2005年3月31日木曜日

まだ咲かない桜の下から / 軽い、軽い、軽やかだ


まだ咲かない桜の下から

 一昨日、桜並木の下で上を向いて、写真うつりのよさそうなツボミを盛んに探していたとき、下から芳香が漂ってきた。目をそちらへ移すと、たくさんの大きなジンチョウゲの木が満開の花をつけていた(写真)。昨日も同じ方面へウォーキングに行ったが、風はやや冷たく、桜はまだ開かない。

 最近、少し歩くと、不思議なことに右肩が痛くなる。帰宅すると痛みはほとんど取れてしまうのだが(長時間コンピュータに向かって、マウスを使い過ぎているせいか、わずかのだるさはある)。歩きながら、時どき右腕を大きく上下したり回転させたりすると、それほど痛くならないでウォーキングを終えられることを見出した。

軽い、軽い、軽やかだ

 高校時代の交換日記から。
 
(Ted)

1952年4月11日(金)晴れ

 KZ 君は、1限に英語乙、2限に5単位の英語、4限には2限の続きと、金曜日に英語が3時間もあるそうだ。解析 II と世界史は彼と同じレッスンだ。MRR 君、Jack、それに Jap(TJ君)とは、昨年に引き続いき、毎日廊下を一緒に移動することになった。TKR 君もこれに加わる。SN 君の顔も、彼の得意な科目の時間に見ることが出来る。
 軽い、軽い、軽やかだ。匂いまでが軽い。そして、なんと華やかな存在が存在する――少なくとも、ぼくにそれを感じさせる――ことだろう。なにほどのものを含有しているかは知らないが。(1)

[Samによる後日の欄外注記](1) このパラグラフは何を書いているのか分からないが、ぼくの好きな書き方だ。

(Sam)

 生徒会役員選挙の告示がなされた。会長、副会長は三十名、執行委員は二十名の推薦者の署名が要るそうだ。
 人相、手相、下駄の減らし方による性格判断、生老病死の四苦の解脱、釈迦の誕生、などなど、一時間の3/5を雄弁に語った S・K 先生はなかなか愉快だ。世界史の時間には、Pithecanthropus Erectus や Sinanthropus Pekinensis などの標本がズラリと並べられた。
 きょうの記録はどちらも思わしくなかったから覚えようという意志はなかったのだが、参考のため記しておこう。
 砲丸投げ、女子用(4 kg) 七・六七米
 五十米疾走        七・九秒
平均より少しだけよいかも知れない。時間が終るとき、テキストに出ている女子の記録とどれだけ差があるか味わっておけといわれた。昨年習得した要領はだいたい守ったつもりだが、種々の欠陥があったことは否定できない。
 リーダーを持っていない生徒のために、タイプで原紙を切るようにと、SG 先生から頼まれた。生まれて二回目の試みだったが、成功裏に済んだので、うれしかった。Ehat、lnown、ciil など、もとはどんな単語か考えられそうもないミス
[1] を幾つかしたが、その可能性は初めに断っておいたから、我慢して貰おう。

 引用時の注

  1. キーの配列を知っていれば、各単語内の1文字につき指が左または右へ1文字分ずれたと考えて、もとの単語を当てられる。ずれっぱなしで単語を打てば、もっと奇妙な綴りになるだろう。一番目と三番目ならば、Ejsy、xiik というように。これらのもとの単語は、それぞれ、What、cool と推定した。二番目のもとの単語は何だろう。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 03/31/2005 10:36
 開花予想では大阪は29日あたりということでしたが、蕾はまだ開きませんか。

Ted 03/31/2005 20:15
 きょう31日は、安土までハイキングに出かけていましたので、堺の桜をチェックできませんでしたが、テレビの情報によれば、岸和田でちらほら咲いたとか。明1日あたり、堺でも開花が見られるでしょう。

2005年3月30日水曜日

サクラが待ちかまえている / 先入観が難物を作る


サクラが待ちかまえている

 昨3月29日午後、堺市の泉北2号線沿い団地前の桜並木では、左の写真のように、つぼみが開花へ向けて、暖かい日が続くのを待ちかまえている様子だった。お隣の和歌山では開花宣言が出た。

先入観が難物を作る

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月10日(木)

 「体重分の胸囲 × 100」を、三十秒ばかり考えてからやっと「よろしい」といわれた。きっと KN 先生は「胸囲割る体重かける百」と比べたあとで、そういわれたのだろう。「もうあと何分だ!」「いま二十五分です!」「あと五分か。これで止めよう!」と、先生はさっさと教務室へ帰られたが、終ってから八分後にやっとサイレンが鳴った。ぼくの時計は時報と二十秒しか違っていないのだから、サイレン・キーパーがルーズだったのに違いない。KN 先生の信用を失することになったら、怒鳴りに行くぞ。
 7番号
[1] は、ぼく一人だけが二年生だ。やはりこの課目は「基礎的概念の理解」より「最新鮮な問題の理解」の方が大切なのらしい。「一年間浪人したら、これで受験しない方がよい」というのであるから。
 新入部者は予期していたより少なかった。しかし、台数が少ないから、そうたくさん集まったところで、厄介者になってしまうだけだ。先年度の顧問の NK 先生が、新設された簿記クラブの顧問に就かれたので、新任の SG 先生に顧問になっていただくことになった。「英語のよく分からない一年生がたくさん入って来ても、そう実益は上がらないだろう。それよりも、上級生で就職するためなどにこの技術の必要な生徒たちを歓迎するのがよい」という見解だった。


(Ted)

 "New Age Living" というリーダーを持って、部屋主さんの次女・TK ちゃんが分からないところを聞きに来たが、第1課の最初の文章から、次のような困難な箇所にぶつかって分からなかった。"This unit will help you to take more interest than before in common, trivial thing." なぁーんだ。いま分かった。"This unit will help you to take more interest than common, trivial thing." の意味なのだろうと勝手に考えて、before や in がなぜあるのか不思議に思ったのだ。何でもないことに対して、間違った先入観が、それをあたかも難物であるかのようにしてしまうことがあるものだ。
 学校では「指導資料」の記入完成と提出、「生徒要覧」の説明の続き、それに、HH の年次計画があっただけだ。帰宅後、夕方までを MRR 君と一緒に過ごした。彼は "High School 1" の不完全だったところをやったりしていて、新しい英語の教科書にはまだ手をつけていなかった。
 万歳! 中学生時代に Sam が「下の図の中に三角形は、いくつありますか。また、公式も導きだしてみて下さい」と紙片に書いてくれた問題に対する、最もまとまった公式が得られた。k が1から n まで変わるときの k の総和と k の2乗の総和の、教科書によって与えられた公式を使うのだ。

 

  1. 時事問題の講義のことであろう。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 03/30/2005 14:32
 Sam さんは冷静で客観的な判断力も大変お持ちなのですね。
 (すみません、哲学用語の「判断力」は、少し日常会話と意味が違うのですが、それはご想像してみてくださいね。たとえば、「行為」という哲学用語に、精神・身体活動による「おこない」がすべて含まれると私の方で書きました。きっと、「判断力」もかなり先見性のある用語なのでしょうね。)
 Sam さんの「今日」とTed さんの「今日」が全く別様であるのに、同じような「学校の日常生活」として映しだされているんですね。二人同時に別様に、ということも多い貴重な交換日記であったかもしれませんね。

Ted 03/30/2005 15:49
 ブログには、2人の同じ日の日記を大体同時に掲載していますが、当時お互いに相手の書いたことを読むことができたのは、1週間か2週間に一度のノート交換日だったので、いまのネット上の日記のように、すばやく反応することはできませんでした。それでも、互いに学び合うことは多かったようです。

Y 03/30/2005 16:41
 質問です。今の Ted さんでしたら、やはり before in になんらかの重きを置いて考えられますよね? そうではないのでしょうか、かなり気分的なもの(ほとんど意味を飛ばしてよい)のでしょうか。私はそうは読まない(添え物より、もうちょっと重き(の意味)があるかと思う)のですが。教えてください。

Ted 03/30/2005 16:58
 いまは、interest と来れば in を期待しますが、当時はまだそれだけの英語力がなかったのです。than before が最後にあれば分かりやすいのですが、more と than の間が開きすぎることを嫌って、教科書にあった形の文にしたのだろうと思います。

Y 03/30/2005 17:24
 interest in common は容易ですが、than before が最後にあればわかりやすい、ですか…。ん…。すみません、こういう、やはり基本用語の方が、英語も難しいと私は確か(独・仏語なので英語は忘れてしまったのですが・・)記憶しているので、悲惨な理解ですみません。

Ted 03/30/2005 20:20
 more は原文では形容詞になっていますが、副詞として使って、than before と一緒に後ろへ持って行き、"This unit will help you to take interest in common thing more than before." (common とともに thing を形容している trivial は構文を見やすくするため省きました)と区切って見ると、分かりやすくなったと思いませんか。日本語でいうときは、「もっと興味をもつ」と、これに近い形でいい、原文直訳のように「もっと多くの興味をもつ」とはいいませんから。

Y 03/30/2005 20:49
 はい、大変解りやすいです。いやー、一応難解英作文・英和訳の独自流が大変得意で大学に入っているので、元々の力はあるのですが、…また読み直します。本当は、一生涯入れるカードのある京大図書館で英字新聞を時々読んだらいいんですけれどね。新聞を読む所ならまだ、いつでも司法試験生に占領されてはいません。福祉の方に行くなら、社会学性のある英字新聞が慣れとしていいんですけどね。

2005年3月29日火曜日

ホームページへのアクセスが10万に


 私が OCN の PageON という無料サービスを利用して作成しているホームページ(第1サイト)[1] が、きょう2005年3月29日、1999年12月2日開設以来のアクセス数・10万に達した。約5年と4ヵ月かかっている。

 けさカウンターをチェックしたときは99997だった。それから、ブラウザでブログへの投稿の下書きに手を加えている途中、キー操作を誤り、ホームページが別ウィンドウに開いた。こんなことは初めてである。そのとき自分でちょうど10万人目の訪問者になってしまったが、お陰でカウンターが10万を表示しているところを記録できた(上のイメージ)。天の計らいというべきか。

 ホームページの名称は、"Institute for Data Evaluation and Analysis & Institute for Scientific And Artistic Cultures (IDEA & ISAAC)"(データ評価解析研究所・科学芸術双文化研究所)と、私設研究所名を二つ並べた堅苦しいもので、英文インデックス・ページの目次では「学術」を先頭に置いている。しかし、和文インデックス・ページでは「エッセイ等」が先頭で、「学術」については、あとに続く「英文ページ」の目次で見て貰うことにしている。学術関係は英文でしか掲載していないからである。学術以外のものとしては、「エッセイ等」の他に、水彩画や、海外旅行の写真とスケッチも掲載しているが、絵や写真につけている短い説明も、労を惜しみ、国際性を重んじて、英文のみである。

 PageON ではカウンターを一つしか使用できないので、同じものを各ページに置いて、インデックス・ページを経由しないアクセスもカウント出来るようにしている。PageON の無料サービスでのディスク容量は 10 Mb しかなく、2年あまりですでに不足を感じ、2002年1月、アメリカの Yahoo!GeoCities に第2サイトを開設した(無料ディスク容量15Mb)。さらに、2003年1月、Yahoo! Japan に第3サイトを開設し、現在に至っている。

 第3サイトの当初の無料ディスク容量は 15 Mb だったが、昨年10月、Yahoo! Japan のホームページ・サービスは Yahoo!GeoCities Japan へ移行され、間もなく 50 Mb への増量があった。これだけあれば、まだしばらく不足はない。ただ、このサイトでは、各ページのトップに Yahoo! の広告が入るのがわずらわしい。第2、第3サイトのアクセス・カウンターは、ページ毎に独自のものを置くことができる。現在、これらのサイトのアクセス総数は、それぞれ8千と5千を越えたばかりである。

 ゲストブックやサイト・サーチに現れている閲覧者の傾向についても書きたいが、長くなるので、近日中に別記事として記すことにしたい。


  1. 英文インデックス・ページ:http://www3.ocn.ne.jp/~tttabata/、和文インデックス・ページ:http://www3.ocn.ne.jp/~tttabata/indexj.htm.

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 03/29/2005 10:50
 記念すべき10万ヒットをご自分でというのもよろしいではないですか。5年余りといえども、来訪者の多い HP なのですねー。

Ted 03/29/2005 16:20
 10万ヒットに達した第1サイトは、ページ毎のアクセス・カウンターがないので、どこをよく見て貰っているのかはっきりしません。「EMID(電子と物質の相互作用データベース)」を主とした学術ページへの諸外国からのアクセスが多いのではないかと推定しています。横軸に年月をとり、縦軸にアクセス数をとったグラフを作っていますので、それを分析すれば、この推定が合っているかどうか確認できるかも知れません。

Y 03/30/2005 16:54
 10万アクセスをご自分での間違いでだけれどご訪問。ここの部分のさりげない素敵なご記述は、やはり高校時代の Ted さん日記、そのままですね、今でも。おめでとうございます。素晴らしい社会活動をなさっていますね。
 "Institute for Data Evaluation and Analysis & Institute for Scientific And Artistic Cultures" とは、とても簡略な英語を使っていらっしゃって、素敵です。訳語が、「科学芸術双文化」の「双」が、「あいだ性(双方の関係性…に関する研究 )の意味が出るとよいけれども、「双文化間研究所」とできるといいのですが、いかがなのでしょうか。最後が Cultures なので、やはり科学も確かに、ひとつの「文化」。だと、いうことですよね?

Ted 03/30/2005 18:00
 「科学芸術双文化間研究所」も、ちょっと飛びつきにくい名称です。C. P. Snow の "The Two Cultures" という著書があります。自然科学者とそれ以外の分野の人たちとの間のカルチュア・ギャップを問題にした1959年の講演をまとめたものです。そこでは、科学を一つの文化としてとらえています。

Y 03/30/2005 18:08
 そうなんです。それに、そのままの訳語としても「双文化間研究所」はちょっと無理ですね。やはり今の名称がわかりやすいですね。ですが、Ted さんがブログで書いてくださっている歴代科学者の方々の人生における芸術的な方面の可能性など、「双文化間」(関連性)についてのご研究が今後多くなられるのかな、と思って、そう提案してみたのですね。

Ted 03/30/2005 19:58
 ご賢察の通り、双文化研究所の主な研究テーマは、科学と芸術の間の関連性、相互作用といったものです。

Y 03/30/2005 23:12
 今、主人に[私の英語の音読を]聞いてもらいましたら、ひどいドイツ人の、とても聴き取れない、速すぎる英語だそうです。本当の私の普通の速さの、まだ30%ぐらいでしか読めていません…。それはそうです、7年間、英語を読んだ(発音した)ことがなかったのですから。私の分野にまったく英語は出てきませんでした…。
 私はドイツ語は一般教養の授業のため、通学の電車の中で読んだ一番薄い文法の本など、最低限の(授業料は免除を通してきたので、単位を取らねばならない)ドイツ語しか勉強していません。しかし、英語も大変深いのですね。でも、Ted さん、国際会議でドイツ人が第二外国語として英語を話される時、やはりドイツ語なまり…(私はどこの国の人なのでしょう?)の英語になりやすいのではないのでしょうか? 英語について適宜、お教えくだい。

Ted 03/31/2005 08:24
 国際学会では、ドイツ人の英語にはドイツ語なまり、イタリア人の英語にはイタリア語なまりなど、しばしば感じられました。それでも、時代とともにそれらの国の人たちの英語もよくなって来ているように思われます。独習には、かつてはラジオやレコードしかなかったのが、カセットテープ、ビデオテープ、CD、DVDなど、どんどん便利なものが出て来ましたし、国を越えての交流もどんどん盛んになっていますから。

「これで掃除したのか」

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月9日(水)雨

 商業(二)では、簿記を一週一時間しかしないと聞かされて大失望! 甲の時間に残りの教科書を卓球室の出張販売所で買った。幾何や世界史の分厚い本に驚く。国語の二冊も昨年のが問題にならないくらい量が多い。きっと内容も豊かであろう。体操は今年度もまた KN 先生になった。


(Ted)

 任期が1年間のものと1週間足らずのものの選挙と、「指導資料」への記入と、「生徒要覧」の配付と、その中の「生徒指導要領」のスピーカーを通しての IT 先生の説明があった。
 掃除を済ませて箒2本と塵取りを更衣室の H・N 先生(女子の体育担当)の所へ返しに行くと、1本の箒が少しも汚れていなくて新しいままだったのを見て、これで掃除したのか、と先生は鼻の先へ箒を突き出した。「人数が少なかったから、余って使わなかった」[1] と答えても、まだ掃除ぶりを疑っているようで、しゃくにさわったから、「それに、あの辺はきれいだったんだ」と自分の答をどっちつかずのものにして、ゆうゆうと出て来てやった。
 「指導資料」には、昨年と同じことをたくさん書き込まなければならない。「交友」欄の「交友関係をむすんでいる重な(この通り誤字になっている)動機」には、左右二つの欄がある。左欄には、いわば地域的、行動的関係からの動機、右欄には、交友を保っている内的な絆の構成要素(この定義は、いま相当考えて書いたものだ)を記すことになっている。Sam との交友については、前者に「中学校で学習上から」、後者には最近出ている本の題名を使って、「ものの見方の共鳴」としておいた。
 「自己判定」欄は、知能、性格、言動、身体と別れていて、例えば、その中の性格については、社会性、幸福、成功、判断、安定、感情、諸安定度、自信、親切、尊敬、協調、指導力、責任感、寛容、独立、正直、余暇利用、創造、とあり、それらの上に、優れた事項には◯、劣ると考えられるものには△をつけるのだ。幸福とか成功とは、どんなのを優れているというのだろう。安定と諸安定度をどうして別にしたのだろう。

 引用時の注

  1. 私はこの通りのことば遣いで答えたのではなく、ここには表現を簡略化して、内容を記したのだろう。しかし、とがめられたことに立腹して、このようなことば遣いをしたと考えられなくもない。

2005年3月28日月曜日

晴れの日がいい (I like a fine day)

 ここに掲載するのは、Nadja さんのブログの

   レフト・アローン
本当は雨がいいのだけれど
…(中略)…
ビリーホリディがぼろぼろになって死んだ年まであとX年。

に刺激されてそのコメント欄で詠んだ即興詩に、少し手を加えたものである。

  晴れの日がいい (I like a fine day)

 晴れの日がいい      I like a fine day.
 君と           Then, I can
 散歩しながら       talk with you
 会話ができる       during my walk,
 ぼくの          though it's
 頭の中だけで       only in my imagination.

 どれだけ多くを      I've told
 ぼくは          so much
 君に語っただろう     to you
 青空と白い雲たちの間に  having your image
 君の           over the sky,
 イメージを浮かべながら  among white clouds.

 始めよう         Let's begin
 君とぼくの        our real
 実際の          and shy
 つつましい会話を     conversation
 休暇のたびに       of every vacation
 マイナスX年後から    in minus x years!

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

未月 03/28/2005 16:41
 晴れの日がいい
 白い T シャツはすぐに乾くし
 車だってばしゃばしゃ洗える
 自転車で風もきれるし
 それから
 手をつないで君と歩けるから

Ted 03/28/2005 20:28
 そういえば、未月さんの詩のブログは「はれの、おと」でしたね。「晴れの日がいい」という気持ちは同じでしたか。
 雨の日にもいいところはあるのに、「雨がいい」ということばのあるブログのコメントに、「晴れの日がいい」と詠んだ私は、あまのじゃくですか。

Ted 03/28/2005 20:47
 追記:しかし、「白いTシャツはすぐに乾くし/車だってばしゃばしゃ洗える」は、現実的ですね。未月さんはご自分のことを、ロマンティストじゃない、と書いていましたっけ。

Nadja 03/29/2005 22:33
 晴れの日、好きですよ(笑)
 でも、あまりにもお天気で
 青々した空が
 なんだか逆に悲しくなります。
 (悲しいという言い方は変なのですが、適切な言葉が見つからないので)
 でも、こちらの空はなんか薄いです。
 ふふふ。Ted さん。女性はみんな少なくとも男性よりはリアリストです。

Ted 03/30/2005 09:24
 Nadjaさん、「女性はみんな少なくとも男性よりはリアリスト」の原因は、男性は女性の存在によってロマンティストにさせられるが、その逆は真ではない、ということでしょう。Ha-ha-ha.

春休みの遊園地 / Sam の始業式


春休みの遊園地

 春休みだが、遊園地で遊ぶ子らの姿を見ることは少ない。写真は2005年3月26日、堺市鳳中町で。

Sam の始業式

 高校時代の交換日記から。こちらは、昨日掲載の分から、一足先に一学期の初め(高校2年)となっている。
 
(Sam)

1952年4月8日(火)雨

 第一体育館で新ホームを探す。今年度はコース別にホームが形成されている。Funny とはコースが違うから、もちろんホームも違う。彼は全員男ばかりのホームだ。女子ばかりのや、男子が八名で残りの全部が女子というホームもある。ぼくのところは総数54名で、最大世帯である。Funny のホームに比べれば、20名ほども多い。男子と女子の割合は3:2ぐらい。こんなに女子が多いだろうとは思わなかった。
 まず、新ホームに入って出席をとり、それから大掃除にかかる。二年生は臨時に一年生のホームを掃除しなければならなかった。初めのうちは仲よくやっていたのだが、掃除用具よりも人数がはるかに多かったので、男子の方は自然、失業の形になってしまった。そこで、徒党を組んでサボに出かけたのだが、あとで説教の一場面と相成った。
 予定から十分ばかり後れて始業式が挙行された。「学究的気風」という、耳にたこのできるほど聞かされた校長の決まり文句の上に、「今年度こそは」という副詞句がのっかっていた。指導課からの話は、校長の話よりも静かに真面目に(やかましく真面目に、とはいうまい)聞いた。「『すべからず』という復古調の命令文でも、『しましょう』という筋の入っていないのでも困る。『自らこうしてやるんだ』という、自己の責任のもとにすべての行動をしなければならない」という論旨だった。
 そのあと再びホームに入り、時間表の作成にあたった。昨年と同様の方法で作ればよかった。続いてホーム主任の MT 先生から話があり、帰ったのが一時十分。2745、これが今度のぼくの出席番号である。最初の数字は学年、次は組、この二つが合わされて27ホームと呼ぶ。45はホームの出席簿の番号。

2005年3月27日日曜日

ハクモクレン咲く / 新担任いわく「愉快にやればよい」


ハクモクレン咲く

 近くに笠池公園というのがある。公園といっても、以前は笠池という溜め池だったものが埋め立てられ、遊園地と球技のできるような小広場やベンチがあり、周囲にサクラ、ツツジなどが植えられている小さなものである。その南側に2本のハクモクレンの木があり、花をつけていた。写真はその1本。2005年3月26日写す。

新担任いわく「愉快にやればよい」

 高校時代の交換日記から。
 
(Ted)

1952年4月8日(火)雨

 新ホームルームの編成がプリントされ体育館に貼ってあった。ぼくは MY 先生の24ホームだ。UE 君や TKZ 君とは、また一緒だ。それに、Jack、Neg とも一緒になった。Jap(TJ 君)もいた。野球部の UW、SK 両君もいる。あとは知らない名前が多い。われわれのノートによく登場する他の人物の所属は、SN 君が21、KS 君が23、SNN 君が25、KZ 君が26、Octo(KB 君)が27ホームと、ばらばらである。にわかに親密になった様子で並んで帰って行った SNN 君と MRR 君は、同じホームになったのだろう。
 細身で眼鏡をかけた顔の感じも優しく、世界史担当の MY 先生は、つかつかとホームへ入って来られ、「こんにちは」が第一声である。「~しまいか」[1] 調で、ただ愉快にやればよいといわれた。掃除のあと、始業式が行われた。校長先生の話は、大学への進学率など、具体的なものばかりだった。

 午後、Octo と彼の家で、学生用英語辞書を使って野球ゲームをする。阪急14-2巨人(4回コールドゲーム)という一方的な試合になった。先日、MRR 君の家で彼の辞書を使って行った試合は、両チームともバッタバッタと三振するばかりで、6回までで、阪急0-0阪神の引き分け、安打も阪急2、阪神1という貧打戦だった [2]。中学生時代に作った「精密な野球ゲーム」[3] とは異なって、確率と統計から割り出してルールを規定できないので、面白いゲームができるように工夫することが難しい――と、10日ばかり前とはまったく反対のことを考えながら帰って来る。
 紫中時代に OK 君が休み時間に読んでいるのを Sam とぼくがのぞき込んだことのある本、そして昨年 Sam が学校の図書館で読み、「とにかく、その事件も内容も思想もすぐれていて面白いことはうなずけた」と書いた本 [4]、それを読み始めている。

 引用時の注

  1. 「~しましょう」の金沢弁。

  2. 各自が好きなプロ野球チームを名乗ってゲームをした。阪急が私である。

  3. まず、プロ野球の実況放送を何試合もスコアブックに記入しながら聞いて、ストライク、ボール、見送り、ファウル、ゴロ、フライ、単打、2塁打、3塁打、ホームラン、失策、盗塁成功等々の割合を統計的に調べた。そして、それらの割合が1~3個のサイコロの目で再現されるよう、投手と打者の対決、打球の行方、守備、盗塁等々に対応する表を作り、それに基づいて試合を進めるようにしたゲームである。

  4. トルストイ『アンナ・カレーニナ』。

2005年3月26日土曜日

映画二本立て四十円

 高校時代の交換日記から。

 Sam の観た映画 "Notorious" と "Blossoms in the Dust" の邦題をご存知の方は教えて下さい。(追記:コメント欄で早速教えていただきました。)

(Sam)

1952年4月7日(月)晴

 午後、Funnyと映画鑑賞に行く。二本立て四十円はベラボウに安いとみえて、館内には先日行われた「三つの歌くらべ」以上の入場者がいた。
 最初に観たのは "Notorious"
[1] で、これは初めの二、三分を欠かしてしまった。戦慄と興奮の中にキャストの能力の最大限の発揮が感じ取られ、ぼくの映画鑑賞の間口をさらに一つ広げる働きをする。かつて望んだことのない視野の映画だった。息づまるスリル、激しい情熱、鋭敏な機智と推理力、…(これらは予告編の中から拾いあげたことばではない)。
 ニュースは先週見たのと変わっていなかった。"Blossoms in the Dust"
[2] は、エドナとサムが結婚するあたりまでは喜劇的であったが、サムが倒れ、エドナが女手一つで託児所を博愛的精神で経営するあたりから、ひじょうに感激的で同情を誘うものになっていった。"Notorious" にはない、どこか心にほのぼのと温まるものが通う映画である。内容・梗概について知りたいなら、ぼくがここでまとまりなく書くより、24 [3] を見ていただきたい。
 エドナに先約者との婚約を破棄させ、彼女と結婚したしゃらくなサムは、ぼくと同名なので、とくに気を配って見た。いくつかの共通的な性格を感じ、何かしら暗示を受けるものがあった。(どこかで一度書いたような文句になってしまった。)


 引用時の注

  1. ヒッチコック監督、ケーリー・グラント、イングリッド・バーグマン出演、1946年製作の映画。(後日の追記:邦題『汚名』。)

  2. マービン・ル・ロイ監督、グリア・ガースン主演で、エドガ・グラドニーの実話を描いた1941年製作の映画。(後日の追記:邦題『塵に咲く花』。)

  3. 映画館のパンフレット番号か。わざわざ赤鉛筆で書いてあった。


  [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 03/26/2005 12:13 "Notorius" の邦題は『汚名』、"Blossoms in the Dust" は『塵に咲く花』のようです。どちらの作品も私は見たことはありませんが、レビューを読むと見てみたくなりますね。ただ、『汚名』は video なり DVD がありそうですが、『塵に咲く花』はありそうにもないですが。

Ted 03/26/2005 15:48  邦文題名を教えていただき、ありがとうございました。  『汚名』ならば、10年ほど前でしょうか、テレビから録画して、見て消去ずみという記録(年月日の記載はなし)が、私の映画用手帳に載っていました。ヒッチコック監督のものは、かなり見ていますので、"Notorious" といえば、見たような気がしながら、思い出せませんでした。

2005年3月25日金曜日

Sam の義理の弟

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年4月6日()晴

 大切な時間だっただろうに、駄弁を許してくれ給え。あとで考えてみると、まだまだ説明しなければならないところがあったが、それは実際の練習の際にした方がよさそうだ。ともかく、この点でも速やかに一人前になって貰いたいものだ。

 新しい兄弟ができた。ぼくからいえば、彼は弟である。今度、県立工業の色染科に入った。(どの辺りまで紹介しておけばよいものかな。)それで、いままで無量寺村の父の兄のところにいたのだが、父のところから通学することになったのだという。彼の父の妻がぼくの母である、と、こんな関係である。彼の名は A... といったが、どんな字を書くのか知らない。きょうは兼六園球場の野球を見物に行って来たのだそうだ。中学校にいた頃は、野球部の選手だったそうだ。いかにも田舎で生活していたらしい素朴さと不慣れな物腰が感じられる。教科書の程度はだいたい同じで、解析 I などはまったく同じものを使うらしい。だが、英語だけはとても易しい。教科書は一冊だけで、中学校一年の英語だけしておけばやすやすと出来るものである。


(Ted)

1952年4月7日(月)晴れのち曇り

 朝、手に汗をにぎりながら、SNN 君を訪ねた。そして、頼まなかった [1]。帰ってからしばらく、いろいろの思考をし、結論はよいところへ決着した。


  1. 頼もうかと思ったのは、一緒に Vicky の家を訪ねよう、ということだっただろう。

"A tale of two loves (二つの恋の物語)" を読む

 タイトルから恋愛小説の紹介と思ってこの記事を読みに来られた方には気の毒だが、これは Nature 誌最近号に掲載されたアメリカの物理学者兼小説家・アラン・ライトマンによる科学と芸術の相違と相互作用についての随筆 [1] の紹介である。Nature 誌のその号には、科学のための芸術特集 [2] が組まれており、ライトマンの文はこの特集の9編の記事の一つである。お気づきの方も多いと思うが、この随筆の題名は、チャールズ・ディケンズの小説『二都物語』をもじったものである。

 私は定年退職後もそれまでの仕事の一部を続けるため、1999年4月、自分のウェブサイトを「データ評価解析研究所」(英語名略称 IDEA) という名前でスタートした。しかし、この研究所としての仕事は、次第に収束する方向に進んでいる。また、同じサイトに随筆や写真や絵など、趣味的なものも掲載しており、これらの分量の方が IDEA 関係のものより多くなりそうな状況になってきた。そこで、サイトの体裁をつくろうことと、今後興味をもって行きたいと思う「研究」の方向を示すことを目的として、昨年6月「科学芸術双文化研究所」(英語名略称 ISAAC) という看板を併置した。

 ISAAC は「C. P. スノウが分極した二つの文化といった、科学的文化と芸術的文化の相互作用を研究する」ものであると、私はサイトにうたっている。したがって、Nature 誌の上記特集記事は、どれも私にとって必読のものであるが、3番目にあるライトマンのものが、題名から見て、もっとも基礎的な内容であり、また取っつきやすいように思われ、まずこれを読んだのである。

 ライトマンの随筆の初めの1/3ほどには、彼自身の経験が述べられている。子どもの頃、詩を作ることが好きだったと同時に、科学の実験をすることや、数学の問題を解くことも好きだったという。そのうちに彼は、数学の論理性を愛し、人間世界の曖昧さに困惑するようになり、物理学の道へ進んだようである。さらにそののち、小説を書くようになり、人間心理の曖昧さや複雑さが、小説その他の芸術に力を与えているものであることを悟った、と述べている。

 次に、ライトマンは科学と芸術の相違を簡単明瞭に述べる。科学は答のある質問を対象として、あくまでも答を追求するのに対し、芸術は答を求めるよりも、リルケが『若き詩人への手紙』でいったように、質問そのものを愛するものである。芸術における質問とは、例えば「愛とは何か」のように、しばしば、はっきりした答のないものである、と。

 次いで、科学と芸術が相互に与え得るものは何かが論じられる。科学は、コペルニクス、ダーウィン、アインシュタイン、ワトソンとクリックらの仕事に見られるように、世界観を変えるような新しいアイディアの源泉であり、芸術はアイディアによって育つ。他方、芸術は別種のアイディアや、イメージ、陰喩、ことばなどを科学に与える。自然の真実は、必ずしも実験で到達できるというものでなく、時には心から生じるものであるというデイヴィッド・ヒュームの考えは、アインシュタインもある程度支持したところである [3]。科学の理論に使用されるいろいろな模型の記述には、数式を除いては、芸術の対象となる感覚的経験から生じるイメージや陰喩やことばを使う以外に手段がない。――要するに、科学と芸術は、異なる思考方法と存在様式を認め合い、合成し合うことによって、互いに重要な贈り物を与え合うことが出来るのである。

 このあと、具体的な例として、科学を扱った演劇や映画の成功、著者自身の小説 "Einstein's Dreams" をどのように書いたかという話、そして、アインシュタインの成功には彼の非合理的な個人生活や情熱も役立っていたに違いないという話が続き、合理性と非合理性を兼ね備え、答のある質問と、ない質問の両方を追求する人間という存在はすばらしいという意味のパラグラフで結んでいる。

 この随筆は、科学と芸術の相互作用についての入門的概論として、よくまとまっている。この一文を初め、Nature 誌の今回の特集の各記事が、芸術・科学両分野の一層の交流に役立ち、ひいては、レオナルド・ダ・ヴィンチのような、両分野にまたがる知の巨人の再来につながることを期待したい。


  1. Alan Lightman, Nature Vol. 434, p. 299 (2005).

  2. "Artists on science: scientists on art" Nature Vol. 434, p. 293 (2005).

  3. この例には芸術への直接の言及はないが、この前後の原文には芸術と人文科学が併置されていることから、哲学者ヒュームの考えを芸術側のものとしていることが分かる。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 03/25/2005 11:05
 科学的思考とか芸術的思考とかが特徴的にあるのではなく、論理的思考と直感的思考の対照的な思考形式があり、科学においても芸術においても、両者の思考形式を必要としているし、また、両者を駆使しなければ真実の発見も、虚構としてのよい作品も生まれない、ということなのでしょうね。

Ted 03/25/2005 17:33
 ずばり、そういうことですね。科学においては論理的思考に、芸術においては直感的思考に、もっぱら頼っていると考えられがちですが、どちらの分野においても、両方の思考形式が有用なようです。
 以前、A・I・ミラー著『アインシュタイン、ピカソ』という本を読みましたが、ピカソが前向きの顔と横向きの顔を合成したような絵を描くようになった一つの契機は、アインシュタインの相対性理論においては時間と空間の座標が互いに転化するということを学んだことらしい、とありました。顔を前と横から見るには、移動のための時間の介在が必要ですが、その時間を空間に転化したというわけです。ピカソが仲間たちと相対性理論について論じ合っていたという推定も十分成り立つそうです。

四方館 03/25/2005 18:01
 ピカソのキュビスムの時代の絵ですね。遠近法のパースペクティヴからまったく飛躍して多視点から同時的に捉える手法で、成程、Ted さんの読まれた相対性理論の影響があるとも考えられそうですね。表現主義など、20年代、30年代は芸術理論が非常に多様な形で展開しましたからね。

Ted 03/25/2005 22:14
 そうです。特殊相対性理論が発表されたのが丁度いまから100年前の1905年、キュビスムのホールマークとなったピカソの「アビニョンの女たち」が描かれたのが1907年です。

プラトテレス 06/18/2006 23:23
自然科学を芸術表現活動によって深めることを目的とした「知の統合プロジェクト」が財団法人国際文化交流推進協会によ運営されてます。

2005年3月24日木曜日

「Vicky のところへ遊びに行ったことない?」

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年4月6日(日)快晴

 明日「現代美術展」でも見に行く約束でもしようと思って、先日来てくれた HZ 君を訪れた。家はすぐに分かった。なるほど、白い蔵があって、門も扉のついた立派なものだった。新しい表札には彼の名が上にあり、下には祖母と母と思われる名前が並んでいた。戸を B6 版の横幅ほど開き、呼び鈴の鳴り止むのを待って、「ご免下さい」という。普通の友だちとちょっと違う扱いをしなければならないように家の構えが出来ている。静かだと思っていると、犬が寄って来た。もう一度声をかける。どっしりしたお婆さんが出て来られたから、「T夫君いらっしゃいますか」という。その答として映画に行っていて、5時頃でなければ帰らない旨を聞かされた。丁寧に謝ってそこを出ると、すぐに HY 君のところへ行った。
 HY 君はネルのシャツが一番上である姿で出て来た。「また、遊びに来たがやけど」というと、「大掃除しとって、ダメや。す…」「すまん」といわれないうちに、こちらも謝った。「HZ ちゅうやつ知っとるけ」と続けると、「友だちか」といって、家を教えてくれようとした。「いま行って来た」と断る暇もなく教えられてしまったので、「ありがとう」と、彼が初めて教えてくれたように思わせて、また謝って別れた。停留所付近で KS 君の一行を見たので、彼の肩を叩いて、「こんにちは」といってやった。

 Sam と別れてから、量は多くないが、これだけきっぱりと口の開閉が出来たのに、Sam に対しては、どうして「しよう!」の一言がいえなかったのだろう。いわなかったことを弁解する一切の理由が成立しないことを知り、それを知っているだけではダメだということも…。

 それよりも3時間くらい前には、KZ 君のメモ書きを Jack の家の玄関に見て、Jack に会うことをあきらめ、SNN 君の家へ向かった。数メートルで彼の家という角で立ち止まると、ズックを履いて、青い風呂敷の少し大きな包みを持った彼が、ぼくの進行方向と直角な方から、ちょうど帰って来るところだった。彼は包みを家に置き、ノート1冊を手にして、ぼくと並んで歩き始めた。漢文の参考書を何とか、と彼はいった。買ってきたのか、買いに行こうというのか分からなかったが、彼の家を訪ねる誰でもを本屋へ引っ張って行く彼のことだから、たぶん後者だろうと判断した。それが正しかったことは、すぐに確かめられた。出し抜けに、彼は
 「Vicky のところへ遊びに行ったことない?」
と聞いた。ぼくはなぜか少しも驚かなかった。晴れ渡った空は広いが、われわれの思考範囲は狭いなと思いながら、
 「どこ?」
と聞き返した。家の位置を聞いたつもりである。
 「B 町」
と彼は答えた。それは住所録で知っている。彼は、「だが、どの辺か知らない」とつけ加え、「Jack とでも行ったことあるかと思った」といった。昨年の昨日のことをぜんぜん知らない彼が、こんなことをいうとは、彼の眼力もすばらしいものだ。――彼に頼みたいことが出来た。――
 SNN 君とぼくは Jack の家へ寄り、一行は Jack と KZ 君を加えて4人になった。しかし、SNN 君を福音館に残し、3人が Sam のいたところへ行ったのだ。Sam に会って、Jack とKZ 君を振り払ったときはなぜか、せいせいしたのだったが、Sam のあれほどの好意に、ぼくは…。Sam はぼくの根本的な欠点をずばりと指摘した。たしかに、指さない指と衝かないことばで、指摘した。(1)

 "A poet could not but be gay." については、Sam があまりに奇麗に訳を書いていたので、多分合っているだろうと考えて、自分で正確に訳してみようとしなかったのだ。悪かったよ。
 「春の唄」はあの頃のラジオ歌謡だったのか。それで、あの思い出にこの歌が付着しているのだ。

♪ラララ 紅い花束車に積んで
 春が来た来た 丘から町へ
 スミレ買いましょ あの花売りの
 かわい瞳に 春のゆめ
 …♪

 [Samによる後日の欄外注記]
 (1) 表現に関するぼくの心遣いはみごとに伝搬された。というより、Ted に看破されてしまった。しかし、Ted がこれだけのことを汲んでくれたのなら、あれだけ長く時間を費やす必要はなかった。Ted が根本的な欠点を指摘されたというのなら、ぼくは自分の根本的な欠点をさらけ出したのかも知れない。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 03/26/2005 00:42
 多事情で Ted さんと同じくらい忙しくなってしまったので、今やっときちんと来ました。素晴らしい名日記です。客観性の高い文章はある程度多くの人に見出せるでしょうが、Ted さんの日記の「観察性の高さ」は違います。それは「心」、つまりご性格や体験に対する心情の動きの、「秘」密的性質や痛々しさのない温かさの希少な魅力や、人間的な体験に対してほとんどできない、「1=1」と過大も過小もなく言語表現・記述する丁寧な誠実さなのですよね。
「友だち」と「達」を私も(ヘッセ→全・高橋健二訳のように)ひらがな表記したいのですが、いつもブログ分量を抑えることを考えていますので漢字の多用という妥協は沢山せざるをえません。「指さない指と衝かないことばで、指摘した。」これはどうしてこんなに素晴らしい、上に書いた「観察性」が出るのでしょうね。

Ted 03/26/2005 08:04
 コメントを貰ったお陰で、元記事を読み返し、ミスを2カ所見出して、修正しました。また、Sam による後日の欄外注記を書き忘れていたことにも気づき、追加しました。
 拙いながら、一生懸命に書きつづっていた高校生時代の日記を捨てがたく、デジタル化してお目を汚していますが、すてきな言葉で批評して貰えると嬉しいです。ありがとうございました。

2005年3月23日水曜日

川のほとりに兄妹のように / 春の憂うつ


川のほとりに兄妹のように

 南行きのウォーキング・コースを少しはずれた川のほとりに、緑色とオレンジ色の屋根の2軒の家が、兄妹のように寄り添って立っている。実際に兄妹の家族たちが住んでいるのかも知れない。その配色の妙に惹かれて、カメラに収めてみた(2005年3月19日)。

春の憂うつ

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年4月5日(土)晴

 昨年のきょうも今と同じように、晴れ渡った空の天心から次第に遠い部分が、思いにふけるような紫がかった色に見えるほどの好天気だったに違いない。確かにそうだった。忘れもしない、あの頬のけいれんを経験した最初の日だったではないか。
 講座決定表の記入に行って帰った午後の4時過ぎ、これでは…。例え自分がどのように輝かしい存在でも、それを忘れたくなるような春の自然だ。といっても、その中に抱かれて、それを身の隅ずみまで味わっているのではない。手の届かないところへひたひたと、からかうように押し寄せて戯れている。それを感じるだけである。
 Funny が二つ歌ったって? HN 君と AR 君に出会って聞かされ、驚いたのだ。彼らは天徳院の墓地の中を歩き回って、青空に背伸びしている木々の梢へ向けて空気銃を発射する遊びに余念がなかった。Sam は歌えたかい? KZ 君の頭髪がきれいに撫でつけられて光っていた。彼は昨日と同じく、『学生の哲学』を小脇にかかえていた。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 03/23/2005 10:56
 これは本当に素敵なブログですね。冒頭の兄妹のように建つ家たちを撮影された Ted さんのひそやかな温かいご性格から次を読みたくなりますし、また日記のほうも、まず最初の一段落が素晴らしいです。「…あの頬のけいれんを経験した最初の日だったではないか。」このようにまで繊細に、自分に誠実に「空の体験」ができる高校生が、当時でも今でもどれだけいるでしょうか。皆、もっと大事にみえそうな「華やかなこと」に毎日の眼を向けすぎて、自然を自分の言葉で豊かに描写する力量も余裕もないはずです。
 第二段落も第三段落も、まるで梶井基次郎などの純文学小説のように、味わいがありますね。
 実は Ted さんが黙っておられる際の、たとえば KZ 君をみる Ted さんの描写が、私にはとても貴重に思われるのですよ。自然描写だけではありません。

Ted 03/23/2005 11:13
 いつもながら、いろいろお褒めいただき、恐縮です。実は、「頬のけいれん」は「空の体験」ではなく、「恋心の体験」だったのです。

Ted 03/23/2005 11:26
 追記:由名さんは、それに気づいた上で、「空の体験」と、カッコ付きで書かれたのでしたか。

M☆ 03/23/2005 21:58
本当に兄弟が住んでいるのかも・・・と想像したくなるような家ですね。青い空が、なんだか心地よい風を想像させますね。もう春なんだなぁ

Ted 03/24/2005 07:49
The cold wave has come repeatedly this year, but spring will finally rule over the country with cherry blossoms.

Y 03/24/2005 08:19
 そうですか。何かの特別性は感じましたね。もちろん、「忘れもしない、…」ということで、昨年の体験とかかわらせていらっしゃるのですから。
 それでも、このような表現ができる人が、高校生どころか、どんなおとなになってもやはりそうそういるものではないと思うのです。また、物静かであってもここはやはり男性的で、女性の私に書ける文章ではないのですね。
 Ted さんはご自身の HP(ウェブサイト)について、今後このようにしていきたい、といった方向性やアイデアは何かありますか?

Ted 03/24/2005 10:05
 私の HP についてですが、あと5日足らずでアクセス・カウンターが10万になりそうなので、その機会に改めて、紹介や今後の抱負をブログに書く予定です。私の場合、研究所名を付けてはいても、それで商売をしているわけではないので、どんなものでも載せられるようなところがあります。しかし、公開のものである以上、アクセスする人たちにとって、できるだけ役立つもの(少なくとも何らかの意味で)でなければならないと思っています。

Y 03/24/2005 11:09
 10万ですか、それはすごいですね。今後の抱負のブログ、楽しみにしています。HPに関するご紹介のブログでは、ぜひ一般的な方のご感想だけでなく、何でもよいので専門分野にいる方のその方の立場や観点からのご感想など、お手元にお受け取りでしたら何らかの形でご紹介いただければと思います。転載・引用でなければ、お時間なければその方がたに正式な許可を得る必要はなく、このあたりは臨床や現場の論文を書く際の鉄則・責任事項であり、上手く書くコツがあるのですが…。また追加コメントをご希望でしたらおっしゃってください。

Ted 03/24/2005 13:35
 「転載・引用でなく紹介するための上手く書くコツ」を、簡単に述べていただければ幸いです。

Y 03/24/2005 17:31
 正式な方法なので、お話していいと思うのですが。
 もちろん本名から実在する事物・場所などすべてアルファベットイニシャル(A さん)や変名日本語名表記なんですが、つまりイニシャルさえ、元の名前と無関係のイニシャルを作ってもいいんです。そして、重要な点、核となる点は貫いていいのですが、「細部」を紹介者(執筆者)が「適宜」変えて書くんです。もちろん大事な要素は失わないように、上手く自然なように。末尾に、「本文中の○○に関する内容は、細部を適宜変えて記述(紹介)してあります」といった断り書きを入れるのが、完全に鉄則を守ったやり方ですが、これは私たちの分野では基本規則なので、この断り書きは省く執筆者も多いです。もちろんプライバシー保護のためなのですが、当然のことなので、その言葉も入れる必要が実はないくらいなんです。私も今手がけている論文から、すでにこれをやっています。今後のためにも、ご参考になさって下さいね。

Y 03/24/2005 17:36
 ブログや HP での、しつこくない簡単なやり方は、「田中さん(仮名)からは、…というご感想をいただいています」という、(仮名)のほうが、イニシャル表記よりもずっと多いですね。新聞の現場・現実的社会問題に関するレポートや個人的体験をご覧になってもそうだと思います。
 専門領域どうしの論文提出レベルになればなるほど、鉄則を書く必要性が低くなるのですから、ブログや HP の場合は断り書きを自然な形で末尾に入れられるといいですね。あくまで「自然さ」や「現実感」を薄れさせることを「事実」に対してしない、というのが重要なコツなんです。

Ted 03/24/2005 20:01
 たいへん有用なお話をいただき、ありがとうございました。

M☆ 03/25/2005 10:40
Do you have a time for blossoms party? (^__^) I'd love it! (だろうな;)

Ted 03/25/2005 16:55
I used to have the cherry party of our division at our work place, because there were many cherry trees there. After retirement, the members of the division invited me to the party. But at the beginning of April this year, the division will be divided and the members will belong to different divisions because of the reformation of the university. So we cannot have the usual party. It's sad!

M☆ 03/27/2005 13:39
Oh it's a pity that you cannot have it. I hope you have a good time with your friends under those many cherry trees (^__^)/

Ted 03/27/2005 16:36
Thanks for your kind wish.

2005年3月22日火曜日

寺の屋根と樹木に… / 「三つの歌くらべ」出場記


寺の屋根と樹木に…

 ウォーキングの途中で、寺の屋根と樹木に囲われた空が、不思議にみずみずしく思われ、カメラを向けた。堺市草部で、2005年3月19日。

「三つの歌くらべ」出場記

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年4月5日(土)快晴

 休暇に入ってから始めて Neg に会った。Funny と二人で Sam を激励に来てくれたそうな。
 十一時に食事。先日洗濯したばかりのズックをはいてテクシーで家を出たのが、それから三十分後、五分前に到着。受付の人に事務所を尋ねて、返信を見せ、信用金(手付け金とでもいうのか)として百円を納める。これは出場のあとで返してくれるのだそうだ。映画がすんだらここへ来て下さい、ということだった。
 学生が大半。人数は十名ばかり。向かって左側の椅子に腰かけて幕の開くのを待つ。胸がどきどき、身体の震えが止まらない。♪三つの歌です 君もぼくも…♪ 幕が徐じょに開いた。始めに「色あて」「港あて」などがれる行われる。三曲一組になっていて、「色あて」ならば、「白い花の咲く頃」で「白」、「紅い椿の港町」で「紅」、「水色のワルツ」で「水色」といった具合に答えるわけだ。どれもこれも難しいのばかりで、ぼくには三曲のうち一曲すらも分からないときがあった。会場で完全にすらすらと三つ答えた人はなかった。だから、本当は全部答えた人に明治キャラメルかピアスクリームが贈られるのだが、二曲ででも貰って行く人がいた。ぼくたちはステージの椅子に腰かけているので、答えるわけにはいかない。
 そのあと、いよいよ始まる。「一番目の人、何なにさん!」、二番目! 三番目! 四番目に、今年小学校に入学した女の子が出た。四つの歌になってしまったが、二曲歌って、三百円と、おまけにお母さんのためにとピアスクリームを貰った。ぼくの前までに誰も三曲全部歌った人はいなかった。惜しい、と思われるのもいなかった。ぼくは最後だった。
 最初が「懐かしのブルース」。♪丘のホテルの…♪と歌いだして、あわてて止めてから、♪古い日記の…♪とすらすら歌った。さほどあがることもなく、震えることもなかった。ただ、これは Funny もいっていたが、スポットライトが強いため目がくらんで、観衆の笑っている姿がちっとも見えなかった。「続いて二番目の歌、これは古い流行歌ですが…」のことばで出てきたのが、♪男純情の…♪で、ぼくはそこまでと、あとの方の一部しか知らなかったから、残念! 千円の夢は消えてしまった。それは「きらめく星座」という題で、司会者の読んでくれた歌詞はとても長いものだった。
 「何が好きですか」と聞かれたから、「流行歌でもよいが、童謡など」といったら、童謡はないとみえて、ピアノのメロディはなんと「ヤットン節」だった。得意中の得意という表情で、「ダガネ」や「ヨイヨイ」もジェスチュアたっぷりで歌ってやった。観衆が愉快そうに笑うのを聞くと、ますます油がのった。帰りがけに司会者から「なかなか気分が出ていました。」といわれて、頭をかいた。ついでに「トンコ節」も歌いましょうか、といってやればよかった。

 ニュースの前に N 信託の巧みな広告が入っていた。映画『虹の女王』は十近い美麗きわまるショウを含んだ、いや、それらを主題としたもので、その間あいだの楽屋の様子をも描写したものだった。ジャック・ドナヒューに扮するレイ・ボルジャーは、最初、高い鼻がおかしいと思っていたが、タップの上手なのに全く驚いた。虹の女王のマリリーン・ミラーに扮する主演のジューン・ヘイヴァは、初め、『アニーよ銃をとれ』のベティー・ハットンにとてもよく似ている、というよりは、ベティー・ハットンかと思っていたが、パンフレットを見てやっと、違うことが分かった。彼女は、画面に向けられている幾百対の目を、名演技によって魅了した。
 帰りに Funny のところへ寄った。「たとえ、一千円は貰えなかったとしても、ただ家にいては、このような報酬にはありつけないだろう。『求めよ、さらば与えられん』だ、勇気と度胸(今回はこれに多量の好奇心も加わっているが)を出すことによって、それは達成される。われわれは一つの新しい体験をしたのだ」と、この試みの終りに当たって二人で結論づけた。
 小遣帳の上から見れば、申し込みの往復はがき代と帰りの電車賃を差し引いて、純益金二百八十二円。簿記上は他に若干の減価償却を見込まなければならないが、これだけのものが物質的にプラスされたわけだ
[1]。これで、教科書代の心配は要らなくなった。

 引用時の注

  1. ここを読むと、「精神的なプラス」もあったではないか、といいたくなるが、それについては、前のパラグラフで既に述べられているのである。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 03/22/2005 11:46
愉快なエピソードですね。やはりSamさんは楽しく明るいお人だ。

Ted 03/22/2005 13:24
 Samに出来て私に出来ないことは沢山ありました。この日の日記の初めに出て来ている Neg(顔が黒かったので、ニグロ、略して Neg)という友人は、高校は Sam と同じでなく、私と同じで、高校2年では私と同じホームルームにさえなったと、間もなく掲載するところに書いてありますが、私は本名を覚えていないのです。(後日の追記:I・T 君だったようです。顔はそれほど黒かったとは思えませんが。)

2005年3月21日月曜日

近郊風景 / 小学校時代の隣クラスの級長が来訪


 近郊風景

 写真はわが家から少し南へ行ったところに見られる近郊風景(2005年3月19日撮影)。

小学校時代の隣クラスの級長が来訪

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年4月4日(金)晴れたり曇ったり

 驚くべき珍訪問者は来たりぬ。驚愕は我が喉をば、がくがく鳴らせたりき。(つい文語文になってしまった。)
 黒い顔に眼鏡をかけている。「ぼく、HZ です。」…?…。ぼくが「美に親しもう」[1] を書いたころ、同じクラスにいた KR 君が少し太く大きくなって、眼鏡をかけてやって来たような格好だ。だが、どこか筋が入ってしっかりしている。HZ 君。これが HZ 君か。はぁ――。
 かつては、白い顔のお坊ちゃんだった。鼻が高くて尖っていた。彼は松組の級長(古い名称が出てくる)だった。奉安殿(これも古い)のある校庭に整列していたとき、それぞれのクラスの先頭にいた彼とぼくを見比べて、女の先生が、ぼくは帽子をまっすぐに被っているが、彼は少し傾けて被っていると評したことがあった。もう一つ彼について覚えていることは、1年生の夏休みに作って行かなければならなかった厚紙の貯金箱が、彼のはとてもよく出来ていたことだ。[2]
 もはや、彼は白いお坊ちゃんではなかった。「今朝私もあの絵の賞状を頂きました。昔の友達同士が絵画の道で一緒になった事を考えると、見えない深い御縁を思わせられます」[3] という調子の手紙を見ただけでは、白くて滑らかな肌の彼がそのまま拡大された以外の変わり方をしただろうとは、想像出来なかった。七尾駅前の N さんから、彼が金沢へ来ていて、高師付高へ入ったことは聞いていた。しかし、訪ねて来るかも知れないとは、少しは思ったかも知れないが、期待していなかったことだ。
 祖父に「始めまして」と挨拶をしてから、彼はくつろいだ姿勢で坐った。松組の級長は、強健で社交的になっていたが、小学校2年生になったとき講堂で新入生歓迎の辞を述べた竹組の級長は、いま弱々しく、語ることを知らなかった。彼は、机上に広げてあった "High School English" を見て、「かじっとるね」といった。ぼくは、「きょう、教科書があたった [4] もんだから」と、か行お列の拗音の長音が二つ続くのを注意深く発音しながら答えた。彼は「ぼくら、12日まであたらない。」と、解析 II の教科書を手に取り、かなりの予備知識を持っているような顔でページを繰りながら答えた。下安藤町の三分の一か二入ったところの左側の白い蔵のある家にいるから、いつでも来てくれ、といって、早ばやと立ち去った。
 よい応対ぶりじゃなかったと思う。Jack に相対するときは、彼が
 (この間の1枚を破棄した。)[5]

 引用時の注

  1. 私は中学3年のとき、イーゼルペイントというガッシュ・タイプの絵の具を使う絵のコンクールで、石川県下の中学生の中から2名の金賞を受賞したが、その感想文を学校新聞にこの題名で書いた。

  2. HZ 君と私は七尾市立御祓(みそぎ)小学校で一緒だった。私はその学校に3年生の1学期末までしかいなかった。

  3. 私は HZ 君も上記のコンクールに入賞していたことを展覧会場で知り、彼のいた中学校へ手紙を出した。引用した文は、それに対する彼の返信の一部である。

  4. 「あたった」は金沢弁で「貰えた」の意。実際には「買えた」のであるが。

  5. 書き続けた内容が気に入らず、ノートがまだ新しかったので、1枚破っても対になっているページは空白のままだから影響がないということで破棄して、次ページの最初にこう書いたのである。なお、HZ 君は阪大理学部を出た後、A 社に就職したということだった。その後いまに至るまで、再会の機会はない。阪大理学部で彼と同期だった職場の同僚から、大学生時代の彼の遊び人ぶりの一面を聞きはしたが。

2005年3月20日日曜日

『英語でよむ万葉集』を読む:鹿の妻恋にも名訳

 表記の本 [1] の著者・リービ英雄は、1950年生まれのユダヤ系アメリカ人である。父親が外交官だったため、子ども時代から青年期にかけて、台湾、香港、アメリカ、日本で過ごし、プリンストン大学において日本文学で学位を取った。その後、同大学とスタンフォード大学で教授を勤め、1982年に万葉集の英訳 [2] で全米図書賞を受賞した。1989年に大学を退き、日本語で作品を書き始め、最初の自伝的作品『星条旗の聞こえない部屋』で野間文芸新人賞を受賞。ほかに『天安門』『日本語を書く部屋』『我的中国』など、多くの著書がある。[1, 3]

 上記の万葉集英訳は、この著者が努力を重ね、日本人にとっても読むことの難しい、しかし貴重な歌集を、時代を越え国境を越えて鑑賞できる形に再生させたものといえる。『英語で読む万葉集』はその一端を、著者が翻訳の間に見出した「新鮮さ」「可能性としての日本語」「発見と、再発見の連続」(「」内は著者のまえがきから)とともに、日本の読者に披露したものである。

 万葉集英訳の中から著者がとくに好むものを選んだと思われる49首の短歌と長歌(部分)が、序を含めて10の章に分けて紹介されている。おのおのの歌に4ページを当て、1ページ目には詞書(ことばがき)、歌、そして、歌の現代日本語訳があり、2ページ目には詞書と歌の英訳がある。3、4ページ目に英語交じりの和文で、訳した歌の鑑賞、それにかかわる発見、英訳の工夫などが述べられている。忙しい日々に少しずつ読むのに便利な体裁である。

 序のテーマを「天皇というアイデンティティ」として、雄略天皇の長歌1首をおいたのは、いささかアナクロニズムの感がなくもない。しかし、第1章から9章までには、万葉集の特徴をいろいろな切り口でとらえた興味深い表題が与えられている。「枕詞は、翻訳ができるのか」「love とは違った、恋の表現力」「山上憶良、絶叫の挽歌」など。

 取り上げられている歌の中には、多くの日本人が知っているものもあれば、あまり知られていないものもある。歌の英訳は、いずれも比較的やさしい英語でなされている。たとえば、次の訳のもとの歌は、容易に分かるであろう。
Spring has passed,
and summer seems to have arrived:
garments of white cloth
                                 hung to dry
on heavenly Kagu Hill.
知らなかった歌については、現代の日本人にとって、もとの歌よりも英訳の方がよく理解できる、ということもあるだろう。

 上に触れた「枕詞は、翻訳ができるのか」の章では、「枕詞は、日本語の中で最も日本語らしいもの」「日本語としていまだに解明されていない枕詞もある」「何語にも翻訳できるものもある」と説明し、「草枕 旅にしあれば」には、「"on a journey, with grass for pillow" という英語も苦もなく滲み出してくる」と述べている。あとの章に、「ぬばたまの 夜」が "the pitch-black night" と訳されていた。私は "the raven-black night" という訳を考えたが、どうだろう。また、本書にはなかったが、「たらちねの 母」は、"the mother with suckling breasts" としたい。

 「love とは違った、恋の表現力」の章では、「妻恋ひに 鹿(か)鳴かむ」の「恋」について、「鹿は妻への愛を鳴き声で宣言しているというわけではない。」「『love』のように結ばれている状態を指しているということでもない。」「『妻』がいっしょにいないから淋しげな鳴き声を上げているのではないだろうか」と述べ、
the deer cries
in longing for his wife
の訳を示す。いわれてみれば、もっともである。宮田雅之の切り絵が妖艶な『対訳 万葉恋歌』[4] にも、リービの longing for という訳語が多くみられた。

 斎藤茂吉の名著 [5] とはまた異なった角度から、万葉集を楽しませてくれる良書である。
  1. リービ英雄、英語でよむ万葉集 (岩波新書、2004).
  2. Ian Hideo Levy, The Ten Thousand Leaves: A Translation of the Man'yoshu, Japan's Premier Anthology of Classical Poetry (Princeton Univ. Press, 1982).
  3. Keiko Nakano, The Nomadic Writers in Japan and America: Language, Identity, and Home (cgpublisher.com).
  4. 宮田雅之(切り絵)、大岡信(解説)、リービ英雄(英訳)、対訳 万葉恋歌 Love Songs from the Man'yoshu (講談社、2000).
  5. 斎藤茂吉、万葉秀歌 上、下 (岩波新書、1938).
 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 03/20/2005 10:22
 「ぬばたまの」は黒、夕、夜、妹(いも)、ゆめ、月 などに掛かりますから、pitch-black というのは慣用的な表現で特に癖がないのかもしれませんが(逆に pitch の意味を追究しだすとよくわからなくなる)、raven のほうは「わたりがらす《しばしば不吉の兆とされる》」が一番目の意味にありますから、それを引きずってしまわないか、との懸念はありますが…。
 Longing for を恋する切ない心に用いるのはもちろん適切だと思うのですが、恋というのは恋しく思うだけで結ばれているような側面がありまして、「思い・願いこがれる」にこういった恋の歴史(?)がどれだけ含まれているか、私は英語に詳しくないのですが、私なら異様にも長い英訳を選んでしまいそうです。あと、元の歌が判りませんが、"his" wife でよかったのかしら? 鹿の恋心を詠っているのか、「私」の妻への思いを鹿に映じているのか?
 世界標準語としての英語の日本語や他国語に比しても言えそうな「単純性」「標準性」が、逆に深い歴史や思い入れを表現しにくいのでは? という問題は、英文学等以外の人文系の各分野でかなりあったと思うのです。ドイツ発の精神病理学ももちろんそうでした。とはいえ私も英語が重要度のほぼすべてを占める福祉をやることもあって、とにかく英語も勉強しないといけません。

Y 03/20/2005 10:28
 ただ、「黒々と」とした意味としては、黒髪、などに用いられる raven のほうにむしろ深み、重みがあるかもしれません。
 精神病理学は、これを一言名乗っただけで、もう英語の世界とはまったく違いまして…、日本には日本語で伝授されてきたのですが、英訳不能なのです、実は。だもので、私の「関西精神病理・教育問題研究所」も元(源)を捨てて英訳したのですね。

Ted 03/20/2005 11:24:46
 Pitch は有機物ながら物質なので、raven の方に優しさがあるかと思いますが、場合によっては、pitch-black がよいかと私も思います。
 リービさんがいっているのは「love という語を使えば、精神的にせよ肉体的にせよ、結ばれている状態を強調することになってしまうが、妻恋ひに鹿鳴かむ、の恋は、離れている淋しさの気持ちをいうのだろう」ということだと思います。つまり、その鹿にも love の心もあるのですが、鳴く気持ちの「恋」は longing for だろう、と。
 もとの歌は、「秋去らば今も見るごと妻恋ひに鹿鳴かむ山そ高野原のうへ」と、宴席で詠まれたもので、読み手が自分を鹿にみたてているということはなさそうです。
 英語に訳し切れない日本語ももちろん多いと思います。ただ、人間の抱く思いを中心に考えれば、歌の翻訳は、かなりの程度まで原語で表しているものに近づき得るのではないでしょうか。

「東京シューシャイン・ボーイ」などを覚える

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年4月3日(木)晴れ

 北安江町の家(という説明でよいかい)へ Reader を持って、明瞭な説明を求めに行った、と書くと、Ted に対してはなはだ失礼なことになるが、まあ、聞きに行ってよかったと思う点がいくつもあったからね。
 "Daffodils" の三節目と四節目の始めの方を、ぼくは全く英文法を解しない訳し方をしていた。A poet で切り、could not but be gay と続けて考えなければならないところを、not と but の間で切り離してしまったり、but little thought のところを勝手に but a little thought の訳としていたなど(これらのことは Ted だって気づいていたかも知れない。ただ、それをはっきりと言ってくれなかったか、ぼくがはっきりと聞いておかなかったか、のどちらかだったかも知れない)。
 それから、"What wealth . . ." は (1) What wealth (2) the show (3) to me (4) had brought. というように分けてみれば、(2) が主語、(4) が動詞、(1) と (3) が目的語になっており、(2) (1) (3) (4) の順に訳していけばよいのだそうだ。
[1]
 そのあと、金大の様子や、英語の勉強法や知能テストに関する効果や、その他いろいろな話を聞いた。大学での文法は高校のそれと大きく違っていることを、It is fine today. Fine it is today. [2] で示してくれたり、英単語を覚えることが最大要件であることを説いてくれた。その覚え方については、「覚える覚えないの如何を問わず、一日に20~30の単語を見る。その九割までは忘れてもよい。一千語くらいの単語集なら二ヵ月くらい経てば、またもとの A に戻ってくるわけだ。試験に当たっては、『見たことのある単語だ!』と感じるのと、『全然知らない!』というのでは、そこに大きな心理的な差が生ずる」と、話してくれた。

1952年4月4日(金)晴れ

 昨日はほとんど練習出来なかったので、きょうは(ということばは不要だった)朝から Funny と流行歌集や童謡歌集などを引っぱり出してする。すべて彼の方がよく知っているように思われる。きょう「東京シューシャイン・ボーイ」や「角兵衛獅子の唄」などを覚える。こんなものは出るかどうか分からないが――。
 イヨウ! Funny! 何? 七字のことで。砂山のね――。他に「高――ラ」と「別れ船」か。「貴方は流行歌が得意ですね」か。なるほど。三曲全部は、たった一人しかいなかったかい。そして、映画が「ロハ」、そりゃ悪くないね。


 引用時の注

  1. 前日 Sam が帰ったあと、私は昔の『上級英語』誌にあった "Daffodils" の訳を日記帳に写したが、Sam がそれを見ることができたのは、数日後になる。インターネットはおろか、電話も自宅に通じている家の少なかった時代の意志伝達は、きわめてゆっくりしたものであった。

  2. あとの文は Fine is it today. と倒置すべところを Sam が書き間違えたか。

2005年3月19日土曜日

勤勉科学少年

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年4月2日(水)みぞれ、雨、曇り

 10時までに登校。旧ホーム番号の1の桁と10の桁の数を加えた番号の教室へそれぞれ入って、1枚の紙に、旧整理番号、氏名、ふりがな、課程、性別を書くだけが仕事だった。その後、講堂に集まり、T・K 先生から2単位課目の訂正その他の話を聞いたが、関係のないものばかりだった。

 どこかで読んだといった "Daffodils" は、じつは Sam がいる間にでも出して見せることが出来たのだった。家主のご長男 S さんが、押し入れを整理したら出て来たのだが要らないからといって、昨年の夏休み頃にぼくの机の上に置いて行った昭和16年頃の『上級英語』誌数冊中の1冊にあったのだ。散文訳がついているから写しておこう。

I wandered lonely as a cloud
that floats on high o'er vales and hills,
... [1]
私は谷や小山の上高くただよう一片の雲の如く
只一人でさまよっていました
…[以下略]…

"what wealth the show to me had brought = how much pleasure I had got from this beautiful sight" と説明してある。なるほど、そう思って読めば、理解出来る。

 学校へ行って、まだ何も始まらずに編集室にいたとき、ちょっと入ってきた KS 君と Jack の間で、高師付属高校へ行っている M・I 君の話が出た。彼については、石引小6年のとき、隣の1組にいて、学芸会のとき、何か理科関係の発表をしたことがあるのを覚えているだけだ。強いて彼に関する知識をもっと集めるならば、家が上鶴間町であること、誰かの話から彼の部屋は実験室のようだという概念がぼくの頭に植えつけられたこと、顔は浅黒く温和な感じであること、背は低くなく、肥えてもやせてもいないこと、などだ。その彼が、ぼくの頭の中に輝いて存在し続けているのは、誰もが彼を勤勉とたたえ、そのことが彼を周囲に敬虔の念を起こさせる光源としているからである。T・M 先生の家を訪れた日、上菊橋を渡った坂のところで彼と行き会い、Jack と一緒に礼をした。ぼくの目は、彼の笑顔の印象が、いままで保持していた彼の像と異なるものでないことを感知した。[2]

 引用時の注

  1. William Wordsworth (1770-1850) の詩。全文はこちらで読める。

  2. 高校3年の終りにM・I 君と私は共に高峰賞というものを受賞することになったが、意外にも自室が実験室のようだったという彼が準賞で、半ば文学好きだった私が正賞を貰ったのは、何だか彼に気の毒な気がした。私は50歳台も後半ぐらいになってから、東大を出て大阪の S 社に勤めていた彼の消息を探り当て、その後年賀状の交換を続けている。

2005年3月18日金曜日

サンシュユ / 九条科学者の会


サンシュユ

 先日、荒山公園の梅林で、写真のような黄色い花を見た。名前は「サンシュユ」とあった。ウメの1種かと思っていたが、『大辞泉』で調べると、漢字では「山茱萸」と書き、ミズキ科の落葉小高木とある。

 山茱萸の既に黄の濃き蕾かな  年尾

の句が引いてある。

九条科学者の会

 「『九条の会』のアピールを広げる科学者・研究者の会」(略称:九条科学者の会)が、2005年3月13日に発足した。2004年6月に結成された「九条の会」のアピールへの賛同を、多くの科学者・研究者に訴えることを目的としたもので、その ホームページ には、科学者・研究者向けに、同アピールへの賛同署名フォームが設けられている(「九条の会」自体は賛同署名を集める活動をしていない)。

 私は上記署名フォームのページから賛同署名を送ろうと、必要事項を記入したあと「メールソフトへ送る」というボタンを押したが、メールソフトが起動しない。そのボタンの下を見ると、赤字で

 [注] もし、「メールソフトへ送る」ボタンを押してもメールソフトが起動しない場合は、下記のページへ

と書いてある。下記のページとは、賛同署名をメールで送信する場合の必要記入事項と九条科学者の会のメール・アドレスを記したページであった。私は署名フォームに一度書いたのと同じことを、再度メールに記入して送らなければならなかった。「メールソフトへ送る」ボタンがうまく働かないのは、マックの使用者など少数派においてのことかも知れないが、もっと便利な署名収集方法の採用が望まれる。この会のホームページには、発起人の全氏名が見当たらないなど、まだ不備が多い。

 なお、九条科学者の会の発起人は、伏見康治元日本学術会議会長、本間慎フェリス女学院大学学長、暉峻淑子埼玉大学名誉教授ら20人、呼びかけ人は約200人。発足記念の集いは13日に東京・日本大学歯学部2号館第1講堂で開かれ、全国から科学者・研究者110人が参集したとのこと。東京で日曜日に開催されたにしては、参加者が意外に少ない。政治に目を向ける科学者・研究者は少なくなったのか。

 今年96歳の伏見氏は、「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明」(1941年1月22日)にうたわれた、憲法の思想・良心の自由、学問・言論の自由の確保という精神を貫きたい、と語ったということである。――伏見氏といえば、彼が私の支持しない政党の所属で国会議員になったとき、私は持っていた彼の編著になる量子統計力学の本を古本屋にたたき売ったのだった。私は物理学を学ぶのに英語で書かれた本を使用する方向に傾き、その本は買いながら読んでいなかったからでもあるが。――

Sam が「三つの歌くらべ」出場に決定

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年4月2日(水)雨ときどき晴れ

 出合いがしらをみぞれに叩かれた。「一寸先は闇」ということばが頭に浮かぶ。みぞれの体に当たる部分をできるだけ少なくして、力一杯ペダルを回した。あまり揺れたためであろう、しっかり縛っておいたと思った荷物がバシャンと落ちてしまった。一秒の1/10の時間も惜しんで荷物を縛り直してから、足を休ませる暇もなく、まっしぐらに疾走した。四肢の先が覚えがなくなるくらい、痛く冷たかった。
 宇都宮[書店]へ立ち寄って、さっそく調べてみる。あっちもこっちもぼくの訳とは異なっている。なるほど、なるほどと思って見ていたのだが、家へ帰ると、船を泉と書き間違えた宛名の往復はがきの返信が来ていて、その裏の四行を読んで躍り上がった。

貴方は三つの歌(四月五日第一回)に
出場を決定いたしました 本葉書
御持参の上 五日十二時二〇分迄に
当劇場事務所へお出で下さい

Funnyと喜びを共にしようと、自転車で駆けつけたら、宇都宮で覚えたことをすっかり忘れてしまった。彼のところへも返信は来ていて、四月四日だそうだ。
 「西遊記」を聴いてから、来学期に備えて「鞄」というほどではない「道具入れ」を大きくして貰いに、母のところへ行く。[2]「三つの歌くらべ」に出るのだから「ヤットン節」を教えてくれといったが、学生にそんなものが出るはずはないといわれた。しかし、二回ばかり歌ってくれたから、だいたい文句は覚えてしまった。


 引用時の注

  1. Sam の住所は宝船寺路町だった。応募用往復はがきの返信部分への宛名は、普通自分で書くが、自分で自分の住所を書き間違えたとは考えにくい。Sam は自分では書かなかったのだろうか。

  2. Sam は父を亡くし、母は Sam を祖母に預けて再婚し、少し離れた所に住んでいた。

2005年3月17日木曜日

笑いで9条守る運動


 「憲法9条を守ろう、活かそう アピール用素材&ネタ」というホームページがある [1]。上のイメージは、そこで公開されていて、誰もが自由に使える素材の一つである。ほかにも、いろいろユーモラスなものがあり、諸賢の一瞥とご利用をお奨めしたい。

  1. 紹介したホームページへのリンクをしておいたが、後年リンク切れとなった。(2011年5月6日記す)

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 03/17/2005 10:39
 まあ、いろんなのがありましたねぇ。捻りのよく効いたものがたくさんありました。

Ted 03/17/2005 11:14
 わざわざご覧いただきましたか。いくつかまとめて引用したかったのですが、複数のイメージをエコログ(引用時の注:当時使用していたブログサイトの名)に貼付する方法を知らなくて。

日本の女優を70人挙げたら

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年4月1日(火)雨のち曇り

 この間読了したばかりの漱石の「三四郎」の朗読を、7時から JONR で聞く。「人魚(マーメイド)」「人魚(マーメイド)」とささやくところで、某電力会社の広告となる。毎週20分ずつの朗読で、何回にわたるのだろう。[1]

(Sam)

1952年4月1日(火)雨のち晴れ

 午後からきょうは一人で Neg を訪れて見たが、何度呼んでも返事がない。さてはエープリル・フールだからとぼけて居留守でも使っているのかなと思って、裏へ回ってみたが、やはり家の中はひっそりとしていた。帰りに学校へ寄ってみたら。昨日ソフトボールをしたメンバーに偶然会った。Keti の「わしら、いま宇都宮へ行って教科書買って来たとこや」にガッパになって「本当かい!」と聞き返したら、大声で笑われてしまった。
 彼らは卓球をしに来たそうだ。メンバーはぼくを入れて六人だったが、技量伯仲で、連勝はなかなか難しかった。ぼくが二周半祝典をやったのが大分終りまで最高記録だったが、あとでノータッチの特典(?)を廃してから、Funny が三周祝典をやってのけた。ノータッチという、トランプでいえばジョーカーかオールマイティーに相当するものがあるのが、ぼくは大好きだ。一球一球に真剣さがこもり力をかけることが出来る。人数が多いから一度失業するとなかなか順が回って来ない。そこで Keti らと英単語の尻取りをした。「xで終る単語は使用してはいけない」というので、cloudy、rainy、dirty、healthy、…とy攻めにしてやった。
 Funnyが「日本の女優を70人挙げたら、映画を一回!」という出題をし、Funny 以外の全員で考えたが43人しか出て来なかった。エープリル・フールだから Funny のことばはうそだろうといってみだが、あくまでも本当だといっていた。彼はこの頃たいへんな映画通になった。おそらく、彼は一カ月の映画観覧料として「なぞのメロディー」でみんなみごとに当てて得られる金額以上を使っているだろう。
 Grammar & Composition を開いてやってみる。なかなか面白い内容だ。分からないところを Ted に聞くことにして――と。


 引用時の注

  1. このパラグラフより前に、この日に読んだ徳富蘆花の『自然と人生』の中の一文が、敗戦後の大連嶺前小学校で習った代用教科書にあったものだということから書き始めて、当時の思い出が記してある。その部分は、同小学校同窓会会報への投稿に引用したく、後日、その投稿文の形で当ブログサイトで紹介したい。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 03/17/2005 10:43
 当時、映画女優を70人挙げるというのはなかなか出来そうなことではないでしょうねぇ。男優でも難しそうな気がするが、有名女優となるとかなり限られていたと思います。

Ted 03/17/2005 11:10
 私などは、原節子、高峰秀子、岸恵子ぐらいで、枚挙は終ったでしょう。京マチ子を知ったのは大学生時代だったでしょうか。当時私は、邦画を全くといっていいほど見ませんでした。

2005年3月16日水曜日

観梅


 きょうはよく晴れて暖かくなったので、10時半頃家を出て、徒歩でも往復しやすいほぼぎりぎりの距離にある荒山(こうぜん)公園へ向かった。最近は、毎年2月中頃にそこへ梅の花を観に行っていたが、今年のその頃は病院で検査を受けていたし、その後寒い日々が続いたりしたため、行くのが延びていたのである。2月中旬には白加賀という種類がまだ咲かないので、荒山公園に比較的多いそれが満開になっているのをまだ見たことがない。

 行ってみると、白加賀を含めて何種類かはすでに満開を過ぎていたが、八重の豊後という種類が何本もあり、みごとに咲いていた。ほかにも白、ピンク、赤、黄と多様な花が、まだ目を十分楽しませてくれた。公園の近くの回転ずし屋で昼食をとって帰る。万歩計は1万5千強を示した。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 03/17/2005 10:49
 近在の梅だよりをたどってみましたが、ほぼもう終わりのようですね。今はバタバタとしていて残念ながら出かけられそうもありません。桜の花便りを待つことにしましょう。

Ted 03/17/2005 11:04
 日本人は花見が好き。私も定年後は、その意味で日本人になりました。ホームページ用の季節の写真が必要ということもあって。

わざわざ逃がしてホームランにさせてやったがに



 紹介している高校時代の交換日記は、下記の1952年3月31日付けの分で、その頃使用していた2冊のノートのうちの1冊が最終ページとなっている。使用開始は1952年1月1日。上のイメージはその1冊の表紙である。

 表紙にある文字は、私が書いたもので、次の通り。

  Which will it grow
into, the mud of regret
  or the pond of joy?

            12

       Something
            and
       Anything

 このノートは前年4月から数えて12冊目(いずれもB5サイズの比較的薄いもの)だったということである。SomethingとAnythingは当時実際に使っていたニックネームで、日記中では Some、Anyと略記していた。当ブログへの引用中では、これらを Sam と Ted に書き換えている。

(Ted)

1952年3月31日(月)曇りのち雨

 これじゃまるで小さな暴君だ。[1]
 森茂雄東大助教授の参考書 [2] で、nPrnCr の公式をやっと理解した。

(Sam)

 きょう手紙を出せば、明日着くのだから…。明日という日を利用していたずらしてやろうと思い立った。昨年は Ted がその対象の一人だったのだが。「四月馬鹿だとさ」と拝啓の代わりに書いてみたが、どう思うことやら。
 Neg のところへ行くつもりで Funny(ME君)を誘ったが、Keti らとソフトボールをするのだというから、「混ぜて」貰うことにした。ぼくはファウルばかり打って、三度も溝へたたき込んだ。出塁率は五割くらいのものだろう。九回裏にぼくの次の Keti が「さよならホーマー」を打ってゲームセットとなったが、守備をしていた Funny の感想がなかなか面白い。
 「Sam がわしんとこ打ったら、わざわざ逃がしてホームランにさせてやったがに。(ぼくは大フライを打ってSW君に捕られた。)Sam なら、ホームランにしんなんと、わき目もふらんと一生懸命走ったやろうに。」
 事実その通りだと思う。同じくソフトボールをしていても、考え方においては、かなり違っている。勝ったらどう、負けたらどう、という試合でもない、ただ遊ぶだけのものである場合、Funny のような考え方で、のんびりとやるのもよいかも知れない。しかし、「かも知れない」以上のことばでそれを評することはできない。
 そのあとで Funny と将棋をする。「Sam は長いこと考えるさかいな。」Funny はなかなかよく、ぼくを知っている。まだ四時だったが、入浴に行かなければならないからといって、帰ろうとすると、「Sam は昼んないと行けんがやったな」である。


 引用時の注

  1. 何について書いたか記憶がない。

  2. 『解析IIの研究』(旺文社)、当時よく用いられた受験用参考書。2年で習う数学の予習をしていたようだ。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 03/16/2005 11:51
Which will it grow into, the mud of regret or the pond of joy? --いい表題ですね。into の使い方がなにか、よいのです。
 もっとも、実際の交換日記は、この両者(the mud of regret or the pond of joy)の間の「あいまいな感情部分」を大切にして綴られている気がしますね。「未だ何にも成れない途上にある高校生」らしい感性体験を生かして書かれている点が新鮮です。
 金沢弁というのはなかなか癖があるのですか? →Samさんの日記の台詞。

Ted 03/16/2005 15:40
 日記帳の表題をほめていただき、恐縮です。実は、自分ながら、高校生時代によくこういう言葉を思いついたと感心していました。
 石川県と富山県では大体よく似た方言が使われています。最近は方言を使う人口が次第に減っていると思います。方言は意外に、丁寧な言葉や古語に由来している場合があるようです。金沢では、「見なさい」を「見まっし」と言いますが、「~しまっし」は「~なさいませ」という丁寧語から来ているのです。また、私が小学生か中学生の頃、現在富山県氷見市になっている田舎の伯母のところへ行っていた折、近所の子どもが赤ちゃんを見て「びっさいばなして、しょっしゃなあ」といいましたが、これは「ちいさな鼻をしていて、面白いなあ」という意味でした。「微細な鼻をしていて、笑止だなあ」から来ていると思われます。子どもが、昔殿様が使ったような言葉を使っているのです。

2005年3月15日火曜日

自転車紀行

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年3月30日()晴れ

 Y・K 君という。野田中の2年だ。強い個性が見出されない。しかし、彼は彼としてのよさを持っているに違いない。S = A(1 + nr) その他を教えなければならなかった。そそくさとやって、2時半に帰し、日光を浴びに出た。買ったばかりの本を芝生に腹ばって読んでいるときに感じるだろうと思われる匂いが、地上に満ち満ちていた。

(Sam)

 快晴! 誰だってこんな日には、おおらかな気持ちで散歩したいと思うだろう。Funnyが持ってきてくれた同窓会名簿の学校にいた頃の新聞に、ぼくが四字の見出しで書いた [1] あの時と同じコースをたどって散歩した。
 あらゆるものがぼくの目を見はらせる。あの時の文を思い出しながらペダルを踏む。ペダルが一回転するごとに、思い出がまざまざと新しくなる。まだ梅は咲いていないが、道端にはツクシが二、三寸ばかり、頭をもたげていた。ときどき自転車を止めて、四方の風物に恍惚と眺め入る。スケッチ用具を持って来なかったことを、幾度も残念に思う。
 医王の山は、まだ雪化粧を落とさず、いっそうくっきりと聳え立っていた。戸室山はところどころに黒い地肌が現れている。目をやや近く下に向ければ、向山は春の装いに余念がない。低く連なる山にそって視野を北に向ければ、ひときわ高く宝達山がある。山頂の残雪が何ともいえない荘厳さをたたえている。
 さらに自転車を進めて、橋を渡り、まだ知らない果てしなく続く道を行くと、道端につながれて独り付近を歩き回っていたヤギが、メェーーとないた。それに思い起こされて「森の子ヤギ」を口ずさんでしばらく行くと、郵便屋に会い、そこでメロディは「チリリンチリリン楽じゃないです」に変わる。
 景色を望むのでなく、足を休めるために幾度か止まった。大浦小学校の前を通り、次の一つの村を越え、しばらく行って、川の堤とまじわったところで、そこに登ってみると、おゝ! きらきら輝く河北潟がすぐそこに開けているではないか。白帆が二つ浮かんでいる。釣りを楽しむ人たちがあちこちに点々と見える。
 しばしそれらの景色にみとれた後、自転車を返すことにした。いま来た道はまだまだ続いていて、宇ノ気かどこかへ行くのではないかという気がした。帰りはとても早いように思った。

 「私は誰でしょう」を聞いているところへ、家が七尾へ引っ越した IK 君が、教科書や登校日のことを尋ねに来た。いやなところへ来たものだと思ったが、愛想よく迎えてやった。彼は蛤坂の叔母さんのところにいて、そこから通学するそうである。


 引用時の注

  1. 紫錦台中学校の新聞『紫錦』に Sam が書いた、ある日の散歩についての紀行文風の作文。中学生にしては、なかなかの名文だった。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 03/15/2005 13:59:
 当時は、「おゝ!」と表記するのが、普通だったのでしょうか。私の好きな椎名林檎は、大変古い漢字群をあえて使うことが多いのですが、私もこだわれるものなら漢字、文字にもっとこだわりたいのですが…。
 性格的にはきっと Sam さんの方が Ted さんより幾分快活だった、Ted さんは内省思考型だったのでは、という印象がしますね。でも、お二人はとても似たところがおありのようにも思います。

Ted 03/15/2005 17:25
 「おゝ!」は普通でした。実際の日記帳には、もっと漢字が多いのですが、現代向けに少し修正しています。われわれ2人の性格については、すべてご明察の通りです。

2005年3月14日月曜日

山村暮鳥の『雲』を読む

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年3月29日(土)晴れ

 NHK 主催のものではないが、「三つの歌」はやっぱりあるそうだ。さっそく往復はがきを買ってきて出しておこう。賞金が安いのは気にくわないが、ぜひとも出たいものだ。その金で辞典を買わなければならない。
 十時頃から学校へ行ったが、タイプの練習はそっちのけで、卓球ばかりしていた。サービスや実戦に当たっての作戦について、KD 君といろいろな研究をする。相手の虚と苦手を突いていくようにするわけだ。自己の長所を最大限に活用し、短所を補って…。
 午後、古本屋巡りをする。何か適当な参考書はないかと、自転車で市内の名の知れ渡っている書店を回った。いくつかの有益なことを発見する。ポケットから何度か金を出したくなった。


(Ted)

 旅行に行かないことになった3日間を、ぼくはどれだけ冗漫に使って後悔しようとするのだ!
 絶対的であり相対的であり、制限的であり無制限的であり、大きくて小さく…、こんなことでよいのかと考えながら、KW 君のために手にした万年筆は、ぜんぜん紙上を走らない。字をがたがたに並べ終ったのは、遠ざかって行く製材所のトラックの音も周囲の薄暗さによって疲れたように聞こえてくる頃だ。普通名詞は「文章」「蟻」「塔」ぐらいしか使ってなく、「ミシシッピ河」という固有名詞が入っている、尻つまりの感じのするはがきになった。
 Jack(KJ君)の家で彼の帰りを待つ間に、山村暮鳥の詩集『雲』を全部読んだ。あっさりしている中に、驚くほど多くの感情と思想が生き生きと込められていることに愉快さを覚えながら味わった。例えば、「そっと 静かに 梅の匂いがする」というのがあった。
 ダメなはずだ。ダメなはずだ。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 03/14/2005 13:40
 今日のブログを書いたために、かえって悩みすぎて調子が悪くなり、さっきやっとパジャマからシャワーをあびて着替えて、回復したところです。
 Sam さんも Ted さんも面白い日記ですね。絶対的であり相対的であり、制限的であり無制限であり…。私は高校時代は美術と文学好きでしたので、こうした語彙は私にはなかったんですね。のちに哲学系の学問をやるようになって、これも中心として用いる用語となりましたが。Ted さんは理科系で物理学がお好きだったからこその、こうした概念性が、当時からすでにあったのでしょうか。
 私は研究のため、新たに読まなければならない今の精神保健福祉の現状などの本が山ほどあるので、なかなか文学や詩集を手にできるのはいつの日でしょうね。

Ted 03/14/2005 14:59
 「絶対的であり相対的であり、…」は何について書いたのか、記憶がありません。
 私も最近は読書の時間がとれない毎日です。

2005年3月13日日曜日

流行歌を歌いまくる

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年3月28日(金)晴れ

 タイプの練習に行くために自転車で家を出た途端、Funny (ME君)にばったり会ってしまった。NHK の「三つの歌」が金沢へ来るので、出場申込み料六十円を持って JK へ申込みに行くのだが、「つんだって(連れ立って)」来て欲しいというのである。そんなことがあるはずはないと思ったが、耳寄りな話でもあり、ぼくも申込むつもりで行った。しかし、案の定、聞き誤りたったのか、デマだったのか、そんなものはなかった。その足で(じつは自転車で)AR 君のところへ行くことにする。
 同じように指を使いその器用さを必要とするものでありながら、アコーディオンの方は、どうもうまく行かない。左と右が違う動作をしなければならないことが難しいのだろうか。ぼくにとっては、左手で丸を、右手で三角を同時に描くようなものだ。留守番の相手をしていたら、一時過ぎになってしまった。その間、AR 君が伴奏し、Funny とぼくは五十曲近くの流行歌を歌いまくった。「黄色いリボン」や「ヤットン節」などの新しいものや、「懐かしのブルース」のようなものもあった。AR 君が「ジャズというやつは、絵でいうとマチスやピカソの描いたがみたいなもんで、不協和音ばっかり並んどって、どこがいいのか分からん」といったのは、なるほどと思って聞いた。Funny が盛んに「イースターパレード」や「世紀の女王」など、音楽映画について語った。
 「道に迷ったが、どこか面白い道を通って帰れないか」という口実を設けて、KD 君のところへ寄ってみた。彼は明日、ピンポン球を持って九時までに学校へ来るだろう。


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 03/13/2005 14:48
 Sam さんという方は、明朗闊達、遊び上手の愉快な御仁だったのでしょうね。リーダーシップもなかなかのものだったということが、これまでの交換日記の中でもよく判りますよ。

Ted 03/13/2005 17:26
 ご推察のとおりです。そいう彼から、交換日記開始の初め頃に、私の性格の欠点を優しくながら、ずばりと指摘され、直したいと思いましたが思うにまかせず、私としては悩む日々も多かったのです。
 しかし、彼も非常におしゃべりというわけではなく、私と話し合っているとき、ふと互いに黙り込んでしまったままで、しばらく時を過ごすことがありました。私が、よく考えたことしか話さない性格だったので、それにある程度調子を合わせていたのかも知れませんが。いずれにしても、貴重な友人でした。

春に乗る


 昨夜の天気予報で、冬が春を押しつぶしに来ているといっていたが、その通り、けさは寒かった。しかし一昨日、昨日とは打って変わって、晴れやかな空であった。

 夜中に目が覚めたとき、H 大の Y 教授との共著論文についてレフェリーの一人が述べたクレームが気になり、考えていた。そして、われわれが気づいていなかった「座標系」の「適用限界」を明記すれば、クレームはその範囲外であり、問題にならないであろうことに気づいた。

 写真はけさの空。南寄りに雲はあるが、北はよく晴れている。なお、先日 The Cloud Appreciation Society というウエブサイトを知った。いろいろな美しい雲や面白い形をした雲の写真が掲載されている。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 03/13/2005 11:35
 晴れ晴れとしたよい空を撮られましたね。美しい写真を集めたきれいなサイトが、いろいろとあるようですね。私はネットを使うのが下手なので、なかなか見つけられません。
 私は修士論文の復習から研究を始めることにしているのですが(それが大いに土台になるので)、今日は特に詰まった気持ちや予定もなく、原書講読に少しは当てられそうです。

Ted 03/13/2005 11:53:22
「座標系」の「適用限界」が、共著者には直ぐには理解して貰えず、きょうは何回も彼とメール交換をしなけらばならないかも知れません。私も、少しのんびり読書をしたかったのですが。

2005年3月12日土曜日

兼六園へ


 写真は兼六園の霞ヶ池と琴柱(ことじ)の灯籠(2003年7月16日写す)。

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年3月27日(木)曇りのち雨

 午後の危ぶまれる天候だったが、子どもたちとの約束だったので、兼六園へ遠足ならぬ近足に行く。児童遊園地で彼らは種々の施設を利用しながら、ぼくが二枚のスケッチを終えるまで遊んでいた。長らくスケッチをしなかったけれども、どうにか満足出来るものが描けた。ぼくにだって画才はあるぞという、うぬぼれとも自信ともつかないものがわき起こってくる。自己満足! あまり感心したものではなさそうだが、先入的に劣等感を抱いて、試みようともしないのに比べれば、まだどこか取り柄があるかも知れない。
 霞ヶ池の小さな魚が餌を争っているのを見ながら多彩色な昼弁当を食べ終った頃から、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。中央図書館に宿ったが、児童室は午後一時からだそうで、子どもたちは空しそうだった。雨は強くは降っていなかったから、われわれは唐傘山に登り、夕顔亭を眺め、Ted たちが過日通ったところの新開された道を通って、宮堀通りから帰途に着いた。その時分から雨はかなり激しくなってきて、家へ着いてみると、服を替えなければならないほどにぬれていた。
 (登場人物も内容も三月二日とほぼ似ているが、表現の仕方において違いが認められてもよいとは思わないかい。いずれもっと違ったものになるだろう。)

英単語集で野球ゲーム

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年3月26日(水)曇り

 北安江町まで Reader と Grammar & Composition を譲って貰うために出かける。映画を見に行ったとかで、おられなかったが、本は見つかったので、貰って来た。
 テンペラ画の展覧会を見に行く。佳作や銅賞の方にかえって「うまいなあ!」と思うのがあるのは、いつも同じことである。よい賞を得ているのは、どこが優れているのか、よく考えて見なければならない。
 ブラボー! バンザーイ! あらゆる感嘆詞を集めて来る必要がある。予期しない贈り物に心は躍り高鳴る。「命から何番」のベストテンに位置を占めることはいうまでもない。「マスコット」、「伴侶」。何とことばを与えてよいか分からないけれども、それは生涯、ぼくに愛され、なくてはならないものの一つになることは必須である。
[1]

(Ted)

1952年3月27日(木)雨

 宇波 [2] へは行かないことになりそうだ。今度の教員異動で母の職場の S 校長が退職するらしいので、その発表のある30日に、母たちは学校へ出なければならないというから。
 松本亨先生の英語会話の時間の "Where am I?" は簡単な問題ばかりだ。きょうの答は、"You are in Kyoto City." だろう。
 Jack(KJ 君)の単語集を酷使して、Sam とぼくばかりが愉快がっていたようで、その所有者に気の毒だったが、もう少し工夫すれば、よい学習的野球ゲームになる。アスファルトを灰色に光らせている春雨の中を帰りながら、ぼくの単語集 [3] で T4a 以上をボールとすることにして、語意の下に書いてある反意語や派生語も利用すれば、さらに面白いゲームが出来るだろうと考えた。もっとスムーズにインニングを運ぶようにすることも必要だろう。
 UE 君が東大へ入ったそうだ。

 引用時の注

  1. 誰から何を貰ったのだろうか。具体的に書いてないのが残念である。

  2. 富山県の漁村。現在、氷見市に属する。父方の伯母の家があった。

  3. 旺文社発行の英単語集だったか。次に書いてある T4a は、単語の重要度を表す記号であろう。英単語集を利用した野球ゲームを考案し、この頃そのゲームをよく楽しんでいた。ゲームの進め方は、左あるいは右ページの何番目の単語ということをあらかじめ攻撃側に指定させ、守備側が単語集を任意に開き、攻撃側が指定の場所にある単語の意味を答えられるかどうかで、打球が安打になるかなどを模擬するというものである。英単語を多く知っている方が勝つ確率が高い。単語の重要度の数字も利用すれば、投手と打者の一球ごとの対決(ストライクかボールか、打つか見送るか)から模擬出来る、などと考えていたようだ。

2005年3月11日金曜日

春休みに入る(過去日記)/ 論文、論文、論文(現実)

論文、論文、論文

 目下二つの共著論文について、それぞれの投稿誌の編集長から修正を求められ、手直しをしている。一つは G 研究所からの委託調査をまとめたもので、私の本当の専門分野の論文ではない。

 もう一つは、H 大学の文系学部の Y 教授との共著論文で、これは全く専門外の分野のものである。数年前に関連の問題について、たまたま物理屋の視点から反論的短報を発表したことがある。その関係で、Y 教授から彼の論文について意見を求められ、私の考えを述べまくったところ、共著者にならなければならない羽目になったのである。

 そこへさらに、現役時代に私たちがしばしば投稿した国際的専門誌から、投稿論文の査読依頼の打診が来た。私たちのかつての論文が1編引用されており、私にとって興味深い論文である。西アジアのある国から投稿されたその論文は、英語に多少の難もありそうなので、その査読作業には時間がかかるかも知れないが、引き受けることにした。――何ごとも、重なるときには幾重にも重なったりするものである。――

 米国の原爆開発で中心的役割を果たし、第2次大戦後は核実験停止運動を進めたノーベル賞物理学者ハンス・ベーテ博士が、さる3月7日98歳で死去した。同博士は90歳を過ぎても論文を発表していた。それにくらべれば、私は年齢的にまだ赤子である。ベーテ博士については、別途、一文を書いてみたい。

春休みに入る

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年3月25日(火)晴れ

 早くから出かけたのに、早すぎて卓球をして遊んでいたら、カードを出すのが遅れて(そんなこととは知らなかったのだ)、午前中には教科書を貰えないことになってしまった。講堂の二つの出入口を使って販売している。一方は男子が、他方は女子が、押し合いもみ合いの長蛇の列を作っていた。規律というものが全然ない。ただ自分だけが先に買えればいいと思う連中ばかりだから、たいへんな混雑ぶりである。十人近くの人たちが働いているのだが、なかなかはかどらない。「手伝ってやろうか。無報酬で構わない」と叫んでやりたくなる。「講堂の一つ一つの窓を販売口にして、学年別、コース別に売ればよいのに」「一方を入口、もう一方を出口にすればよいのに」など、勝手なことを考える。が、これは、けっして勝手ではあるまい。もっとも効果的、効率的にすることが大切なのだから。
 割れてそのままになっている棚のガラスを入れ替えようと思い立ち、実行に移す。縦横の長さを測り、ガラス屋へ行って、明日来て入れて貰うよう頼んだ。帰ってよく調べてみると、自分ででも入れられることが分かったので、ガラス屋へ行って、その旨をいい、ガラスを貰って来た。思った通り、自分で出来たが、ほんの五厘ほどガラスの幅が大きかったので、入れるとき無理をしたら、ヒビが入ってしまった。そこを何とかうまくカムフラージュしておかなければならない。


(Ted)

1952年3月26日(水)曇り

 紫中同窓会名簿――Octo(KB君)に見せて貰った。Sam には届いたかい?――の旧職員の欄で、カッコ内に旧姓を添えられている2人の先生の中の1人を訪問する。石切町でなくて、石伐町だ。桜橋を渡って、寺町台地への石段を昇るとすぐのところに T・M 先生の家はあった。寺町で待ちあわせて連れて行ってくれるはずの TK さんが、約束の時間を30分過ぎても来なかったので、Jack(KJ 君)と先に行って、先生の家を探し当てた。
 新しくて小さい生命を先生の腕と胸の間に見た。先生にとって昨年は、忙しさと変化の多くが一度に押し寄せた年だったそうだ。少し遅れて NK さん、BS さん、そして最後にTK さんが来た。まだ4カ月にもならない人物が、われわれの注目の的であり、話題の中心または一端をつねに占めている大きな存在でもあった。その他、先生の話は、見知らない小学生や中学生たちの顔をほうふつとさせるものだった。それは、童話的であり、小刀が足に刺さる不幸の物語であり、教える楽しみの吐露であった。
 TK さんは「まぁ、すごい」と自分で自分のことをいって、他の2人の女生徒の方へ赤く照れた顔を向け、「いろんなことがあったゎー。」と懐古的なことばを放った。T・M 先生は、その TK さんの一件を次のように話された。
 「家出せんなんていって、先生のところへ来たがゃ。自殺するがんないかと思うて心配したゎ。『先生、人間はどうして生きなければなならいのですか』なんていうがやもん。あんまり本読み過ぎたさかいや。」
 正座し続けていた Jack とぼくは、膝を痛くした。われわれが帰るとき、先生は可愛いい分身を抱いたまま、犀川の流れが見え下から冷たい風の吹きつけるところまで送りに出て、励ましの言葉を下さった。

横浜事件の再審が認められる

 太平洋戦争中最大の言論弾圧事件として知られる横浜事件について、東京高等裁判所は、3月10日「元被告らの自白は警察官の拷問によるもので、無罪を言い渡すべき証拠にあたる」と指摘し、横浜地裁決定に続いて再審開始を支持した。有罪判決から60年を経て元被告ら全員が亡くなっており、遅きに失してはいるが、戦時中に起こった言論の自由をめぐる事件に高裁でも再審が認められたことは、歓迎しなければならない。

 ところで、上記のニュースを伝える3月10日付け朝日新聞夕刊の記事は、やや不親切である。高裁決定の骨子の概略が3項目まとめられているうち、最初の項目は、

●ポツダム宣言受託で治安維持法の規定が効力を失ったとして、再審開始を認めた一審の判断理由には疑問がある

となっている。これは元被告らに不利な結論と取れ、ニュースと矛盾するように思われる。この項目に関連する説明がないかと記事を何度も読み返したが、見当たらない。

 しかし、同じ朝日新聞のウエブサイトの記事には、次のような説明がある。短いが、よく納得できる文である。

高裁決定は、横浜地裁が治安維持法の失効時期を「ポツダム宣言受諾の時点」とした点については「見解は様々で、にわかに決めがたい」と指摘した。一方で、…

高裁は、地裁が理由とした「法令適用の誤り」は疑問視したが、元被告らが「拷問を受け、虚偽の自白をした」ことを重視したのである。

 ポツダム宣言受諾が直ちに国内法の失効につながるかどうかは、確かに、「にわかに決めがたい」かも知れない。ただし、戦時下の行き過ぎた取り締まりから生じた裁判に、敗戦後有罪判決が下されたことは奇怪であり、これに対する横浜地裁の再審開始決定を検察側が不服として即時抗告し、今回の裁判に到ったのも奇怪である。検察とは、単により多くの犯罪者を作り出すためだけの職業であるのか。あるいは、検察は治安維持法時代の取り締まりを、なおよしとする精神を秘めているのか。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


M☆ 03/11/2005 19:40
 戦争中には色々な「事件」があったことでしょうね。教科書には載っていない(731部隊もそうですね)様ざまな事件が起こり、いま生きている若者はその事実すら知らないで毎日を生きているわけで…。こうした60年も前のことを例え当事者が亡くなっていたとしても、再び取扱い、いま一度考え直す機会があるというのは、とても貴重なことだと思いました。

Ted 03/12/2005 07:52
 3月10日は東京大空襲(死者10万人以上、被災者100万人以上)から60年でした。また、3月13日は第1次大阪大空襲(終戦前日までの8回の大空襲による死者1万5千人、被災者122万5千人)から60年になります。このような悲惨なことが二度と起こらないように努めたいものです。

2005年3月10日木曜日

新学期に備える

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年3月24日(月)雪

 アセンブリーよりもわけの悪い終業式を終えて、教室で教科書購入明細書と通知簿を受け取った。買わなければならない教科書の金額合計は、Ted のそれより四十七円安くて済むが、Grammar & Composition と Reader は譲って貰えるし、それに、昨年うっかり余分に買った本(簿記練習帳)が使用できるので、それらの金額を引けば、五百五十八円になる。一番高価なのは世界史(好学社)の百四十二円である。
 通知簿についても書くならば、まだまだ天井は高いが、かなり昇って来たものだと思う。平均9.16だという。解析で「実際場面において…」が他の二つの評価より悪いのは、変なところで Ted と共通だ。
 体育館の壁が急に明るくなった。ぼくたちのクラブも二枚のポスターを貼った。一枚はクラブのバッジを図案として取り入れたもので、もう一枚は、「新入生大歓迎」とその下に「TYPEWRITING CLUB」の文字を細長く書き連ねたものだ。


(Ted)

1952年3月25日(火)曇り

 Sam が3月16日付けで書いてくれた「反省点綴」への感想について。抽象的であるのは確かだが、いまのぼくの筆力では、あれ以上具象に出来ないから、あゝなったのだ。抽象を具象にするには、多くの例を列挙しなければならないから、もっと肥えた目と切実で大きな経験とを持った段階において、それは初めて可能となる。いまのぼくがそれを求めつつあることはもちろんだ。――故意になした抽象ではないのだ。――「肝心なところ」とは何か、教えて貰いたい。「幾多の修正」とは、どれだけの修正か分からない。しかし、ぼくも修正が必要なことは、挟んでおいた紙でも認めた通りだ。また、修正してどのような方向に向けなければならないかも分かっている。
 Sam の3月20日付け日記について。Sam が何をうぬぼれ、何を得ようとし、何を体験し何を刈り取るために、どんな種をまこうと、どんな動機で、考えたのか知りたい。[1]
 Sam があまりに忙しそうだったから、『新樹』を返して貰うことを忘れた。昨日、母が通知表を受け取りに行ったとき、M・T 先生から「反省点綴」のことを聞かされたということで、読ませて欲しいといわれたのだ。
 電車の中で Tom(SK 君)[2] と一緒になったので、AR 君訪問という彼の用件の先に、2人で Octo(KB 君)を訪ねる。学期の終りか休みの最初の日に見せ合うことをOcto との間の習慣としてきた1枚の紙を見せて貰う。商業の何かのところに、あまりにもあり得ない点がついているので、彼は怒っていた、いや温和な彼だから、怒るほどではなく、不機嫌になっていた。Jack(KJ 君)の図画の点が音楽のところについていたそうだし、心にいくらかの喜怒哀楽を与える数字が、こう無責任に記入されたのではたまらない。――しかし、大真理の前にあっては、いかにも些細な事柄での誤謬であり、それに拘泥することを、いままでのぼくは好まなかったし、これからも好みたくない。――
 Tom は英語と数学の試験について、出来たと喜んでもいなければ、難しかったといってもいなかったが、どちらかといえば、喜ぶ方からは遠いようだった。英語の問題が用紙2枚にわたっていたことや、肯定文を疑問文に直す問題が始めの方にあったことなど、昨年ぼくたちの受けた試験に似たところが多い。

 引用時の注

  1. 私は、自分がしばしば抽象的な日記を書いていることを棚に上げ、Sam にこのように求めたことは、いささか厚かましかったといわなければならない。

  2. これまで友人たちの名前は、実名から取ったアルファベット2または3文字で表していたが、これでは、読者にとって覚え難いだろうと思い、頻出する友人名には、HP に掲載している大学生時代の日記で使用しているニックネームを使うことに変更した。当分、実名からのアルファベットと併記する。

2005年3月9日水曜日

教科書一式が834円

 高校時代の交換日記から。

 [Sam はここから緑色に近い青インクを使って書いている。私は相変わらず、鉛筆書きである。]

(Sam)

1952年3月23日()雨

 次の新しいノートを持ってきたということは、ぼくにもっと書けという意味なのかい。あるいは、今後当分交換できないから、ぼくがそこまでかけるはずだという見積もりなのかい。どちらでもよいが、始めのようなことだろうと推測し、努力して行こう。
 雨。!!!!!!!!!! つまらない日だ。一昨日求めてきた本や『新樹』が時間を消費するための手段として有効に使われた。
 一日中家の中にいて運動らしいものをしないから、身体の状態がおかしい。食欲が平常より少ない。


(Ted)

1952年3月24日(月)雪

 1学年が終った。「完全」との間にはなはだしい差を残して。
 教科書購入明細票が配付される。分かっていない漢文の1冊を除いて計算すると、834円だ。
 通知表は、今学期は10点満点の素点の下の欄に、5点満点の評価もついている。解析は「実際場面において正確に数学的な技能を使用する習慣」だけが悪く、9である。国語甲と乙の両先生の評価では、ぼくの「話すことによって効果的に自己を表現する能力」が異なる。いい加減なものだ。
 午後、Tom(SK 君)が来る。明日、[彼の進むことになった泉ケ丘高校で]英語と数学の試験があるそうだ。Y・K さんとの喧嘩のことは何もいっていなかった。彼のお陰で、He appears to be a wise man. のような、補語としての不定詞が、形容詞用法でなく、名詞用法であることをはっきり学んだ。
 かなりよく出来た!と思っていたものが48時間足らずで、実にまずいと思うようになった。しかし、まずかったことを認識し得ても、それ以上を表現し得ない。もう止めだ。――幼稚で間が抜けているが、どこか親しみがある。2枚とは描けない。掴むべきところを掴んだのか、ぼくの印象とは一致するものがある。――書いていることが矛盾している。[1]

 引用時の注

  1. 3月22日に描いた似顔絵を取り出してみての感想。

2005年3月8日火曜日

特別教育活動が改定される

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年3月22日(土)晴れ

 来年度は A(アセンブリー)、C(クラブ活動)、H(ホームルーム)の特別教育活動を改定し、C は時間外だけとし、A と H で1時間とするそうである。そうして作られた余分の二時間は授業をすることになる。その増加に伴う登録が第四限に行われた。その内容は、次のようなものである。社会科は卒業までにその課目を取ることのできないものに限り、取ることができる。例えば、二年で世界史、三年で人文地理をすることになっていれば、日本史 B か時事問題 B を取ってよいのである。数学科は解析 I と幾何、理科は生物と化学で、これらは既修者と未修者のどちらでも取ることができる。既修者が取るのは A、未修者が取るのは B である。英語、国語、芸能科は、それぞれ好きなものをしてよいことになっている。しかし、二年生で英語 III を取れないことはもちろんである。
 きょういわれて、きょう決めなければならないので、大いに迷ったが、一度修めたものをさらに深くするよりも、新しい課目をすることにし、時事問題 B を第一志望、化学 B を第二志望に登録しておいた。
 四限にはこのほか、会則修正の賛否投票が各ホームで行われた。その結果は五百何票対百何票で、賛成が優に2/3を超え、修正案成立となった。この修正にたずさわった者としては、まずありがたいことである。果たして来年度の選挙がうまく行くかどうか、それはまた、別の問題である。
 本校合格者の発表が掲示されている。おんや、まぁ? これは可愛そうだ。長町小校下の生徒たちは半分ほど泉ヶ丘高校へ行かなければならないことになっている。二年生や三年生は二水へ来ているのに、同じ町でありながら、一年生だけが時間にして三倍はかかると思われる泉ヶ丘まで行くということは、可愛そうでたまらない。


(Ted)

1952年3月23日()雨。風が強い

 天候が外出を阻んだ。午前中は計算尺を動かし続け、午後はいつの間にか終る。夜は特集番組の、次つぎに出てくる歌謡曲とともに長い。急に起き上がった祖父は、8時20分(時計は5分ほど進んでいるが)の長針と短針を見間違えたのか、廊下を往復する散歩を始めた。

おとましい / その星へ行くロケットは…

おとましい

 昨7日は快晴となった。風はまだ少し冷たかったが、久しぶりに大阪の気温は13度まで上がった。ウォーキングは、津久野方面へ足を向けた。きょうも快晴、気温はもっと高くなりそうだ。午後は病院での検査予約があり、この好天気はおとましい。

 「おとましい」とは、金沢弁で、もったいない、の意である。『広辞苑』第1版には、金沢での実際の用例からみてあまりぴったりしないと思われる「身分不相応な」という説明をつけて載っていたが、いま持っている第3版には、このことばが載っていない。ちなみに、先日テレビで、「けなるい」という古い大阪弁があり、「うらやましい」という意味だといっていた。これは金沢でも同じ意味で使う。『広辞苑』には「けなるい」を方言とすることなく、この意味を記して載っている。

その星へ行くロケットは…

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年3月22日(土)晴れ

 昨年のきょう、Sam と ME 君を招待したのだった。翌日は仮入学式。雨が降っていたようだ。翌々日は晴れていた。プールの縁に Minnie が友人たちと腰かけていた…。NK 先生に教室で習う最後の日となったのは、それからもう数日あとだった。そのとき、これまでの最低が95点と自負していた英語において、非公式の試験ながら、95点満点の48点という破天荒な成績を取った [1]。英作文では、「窓を閉めて下さいませんか」を "Please shut the door." としたり、「私はリンカーン公園の池へ行くところです」を "I am going to the Lincoln park." と "the pond of" を抜かしたり、単語では、数学を mathematic、砂糖(このことばをつぶやきながら [2])を shugar などと書いたりしたのだ。この試験問題は、NK 先生が1年生の補習授業に使われたプリントの余りだったそうだが、ぼくの成績がこれではと、他の誰のも採点されなかった。

 クラブの時間、運動場でソフトボールをした。阪急もきょうは第1戦をするのだ、と思いながらバットを振っていたが、オリオンズにもう1敗したではないか。
 『千曲川のスケッチ』。描写ばかりで、躍動的、刺激的、感動的なところが少ないためか、多くの色彩と情緒が巧みに盛られている作品であるにもかかわらず、いまのぼくには気乗りのする読み物でないことを、読みながら発見した。しかし、無理に押し進めて、読み上げた。「枯々した」だの「籾」だの「蓬」だのという文字ばかりが印象に残っている。
 多くの時間を費やした。2枚描いて、あとのは破った。粗っぽい下描きのときは、どうなるともいえないながら、どことなく、よくなりそうに思えた。何となく似ているように描けた。ひとまず成功だ。だが、何だか悲哀に満ちているようだ。Marie Sklodowska Curie … おう、夢だ。いや、理想だ。そして、その星へ行くロケットは…。こうしてはいられない。[3]

 引用時の注

  1. これに先立つ高校の仮入学式の日に英語の試験があり、私は一人、満点を取った(この満点のおかげで、高校1年のときの英語の I・S 先生から神童扱いされて困った)のだが、そのあと気が緩んだのか、遊び心になってしまったのか。

  2. つぶやいたのは、隣の席の KJ 君に聞かせ、彼を面白がらせるのが目的だったことと、この2、3日前から中学皆出席の Minnie が珍しく補習授業を休んでしまっていたことを記しておく。なぜこのことばをつぶやけば KJ 君が面白がったかは、読者のご想像にまかせよう。

  3. 写真を参考にして誰かの似顔絵を描いたことを記しているが、誰の似顔絵だったかは、これも読者のご想像にまかせよう。

2005年3月7日月曜日

地獄極楽の絵


 高校時代の交換日記から。

 上のイメージは一つ先のブログに引用した私の1952年3月21日の日記のところに貼付してあった紙片のコピー。「米、対日平和条約の批准を完了」という、当日の新聞記事の見出しを私が手書きしたものと、当時の米国国務長官ダレス氏の写真である。

 写真は新聞を裏から鉛筆の根元でこすって紙に転写したので、新聞に掲載のものとは左右が逆になっている。「こんないたずらは? 何も薬品を用いたわけじゃない」と紙片の下に書いてある。Sam は「石けん水でも使ったのか」といったのだった。下に引用する同日付けの Sam の日記も、たまたま最初にこのニュースに触れている。

(Sam)

1952年3月21日(金)春分、晴れ

 米上院批准案可決!(こんなことがトップに出てしまった。)

 梅花の白く匂っているのを見かけた。We went to a park, and played some kinds of game. Since it was very fine, we enjoyed very much.(主語の複数は、例の子どもたちが一緒にいたことを意味する。)
 午後は自転車を利用して、市中めぐりをする。金沢駅へ行って、新築工事を行っているその近代的機械利用文明にみとれ、別院に向かってその荘厳豪壮な建築に遠い昔の工事の様を想像した。
 「地獄極楽の絵」。正式には何という名のものか知らないが、焦熱地獄とか、天道、地道、餓鬼道など、様ざまな絵図がかけてある。すべて想像図に違いないが、なかなか恐いものを描いたものだ。大きな絵図だが、細かく描いてあるから、少し遠く離れて見ると、何なのか分からない。説明文がないから、こうなるとああなるのだろう、こういう意味なのだろうと、考えをめぐらしながら見ていく。一人説明している年老いた坊さんがいたが、その周りは人が大勢だった上に、聞き取りにくい声だったから、それを聞くのはあきらめた。これは、いわゆる視覚教育である。何でも、小さい頃には、とても恐いと思って見たので、暗いところなどでは、長い間それを思い出して、おののいたものだ。「讚善戒悪」というのか、もっとよいことばだったと思うが、それを全体を通していっているのは、いうまでもない。
 三和百貨店はなかなかよいものになっている。しかし、狭いところに並べ過ぎた感じだ。とくに、階段は急で狭いから、危なくてたまらない。
 安井書店、というより、ヤスイホンヤの方が分かりやすい、その店でこれまでぼくの読んでいたものとぜんぜん変わった二冊の本を求めた。春休みになったのだから、うんと柔らかいものでも構わないと思ったからだが、自分ながら変な気持ちだ。しかし、これが案外、ぼくの前まえから要求していたものかも知れないのだ。


(Ted)
 書名ぐらい具体的に書いてくれ給え。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

M☆ 03/07/2005 17:38
 昔の日記をずっとってあるのが凄いなぁ。私も書いてたはずなのに…1冊も残ってないです(^_^);
 地獄極楽の絵は、江戸博物館だったかな?で1度だけ見たことがあります。「よい人間になろう」と心に誓った瞬間でした(笑)。

Ted 03/07/2005 19:54
 M☆さんの昔の日記が1冊も残っていないとは、惜しいです。
 Sam が書いている地獄極楽の絵は、金沢の東本願寺別院か西本願寺別院という寺で見たもののようです。
 M☆さんは、よい人間になっていますよ。

M☆ 03/08/2005 01:11
 (´▽`)(照)。

さっそく種をまこう

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年3月20日(木)曇り

 午後は単位認定会議か何かがあるそうで、授業は午前中で打ち切り。四限がブランクだったから、家へ十一時三十五分に帰り、畳の上に座って昼食を食べることが出来た。しかし、午後、会計監査委員会があることになっていたので、自転車で再び学校へ行った。仕事は、会計簿と支払書とが一致しているか、もっと簡単にいえば、金銭上の不正がないかということを調べるものである。

 Sam! お前はそれほどまでうぬぼれているのか。それほどまでしても、それを得たいのか! やってみ給え
[1]。どんな結果が得られるかわからないけれども、どちらに落ち着いても、たとえ悪い思い出を作ることになったとしても、けっして、悪い体験にはなるまい。さっそくその種をまこう。芽が出るか出ないか、まずそれが問題だ。

(Ted)

1952年3月21日(金)晴れ

 1年に九つある中の3番目の祝日だ。静かに、そして楽しく過ごしたように思う。11時から正午までは洗面器と石けんと手ぬぐいを持って、祖父のための時間とした。午後には母との行動があった。香の煙とロウソクの火と一つの部屋にぎっしりつまった人びと――多くはどんなに楽しいときでも歌が唇をついて出ることがなく、その代わりに、念仏という単調なものをつぶやく年齢層の人たち――の頭を眺めていた時間だった [2]。

 引用時の注

  1. Sam にしては珍しく、抽象的に自問自答している。ラブレターでも書こうとしているように取れるが、どうだったのだろう。

  2. 母と大谷廟所へ彼岸の参りに行ったのである。

奇跡

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年3月20日(木)

 取り得るものを取らないとは、そして、自分より多くを取ったものがいるとは、それが何についてであれ、残念な気がしないことはない。[1]
 「財貨」を「財価」と書いたので1点引かれたそうだ。――これは Vicky のことだ。―― MR 君はその2倍を、ぼくはその3倍を引かれた。ソシアル・ダンピングについて「安価で投げ売りすること」としか書かなかったのが悪かったらしい。他に90点台が2人いた。それが誰だれかをぼくが覚えていないのと同様に、Vicky はぼくの点など問題にしていないかも知れない。(答の選択理由を書かなければならないことを聞きもらしていた2枚目の方は、この採点には入っていない。)
 解析の最初の問題は15点の配点だそうだ。えらいことになってしまった。90点が一番よかったそうだ。
 英語の答案用紙は、珍しく返却された。「銅貨」は間違いにされていなかった。隣のMR 君と見せ合った。彼は14点引かれていた。KJ 君が、Vicky は90点といっていたが、そんなはずはない。整理番号が Vicky の次である TJ 君の答案用紙と見間違えたのではないか。どう間違っても、10点に値する減点を受けることは、彼女には不可能だ。

 足駄の音を方ぼうへ引っ張って行く。それに並んで、KJ 君の靴の音が、同じくどこへ行くともなく動き回る。――おう、そんなことに出くわすことを期待した午後ではなかった。―― KJ 君の部屋が布団などで一杯になっていたので、手袋をしないでは冷たさを感じる気温ではあったが、及落判定会議のため授業のなくなった時間を、われわれは外で過ごすことになったのだ。始めに KJ 君の家の用事で大手町の税務署へ行き、次いで、SNN 君の不在を見出していささか困ったが、MR 君の家を目指すことにした。
 角から紺色の姿が、かなりの速足で現れる。Minnie だ。ピンク色の毛糸の玉のような、――いや、こんなものでは例えられない、――その後ろには水にぬれたような黒い髪が垂れ、それはセルロイド製のようでもあり、いまにも空へ舞い上がって行きそうでもあり、光と圧力を発していながら、あくまでも柔らかい、そのような顔。見てはならないものを見せられているような………………。手に買い物篭のようなもの。KJ 君の質問に「お使いに」という。KJ 君がもう少しことばを交わし、「さようなら」といったあとは、黒い小さな弾丸のように去ってしまった。[2]
 昨年のきょうより4日後に、Minnie とぼくは並んで教壇に立ち、黒板に向かっていた。立たせたのは NK 先生だ。ぼくは、She said, "Oh, what a fine sight it is!" と She said that what a fine sight it was. の二通りの話法の文を書いた。Minnie の答は、直接話法の文の終りを感嘆符にし忘れピリオドにしたことだけが、ぼくのと違っていが、NK 先生から「おっきな間違いをしたな」といわれたのだった。[3]

 MR君は親戚のところへ行って不在だったので、ぼくたちは KB 君の家へ回った。算盤が机の上にある。先日、珠算検定試験で3級になった多くの名前が新聞に載っていた中に、KB 君の名前もあった。石引小の放課後の珠算教室で初めて彼を知ったときのことを思い出す。
 帰りの坂道を登りながら、KJ 君は「奇跡って、起こるんやなぁ…」といった。Minnie の最も新しい印象を得た瞬間のことをいったのだとは分かったが、ぼくは「いやに哲学的なことをいうなぁ」と落ち着いていった。彼女と別れたあとの KJ 君は、茶色の毛糸の手袋を口に当てて、みょうに顔の血のめぐりをよくして、つんつんと先に立って歩いたのだった。――そうだ。彼は、眼鏡をかけた顔を初めて彼女に見られたのが、きまり悪かったらしい。――

 ぼくは自分に行動の沈黙を勧める。と同時に、多くの経験をすることをも勧める。

 引用時の注

  1. 試験の点について書いている。私はいわゆる点取り虫ではなく、点が悪いことより、習ったことの理解度において友人たちより劣ることを残念に思う傾向があった(他から見れば、大差ないかも知れないが)。したがって、「残念でならない」という強い表現ではなく、「残念な気がしないことはない」という柔らかい表現をしたと思う。

  2. KJ 君と歩いていて、中学同期生で高校が別だった K・S さんに偶然出合ったことの記述である。私のホームページに掲載の大学生時代の日記にも、K・S さんは何度も登場するが、そこでは Minnie のニックネームを使っているので、ここでも、さかのぼってそうすることにした。

  3. KJ 君と Minnie は中学2年と3年のとき、クラスも同じだったが、ぼくが Minnie と同じ教室で習ったのは珍しいことだった。卒業式後にもかかわらず、NK 先生が担任した3年のクラスの希望者に英文法の補習授業をされた。私は、同先生に1年のときに担任され、その後も何かと親切にして貰っていた関係で、その補習授業受講者の仲間入りをしていたのだ。「大きな」を「おっきな」といわれるのは、「若干」や「XX、言ってみろ」(XX は私の姓、他のクラスでは難しい質問に答えられそうな別の生徒の姓が代入される)のことばとともに、NK 先生の授業中の口癖だった。

2005年3月6日日曜日

アンコンシアス・ヒポクリシー

 高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952年3月19日(水)

 雨が風で叩き落とされるように、激しい音をたてて降っている。午後3時過ぎから電灯をつける。一日中、夜のようだ。しかし、目はしっかと開いて、文字を追い続ける。夢をそそるようだった昨日の天気にくらべて、こういう暗い日の方が思索に向くかとも思われるが、みょうに、こんな日は考えが発展しないものだ。読書をするにはよい。
 雨はいま、灰色のオーロラ状の幕となって、屋根をなでたり、巨人の使う刷毛――その毛は無数の針金である――となって、不気味な音とともに、空を切り地を叩きしている。

 小宮豊隆が『三四郎』の解説を書いている中に、次の文がある。

 漱石のいふアンコンシアス・ヒポクリシー(無意識の偽善)とは、人が、自分の意識しない間に、即ち不用意の間に、平素の自分でないものになっている事を意味する。人が、自分の意識と反省との届かない奥の所で、意識し反省する自分とは全然違った事を感じ、ある時ある場合に、その感じに任せて言動するとすれば、其所に漱石のアンコンシアス・ヒポクリットが優に成立するのである。

昨年のきょうより3日あとに始まったぼくの感情の一つの解釈として、参考にしてみるべきものがある。

どんく

 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年3月18日(火)晴れ

 「どんく魚せんぎ」これは、いったいどう読んだらいいと思うかね。こんな題なんだ
[1]。「どんくギョ せんぎ」でも「どんくウオ せんぎ」でもよいそうだ。「どんく」というのは、われわれの呼んでいるゴリ [2] のことだという。たんに「どんく」といっただけでは魚か獣か鳥か分からないから、魚という字を加えたのだとのことである。ついでだが、カエルのことも「どんく」というところがある、と書いてある。

 せっかく夕べ苦心して教科書の最後についている紙を利用して計算尺を作っていったのに、もう明日から使わないそうだ。
 クラブがアセンブリーに入れ替えになって(先週は A が C に入れ替わったのだ)、第一体育館で会則修正に関する公聴会が開かれた。答弁には正副会長が当たっていた。最高議決機関は生徒議会にあるか校長にあるかとか、あるいは生徒集会、クラブなどに関することに対して、質問が集中した。質問者は一人残らず二年生だった。(この機会に会則を見せて上げよう。)

1952年3月19日(水)雨

 社会が十分ばかり早く済んだので、卓球室でゲームをして遊んでいたところ、始まったのに気づかなくて、生物に遅刻してしまった。きょうは、そのほかに、体操で篭球のゲームをしたし、昼食時の休み時間には、第二体育館で排球の円陣パスをした。まさに、スポーツのための日である。
 人間の呼気は、朗らかなときに桃色、怒っているときに灰色、悲しいときに青色になるそうである。青息吐息とは、適切な表現だとか。雰囲気はこの呼気によって作られるとか。

 春休みのスケジュールについて ME 君に一つの提案を試みた。趣旨には賛成してよいが、その方法について問題があるというような意見だった。
[3]
 Ted はいまでも駄目かい? KJ 君も持っているから、教えて貰って出来るようになったかい? もしまだなら、この春休みに完全にこなせるようにしたらどうだろう。Better late than never. というからね。[4]

 引用時の注

  1. 国語の教科書にでもあった文の題名のようだが、誰がどこに書いたものか不明。

  2. 「ゴリ」は金沢の方言で、淡水魚カジカをいう(『広辞苑』による)。Sam はこのあとに、カエルのことも「どんく」というところがある、と書いているが、カエルの一種にもカジカという名のものがあることに、どこかつながりがありそうだ。ちなみに「ごりの佃煮」は金沢名物の一つである。

  3. 何のスケジュールか不明。次に、別のパラグラフがあり、祖母が驚いていたようだとあるが、これも意味不明であり、省略する。

  4. 私に自転車に乗れるようにしろといってくれたのだが、間借りの身で自転車を買っても置く場所に困ると思い、さらにまた、運動神経がはなはだ鈍かったこともあり、乗る気が全くなかった。いまでもダメである。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

kwama 08:58
 こちら長崎ではカエルのことを「どんく」と呼びます:-)
 もう三月というのに、昨日からずっと小雪が舞っており、屋根にはうっすらと積雪が…。あ、いま、ちょうど雲間からお日様が顔を覗かせました。

Ted 03/06/2005 09:41
 kwama さんは長崎にお住いでしたか。高校生時代からの長年の謎「カエルのことを『どんく』というのはどこだろうか」の答となる貴重なコメントをいただき、ありがとうございました。

Y 03/06/2005 09:36
 少なくとも関西では有名なはずの、「ドンク」という美味しいパン屋さんがあるので、その話題かと思って来ました。
 「篭球」とはバスケットボールですか? 私はすごく厳しい中学バスケ部でキャプテンをしていましたが。「排球」はサッカーですよね。
 どの話題にしても、呼気のお話にしても、Sam さんは Ted さんと本当によく合う聡明な人柄のよいお友達だったのだろうなと思います。

Ted 03/06/2005 09:51
 ほう、由名さんは、中学バスケ部のキャプテンでしたか。「排球」はバレーボール、サッカーは「蹴球」です。私が終戦前後に大連の小学校にいた時、休み時間に軟式テニス用のボールで蹴球遊びをすることが盛んでした。野球、卓球以外の球技を漢字で書くことは少なくなりましたね。

Y 03/06/2005 10:16
 その中学バスケ部は、全国大会にも出るようなところでして、そして当時の教育ですから、先生(教師)や OB から殴られる(一回の「殴り」で、数えた最高記録の張り手が29回連続でした)、試合中の休憩時間に「ダッシュしろ」と言って走らされる、週1日のトレーニングのみの日は運動場30周走るというメニュー、退部届けを先生から渡されて、「どうかもう一度、お願いします」と頼まなければならない…といった、壮絶なバスケットボール部でした。私はガードでした。背も高くなかったからですけど、あまり動かず頭脳でチームに作戦(用語忘れました…)をサインで送り、パスボールを渡すのが得意でしたから。これまた壮絶な先輩・後輩の支配関係で、先輩に信頼されてキャプテンになってからは、ぱっとしない実績でしたよ。県でベスト4で終わっています。

Ted 03/06/2005 11:19
 厳しい練習ぶりだったのですね。私は、クラブ活動はスポーツとは無縁で、中学・高校とも、新聞部でした。一般新聞の社説に相当する「論説」を中学と高校でいくつも書きました。中学時代の論説の一つの中で、将来に「希望」をもって、「健康」に注意し、何事にも「活発」に取り組もう、という「3K主義」を唱えましたが、卒業後母校を訪問した時、その後に出た学校新聞に後輩女生徒が、その論説を盗作しているの見て、嬉しいやら、悲しいやらの複雑な思いでした。

2005年3月5日土曜日

"Free!" と叫ぶ気はない

 高校時代の交換日記から。

1952年3月17日(月)晴れ

(Sam)

 きょうのホームルーム時の利用に対する評価は、どんなことがあっても4を下るまい。最後のホームとしては、成功したといえる。まるで自分で自分をほめているようでおかしい。しかし、とにかく、満足に値する。メンタルテストの問題はそんなに難しくないと思っていたのに、とても時間がかかった。ワーズ&ワーズをするための時間を長くすれば、さらに面白かったのではないかと思う。
 体操は篭球の簡易ゲームをする。英語では、和訳問題がなかなか難しかった。


(Ted)

 100の穴を埋める作業をしたのだとすれば、その全部を少しの隙もなく埋め尽くしたことにはならないけれども、――はなはだ心残りもするが、――終るだけは終った。しかし、1学期のこれが終ったときに KZ 君がいったように「すべてが終った」とか、アブウが鉄の瓶から出してやった巨人が叫んだ [1] ように "Free!" とかいう気はない。[2]
 明日、明後日が休み、それに木曜も午後の授業はないそうだ。たくさんのことが習えないままに残ってしまう。
 頭が痛い。KJ 君、HN 君、IS 君(あとの二人とは途中で一緒になった)と歩き過ぎたのだ。兼六園庭球場の上から、金沢大学の校舎を回って、その正門から出て来たりした。
 図書館の Life 誌で、スターリンの通信簿を見た。写真の中のロシア語はもちろん、下の英文説明も完全には理解できなかった。5が最上の点を表すと書いてあった。そして、数字が、タワシでこする音を形容する副詞状に並んでいた。Sam の通信簿は、タワシの音よりもむしろ、投手がけん制をする気遣いのないときに、コーチャーがランナーに向かって叫ぶ声に近いだろう。

 引用時の注

  1. 映画『バグダッドの盗賊』の一場面。

  2. 2年足らず先に大学入試が控えていることを考えていたのだろう。

「の奴」

 高校時代の交換日記から。

1952年3月16日()曇り

(Sam)

 人間、寝ころんでいる時より、坐っている時の方が決断の力が盛んになるとか。
 寄らば大樹の影とやら、見れば『新樹』の疎とやら。「反省点綴」、せっかく力を込めながら、抽象的で、肝心なところが不足だ。幾多の修正を要する。読者を満足させる修業を積まなくてはいけない。
[1]

(Ted)

 話したかったことを話せなかった [2] Samとの散歩に、有意義を青、無意義を灰色として、空に判断を求めるならば、だんぜん適切な答を出してくれている。空は、いま、一点の有彩色もまじえない姿を横たえているから。しかし、仕方がなかった。
 反意語の問題、democratic に対しては aristocratic か feudal だろう。behind には before、dirty には clean でいいよ。

 「晴れたかと思えば曇り、寒いと思えばもう暖かく、愉快になったかと思えば、たちまち不愉快になる。だが、いまは辞書をひっくり返して探し得るすべての快さを表すことばがわぁーっと一時にわれわれの感触に訴える形で押し寄せて来る季節だ。一つの段階を終えて次の新しい段階を経験しようとしている君は、退屈していてはいけない。眼前に拡がる大洋の波が君に何をささやきかけているかに耳を傾けることだ。――『の奴』(とは、もういわない方がよい)と喧嘩をしたって? 君たちのことだから妥協できないことはないだろうが、早く講和条約を結び給え。そんなことは君たちの間に、いや、平和を希求する世界のどこにだってあってはならないことだからね。」[3]
 まずいが、こういうことにしておこう。整然とした文章、整然とした思想、一挙にそれらを望むのは無理だが、少しずつでもそれに近づかなければならない [4]。

 引用時の注

  1. 私の高校の生徒会発行の雑誌『新樹』と、それに掲載された私の文「反省点綴」への辛い批評。

  2. 前年の春のように、また、中学同期の K・S さんを一緒に訪れたい、とSam に提案しようと思いながら、ちゅうちょし、けっきょく提案しなかったということか。私は、少なくとも意識の上では、友人として K・S さんに近づきたいと思っていたが、Sam と私の共通の友人で高校が Sam と同じの ME 君が、K・S さんに異性としてほれ込んでいたという複雑な事情(不等辺三角関係?)があった。

  3. 中学の新聞部で一緒だった1年後輩の SK 君への返信の下書き。日記は平素鉛筆で書いていたが、この部分は万年筆で書いてある。文中『の奴』とあるのは SK 君の同級生・ガールフレンドだった Y・K さん。SK 君はいつも彼女のことを話すとき「Kの奴」といっていたので、私も彼に「『の奴』とは最近どうしてる?」などといっていたのである。

  4. 「なければならない」は仮名で書くと長いが、Sam と私は、Sam の提唱で、ギリシャ文字オメガ(ω)の左右を水平に近く開き、中央の盛り上がりを大きく交差したような形の速記文字で表すことにしていたので、「なければならない」の語を容易かつ比較的ひんぱんに使い得たのである。「少しずつでもそれに近づかω。」というように。

2005年3月4日金曜日

ねはん(涅槃)

 高校時代の交換日記から。

1952年3月15日(土)晴れ

(Sam)

 三六六日前のきょうは何があったろう、そして、どんな日だったろう。手元に日記帳がないから分からないが、とにかくよい天気だったように思う。ぼくは卒業式に着ていたのと同じ服を着ていた。その日は一日中、母と一緒だった。
 その頃のことを考え始める。Tedとは…、ME 君とは…、それらのことを考えると、いままで心の中にきちんと整理されて収められてあったものがちりぢりに四散して、ぐるぐる激しく回るようだ。それらから受けた影響は…。
 話題は違うが、関連したこととして、新しい生命がぼくのごく近くで予期しないうちに現れてきた。それは必然のものであったに違いないのだが、何となく考えさせられる。Joy, happiness, incomprehensibility それらの幾何平均のようなものが錯乱している。
 また、話は変わる。入浴はぼくに思索を与える…。「ねはん」、どんな字を書くのか知らない
[1]。それがきょうだという。KJ 君の本箱に緑地に赤の文字で三字書かれた題の本があった [2]。あの中の一節を思い出す。作者が小さい頭で(と表現するのはよいかどうか知らないが)一生懸命考えて、passion と幾十世紀か前のきょうあったと思われることについて述べているところだ。
 自分で書いていても、どうも判然としない。しかし、春と、その柔らかい気分や、余裕を幾分持ちかけた感情は、さまざまなことを思い起こさせてくれる。


(Ted)

 このノートを開いて、きょうが何曜日かを意識するのは、10日ぶりである。昨日の解析の90/7という答は、MR 君や YMG 君も出来たそうだ。KJ 君は630/49として、そこでは2点引かれただけだと、英語の試験監督に来られた Y・S 先生から聞いたそうだ。
 "When I was a child seven years, my parents filled my pocket with pennies." の pennies を「銅貨」としたが、どうだろう。KS 君が「あの本にあったぞ」と、近くの自宅へ行って、ぼくが HY 君の家で観たのと同じ何とか vista という、茶色い表紙の教科書を取ってきて見せてくれた。フランクリン自伝からの文なのだ。KS 君は「教員の裏をかいて」"-- Benjamin Franklin" と書き加えておいたといっていた。試験には少し易しい文に直して出してあったが、その教科書には pennies の代わりに coppers となっている。あたかも、ぼくがその教科書をよく読んでいて、つい coppers の訳を書いてしまったかのようになった。

 生物の教科書に「水を入れた器にわらや枯れ草を入れて10日ほど放置しておくとゾウリムシが発生する」と書いてある。これでは、何だか「まかぬ種も生える」感じがする。「きたないみぞの水の表をおおっている皮膜や刈り入れ後の田の水底に落ちているくち葉などに積ったごみのなかを探すとアメーバが見つかることがある」というのは、やや文学的だ。

 日を浴びて、わらの四角い山の上に腹ばって勉強。HN 君のために、晴れやかな午後のすべてを提供。提供すれば、また提供されることもあろう。
 喜びだ、全身に感じてまだ感じきれない喜びだ、と一瞬一瞬の心に喜びを刻みたくなる淡い希望色の空だ。
 この2週間も、Sam に読んでもらう価値のまったくないことを、うるさく書き連ねた。いまは、濁りのない気持ちでこうしている。だが、ぼくの存在は、いまの一点ではない。次の瞬間には、一段上にいなければならない。そして、過去の低い段に残っている泥のついた足跡を流し去ることが必要だ。
 漱石の『硝子戸の中』の最後の編、それには及ぶまいが、それに似た感情…。軽蔑の微笑…。

 引用時の注

  1. 涅槃:釈迦入滅の日、旧暦2月(新暦3月)15日。

  2. 『風の子』と私が書き込んでいるが、どんな本だったか、詳細は覚えていない。「作者が小さい頭で一生懸命考えて」とあるところをみると、作文の上手な、ある少年の文集か。

2005年3月3日木曜日

不愉快は何によって作り出されるか

 高校時代の交換日記から。

1952年3月13日(木)晴れ

(Sam)

 Perfect と思っていたら、二時間後にそうでないことが発見されて、ゲッソリ。
 「じいちゃん」は物分かりがよい。きょうも自習にしてくれた。その代わり、明日以後の試験に好成績を収めたら、アメを持っていかなければならない。
 夕方、うちの四軒隣の家に火事があった。
 ME 君の家に十時十三分までいた。明日の商業の試験の練習だ。I.B.R.D.、I.B.S.、GATT、JETRO など、計十五の言葉の意味を調べておかなければならない。
 ラジオで「蛍の光」が流れている。これをラジオで聞いたことは、ここ久しくなかった。"If Japan wishes herself improve the eyes of ..." 明日はこの科目の試験もあることになっている。


(Ted)

 新体詩抄を島崎藤村が明治33年に編さんしたと、めちゃくちゃなことを書いた。[1]
 社会の2枚目の問題は、丸をつけただけで、理由を書かなければ点にならないと、T・Y 先生が回って来たときにいっておられたとか。ぜんぜん聞いていなかった。問題用紙に刷り込んでおくべきだ![2]
 トルストイが『復活』において人が人を裁くことに対して述べたと同じ考えを、人が人を試すことにおいて抱く。 [3]
 不愉快は何によって作り出されるか。自然が災害によってもたらす場合もありはするが、ひじょうに多くの場合、それは、自然の平常状態の下で、人間自身によって作り出されているではないか。これを皆無にすることは…。The wall of ideal is very hard.

 引用時の注

  1. 正しくは、外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎が明治15年に編さん。

  2. さらに、文中の空白に2字ないし4字の漢字を入れる国語の問題についての不満が記されているが、長いので省く。

  3. 高校の先生方の中には、私の亡き父の、旧制金沢一中での元同僚が何人かおられたこともあり、私は試験でいつもよい成績を取らなければならないようなプレッシュアを感じていたようだ。そのため、多少不適切と思われる出題には反感を覚えたのである。

結核が恐ろしかった時代

 高校時代の交換日記から。

1952年3月14日(金)晴れ

(Sam)

 二限続けての試験。大変そうに思われたが、大したことはなかった。
 計算尺の使い方を習う。
 保健体育はきょうが最後の講義の時間であった。「結核は恐ろしいんです」を何回も繰り返しいわれた。あと残った数ページは済ませたことにして、というわけで、p. 86まで終った。
 アセンブリーがクラブに変わる。第十七号紙の批評と今年度の反省が行われる。


(Ted)

 「3(x – 1) = 2y + 3 であるとき、5x2 + 4 y2 の最小値を求めよ」だけがまずかった。KJ 君がしたように、始めの式を 2y = の形にして2番目の式に代入すれば、簡単に90/7と求まる。しかし、KJ 君はもっと大きな数字をいっていたし、TKZ 君は30とかいっていた。
 バスケットボールのコートの中央にある2重の円は、どちらが制限円で、どちらがセンター・サークルなのだい?
 結核の予防になる栄養素は? 『私たちの科学 4』 [1] を見ると、「ビタミン A と C の欠乏症を見かけませんか。…略…からだの外部だけでなく口や腸の内部の粘膜も乾いて顕微鏡で見ると傷だらけになっています。そこから病原菌が入って肺結核や流行性感ぼう…」とある。ビタミン C は書いたが…。
 4/7を終って完全な答案が一つもないとは、1学期からの中で最も悪い。

 金大合格者発表。法文学部に IN 君、理科乙に KD 君 [2]など、1年間親しんだ名前が新聞活字になって並んでいるのが見出される。

 引用時の注

  1. 当時の中学理科の教科書。

  2. どちらも新聞部3年生。

2005年3月2日水曜日

卒業式の予行

けさの月

 写真はけさ、南西の空に見られた月(2005年3月2日6:30)。

卒業式の予行

 高校時代の交換日記から。

1952年3月10日(月)雨

(Sam)

 四限のホームが一限になり、大掃除が行われることになった。そのため、せっかく計画したことがオジャンになってしまった。
 むたむたになっていた体育館がきれいになり、第四限には滞りなく体操ができた。

1952年3月11日(火)雨

 授業を午前中で打ち切り、卒業式の予行をする。在校生では二年生全員と一年生の各ホーム代表五名が出ることになる。三年生は男女合わせて四十名ばかりしか来ていなかった。
 「ここで全員が起立するんだ」「ここで卒業生は腰かけるんだ」といったことぐらいをしただけだった。「君が代」と校歌の斉唱も一回しただけで終った。「蛍の光」などは歌わないのらしい。
 そのあと、被服室において送別会の反省会を行った。発言は BN 生徒会長と四人の先生と、それに話題が演劇のことに集中したので、演劇部の NS 女史が応答していたのと、それだけである。何かいわなければならないと思いながらも、ついその機会を失してしまって、けっきょくは菓子を貰うだけにいたようなことになってしまった。


(Ted)

 ・・・・・・
 不愉快。「だが、おれは愉快なんだぞ!」と叫びたいような、叫ぶまい、憤るまいと、抑制していたいような…。Egoism から発した感情だろうか。何が原因であるにせよ、悪いことだ。超然としていよう。「いまを限りに…」こんなことがいえるだろうか。これまでに何度もダメにしたようだ。SM 君、TKG 君、IM 君、OB 君… [1]。

 引用時の注

  1. いずれも同じホームルームのメンバーである。翌日の日記からみても、ホームルーム時に私の気に入らないことがあり、その不快感について書いたようだ。

 
[以下、最初の掲載サイト (Echoo!) でのコメント欄から転記(そのサイトのブログ記事は Echolog と呼ばれ、Echolog には全利用者の投稿順に ID number が付けられた)]

J 03/04/2005 07:49
Hi Ted,
Your Echolog ID is 99999 !!

Ted 03/04/2005 09:05
Yes, it is! I wonder who got the number 100000. In fact, I found the other day that my Echolog was the 99996th. So I hastily put three unfinished manuscripts as "Echolog under preparation," and thought those would be enough for me to get the number 100000, because it took some time to send them to the Echoo! site, allowing possible posting of one or two Echologs by others. I should have put one more manuscript as under preparation! But 99999 is also a good number.

卒業式の日

 高校時代の交換日記から。

1952年3月12日(水)晴れ

(Sam)

 午前九時半までというと、ばかにゆっくりしていられる。ちょうど九時半に学校に着くように計算して行ったのに、着いてから体育館でしたたか篭球ができた。
 卒業生はその九割までが長髪である。一人だけ背広を着て来たのもいた。校長の話も、PTA 会長の話も、「大志を抱け」とか「なくてはならぬ人物となれ」とか、いい古された言葉を繰り返し強調するものだった。やっぱり、「蛍の光」は歌わなかった。式はじきに済んだから、昼にはまだ早かったので友人と卓球をした。バットが一本しかなかったから、一人は木片でしなければならなかった。木片のバットでありながら、勝ってばかりいられて愉快だった。

 どれに優劣をつけたらよいか分からない。たいていの場合そうだが、これもそうだ。原画展。川西英代の木版のものが、中でも特徴があってよいと思う。


(Ted)

 少し弱い日光の中に埃の舞っているのが認められるのと同じような具合に、途中で上昇したり横へ流されたりしながら落下してくる、ごく細かな雪片が視界にある。目の前の電柱の、こうして坐っておれば 1 m くらい上にある横木に、赤い碍子があることに初めて気がつく。

 次のような問題を始め、少なくとも5、6題は考えて出そうと思っていた来週のホームルーム時の「話の泉」がスポーツに変更されたことも不愉快の一因だったかもしれない。
 「学年末も近づきましたが、これから述べる文章はそれぞれ『何か』の終りにある文章です。その『何か』を答えて下さい。
 ◎球が運動場から出てしまったときは、ワンベースしかとることが出来ない。
 ◎以上の決議を国中に告げ知らせるため、それをヒエログリフィック、デモティックおよびギリシャ文字の3通りに書いて石に刻み、方々の神殿に建てることにした。
 ◎日本国政府のために、アメリカ合衆国政府のために。
 ◎蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
 ◎そしてすべては他の人々の、そして主要なことには私の幸福のためだ…」

 卒業式に出なくてもよかったので、午前中と午後2時過ぎまでは、端座のし通しだった。外へ出ると、目が覆いを取られたような感じがした。HN 君のところには、IS 君が来ていた。彼の下の名はぼくのと同じで、それを仮名書きしたときの始めの2文字だけを使う(最初の文字は長音にする)のが彼の愛称となっている。

 悲劇的場面を想像することが多すぎる。これでは精神が実際行動を阻む結果となりかねない。止めよう。

2005年3月1日火曜日

障子に春の気配

 高校時代の交換日記から。

1952年3月9日()晴れ

(Sam)

 小学生時代にはよくやらされることだが、一カ年の思い出を絵巻物に書かなければならないのだという。とうとうまる一日かかってしまった。
[1]

(Ted)

 昨日「芸術?」と書いたことに関係のある歌劇を「音楽の泉」が聞かせてくれる。♪ランラーラランラン ラーララーララン ラーンラララーン ランラーララン …
 部屋は閉め切ってある。北東に当たる前方の障子は青みを、南西に当たる後方のは黄色みを帯びて、じつに明るい。時どき、陰って、またぱっと明るくなり、空と日光に対する憧憬的な感情をそそる。急いで直りつつあるのだろう霜焼けが猛烈にかゆい。前の障子を少し開けてみる。すーっと寒い風が来るのは気のせいだろうか。光は思ったほど鮮やかではない。障子を閉めると、また明るくなる。

 BK 杯争奪タイガース・ブレーブス戦第2戦。天保が好投! しかし、2、3年前のように、飛び上がるほど嬉しいとは思えなくなってしまった。浜崎さん [2] のそれ [3] だったのが、「反省点綴」の中に代名詞で、それも「M 君」の言葉の引用で、ただ一度出てくる人物 [4] のそれになったりしたのだから…。(ゆらゆらゆら…地震か?)
 いやいや、こんなことを書いているときではない。もっと吸収作業に忙しくなろう。

 引用時の注

  1. 近所の子どもたちを指導したのだろう。

  2. 浜崎真二(1901-1981)は当時、阪急ブレーブスの監督、最高齢登板記録(48歳)保持者。阪急監督時代は今西、天保、野口ら、巨人キラー投手を巧みに使った用兵の妙で知られた。1978年、野球殿堂入り。

  3. 「ファン」を意味する。浜崎さんも私も大連からの引揚げ者という関係で、ファンになった。

  4. 中学同期の一女生徒のこと。このあとの「それ」にも「ファン」を代入すると、その女生徒「のファンになったりした」という妙ないい方になるが、プロ野球のことよりも女生徒が気にかかる年頃になったという自覚を記したのだろう。

三島由紀夫の自死

 最近、三島由紀夫の『仮面の告白』について少しばかり考える機会があったのだが、折しも、雑誌『図書』の近着号に鶴見俊輔が三島由紀夫の自死について書いている [1]。三島は1970年11月25日、ライフワーク長編『豊饒の海』最終章「天人五衰」を完結したあと、東京の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室で自衛隊の覚醒と決起を促したが果たすことなく、「天皇陛下万歳」を三唱して古式に習い割腹して自死したのであった。そのとき45歳。[2]

 鶴見はその短いエッセイの前半において、吉本隆明の三島への追悼文 [3] を引用し、それを「すぐれた文章と思う」という。吉本の文はいくらか難解であるが、「つまらぬ哲学はつまらぬ行動を帰結する」とあるところを見れば、三島の哲学をつまらないもの、その自死をつまらない行動と見たようだ。

 鶴見は三島の自死を聞いたとき、うろたえ、いまでもその「うろたえ」が残っていると書く。このことと吉本の文への賛辞から、鶴見は三島の自死を異常といわないまでも、特異なものと見ていると思われる。しかし、鶴見は「彼が自分をほろぼすしかたには、自分を超える姿勢が見える。自分を超えるその形を、私は、軽く見ることはできない」とも述べている。これは、吉本に完全に同意して三島の自死を全くつまらない行動と見てしまうこともできないという思いの併置である。なお、鶴見は三島の政治行動・政治思想には同調できないことも記している。

 自衛隊の覚醒と決起を促したのは、まったく、アナクロニズムというよりも、怪奇である。また、生きている限り、あるいは少なくとも比較的健康である限り、命は大切にしなければならないとも私は思う。そういう意味で、私も吉本の三島への追悼文に賛同するものである。ただし、作品の評価は、作家個人の生き方とは切り離してなされるべきものであろう。文芸評論において、作品中に作家の生き方がどのように影を落としているかは論じられて当然であるが、三島の自死の形が何割かの読者を彼の優れた作品群から遠ざけたとすれば、不幸なことである。――という私も、じつは最近まで、どちらかといえば遠ざかっていたほうであるが。――


  1. 鶴見俊輔「弔辞」図書 No. 671, p. 43 (2005年3月).

  2. 三島由紀夫 Cyber Museum.

  3. 吉本隆明『追悼私記』(JICC出版局, 1993; ちくま文庫, 2000).


関連文献(後日の追記)

  • 朝日新聞,「天声人語 」(2005年11月25日). "…三島由紀夫は、初期の代表作「仮面の告白」の自序原稿の一つに「人みな噴火獣(シメエル)を負へり」と…" とある。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 03/01/2005 08:35
 芥川龍之介、太宰治、川端康成、三島由紀夫…と、名作家だけでも、自殺している作家は多いですからね。
 けれども、その中でも、確かに三島由紀夫の自殺の仕方は、政治行動の形をとっていて特異ではありますが、もちろん到底、そのような政治思想、政治行動のゆえのみで自殺したのではないでしょう。
 私は作家が自殺で生涯を終えるのは、肯定するのですけれどね。特に、作家自身の人生より、彼が命をかけて生み出した作品のほうが世に残るから、といった理由ではなく…。

Ted 03/01/2005 09:19
 そうです。三島の自殺は政治行動の形をとってはいますが、根本には、彼自身の生き方についての美意識があったでしょう。
 Y さんが、作家が自殺で生涯を終えることを肯定される理由は何でしょうか。物事を肯定する裏には、はっきりした理由があるとは限らないかも知れませんが。

Y 03/01/2005 15:58
 作家の自殺に限らないのですが、私は、人生は結果論ではないと思っているからです。どんな悲惨な終わり方、無念な終わり方、満たされた息の引き取り方でも、いいのではないかと。
 もちろん自殺には、自分に対する最も大きな倫理的責任が関わってきますが、私も病気持ちで、特に結婚後は、申し訳なさゆえに自殺、ばかりを考えた人間ですから、それについては、「人間には、最終的に自らの命を自ら絶つ権利がある」と、考えています。その権利を行使するかしないか、ということだと思っています。もちろん他者が、自殺を日々考え続けたそのひとの内面の苦しみにどれだけ寄り添うことができるか、それを考えれば、上述の権利を自分で行使するか・しないかの問題のほうが、「やはり人間は自分自身でしかありえない、自分自身としてしか生きえない」という人間の根本原理と思われるもの、と直結していると私は思うからです。…で、私、死んでいませんものね。
 もうひとつ、歴史に名を残すような作家には、作家として本当に自分は自死するのか、という(社会的、といった言葉以上の)苦悩があったはずです。彼らの、実人生と作家人生との二重の人生。三島由紀夫という作家の自殺も、そのような思いで関心を向けなければならないと思います。

Ted 03/01/2005 20:10
 私も、「作品の評価は、作家個人の生き方とは切り離してなされるべきものであろう」と書きましたのと合わせて、「人の価値は、その人の最期の形で決まるものではない」と思っていますから、Y さんの「人生は結果論ではない」と同じ考えを持っているといえましょう。
 Y さんの「人間には、最終的に自らの命を自ら絶つ権利がある」というお考えも、私は否定しません。ただ、私は、自分が「自殺を日々考え続ける」ような「内面の苦しみ」にぶつかった場合には、それを何とか克服して生きる方を選びたいという考え、ないしは、実際にそのような苦しみに直面した経験のない者としての楽観的希望、を持っているということになりましょう。
 三島由紀夫の場合には、苦悩が大きかったというより、老醜をさらしたくないという美意識から、ライフワーク長編の完結時点で半ば欣然として自死を選んだように私は思いますが、いかがでしょうか。