2016年12月13日火曜日

K 君へ 0 (To K-kun. 0)

[The text of this post is in Japanese only.]


(写真説明は本文参照)。

 前 2 回の記事のフェイスブックへのリンクに対して、M・M さんから「往復書簡形式の小説を読ませていただいてる気分」という感想を貰った。そんなに面白いならばと、図に乗って、前 2 回に紹介した手紙よりも先に書いた手紙も掲載することにした。「K 君へ 1」よりも先に来るべきものという意味で、「K 君へ 0」と題する次第である。



K 君

 秋冷の候となりましたが、いかがお過ごしですか。

 先般電話で申しましたように、妻と私は神戸市立博物館で開催中の『松方幸次郎コレクション展』を見に行くため、今月 24 日(木)、公立共済の宿・ホテル北野プラザ六甲荘に宿泊することにしています。貴君のご都合がつけば、24 日午後あるいは 25 日午前に六甲荘へお越しいただき、歓談出来れば嬉しいと思っています。

 お越しいただけるようでしたら、ご都合のよい日時をお知らせ下さい。

 朝夕が次第に寒くなる折、ご自愛のほど。

 草々

 2016 年 11 月 6 日
 T. T.

 追伸

 同封の写真は、今年の夏私が描きました水彩画で、『自鳴琴の館』と題しています。昨秋、京都嵐山オルゴール博物館を訪れて、その写真を撮ってきたのを参考にして描きました。自鳴琴とは、オルゴールを意味する古い日本語です。

 先日、独学で多くの成果を残したインドの天才数学者・ラマヌジャンとケンブリッジ大の数学教授・ハーディの友情を描いた映画『奇蹟がくれた数式』を見ました。数学が得意だった貴君にも興味のある映画ではないかと思いました(神戸では、来る 12 日から神戸国際松竹で公開されるようです)。私はこの映画の原作であるラマヌジャンの伝記 "The Man Who Knew Infinity"(和訳書題名『無限の天才』)を、英語の原書で 20 年ほど前に読んでいたことでもあり、大いに楽しめました。

本ブログ記事への注

 K 君は近年聴力が衰えてきていたが、今年の 2 月に頭部の帯状疱疹を患ってから、一層聞こえにくくなり、補聴器をつけていても、右耳はほとんど聞こえないという。そこで、手紙や葉書で連絡することが多くなった。それはそれで趣のあるものである。彼はインターネットを使っていないので、私のブログを見ていない。そこで、彼宛の手紙に同封したり、絵葉書としてプリントしたりして送る写真は、このブログサイトで既使用のものである場合が多いことを、読者の方々にはご容赦願いたい。

2016年12月12日月曜日

K 君へ 2 (To K-kun. 2)

[The text of this post is in Japanese only.]


(写真説明は本文参照)。

K 君

 お宅から貰って、ぶら下げて帰ったモミジが大きく生長し、今年は今月に入ってから、全体に紅葉しました。その写真をご覧に入れたく、この手紙を書いています。左上に緑色の葉が何枚か見えるのは、その下の網状のところから這い上がって絡みついたテッセンで、夏の間たくさん花を咲かせました。

 先日お目にかかった折に、私の日課をお訪ねでしたが、話せば長くなるので、お答えしませんでした。「机に向かってばかりか」とのご想像は、概ね当たっています。机といっても、パソコン机に向かっている時間が多いです。一口にパソコンを使っているといっても、内容は多岐にわたり、これも書けば長くなるので、またの機会にでもします。

 他には、読書(これは書斎机に向かってではなく、古い応接三点セット用の椅子 1 脚とテーブルを書斎に持ち込んであり、そこでしています。書斎は建て替えの時に欲張って 10 畳サイズにしました)、ウォーキング、庭仕事、体操、そして、特にお知らせしたいのは、夕食前の約 30 分間ないし 1 時間、歌を歌っていることです。

 最近私が歌好きになり、昔小・中学校で習ったような歌を歌っていることは、先年 M 君たちと会った折でしたか、貴君にちょっと話しましたね。声楽家・ソプラノ歌手・鮫島有美子の歌声が気に入り、彼女の CD『日本のうたベスト』、『ゴンドラの唄〜日本叙情歌集』、『ゆりかごの歌〜童謡・唱歌集』など(他にも何枚か持っています)に合わせて、1 日に 10 曲あるいはそれ以上歌っています。

 奥様は古いことをよくご記憶だそうですから、貴君も童謡などを奥様と一緒に歌われたらよいのではないかと思い、このことをお伝えする次第です(私は妻と一緒にではなく、書斎で一人で歌っていますが)。

 わが家の近くにある西区役所付属の文化会館・セミナー室で、数年前から毎年「うたごえ喫茶」という催しが開催されていて(参加者は約50名、比較的高齢の女性が大多数)、私はそれに毎回欠かさず参加しています。妻は山へ、私は「うたごえ喫茶」へ。なんだか、わが家の趣味は男女逆のようですね。先日お目にかかった日の 3 日前、11 月 22 日にも、今年のその催しに参加して、大いに歌ってきたばかりでした。

 妻と一緒にしていることといえば、金沢での墓参、年に数回の「かんぽの宿」を利用しての国内旅行、映画鑑賞などです。

 師走の忙しい時期です。お返事は年が明けてからでも、気の向いた時にいただければ幸いです。お元気でよいお年をお迎え下さい。

2016年12月6日
T. T.

前回と今回のブログ記事への注

 K 君は中学時代からの親友である。彼は神戸の高校に就職して間もなく、同僚の先生と大恋愛に陥り結ばれた。その奥さんは、彼自身が臆することなくいうように「頭のよい人」だったが、3 年前頃から、認知症になっている。彼のところには、子が 3 人、孫が 11 人できたが、その子・孫たちを世話する必要がもうなくなって、目標を失ったことが発症の一因ではないかと、K 君は話していた。

 先般 K 君と会った日の前日に、妻と私は神戸市立博物館へ『松方コレクション展—松方幸次郎 夢の軌跡—』を見に行き、ホテル北野プラザ六甲荘に宿泊した。翌朝、K 君にそこへ来て貰い、10 時頃から小一時間話し合い、カフェ・フロインドリーブ本店で昼食を共にしてから別れたのである。なお、六甲荘には K 君の最初の教え子の一人が、支配人を定年になった後も顧問として務めており、K 君が前日に私が泊まることなどを電話連絡したため、夕食にサービスがあって、恐縮した。

2016年12月9日金曜日

K 君へ 1 (To K-kun. 1)

[The text of this post is in Japanese only.]


(写真説明は本文参照)

K 君

 早速のお礼状、恐縮です。当方こそ、六甲荘でのサービスを手配していただき、フロインドリーブの美味しいパンを教えていただいた上に、クッキーのお土産もいただき、そして何よりも、楽しい時間をゆっくり共にさせて貰い、誠にありがとうございました。

 貴君は長年生徒たちを相手にして来られただけあって、話される内容が教訓的で、また、誰もが面白く聞くことができます。妻も大いに楽しんで聞いていたようです。私はあまり話しませんでしたが、妻の声の方が、周波数の関係でしょうか、貴君の耳には聞き取りやすいようだったので、遠慮していました。

 帰宅後インターネットで調べて、フロインドリーブがモデルになった NHK の連続テレビ小説『風見鶏』は、1977 年度後半に放映されたものと知りました。私はその頃、連続テレビ小説をあまり見ていませんでした。フロインドリーブは固有名詞ですが、前半の Freund は「友人」、後半の lieb は「愛すべき」の意味で、合わせて、「友愛的」というような意味になりましょうか。私たちが昼食をした場所として、いかにもふさわしい名称ですね。

 同封の写真は、私が七尾にいた国民学校 2 年生の時、国語の教科書(2 年前期用第六課「牛わか丸」、第八課「蛙」——これらの詳細もインターネットで確認しました)の挿絵を見て描いた絵を撮ったものです。この絵は大連・金沢・大阪への引越しや引揚げを通じ、他のいくつかのものと一緒に、不思議にも持ち運んでいました。わら半紙に描いたので、紙は薄茶色に変色しており、半分に折って保存したため、中央に縦の筋が入っています。国民学校の教科書は、奥様のご記憶にも残っているだろうかと思い、ご覧に入れる次第です。

 そろそろ冬の到来です。ご自愛下さい。妻からもくれぐれもよろしくと申しています。

 では、さらなる再会の日を楽しみに。

2016年11月29日
T. T.

2016年9月14日水曜日

新聞記者の取材を受ける (Interviewed by a Newspaper Reporter)

[The text of this post is in Japanese only.]

 さる 8 月 17 日、私のブログ記事「旧友への手紙 2」のコメント欄に、読売新聞の山田記者から書き込みがあった。戦前の小学校での級長について記事を書いているので話を聞きたいという内容である。そのブログ記事には、手紙の相手の旧友や私が小学校(当時は国民学校)で級長をした思い出が書いてあったのである。書き込みには記者のメールアドレスを記してあったので、すぐに、「古いことで、あまり多くの記憶はないが、それでもよろしければ」として、電話番号を知らせるメールを送った。その日の夕方、早速電話での取材があった(山田記者は、たまたま、私が卒業した金沢の小学校の後輩であり、取材以外のことでも話をした)。

 出来上がった記事は 2016 年 9 月 7 日付け読売新聞(教育面)に「学校:モノ・風景——学級委員」(山田睦子記者)として掲載され、記者から掲載紙が 2 部送られて来た。私からの取材は記事の冒頭に、次の通りにまとめられていた。
 「全校朝礼で整列する時、クラスの先頭に立って列の乱れを注意したり、運動会の行進で列の先頭を歩いたりしました」
 大阪府立大学名誉教授の多幡達夫さん(81)は戦時中、石川県七尾市の国民学校に通っていた 1 〜 3 年時、担任の教師に指名され、級長を務めた。「冬は腕章、夏はシャツのポケットにつける布の級長章が支給されました。子どもながらに誇らしい気持ちでした」と思い起こす。
 最後の「誇らしい気持ち」のところは、自ら進んで述べたものではなく、記者の誘導的な質問に対して、「そういう気持ちがないではなかった」という意味の返事をしたつもりだったが…。記事には、冬服に「く」の字型の印のある腕章をつけた級長君のイラストも付いている。私のブログ記事には「腕章」と書いていたが、私が貰ったのは、正確には、腕に巻く腕章でなく、服の腕の部分に縫い付ける記章である。その記章の色や形について、黄土色の生地の上に3本の赤い「へ」の字型(山型)を重ねたもの、というような説明をしたつもりだったが、電話ではうまく伝わらなかったようだ。新聞社などからの電話取材はいままでにも何回か受けたが、電話でのインタビューに、思いや事実を正確に伝えることの難しさを改めて感じた。

 なお、「学級委員」の記事には、私からの取材に続いて、同じく級長についての、広島大学名誉教授の言葉がある。次いで、戦後は級長制がなくなり、子供同士の選挙で選ぶ学級委員などに変わったこと、さらに近年は、特定の子どもがリーダーを務める状況が少なくなっていることが述べられている。


旧帝國陸軍の階級肩章―兵長
By Alex Tora [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons.

 私が冬服用に貰った級長の記章には旧陸軍の階級章のような雰囲気があったことから、『ウィキペディア』の「軍服(大日本帝国陸軍)」のページを調べてみた。すると、「伍長勤務上等兵は上等兵肩章と合わせて臂章を付す」という説明付きで、上掲の記章の図があった。この記章の中に黄土色の山型の筋を 2 本入れて赤い部分を 3 等分すると、まさに、私の貰った級長章になる。読売紙の記事の始めにあるように「運動会の行進で列の先頭を歩いた」時にも、黄土色の「国民服」姿で号令台の上に立つ校長の前を通る時、「頭(かしら)右! 敬礼!」という軍隊式の号令をかけて、クラスの一同に校長への敬礼をさせたのだった。あのような軍国主義教育を決して再現させてはならない。

2016年9月9日金曜日

私はネコである (I Am a Cat)

[The main text of this post is in Japanese only.]


写真から絵画風に加工して貰った「私」。
Image of "me", which was made from a photo into a painting style at a shop.

 私はシャムネコである。名前はミーコという。多幡家の次女が小学生の時、彼女の友だちのところから貰われてきて、一家に可愛がられ、17年の生涯をそこで全うした。現在は遺影となって、多幡家の居間を飾っている。遺影は、多幡夫人の小学校同級生が経営していた店で、写真から絵画風に加工を施して貰ったもので、白い額に納まっている。小柄ながら気の強かった私は、一度多幡夫人の腕に噛み付いた。その跡がいまも私のいた記念として鮮やかに残っている。

 [追記]海外旅行で知り合いフェイスブックで友だち同士になっている M・M さんが、これまでにネコを 64 匹も飼ったということを書いていた。それを読んで、わが家で飼っていたネコの、絵画風にした写真を彼女に見せることを、何年か前に約束していたのを思い出し、この記事を書いた。かつて Physics Today 誌で、ネコが共著者になった論文の話を読んだが、最近、同じ話について書かれた記事 "In 1975, a Cat Co-Authored a Physics Paper" をインターネット上で見つけて、フェイスブックの私のタイムラインにリンクしたところでもあった。

2016年8月28日日曜日

2016 年 6 月 17 日から 8 月 10 日までの記事への M・Y 君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts from June 17 to August 10, 2016)

[The main text of this post is in Japanese only.]


かんぽの宿奈良でのスケッチ、2016 年 8 月 18 日。屋上展望室の窓に記された説明によれば、この絵の左端を出はずれた、はるか前方が薬師寺方面になる。
Sketch made in Kampo Hotel Nara, August 18, 2016. According to the description in the observation room, Yakushiji Temple would be seen far forward outside the left of this picutre.

2016 年 6 月 17 日から 8 月 10 日までの記事への M・Y 君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2016 年 8 月 15 日付けで貰った。長いので、部分的に(特に引用部分)省略・修正して紹介する。(文中、「筆者」とあるのは、感想の対象であるブログ記事の筆者、T・T を意味する。)



1. 幼少年時代の絵

 「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」に続いて始まった「幼少年時代の絵」は「12:最近のスケッチを添えて」によって完結することになりました。今回は第 8~12 回のうち、印象に残った部分についての感想を記します。
 このシリーズの最終回となる第 12 回は、記事を飾るための幼少年時代の絵はもう出尽くしたので、代わりに最近のスケッチを掲載する。[…]幼少年時代の絵と比較して進歩したか、あるいは退歩したかの判断は、読者の方々にお任せする。
と、スケッチの成果を読者に問うています。この労作シリーズをしめくくる、よい構成だと思います。1 枚目のスケッチは、両側を松の木と右横から延びる枝でかこんだ、セザンヌの『サント=ヴィクトワール山』の構図に似ていると感じました。

 筆者は「このシリーズを書いて、私の絵や、絵を描いた経験は、ずいぶんいろいろな思い出につながっていることに、改めて気づいた」と結んでいます。そのことは、以下の箇所にも現れていました。「幼少年時代の絵 10」の『グラブ』について、
この絵のグラブは従兄のお古で、引揚げ時に持ち帰り、中学生時代まで使用したが、その後、従兄に返した。従兄のお古のボールも一緒に持ち帰った。引揚げ後最初に間借りしていた家の長男さんと、ある日曜日に近くの緩やかな坂道のところで、そのボールでキャッチボールをした。その時、彼の悪送球に私の手が届かず、ボールはてんてんと転がって溝へ落ち、さらに川へまで転げて行ってしまった。[…]古い絵は思いがけない記憶をよみがえらせてくれる。
と書いていました。また、この回の二番目のイメージについて、「次回掲載予定の、もっと等級が上の賞状を探していたところ、一緒に出てきた、ほとんど忘れていた賞状である」と記し、第 11 回の記事で、『坂道のある風景』への「イーゼルペイント画こども美術展」(県レベル)の金賞賞状(1950 年、15 歳)と、同じ絵への全国学童水絵作品展入選賞状を紹介しています。

 『坂道のある風景』の絵については、
[…]小林君に頼んで、彼の家の二階にあった勉強部屋の窓からの眺めを描かせて貰うことにした。
 その眺めは、彼のところへよく遊びに行って見慣れていたものだった。小林君の家は坂を下ったところにあり、まだ舗装されていなかったその坂道と、左右の家々の屋根、そして家々の植木などが見えた。手前に隣家の一階の屋根が、視野中の右下にやや大きな場所を占めている。北陸の屋根瓦は釉薬がかけられていて、屋根が光り輝いて見える。しかも私は、それより少し前に近眼を矯正する眼鏡をかけ始めたばかりだったので、それ以前に見ていたのと同じ風景が、より輝いて見えるようになり、感動していた。
と述べています。これを読んだ時、なるほど、筆者の創作『夏空に輝く星』にはこの経験が具体的に書かれていたのだ、と思いました。第 12 回の終わりの部分に、
なお、私が高校 2 年の夏休みに国語の宿題として書いた創作『夏空に輝く星』の、絵を描くことを好む主人公・稔のモデルは、主に高校 1 年の頃の私自身である。稔は、数馬君がモデルである殿村文雄の家の[…]窓からの風景を写生させて貰っている。その風景の細かい描写が作中になされているが、これは「金賞」作品に描いた小林君の家の二階からの眺めがモデルになっており、その写生をする時の稔のモデルは中学 3 年生の時の私である。
と、筆者自身が明かしています。

 「イーゼルペイント画こども美術展」の入賞に関連して、第 11 回から第 12 回の記事にかけて、これに同じく入賞した二人の友人のことを書いています。一人は、筆者がその展覧会の会場で佳作になっている作品に出会った樋爪十四夫氏(七尾の小学校で隣のクラスの級長だったが、近年故人となったとのこと)で、彼に送った葉書への返信を紹介しています。

 その返信の後半部には、4 年生(1945年)から中学 3 年生(1950 年)にかけてのことが書かれていています。まず、「ほんのまねごとのような疎開」について説明しています。空襲の激しい大都市の国民学校の児童は親許をはなれ、学校の先生と共に空爆のない町の旅館などに分宿し、町の学校の教室を間借りし、勉学に励んでいました。食糧難の時代、この集団生活も悲惨だったようです。4 年生(敗戦の年)の夏に小さな市の七尾からも疎開したとは、今まで安全と考えていたところでも戦争の激化の影響があると想定されたのでしょう。7 月初めころから空襲による爆撃(焼夷弾)で建屋が類焼しないように、指定された区画の家屋は何月何日までに出て行くように(建物疎開)と命令されました。また、学童にも疎開することが強制されました。本土決戦、一億総玉砕という掛け声の具体性が分らない国民に先の見通しはなく、命令には従わざるをえませんでした。「まねごとのような疎開」とは、そこまでしなくても自分のところは大丈夫だのにという気持ちがあったことを表しているものと、私は類似の経験から推察します。「僕は、そこで病後をすごし、自然に浸透出来ました」とあるのは、この疎開の雰囲気をよく表している名言だと思いました。敗戦以降の民主化過渡期における自身の活躍(生徒会活動)や絵を描くことへの情熱など、よく書かれた樋爪氏の名文を興味深く拝見しました。

 続いて筆者は、「イーゼルペイント画」で金賞を共に受賞したもう一人の友人、「金沢市内の別の中学の女生徒」との意外な関係を述べています。
彼女は高校が私と同じになり、 1 年 2 学期初めの総合テストの結果発表でも名前を並べ(彼女の方が最高点で、縦書きのリストの私の右に名があった)、卒業式でも席を並べた(彼女は卒業生総代として最前列の右端の席を当てられ、私は県内の化学に優れた生徒に与えられる「高峰賞」を受け取るため、その左にいた)。しかし、私たちは、高校時代はもとより、卒業後も、互いに金賞の絵でも並んでいたことを知らないまま、40 数年を過ごした。私が定年退職したかどうかという頃の同窓会の席上で絵の話が出た折に、彼女、S・T さんが、「絵といえば、私は中学生時代に金賞を貰いました」といったことで、ようやく分かったのである。(S・T さんをモデルにした英文短編小説 "Vicky: A Novella" — "Passage through Spacetime" 所収 — を書いたよりものちのことである。)

 英文小説 "Vicky" は「私」が北海道へ移り住むことになる友人へ宛てた何通ものメールの形で書かれています。最後の部分で「私」は、英文紙から Edward Thomas の詩 "October" 中の言葉「いつの日か私はこの時を幸福な日と思うだろう/そしてメランコリーという名のこの気分は/もはや黒ずんだり不明瞭だったりしていないであろう」を知り、この「いつの日か」に自分がたどり着き、青春時代のメランコリーを幸福な気分で追想していることに気づきます。この小説中の Vicky と「私」の関係の前半のあらましを以下に紹介します。

 高校 1 年の夏休みに「私」は Vicky (Venus と Victory を合わせたものとして、「私」が一女生徒に密かに付けた呼び名)宛てに、お互いに勉強で競い合おうという趣旨の葉書を出しましたが、返事がなく、新学期に顔を合わせても話しかけられさえもしませんでした。それで、「私」は彼女にに対し、尊敬に加えて、いささかか敵意の混じった感情を抱き始めます。そのうちに、彼女への葉書で多用した言葉を、彼女が「私」の後ろで友だちとの会話で使うのをもれ聞き、「私」は彼女に侮辱されたように感じると同時に、彼女が「私」の出した葉書を少しは記憶しているらしいことを嬉しくも思います。卒業式の日、「私」は、彼女が遅くなって一人で帰って行くのに道ですれ違うことになります。彼女は黙って頭を下げ、「私」がそれに対して「さようなら」とひと言いったのを最後に、彼女との青春の日々は終わりとなります。——そして、金賞を共に受賞したと分かった後の S・T さんとの交流のことが、この小説の続編ともいえるような形で、第 12 回の記事の中程に綴られています。

2. 水彩画『自鳴琴の館』
 上掲のイメージは、2016 年度『美交会展』に出品予定の私の水彩画、『自鳴琴の館』である。自鳴琴とは、オルゴールのことをいう古風な日本語である。昨秋訪れて撮影した京都嵐山オルゴール博物館の写真を参考にして描いた。
として、水彩画の近作を紹介しています。このオルゴール博物館については、2015 年 10 月 1 日付け「京都へ」(『水彩画とキルト 親子展』の疲れを癒すために旅に行かれたとの記事)の中に、同博物館の写真を見て、立派な博物館との印象を受けました。この写真を基にして、このような詳細な写実画を描かれたことに感心しました。『水彩画とキルト 親子展』で奥様が「最近の絵は変わってきた」とおっしゃっていました。しかし、ブログのラベル "collected watercoloers" にまとめられた絵を通して見ると、筆者の最近の絵は細密さは従来に変わりありませんが、色調などが変化しているように感じられます。

2016年8月10日水曜日

水彩画『自鳴琴の館』 (My Watercolor "The Orgel Hall")

[The main text of this post is in Japanese only.]


私の水彩画『自鳴琴の館』。
My Watercolor "Orgel Hall."

 上掲のイメージは、2016 年度『美交会展』に出品予定の私の水彩画、『自鳴琴の館』である。自鳴琴とは、オルゴールのことをいう古風な日本語である。昨秋訪れて撮影した京都嵐山オルゴール博物館の写真を参考にして描いた。ホルベイン不透明水彩絵具とホルベイン紙 F6 を使用し、2016 年 7 月 27 日に完成した。

 ほぼ中央に見える三日月型の顔の装飾は、私の撮った写真から、建物内部の窓際にある装飾かとばかり思っていたが、オルゴール博物館のホームページにある写真をいま見て、壁面の装飾であることを知った(訪れた時にも、壁面にこの装飾のあることを見ていたかもしれないが、記憶していなかった)。そういえば、小さいので絵では省略したが、その装飾を照らすランプも屋外の壁面にあることが、私の写真からも分かる。右手の丈の高い木の中ほどの、葉が最も茂っている向こうに、オルゴール博物館の楼状の部分があるようだが、写真ではその形がよく見えないので、これも省略した。

 訪問当日は雨天だったので、直射日光による極端な明暗のない、美しい写真が撮れた。それだけに、絵の中で建物の立体性を表現するには、微妙な陰影に注意する必要があった。建物の円筒形または半円筒形部分の下部が、半球形に突出しているように見えるのは、実際にそうなのか、壁面のツタのはい方でそのように見えるのかが写真でははっきりしないので、絵でもはっきりしないように描いたつもりである。

 道路を隔てただけの比較的近くから写真を撮ったため、建物の六角形の部分の中程よりも左側やその後ろの部分は上部が著しく右に傾斜する形で写っていた。そこで、建物の垂直・水平の線は補正して描いたのだが、合わせて六角屋根の中心部分の位置を少し左寄りに修正すべきだったことに、絵の完成後にようやく気付いた。

2016年6月29日水曜日

幼少年時代の絵 12:最近のスケッチを添えて (Drawings in My Childhood. 12: Together with My Recent Sketches)

[The main text of this post is in Japanese only.]


最近のスケッチ、その 1。奈良県の「かんぽの宿・大和平群」で。 2016 年 5 月 24 日。中央の山は葛城山、その右に二上山の雄岳。
My recent sketch 1. At Kampo Hotel Yamato-Heguri, Nara Prefecture, May 24, 2016. The mountain at the center is Mt. Katsuragi, and the one at its right is Odake of Mt. Nijo.


最近のスケッチ、その 2。岐阜県の「かんぽの宿・恵那」から見た恵那峡。 2016 年 6 月 10 日。
My recent sketch 2. At Kampo Hotel Ena, Gifu Prefecture, June 10, 2016. The view of Ena Gorge.


最近のスケッチ、その 3。同上の場所から少し右寄りの風景。 2016 年 6 月 11 日。
My recent sketch 3. At the same place as above, June 11, 2016. The view of Ena Gorge at the right of the above sketch.

 このシリーズの最終回とする今回は、記事を飾るための幼少年時代の絵はもう出尽くしたので、代わりに最近のスケッチを掲載する。F0 サイズ(185 mm × 145 mm)のスケッチブックにステッドラー・ピグメントライナー(耐水性ペン)と色鉛筆で描いている。幼少年時代の絵と比較して進歩したか、あるいは退歩したかの判断は、読者の方々にお任せする。

 前回、「イーゼルペイント画こども美術展」に一緒に入賞した小学校の旧友・樋爪十四夫君に葉書を送って返信を貰ったことを書いた。その返信は以下の通りである(誤字などもそのまま引用する)。
多幡達夫君え
 達夫君、おはがきありがとうございました。僕は君からのお便りに おどろきとよろこびを感じ 早速 筆をとりました。しかし僕は、文も文字も あまり書けないので残念です。
 思えば、君とお別れしたのは、6 年程前になりましょう。以前、金沢に出た折、君とよく似た人にすれちがったこともありましたが、長い間御ぶさたしています上に、僕は、目がねをかけていますのでお互いにわからなかったのです。僕はおしらせをいただいて、もう一度ゆっくりお目にかかりたくてなりません。
 今朝私もあの絵の賞状を頂きました。昔の友達同志が絵画の道で一しょになった事を考えると見えない深い御縁を思わせられます。
 僕の事を申し上げるのは、失礼ですが 久しぶりにおちついて 6 年間をふり返る事を嬉しく思います。
 僕は国民学校時代、体も弱く、よく病気になっておりました。そして、四年生の夏、ジフテリアにかかって、医大の附属病院の窓より B29 の音や勇姿を眺めたものでした。
 それから、ほんのまねごとのように疎開もしました。そこは小さな山のふもとでありました。僕は、そこで病後をすごし、自然に浸透出来ました。
 終戦後、民主々義のえいきょうを受け、だんだん自由な世界となり、現在の生徒会の赤ん坊も出来 大いにかつやくしました。6 年を終えると地区の関係から、袖江中学校に入学し、生徒会を作り、市内はもちろん県下を舞台に、我々の学校の名をとどろかせたものでした。
 僕は、絵についてはまだまだ未熟ですが書いている、書きに行くたのしみをだれよりも知っているつもりです。度々、展らん会などにも出してみました。僕は心のゆとりをもとめ生活の美をたしなむつもりでいるせいかのんびりと、していてあまり上達しませんが、県の美展に入賞のおぼえもあって そのおかげかはからづも僕の古いお友達の一人、達夫君におはがきをいただけたわけです。
 お休みにでも、2、3 日 思い出のいなか七尾えおいでになりませんか。僕の家の人達もかんげいするでしょう。
 又お手紙を下さい。お元気で。
 末筆ながら、お家の方にもよろしく。
  文も文字も乱れました。失礼をおわびいたします。
  1950. 6. 28
   Your loving old friend
    T. Hizume

 この返信から 1 年足らずの後に、彼は金沢大学附属高校へ入学して、私と同じく金沢に住むことになり、私たちは再会を果たした。高校時代の私の日記を見ると、彼は高校 1 年になったばかりの 4 月 4 日に、わが家を訪ねてくれている。手紙にあるように生徒会活動に精を出したからだろう、彼は社交的になっていたが、中学生時代の私は生徒会活動をむしろ避けるようにしていたせいで非社交的だった。それで、彼によい応対ができなかった。そのせいか、金沢での互いの住まいが徒歩十数分の距離にあり、また、その後、大和デパートへ美術展を見に行った折にひょっこり出会ったりしたにもかかわらず、高校時代には特に親しくならないままで終わった。近年になって、再々会したいと思い始めていたが、それが出来ないまま、彼が亡くなったのは残念である。彼が手紙の中で「達夫君」と、私に下の名で呼びかけているのは、文末の英文の挨拶と同様に、欧米式スタイルをとったものとも思われるが、小学生当時、彼の親戚に生まれた赤ちゃんの名として、「隣のクラスに達夫君という、よく出来る子がいる」といって、「達夫」の名を付けさせた — 母が私に話してくれた。母は樋爪君の母君から聞いたのだろうか — ということとも関係しているかも知れない。

 「イーゼルペイント画こども美術展」の入賞に関連して、もう一人のことを書いておかなければならない。同じ金賞を受賞して私の絵の横にあった絵の作者は、金沢市内の別の中学の女生徒だった。彼女は高校が私と同じになり、 1 年 2 学期初めの総合テストの結果発表でも名前を並べ(彼女の方が最高点で、縦書きのリストの私の右に名があった)、卒業式でも席を並べた(彼女は卒業生総代として最前列の右端の席を当てられ、私は県内の化学に優れた生徒に与えられる「高峰賞」を受け取るため、その左にいた)。しかし、私たちは、高校時代はもとより、卒業後も、互いに金賞の絵でも並んでいたことを知らないまま、40 数年を過ごした。私が定年退職したかどうかという頃の同窓会の席上で絵の話が出た折に、彼女、S・T さんが、「絵といえば、私は中学生時代に金賞を貰いました」といったことで、ようやく分かったのである。(S・T さんをモデルにした英文短編小説 "Vicky: A Novella" — "Passage through Spacetime" 所収 — を書いたよりものちのことである。)

 その同窓会の時、彼女の作品名が『雨前』だったと聞いた。そういえば、私の絵の隣にあった絵は、玄関先か軒下にアジサイの花が咲いている、しめやかな雰囲気のものだったような記憶がある。そして、高校 1 年で選択科目の図画の時間でも彼女と一緒だった私は、校庭の写生が課題だった折に彼女の絵を覗き見て、その上手さに舌を巻いたこともあった。

 上記の同窓会後間もなく、私は大連の嶺前小学校同窓生の美術愛好家たちが東京で開催していた「美嶺展」という展覧会に水彩画を出品し始めた。しかし、同展の中心的な人たちが高齢化したため、私が 4 年目の出品をした第10 回展(2006 年)をもって、美嶺展は幕を閉じることになった。その最終展に、私は S・T さんほか数名の東京在住の高校同期生たちを招いた。私の出品作は嶺前小学校のレンガ造りの校舎を描いたものと、イタリアのブラーノ島の街並みの夕立後の風景を描いたものだった。S・T さんが後者の絵を見ているとき、私は彼女に近づいて、ふと、「これは、ブラーノ島の雨後の風景です。あなたの金賞の絵も『雨後』でしたね」といった。彼女は、「『雨前』でした」と、静かに訂正した。私は「あっ、そうでしたね。ハハハ」と、記憶違いのきまり悪さを笑いに紛らした。「雨前」とは、私にとっては珍しいが、趣のある言葉である。俳句の季語ででもあるのだろうかと調べたが、そうでもないようだ。

 S・T さんはその後絵を描いていないということだが、近年、彼女への暑中見舞いのメールに、私は時折、スケッチや水彩画のイメージを添付する。すると、彼女からの返信に、鑑賞眼の高いことがうかがえる助言や感想が記されて来る。

 話は変わるが、中学 3 年生の時に図画の先生から大きな画用紙を支給された機会のもう一つは、石川新聞社主催の「金沢の都会らしい風景を描く」という題名の展覧会への出品のためだった。小林君の家の二階からの眺めを描いてうまくいった私は、今度も高所からの眺めを描こうと思った。当時は金沢に市電が走っていて、小学校 6 年生の時からの友人、数馬紹朗(つぐお)君(壮年期に早くも故人となった)の家が電車通りに面していた。そこで、私は彼の家の屋根の上で写生をさせて貰うことにした。秋も終わりに近い頃で、その絵のデッサンを図画の先生に見て貰うため、風の強い日に、筒状に巻いた画用紙を手に持って登校する途中、風にあおられて絵が裂けてしまい、今回も新しい画用紙を再度支給して貰うことになった。描いた風景には写真館と書店の洋風の建物があり、いくらか都会的ではあったものの、それらの両方の建物を画面に収めるため、画用紙を横長に使い、電車通りが画面下部に真横に走る形となった構図は、平板的で面白味がなかった。また、色彩も全体に藍色がかった薄暗い調子になり、自分でもあまりよい出来ばえとは思わなかった。校内の出品作品が先生のもとに集められたのを見たとき、私は、それまで名前を知らなかった笠森君というのが、当時の金沢でひときわ都会らしい場所だった香林坊の三叉路を、正面にベージュ色のビルが見える高所からのアングルで、大胆なタッチで描いた縦長の作品に惹き付けられ、これは素晴らしいと思った。案の定、彼の絵が石川新聞社長賞に輝いた(私の作品は佳作だったはずだが、その賞状はいま見当たらない)。

 なお、私が高校 2 年の夏休みに国語の宿題として書いた創作『夏空に輝く星』の、絵を描くことを好む主人公・稔のモデルは、主に高校 1 年の頃の私自身である。稔は、数馬君がモデルである殿村文雄の家の、屋根からでなく、窓からの風景を写生させて貰っている。その風景の細かい描写が作中になされているが、これは「金賞」作品に描いた小林君の家の二階からの眺めがモデルになっており、その写生をする時の稔のモデルは中学 3 年生の時の私である。さらに、この創作の冒頭で、稔は公園で写生をしており、そのモデルは小学校 6 年生の時の私ともいえる。「イーゼルペイント」という絵の具の商品名を、私と同じ職場にしばらくいた、私より十数歳も若い低温物理学の教授が知っていたのに驚いたこともある。しかし、彼との間でなぜ「イーゼルペイント」が話題になったかを思い出せない。私のウェブサイトに掲載した『夏空に輝く星』を彼が読んだのかと思い、この創作中を検索したが、「イーゼルペイント」の語は見当たらず、不思議である。—— このシリーズを書いて、私の絵や、絵を描いた経験は、ずいぶんいろいろな思い出につながっていることに、改めて気づいた。(完)

 後日の注記:上記の低温物理学教授は、その後、彼の出身大学へ移った。そしてある年、私に「英語論文を書く技を磨く」という内容の講義をして欲しいと、彼の大学へ招いてくれた。その折に彼は、私のホームページに掲載されていた "Surely You're Joking, Mr. Tabata!"(高校同窓会のことを記したもの。目下リンク切れ)という英文随筆の末尾が印象深かったと話した。その時私は、そこに Vicky のニックネームで登場する女性と私が中学生時代にイーゼルペイントで描く展覧会で共に金賞を貰ったことを話したのだったかも知れない。

2016年6月23日木曜日

幼少年時代の絵 11 (Drawings in My Childhood. 11)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『果実』(1950 年、15 歳)。
"The fruits" (1950, age 15).


『坂道のある風景』への「イーゼルペイント画こども美術展」(県レベル)の金賞賞状(1950 年、15 歳)。
The gold prize certificate of merit given to "The scenery with the slope" at 'Childrens' Easelpaint Works Exhibition' (a prefecture level exhibition; 'Easelpaint' is an opaque watercolor product of a glossy type) (1950, age 15).


同上の絵への全国学童水絵作品展入選賞状。
Winning certificate of merit of 'National Schoolchildren Watercolor Exhibition' given to the same painting work as above.

 一番上のイメージは、中学 3 年生の時に学校で描いた作品である。リンゴの他にカキやミカンも描かれているので、秋頃の作品だろう。画用紙は 360 mm × 254 mm の厚手のもので、残っている幼少年時代の作品の用紙では最も大きい。半分に折って保存したので、折り目が写っている。他にも何枚かそういう絵があったが、保存用に使った封筒の大きさのせいで折り曲げてしまったのである。

 大きな画用紙といえば、3 年生の 1 学期と 2 学期にコンクール用の絵を描く生徒に選ばれて、もっと大きな用紙を支給された。8 号(455 mm × 380 mm)ぐらいだっただろうか。その初回は、「イーゼルペイント画こども美術展」というコンクールで、入選作品は外国の児童との絵の交換に当てられると聞いた。そこで、日本の少年を描くのがよいかと思い、親友の小林孝雄君(故人)が学校の机に向かって読書している姿のデッサンをして図画の先生に見せに行った。すると、「デッサンが狂っている。人物は難しいから、風景画にしなさい」といわれて、新しい画用紙を貰った。今度も小林君に頼んで、彼の家の二階にあった勉強部屋の窓からの眺めを描かせて貰うことにした。

 その眺めは、彼のところへよく遊びに行って見慣れていたものだった。小林君の家は坂を下ったところにあり、まだ舗装されていなかったその坂道と、左右の家々の屋根、そして家々の植木などが見えた。手前に隣家の一階の屋根が、視野中の右下にやや大きな場所を占めている。北陸の屋根瓦は釉薬がかけられていて、屋根が光り輝いて見える。しかも私は、それより少し前に近眼を矯正する眼鏡をかけ始めたばかりだったので、それ以前に見ていたのと同じ風景が、より輝いて見えるようになり、感動していた。小林君に、「景色が天然色写真のように見える」といったことを覚えている。彼は妙なことをいうと思ったかもしれないが、私はそれまで、風景の中の微細な輝きはカラー写真でしか見たことがなかったのである。

 コンクール用の風景画『坂道のある風景』(正確にはなんという題名を付けたか記憶していない)は、その感動も手伝って、「イーゼルペイント」(当時発売された光沢のある不透明水彩絵の具の商品名)の白を多用した、いかにも明るいものになり、石川県内で二つの金賞作品の一つに選ばれた。上掲の二つ目のイメージがその賞状である。いまのように簡単に写真を撮れる時代でなかったので、絵のイメージが残っていないのは残念である。

 その同じ絵が全国のコンクールに回された。同じ名称のコンクールの全国版とばかり思っていたが、その折の賞状(上掲の三つ目のイメージ)をいま見ると、「朝日新聞社主催の第二回全国学童水絵作品展」とある。この賞状は単なる「入選」のもので、上位にどういう等級があったかを知らない。

 金沢の大和デパートで開催された「イーゼルペイント画こども美術展」を見に行くと、私が 3 年の 1 学期まで在校した七尾の小学校で隣のクラスの級長(現在の学級委員長に相当。ただし、級長は学級担任の先生が選んだ)をしていた樋爪十四夫君の絵が佳作になっているのを見つけた。懐かしく思って、彼が在籍する中学校宛に葉書を送った。間もなく彼から返信が来て、私は学校新聞に載せた金賞受賞の感想文(記憶中にある『坂道のある風景』を鉛筆書きで再生した絵を添えた)に、そのことを紹介したと思う。樋爪君は七尾の財閥といわれた家の坊ちゃんで、大きな屋敷に住んでいた。阪大の物理学科という、私と似た進学をした彼も、すでに故人となったと聞く。追悼の意を込めて、次回、彼の返信を紹介する。(つづく)

2016年6月19日日曜日

幼少年時代の絵 10 (Drawings in My Childhood. 10)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『グラブ』(1950 年、15 歳)。
"The glove" (1950, age 15).


清掃美化運動ポスター 3 等の賞状(1950 年、15 歳)。
The 3rd class certificate of merit for the beautification campaign poster (1950, age 15).

 一番目のイメージは、中学 3 年生の時に家で描いた作品であるが、学校で細かい短冊状の布切れを張り合わせて絵を作るための原画にしたものである。画用紙のサイズは、 285 mm × 221 mm である。布切れでの絵の製作に使用する原画は、自分で描いたものでなくてもよかったので、見栄えのする絵を手本にした生徒の作品に優れたものが多かった。そしてまた、布切れ細工では、平素の鉛筆や絵筆による絵で必ずしも優れた作品を生み出していない生徒たちが、驚くほど立派な作品を仕上げていて、これは普通の絵画とはかなり異なった能力が発揮される手法だと思った。

 この絵のグラブは従兄のお古で、引揚げ時に持ち帰り、中学生時代まで使用したが、その後、従兄に返した。従兄のお古のボールも一緒に持ち帰った。引揚げ後最初に間借りしていた家の長男さん(会社勤務)と、ある日曜日に近くの緩やかな坂道のところで、そのボールでキャッチボールをした。その時、彼の悪送球に私の手が届かず、ボールはてんてんと転がって溝へ落ち、さらに川へまで転げて行ってしまった。私は大切なボールを失って、長男さんの悪送球を大いに責めた。彼は「弁償すればいいんでしょう」といって、近くの店ですぐに新しいボールを買ってきて、同じ坂道のところでポンと投げてくれた。絵の中のボールは、その新しいボールである。古い絵は思いがけない記憶をよみがえらせてくれる。

 この絵の裏面には、まず「漆」という文字があり、ついで、これに関連する十数個の、主に漢字 2 文字の単語が並んでいる。図画か工作の時間に、そういう講義があり、先生が黒板に書かれた文字だけを写し取ったようである。最後に、「美しい/ 美術品/ 工芸品/芸術品」(縦書き。「/」は改行を示す)とある。「芸術品」が「美術品」「工芸品」よりも一文字上がっているのは、先生が芸術品の美しさを一段上と説明されたのだったか。

 二番目のイメージは、次回掲載予定の、もっと等級が上の賞状を探していたところ、一緒に出てきた、ほとんど忘れていた賞状である。しかし、この賞状を見ると、描いたポスターが思い出される。名案がなかなか思い浮かばなくて、学校への提出締め切り近くになってようやく描き上げたと思う。「まず汚すな!」の文字を入れて、紺色の制服姿の男子中学生が学校の廊下(ほとんど茶色づくめ)で体をかがめて、誰かが落として行った紙くずを拾おうとしている姿を描いた。絵の彩りや出来栄えは、われながらあまりよいとは思わなかったが、「まず汚すな!」の言葉がある程度救ってくれたのかもしれない。(つづく)

2016年6月18日土曜日

幼少年時代の絵 9 (Drawings in My Childhood. 9)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『校庭からの眺め』(1949 年、14 歳)。
"The view from the schoolyard" (1949, age 14).


『うちわ』(1949 年、14 歳)。
"The fan" (1949, age 14).

 上掲のイメージは、中学 2 年生の時に学校で描いた作品である。使用した画用紙は、 『校庭からの眺め』が 302 mm × 211 mm のやや厚手、『うちわ』が 256 mm × 354 mm の薄手のもので、中学 1 年生の時までに使ったものよりも、いくらか大きめになっている。戦後、年が経つとともに物資の供給状況がよくなってきたせいかと思われる。

 『校庭からの眺め』は、細かいところを大胆に省略して描いたように思われるかもしれないが、私はこの頃、近視がかなり進んで来ていたので、風景はおおよそこのようにしか見えていなかったのだろう。眼鏡をかけるようになったのは、中学 3 年の 1 学期途中からだった。右端の黒っぽい建物と大きな煙突は金沢大学医学部附属病院(当時はまだ金沢医科大学附属病院だったか)のもので、遠方の山並みは医王山(いおうぜん)である。

 『うちわ』は、工作の時間に実際にうちわを作るための案を描いたのだったかも知れない。(つづく)

2016年6月17日金曜日

幼少年時代の絵 8 (Drawings in My Childhood. 8)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『パレットと絵筆』(1948 年、13 歳)。
"The palette and paintbrushes" (1948, age 13).


『ニチニチソウ』(1948 年、13 歳)。
"The Madagascar periwinkle" (1948, age 13).

 上掲のイメージは、中学校 1 年生の図画の時間に描いた作品である。使用した画用紙は、 『パレットと絵筆』が 180 mm × 264 mm、『ニチニチソウ』が 270 mm × 190 mm の薄手のものである。

 『パレットと絵筆』には、名前の前に「第一学年十組」という所属の他に「5番」とも書いてある。これは、生年月日順に並べられた出席簿上の順番(女子は男子の後に続く)である。私の誕生日は 4 月 17 日で、かなり早い方だが、このクラスでは、金、柳瀬、岡部、数馬の諸君が、この順で私より早い生年月日の持ち主だった。先生が出席を取るたびに読み上げたので、いまなお私より前の名前だけを記憶している。そして、一学期の初めのうちは、座席も左端の一番前から後ろへと、この順に並んでいた。(つづく)

2016年6月14日火曜日

2016 年 4 月 11 日から 6 月 25 日までの記事への M・Y 君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts from April 11 to June 25, 2016)

[The main text of this post is in Japanese only.]


八重咲きの花(正確には総苞片が八重状になっている)をつけたドクダミ。恵那市明智町で、2016 年 6 月 11 日撮影。
Double flowers of fish mint; taken in Akechi, Ena, on June 11, 2016.

2016 年 4 月 11 日から 6 月 25 日までの記事への M・Y 君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2016 年 6 月 10 日付けで貰った。文末の注の部分に、消滅した過去の記事が紹介してあるのには驚いた。以下に引用して紹介する(一部訂正を施した)。(文中、「筆者」とあるのは、感想の対象であるブログ記事の筆者、T・T を意味する。)



 筆者は幼少の頃から絵を描くことが大好きだったことが、今回紹介する記事で明らかにされました。「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」に始まり、「幼少時代の絵」(1~7、なお継続中)と題し、大連への転居、敗戦による引き揚げ後、金沢市の小学校に転入し中学校に進学するなど、生活環境の変化にもかかわらず、大切に保存した数々の絵を取り上げ、幼少期を回顧し、語っています。どの絵も描かれた学年を基準に観ると優れた作品です。『鍾馗(しょうき)』(「幼少時代の絵 2」)には闊達な筆使いと鮮やかさで引き付けられます。

 「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」は、持ち物が最小限に制限される引揚げ時に絵の手本『明治神宮外苑』(石井柏亭・画)を持ち帰ったいきさつ、その絵の中の建物が TV 番組から「聖徳記念絵画館」と分ったこと、そして、大連小学校同期生の画家から石井画伯の名が懐かしい思い出につながっていると聞いたことを、一つの線上に浮かびあがらせた名作です。

 「幼少時代の絵 1」には、七尾市の国民学校 2 年の時、クラス担任だった若い女性の先生が突然亡くなられ、先生の思い出を告別式で朗読したことが述べられています。「幼少時代の絵 4」では、学校で配布されて使用した用紙の裏の印刷を見て、「学齢児童氏名」「保護者」「就学」などの欄があり、「学齢児童氏名」欄の下には、「本籍」などに続いて「渡満年月」という欄があり、大連や旧満州内で使用された独特の様式であったことに思いを馳せています。また、敗戦後大連の家に同居した Y 子さん(故人、文末の注参照)との出会いの絆を大切にし、生涯の友としたことにも触れてあるのが印象に残りました。日を追ってブログに掲載される構成がよく考えられていて、読みやすく、興味深く拝読しています。

 時間をかけて一枚一枚の絵を精査し、当時の社会も加味し、広い視野に立って追憶した物語を読み、筆者の必要なものの保管のよさや記憶力、推察力と文章力に感心しました。喜寿を記念して開催された『水彩画トキルト 親子展』の後に幼少年時代の絵についてまとめられているのは、時宜を得た意義深いことだと思います。

 この一連のブログ記事を読まれる方の便宜のため、筆者の学齢と在籍学校等を下記にまとめてみました。
  • 1942(昭和 17)年、七尾市の国民学校入学。
  • 1943(昭和 18)年、2年生。
  • 1944(昭和 19)年、3年生。4月、父君逝去。9 月初めに祖父君を頼って大連市へ転居。大連嶺前国民学校に転入。
  • 1945(昭和 20)年、4 年生。8 月 15 日敗戦。
  • 1946(昭和 21)年、5 年生。2 学期の途中で仮終業式をして閉校。
  • 1947(昭和 22)年、大連から引き揚げ、金沢市の国民学校に転入。4月、小学校 6 年生。

 一般的にいって、興味あることについてはよく記憶しており、忘れていたことも、写真や関連した文書など見ると記憶が蘇ってくるものです。私は、絵に関しては何年生の授業でどんな絵を描いたかについて、断片的な記憶があるのみです。1 年生の後半に絵日記を書くことが宿題になっていましたが、手元にないので、内容は憶えていません。工作については、実利的な意味もあり、興味を持っていましたので、造ったものや、その状況をよく憶えています。教科書の記憶については、「幼少年時代の絵 3」の爆弾三勇士の説明に引用してあった『小さな資料室』の、「資料 156」[国民学校国語教科書『初等科國語二』(3 年後期用)]を開いて確かめると、多くの表題とその概容についてぼんやりとではありますが、思い出されて、懐かしく拝見しました。

 爆弾三勇士については、3 年生の 3 学期に習いました。上海にいた時、遠足でその戦場の廟行鎮(びょうこうちん)に行き、攻め落としたトーチカ群やその前に張られていたという鉄条網の位置、かなり近距離の日本軍の攻撃開始位置など観察していましたので、この授業はよく記憶しています。経験豊富な女性の先生だけあって、与謝野鉄幹作詞(作詞者と詩作の動機などは後年知りました)「爆弾三勇士の歌」も教えてくれました。このメロディーは陸軍部隊が行軍する時に歌うに適した軍歌だと思ったものでした。ちなみに、憶えていた歌詞は次の通りです。
1. 廟行鎮の敵の陣/我の友隊すでに攻む/折から凍る如月の/二十二日の午前五時
2. 命令下る正面に/開け歩兵の突撃路/待ちかねたりと工兵の/誰か後をとるべきや
[引用者注:この歌は 10 番まであり、全歌詞はこちらこちらでご覧になれます。後者のウェブページには、爆弾三勇士とされた兵士らの行動の真相も記されています。]

 [注]”Ted’s Coffeehouse" 2008 年 6 月 27 日付けの記事「(続)『大連物語』を読んで」には、Y 子さんの母親 I・A さんの著書『大連物語』への感想文(I・A さん宛)の後半が引用されていて、その中に、A 家と筆者の関係が詳しく述べられていました[引用者注:"Ted’s Coffeehouse" 旧サイトは消滅し、一部の記事を現サイトに復元しましたが、この記事はまだ復元出来ていません]。筆者はその前文で、「A 家にわが家の二階に住んで貰うような事態になったのは、戦後、中国人が支配した大連市役所の「住宅調整」命令によるものだったが、当時の私はそのことを知らなかった。満州の奥地や中国の青島あたりから多くの人々が引き揚げに備えて大連に集まってきて、大連の人口が増えたことだけが原因だと思っていたのである。[…]不確かだった私の認識は、福永孝子著『大連・空白の六百日』(新評論、1986年)と『大連物語』によって修正されたのである」と述べています。

2016年6月5日日曜日

幼少年時代の絵 7 (Drawings in My Childhood. 7)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『校内一隅』(1947 年、12 歳)。
"The inside corner of the school" (1947, age 12).


『手』(1947 年、12 歳)。
"The hand" (1947, age 12).


『足』(1947 年、12 歳)。
"The foot" (1947, age 12).

 上掲のイメージは、いずれも小学校 6 年生の図画の時間に描いた作品で、『手』と『足』は 1 枚の画用紙の表と裏に描かれている。使用した画用紙は、『校内一隅』と『手・足』ともに 265 mm × 180 mm の大きさで、薄手のものである。

 『校内一隅』は廊下の端か、図画工作室の一隅か。正面に水道栓が並んでいて、その上に掲示板がある。この絵の裏面には四重丸の評価があり、『手』と『足』には何も評価がないが、どちらも上部の両端に画鋲で止めて飾られていた跡がある。

 『手』と『足』は粘土細工のためのデッサンだったかも知れない。粘土を各自が用意して持参する必要があったが、それほど大量の粘土がどこで得られるかが分からなくて困った記憶がある。おもちゃ屋で手に入る幼児の粘土細工遊び用のものでは、とても足りないと思った。しかし、結局どのようにして準備したのかは覚えていない。

 小学生時代の絵で手元にあるのは以上であるが、私は 1 組の N 君、3 組の T 君らとともに、卒業生が記念に学校に残す絵の作者に選ばれ、冬も近いある日、揃って兼六園へ写生に行った。私が選んだ写生の場所は、あつかましくも、兼六園の観光写真によく使われる徽軫(ことじ)灯篭を視野の右端に置いた霞が池の風景だった。描いていると、私より低学年と思われる他校の女児たち数名が寄ってきて、多勢を頼りに冷やかしの言葉をかけたりした。私は小用をたしに行く必要を感じていたので、彼女たちを絵と画材の見張り役に利用した。

 描き上げて学校へ戻ると、図画の先生がちょっと首をかしげてから絵筆をとって、上からベタベタと修正された。私の着彩は弱々しくて、そのままでは惜しいと思われたのだろう。T 君が修正結果を見て 「見違えるようになったね」といってくれたのは、喜んでよいのかどうか、迷うところであった。その絵は講堂へ向かう廊下の上部に飾られた。あれから 70 年近く経ったいま、同じ風景をもう一度描いてみたいと思っている。(つづく)

2016年5月29日日曜日

幼少年時代の絵 6 (Drawings in My Childhood. 6)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『やかん』(1947 年、12 歳)。
"The kettle" (1947, age 12).


『天徳院の楼門』(1947 年、12 歳)。
"The tower gate of Tentokuin Temple" (1947, age 11).

 『やかん』と 『天徳院の楼門』は、私が小学校 6 年生になって初めて使用した水彩絵の具で、図画の時間に描いたものである。敗戦後の大連にいた 5 年生の間には絵の具を使う機会がなかったが、金沢の小学校にいた級友たちはすでに使った経験があったようで、中には水彩画を習いに通っているという児童もいて、いくらか引け目を感じながら描いた。この 2 枚の中では『天徳院の楼門』を先に描いたように思っていたが、『やかん』の裏面には所属の学級を「五ノ一」(「一」は短く、「二」の上の棒だけを書いてやめたのかもしれない)と書いた上に線を引いて消し、「六ノ二」に直している。これを見ると、『やかん』が 6 年生になって間もない時の作品のようである。

 学校で描いたこの絵に満足できなくて、家で同様なやかんを再度描いたのも残っている。そちらは、いま見ると、明暗の表現にもっと工夫を加えているものの、全体的な力強さでは学校で描いたものに劣るので、掲載は割愛する。他に、絵の具を使う練習のために、家でインクびんと辞書や後ろの家などの写生をした記憶もあるが、それらは残っていない。

 『天徳院の楼門』は、学校から近い寺院へ行って写生した。この絵の着彩も自分では大いに不満だった。しかし、裏面に四重丸を貰っている。朱塗りの楼部分やその屋根は、正面に向かって左寄りから見た姿のようだが、楼をのせている白壁廊は、ほとんど正面から見た姿のように描かれている。これは、キュビスムをてらったのではなく、いささか不思議な、あるいは稚拙な、写生である。

 当時、天徳院の境内への出入りは自由だったが、現在は「珠姫の寺・天徳院」として観光地の一つとなり、山門を入るには拝観料を払わなければならなくなっている。先年金沢を訪れた際に、この写生をした場所を見たいと思いながら、有料と知って、山門から引き返してしまった。この写生画の明瞭な記憶がなく、〈 山門を描いたのだったが、それがいまの山門の形に大きく変容したのか 〉 とも思ったのであり、「有料」だけが引き返した原因ではないが…。石川県のウェブサイト内のこちらのページに、この楼門を右斜めから撮った写真があり、楼門の現存することを知った。(つづく)

2016年5月15日日曜日

幼少年時代の絵 5 (Drawings in My Childhood. 5)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『オオカミ』(1947 年、11 歳)。
"The wolf" (1947, age 12).


『ハクチョウ』(1947 年、11 歳)。
"The swan" (1947, age 11).


『大八車』(1947 年、12 歳)。
"The large hand‐drawn cart" (1947, age 12).

 1 枚目の『オオカミ』と 2 枚目の『ハクチョウ』は、金沢へ引揚げ後に、家で古雑誌の写真を参考にして、一枚のわら半紙(313 mm × 237 mm)に描いたものである。半分に強く折って保存してあったので、別々に写真を撮った。参考にした写真が載っていた古雑誌は、英語学習用のものである。私が終戦後に大連で習いに通った英語を好きになっていたため、母が知人から貰ってきてくれたのだったかと思う。描いた時期は、はっきりしないが、比較的退屈していた時であり、6 年生になる前の春休みと考えられる。

 3 枚目の『大八車』は、金沢の小学校で 6 年生の時、図画の時間に写生したものである。大八車とは、江戸時代から昭和 20 年代にかけて荷物の輸送に使われていた総木製の人力荷車である。車輪が荷台の全長の中ほどにあるとすれば、最初、左側に見える後半部を長すぎる形に描いたのに気付き、修正した跡がある。前方の引き手部分も、傾きが大きくなる方向に修正している。裏面には所属を「六の一」として氏名をしたため、先生の手で四重丸が記されている。5 年生の 3 学期途中に金沢の小学校へ転校して以来、所属したクラスは 2 組だったのだが、1 組と書き間違えたのは、大連で 5 年 1 組だった記憶の影響と思われる。この間違いから、6 年生初期の作品と推定されるが、私の誕生日は 4 月 17 日なので、絵の下の説明に記した通りに、12 歳になっていたかどうかは微妙なところである。(つづく)

2016年5月12日木曜日

幼少年時代の絵 4 (Drawings in My Childhood. 4)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『グラブ』(1946 年、11 歳)。
"Glove" (1946, age 11).


『キツネとツル』(1947 年初め、11 歳)『イソップ物語』の絵本から模写。
"The Fox and the Stork" (early 1947, age 11). Drawn after a picturebook Aesop's Fables.

 1 枚目の『グラブ』は、学校での写生である。クラス全員がいくつかのグループに分かれて、その中の一人が持ってきたグラブを、グループの一同(4 名程度だったか)が囲んで写生したと思う。「第二号様式」として「学齢児童氏名」「保護者」「就学」などの欄が印刷された用紙(ほぼ B5 サイズ)の裏を使っている。「学齢児童氏名」欄の下に、「本籍」などに続いて「渡満年月」という欄があり、大連や旧満州内で使用された独特の様式と分かる。描かれているグラブは級友のものである。私が当時使っていたグラブは、その水彩画が後で出てくる。

 2 枚目の『キツネとツル』は、『イソップ物語』の絵本から模写で、305 mm × 210 mm の画用紙を使っている。この紙は前回掲載の『アゲハチョウ』などに使ったものよりやや大きいが、質は悪く、変色が激しい。この絵は、大連から内地への引揚げ直前に、Y 子さんと記念に交換する目的で描いたものである。戦後、中国人の支配となった大連市政府から、日本人住宅の半数明け渡し命令が出されたため、後ろの家に住んでいた A さん一家にわが家の 2 階へ入って貰った。大連港からの引揚げを目指して、満州各地から移動してきた人たちを受け入れる必要もあり、それほど広くもなかったわが家に、他の 3 家族も同居した。Y 子さんは A 家の末娘で、私と同学年だった。引揚げは私たち一家の方が少し早く、帰国先は同じ石川県だった。

 Y 子さんにあげるはずだった絵が私の手元にあるのは、描き上げた時にあげるのが惜しくなって、前に描いてあった別の絵をあげたからである。別の絵の内容は覚えていないが、前回掲載の『アフリカ象』に似たモノクロの絵だったと記憶している。その後、この交換のことを思い出すと、失礼なことをしたものだと思った。しかし、引揚げ後何度も Y 子さんと会う機会がありながら、そうしている時間中には、思い出すことがなかった。先年彼女が亡くなり、姉君から納骨の催しに招かれた折に、それに続くお別れ会の席上で参加の皆さんにこの話をして、ようやく霊前でのお詫びとしたのだった。

 Y 子さんが私のために描いてくれたのも、漫画の絵本を手本にしたものだった。しかし、それは手本通りではなく、第一の場面では 2 匹の子リスが木の上の一つの小屋に住んでいることが表現され、第二の場面では 2 匹が別々の土瓶を船代わりにして、川か海を旅して行く情景が描かれていた(手本の漫画は 1 匹の子リスが、洪水に出会ったためか、土瓶に乗って流されながら冒険をする話だった)。

 いまこう書いて、ようやく気づいたが、Y 子さんの絵は、しばらく同居した私たちが別々の船で引揚げるようになったことを表したものと見ることが出来る。絵の筆運びはいささか幼稚に思えた彼女が、そのようによく考えた絵を描いたとは思いもよらなかった。私の理解力こそ幼過ぎたというべきか。お別れ会の席上、彼女から貰ったハガキに描かれていた絵を褒めていた人たちもいた。その話と合わせると、彼女の絵はいつも自らの思いを表した独創的なものだったようだ。私が模写した『キツネとツル』の 2 匹の動物は、こともあろうに、仲の悪い間柄である。その意味では、これをあげなくてよかった、と思うのは身勝手な弁解だろうか。(つづく)

2016年5月10日火曜日

幼少年時代の絵 3 (Drawings in My Childhood. 3)

[The main text of this post is in Japanese only.]



『アゲハチョウ』(1946 年、11 歳)1 枚目は背部、2 枚目は腹部からの写生。
"Swallowtail butterfly." Upper, sketch from the back side; and lower, from the front side (1946, age 11).


『アフリカ象』(1946 年、11 歳)。
"African elephant" (1946, age 11).

 1 枚目と 2 枚目の『アゲハチョウ』は、背部と腹部からの写生を合わせて、一枚の 290 mm ×190 mm の画用紙に横並びに描いてあるが、細部を再現するため、ここでは分割して、余白をカットした。同じチョウを両面から描いたにしては形が少し異なるのは、描いているうちに水分の蒸発などで変形したのだろうか。画用紙の裏面には「五年一組」という所属を書いてあるので、終戦の翌年、大連の小学校在学中に描いたものと分かる。学校で描いたものかと思ったが、学校での他の作品にあるような「優」の印あるいは四重丸がない。3 年生から 5 年生の 1 学期まで、私のいたクラスの担任だった松本貞雄先生は、家で描いた絵を持って行くと、教室に張り出して下さった。その松本先生は 2 学期の初め頃だったか、隣の学校へ転任された。そのため、家で描いて提出しそびれたのだろうか。図画として描いたのでなく、夏休み中の理科の自由研究だったのかも知れないが、それにしては、なぜモノクロなのか不思議である。

 松本先生に提出して張り出して貰った記憶のある絵としては、『桃太郎』、『爆弾三勇士』、『赤い屋根と白い壁の家』がある(絵の題名はいずれも、この文を書くにあたって便宜上つけている)。前回記したウェブサイト『小さな資料室』の、「資料156」によって、国民学校国語教科書『初等科國語二』(3 年後期用)の第二十一課に「三勇士」の話のあることが確認出来る。『爆弾三勇士』は、そこを習った 1945 年の初め頃、あるいは習うに先立って、その挿絵を見て描いたものである。当時の軍国主義教育に、私も大いに感化されていたのだ。『赤い屋根と白い壁の家』は、終戦後だったと思うが、私の住んでいた祖父の家の左隣の家を写生したもので、この絵ついての思い出は、大連嶺前小学校同窓会会報に書き、本ブログ中の記事「ぼくの真似をしたな」に転載してある。

 3 枚目の『アフリカ象』は、子供向け雑誌にあった絵の模写で、用紙は『アゲハチョウ』のものと同じである。画面の右端には「アフリカ象こそ密林の王様」と書いてある。裏面には、「八月十二日(月)」と記されていて、年が分からないが、幸い、曜日があるため、『1000 年カレンダー』というウェブサイトで、1946 年であることが確認出来る。裏面にはまた、ライオンらしい動物の姿が薄く下描きしてあり、頭部だけ細かく描きかけて、未完成のままになっている。(つづく)

2016年5月8日日曜日

幼少年時代の絵 2 (Drawings in My Childhood. 2)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『蛙と牛若丸』(1943 年、8 歳)国語教科書の挿絵の模写。
"Frogs and Ushiwakamaru," drawn after pictures in the textbook of national language (1943, age 8).


『鍾馗(しょうき、中国に伝わる魔除けの神)』(1945 年 5 月、10 歳)端午の節句に飾る小型の「のぼり」から模写。
"Zhong Kui (a figure of Chinese mythology)," drawn after a picture on a decoration flag for Children's Festival (May 1945, age 10).

 1 枚目の絵は、小学校 2 年生の時に、わが家へ来た友人と絵を描き合って遊んだ折に、国語教科書の二つの話の挿絵を、あわせて一枚のわら半紙(ほぼ A4 サイズ)に模写したものである。私はこのように、外で遊ぶよりも家の中で遊ぶことの多い子供だった。この時の友人が誰で、その友人が何を描いたかは覚えていない。当時の国語教科書については、『小さな資料室』というウェブサイトに紹介があり、その中の「資料 144」のページに、国民学校国語教科書『よみかた 三』(2 年前期用、文部省、昭和 16 年 3 月 7 日発行・昭和 16 年 3 月 25 日翻刻発行)の内容が掲載されている。その教科書の第六課に「牛わか丸」、第八課に「蛙」がある。「蛙」は『イソップ物語』中の「蛙と牛」の話から取られたものである。

 2 枚目の絵も、ほぼ A4 サイズのわら半紙に描いたもので、黒と灰色の部分は珍しく墨を使い、習字用の筆で描いている。裏面には「昭和二十(1945)年五月六日」の日付けがある。私はその前年の 4 月に父を亡くし、9 月初めに母と大連の祖父母の家へ引っ越した。その際に、兄が亡くなった小学校 3 年生の初めまでの間に描き残した絵など、家にあった思い出の品の多くを処分してしまったが、私自身の絵を少数ながら大連まで持って行ったのは、母が兄の絵をかなり長らく保存していたことに習ったのかも知れない。模写した『鍾馗』の絵の手本は、端午の節句の飾りの中にあった小型の「のぼり」に描かれていたものである。その飾りは、祖父母の家に私たちより早くから同居していた伯母(母と同じく、夫を亡くしていた)が、それより何カ月か前に海軍飛行予科練習生(「予科練」の略称で知られる)として徴集された従兄の安全を祈って、例年通りに飾ったのだった(従兄は無事に終戦を迎え、私たちが引き揚げるより先に親の出身地へ戻っていた)。

 ここまでに紹介した私の子供時代の絵は、模写ばかりである。学校では写生をしたものの、それらの作品は返して貰えなかったのだ。記憶にある小学校低学年での写生は、七尾の小円山公園でのものと、同じく七尾の小学校校庭でのものである。前者はうす紅色に広がる満開の桜の花の様子を、そして後者は青色に塗られた肋木(ろくぼく)を中心付近に描いたものだったことが、いまでも、おぼろげながら思い出される。

 校庭での写生については、次のような思い出もある。肋木の下には、何人かの同級の女児が写生をしていたので、それを簡単に絵に描きこんだ。その中に、やや目立つ深緋の服を着た女子がいた。その頃よくそういう色の上着で登校していたのは、小柄で愛らしい顔ながら勝気なところのある N さんだった。教室に張り出された私の絵を見た男子同級生の一人が、「これは N さんか」と聞いたので、私は「そうらしい」と答えた。すると、その同級生は私の絵に N さんが描いてあると、盛んにいいふらした。その結果、私は N さんから、「あの日、私はこんなところにいなかったわよ。いい加減なことをいわないでちょうだい」とやり込められ、返す言葉もなかった。

 なお、大連へ引っ越して間もなく、私は従兄に連れられて、転入したばかりの小学校のレンガ造りの校舎を俯瞰できる小高い山へ連れて行って貰い、そこで A5 サイズ程度の用紙に、小学校を中心にしたスケッチをした記憶もある。また、七尾の小学校の図画の時間の課題では、見たものを記憶で描く種類のものもあった。青柏祭に曳き廻される日本一大きな山車「でか山」や、和倉への遠足を描いたのがそうした課題であった。私のそれらの絵にも、逸話的な思い出があるが、長くなるので割愛する。(つづく)

2016年5月5日木曜日

幼少年時代の絵 1 (Drawings in My Childhood. 1)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『起き上がり小法師』(1943 年、8 歳)。
"Okiagari-koboshi (self-righting Dharma doll)," (1943, age 8). It was during the 2nd World War, and we could not get drawing paper. This picture was drawn on the back of a used letter sheet.


『加藤清正の虎狩り』(1943 年頃、幼年雑誌中の絵の模写)。
"Katō Kiyomasa hunting a tiger," drawn after a picture in a children's magazine (around 1943).

 先の記事に、大連からの引揚げ時に持ち帰った絵の手本のことを書いた。その続きとして、同時に持ち帰った私の子供の頃の絵と、引揚げ後の小・中学生時代の絵で、いまだに残っているものを紹介したい。掲載する絵の一部はホームページを作成したばかりの頃、英文の簡単な説明を添えて、そこに掲載したが、当時のホームページ・サービスは容量が小さかったので、その後削除してしまった。今回の掲載にあたっては、改めて原画を写真に撮り直すことにした。紙が変色していたり、シミや汚れが生じていたりしているものが多く、再生にはいくらか苦労を要している。また、今回は、それぞれの絵にまつわる若干の思い出も和文で記すことにする。

 初回に掲載する 1 枚目の絵は、石川県七尾市の小学校(当時は国民学校と呼ばれた)で、2 年生の時に描いたものである。実物の「起き上がり小法師」を見ての写生ではなく、図画の手本にあった絵の模写だったかと思う。戦争中の物資不足のため、画用紙代わりに配布された用紙は、枠の線や文字が透けて見える、使用済みの便箋であった。右上に朱書してある私の名前は、クラス担任の大成先生(女性)が、教室の後ろの壁に張り出すために記したものである。私自身の署名は裏面左下に「初二竹」という所属に続いて、したためてある。当時の小学校には初等科と高等科があったので、初等科の 2 年生であることを表すために「初二」とする必要があったようだ。「竹」はクラスの名称で、一学年に松、竹、梅の 3 クラスがあった。いま便箋の面をみると、達者な草書で経済関係の論文の下書きと思われるものが記してあって、「99」とページ数が入れてあり、最終行に「七、結論」とある。約 100 ページに及ぶ論文の末尾近くの一枚だったのだ。便箋右下には「第一生命保険相互会社」の文字が印刷されている。

 大成先生はまだかなり若かったと思われるが、端整な、いかにも教師らしい方で、私たちが 1 年生の時から優しく適切な指導をして下さった。ところが、2 年生の 2 学期途中から休まれたと思う間もなく、亡くなられてしまった。結核だったようである。先生の思い出を記した私の作文に、おそらく隣の松組担任の年配の先生(やはり女性)が手を入れて弔辞の形にして下さったものを、私は告別式で朗読した。戦争中のことでもあり、告別式は簡素なものだったが、私が朗読をした場所は、小高いところにあった建物中の、あまり広くない一室で、前方の窓から自然の多い風景が望まれたような印象がある。しかし、古いことなので、どこまで正確か自信がない。

 2 枚目の絵は、小学校 3 年生で亡くなった兄のお下がりの幼年雑誌にあった「加藤清正の虎狩り」の絵を、わら半紙(ほぼ B4 サイズ)に家で模写したものである。伯父か誰かが訪ねてくるというので、その時に見せようと、がんばって描いたのだが、トラが用紙の中に収まりきれなくなって残念に思ったものだ。あらかじめ全体的な位置決めをすることなく描き始めたので、槍の手元より後ろの部分の向きを何度も修正した跡も見える。描いた時期は分からないが、『起き上がり小法師』と相前後する頃と思う。(つづく)

2016年4月17日日曜日

引揚げ時に持ち帰った物の一つ (One of Things I Brought back with Me on Repatriation)

[The main text of this post is in Japanese only.]


子供向け図画手本書の一ページ、石井柏亭・画「明治神宮外苑」。
A page of a painting and drawing manual for children, showing the watercolor "The Gaien of Meiji Shrine" by Hakutei Ishii.

 敗戦後、大連から引き上げる際には、手に持てる程度の物しか日本へ持ち帰ることが出来なかった。大人たちは布団袋に布団やわずかの台所用品などをつめて、転がしながら運びもしたが。当時小学校5年生だった私自身が運ぶ荷物の中へ選んで入れた品物の中には、父の遺品の小型の国語辞書や英和辞書があった。ほかに、自分が描いた絵や子供向けの図画手本書(題名不詳)を分解して選んだ 6 枚もあった。これらを選んだのは、私が幼少の頃から絵を描くことが好きだったからである。

 図画手本書を分解して一部分だけを持ち帰った理由は、荷物を軽くするためでもあったが、軍国主義的な絵が混じっていると、埠頭での旧ソ連兵の検閲で没収される恐れがあったためでもある。実際、持ち帰った中の一ページには、持ち帰らなかった隣のページの絵の説明として、「 左のページ——りっぱな聯隊旗を捧げて、春の野を行く勇ましい兵隊。あかい聯隊旗と、みどりの草のとりあはせ[注:旧仮名づかいのまま]が、じつに美しいではありませんか」というのがある。

 父の遺品の 2 冊の辞書は 20 年近く前に処分してしまったが、自分の絵と絵の手本はまだ残してある。手本の絵の一枚は、「明治神宮外苑」と題する水彩画で、描いたのは石井柏亭(1882–1958)という画家である(上掲のイメージ。画家の没年からみて、著作権保護期限は切れており、このイメージを掲載した)。左下に「(自習画帖 5 より)」という引用記載があることから、亡き兄のお下がりとして私が持っていた本自体は、幼年向け雑誌の付録程度のものだっただろうと推測している。

 さる 3 月 10 日、芸能人らが俳句、生花、盛り付けなどの優劣を競う毎日テレビのバラエティ番組『プレバト!!』に、スケッチの課題があり、一人の芸能人の描いたのが「聖徳記念絵画館」だった。それをたまたま見ていた私は、この建物こそ、私が持ち帰った絵の手本中に描かれていて、長年どういう建物だろうかと思っていたものに違いないと思い、その手本を取り出してみた。「明治神宮外苑」という題名も石井柏亭という画家名も忘れていたが、その絵の左前方に見えるのは、まさに聖徳記念絵画館としてスケッチされたものと同じである。美術館風の建物だとは思っていたが、その通りで、幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的に貴重な絵画を展示しているとのことである(『ウィキペディア』の「聖徳記念絵画館」による)。私が定年退職後の一つの趣味として水彩画に取り組み始めて、2番目に京都市美術館を描いたのも、この石井柏亭の絵が脳裏にあったことが影響している(下掲のイメージ)。


私が石井柏亭の「明治神宮外苑」を脳裏で参考にしながら描いた「京都市美術館」。
"Kyoto Municipal Museum of Art" I painted with the image of Hakutei Ishii's "The Gaien of Meiji Shrine" in mind.

 石井柏亭については、インターネット上にいくつも解説等があるが、『千葉の県立美術館デジタルミュージアム』サイトの石井柏亭のページでは、略歴のほか、収蔵作品として、油彩画 6 点・水彩画 7 点・木版画 3 点も解説付きで見ることが出来る。

 なお、大連の小学校同期生 S・Y さんは画家なので、石井柏亭を知っているに違いないと思い、私がこういうものを引揚げ時に持ち帰っていたという話をメールで伝えた。すると、彼女は石井柏亭を単に過去の著名な画家の一人として知っているどころでなく、次のような話が返ってきた。東京の跡見女学校[注:明治期に開校した東京で最も古い女子教育校で、女学生たちがハイカラだったことで知られる(『ウィキペディア』の「学校法人跡見学園」同法人のホームページを参考にした)]へ人力車で通っていた彼女の大叔母君が石井画伯のモデルとなり、その絵は婦人雑誌に掲載されたということである。また、その原画である夢二風の乙女像の額が大叔母君の家の座敷に飾られていたが、S・Y さん一家は引揚げ後しばらくその家で世話になったので、石井画伯の名は懐かしい思い出につながるそうである。

2016年4月11日月曜日

2016 年 2 月 13 日から 3 月 21 日までの記事への M・Y 君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts from February 13 to March 21, 2016)

[The main text of this post is in Japanese only.]




わが家の花たち、2016 年 4 月 8 日から 11 日に撮影。
Flowers in my yard; taken from April 8 to 11, 2016.

2016 年 2 月 13 日から 3 月 21 日までの記事への M・Y 君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2016 年 4 月 1 日付けで貰った。最近私の記事数が少ないにもかかわらず、同君は長文の感想を書き送って来たので、そのまま掲載したのではブログサイトとしての体裁がよくない。そこで前回と同様、今回も私が彼の感想の要点を紹介することにする。

1. 早春の花の便り
 「荒山公園のウメが見頃」から「わが標準木が開花」に至る花の記事について、「多くの種類の『わが家の花』たちは鮮明に美しく撮られています」、「レンテン・ローズは下を向いて咲く花ですが、いい角度で美しく撮られています」、「『わが標準木』では、タイムリーに堺市・日部神社のソメイヨシノの開花を観察し、付近の桜の開花を予測された行為に、桜の風景を愛でる心が感じられます」などの感想が述べられている。

2. 紀伊田辺への旅
 妻の傘寿への祝詞に続いて、この記事に今回のスケッチと写真、そして、10 年前に同じ宿に泊まった時のスケッチ 2 枚、合計 4 枚のイメージが添えてあることについて、「10 年前に描いた絵を探した思考過程を説明するためのものでありましょう」との推測が記され、「部屋が異なっていたので、今回と同じ絵は描いていないと思ったが、実は描いていたという、記憶の曖昧さに関して心すべき問題の提起でもありましよう」と結んである。

3. 数列の謎
 最近読了した本に記されていた "Conway sequence (look-and-say sequence)" について私がいろいろ調べたことに対し、「努力を多とします」と評してある。また、Y 君にとっても「このパズルは新鮮なものでした」と書いてある。

4. 113 番目の元素と私のささやかな関係
 「発見新元素の命名権を日本の研究チームが獲得したという、巨大先端科学の新年早々の話題をとらえ、ResearchGate サイトの論文自動収集の間違いが起こした恩恵とトラブルについて、軽妙な筆致で書かれており、興味深く読ませて頂きました」という趣旨の感想を貰った。末尾に、「蛇足とは思いますが、以下に[113 番元素の命名権獲得]記者会見の解説の一部を転記します」とあるが、その解説の全文はこちら(理研のウェブページ)で読めるので、興味のある方はご覧いただきたい。

2016年3月21日月曜日

わが標準木が開花 (Cherry Blossoms Have Begun to Bloom)

[The main text of this post is in Japanese only.]


堺市・日部神社のソメイヨシノ。2016 年 3 月 21 日撮影。
Yoshino cherry blossoms in front of Kusabe Shrine, Sakai; taken on March 21, 2016.

 ・日部神社(堺市西区草部)の前にあるソメイヨシノの古木は、付近のソメイヨシノの木よりも、例年 1 日ほど早く開花するので、「標準木」と呼ぶのはどうかとも思われる。しかし、この木に開花が見られれば、翌日には付近でもきっと開花するという、予告的な「標準木」ではあろう。

2016年3月15日火曜日

花の季節到来:鈴の宮団地と笠池公園で (Flower Season Has Come: In Suzunomiya Housing Complex and Kasaike Park)






 写真は上から、トサミズキ、スノードロップ、サクラソウ、ピンクがかったユキヤナギ(以上、鈴の宮団地で)、ハクモクレン(笠池公園で)、2016 年 3 月 16 日撮影。

Photos were taken in Suzunomiya Housing Complex (except for the last one) and Kasaike Park, Sakai, on March 15, 2016, and show, from top to bottom, winter hazel (Corylopsis spicata), snowdrop, primrose, Thunberg's meadowsweet with pinkish blossoms, and Yulan magnolia.

2016年3月14日月曜日

花の季節到来:鳳公園で (Flower Season Has Come: In Ōtori Park)





 写真は上から、ベニスモモ、ハナモモ、ヒュウガミズキ。2016 年 3 月 12 日、堺市・鳳公園で撮影。

Photos were taken in Ōtori Park, Sakai, on March 12, 2016, and show, from top to bottom, blossoms of purple cherry plum, hana peach and buttercup winter hazel (Corylopsis pauciflora).