2007年6月10日日曜日

ドラマ「ユカワ・ポテンシャル符号事件の裁判」

 [以下は Wiki Yukawa に書いたものの転載。裁判・法律用語の使用に誤りなどがあれば、ご寛容のほど。誤りなどについてご教示いただければ幸甚である。]

 事件の内容:湯川秀樹はノーベル賞論文(中間子論第1論文)において、中性子・陽子間の相互作用ポテンシャルを正符号にとっているが、これは誤りである、と検察が告訴した。

   公判第一日

 裁判長「検察官は訴えを述べるように。」

 検察官(益川敏英)「被告のノーベル賞論文第1ページをちらっと見て驚きました。原子核を強く結合させる引力ではなく、どう見ても反発し合う斥力で、相対論的にも不整合であります。」

 裁判長「被告は検察官の陳述に間違いがないと認めますか。」

 被告(湯川秀樹)「ポテンシャルを正符号にしたという意味では、その通りです。ただし、第1論文では中間子はベクトルなんです。4次元的な意味でのベクトルなんです。ベクトルのスカラー成分だけ取るというつもりでやっている。だから力の符号が普通のスカラーと逆になるわけです。negative energy と positive energy の逆転です。第2論文ではスカラー中間子をとりあつかっています。」

 弁護人(湯川会所属・T)「発言を求めます。」

 裁判長「よろしい。」

 弁護人「論文 "On the Interaction of Elementary Particles. I." を証拠物件として提出することを認めて下さい。」

 裁判長「弁護人の申し出を認めます。」

 弁護人「検察官は『第1ページを見て驚いた』と述べましたが、いわゆる第1論文である証拠物件を見ていただけば分かる通り、第1ページには式は一切出て来ていません。したがって、検察は実にずさんな調査に基づいて告訴をしていると考えざるを得ません。」

 検察官「アブラハム・パイス氏を証人として申請します。」

 裁判長「申請を認めます。証人は証言台へ。」

 検察官「証人の仕事は何ですか。」

 証人アブラハム・パイス「素粒子論を長らく研究して来ました。その後、素粒子論の歴史を詳しく紹介する本を著しています。」

 検察官「証人の著書中では、本件の符号にかかわる問題をどのように解説していますか。」

 パイス「ユカワは、g^2 を -g^2 と置き換える自由がある、と誤って信じていた旨を書いています。」  裁判長「弁護人に意見はありますか。」

 弁護人「証人は被告の信じていたことが誤りである根拠に言及しておらず、その証言は検察陳述を証拠づけることにはなりません。これとは対照的に、被告は証拠物件の51ないし52ページにおいて『ハイゼンベルクは J(r) に対して正の符号をとったので、重陽子の最低エネルギー状態のスピンは0となった。これに対して、われわれの場合は、g^2 に負号をとるので、最低エネルギー状態は、実験で要請される通り、スピン1をもつことになる』と、確固とした裏付けを述べて、正符号を選んでいます。g^2 に負号をとるということが、ポテンシャルに正符号を選ぶことになります。」

 検察官「次いで、ローリー・ブラウン氏を証人とすることを申請します。」

 裁判長「申請を認めます。」

 検察官「証人はどういう仕事をしていますか。」

 証人ローリー・ブラウン「私もパイス氏と同じく、以前は素粒子論を研究していましたが、その後、素粒子論の物理学史的研究をしてきました。とくに被告を始めとする日本の素粒子論グループによる中間子論の発展を詳しく調べました。」

 検察官「その知見に基づいて、被告の符号の扱いをどう思いますか。」

 ブラウン「符号の選択は、のちに中間子論の原型と矛盾すると分かり、被告らは続いて別の型の中間子を考察するようになりました。」

 裁判長「弁護人に言い分はありますか。」

 弁護人「証人の陳述は、筋が通りません。符号の選択は、証人が『中間子論の原型』という第1論文の中で行われたもので、それ自体『中間子論の原型』の一部をなしています。仮に証人がその表現によって第1論文の自己矛盾を意味したとしても、『矛盾すると分かった』ということは、間違いを犯したということにはなりません。学問上の矛盾は、研究の発展段階において、しばしば自然に生じるものでありましょう。」

 検察官「裁判長、証人にもう一度質問したいと思います。」

 裁判長「よろしい。」

 検察官「証人の先の証言は簡潔過ぎました。もう少し詳しく説明出来ませんか。」

 ブラウン「はい。中間子の交換によって相互作用する一対の核子に対するユカワのエネルギー関数は、ハイゼンベルクのものと似ていましたが、次のような相違がありました。すなわち、ハイゼンベルクは彼が『交換積分』と呼んだ距離に関する未定の関数を使い、実際には経験的に決められるべきものとしました。これに対して、ユカワは-(g^2/r) exp (-λr) という、いまやユカワ・ポテンシャルとして有名な関数を使用しました。ハイゼンベルクは最初、交換積分の符号を彼が用いた分子のアナロジーのものにしましたが、これでは重陽子に対して違うスピンを生じると分かりました。そこで、ユカワは彼のポテンシャルに『逆の』符号を与えました。しかし、ここで彼は間違いをしたのです。基本的な場の理論は符号を自由に選ぶことを許しません。――理論は符号を予想します。ユカワの重陽子もまた間違ったスピンをもつことになります。そして、のちに他のバージョンの中間子論、たとえば、別のスピンをもつもの、を研究する必要が生じるのです。」

 裁判長「弁護人に意見はありますか。」

 弁護人「ハイゼンベルクと被告が互いに異なる符号を採用しながら、どちらも重陽子のスピンを正しく記述できないというのは、納得がいきません。」

 検察官「裁判長、3人目の証人としてリチャード・ファインマン氏を申請します。」

 裁判長「申請を認めます。」

 検察官「証人の職業は?」

 証人リチャード・ファインマン「カリフォルニア工科大学において、物理学を広く研究指導してきました。学部学生向けの物理学講義で、被告の中間子論を分かりやすく取り上げました。」

 検察官「その講義では、第1論文の符号に関わるところをどのように説明していますか。」

 ファインマン「φ= K exp(-μr)/r という関数はユカワ・ポテンシャルと呼ばれています。引力に対しては、K は、その大きさを実験で観測された力の強さに合わせるべき負の数であります――というものです。」

 弁護人「発言を求めます。」

 裁判長「よろしい。」

 弁護人「証人が『Kは負の数である』というのは、被告陳述に照らせば、被告が第1論文で、ベクトル中間子のスカラー成分でなく、スカラー中間子をあつかったと、同証人が誤認しているためと考えられます。」

 裁判長「検察官に意見はありますか。」

 検察官「後日、さらなる証人を用意し、証拠固めをします。」

 裁判長「本日はこれで閉廷とします。」

 ここで第一回公判は終了となった。第二回公判ではどういう議論が展開されるだろうか、そして、裁判長は名判決を下すことが出来るだろうか?

 【検察官の冒頭陳述、被告の陳述、弁護人の証拠物件からの引用、パイスの証言、ブラウンの第一、第二証言、ファインマンの証言はそれぞれ文献 [1] ~ [7] を参考にした。】

 [1] 2006年6月30日付け朝日新聞夕刊.
 [2] 湯川秀樹, ベータ崩壊の古代史 (1974年の講演);『湯川秀樹著作集2』所収; 初出『自然』1975年7月号;『自然』1981年11月増刊「追悼特集:湯川秀樹博士 [人と学問]」に再録.
 [3] 湯川秀樹を研究する市民の会, 湯川秀樹ノーベル賞物理学賞受賞論文和訳, 市民による湯川秀樹生誕100年シンポジウム配付資料 (2007年3月4日).
 [4] A. Pais, "Inward Bound" (Oxford Univ. Press, 1986) p. 431の脚注.
 [5] Brown, L. M. and . Rechenberg, H., "The Origin of the Concept of Nuclear Forces" (IOP, 1996) p. 108.
 [6] Brown, L., "Introduction: Hideki Yukawa and the Meson", [8] 所収, pp. 23-24.
 [7] Feynman, R. P., Leighton, R. B. and Sands, M., "The Feynman Lectures on Physics" Vol. II (Addison-Wesley, 1964) p. 28-13.
 [8] H. Yukawa, "TABIBITO (The Traveler)" transl. L. Brown and R. Yoshida (World Scientific, 1982).

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