった。生と国乙だ。


1952年3月6日(木)晴れ

(Sam)

 来週のホームルームについて考えてみる。パズル的なものでいきたいと思う。それに、少しトンチ教室的なものを入れるのだ。点取り式に行なって、最後にその点数によって賞品を与える。
 問題としては「現在、父の年齢はその子の年齢の五倍です。十五年後にはそれが二倍になるといいます。では、現在、父子は何歳ですか」あるいは、「ジャックはジェームズより三歳年下です。ジョンはジャックより二歳年上です。では、ジェームズとジョンはいくつ違いますか」といったような、やさしいものばかりである。先に分かったものから手を上げて答えて貰うようにしたい。また、一方では、「最も長い綴りの英単語は?」「その日は何曜日?」[1] というのも考えてみた。


(Ted)

 生活のテンポを速くすることは、生命が長くなることと同じだ。なぜかということは、長時間でわずかのことしか出来ない場合と、短時間で多くのことをする場合との活動量(生命の実質的使用量)の生命存在期間に対する比を考えれば明らかだ。ここから割り出される「時の有効度」を増加させるように努めなければならない。

 引用時の注

  1. Robert Louis Stevenson, A Child's Garden of Verses and Underwoods (1913) 中の "My shadow" であろう。

  2. この答は? お分かりの方、教えてください。「ドスンと音がしました。どこでしたのでしょう?」答は「寺」(寺という字は、土と寸)、というのに類した謎々か。

2005年2月25日金曜日

屋根瓦と木々

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年3月2日()晴れ

 子どもたちを連れて大和へ、お内裏様や、左大臣、右大臣、三人官女、五人ばやしなどを見に行く。プレイランドで「オンマさん」に乗ったり、幻灯を見たり、かなり遊んでから、エレベーターで地階まで降り、また、四階まで昇ったり、二人がはぐれてしまったり、大和内をあちこち飛び回った。屋根瓦と木々が視野の大部分を占める眺望の得られるところへは、工事中で行けなかった。
[1]
 チューインガムを買って皆で食べ、長町小学校の校庭で鬼ごっこをして遊んでから帰った。
 きょうの「日曜娯楽版」は、とても面白かった。


(Ted) 小学生の日記みたいだ。愉快、愉快。
(Sam) ぼくの精神年齢が低いんだろうかね。

(Sam)

1952年3月3日(月)晴れ

 ホームルームは自治会。「今年度の反省」には誰も何の発言もしなかったから、「ホーム PTA 費用の残額の処分について」と「今後のホームは何をしたらよいか」の二つを一括上程して、意見を求めた。さして意見も出なくて、アドバイザーの発言と、ぼくの「こうしたらよいのではないかと思いますが、どうでしょうか」だけで、ほとんど決めていった。といっても、大したことを決めたのではなく、あと二回のホームはレクリエーションをすることにし、その賞品として残金八百円余を処分しようとするものである。レクリエーションの企画小委員会を作る。人選は委員長に一任ということにして、閉会。
 明日は Grammar & Composition のテストがあるのだが、「三つの歌・家族版」が愉快で、手をつけられない。


 引用時の注

  1. 当時、大和デパート屋上からの金沢の町の眺めは、森の都の名にふさわしく、多くの木々とその間に並ぶ、この地方独特のうわぐすりで黒く光る屋根瓦が特徴的だったが、最近はビルがたくさん建ち、他の都会とあまり変わらない眺めになってきている。

報道問題への論評

 加藤周一は、今月の「夕陽妄語」欄 [1] において、「報道三題」と題し、自らの過去の三つの見聞を「寓話」として記している。それらは、「現在の日本国で、与党の有力政治家が公共放送(NHK)の番組内容に圧力を加えたかどうか、その問題についての朝日新聞の報道が正確であったか、というような争いが生じた」という「特殊な事件」をきっかけに思い出したというものである。

 第1の寓話は、80年代の英国で、その頃有名だった保守党の政治家が BBC(英国の公共放送)の「偏向報道」糾弾と、これに対する BBC 会長の反論が、主要な新聞の第1面に大見出しで掲げられ、まるでシェイクスピアの舞台のように国民生活に関係の深い劇が国民の前で演じられることに驚いたという話である。第2の寓話は、70年代の米国で、副大統領と有力な一新聞の間に、知事時代の副大統領の収賄・脱税疑惑などをめぐって対立が生じていたとき、そして、報道の自由に対する政治的圧力がある一線を越えたとき、米国中の主要な新聞がほとんどすべて結束して、徹底的に抵抗したという話。そして、第三の寓話は、30年代後半、二・二六事件以後真珠湾までの東京で、言論の自由とあらゆる批判精神が、静かに、しかし確実に失われつつあったという話。――これは一見穏やかな論調であるが、「事件」の核心を鋭く衝いており、わが国の報道機関の反省が、いま、強く求められる。

 なお、以下の関連論評が今月の「論壇時評」欄 [2, 3] に紹介されているのも目にした。

 デーナ・ルイス/山田敏弘「世界が笑うNHKの『常識』」(『ニューズウィーク』日本版、2月2日号):予算説明とともに番組内容を政治家に事前説明することを「通常業務の範囲内」とした NHK 幹部の発言は、「世界の報道機関で『非常識』とされる」と述べている [2]。

 川崎泰資(椙山女学園大)「死に瀕する『公共放送』」(『世界』):与党政治家が番組に注文をつけたことを、「世間の常識ではそれを政治介入という。語るに落ちるとはこのことだ」と批判している [3]。

 服部孝章(立教大)「『検閲』は許されない」(『世界』):事前であれ事後であれ、放送内容の国会議員への説明はすべきでない、と主張している [3]。

 田島泰彦(上智大)「放送の自由が傷つけられている」(『論座』):事前に説明するというのは「権力から独立して権力を監視する役割を担う報道機関としては信じ難い感覚」と批判している [3]。

  1. 加藤周一「夕陽妄語」朝日新聞夕刊(2005年2月22日)

  2. 金子勝「論壇時評」朝日新聞夕刊(2005年2月24日)

  3. 田代忠利「論壇時評」しんぶん赤旗(2005年2月24日)

2005年2月24日木曜日

「おひなさん」作り

 高校時代の交換日記からの

(Sam)

1952年3月1日(土)曇り

 Lesson(という言葉を Ted はよく使うね)の上ではべつに変わったこともなかったが、毎週のことながら土曜日はあわただしい。先週のきょう以来、三年生がいなくなってしまったのだが、さほど何とも思われない。ただ、直接関係のあることといえば、商業の授業の生徒が二名少なくなったくらいのものだろう。しかし、その他に、きょうはもう一つ感じた。ブランク時が、ひじょうに静かな状態のうちにいられたことだ。

 OK 君の仕事を少し手伝ってから帰り、鞄と弁当箱を家におくと、さっそく、エレベーターを新設中の建物の前の停留所
[1] へ足を運ぶ。――

 きょうから弥生。明後日は節句というので、家へ来ている子どもたち
[2] が、色紙や艶紙やボール紙を持ってきて「おひなさん」を作った。大部分はぼくが作ってやったのだから、彼らがじっさいにした部分はごくわずかである。それでも、彼らはとても嬉しそうだった。きょう中にぜんぶ出来なかったから、明日、彼らは朝から来てするだろう。

(Ted)

1952年3月1日(土)晴れ

 『週刊朝日』3月9日号の「問答有用」の徳川夢声と風見章の対談から。

夢声:鹽だの龜なんてのは、いまだに書けませんな。漢字をできるだけすくなくして、カナで用を足すということは、ぼくも賛成なんですがね、いまの新カナづかいのほうは、意味が反対になっちゃったりして、困ることもある。たとえば「外に出る」という意味の文語は、古いカナづかいでは「出づ」と書いたわけですが、これを新カナで「出ず」と書くと、「外に出ない」ことになっちゃう…。…略…
風見:…略…信州では、「行く」というところを「行かず」というんだ。「風呂へいこうか」っていうと、「行かず」といってついてくる。松岡君にきいたら「行きなす」という古語が「行かず」になったんだそうです。
夢声:「おはようございます」が「オス」になっちゃったようなもんですね。

「出づ」は文語の動詞で、「ず」を打消しの助動詞とするのも文語だ。新カナを使うときは口語だけを使えば、夢声のいう「困ること」は起こらないではないか。
 風見はカナ書き論を唱えている。次のような具合か。
 「アルガカタチハニンゲンヲモトキニセイブツヤフウケイノヨウニエガイテイルガ、ソウイウイワバショクブツセイヲシンキョウトイウコトバハモッテイルヨウデアル。」
少し読みやすくするため、分かち書きにすれば、
 「シタガッテ テンケイテキナ シンキョウ-ブンゲイ ニハ ツネニ スンダモノ ガ アル。スム ト イウ コト ハ ニンゲン ガ ソノ ドウブツセイ ヲ ダッキャク アルイハ ショウカ スル コト デアル。」
平カナまじりにすれば、
 「シンキョウ-ショウセツというものは、つまり、シンキョウのセイコクな [3]」(やはり分かりにくい)
あるいは、
 「かがくてきぶんせきヲめざすノデハナクテ…」
いずれにしても読みにくそうだ。(「」内は谷川徹三の「心境芸術」の文による。)

 『てんやわんや』の中に出て来て、1、2日前の夕刊随想にも誰かが書いていた「求心的」とは、どういうことだろう。いまのぼくの心は何を求めようとしているのだろう。[4] とても複雑だ。

 引用時の注

  1. 大和デパート前の片町停留所のことか。

  2. 町内の子ども会の世話でもしていたのだろう。

  3. 仮名書きに替える前の原文は「正鵠な」だったろうか。これを仮名書きしたのでは本当に分かりにくく、次の()内の文の記入に及んだのだろう。

  4. 「求心的」とは、何かの中心を求める傾向であろうが、このことばに関連して、心が求めているものに言及しているところを見ると、その意味がまったく分かっていなかったようである。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 02/24/2005 12:58
 私は、今は離れていて一時的に忘れていますが、古文が非常に好きで、得意でした。大学入試では擬古文が出ますが。「言う」を「云う」と書いたり、柔らかい感じを表出するためにひらがなを多くする人がいますね。私はブログでは分量を少なくするために、ひらがなにしたい部分も漢字にすることが多いですが、小説や、論文執筆では、文字数制限より自分の漢字・ひらがな遣いをいかに独自流にするかのほうが重要な問題になります。そういう意味でも、文科系は、一文取っても作家集団のようなものですね。

Ted 02/24/2005 16:56
 「漢字・ひらがな遣いをいかに独自流にするか」が、小説の場合に重要ということは察しがつきますが、文科系論文もそうですか。
 私は国内の和文専門誌から依頼されたレビュー論文以外は、全くといってよいほど和文では論文を書きませんでした(同じ専門分野の人たちの間で、「英文でしか書かない人」として知られていたほど)ので、和文を書くときの漢字・平仮名の振り分けが、いまだに定着していない気がします。Y さんが読まれて、どう感じられますか。

Y 02/24/2005 17:22
 Ted さんの高校時代の日記の文章でもそうですし(一部書き換えて解りやすくされた部分があるとのことですが)、今、普通に書かれるいろいろな映画や評論や著書などの紹介のブログなどについても、非常に自然で、「Ted さんのエコログは読みやすいです」と私がいつも言っていますよね、それの基本点が Ted さんの文章、文字遣いにあるのだと思います。平易に思えるほどの誠実さ、なのだと思いますよ。
 私たち文科系の論文書きは、学部時代から、もちろんここをこんな漢字に、ひらがなに、などということは誰も、指導までしてもらえません。皆、手本とする著書などから拾ってくるんですね。
 文科系の、私がやってきた広く人間学といえるような分野の学術論文というのは、ほとんど、芸術的なわざ、芸術的な感性にまで訴えかけるような「物書き」でいなければなりません。
 私は広くは社会学の領域に入る「(障害者)福祉」の問題について、人間学的に(つまり彼らが「この生を生きる」ということについて)考察する論文を書くことになりますので(やはりそれが一番向いているので、社会学やさんになるつもりはないのです)、
とにかく、文科系は意思のある人は出発点とした分野をどんどんはみ出していくものだと、最初の指導教官から教えられました。その教官も、修士号だけで一旦学問をやめて、のちに京大で助教授、教授となっていかれて、書かれる論文の文章はどんどん変わっていかれていますよ。もちろん年齢的なもの、経験的なもの、考察・今までの研究の反省の深まりが論文の文章には大いに反映されますね。

Ted 02/24/2005 17:42
 素早いお返事、ありがとうございました。「人間学」ですか。私は大学生時代、「趣味は人間の研究」などといって、小説を読んだり、友人たちとの手紙の交換を楽しんだりということに、理学部の学生にしては比較的多くの時間を使っていたものです。退職後に細々続けている専門の仕事が次第に片づいて来れば、また、「人間の研究」に向かうことでしょう。Y さんから、いろいろ教えて貰わなければなりません。

2005年2月23日水曜日

生死の境をさまよう兵隊たち

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月26~28日(火~木)

 目の前の電線が盛んに上下し、左手に見える赤茶けた杉の林がざわめいてはいるが、雲といえば、向こうの山と青空の間に霜焼けの直ったばかりの皮膚のような薄紫がかった色をしたのが少し横たわっているだけである。少年鑑別所の白い壁やその手前に多数立て掛けられている細い材木は、のどかで喜ばしい春の光の中にあるように見える。[1] そして、事実、もう春である。

 T・U 君 [2] が高峰賞 [3] を受賞した。ぼくがあの家にいたとき [4] の彼は、勉強する机も持っていないようだったが。

 一昨日のホームルーム時は HS 先生の比島従軍談を聞いた。いつもは、ただ厳めしい先生だと思っていたが、この時の先生は、少し窮屈かと思われる国防色の洋服を着ていたことも手伝って、半ば愉快で、半ば恐ろしい話で心を惹きつけることが可能な先生という印象を、われわれに一度に与えられた。機銃掃射、爆弾、大砲、これらの音、その下で自ら生死の境をさまよう兵隊たち。焼かれて喉を通るカエル、トカゲ、果てはネコの肉。音や動作を表現する副詞の次に引用の格助詞を一つつけただけで、再び前の副詞を繰り返される話法 [5] は成功だった。

 (44 - 4)/4 がどうして分からなかったのだろう。並べてはいけないのかい。[6]

 a + b + c = 1/a + 1/b + 1/c = 2 のとき次式の値を求めよ。
 (1 - ab)(1 - bc)(1 - ca)/(1 - a2)(1 - b2 )(1 - c2)
というのをやって見給え。

 「ノンセクションの私は誰でしょうと三つの知識」が今年度最後のアセンブリーだった。各ホームから1名の解答者が順じゅんに出て、「私は…」と「三つの…」のどちらかを選び、司会者 YMG 君の読むヒントで考え、答え、当たれば賞品を貰って降壇する。Hard nut to crack [7] というほどのものはなかったが、YMG 君の声は低過ぎてやや聞きづらかった。13ホームからの出場者だった KJ 君は、シェークスピアをチャップリンといって笑われたが、最終ヒントである第3ヒントで無事正解を出した。胸に手を当てて登壇した2年生男子が "No comment" という発言で有名な人物を、頭を掻きながら「思い出せない」とか「グレムイコ」とかいっていたが、皆を笑わせる芝居だったようだ。
 出場者が少なかったので、残った問題が会場に向けて出題された。会場から最初に賞品を獲得したのは、盛り上がり気味の眼瞼を白い顔の中でさらに目立たせる感じで「ノンちゃん雲に乗る」の作者、石井桃子を答えた Vicky だった。ぼくも最近の『週間朝日』のスポーツ欄をちょっと読んでいたお陰で、「卓球」という答で、ノートと鉛筆2本を貰った。

 引用時の注

  1. 間借りしていた2階の部屋の前が縁側であり、そのガラス戸越しに見た光景である。向かいは製材所だった。

  2. 2年先輩(先輩も当時は君付けで呼んでいた)。東大へ進学、のちに静岡大学教授。

  3. 石川県で育った高峰譲吉博士を記念して、同県下の理科、化学の優秀な中学、高校の3年生各10名に対して与えられていた奨学金。現在は中学生と、団体としての中学校への授賞という形に変わっている。詳しくは「アドレナリン」の復権を参照。

  4. 母と私は、私の中学生時代、U家の2階に間借りしていた。その時、祖父は伯母と、やはり近くに間借りしていた。

  5. たとえば、「ダダダッ!と。ダダダッ!」という具合。

  6. 4個の4と小数点と各種演算で、10以上のいろいろな数を表わせ、という(ものだったかと思われる)Sam からの問題に挑戦していたのである。「並べる」のもよかったようである。11~30と、そのあと飛び飛びに112までの作り方を書いた紙片が日記帳に挿入されていた。

  7. 「難問」の意。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 02/23/2005 09:23
 授業 (HR) のなかで比島従軍談を聞ける時代だったんですね。私の高校時代は60年安保から始まりましたので、政治的、党派的な洗礼は強かったですが、生々しい戦争の爪跡からはすでに遠いものでした。

Ted 02/23/2005 10:24
 私たちの中学生時代には、まだ、軍隊帰りの元気な先生たちの中には、行儀の悪い生徒に「ビンタを取る」(殴る)という教育方法を用いられた方がたもありました。いまならば、児童虐待で問題になるところです。私も一度、教室で自習をするようにいわれた時間に、仲間と一緒に運動場でソフトボールをしていた罰として、椅子の壊れ端のような角材で、それほど強くはなくですが、脳天をポンと一発打たれた記憶があります。

M☆ 02/23/2005 10:56
 私の頃になると、もうそうした従軍談の話などは皆無になってしまいます。事実なのに知らずに生きている私達の世代…。歴史の授業が子供に与える影響は大きいと感じる今日この頃です。

Ted 02/23/2005 15:40
 大岡昇平の『俘虜記』(1948)も比島従軍体験を綴ったものです。野間宏の『真空地帯』(1952、岩波文庫にあり)は、軍隊の非人間性をあばいた作品。戦争を知らない世代の方がたに読んで貰いたいものです。

四方館 02/24/2005 09:36
 そうですね、中学時代の教師には、戦時の軍事教練的習慣を遺していたのがいましたね。体罰はごく日常的にありましたし、生徒指導も民主的というにはほど遠かった。高校へ入学して、教師のあり方がこんなに違うのかと大いに驚いたものです。

Ted 02/24/2005 17:04
 四方館さんの頃でも中学の先生はそういう具合でしたか。軍国主義の影響、恐るべしです。

間に合わせものではダメだ

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年2月27日(水)曇り

 「日本経済の自立と外国貿易」か。商業の問題とよく似ているぞ。
 いつも右より左の方が悪い。体操の話ではない。解析の試験だ。一度でもよいから、5, 5というのを取ってみたい。答案用紙に赤インクで示されている数字は通知簿につけられる評価とほぼ一致するのだから、こんなのを見ると案じられる。

1952年2月28日(木)曇り

 ブランク時には、ハンドボール用のボールで、敵味方各二人ずつに別れてバスケットボールをした。くたくたになって、すぐ止める。バスケットにはバスケットのボールがよい。間に合わせものではダメだ。
 The Mainichi に載っているクロスワード・パズルをしてみる。三つまでやっとしただけで止めた。

1952年2月29日(金)晴れ

 アセンブリーはなし! 絶好だと思ったがいけない。平常の行いが悪いから、きょう行くのは気がひける。
[1]
 手紙、カレンダー、時間割表など、何でもござれだ。一回十円均一というので、バイトでもしようかな。こうなれば利用価値きわめて大である。[2]

(Ted)

 NS 先生の生物の時間、下校時に AS 先生から質問されるとは予期できるはずもないから、98 + (2 + 5)/(1 + 6) + 7/(3 + 4) + 0 などという式を作っていた。[3] しかし、校門を出たとき AS 先生に声をかけられ、帰路を一緒に歩みながら、「NS 先生の授業は遺伝へ入ったか」と尋ねられ、「いま、まだ Spemann [4] の実験です」と答えることができた。

 引用時の注

  1. 私のところへ来ることをためらったのだろうか。この日か次の日に、日記帳が交換されている。

  2. 取得したタイプライティングの技能のこと。

  3. 0から9までの数字のすべてを一通りと各種演算を使って、与えられた数(この場合100)を作るというクイズに挑んでいたのだろう。

  4. ハンス・シュペーマン(Hans Spemann, 1869–1941)はドイツの発生学者。動物の胚において二次胚を誘導する領域、形成体(オーガナイザー)、を発見したことにより、1935年にノーベル生理学・医学賞を受賞。

2005年2月22日火曜日

脱皮するには

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月24日()晴れ

 風呂を焚いている煙が階下から昇ってくる。隣で蓄音機、すぐ後ろでラジオ…。To abandon myself to take knowledge in and think の条件が完全に破壊される。
 午前は KZ 君が生物に分からないところがあるといって来たので、部屋へ上げた。彼をぼくの部屋へ入れたことは、安藤町にいた石引小6年のときに2回ばかりあるが、それ以来のことだ。教科書やノートが媒介となって、正午近くまで退屈することなく話し合った。彼は「床屋へ行くといいながら、長くなってしまった」といって、2着重ねて着ている洋服のすそを伸ばして立ち上がった。
 のど自慢の放送を耳にしながら、床の間のほこりの一つ一つさえも見えそうな日曜らしい明るさの中で昼食をすませてからは、Sam の知る通りである。

 一挙に古い殻を脱いで変態しようとするのは困難なことだ。不必要なことをもくろんだり、他にまだまだ見るべきものがあるのに、5円玉の穴から覗いて見たようなものに、恍惚となったりしているかも知れない。これらの煩わしくて無用なことを超越するには、そして、動揺しない堅実な自己を打ち立てるには、沈黙が方便であり、必要かも知れない。しかし、沈黙は万能ではない、と考えるのだが――。

1952年2月25日(月)曇り

 授業は2時間だけだった。
 昨日の学力テスト [1] の問題が新聞に載っていたのを見たかい? 載っている中にはそんなに難しいのはないが、昨年より難しかったそうだ。国語乙の時間に S・T 先生は400点満点だとかいっていた。[2]
 習慣と欲望の矯正。自らを忙しく保つこと。意志。――書き並べるだけでは仕方がない。

 引用時の注

  1. 高校進学者選抜の県下一斉テスト。

  2. 先生が国語の問題に挑戦し、全部できたということだったか。

"September Affair" (『旅愁』)


 ジョセフ・コットンとジョーン・フォンテーン主演の1950年のアメリカ映画『旅愁』をテレビで見た。モノクロ映画ながら、舞台となったイタリアの風景が、2003年のわれわれの旅行を思い出させて懐かしく、はかない恋の物語も気に入った。(イメージは同映画のビデオ版 [1]。われわれのイタリア旅行のスケッチと写真は [2, 3] に掲載。この記事の英語版——映画の物語の概略を含む——はこちら。

  1. "September Affair 1950" (Paramount, 1992).

  2. Sketches in Italy.

  3. Thirteen-Day Travel to Italy: Selected Photos.

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 02/22/2005 13:31
 "September Affair" ですか。私は9月生まれですので、9月の Affair とくると、なんだかしんみり嬉しいですね。ところで文系は日本語で論文を書くので、私は PC での外国語打ちが非常に苦手なのですよ。ところが発音のセンスはいいと言われるのです。それは洋楽、および受難曲・レクイエムなどの宗教曲(ドイツ語がほとんど)を聴いて、耳から入っているからなのでしょうかね。京大文系はマンツーマンで語学を習う裕福な学生が当たり前でしたから、…まあいいんですけど。
 ひとときの愛の物語が、モノクロ映画で語られるというのは、かえってそこに心に残る永遠性を感じさせますね。

Ted 02/22/2005 16:56
 1940、50年代の洋画につけられた邦文題名は、この『旅愁』の他、『哀愁』『逢びき』『狂恋』『慕情』『めぐり逢い』『旅情』など、原題名よりも趣のあるものが多かったのに、最近の邦文題名には、よいものが少ないようです。

Nadja 02/23/2005 02:05
 小学校5年生の時にロバート・レッドフォードにファンレターを書いたことがあります。その頃『明日に向かって走れ』(Butch Cassidy and the Sundance Kid)の原題が解らなくて苦労しました。最近は配給元(ハリウッドだけだったかな?)から、題は(勝手なものをつけず)そのままでという指示があるそうですよ。それで「the」などを抜いた中途半端なカタカナが多いようです。

Ted 02/23/2005 09:21
Oh, it's wonderful that you wrote Robert Redford at the age of about 10. I sent letters to famous overseas physicists (including Nobel Laureates) only when I was forty or more years old.

2005年2月21日月曜日

暗誦

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年2月22日(金)雪

O Capatin! my Captain! our fearful trip is done;
The ship has weather'd every rack, the prize we sought is won;
The port is near, the bells I hear, the people all exulting,
While follow eyes the steady keel, the vessel grim and daring:
 But O heart! heart! heart!
  O the bleeding drops of red,
   Where on the deck my Captain lies,
    Fallen cold and dead.

と、これだけで one stanza である [1]。While follow eyes のあとでちょっとつまったあとは、すらすらと思った通りに暗誦できた。
 アセンブリーは各クラブの本年度の回顧ということで、各クラブのマネジャーが報告をした。どのマネジャーも話しぶりはとても下手だった。

1952年2月23日(土)雪

 こりゃたいへんな評判だ。いやになっちゃうや。
 昨日の英語の時間のぼくのうわさが広まってしまった。大きな声で胸を張って、だなんて。それは当たり前じゃないか。他の者たちが下手なんだよ、といってやりたいや。

 SCAP図書館へ数カ月ぶりで行く。近所の小学生たちに連れていってくれとせがまれたので、承知したのだ。"This is America" ということで、ニューヨーク港、アラスカ、パナマ運河の3本と、他に天然色のもの一本を含む三本と、計六本の映画だった。連れていった子どもたちに、その内容の理解はとうてい困難だったろう。すべて、アメリカを知るためにとてもよいものだった。


 引用時の注

  1. Walt Whitman, "O Captain! My Captain!" in Leaves of Grass (1900). 残りのスタンザはこちらに.

アメリカの実像

 2月20日付け朝日新聞の書評欄にマイケル・T・クレア著「血と油」(柴田裕之訳、日本放送出版協会、2004) [1] が取り上げられている。評者・中西寛(京大、国際政治学)は、「ブッシュ政権が石油を狙ってイラク戦争を行ったというのは単純すぎる議論だが」と、その評を書き出している。しかし、この断わり書きにはほとんど意味がない。すぐに「アメリカの中東政策にとって石油が大きな意味をもっていることは間違いない」と続き、さらに「アメリカの安全保障政策の専門家がアメリカの対外政策と石油の構造的なつながりを解明した著作である」と、本書を要約している。

 クレアによれば、世界の人口の5%に満たないアメリカは世界の総石油供給量の25%を消費しており、アメリカのエネルギー政策は、石油の対外依存の増大、不安定で友好的でない地域への依存の移行、反アメリカ市民による暴力という危険の増大、予想される石油資源の減少に向けて競争の増大、という四つの傾向に支配されている。これらの傾向が中東地域その他の産油国への支配力を高めようとするアメリカ外交の基本姿勢を作り出しているのである。クレアが提案するように、アメリカの政権が一日も早くエネルギーの石油依存を低下させる努力をしなければ、アメリカ、そしてこれに追随する日本、の未来は暗い。

 なお、アメリカ陸軍部隊が南ベトナムのソンミ村で行った虐殺のスクープでピュリツァーを受賞したセイモア・ハーシュによる「アメリカの秘密戦争」(伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2004) [2] も、イラク戦争の根源とアメリカの実像に迫る著書として注目しなければならない。ハーシュは2004年4月、イラクのアブグレイブ刑務所での拷問、虐待が大統領を含む上層部の暗黙の了解以上のものをもって行われたことを暴露したが、この本は、これがアメリカの世界戦略の本質にかかわるものであることを明らかにしている。私たちは、「中東に自由と民主主義を広める」というブッシュ政権と、そこに巣食うネオコン(新保守主義)の真意を直視しなけらばならない。


  1. 原書: Michael T. Klare, Blood and Oil: The Dangers and Consequences of America's Growing Dependency on Imported Petroleum (Metropolitan Books, 2004).

  2. 原書: Seymour M. Hersh, Chain of Command: The Road from 9/11 to Abu Ghraib (HarperCollins, 2004).


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 02/21/2005 12:13
 それにしても米国の行動には何か一貫性に欠けるところがあり、それはあくまでも米国は独裁政治からの解放者であり、自由と民主主義の伝道師であるという表向きの看板(偽りだらけですが)を絶対に捨てることができないという足かせがあることだけではないような気がします。
 田中宇氏は米軍のファルージャ侵攻の失敗を例に取り、
 「こうした例を見ると、米中枢には、自国の戦争を重過失によって失敗させる『未必の故意』の意思を持った勢力がいるのではないかと、いつもながら思われてくる。ベトナム戦争のときも、勝てたはずの戦争を泥沼化するに至った過度な失策がいくつもあった…」
と述べています。
 いずれにしても、米国の政権内部は決して一枚岩ではなく、水面下での権力闘争は熾烈を極めているのではないでしょうか。

テディ 02/21/2005 12:24
 こんなコメントを書き込んでいる間に「ブッシュ・テープ」なるものの暴露があったようですね。[引用者の注:ABC ニュースの URL が記載されていたが、後年リンク切れとなったので削除した。]

Ted 02/21/2005 20:47
 政界はどこも複雑で、私など政治評論を書くに適しません。マリファナ使用の件ですか。権力失墜とまでは行きそうもないですね。

テディ 02/22/2005 21:39
 そうですね。私も長時間かけてN.Y.Timesの元記事を「眺めて」みたのですが、とりたててスキャンダル性のあるネタはないようで…。

つい春風につい誘われて

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年2月24日()晴れ

 つい春風につい誘われて…だなんて、1年ほど前に歌ったことのある「冗談音楽」を思い出すような、もったいないくらいよい天気だ。しかし、生かじりで二行ばかりしか知らないあの歌を歌っていた頃は、おおかた小雪がふぶいていたようだ。
 英単語の尻取りをすればよかったのに。もしそうしていたら、ぎゅう!といわせていたろうか、いわされていたろうか。
[1]

1952年2月25日(月)曇り

 体育は体重測定のあと、篭球の基礎練習。Ted たちがしたときの種目から二番目と四番目を除いたものだけをする。

1952年2月26日(火)晴れ

 いますぐ Ted へ手紙を出す。明日のいま頃届く。Ted は懸命に最小の時間で解いてさっそく葉書に書いて投函する。ぼくがそれを受け取るのは何日の何時頃だろうか。それは二十八日の午後六時までに間に合わなければならない。それより遅れれば無価値になる。駄目だ。止めておこう。十円の方が大切だ。(といって、この十円をもっと他の有効な目的に使うという当てはいまない。)他の誰かに当たって聞いてみよう。誰かは知っているに違いない。
 そしたら一題解けた。しかし、絶対値のあるのは幼いときの玉ねぎかにんじんのように大嫌いだ。こんなややこしいのもあるんだからね。
[2]

 引用時の注

  1. この日、Sam は私のところへ来た。

  2. x 軸の下から上へ伸び出ている2次曲線に絶対値をつけたものよりは値が小さく、その絶対値つき2次曲線と4点で交差する直線よりは値が大きい、という範囲をグラフで示した図が描いてあった。

2005年2月20日日曜日

『南部の唄』("Song of the South")

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年2月19日(火)雪

 五時半頃から総勢半ダースで、循環バスに乗って北国第一劇場へ行く。本多町の北国会館前で電気バスが運転不可能になったりしたので、予定より十分遅れて劇場に着いた。窓口で総額百三十円支払う。
 短編漫画で字幕の出ないのは、絵から判じて見なければならないから、推理が働いて…というより、何も分からなかったといいたい。動物の漫画化にも、日本と米国の間には、だいぶん違いが感じられる。豚と狼(あれは犬かい)の漫画では、その近代的様式の調度に、また、小鳥と犬(ヒヨコと狼なのかい)の漫画では、その近代的設備に目を見張った。犬と兎の映画は一度見たもので、それに字幕が出たから、一番よく何をいっているのか分かった。
 題名や友人の批評などから考えていたよりは "Song of the South"
[1] は面白かった。教訓を多分に含んだ寓話劇部分には、これといって取り上げるべきところは見当たらない。漫画部分だって、そう奇抜でもない。しかし、人間と漫画の共演するところ(といっても、リーマス爺と小動物たちの場面と、終りの方のシーンだけだが)が、最もすばらしかった。この映画のねらいがそこにあったとすれば、それは成功だったといわなければならない。あの場合、あたかもそこに兎がいるように、蝶がいるように演ずるのは、はたから見ればこっけいであろうし、それをするのもなかなか難しいだろう。にもかかわらず、何ら間の抜けたようなところが感じられないのは、それだけでも大したものだと思う。それにしても、リーマス爺ほどに上手に話をすることが出来たらどんなによいだろう。

1952年2月20日(水)雪

 おんやまあ。こりゃひどい。げっそりした。まあ仕方がない。あきらめろ(何について書いているんだい)。
 "O Captain! My Captain!" の詩を明後日までに暗誦出来るようにしなければならない。手段としてタイプを利用しよう。暗誦のためには、最小限二十回繰り返して読もう。と、こんな計画を立てて――。


 引用時の注

  1. 1946年に発表されたディズニー映画。詳しくは Song of the South(英文)を参照。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


テディ 02/21/2005 11:14
 私の子供時代では主に TV のアメリカのドラマでアメリカ人の生活様式の「刷り込み」を受けました。例えば「ルーシー・ショウ」「ハイウェイ・パトロール」「奥様は魔女」などなど…。TV が一般化する以前は映画館でアメリカのアニメが多数見られたようですね。これも「文明」を日本人の意識に浸透させる米国の戦略の一環であったとも言えるかもしれません。

Ted 02/21/2005 11:48
 そう、まさに戦略でしょう。私も「奥様は魔女」を楽しみましたが。

空想的計画

 昨年の大晦日から始めた高校時代の交換日記の紹介は、おおよそ引用する日記の日付けの日に掲載する方式で進めてきたが、これでは紹介を完了するまでにまだ2年あまりかかってしまい、他の計画になかなか着手出来ない。そこで、きょうから掲載のスピードを少し上げることにした。読者の方がたには、面白そうなところだけを拾い読みして貰えれば幸いである。

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年2月21日(木)雪

 昨日の宿題の y = 10x のグラフは、みんなが、なかなかきれいに描いてきている。ぼくのグラフは線が太すぎる。滑らかな曲線にしようとするために、だんだん太くなってしまったものだ。
 第五限の静物の試験は完全に落胆した。オルガナイザーの問題がぜんぜんといってよいくらい出来なかった。


(Ted)

 If Nelson had been killed then, what would the map of Europe be like? というように表現することもあると読んでいながら、It rained last night, so the road is bad this morning. の if-clause を使ってのいい替えを、間違ってノートに書いていたではないか。こんなことでは、けさの空想的計画 [1] は遂行できたとしても、大きな顔では行けまい。

 アセンブリーは I 市長による英国の話。トウモロコシのような声を出すぞ、と誰かがいっていた。太く低い声である。失敗談を中心にしながら、ほんとうのデモクラシーはこうでなければならないということを、「政」を「シェイ」と発音しながら挟んで行かれた。アセンブリー後、展示されていた欧州の写真を見に、KJ 君らと再び講堂へ行った。少年と少女が数人肩を組んで立っている一枚の写真中の2人を、KJ 君が指して、フランコとミレラ [2] に似ているといい出した。取り片づけをしていた SM 君が「あの映画は…イタリアか。そして、これは?…ローマ、そしたらぜんぜん」危うく「その可能性がない」というところだったので、大笑いとなる。

 引用時の注

  1. 大連から金沢へ引き揚げて来てからの小学校から高校まで、私と同じクラスあるいは同じ学年にいつも1人はいた格別優秀な女生徒の誰かと、勉強その他のことを語り合いたいと空想していたようである。

  2. 先に学校推薦で見た映画『明日では遅すぎる』の主人公たち。

2005年2月19日土曜日

3イズムが混交して

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月19日(火)雪

 英国におけるエリザベス女王のような象徴的存在とは異なって、絶大な権力をもったものがぼくの中に君臨する、というのが昨日から始めた仮定である。君臨といえば、非民主的ではあるが、個人の中においてのそれは許されると思う。習慣が出来てくれば、その影は次第にうすれて、もはや「君臨」ではなくなるだろう。そして、いま君臨と考えていることも、実際はそうではないのである――それによって打ち立てられる習慣が善であるならば。[1]
 登校前の10数分を、昨年の昨日われわれの高校進学学力検査があったことや、あの頃の鋼鉄の部屋に閉じこめられた思いの日々や、その後に経験したさまざまな匂いを帯びた出来事を考え合わせて消費した。

 昨日ぼくが教室の掃除をしている間に、KJ 君と SN 君と HN 君は市立工業高校での座談会に出かけたそうだ。KJ 君は何も発言しないで、菓子だけ食べて来たが、二水高校の BN 君の感じがよかったのに感心した、ともらした。国語の試験が明日あるので、文語の用言と助動詞を教えてくれと、うちへ寄って行った HN 君は、新聞クラブからよりも生徒会役員が出席すればよかった座談会のテーマについて、「わが校の生徒会は、今学期前半の半停頓状態から脱し、活発になりつつあるが、いまが岐路である」という趣旨の発言をしてきたそうだ。
 6限前の休憩時間に、ハンカチを片目に当て、相当長くなった頭髪の上に帽子が邪魔者のようにのっかっている頭を机上に伏せている KZ 君の姿が見られた。泣いている…。なぜだろう。前の時間は英語だったのだろうと思うが。
 ホームルーム時は「スポーツ」という名目で、何の統一もなく費やされた。早飯をした。兄上の死でしばらく休んでいた OB 君が、動作を隠すように頭から黄土色のマントを被って、ぽつんと隅の座席で勉強したり弁当を開いたりしている光景が、古ぼけた学習雑誌の感じを与えた。(彼のあらゆる面がそういう感じを与えるということではない。また、そういう感じを与える面が他の誰にもないともいえない。)腹部で身体を少し折るような姿勢で歩いている YMG 君や、彼とは対照的にスカスカと歩く SNN 君は、どちらも、もっと紙質がよく、活字の並び方も明るい書物を連想させるのだけれども――。

1952年2月20日(水)晴れのち雪

 やるせないとは、まったく、このことなのだろう。この気持ちをどこへやってしまったらよいのだろうか。理屈は分かっているのだが。有島武郎の論文「惜しみなく愛は奪う」の「私の存在」について書いてある箇所(といっても、教科書にはここだけしか載っていないので、他は何を書いてあるか知らない)にある sentimentalism、realism、romanticism の3イズムが混交しているのが、いまのぼくかも知れない。

 引用時の注

  1. 誰かすてきな女性にいつも見つめられているつもりで、自分の行いや思考を律しようと考えていたのである。

憲法66条2項の怪

 「押しつけ憲法論への一視点」という論文 [1] を読んだ。著者・寺川史朗(三重大、憲法学)は、日本国憲法66条2項

「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」(文民条項)

が、実は諸外国から「押しつけ」られたものであるが、「押しつけ憲法」論者たちは、この項を改正すべきであるとはいわないことを指摘する。そして、「押しつけ」か否かは個人の主観的判断に委ねられるものであり、改憲論議に波及させることは有害であると結論する。

 寺川は、第1節において、「文民」とはシビリアン(civilian、非軍人)のことであり、日本国憲法が戦力不保持を定めているからには、日本国民はすべて文民と理解されるにもかかわらず、文民条項が設けられた趣旨は何かと問う。第2節において、同条項の歴史的背景と、それにまつわるいくつかの説を紹介し、第3節で「押しつけ」かどうかの見方の分かれ目について論じている。

 歴史的背景は、概略次の通りである。芦田均(憲法改正特別委員会委員長、のち首相)が帝国憲法改正草案の9条2項に「前項の目的を達するため」という文言を追加する修正を加えた(芦田修正、これは9条1項の「国際紛争を解決する手段として」の戦争、すなわち侵略戦争という限定的な目的を達成するための「戦力」保持のみを禁ずるものと解釈することもできる)。当時日本の占領政策を展開していた GHQ(連合国最高司令官総司令部)は、この修正を容認した。しかし、これに対する極東委員会(対日占領政策に関する連合国側の最高決定機関、1945年12月16日設置)側からの抵抗として、66条2項が要請され、貴族院の審議の段階でこの条項が加えられることになったのである。

 66条2項のいくつかの解釈の中で、寺川は、「だめ押し」であるとする古関彰一(独協大、憲法史)の認識が興味深いとする。それは、次のようなものである。芦田修正について後日、芦田自身はその真意が自衛戦力の保持を予定したものと語っているが、当時そのような「考え方は、政府にも議会にもなかった。―中略― 唯一極東委員会で芦田修正によって芦田が後に主張する解釈が出てくる可能性が議論された。そこで極東委員会はこの可能性を封じるためにだめ押しとして文民条項の挿入を日本側に要求したのである。[2]」

 私には、引用されている古関の文言は厳密性を欠くように思われる。66条2項によって、自衛戦力の保持という可能性自体は、現実にもそうであるように、封じられない。可能性が現実になった場合に意味を持ってくる、そういう「だめ押し」というべきであろう。寺川は、GHQ民政局行政部長であったケーディスが芦田修正によって自衛権が認められることになると知っていたという古関の文を引用しており、それがあくまでも自衛権であって自衛力ではないとする見方においても、古関の認識は通用する、と述べているが、この意味は取り難い。

 寺川は、第3節の議論の中で、その論調が改憲論者に好まれている西修の衆議院憲法調査会での「憲法制定過程に『押しつけ』はあったが、今の憲法をどう評価するかは別問題である」という発言を取り上げている。そして、この発言は「押しつけ」の事実を「自主憲法制定」(現行憲法改正)に直結させることへの戒めであると理解すべきであろう、と評価している。皮肉にも、ここに著者の結論の一部が込められている。この論文には熟読しないと(ときには、熟読しても)論旨が呑み込めないところもあるが、結論については、私はまったく同感するものである。


  1. 寺川史朗『日本の科学者』Vol. 40, No. 3, p. 24 (2005).

  2. 古関彰一『新憲法の誕生』(中公文庫, 1995)p. 317-318.

2005年2月18日金曜日

存命の喜び、日々に楽しむ

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月18日(月)晴れ

 『徒然草』93段にいう「存命の喜び」を「日々に楽し」もうとする忙しさでいっぱいだ。昨日従兄の Y さんが来ていたとき、母は「私は不幸ということを考えない」といっていた。決意、実行、努力などという汗を発散させ、新鮮な空気を呼吸して走り続ける人生の駆け足は、愉快なスポーツではないか。

 習慣が性格形成の上に重要な役割を持っているという点を積極的に利用して行くように考え出したぼくの一つの考え [1] は、精神的な戒厳がつきまとうことを仮定するものなので、あまりこれを用いると神経質にならないかとも思われる。しかし、じょじょにやって行けば、けっして難しいことではなく、これが習慣となった頃のぼくは、いまより、はるかによいものを備えたぼくとなるに違いない。

(Sam)

1952年2月18日(月)曇り

 「各所属クラブの今年度の活動報告」という、ちょっと派手な名でホーム・ルーム時を持ったが、内容は貧弱だった。これは課外のクラブについてであったが、ホーム全員のうち約十五名は課外のクラブに属していない。その他に、クラブに属してはいるが詳しい事情を知らないとか、あまり活動に参加しないという生徒が残りの半分ほどいた。加えて、同じクラブに何人も所属している場合もあるので、実際に発表したのは十二、三名であった。文化関係のクラブは新聞とタイプだけで、あとはすべて運動関係のクラブだった。


 引用時の注

  1. より具体的には翌日記している。

Free Einstein Issue of "Physics World" (『物理学の世界』アインシュタイン特集号が無料)

 IOP(ヨーロッパの物理学会)発行の『物理学の世界』誌のアインシュタイン特集号が一定期間、同誌ウエブサイトから、PDFファイル(4.1 Mb, 72ページ)として無料でダウンロード出来る。

A special issue of "Physics World," entitled "Einstein 2005," has been published and can be downloaded as a PDF file (4.1 Mb, 72 pages) free of charge at the website of this magazine for a fixed period. The articles included are as follows:

EINSTEIN 2005
Ahead of his time Peter Rodgers
A brief history of Albert Einstein Matin Durrani
Einstein and the International Year of Physics
Five papers that shook the world Matthew Chalmers

Einstein's random walk
Few physicists believed that atoms were real before Einstein's theoretical work on Brownian motion paved the way for experimental confirmation, as Mark Haw describes
The 1919 eclipse: a celebrity is born Matthew Stanley

Relativity at the centenary
As we enter a new era of experiments, Einstein's general theory of relativity remains the leading theory of gravity, as Clifford M Will explains
Relativity - putting Einstein to the test
Brownian motion - atoms made real
Einstein and his love of music Brian Foster
Looking after the image of a legend Peter Gwynne

The search for gravitational waves
The detection of ripples in the fabric of space-time is one of the outstanding challenges in experimental physics. Jim Hough and Sheila Rowan report on progress
A very special centenary Robert Bluhm
Strange ways of light and atoms Charles W Clark
Quiz: Do you play dice?

The power of entanglement
Einstein disliked the random nature of quantum mechanics but he was still influential in the development of the theory, as Harald Weinfurter relates
Gravitational waves - still searching
The other side of Albert Einstein Tim Chapman
The king is dead. Long live the king! Robert P Crease
Einstein's quest for unification John Ellis

2005年2月17日木曜日

「わからない」ということは…

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月17日()曇り時どき雪

 計算をするとき、試験の前に記憶を試すとき、万年筆を使う前にインクの出具合を調べるとき、鉛筆の削り屑を受けるとき、あるいは丸めて机の抽出しの隅にたまった埃をまれに拭き取るとき、せいぜいこれらのときにしか役立たないで存在している紙をあさっていたら、2年半ほど前の音楽の時間を思い出させる、たった3行の文字を発見した。

  動物の謝肉祭感想
 僕たちが騒がしくてよくわか
 らなかった。

とあり、YM 先生の検印がある。きょうのぼくも、心の葛藤が激しくて、何の行動をしたのか「よくわからなかった」。どのような場合でも、「わからない」ということは、「わかろうとしない」ことが、原因の90%以上を占めているだろう。

(Sam)

 散髪と入浴と、それだけのことに行っただけで午後は終ってしまった。
[1] 風呂へ行くと、いつも会う人が決まっている。毎週同じ人に会うと、いつの間にかお互いのことが分かり、親しくなって行くものだ。
 どこへ行ってもその話だ。試験、試験、試験。「試験があってこそ、学校生活に活気が満ち、喜怒哀楽が感じられ、潤いが生じてくる。最も支配的ですべてを運命づけるわれわれの根源は試験である」
[2] と。

 引用時の注

  1. この行の前に、長町児童図書館へ行ったという午前の行動を記した数行の1パラグラフがあるが、目的や、述べられている不満、Sam をそこへ引っ張って行った「彼女たち」などの意味が取れないので、省略した。「彼女たち」とは、多分、近所の子どもたちのことだろうが。

  2. 風呂で毎回会う人が話したことだろうか。この頃の私の日記も、試験のことが相当大部分を占めており、あたかも、それを皮肉られているようである。実はこの頃に限ったことではなく、私は大学の教養過程時代にも、試験で何なにを間違えたということを、よく日記に書いたものだ。些細な誤りを気にかけチェックするという性癖は、しかしながら、就職後の研究生活には利点ともなったと思う。

2005年2月16日水曜日

時間の floccinaucinihilipilification をつつしむ

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月16日(土)雨

 ショート・ホーム時に、SM 君の議員辞任はあっさりと否決された。彼の辞任届の内容と採決までの議論は周到なものだったのだが、休み時間と放課後遅くなるまでの時間に生徒会室に浸り切って会則改正案作成に心血を注いでいる彼が、ここでやめるのを認めることは、彼自身以外の誰にも出来ない。
 放課後、KJ 君と SN 君は北国第一劇場へ飛んで行ったが、ぼくは来学年に備える書物のために、時間の floccinaucinihilipilification [1] をしてはならないと思って、行かなかった。
 I have nothing to keep in exchange for it. こういって固執してよいほどのものを求めながら、求められないままに今週も終る。

(Sam)

1952年2月16日(土)雪

 第三回市内高等学校タイプライター競技会が桜ケ丘高校で行われる。二水からは十二名が参加する。来る電車も来る電車も混んでいるから、ラッシュアワーのためだろうと思っていたら、何のことはない、北国第一劇場の『南部の唄』を観に行く小学生たちでいっぱいなのだ。われわれはポータブルを片手に持っているから、重くてやり切れない。席が空いたら、何はさておいてもポータブルを坐らせた。
 なかなかよい学校だ。階下はすべて石廊下になっている。階上へは四本の階段が通じている。そして、どの部屋にもストーブが用意されている。競技会の行われる部屋へ入ったら、とても暖かかったが、煙くて困った。
 KD 君と校内をぶらぶら歩いてみた。外観から考えたよりは、「おんぼろ」だ。テニスコートの横にある小丘に登って、歓呼の声をあげて駆け回った。眺望はなかなかよい。遠くに河北潟が光っているし、列車が白煙をあげて往き来する。競技規則および競技法は従来通りだ。すなわち、十分間に、与えられた問題を原則通り打てばよいのだ。字数1575のうち、正確に1500以上打てばA級、1300以上はB級、1100以上はC級、それ以下はD級とされる。
 この日、第一位になったのは桜ケ丘の某生徒で、1570打った。二位は本校の三年生ヨッチ、ぼくは1538で、二位との間に1542の一人を入れて第四位、次いで1535の生徒が二人いた。1538といっても、全部打てなかったのではない。ぼくの場合、九分五十八秒で打ち終ったのだが、誤字を減点されたのだ。KD 君はC級に辛うじて入っていた。四行ほど打てなかったという。
 「第四位A級賞」だなんて、高校生活最初の賞状だ。一同は橋場町で下車して、光画社へ行き、記念写真を撮った。三年生の諸君はみな商業科の生徒だから、交渉はなかなか上手だ。一人百円のところを九十円にまけさせ、仕上がる日数を二日早くさせた。
 帰宅したら七時だったので、祖母を大分心配させたようだ。


 引用時の注

  1. 「蔑視」の意。ひじょうに長い単語の例として知られる。詳しくは "floccinaucinihilipilification" Wiktionary 参照。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 02/16/2005 10:43
 タイプライター競技会。こういう催しがあったのですね。いつもながら、往時をふりかえりながら50年代と60年代の差異が意外とあるものだとあらためて確認させていただいています。

Ted 02/16/2005 14:29
 Googleで検索してみますと、1986年には、まだ全国高校タイプライティング競技会(第33回)というものがあったようです(これから計算すれば、この全国競技会は1954年、私たちの日記の2年後に始まったことになります)。なお、全国高等学校ワープロ競技会というのも検索で出て来ましたが、これは2003年6月に第51回を数えており、少なくとも年2回の開催かと考えられます。それにしても、こちらの方はハードウエアの変遷が激しく、競技会の方式の決め方の難しさが想像されます。

『改憲は必要か』を読む

 憲法再生フォーラムが編さんした表記の岩波新書 [1] は、時宜を得た出版物である。同フォーラムは「日本国憲法の基本的諸価値に積極的な意義を認め、それを擁護し発展させていく」という申し合わせに賛同した人びとからなる研究会として、2001年9月に発足している。

 本書は、【まえがき】、7章からなる本文、そして、【あとがき】から成る。各章には、たとえば第1章の【いま、憲法九条を選択することは、非現実的ではないか】のように、それぞれ、長い疑問文の題名がついている。各章の執筆者は、その疑問に対して読者が自分で答を考えることが出来るような判断材料を丁寧に述べている。

 編さんしたフォ-ラムの性格上、執筆者の考えは当然、護憲側に傾いている。しかし、同じく当然のことながら、【まえがき】において、その執筆者・加藤周一は「さて、護憲をとるか、改憲をとるか、その選択は読者の自由です」と、あえて述べることにより、いま改憲が必要と考えている読者にも取っつきやすい書物としている。この傾向は、本文各章の個別執筆者のソフトな語り口によって、全編に貫かれてもいる。

 なかでも、第3章【「憲法」は選びなおさないと,自分たちの憲法にはならないのではないか】を執筆している杉田敦は、自分がいわゆる護憲論者ではなく、かといって改憲論者でも毛頭なく、むしろ護憲―改憲という軸で憲法を論じることそのものをやめるべきだと考えている者だ、と述べている。彼の主張は、イギリス的なコンスティテューション(法と慣習の総体としての制度構造全体)の考え方のもとに、その充実を図ることこそが求められている、というものであるが、これは改憲の動きが激しいいま、つきつめれば、護憲の上に立つ考え方になろう。

 第6章【市民がどれだけがんばっても,しょせん戦争は止められないし,世界は変わらない.憲法九条も変えられてしまうのではないか】において、北沢洋子は、1990年代以降、次つぎに展開されたグローバルな市民の活動を紹介している。それは対人地雷禁止国際条約を実現させた NGO(その連合体、地雷禁止国際キャンペーン ICBL とそのコーディネーターのジョディ・ウイリアムズは1997年にノーベル平和賞受賞 [2])の運動であり、「為替取引に課税し、市民を援助する協会(ATTAC)」による反グローバリゼーションの運動であり、WTO と闘う「G20」の農民運動であり、さらに、イラク戦争反対の世界的な動きである。日本のマスメディアが「全くといってもいいほど」報道して来なかったこれらの運動は、「改憲状況」において日本の市民に勇気と知恵を与えるものとして、もっとよく知られなければならない。

 第7章【現実と遊離してしまった憲法は,現実にあわせて改めた方がいいのではないか】において、水島朝穂は、集団的自衛権が歴史的遺物であることを分かりやすく説明し、憲法九条が世界市民の共有財産であることに言及して結んでいる。この章はまさに改憲問題の核心をついているといえよう。

 後日の追記

 この記事を短縮したものを「改憲か護憲かを考えるためのよい判断材料」の題名でアマゾンのカスタマー・レビューとして投稿した。

  1. 憲法再生フォーラム編、改憲は必要か(岩波, 2004)

  2. 本書では受賞がこの翌年であるように誤記されている。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 02/16/2005 15:11
 先日紹介した、小森陽一氏の小論のごとく、戦後60年を「新植民地的無意識」を下意識に封じ込めつつ、わが日本の大衆は、無知の知による知恵でもって、一億総ノンポリ化し、日和見的な平和主義を、日々の平穏無事を享受しております。以前に、「改憲を政治日程にどうしてもあげたいというなら、やれるものならやってごらん」と申したのは、
まだまだ、この日本では、ノンポリ大衆の知が、いざ国民投票となったとしても、9条改訂に過半の賛成をするとは思えないからです。それ以前に、国会で憲法改定動議を2/3以上でもって可決すること自体が、極めて可能性の乏しいことだと受け止めております。もちろん、不測の事態、これはまったく可能性のないことではありませんが、現実に第二のグランドゼロの如きテロ攻撃が、東京なり、日本の大都市の何処かを襲った場合には、雪崩をうって改憲へと走り出すでしょうが…。

Ted 02/16/2005 19:51
 ウエブサイト「高まる憲法改正論議」(Foreign Press Center/Japan, 2004年5月20日付け)には、2004年5月、朝日新聞の世論調査で憲法改正支持が初めて5割を超え、主要紙世論調査ではすべて改憲派が多数を占めることになったこと、また、国会議員について毎日新聞が実施したアンケート(回収率75.5%、545議員が回答)では、改憲派78%、護憲派14%となっていることが報告されています。私はこれらのことから、今後、護憲運動が大きな高まりを示さなければ、憲法は「改正」される可能性が大きいと危惧しています。

四方館 02/18/2005 04:22
 私もこの事実を知らない訳ではないのです。ただ、ここでは改憲か護憲かの二者択一論議が主題となっているように思われます。田原総一郎の朝ナマなどを見ていましても、護憲一辺倒では世論形成が困難になってきているのは明白ですが、かといって平和主義を捨て去ろうとする意見が多数を占めている訳では決してないと思われます。慣習法的な憲法であればともかく、日本の憲法は条文化されています。自衛隊の存在の違憲性ひとつ取り上げても、国民の本音は違憲であろうと判断しているのが多数だと思います。ならば、自衛隊の存在をどのようなレベルで追認するのかに関して、国民の合意形成は容易に図れるものではないというのが、現在の私の判断です。

Ted 02/18/2005 08:21
 確かに、世論調査は設問の方法によって回答が左右されます。9条が述べている戦争放棄の是非だけを問えば、9条を守る意見がなお多数でしょう。しかし、昨年11月いったん明らかになったあと撤回された自民党憲法調査会による改憲案大綱原案からも推定されるように、改憲は「戦争放棄」の言葉を残したままで、海外派兵が完全に合法となる自衛軍の創設を決める方向で進められようとしています。日本の大衆の「無知の知」にも限界があり、この矛盾を見抜けないで騙されてしまう可能性がなくはありません。その可能性を防ぐため、私は「改正」の真の意図や、世界の動きの長期的展望と日本の憲法の関係などについての知識を大衆に広める運動が、いま重要であると思います。

2005年2月15日火曜日

下校時の Vicky

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年2月15日(金)雪

 二週間前から与えられていた「配給政策はどのように変遷してきたか」という問題で、試験がなされた。論文的な調子で書けばいいのだ。零点ということは絶対にないわけだが、よい成績を挙げようとすれば、教科書以外にいろいろ調べておかなければならない。


(Ted)

 ここに挟んで置くような解析の問題で91点しか取れなかったことは、ぼくが落ち着く以上のことをしなければならないことを示唆する。この4日間、毎日5時過ぎまで HN 君に、けさは登校を早く誘いに来た KJ 君に編集室で、そのあと教室では四方八方から名を呼ばれ引っ張られて、分からないことがないような顔で教えてばかりいたのだった。それにもかかわらず、KJ 君と職員室の Y・S 先生のところへ結果を聞きに行くと、隣にいた T・K 先生から「100点を取らなければ、ダ!メだぞ。」といわれる始末だ。問題に対する配慮が足らなかった。
 Grammar & Composition にある Franklin の "What kind of person do you want to be? ..." ということばは、ここ2、3週間思い続けている、Sam がぼくに課した宿題をさらに新しい形でぼくの前に提出した:What kind of person do I want to be?

 一人で昇降口を出てぽんと新しい傘を開く。見上げると、白い空から無数の黒い点が落ちてきて、途中で白くなり、すっと地面に吸い込まれて消える。雪である。少し前を3人の女生徒たちが行く。右端は黒い外套を着ていて長身だ。外套付属の帽子が髪形を隠しているが、白い布製手提げの内側に見える頭文字で Vicky と分かる。校門を出て間もなく、ぼくの方が先になった。自分の左右の手にある鞄と空の弁当箱と傘、ぐしょぐしょした地面、そして後ろからの声だけが感覚系統のすべてを奪う。「ただいまから19番教室で議会を開催いたします。…」というスピーカーからの声が運動場を横切って追いかけて来たが、彼女たちの玉を転がすような声の調子は変わらない。Vicky は解析の時間が異なっている他の2人の女生徒たちと、その科目の試験問題について話しているようだ。流会続きの生徒議会をさぼって帰るとはけしからん! [1]
 帰宅して一旦2階へ上がり、鞄を置き、再び長靴をはいた。祖父の用事があったのだ。すぐに先程の3人の女生徒たちが眼前に見え、ぐんぐん近づいた。ほとんど追いついたも同然になったとき、ぼくは「よしみや」へ入らなければならなかった。もしも Vicky が一人だったら、そして電車に乗るのでなかったら、…(以下を英語でいうときの仮定法過去完了の主節 I would have 以下は、仮定することもできないほどの内容だ [2])。
 小さくのたうっている心に信念の骨を入れ、激しく転変する運命 の中でも強い性格が維持できるようにならなければいけない。[3]

 引用時の注

  1. Vicky は生徒会議員だったが、このときの私はそうではなかった。

  2. 「Vicky に声をかけただろう、と書きたいが、それはまったくあり得ない仮定だ。」という意味。

  3. 母が3人の子や夫をかなり早く失い、敗戦後は引揚げの苦労をするという、転変する運命を強く生き抜いて来たことを思い、自分を叱咤激励したのであったか。

2005年2月14日月曜日

時間が足りない

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年2月14日(木)曇り

 何もかも時間が足りなくて駄目だ。解析の無理関数と分数関数のテストは、前回に劣るとも優らない結果になってしまった。ブランク時も、弁当を温めて食べてから、リーダーを一ページばかり訳したら、それで終ってしまった。
 生徒会々費の滞納者がひじょうに多いということである。約六万円ほど未納になっているのだという。送別会の費用として相当の予算が要るのだが、その財源がなくて、追加予算を取ろうかという案も出た。しかし、それは取り止めることにして、滞納者からなるべく金を集めようということになった。三年生が約八割を占めているというので、各ホーム毎に滞納者のリストを作り、各ホーム主任に渡して、早期納入を勧告して貰おうというのである。この仕事が、きょう、ぼくに与えられてしまった。国語の時間にアルバイトをして、リストを作り、四限終了までに十名の先生方に手渡した。

宇宙の羽飾りは軽くない


 写真は NASA の X 線望遠鏡チャンドラが捉えたケンタウルス銀河団。広大な高温ガス塊が長い羽飾り状に突き出ている。飾り部分には太陽10億個に相当する質量があるというから、驚かされる。この部分については、銀河団から中心銀河へ冷却して引き込まれるガスから出来ている、などのいくつかの可能性が考えられている。2000年5月22日に観測され、2002年1月29日に発表されたもの。詳細はこちらに(英文)。
 (Image Courtesy NASA/IoA/J.Sanders & A.Fabian)

2005年2月13日日曜日

体育時間の Vicky

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月13日(水)曇り

 胸の上に重石がのっているようだと感じることのある弱い心をなくさなければならない。リントン・ヒースクリッフのように弱々しい。体重が減っている。Sam の83%ほどしかない [1]。

(Sam)

 "To be or not to be, that is the question."
[2] という言葉をどこかで聞くか読むかしたかい。何と訳したらよいのだろう。

(Ted)

1952年2月14日(木)曇り

 アセンブリーは金大の管弦楽団を招いての音楽鑑賞だった。始めに指揮者が楽器の説明をした中で、クラリネットが、夜の街を動き回って哀愁深い音を流す屋台中華そば屋のチャルメラそっくりの音を出して、われわれに大拍手を起こさせた。ベートーベン、シューベルト、モーツァルトの各1曲ずつが演奏された。曲目を読み上げる生徒会文化委員の YMG 君の声は、「音楽の泉」の堀内敬三さんのよりも太い低音でスピーカーから響いた [3]。
 5限の始めから、KJ 君がとても沈んだ顔をしていた。悩みの種は何だろうかと思ったが、講堂に座った時に彼の話を聞くと、彼に対する UE 君の無責任さというようなことだったので、なぜかつまらないと感じた。[4]
 赤いセーターの腕がさっと頭上へあがり、中指の先が外へそるまでに伸びて、ボールをシャープにはね返す。軽く、しかもしっかりと床をふまえている、茶色ズボンの長くすらりとした脚の動きもスムーズである [5]。羊膜や尿のうを作り、胚膜の一部を胎盤に転用して臍帯で連なって栄養を受け…、こうして生長してきた細胞の集まりであることに変わりはないが――。自然はデリケートな工作をする。
 接触か沈黙か。「会話が方便に過ぎない」とすれば、沈黙を守らなければならないように思われる [6]。しかし、なぜ会話が方便に過ぎないのだろうか。「めいめいの心の奥に、ことばなどでは表現できない深いものを秘めているのだ」ということについては一応うなずけるが、何ものもうちにあるだけでは、何の役割も果たさないではないか。秘めているものを実践面へ持ち出すことの出来ない人間は、蔑視されても仕方がないということにならないだろうか。
 心の深さを測る物差しがあるのは何次元世界だろうか。その世界では、心は有形有色であろう。そこに住む人間は、われわれが手を伸ばして友を助け起こすように、彼らの胸にしまっている心で友の身体を抱き起こすだろう。いや、心の物差しは別として、いま想像したことは、この世界の心の働きと大差ない。表現してみたかったのは、身体の各部が心のままに(耳を動かそうというのとは異なった意味で)活動できるような、実践が極致に達している世界の想像図である。――(経験+考察)/論理=結論と表されるかと思われる方程式の左辺が、昨日の討論会以上に複雑化してきて、右辺に到達しない。――

 引用時の注

  1. Sam は少し前に体重が55.5 kgと書いていたから、私は 46 kgだったようだ。

  2. 有名なハムレットのせりふだが、Sam はこの日、英語の時間に初めてお目にかかったらしい。

  3. YMG 君はのちに北陸文化放送(MRO)のアナウンサーになった。

  4. 悩み顔から、女生徒の関係する問題かと想像したのが外れて、つまらなく思ったのだった。

  5. 体育の時間にバレーボールをしていた Vicky の描写である。

  6. 夏休みに試みた Vicky への接触が不首尾だったので、再度接触を試みるかどうかを、Sam が先に引用していたヘンリー・ソローのことばを参考にして考えていたのである。

2005年2月12日土曜日

Vicky も完ぺきではなく

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月12日(火)曇り一時雨

 また一つの失策。しかし、Vicky も完ぺきではなかったような I・S 先生の口ぶりだった。"... would not be of use." と書いたつもりだったのに、of が抜けていたのだ。
 ホームルーム時は曲がりなりにも、その名目通り1時間を使った。漫画のベティさんをなんとなく連想させる NR さんが、司会者を決めるために壇上に立った。そして、「教壇にいる人!」という多くの声と正式な指名と、そのあとの拍手で、そのままそこに立つことになった。「試験はわれわれに "積極的に知識を獲得しようとする心" を与えるものであるかどうか」という長いテーマを、彼女は何度か読み上げて発言を求めたが、始めのうちは、誰も発言しなかった。UE 君は「与えないものである」旨を端的に述べただけで、「もう少し考える」といって、頭を抱えて座ってしまった。彼が「与えないもの」という前に少し述べたことが、ぼくの出題の趣旨からややはずれていたので、テーマの意図を説明しようとしたが、何だか堂々めぐりの発言になり、自分でも解釈できない問題だと思った。ぼくはさらに、いろいろしゃべり、難しい表現をしたり、自分で「おかしいな」といったり、「分からん!」といって、途中で座ったりもした。…討論自体、益するところがなかった。

 祖父が飯台にサツマイモを見出すとわき起こるような喜びが、Sam の日記を読む時のぼくにも起こる。味があり、うつろになりかけている感情を充たしてくれるものがある。
 けさもサツマイモを見た祖父の食前の祈りが普通とは違った調子になった。母は、「じいちゃんはイモと鼻紙があればいいがやね」といった。祖父の枕元には、ハトロン紙、古新聞、広告紙などを重ねて折りたたんだ束がつねにある。その収集物はひじょうに大切にされている。買って来いとも、出してくれともいわれないが、祖父の鼻紙は欠乏しない。[1]

(Sam)

 昨日から、社会は国際経済をしている。先週で、国際政治は終ったのである。今週で経済をすませて、来週から文化をする予定だというが、そんなに速く進まれてはたまらない。『徒然草』を国語甲でやる。第十、十一、十二、五十六、五十七、七十一、七十五の各段である。
 午後は PTA 総会のため、打ち切り。

 どうもぼくには勇気と決断力がない。校舎のまわりを一周半した
[2]。最初に会ったのは MYK 君で、彼は試験はないかとかいう質問をした。ぼくは、第六限は終ったのかと尋ねた。三人並んで歩いて来る一人の中に KZ 君がいた。手にポータブルを持っている。あとの二人は誰か知らない。KB 君に出会って、「Ted は?」と聞いてみたが、ホームも時間番号も違っていては分かるはずがないことは九十九も承知だった。新聞部室を教えてくれようとしたが、分かりそうもなかったから(一度教えて貰っておいたのに、その後ぜんぜん行かなかったから、正確な場所に自信がなかった)、何とかなるだろうといって別れた。Neg とは三十七日ぶりで会った。もし、KJ 君に会えていたら十日ぶり(とはいうものの、Ted とも十日ぶり)ということになる。HN 君のところへは解析の何かを持っていかなくてもよいのかい [3]

 そういえば、きょうは、昨日片仮名で書いた歴史上の人物の誕生日だったナ。おや、英語のリーダーの次の課は、Walt Whitman の詩 "O Captain, My Captain!" だ。"In this poem the ship represents the nation and the Captain is Abraham Lincoln." とある。


 引用時の注

  1. 祖父(母の父)は80歳を少し過ぎ、いまのことばでいう認知症になっていたようだ。古新聞を鼻紙にしたのでは、顔が黒くなっただろうに。

  2. Sam はこの日、午後の授業がなかったので、私の高校まで来たのだ。日記帳は前日、直接会うことなく交換していた。

  3. 私は前日に続き、試験に備えて HN 君のところへ解析を教えに行くのに、手ぶらで出かけたのであろう。

ブッシュ対アインシュタイン

 [英文ブログ記事 "Bush vs. Einstein" の要約]ブッシュ米大統領は2005年2月2日、上下両院合同会議で一般教書演説を行った。自由や民主主義という言葉を多数使っているが、その内容はこれらの言葉や最近の事実とも矛盾している。アインシュタインが1947年に行った演説中の「戦争目的への順応は人間の心を堕落させるものである」という言葉が、ブッシュ大統領の歪んだ方針を予言していたかのようである。

2005年2月7日月曜日

てんやわんやの一日

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月11日(月)曇り

 獅子文六が、犬丸順吉を主人公とする小説の題名として作り出した副詞 [1] は、Sam が運動会で拾った情景を記事 [2] にした時の見出しとしてもぴったりしていたが、きょうのぼくにも、ぴったりだ。
 6限の英語の試験、"Complete the following sentences:" の1題目、"Smallpox would be prevalent, __________" のところへ "if we did not enforce vaccination." と書いた。と、この通りならば、それでよいのだが、教科書の Activities にあったのは、上記のように "be prevalent" だったけれども、その部分が試験問題では、"be prevented" となっているではないか。"prev" までが同じだから、Activities の通りだと思い込みやすい。しかし、"be prevented" ならば、意味は完全に反対だ。そこで、"be prevented" であることを確かめて、答を "if we enforced vaccination." と直した。だが、現在は "Vaccination is enforced." という状況であるから、このような答を求める問題を作るのは、少しおかしい。Uncivilized countries のことと考えればよいのかも知れないが。
 また、別の問題中の drawn の語が、ちょっと見たところ drown でなければならないような気がしたので、a を o に直す書き込みをしたまま提出した。これはぼくの思い違いだったと、あとで気づいた。採点には関係がないが、I・S 先生をいぶからせるようなことをしてしまった。
 土曜日の解析の試験の解答が3限にあった。x2/9 + y2/4 > 1 の範囲を示すのに、原点の座標を代入して成立するか否かによって、楕円の中か外かを見るという操作をした覚えがなく、「あっ、勘で書いて合うた。」と叫んだが、いま考え直すと、x2/9 を右辺へ移行して、両辺の平方根を取ったもので考えるというややこしいことをして、正答を出していたようである。――以上が、てんやわんやの中身である。
 朝出がけにカラーの左襟の方の先が折れたことは、迷信的解釈で、てんやわんやの原因とするのには都合のよいことだ。しかし、われわれは、accidental accordance [3] だと、科学的に考えなければならない。

 あすのホームルーム時の討論会のテーマを考えて提出したのは、ぼくだけだった。「こんなものでテーマになるだろうか」と思いながら書いた二題を、UE 君がショート・ホームの時間に読み上げ、これらについて討論出来るように考えを練って来ることを一同に要求した。「ほほぅ、誰が考えたい」「あとの方が面白そうや」「前のがもいいぞ」などという声が聞かれたが、自分では少しも新しくも奇抜でもないものを書いたつもりだ。
 放課後、HN 君の家へ教えに行く。単元3の III 全体の試験が金曜日にあるのだ。「解析の」と書かなければならなかったかい? そうだ。KZ 君から3限後の休み時間に、先週その教室でぼくが「分かった!」と、いきなりいったと同じ突然さで、「147ページの1の(5)を教えてくれんか」といわれて、「国語か英語か」と聞き返してやったのだが、手はちゃんと解析の教科書を鞄から出していた。

(Sam)

 ホームルームのレクリエーションはけっきょく二ヒントまでの「私は誰でしょう」をすることになった。出題は芸能関係が約半数を占めた。原節子や何とかいうバレリーナなど。源氏鶏太についての第一ヒントの復唱で、司会者が「三等毎日にサンデー重役というのを…」と、いい間違えた時、この時間で最もよく笑った。アイゼンハワーの問題はよく作られていた。あっけなく当てられたのは、福沢諭吉、中谷宇吉郎、エイブラハム・リンカーンなどだ。ぼくの出題は、「その日はちょうど豆まきをすませたあとでしたので、『夕刊!』といったお父さんにそれを投げて上げたら、はげ頭に当たってカンカンに怒られましたが、お母さんが弁解してくました」というのが第一ヒントの架空の人物だったが、第二ヒントで説明しすぎたので、簡単に分かってしまった。
[4]


 引用時の注

  1. てんやわんや。第4節の終わりにこの言葉を出してある。

  2. Sam と私が共に通っていた紫錦台中学の学校新聞に掲載の記事。

  3. Sam が英単語暗記用の本の A から覚え始めて、accicental と accordance を早くに覚えたので、「偶然の一致」をこのように表現したことがあり、ここでは、それを真似たのだが、coincidence あるいは synchronicity というのが普通であろうか。

  4. 第一ヒントでも分かりそうなものだ。漫画『サザエさん』に登場するサザエさんの弟、カツオであろう。

道徳的とは

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年2月10日()雨と雪

 午前九時から十分間のうちに行くから、六枚町の踏み切りのところで待っていてくれ、といい渡しておいたのに、ちょっと遅刻して来て、こんなつもりじゃなかったと、弁解みたいなことをいった。広岡町の鉄道官舎が KD 君の家だ。同じような構造の家ばかり並んでいるので、一人で行ったら探すのに時間がかかるだろうと思った。テーブルかけのかかっている机と、Ted の家にあるのと同じ火鉢がおかれている前に座った。ラジオのスイッチが入れてあって、ちょうど「光を掲げた人びと」のテーマ・ミュージックが流れて来た。きょうは、Ted が昨年の夏休みに研究していた作家
[1] についてだ。
 初めは、彼らの通信文だけ見せて貰うつもりだったが、サイン帳やアルバムや切手の収集まで見せて貰うことになった。サイン帳には「成せば成る成さねば成らぬ何事も」という言葉がたくさん書いてあったようだ。何かの花や教会の鐘の絵を描いて、そこに詩を書いたものもあった。「あまり書け書けといわれるから仕方なしに書く」とか「ご建康を祈る」というような、味気ないものも中にはあった。切手収集では、諸外国のものや、名古屋のあるデパートで買ったという四枚八十円也のものや、珍品がたくさんあった。その点数も相当なものだ。
 まだ、その他、敦賀中時代の学校新聞『若竹』というのを見せてくれたり、『級苑』という八十数ページにのぼる学級雑誌を見せてくれたりもした。
 彼の家で、まだ顔を見たこともなく話をしたこともない、しかし、地球上の、いや、敦賀市のどこかにいるはずの一人の人物に宛てて葉書を書き、帰りの道で投函した。


(Ted)

 ヒースクリッフの、月世界の夜のような性格と感情は、ただ作者によってあまりにも巧みに一人の人間に結集した形で表されているだけで、われわれも彼がエミリ・ブロンテによって与えられた凄惨さと執念深さを持ち合わせているのだ。

 ヤースナヤポリャーナで始まり、リャザンウラ線の中間の一寒駅アスターボタに終った生命。確かに「光を掲げた人」だ [2]。道徳的とはどういうことだろう。それは、人間が光――といっても、その前に立てば、反対側に影ができるような物理的な光とは異なって、光源が一つでも、湯につかるように、あらゆる方角から囲まれることの出来る精神的な光――に全身をさらすことではないか。

 われわれを存在させている一点一点が…。
 単なる思弁上の結論を書くだけで、「生き方」を知ったとはいえまい。もっと実際の苦闘の薮に飛び込んでからのことだ。

 「メンデルの瞳」とは、参ったね。「話の泉」の最中に、この番組のテーマ音楽がなり、Minerva を答とする問題となって終った。この番組を聞いていると、番組へ送る問題の製作意欲が湧いてくる。氷の問題は、いつか「子どもの時間」にあった「科学の散歩」の話から、そっくりそのまま拾ったものだ。ぼくが解答者だったら、鐘をならさせはしなかったのに。

 欄外への書き込み

(Sam) "Minerva【ローマ神話】才芸を司る神" とはいったいどんな意味なんだい。
(Ted) ぼくが「とんち教室」を聞き漏らすよりもこれを聞き漏らす方がガマンの出来ないほど気に入っている番組を聞かなかったのかい? 音楽をかけて、それに関係のあるギリシャ・ローマ神話の神の名を答えさせる問題だったのだ。Minerva は知恵の女神ともいわれる。

 引用時の注

  1. トルストイ。

  2. Samが KD 君の家で耳にしていたのと同じ、トルストイについてのラジオ番組を聞いたのである。

Vicky のまごつきに安心感

 高校時代の交換日記から。

Sam が日記帳に描き込んでいたKD 君の
「似ても似つかない」似顔絵の原寸大コピー。

(Sam)

1952年2月9日(土)曇り

 実物とは似ても似つかない顔になった。こんな顔でないことをくれぐれも断っておく。とにかく、一人のごく親しい友人ができていることを、いいかげんに紹介しておかなければならない。彼の名は AK・KD、どんなニックネームを持っているか知らない。ちょっと適当なそれがない。これまでにも数度、この名前は書いたはずだ。ぼくと同じホームルームに属する。昨年11月頃、タイプ・クラブに入部してから、ぐんと近しくなった。二学期中は、英語の時間に彼と隣り合っていた。この前、共栄館で Ted たちに会った時、ぼくの連れが二人いたろう。そのうちの一人だ。あの時紹介しておけば分かりやすかったのに、と思うが、そうできなかったのは残念。あす彼の家へ行くことになった。用件は一週間前に彼から貰った紙片の具体的な行動を起こすためだ。


(Ted)

 解析は時間の初めを普通の通りに使ったあとで、2次、分数、無理、各関数の不等式の範囲をグラフで示して解答する問題8題が黒板に書かれた。ノートや教科書は見てもよいが、話をしてはいけないという形での試験だった。1題目の y < 3x2 − 2 の右辺を 3{x2 − (2/3)x + (1/3)2 - (1/3)2} などと間違って「変形」しているぼくを見た Y・S 先生は、海におぼれているわが子を発見した母親の絶望的な叫びを小さくしたような声で、「何をしているの?! どこに x の項がある?!」といわれた。底知れないあわて者!
 5~8題目はその中の2題をすればよかったのだが、全部するつもりで7までしか出来なかった。MRR 君や UE 君に「最後のはどうなった?」と聞かれても、いつものぼくのように答えることが出来ず、どこかに一人取り残されたような気持ちに襲われた。決められただけ出来たからよいだろうって? 先生に注意されなければ、最初の1題にもっと多くの時間をかけ、そして間違ったグラフを描いていたはずだ。Vicky が用紙を配られる時に急いで何かを TJ 君に尋ねていて、次の時間になっても無理関数のグラフを気にしたり、ぼくと同じく――いや、ぼくほど、はなはだしくではあるまい――まごついたような調子で「y = 3x2 - 2 のグラフは?」といったりしていたことが、妙な安心感を与えたが…。
 S・Y 先生は藤村の「千曲川旅情の歌」第2連の初めの2行 [1] を、どういう意味でか、口ずさんでおられた。

 昨晩ときょうの午後のぼくが何をしていたかをSamが知ったならば、そのくだらなさに物もいえないだろう。●!

 やはりどうかなっていたのだ。盲学校へ持って行って、SK 先生に調べて貰ったラジオが、すっきりとした音を出すようになって戻って来る [2]。「嵐が丘」を読み終え、録音ニュースが終った時刻、ラジオを購入以来欠かさずに聞いている番組を、今晩はあきらめなければならないかと思っていた時、――おう、入った。3日間扱わなかったものだから、1170 kc を1070 kc と勘違いしていた。

 引用時の注

  1. 「昨日またかくてありけり/今日もまたかくてありなむ」

  2. 母が盲学校の教員をしていたので、同校の理科の先生にラジオの故障を直して貰ったのだ。その頃の私は、まだ自分でラジオを修理するほどの理科人間ではなかった。盲学校は私の通っていた菫台高校の隣。どちらも、間借りしていた家のすぐ近くだった。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 02/07/2005 19:40
 その当時の石川県のラジオは、MRO が1952年5月の開局とありますから、この日記が書かれた時点では NHK のみだったのでしょうね。1170 kc は現在の MRO の1107 kHz に近いので、ひょっとしたら?と思ったのですが。

Ted 02/07/2005 20:21
 そうです。このときは、まだ NHK だけでした。MRO のことをよくご存知ですね。高校同期で放送クラブにいた一人の友人は、なまの声が当時のラジオの電波にのったような響きを持っていましたが、大学卒業後就職した商事会社が気に入らず、金沢へ戻り、MRO のアナウンサーを経て、同局の重役になっていました。私が大学院生の頃、休暇で郷里へ帰った折にラジオを MRO に合わせると、彼がニュースを放送していたりしたものです。

テディ 02/07/2005 23:06
 私はラジオ好きな少年でした。遠い国や地方から飛んでくる雑音にまみれた電波を聞いて、その国その地方のことをあれこれ想像するのが好きだったのです…。ましてや、MRO は私の「生まれ故郷」の放送局。深夜になると雑音に邪魔され、フェージングがかかりながらどうにか大阪でも聞くことが出来ました。

Ted 02/08/2005 07:37
 へぇ、そうでしたか。

2005年2月6日日曜日

自分という車の運転手

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年2月6日(水)雪

 上々のコンディションだ。昨日整えた用具を肩にかついで、八時五分に家を出る。九時半までに望湖台横に集合だ。市立図書館の手前で TKD 君に会った。頂上まで登るのはなかなかの運動だ。軽く汗をかいた。もうスキーをはいて滑っている連中がいる。出席をとってから、ずっと遠回りしてスキー場の下に降り(降りるまでに二回転んだ)、それから適当な高さまで登ってから、勇気をつけて滑降する。かなり下まで行って、どしゃんとしりもちをついた。ついたまま、数メートル滑った。回を重ねる毎に、だんだん早く転んでしまった。
 何回目かの時、予期しなかった箇所のバンドが切れて、再起不可能になった。しかし、どうにかバンドを求めて修理した。そうこうしているうちに昼になったので、スキーをはいたまま、立ち食いした。午後からはフリーになったので、スキーを持って来ないものは大半が帰ってしまった。ぼくたちは、もっと勾配のゆるい別の道路で滑った。登るときは、スキーをぬいで、肩にかついで行くのである。午後の方が存分に楽しめた。
 帰りに市立図書館に立ち寄って、国語の宿題のための本を借りて読む。


(Ted)

 獅子文六の『てんやわんや』を読む。自分という車の運転手は、車のエンジンに相当する自分自身の力、それも、くじけることを知らない意志を含んだ強い力を持たなければならないことを思う。
 アセンブリーは、ミレラが主人公である映画 [1] と同じ題名で、ドラマ風に行われた。何一つ感じ取ることが出来ない。ぼくが無感覚になって来たのか、ほんとうにわれわれに問題を一つも投げかけないつまらないものであったのか、どちらか分からないが、そのどちらであるかを考える必要もないと思う。
 放課後、TKN 君と KS 君が編集室へ入り込んで来て、大学入試のことについて議論をしていた。彼らは、感心出来るようなことはまったくいわなかったが、いかに真剣になって、口を忙しく動かしているかを見ているのは面白かった。TKN 君は最初、英語が難しいから、それで差がつくといい、KS 君はそれを否定した。ただし、これだけのことを彼らはじつに多くの例と、ことばじりをとらえるような反ばくとで、もっともらしくいい合ったのである。次いで、KS 君の「ある程度の勉強のあとは、試験の時の度胸」という考えと、TKN 君の「あくまで実力」という意見が戦わされた。この論争の引き合いに出されたのは、学校で1番だった生徒が入試に落ち、5番だった生徒が合格したという実例だった。入試も学校での順位も、人間という複雑な存在の一つの物差しに過ぎないであろう。

 引用時の注

  1. 前週の土曜日に見た映画『明日では遅すぎる』のこと。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 02/06/2005 11:56
 私は高校時代に気づいた時にはとっくに病気になっていたのだと思いますが、ずっと後年に至っても「あなたはエンジンが違うのだから」と母親にいつも言われましたね。それが病気に負けずに今まで生きてこられた自分の力のことかもしれませんね。くじけることを知らない意志の力も大事ですね。人生長いですから、これを保持さえできればと思います。私にも自信がないのですが。
 実例をあげて大学入試について議論しあうのは、なんだか滑稽ですよね。でも若い人だから親が薦めれば余計に夢中に真剣になるのでしょう。本当に人間はもっと複雑で、人生はどう転ぶかわかりませんものね。Ted さんは大事なことを早くに冷静に見抜かれる高校生だったんですね。

Ted 02/06/2005 14:53
 お母さんはそうおっしゃいましたか。実は「車のエンジンに相当する」という句は、引用に当たって、こっそり付け加えました。自分を車と見立てて、力について述べているということは、こういう句でつないだ方が分かりやすいだろうと思ったからです。最後の「人間という複雑な存在の一つの物差しに過ぎない」も、原文の「複雑な」だけを残して、分かりやすく言い換えました。

Remington のタイプライター

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年2月7日(木)、8日(金)

 社会のテストは(一)、(二)のうちの一つと、(三)のイ、ロ、ハのうちの二つをすればよかったので、いわゆる問題選択の自由が与えられたわけだ。
 アセンブリーは音楽部によるもので、音楽を中心にした「話の泉」 [1] であった。例えば、「♪草津よいとこ/一度はおいでー/ドッコイショ」というような節をピアノで弾くと、まず、草津節であることを答え、それから司会者の質問に答えなければならない。どこにありますか、どんな病に効きますか、といった具合だ。パリ祭の曲を弾いたあとで、パリはだいたい緯度何度、経何度にあるか、パリを流れている河は?である。マイクがなかったので、解答者の答がよく分からなくて困った。
 新しい Remington のタイプライターが購入された [2]。順じゅんに打ち初めをする。「キーが軽い」とか「外観がスマートだ」とか「防音装置がよい」とか、各人各様の批評をいい合う。


 引用時の注

  1. 当時 NHK ラジオで放送されていたレギュラー解答者出演によるクイズ番組。ここでは、それを模した行事。

  2. Sam はタイプ・クラブに属していた。


テディ 02/06/2005 21:47
 Remington のタイプライター…とありますが、これはやはりあの銃器メーカーの Remington と同じようですね。そういえば、ホッチキス (Hotchkiss) も機関銃を作っていました。同じ機械の製作会社から知的生産物を造り出すものと、人の命を奪うものの、両者が生産されていたというのも興味深い現象でありますが…。

Ted 02/06/2005 22:00
 私は Remington が銃を作っていたことを初めて知りました。面白いウエブサイトを教えていただき、ありがとうございました。

「秘められた」思い出

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月8日(金)曇り

 簡単なことをややこしく聞かされる Frog 先生の時間に、 TKN 君のポケットからスズメが逃げ出して、一騒ぎとなった。この薄暗い教室で、体育館のトタン屋根からもうもうと湯気が立ち昇るのを見て笑ったり、きょうのように、ごみ箱の陰でふるえているスズメを見て哀れんだりするという経験。それは、古ぼけた装丁の本の中にも探れば多く秘められている興味深い事柄と同様に、時間の経過とそれ以外の何かの作用を経て、いずれ「秘められた」思い出になる代物かも知れない。[1]
 自分で新鮮だと感じられる自分でなければならない。倦怠があってはならない。

 引用時の注

  1. 確かに、この日の授業中に TKN 君のポケットからスズメが逃げ出したという事件は、きょうまで忘却の彼方に秘められていた。

2005年2月5日土曜日

二尺もあるツララが

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年2月5日(火)雪

 二尺もまだもあると思われるツララがあちこちの屋根からぶら下がっている。学校では朝、掃除をする時こぼされた水が凍っていた。
 おや! 校内放送が何か伝達しているぞ。――「ワァ! ブラボー!」


(Ted)

 われわれは知識の反芻動物でなければならない。[1] ――「板門店会談」の時の KZ 君が、「その日に習ったことは、その日で頭へ入れてしまうのか。その日暮らしってやつやな。ハッハッハ」といったのを思い出して、ちょっと考えてみた言葉だ。
 「感動的で深い決意のこもった英文手紙ではあったけれども、完全に意がくみとれず、残念である。われわれの間で何か空想的なことが始まりそうな気がする。少なくとも私は何らかを君に期待するだろう。」
この何気なく書いた数行を、ここに挟んである TJ 君からの手紙 [2] の返事とする。(彼の英語はややこしい。すらりと書けているのは "Thank you very much." の one sentence ぐらいだ。)
 これを受け取った時間にはテストがあった。Y・S 先生はテスト中にもかかわらず、x + 1 < √(25 - x2) において、x + 1 < 0 と x + 1 > 0 だけを考えて、x + 1 = 0 を抜かしている人が多いようですが、入れなければいけませんよ、と全体に注意された。答に影響はなかったけれども、途中の過程において = を抜かしていた一人にぼくがいたとは、何ごとぞ。
 ホームルーム時は、M・T 先生が休まれたが、UE 君の努力で、どうにかレコード鑑賞が行われた。音楽クラブの YM 君と、名前は書かなかったけれども、これまでに2、3回われわれの日記帳に登場している KW さんが担当者だった。何を聞かされたか、覚えがない。
 Sam がそれを買ったとき、「これによって新しい希望がわくかも知れない」と書いていたのに類似の1冊 [3] を、KJ 君も買った。Noun の部、adjective の部、verb の部、…と別れている。

 引用時の注

  1. 取り込んだ知識は、すぐに取り出して活用できなければならない、また、記憶を確実にするためにも、知識を時どき取り出すことが必要だ、というような意味で書いたかと思う。

  2. 手を加えて読みやすくすると、下記のようになる。終りから2番目の文のあたりが、もう少し長く、特に意味が取りにくかったが、最後の文に照らして、こういうことだろうと、いま理解できる。
    My true friend,
    I'm always respectful to you for your kindness and diligence. When I was going to buy a book of English words yesterday, you gave me a kind advice. Thank you very much.
    Now I've read the book "Under the Wheel," and deeply thought about these: "Having good friends is important. I hate "a bad person" in my own mind. I have to become pure-minded."

  3. 英単語暗記用の小本。

2005年2月4日金曜日

雪の日


写真は2月1日朝、大阪・堺の雪景色。

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年2月4日(月)雪

 Oh! It is very cold. I got up very late.
 保健体育は乃木式何とか法だといわれて、折から降りしきる雪の中、素足で学校の回りを一周させられた。目に雪が入って、とめどなく涙が流れ落ち、腹側は雪で真っ白になった。一周して校内に入ると、へとへとになったが、上着を着るころからぼつぼつ暑くなってきた。しかし、指がぽんぽんにふくれ上がる。
 ホームルーム時には、単位の登録をした。S、G、L、P、Hの順に人数が少なくなっている。ME 君は、いつでも funny だ [1]。S コースにしたのだが、世界史が選択出来ない、と第六限の時、ぼくにいう。S コースは理科系統なんだとさ、といってやったら、そんなところなら絶対いやだ、おれの希望は違う、という。お前は L コースへ行くのが本望なのだろう、というと、そうだそうだ、大きな望みがあるんだ、という。この時間がすんだら教務課へ行ってくるといっていたが、その見込みはなさそうだ。


(Ted)

 傘が壊れているから、仕方なくオーバーを着て登校した。こう書くからには、いままではもちろん、着て行かなかったのだ [2]。昨日は、まだ所どころに残っている雪のように、屋根が白く日光を射返したりしていて、日陰の空気がわずかにひんやりとしていたのを除けば、他は春と変わらず、南側の窓辺に腰掛けて外に向けた背に当たる赤外線の暖かさを満喫しながら読書しておれば、快適な世界がそこにあった。が、きょうは立春の前日だというのに…。
 放課後 KJ 君が、一度は雪の中へ逃げ出して行くなど、たいそう勿体ぶって渡してくれた紙片に書かれているものを手帳に写す。「東京都北区○○町xxx ○○○東京病院附属看護学院寄宿舎x号室」[3]、もう一つは、「金沢市○○町xx」。〈えっ?こんな名前知らないぞ。こちらは写さなくてもよいのだろう〉と、紙片を受け取った時には思ったのだが、何のことはない、旧姓Y先生 [4] じゃないか。頭の課題が一つ増えた。
 国語乙は、相変わらずテキスト外の講義が多い。解析は、土曜日に出された問題を黒板でさせられる。ぼくに当たったのは何でもない問題だったが、HN 君が当たったのは、負の方だけの半円になるものを正の半円だと、ぼくが彼に間違って教えていたものだった。Y・S 先生が直されるのを見ながら、三つ前の席にいる傘の件での一昨日の恩人に聞こえるように「すまん、すまん。」といい、授業が終った時にも頭を下げて謝らなければならなかった。Vicky でさえも、半円を円にして来るから、解析の時間は愉快だ。
 TJ 君が、彼の読んだヘッセの「車輪の下」について話してくれた。要するに、一少年が堕落するという筋で、友の選び方が大切だと教えられた、と彼はいっていた。そして、映画を見る時は、場面の情景・背景がはなはだしく限定されたものとなるが、小説を読む時は、各人の経験や思想、語感の相違などによってそれらを自在に頭に描き得るといわれたS・T 先生の言葉を繰り返して、その通りと思ったといった。
 「人の規模」について考える。…

 引用時の注

  1. ME 君のあだ名が Funny だった。彼も Sam と同様、早く他界した。

  2. この頃住んでいたのは、大連から引揚げ後、次つぎに間借りをさせて貰った3軒目の家で、菫台高校へ徒歩数分のところにあった。

  3. 中学1年のとき同級だった女生徒 MT さんの住所である。やや男っぽい子だったが、その頃から看護師(当時の言葉で看護婦)志望だった。国語の時間に、興味のあることについて数分間話すという課題を出されたとき、彼女は少女雑誌で読んだといって、宇宙が膨張していることを話した。私も知っている話ではあったが、女の子がそれに興味を持ったということが珍しく、感心したのだった。このとき住所を書き写したが、手紙を出した覚えはない。

  4. 中学1年のときの国語の先生。戦争未亡人だったのが、この頃再婚された。そのことを知ったときに KJ 君が私にいった言葉「やっぱり、本能やなぁ」が、面白くて忘れられない。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


四方館 02/04/2005 11:39
 仲の良かった友人の早世は哀しいですね。その死がまるでなにか宿命を帯びていたような感懐さえ湧いて、追憶の人として強く心に刻まれることがありますね。

Ted 02/04/2005 16:10
 仲よさで五指に入っていた友人のうち、三人が早く死んでしまいました。折に触れて彼らのことを思い出します。

為政者の言葉に頂門の一針

 2年前に随筆集『哀愁の音色』を読んで以来、私は竹西寛子の文を好む([1] 参照)。昨日、彼女の一文を新聞紙上で読んだ [2]。

 竹西は、俳人飯田龍太の「自然を見ているつもりが、いつか自然から見られている自分に気づいてしまった」(無数の目)という言葉を引き、自分の見方の公平を保つことが文章の土台として重要であることから書き始める。そして、見方の公平を重んじるための謙虚さは、文筆の者だけに求められることではないだろうとして、話は近年の為政者の発言に及ぶ。

 「職業年齢を問わず、物言いに逃れようもなくあらわれてしまうのがその人の人間観であり、生き方である」という文が、「政治の基本は言葉」という警句につながり、「言葉数は多いのに、絞ってみたら水母(くらげ)のようでは困る」といってのける。

 最終節では、「為政者を選んだ一人一人が、自らの物言いをかえりみながら公平な目を強く育ててゆく、何よりもそれが先か…(略)…」と、謙虚に記す。

 一人一人が公平な目を強く育てることも確かに重要であるが、この随筆の中心部分で示されているような、為政者にとって頂門の一針となる物言いが、もっと多くのペンを持つ人びとによってなされるべきであろう。


  1. 専門家の「読み」, Ted's Coffeehouse (2005年1月4日).

  2. 竹西寛子、「見る」ことと「見られる」こと:公平な目への意志、しんぶん赤旗、学問文化欄 (2005年2月3日).

2005年2月3日木曜日

片ぶら

高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月3日()晴れ

 夏休みに書いた「『復活』の研究」 [1] を、ところどころ読み返してみる。KJ 君が読んでしまったといっていた「反省点綴」もこれとたいして変わらない書き方だが、前者の方がずっと中庸を行っている。これらは、ほんとうに書きたくて書いたものではないから、どうでもよいが、「書く」のならば、もっと整然として力強いものでなければならない。

 折焚柴記を著した人物や、島根県出身で「舞姫」等を書いた医学博士兼文学博士、など、聞いていて、ぼくたちのホームルームでの行事の方が、NHKに先手を打ったような感じのする「私は誰でしょう」じゃないか。だが、楽に分かっても、全然分からなくても、何となく面白い。――このように、楽しみの供給源であるラジオだが、雑音の入るときは、たまらなく不愉快である。昨夜の9時以後の第1放送は、セロファンを口に当ててわめいている子どもの声を聞かされているようで、まったく聞いていられなかった。なぜだか、たまにこんなことになる。聞かなければならないほどのものではなかったが、ブアブアビバビバといっているのは、しゃくにさわった。

(Sam)

 祖母から、知人が家を壊したときに出たくず板を貰ったので運んでくれと頼まれ、背中にそれを負って二回ばかり往復した。そのあとで「ユキ」 [2] や「マサカリ」などを使って、処理をした。久しぶりで働いたら、何だか朗らかになった。

 国語の宿題をするために県立図書館 [3] へ行ったら、YM 君と一緒になった。目的の本はあったが、ざっと読むとすぐに返して、彼と片ぶら [4] をすることにした。大和 [5] では、模型飛行機、紳士用ズボン、ラジオ、写真機の各販売部や、書き初め展のところで長く足をとめた。


 引用時の注

  1. 高校1年の夏休みの国語の宿題として、トルストイの『復活』の感想等を KJ 君と共同で書いたもの。

  2. 工具の一種のようだが、どういうものか不明。

  3. 当時、石川県立図書館は兼六園内にあった。

  4. 金沢の繁華街、片町をぶらつくこと。東京の銀ぶら、大阪の心ぶらに相当。

  5. デパート名。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 02/03/2005 10:02
成程、当時のラジオはそんなに雑音に悩まされましたか。この年はまだ高校一年だったのですね。Ted さんの学校は金沢市内のどの辺りだったのでしょう?

Ted 02/03/2005 11:11
 持っていたラジオは、早川電気製の5球スーパーヘテロダインとかいう、当時としてはかなり上等のものでした。私の母校は卒業から5年後に金沢商業高校に変わり、現在に至っています。場所は市の南東、小立野台の奥、天徳院という寺の近くです。

Ted 02/03/2005 22:01
 すっかり忘れていましたが、この頃、うちのラジオは故障しかけていたのでした。同年2月9日付けの日記に、修理して貰ったことが書いてありました。

四方館 02/04/2005 14:18
 地図で確認。兼六園から近いですね。1 km もあるかないか。戦後の新制で一旦普通科になり、また商業科に戻ったのでしょうか。ここでも混乱の波を受けているのですね。

Ted 02/04/2005 16:05
 1 km より少し遠いぐらいではないでしょうか。そうです。旧制金沢商業が、菫台高校という新制高校になり(普通科と商業科がありました)、10年後にまた商業科だけの商業高校に戻りました。

世間は広いようで狭い

 M・Y 君

 "Ted's Coffeehouse" へのご感想入りメールと、添付の "Femto-Essays" へのご感想、ありがとうございました。私はボーマルシェが『フィガロの結婚』の著者とは知らず、貴君のご感想から学ばせて貰いました。ご感想を、また "Ted's Coffeehouse" に引用させていただきたいと思います。今後の分も合わせて、ご了承いただければ幸いです。

 メールに M・K 君の名前があったので、2、3年前から貴君に話そうと思いながら忘れていたことを思い出しました。大学院生のとき、M・K 君が核研への行きか帰りの列車で、「N試験所のお嬢さん」と一緒になり、研究室の一同に、すてきな人だった、と盛んに話していたことがありましたが、覚えておられますか(貴君もその列車は一緒でしたか)。私は、D 研へ入って間も無いころ、O 学会のH 分科会で何度か彼女、C・K さん、を見かけていましたが、5年余り前に彼女の近況を、たまたま、2人の人たちから聞く機会がありました。

 その1人は私の小学校同級生で、いまなおカリフォルニア大学サンタバーバラ校で江戸文学を研究している H・I さんです("Ted's Coffeehouse" にも登場しています)。彼女は高校、大学が C・K さんと同じで(大学の学部は異なりますが)、親友の間柄だったそうです。私は H・I さんの最近の居所を知るのにインターネットの検索を使いましたが、 C・K さんも同様にして、アメリカの H・I さんの家へ遊びに来たということでした。

 もう一人は、私の大連の家の近くにいた T・I さんという小学校の先輩ですが、遅く引き揚げたので大学卒業年はわれわれと同じです。彼女は国家公務員試験の会場で C・K さんと知り合い、 C・K さんは N 試験所に、 T・I さんは O 試験所にと就職先は別れましたが、文通を続けているそうです。 C・K さんは N 試験所の KW さんという方と結婚し、姑さんの介護が必要になって、かなり早く退職されたそうです。夫君の KW さんには、電子線による探傷実験のためのセラミックス試料を貰うため、私も世話になったことがあったのでした。ことわざに「世間は広いようで狭い(The worls is but a little place, after all.)」といいますが、まさにそのことが、実感されます。

 では、また。

 Ted


 注:上記の文は、1月10日付けで M・Y 君に送ったメールに、少し手を加えたものである。

2005年2月2日水曜日

『明日では遅過ぎる』

高校時代の交換日記から。

 [引用時のまえがき]この日、Samも私も、別々にだが、学校推薦のイタリア映画『明日では遅過ぎる』を見ている。青少年の無知・無責任な性交渉をいましめる内容のものであった。二人とも、詳しい感想を書きあぐんでいる。いま、「明日では遅過ぎる」という言葉は、環境問題などに使われているようである。

(Ted)

1952年2月2日(土)雪

 Y・S先生が「必ずグラフ用紙を持っていらっしゃい」といわれたので、解析の試験があるあると皆が騒いで迎えた第2限だったが、黒板にずらりと書かれた問題は練習問題に過ぎなかった。
 クラブ活動は、学校を訪問してアンケートをとることになっていた。くじ引きをしたら、KJ-SN-Ted 組は「北陸」[1] だなんて、とんでもないものを引き当ててしまった。
 玄関の先には細い廊下が奥へ延び、すぐ左には階段があって、学校という感じからやや遠い。出て来た生徒会会長は、いやに落ち着いていた。あとで、KJ君とSN君は「貫録あったな」と繰り返していた。KJ君が質問用紙を示して、「そのぅ…こんな問題について、あのぅ…」といったものだから、その場で答えて貰いこちらで記入するつもりだったのが、「問題を写させて下さい。月曜日にお答えします」ということになった。

 電車を県庁前で乗り換え、映画館へ直行。「明日では遅過ぎる」ということもあるだろう。あるだろう。――こんな感想しかいう必要がないように感じた。KS君、TKN君、KJ君らは、繰り返してもう一回見ていたけれども、HN君と帰って来た。傘の柄が曲がったのを伸ばしたが、裂け目が出来て、ふくらんでしまい、開かない。綾部の乗り換え的混雑だったし、損害も同様になった。(綾部の乗り換えというのは、戦時中大連へ引っ越すとき、台風で北陸本線が不通となり、迂回した綾部駅での混雑のことである。母といまでも思い出して一緒に苦笑するのだが、ぼくは駅の高架橋で倒れそうになり、傘を投げ捨てて来た。)HN君が大学前電停近くの傘屋でペンチを借りて直してくれた。しかし、傘の寿命はもう長くない。30円と2時間半を奪ったものについて、もっと書こうと思ったが、やはりダメだ。

 「言葉さがし」[2] か。われわれが英語で始めたものによく似ている。こんな記録が出来た [3]。敬七さん [4] は「数字の四」とでもいえば、負けないですんだのに。

(Sam)

 来週のホームルーム時について、昨日、けっきょく、私は誰でしょうと二十の扉を合わせた形のものをすることにした。始めに私は誰でしょうの形式で第二ヒントまでやり、そのあとは、解答者が五問まで質問でき、その間に正解しなければならない、というのである。解答者は、カードを作って抽選で選ぶことにしたが、それが好感を呼んだ。この抽選に不正がないことの証拠には、ぼくが四番目に当たってしまった。抽選の方法は、0から3までのカードと0から9までのカードを作り、始めのは10の位、後のは1の位となるのである。そして、出席番号が抽選番号になるということにした。

 KD君から昨日の件の具体的なものを貰った。
 「そもそもは I が中学校へ入った時から始まる。場所は敦賀市。(中略)だいたい敦賀は金沢とその雰囲気が月とスッポンくらい違う感じだ。I のような環境に支配されそうな人間は、近ごろまったく気持ちが沈んでしまった。君もそんな人物とつき合いたかったら返事を乞う。友だちは何人でもより取り見取りだが、とくに二人目の人間を紹介する。」
紹介された二人の人間は、その言葉だけ見ると、なかなかの者らしい。一人は原子カッパといい、もう一人は西雲寺というのだそうだ。

 イタリア語って、なんとやかましいものなんだろう。ガサガサッとしている。このような問題には、やはり各国共通のものがある。われわれの必見映画ということに異議はない。どうも映画の批評や感想を書くのは下手で困る。


 引用時の注

  1. 女子高校。

  2. NHK ラジオ番組「とんち教室」で行われたゲームの一つ。

  3. 「言葉さがし」の記録を別紙に記して日記帳に挿入したようだが、残っていない。

  4. 石黒敬七(1896–1974)、柔道家で文系方面にも活躍。「とんち教室」に企画段階から参画し、そのレギュラーメンバーだった。

二胡演奏によるセレナード

 中国の著名な二胡演奏家・朱昌耀によるセレナード集のCDを友人の会社に注文していたのが、きょう届いた。よく知る曲が、静かでノスタルジックなトーンで奏でられるのを聞き、最近の暗いニュースにふさぎがちな心が癒された。(詳細は英文でこちらに。)

  1. "Zhu Changyao's Art of Erhu No. 4: Serenade" (Jiangsu Culture Audio and Video Publishing House, China; sold by Booxbox).

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

poroko 02/03/2005 00:36
 Booxbox の方とご友人なのですね! そこからCDを出している「タルバガン」のファンなんです~

Ted 02/03/2005 07:55
Yes, I had become friends with Yoro through "Friends of Tuva, Japan," which stopped activity some years ago. Before going to Ebetsu, Yoro lived in Osaka and I met him once.

2005年2月1日火曜日

苦手

高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年2月1日(金)晴れ

 月曜日から、火曜日を除いて、木曜日までは不安のうちに、金曜日から日曜日までは安堵のうちに、毎週を過ごしているようだ。それを支配するのはわずか一つのことに過ぎないのだが、また、そのこととて、たいていは不安の必要もなく過ぎてしまうのだが。[1]
 中学時代は、朝数史音国社、選国数理保、音選職々理体、などと(まだ、これほどよく覚えている)経文のように時間割を覚えていたものだが、いまの時間割はそういう覚え方をしていない。何の次は必ず何。何が終った後は、どの廊下を通ってどこそこへ行って何 [2]。何は何曜日が1限、次の日が2限、その次が3限…、というような奇妙な割り出し方をしている。解生図英国社というように覚えたほうがよいかも知れない。
 図画は静物を仕上げて出した。英語は11行(8問題)しか進まなかったので、
  A boy could decide entry.
  Angry beasts caught dogs excitedly.
という文を作ったが、これ以上は浮かばなかった。

(Sam)

 リーダーの試験は、熟語の訳を目的とした和訳が二題、hearing と fill in the blanks が四題だった。どれも完全に出来たつもり。
 保健体育理論のテストの一題目は、「下にある適語を選んで空所を補い完全な文となせ」というのだった。一行に二、三の空所があり、「( )として( )と( )を愛し、…」といった具合だ。下には十語しかないのに、括弧が十一ある。一語を二度使用してもよいかと質問したら、自由にし給えという。空所に入れるべき適語のないところがあるが、問題の誤りでは、と問えば、そんなことはない、である。腑に落ちなくて困ったが、結局、適語のない空所はそのままにして出した。十分に抗議する理由があるから、そのつもりで――。
 アセンブリーで、来年度の教科過程の暫定表が発表される。この前のときは、A、B、C、D、Eというコース名だったが、今度はG、H、L、P、Sと、何かのイニシャルらしくなっている。前とはたいして変わっていないが、ぼくの目指すコースでは、人文地理だったところが世界史になっている。来年は理科を取らないことにする。漢文もしない。そして、国語乙と国語(二)を一挙に修める。国語(一)を修めなくても、(二)をお修めてよいことにするそうだ。芸能は書道をするつもりだ。
 KD君から速記で連絡の紙片を貰った。何だか楽しみだ。


 引用時の注

  1. 体育実技のある日が嫌いだったのである。

  2. 科目ごとに受ける教室が異なっていたので、休み時間はつねに移動に当てられた。いまでも、次はどの教室へ行くのか迷っている夢を見ることがある。実際にはほとんど迷わなかったのだが。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 02/01/2005 12:29
 Ted さんの頃は、芸術教科といわず、芸能と云ったのですね。私の時は、中学では図画工作だったのが、高校では美術となりました。

Ted 02/01/2005 13:21
 私は高校1年で図画を選択していましたが、それが「芸能」の一つだったとは覚えていませんでした。名称は時代とともに変遷します。数学の中の解析 I、解析 II などの名称もいまはないでしょう。