2019年12月22日日曜日

「五色浜の子守歌」を守ってきた人たち (People Who Followed "Goshikihama Lullaby")

[The main text of this post is in Japanese only.]


「五色浜の子守歌」の楽譜と、この歌の「復活秘話」。
The score of "Goshikihama Lullaby" and "Secret Story" about the resurrection of the song.

 先の記事に記した「五色浜の子守歌」の合唱ビデオを、かつての朝日新聞への投書「心に残る母の子守歌:どなたかルーツ教えて」にあった楽譜と注意深く比較しながら聞いてみた[注 1]。すると、合唱と楽譜とでは、音の長さや直前の音に比べての高さなどが、所どころで異なっていることに気づいた。そこで、合唱に使われている楽譜を入手したいと思い、合唱の行われた場所・淡路文化会館のウェブサイトの、「お問い合わせ」ページから質問を送ってみた。12 月 6 日の夕方のことだった。それからちょうど 10 日後の 12 月 16 日の朝、会館から電話があり、合唱グループ「五色サルビアエコー」が楽譜を会館へ届けてくれることになり、それを郵送するので、もうしばらく待って欲しい、とのことだった。

 12 月 18 日に会館からの封書が届き、開けてみると、楽譜の他に、思いがけなく「『五色浜の子守歌』復活秘話」と題する文[文献 1]のコピー(A4 紙 4 ページ)が同封されていた(上掲の写真参照)。これらは「五色サルビアエコー」代表・高鍋禮子さんと採譜者・高鍋和男さん(「復活秘話」の著者でもある)から提供されたものであることと、淡路島以外でもこの歌に関心を持つ人がいることに両氏が感激しておられたということを記した会館の担当者のメモも添付されていた。「復活秘話」の内容は、あたかも小説のような素敵な話であり、ここにかいつまんで紹介したい。

 長崎の小学校で「五色浜の子守歌」を習い、フィリピンに渡って歯科医を開業していた中野敏一さんが、1945 年の敗戦で長崎へ引き揚げてみると、生家は原爆で跡形もなくなっていた。彼はその時、とっさにこの子守歌を思い出し、淡路島へ行き、その南東部にある福良の歯科医院に身を寄せて勤務していた。その頃、福良小学校の先生で音楽の得意な平野まきゑさんが歯の治療に来た。そして、治療をした中野さんは、ギター伴奏で平野さんに「五色浜の子守歌」を聞かせた。これが縁で、二人は 1946 年にめでたく結婚した。1952 年、中野夫妻は念願の五色浜のある地域への転居を果たし、敏一さんは地域の小・中学校の校医も勤めながら、二人でこの歌を守り続けて来たということである。

 「復活秘話」の著者・高鍋和男さんは、小学校長を退職して、五色浜教育委員会に勤務していた 1990 年 5 月、小学校同級生の一人から上記の「... ルーツ教えて」の投書を知らされた。そして、入院中だった中野まきゑさんを、院長の許可を得て、1990 年 12 月に採譜のためテープレコーダー持参で訪れた。まきゑさんは 1986 年に亡くなった夫・敏一さんのことを思い浮かべながら、涙ながらにこの歌を歌ったそうである。翌 1991 年 10 月には、「五色サルビアエコー」が、洲本市民会館で開催された淡路合唱祭で「五色浜の子守歌」を初披露し、全員合唱もして、大反響を呼んだとのことである。

 「復活秘話」は次のように結ばれている。
 明治 35 年(1902 年)生まれの中野敏一先生が「長崎の小学校で教えてもらった」と云うことは、明治の終わり頃、教えてもらっていることになります。日本音階で作曲されている、この子守歌は、貴重な日本の文化遺産です。中野敏一先生が掘り起こされた、この素晴らしい子守歌を、再び消滅させてはなりません。日本の古き良きもの——唱歌・童謡と共に、歌い継ぐ責務を感じています。
 この歌を私に歌ってくれた母も、中野敏一さんと同じ年の生まれである。「復活秘話」には、「... ルーツ教えて」の投書への反響としての投書 3 通が簡単に紹介されている。その中の「ほかの歌と一緒に亡き母から聞いた。特に『珠よりきれいな白い石、星よりきれいな青い石』のところは、テンポが速くなっており、美しいメロディーが心の中に残っている」(堺市、大学教授)という 1 通は、私がルーツ探しの手掛かりになればと思って、母の生年、出生地(金沢市)、学んだ場所(石川女子師範附属小から同師範)などを併記して送った投書である。ルーツ探しに直接役には立たなかったが、中野敏一さんと母の生年が同じであることからすれば、1902 年前後生まれの児童が日本各地の小学校で習っていた可能性がありそうである。

 高鍋禮子さん、高鍋和男さん、そして、淡路文化会館の担当者・Y. Y. さんに深く感謝する次第である。


 [注]
  1. 先の記事中に当初引用した「五色浜の子守歌」の歌詞は、朝日新聞への投書「... どなたかルーツ教えて」にあったものを使用した。その中の「花よりきれいな」となっていたところは、今回貰った資料から、「珠よりきれいな」が正しいと分かり、修正した。
 [文 献]
  1. 高鍋和男「『五色浜の子守歌』復活秘話」、『ふるさとの歴史探訪』(鳥飼まちおこし協議会、2006)p. 168 所収。
 (2019 年 12 月 25 日最終修正)

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2019年12月17日火曜日

鳥羽への旅 (The Trip to Toba)

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宿の窓からスケッチした鳥羽港の眺め。
View of Toba Port sketched from the hotel window.

鳥羽への旅

 さる 12 月 12 日、妻と私は鳥羽への旅をした。先月の赤穂への旅と同様に、「かんぽの宿」の宿泊客向けに週 2 回、JR 大阪駅前から運行している直行バスを利用した。乗客は私たちの他に一組の夫婦(大阪・箕面在住の I さん)があっただけで、往復とも大型バスを 4 名でゆったりと占有した形となった。車窓には紅葉した山々の風景が続いた。

 宿の窓からは鳥羽港が眺められ、翌日の朝食後、スケッチをした(上掲の写真)。短時間で急いで描いたので細部には狂いもある。絵具「ウインザー&ニュートン コットマン・ハーフパン 12色スケッチャーズポケットボックス」、絵筆「ステッドラー ウォーターブラシ」、スケッチブック「hot press 細目、F0」を使っている。

 高台にある宿から、港の対岸の道へ下り、鳥羽中央公園沿いの道を進んで、鳥羽民の森公園まで行くウォーキングも楽しんだ(往復約 1 時間)。その公園には小さな動物園が付属していて、孔雀、猿、羊などが見られた。

 旅行中の写真 9 枚を Facebook にまとめて掲載した。下掲のイメージをクリックすると、拡大版を 1 枚ずつご覧になれる。


(2020 年 1 月 6 日修正)

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2019年12月4日水曜日

N・T 氏へのメール -9-:南部さん、真木君、修論など (Email Messages to N. T. -9-: Y. Nambu, K. Maki, Master Thesis, etc.)

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わが家の秋色、ハナミズキ。2019 年 12 月 2 日撮影。
Autumn color of my home, flowering dogwood; taken on December 2, 2019.

N・T 氏へのメール -9-:南部さん、真木君、修論など

2019 年 10 月 16 日
N・T さん

 貴殿は団塊の世代に属し、中学の 1 学年が 7 クラスだったとのことですが、その数字にはあまり驚きません。私の中学時代は戦後の新学制に移行したばかり(3 期生)で、中学校校舎を増設する必要があった時です。そこで、旧制中学などの既存の校舎が当てられた新制中学では、新設校が出来ればそちらへ移る予定の小学校区からの生徒たちを暫定的に受け入れたので、私が入った中学では、1 年生の時の 1 学年は 10 クラスありました。

 しかし、各クラス 70 人強というご経験には、ちょっと驚きます[注 1]。私にもそれに似た経験がないではありませんが、大連で引き揚げ直前のごく短期間という、いわば非常事態でのことです。大連港から引き揚げ船に乗るために、旧満州の各地から大連へ来て滞在した家族の子供たちの転入を、大連の各小学校が受け入れたためだったと思います。教室は机でいっぱいになり、教室内の場所によっては、机の上を渡り歩かなければ行き着けない状態だったことを記憶しています。

 外国の方が講演で、「かの偉大な南部の出身地」と言われた「出身地」は英語ではどういう言葉だったでしょうか。北陸という意味よりも、外国から見ると小さな島国に過ぎない日本全体を指したのではないでしょうか。なお、南部さんを金沢に結びつけ、さらに四高にも結びつけておられたということなので、南部さんは実際にはどの旧制高校出身だろうかと、再度『ウィキペディア』を見ると、「一高に補欠合格」とありました。補欠合格とはどういう事情だったのか、興味が湧きます。

 なお、素粒子論の亀淵迪さんが石川県生まれ(県内の詳細な場所は不明)で、四高で学ばれたことを最近知りました。彼が岩波の PR 誌『図書』7 月号に「私の『二都物語』—金沢とコペンハーゲン」という文を載せていたからです。どちらの市でも、それぞれ所属した機関(四高とニールス・ボーア研究所)の関係で、「市民から特別視され親切にされた」そうです。また、雪の結晶の研究で知られる中谷宇吉郎も石川県(現・加賀市)生まれで、四高で学んだ人です。

 昨日いただいたメールの真木君の思い出に関連することも失せた返信に書いたのですが、その話などは次回にします。

 T・T


2019 年 10 月 26 日
N・T さん

 休メールの件、承知しました[注 2]。

 先日来、美交会展が開催されていたためもあり、失せたメールの後半に書いていたことを再現してお知らせすることが遅れていました。その中から、貴殿の先のメールにあった修士論文発表会に関連して書いたことだけを、間延びしないうちに以下にしたため、お返事はご無用とさせて貰います。

 どんな質量でもよいという意味で、真木君が月の質量を持ち出したのは、まことに奇抜ですね。貴殿が修士論文の段階からすでに「人びとに知られる」結果を出しておられたことを知り、改めて敬服いたしました。私の修士論文は、原子核が陽子を捕獲した際に放出する γ 線の測定によって、原子核の励起状態を調べるという、核分光学に属するものでした。指導を受けながら一緒に実験をした助教授と博士課程在学中の先輩の二人それぞれの学位論文になった仕事を、私の修士論文に兼用させて貰った形で(私が主に手伝った、peeling-off という方法による γ 線スペクトルの分析部分に力点を置いて発表しましたが)、発表会では特に質問もなく、形式的に終わったと記憶しています。私は核分光学が、医者が個々の患者の病状の変化を記録しているようなものに思えて、好きになれませんでした。

 では、お仕事のスムーズな進行を祈りながら、またのメール交換を楽しみにしております

 T・T

 [注]
  1. これに対して、N・T 氏からの 10 月 26 日付けメール(今回の最終メール)に、「前回のメールでクラスの人数を 70 強と云ったのは多少オーバーだったかもしれません」とあった。
  2. 注 1 にあるのと同じ最終メールに、「新たな講義を仙台でもやることに」なったなどの理由で、「しばらく休筆ならぬ休メールでいきたいのです」とあった。
(今回のシリーズ、完)

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2019年11月30日土曜日

6 年ぶりに「五色浜の子守歌」 ("Goshikihama Lullaby" for the First Time in Six Years)

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ツワブキの花。堺市・鳳公園で、2019 年 11 月 23 日撮影。
Flowers of leopard plant; taken on November 23, 2019 at Ōtori Park, Sakai.

6 年ぶりに「五色浜の子守歌」

 私は最近、近辺で開催される歌声喫茶形式の催しに参加することを楽しみの一つにしている。その催しで使われている歌集には、私の小さい頃に母が歌ってっくれた「五色浜の子守歌」は載っていないが、別の子守歌をリクェストする時のコメント欄で、この子守歌に触れてみたいと思った。まず、その子守歌の歌詞をここに記しておく(以前この歌について書いた記事[注 1]では、子守歌の題名を「五色の子守歌」としていたが、「五色」を「五色浜」に、また、歌詞 3 行目の「波にもまれて」となっていたところを「波にゆられて」に修正した。いずれも、下記のビデオに合わせたものである)。
  五色浜の子守歌
ねんねころころ浜の石
ころころころんでどこへゆく
波にゆられて淡路島
かよう千鳥の浜へゆく
わたしもゆきたい夢の島
夢の島には五色浜
珠よりきれいな白い石
星よりきれいな青い石
なけば千鳥がとんでゆく
なかずにゆきましょ夢の島
 リクェスト時のコメントを書く参考までに、この子守歌についての新しい情報があればと思い、インターネット検索をすると、「平成 27 年度淡路島民族芸能フェスティバル」で、合唱団「五色サルビア・エコー」が「五色浜の子守歌・雨・里の秋」の 3 曲を歌ったビデオが YouTube に掲載されているのが見つかった([注 2]、下に埋め込みもしておく。なお、[注 3]のリンク先に上記フェスティバルの全演奏が集められていて、その中の 11 番がこれと同じビデオである)。


合唱を聞いてみると、私の母が歌ってくれたのとは多少メロディーに違いがあるような気がして、母が「変曲」して歌っていたのか、時代と共に変遷したのか、などと思った。

  『八十代万歳!』というブログの著者(ブログでのニックネームは hisako-baaba)が、私と同様に、この歌を母君から聞いて育ったということを書いておられた[注 4]のを 2006 年に読んでいた(その後、2013 年に hisako-baaba さんとの交流を持った。これらの詳細は[注 1]のリンク先後半に記載)ので、その方の感想を聞きたいと思い、同ブログをまた訪れてみた。hisako-baaba さんは目下、夫君が認知症で大変なようだが、ブログは相変わらず精力的に書き続けておられた。

 私は『八十代万歳!』の最新記事のコメント欄に、YouTube 上の「五色浜の子守歌」を聞いてみると、多少違和感を持ったということを書き込んで来て、hisako-baaba さんの答えを楽しみにしていたのだが、その間に彼女の以前の記事[注 4]を再読すると、次のようにあった。
母はこの詞を江戸子守唄の節で歌ってくれました。後にこの詞に曲が付いていたことを知りましたが、流行らなかったので一度聴いた位では覚えられませんでした。
hisako-baaba さんは「五色の子守歌」の原曲を覚えてはおられないのだから、私は彼女にとって回答不能な質問(はっきりとした質問の形にはしなかったが)を書いて来たことになる。

 それでも、hisako-baaba さんは YouTube にある合唱を聞いて、翌々日のブログ記事[注 5](下掲のイメージも同記事にリンクしてある)に次のように書いて下さった。


hisako-baaba さんの今回の記事
多幡達夫さんからこの曲が YouTube にあったとお知らせを頂きました。聞いてみたらなかなかおしゃれな曲でした。
母は歌詞を読んだだけで、曲を知らなかったため、江戸子守唄の節で歌っていたのです。ですからオリジナルの曲は今まで聞いたことがありませんでした。
[…]
しかし、江戸子守唄の曲で歌ってもぴったり合う歌詞なのです。
そうして私の耳に残っているのは、我が家オリジナルの江戸子守唄版なのです。
やはり母の声で聞いた五色浜の子守唄を、大事にしたいと思います。
いつの日か曽孫に歌ってあげたいな。
 これを読み、私は次のようなコメントを書いて来た。
hisako 様のご母堂様が「五色浜の子守歌」を江戸子守歌の節で歌っていらっしゃったことは以前の記事にも書いていらっしゃいましたが、私が一昨日のコメントを書きました時には、そのことをすっかり忘れていました。そのため、「五色サルビア・エコー」版が昔歌われていたのとは変わってはいないだろうかという、hisako 様には不可能なお答えを期待してしまったのでした。それにしても、オリジナルあるいはそれに極めて近い形で、初めてお聞きいただけたのは幸いでした。江戸子守歌版を曽孫様に歌って上げられる日の近いことを祈っております。
 hisako-baaba さんは、その次の日の記事[注 6]にも、以下のように書いておられた。
昨日の子守唄の記事をラジオで語りたくなって急遽まとめていたら発する FM に行くのが遅くなりました。
「子守唄の思い出」を語って三重県の「だんだらぼっち」と鹿児島の「千亀女」と中国の「優しい子供と山の神」を収録しました。
hisako-baaba さんは地域(お住まいは埼玉県)の FM ラジオ局で、語りや民話の収録もしておられるというご活躍ぶりなのである。

 その後、注 1 の記事で触れた朝日新聞への投稿記事[注 7]に掲載されていた楽譜(投稿者の親友の娘さんで、かつ音大出身の方の採譜による)を見ながら YouTube の合唱を聞いてみたところ、ほぼその楽譜通りのように思われ、私の記憶が間違っていたらしい、という結論に達した。

 なおも「五色浜の子守歌」で検索をすると、大阪・北区の居酒屋「グラナダ」のギター演奏者の一人のレパートリーの中に、この子守歌が入っていた[注 8]。


 [注]
  1. T. Tabata, 五色の子守歌, ブログ Ted's Coffeehouse 2 (2013).
  2. 11. 五色浜の子守歌・雨・里の秋, ウェブサイト YouTube (2019).
  3. ウェブページ 淡路島民族芸能フェスティバル:平成 27 年度淡路島民族芸能フェスティバル (2015).
  4. hisako-baaba, 私だけの子守唄, ブログ『八十代万歳!』(2006).
  5. hisako-baaba, 父の子守と 母の子守唄, ブログ『八十代万歳!』(2019).
  6. hisako-baaba, 発する FM で語りました___夫を見舞ったら、拘束と大きいオムツになっていました。, ブログ『八十代万歳!』(2019).
  7. 荒谷富子, 心に残る母の子守歌:どなたかルーツ教えて, 『朝日新聞』(1990.5.9).
  8. ウェブページ ギター生演奏の店・スペイン風居酒屋 グラナダ (最終更新 2019)>演奏者紹介>なかのかつき>レパートリー 一覧 3.

 [追記]歌詞の終わりから 4 行目の先頭が「花」となっていたのを、いずれブログ記事に書く予定の新しい資料によって、「珠」に訂正した。(2019 年 12 月 18 日)

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2019年11月25日月曜日

N・T 氏へのメール -8-:またまた真木君のことなど (Email Messages to N. T. -8-: Further about Kazumi Maki, etc.)

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イロハモミジの紅葉。2019 年 11 月 21 日、堺・鳳公園で撮影。
Autumn leaves of Japanese maple; taken at Ōtori Park, Sakai, on November 21, 2019.

N・T 氏へのメール -8-:またまた真木君のことなど

2019 年 10 月 14 日
N・T さん

 お宅やその周辺では台風 19 号の影響がなかったとのこと、幸いでした。今日はお誕生日ですか。おめでとうございます。

 真木夫人が学部生として学んだのは旧大阪女子大の生活理学科ですが、大学院は他の大学の方へ進まれたのかもしれません。専門が低温物理学ではなかったとは、初めて知りました。ということは、私の「思い違い」の件は貴殿にはお話してなかったようですね。

 低温物理学というのも思い違いだったとすると、真木君が結婚したことについて書いて来た便りにはどう書いてあったのだろうかと、その便りを探しましたが、見当たりませんでした。真木君の没後間もなくに書いた日本語のブログ記事を見ると(https://ideaisaac2.blogspot.com/search/label/Maki に真木君の名が出る記事、計 8 件がまとまって出ます)、その時にも探して見つからなかったとあります。その記事を見ていて、真木君が髄膜炎にかかったのが 3 年の時と先日書いたのは間違いで、4 年の時だったと気づきましたので、ここに訂正します(英文ブログ上の追悼記事でも、最初に同じ間違いをしていたことが、8 件中の最も古い記事の下部にある注に書いてあります。その時の訂正後も、私の頭の中では修正されていなかったのです。老化現象ですね)。真木夫人を別の人と思い違った話は次回にでも書くことにします。[注 1]

 貴殿の先日のメールに金沢(あるいは石川県)出身の学者名を並べてありましたが、南部陽一郎が金沢あるいは石川県出身という話は聞いたことがありませんでした。そこで、『ウィキペディア』の南部のページを開いてみると、東京生まれで福井市育ちと分かりました。福井県は石川県の隣で、仙台にお住まいの方には、区別がつき難いかも知れません。私が九州出身の人の県名までを覚え難い(たとえ県名が記憶にあっても、地図上での場所が思い浮かび難い)ことと同様かと思います。

 では、素敵なお誕生日パーティーをお楽しみ下さい。

 T・T


2019 年 10 月 15 日
N・T さん

 本日のメールありがとうございました。それに対して返信を書き、送信したところ、メールソフトが珍しくフリーズ状態になり、仕方なくマックを再起動すると、返信が失われてしまいました。今から明日の趣味的な集まりの予習的なことをしますので、本日のメールへの返信は、後日改めてお送りします。

 T・T

 [注]

  1. 次回で分かるように、一連のメール交換は N・T 氏の仕事の関係で急に打ち切ることになり、「真木夫人を別の人と思い違った話」を書くことはこのシリーズでは実現出来なかった。

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2019年11月19日火曜日

N・T 氏へのメール -7-:さらに真木君のことなど (Email Messages to N. T. -7-: More about Kazumi Maki, etc.)

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わが家の庭に咲いたサザンカの花。2019 年 11 月 8 日撮影。
A sasanqua flower in my yard; taken on November 8, 2019.

N・T 氏へのメール -7-:さらに真木君のことなど

2019 年 10 月 12 日
N・T さん

 台風19号は国内の各地に大きな被害をもたらしましたが、貴殿のお宅やその周辺はいかがでしたか。お見舞い申し上げます。当地は暴風圏の予報円の端に入ってはいましたが、雨戸を閉めて過ごしていたところ、強風もほとんど感じられない程度でした。

 私の記憶力に驚いていただきましたが、大切なことの記憶が怪しくなっていることを、現役時代から退職後 10 年ほどの計 26 年間続けていた原研の委託調査の仕事の終わり頃に気づいた次第です。個人的なつまらない経験ばかりを多く覚えているようです。真木君の学生時代の発症についてお話ししたことも忘れていました。彼が病気をしたのは 3 年生[注 1]の夏休み後のことで、療養は長期にわたり、翌年春から 3 年生をやり直したため、彼の卒業は私の 1 年あとになりました。病気は髄膜炎(旧名称では脳膜炎)だったと聞きました。髄膜炎といえば、その種類にもよるのでしょうが、言語障害や知能障害などの後遺症を生じる場合もあるようです。しかし、彼の場合、幸い後遺症はなかったばかりか、その後の彼の活躍ぶりからは、発症のため頭がますます冴えたかのように見えたので、「髄膜炎で一層賢くなったようだ」という話を私が作った次第です。

 真木君の奥様は私の妻と同じ大阪女子大(貴殿が東北大へ戻られた後、大阪府立大に統合されました)の出身でした(妻の方が先輩)。真木君が結婚したばかりの時は、彼女も東北大で低温物理学をやっているということを聞いただけだったので、私は別のそれらしい人と勘違いをしたのでした[注 2]。その話を真木君が亡くなった直後のメールに書かなかったでしょうか。もしも、まだお話してなかったならば、早とちりの恥ずかしい話ですが、次回にでも書きます。

 さて、先のメールを書いたときに書こうと思っていた思い出話に移ります。真木君は学部生時代(少なくとも 1、2 年生の時)に京大合唱団に所属していました。私の高校の 2 年先輩で京大工学部に入学後、休学して私と同期になった古谷洋一郎氏も合唱団に入っていました。1 年生の夏休みに、古谷氏の努力で、合唱団の金沢での公演が実施され、私はその公演を聞きに行きました。公演終了後、合唱団にいた真木君始め数人の理学部同期生と語らいながら、私は会場から金沢駅までの約 4 km の夜道を歩いて、彼らを送りました。当時、金沢には市電が走っていましたが(現在はバスに代わっています)、彼らは乗らないで歩くと言ったのです。駅へ着くと金沢から東方面(少なくとも当時は、東京方面へ行くこちらが「下り」と呼ばれていました)へ行く最終列車は出た後で、長野県と埼玉県へ帰省する同期生は「どうしよう」と言い合っていたので、わが家に泊まって貰うことにしました。真木君にも泊まって欲しかったのですが、彼は上り列車がまだあったので帰って行きました。

 上記の古谷洋一郎氏は、父君が金沢大の物理学教授で、洋一郎氏を介して父君の持っておられた Whittaker 著 A Treatise on the Analytical Dynamics of Particles & Rigid Bodies という立派な教科書を 2 年生の間に借りていたことがありました(その後、ペーパーバックで出ていることを知り、懐かしく思って買いましたが、買ってからは読んでいません)。彼は 2 年生の時に私の下宿へ来て話していて、「極低温物理とはどういうものでしょうか」と言い、私が首を傾げていると、「ごーく低温の物理なのでしょうね」などと言っていました(丁重な話し方をする人でした)ので、その後、低温物理学分野へ進んだような気がして、貴殿に彼のことをご存知かお尋ねしたいと思ったのでした。しかし、念のためインターネット検索してみると、彼の名が出て来ました。専門はプラズマ物理学で、ソルボンヌ大教授、岡山大教授(これらの経歴は既知のことです)を経て、同大名誉教授になり、2012 年に 79 歳で亡くなったと分かりました。彼が早くにフランスへ渡ったのは、学部生時代に京大の近くの日仏会館でフランス語を学んでいたことを生かしたのです。——貴殿には関係のない話が長くなりましたが、真木君の思い出を書いたお陰で、お世話になった先輩のその後が分かり、感謝する次第です。

 亡くなったといえば、先日の貴殿のメールにあったシュリーファーは、6 月に 88 歳で亡くなったのですね。Nature 誌の Obituary 欄で一昨日知りました。

 ではまた。

 T・T

 [注]
  1. 実は 4 年生(関西では「4 回生」のようにいうが、ここでは全国的に分かりやすいように「回生」の代わりに「年生」を使っている)の時だった。N・T 氏に対しては、次のメールで訂正した。
  2. N・T 氏からの次のメールで、真木夫人の専門は、低温物理学ではなく、「光、誘電物性」だったと思う、と知らされた。真木君と同じ低温物理学と思ったのは、私の思い込みで、その思い込みが、「別のそれらしい人と勘違い」したことにつながったのだった。

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2019年11月12日火曜日

赤穂への旅 (The Trip to Akō)

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宿の窓からスケッチした瀬戸内海の眺め。
View of the Seto Inland Sea sketched from the hotel window.

 さる 11 月 5 日、妻と私は赤穂への旅をした。今年 6 月から「かんぽの宿 赤穂」では、宿泊客向けに週 2 回、JR 大阪駅前からの直行バスを運行しているので、往復ともそのバスを利用した。宿の窓からは瀬戸内海が眺められ、翌朝は海面からの日の出も見ることができた。朝食後、スケッチをし(上掲の写真)、宿の近辺の散策もした。

 スケッチには携行に便利な、「ウインザー&ニュートン コットマン・ハーフパン 12色スケッチャーズポケットボックス」という絵具と、ステッドラー ウォーターブラシ(スポイト式に水を軸に吸い込んでおくもの)という絵筆を使ってみた(スケッチブックの用紙は、hot press 細目、F0)。先端の尖ったウォーターブラシ中筆 1 本では空や海を塗るのに不便を感じた。着彩が薄めだったせいか、写真はスケッチの実物と同じ色合いにはなっていない(特に空の部分)。海の中程の 3 カ所に横たわっているのは、牡蠣の養殖場であろう。

 旅行中の写真 6 枚を Facebook にまとめて掲載した。下掲のイメージをクリックすると、拡大版を 1 枚ずつご覧になれる。


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2019年11月3日日曜日

N・T 氏へのメール -6-:G. H. ハーディの本、真木君の思い出など (Email Messages to N. T. -6-: G. H. Hardy's Book, Memories about Kazumi Maki, etc.)

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今年は秋に入っても高温の日々が続いたせいか、キンモクセイの開花が例年よりかなり遅かった。写真はわが家のキンモクセイの花。2019 年 10 月 22 日撮影。
This year, the high temperature days continued even at the beginning of fall, and the blooming of fragrant olive was much later than usual. The photo shows the flowers of fragrant olive in my yard,
taken on October 22, 2019.

N・T 氏へのメール -6-:G. H. ハーディの本、真木君の思い出など

2019 年 10 月 9 日
N・T さん

 G. H. Hardy の A Mathematician's Apology には 1967 年版以降に Snow の Foreword がついているようです。先生のはもっと古い版ですか。Dyson の引用している Hardy の言葉[注 1]はどれかの章のトップにありそうだと思い(「あったはず」と思えるほどには内容を記憶していなくて、読了した本ながら、こういう表現になります)、パラパラと見て行くと、第 10 章のトップでした。

 貴殿は私のウェブサイトに掲載していたエッセイ "Surely You're Joking, Mr. Tabata!" (新しい URL: http://ideaisaac.web.fc2.com/joking01.html#sec2。異動先 http://ideaisaac.web.fc2.com の全体はなお未整理です)をご覧になって、東北大へ招いていただいた折に、その末尾の描写が良かった旨を言って下さいました。そのエッセイ中で Hardy の本に触れていました。エッセイに書いた同窓会に参加するための新幹線の車中で一部を読み、会場へ行くと、高 1 で習った数学の女性の先生が来ておられました。ちょうど良いと思って、読んだばかりの 2 の平方根が無理数である証明にまつわる話をしようとしたら、「難しい話、せんといてたい!」と言われたのでした(「せんといてたい」は「しないで下さい」の金沢弁)。

 L 氏がアメリカでテニュアを取得したとは良かったですね。彼の夫人のことは初めて聞きましたが、ひょっとすると先端研の建物の中で一度ぐらい姿を拝見していたかもしれません。ナターシャという名は『戦争と平和』のヒロインと同じですね。学生君の "ai rabu yu!" には笑わされました[注 2]。

 真木君の思い出の追加を書こうと思いましたが、長くなりそうなので、次の機会にします。 T・T


2019 年 10 月 10 日
N・T さん

 "Surely …" に書いてある同窓会「すみれ会」は、高校全体の関東在住者向けの会で、最近私が参加しているのは同期生だけのものです。私の出身高校の名は「菫台」と書いて「きんだい」と読みます。戦後 10 年間存在しただけで(私は中程の第 5 期生)、その後、金沢商業高校に転換されました。戦前の中等学校時代にも金沢商業学校だったのです。「金商・菫台同窓会」という、縦に長いつながりの会も別にあります。

 一つ先にいただいたメールに関してですが、貴殿や真木君の研究対象にも電子の輸送問題というのがあったのですか。私の専門は 1930 年代頃に発行された Handbuch der Physik 中の一つの巻にある一つの章の題名、"Passage of fast electrons through matter" で表されるもので(私の場合の fast electrons は、その章ではまだほとんど述べられていなかった、運動エネルギーが MeV 領域のもの)、最近ではもっぱら Monte Carlo simulation で解決されている問題です。しかし、かつては実験、あるいは transport equation を解くという理論的方法で扱われたので、同じく「輸送問題」の一種ということになります。

 上のパラグラフを書いていて、ふと、以前先生から「Bethe の論文を引用してありましたね」と言われたことを思い出しました。私の論文別刷りをいくつか差し上げていたようです。その Bethe の論文は、M. E. Rose および L. P. Smith と共著の "The multiple scattering of electrons"(1938)で、他の著者たちが、その後、より正確に扱った multiple scattering の理論よりも広範囲(厚い物質層を含む)の、diffusion に至る話もあって、私には興味深い論文です。なお、Bethe が Segré の編集した Experimental Nuclear Physics の Vol. 2, Part II に J. Ashkin と共著した "Passage of radiations through matter"(特にその "Section 2. Penetration of beta-rays through matter")は、私の仕事にとって最重要な教科書の一つでした。

 さて、以下に真木君の思い出の追加を書きます。学生時代の彼はいつも朝早く登校して前の方の席に陣取り、必ず何か本を広げて読んでいました。試験前に級友同士が分からないところを尋ね合って準備している時、彼はいつも回答役でした。また、休み時間に級友たちが輪になって雑談している折に、彼はよく、話題から連想した言葉を高い声でパッと挟み、自分でも楽しそうに笑っていました。

 いつも教え役だった彼に、私が一つだけ尋ねられた記憶があります。それは 2 年生の夏休みに交換した手紙の中ででした。夏休み前に習っていた代数学のテキスト中にあった「合い続く 3 つの整数の積が 6 の倍数であることを証明せよ」という問題が分からないということでした。私は意外に思い、「合い続く 3 つの整数の中には、2 の倍数と 3 の倍数が必ず含まれる。したがって、その積は 2 および 3 のそれぞれの倍数である。2 と 3 は互いに素であるから、問題の積は 2 と 3 の積である 6 の倍数である」という解答案を知らせました。真木君はそれで納得したようでしたが、のちになって、私の案は説明であって、証明になってはいないのではないかと、ちょっと気になりました。しかし、合い続く 3 つの整数をいくつかの場合に分けて、それぞれ、より小さい一つの整数を使って表し、順次検討して行くという、証明らしい方法はとても面倒に思われます。真木君はそういう方法を試みようとして、困っていたのかも知れません。

 真木君についての思い出をもう一つ書こうとしたら、先生が名前をご存知かどうかをお尋ねしたい別の人のことを一緒に思い出しました。すでにかなり長くなりましたので、次回にします。

 T・T

 [注]
  1. N・T 氏のメールに、Dyson の著書 Maker of Patterns の題名が Hardy の次の言葉から来ていることが書いてあった。
    A mathematician, like a painter or a poet, is a maker of patterns. If his patterns are more permanent than theirs, it is because they are made with ideas.
  2. N・T 氏のメールに、L 氏を彼の研究室の助教授として招いて間もなく、L 氏夫妻の歓迎会をした時のことが記してあった。学生一人ひとりに自己紹介をさせると、ある学生は、"ai ..., ai ..., ai ....」と言いながら次の言葉が出て来ず、あげくの果てに、L 夫人に向かって,"ai rabu yu!" と言ったそうである。

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2019年11月1日金曜日

N・T 氏へのメール -5-:英書のことなど (Email Messages to N. T. -5-: About Books Written in English, etc.)

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭のシュウメイギクの花の数がまたまた増えた。2019 年 10 月 20 日撮影。
More and more flowers of Japanese anemone bloomed in my yard; taken on October 20, 2019.

N・T 氏へのメール -5-:英書のことなど

2019 年 10 月 5 日
N・T さん

 「物理学書の英語,英語の物理学書」中の疑問提示について、肯定的なお返事をいただき、ありがとうございました。

 K 先生に電話した話から、無口な私ながら、Freeman Dyson の Disturbing the Universe という本が面白かったことや「"Dirac" とは何の単位かご存知ですか」などということを貴殿にお話したことを思い出しました("Dirac" の話は自分の無口ゆえの話題でした)。

 Dyson の本はその後出た
   Infinite in All Directions (1988)
   Imagined World (The Jerusalem-Harvard Lectures) (1997)
   The Scientist as Rebel (2006)
なども読み、どれも学ばされることが多かったですが、最初に読んだ Disturbing … が最も面白かったような気がしています。歳を取るとともに感激する気持ちが衰えるからでしょうか。

 単位 "Dirac" については、2010 年に G. Farmelo の The Strangest Man: The Hidden Life of Paul Dirac, Quantum Genius (Faber and Faber, London, 2009) を読み始めた頃に英語のブログ記事を書きました。
  https://ideaisaacjoking.blogspot.com/2010/01/unit-dirac.html
読み返してみると、その冒頭に上記の、かつて貴殿(one of my colleagues かつ a competent physicist としてあります)に質問したことが書いてありました。ご笑覧いただければ幸いです。

 私は 1935 年生まれなので、高校生になったのは 68.5 年前の 1951 年 4 月、約 70 年前はよい近似です(先生は何年のお生まれで、何年まで府大にいらっしゃったのでしたか)。駄弁、妄想も歓迎です。楽しみにしています。

 T・T


2019 年 10 月 7 日
N・T さん

 貴殿は私と一回りと 1 歳お若いのですね(これでご年齢を覚えやすくなりました)。貴殿が仙台へ戻られたのは私の定年退職の 1 年前だったのですね。私の名誉教授辞令も山田知事の名です。彼が事件を起こしたのは、その後まもなくの 2 期目の知事選においてでした(いつのことか忘れていたので、『ウィキペディア』で確認しました)。

 From Eros to Gaia をご紹介したのでしたか。Dyson の本は先のメールに書きました以外にも、
 The Sun, the Genome, and the Internet: Tools of Scientific Revolutions (1999)
  The Scientist As Rebel (2006)
 A Many-Colored Glass: Reflections on the Place of Life in the Universe (2010)
 Dreams of Earth and Sky (2015)
も読んでいました。Makers of Patterns はまだ入手もしていませんが、面白そうですね。ハーディといえば、名著の一つと言われている A Mathematician's Apology を以前に読みました。(短いものです。本文の 1/3 強にも上る C. P. Snow の Foreword がついています。)

 Farmelo による Dirac の伝記は分厚過ぎますね。ノーベル賞受賞あたりの話までくると、もう結構という気にさせられます。私は読んでいる途中でいくつもの間違い(主に文献リスト中の誤記など)を見つけて、ツイッター経由で著者に伝えました。そのうちに彼からメールが来て、近く 2nd printing を出すので、もう他に間違いはないだろうかと尋ねられました。まだ読了できていませんでしたが、その後見つけた少数の間違いを伝えたか、もうありませんと答えたか忘れました。実は、その後さらに読み続けると、なお 2、3 の間違いに気づきましたが、もう遅いだろうと思い、知らせませんでした。彼はノースウェスタン大学の理論物理学教授をやめて科学関係のノンフィクション作家になった人です。近くスチーブン・ホーキングの伝記も出版する予定だと、彼の Facebook ページで知りました。

 シュリーファーといえば、バーディーン賞を受賞した私の同期生・真木君が先生の先生でしたね。彼を府大へ講義に招いて下さって、夕食を共にしたのも良い思い出となりました。私は彼と年賀状あるいはクリスマスカードをずっと交換していましたが、卒業後彼に会ったのは、彼が東北大教授になって間もない年の春の物理学会が阪大で開催された折(1968 年だと思います)と、府大へ来てくれた時の 2 度だけでした(カナダへの出張の帰途、アメリカで彼のところへ寄りたいと思いましたが、その頃あいにくヨーロッパへ出かけているという返事だったと思います)。私は大放研での研究による論文博士の取得が 1967 年で、その論文を Phys. Rev. に発表したので、彼はそれをちらりと見てくれていたようです。阪大でひょっこり出会った時、彼は「Phys. Rev. に載っていましたね。中性子の輸送問題でしたか」というようなことを言いました。実は、その論文が扱ったのは電子の後方散乱の実験でしたが、電子が原子核との散乱を繰り返して物質への入射時の方向性をほとんど失った状態を指す "diffusion" の語がアブストラクト中にあったため、中性子の輸送問題を連想したのでしょう。

 先のメールに書き忘れましたが、私も最所フミの『日英語表現辞典』の方だけを、昨年末に買って、時折眺めています。

 では、いずれまた。

 T・T

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2019年10月30日水曜日

N・T 氏へのメール -4-:物理学会誌への投稿文など (Email Messages to N. T. -4-: Contributions to "Butsuri" etc.)

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭のシュウメイギクの花の数がさらに増えた。2019 年 10 月 19 日撮影。
Many more flowers of Japanese anemone bloomed in my yard; taken on October 19, 2019.

N・T 氏へのメール -4-:物理学会誌への投稿文など

2019 年 10 月 3 日
N・T さん

 「忘れられた論文」を送っていただき、ありがとうございました。Chambers–斯波–福山理論が忘れられていたことを考究されたご論文ですが、論文引用一般について専門の異なる研究者たちにも教えられるところの多いお話と拝察しました。

 私が定年退職後に物理学会誌声欄に投稿したのは、「鏡の謎について」(2007) と「物理学書の英語,英語の物理学書」(2013) の2編ですが、ご覧いただいたかどうかを覚えていません。もしもご興味があればお送りします。

 小学校 6 年生の時に描いた寺の一部の絵は、私のブログの「幌尻岳」の一つ前にある記事(https://ideaisaac2.blogspot.com/2019/08/n-letter-to-n.html)でご覧になったもので、郷里・金沢の天徳院という寺の鐘楼堂です。鐘楼堂だったということが分からなくて、この夏、郷里へ墓参に行ったついでに天徳院を訪れて調べて来たことを高校時代の友人に手紙で書き送り、その手紙を記事にした次第です。

 古いものの保存といえば、私の絵については小学校 2、3 年生の頃からのものが部分的に残っています。私の小学校入学は金沢より北の小さな市、七尾で、3 年生だった終戦前年に父が死亡して、母の両親のいた大連へ移り、戦後引き揚げて金沢に戻りました。これらの引越しに耐えて残ったものです。それらを紹介した記事を
  https://ideaisaac2.blogspot.com/search/label/drawings%20in%20my%20childhood
にまとめてあります(上記の天徳院の絵はダブって登場します。最下部に「前の投稿」の文字が出ますが、13件ですべてで、「前の投稿」はありません)。

 その中の「幼少年時代の絵 12:最近のスケッチを添えて」と題する記事の末尾とその記事への「後日の注記」に、「私と同じ職場にしばらくいた、私より十数歳も若い低温物理学の教授」として、貴殿が「イーゼルペイント」の名をご存知だったということで登場されます(いま振り返ってざっと眺めるまで忘れていました)。注記にある私の記憶に間違いがありましたらご教示下さい。「断捨離」といって、不要なものを捨てることが勧められていますが、自分が書いたり描いたりしたものは、やたらに「断捨離」しない方がよいと思います。

 T・T


2019 年 10 月 4 日
N・T さん

 「物理学書の英語,英語の物理学書」を添付します。ご想像の通り、この後半(§3)には「科学啓蒙書を英文で読む」に似た、専門書を英文で読む勧めを書いています。前半(§2)の初めには八木浩輔先生らが Cambridge University Press から出版をされた際の編集者のアドバイスに疑問を呈していますが、その疑問提示がよかったかどうかには、いささか自信がありません。

 K 先生といえば、私が K 先生に電話をした話を府大のグラウンドをご一緒に歩きながらお伝えしたのが、貴殿と親しくなったきっかけではなかったでしょうか。その記念すべき事象に関連する「音読のすすめ」のコピーを持っていなかったので、今日、J-STAGE サイトからダウンロードし、再読しました。同じ欄の私の文よりも短い中に、有用な情報がより多く詰まっていると思いました。K 先生に電話したのは、「音読のすすめ」の文献欄中にあった Dirac の本を買ったところ、小さい本にも関わらず、ずいぶん高価だったので、書店の間違いではないかと思い、間違いだろうと主張する根拠が K 先生から得られないかと考えてのことでした。K 先生は図書館にあったのを読んだので、その本の値段は分からないと言われ、高価な本をお勧めする結果になりご迷惑をおかけしましたと、丁重なお言葉もいただきました。——貴殿にお話ししただけで、どこにも書いたことがなく、忘れかけていたエピソードで、ここに初めて文にした次第です。

 日本物理学会誌の論文も CiNii ではなく、J-STAGE から入手できるように作業中なのかと思われます。同サイトの同誌の巻号一覧のページ
  https://www.jstage.jst.go.jp/browse/butsuri/62/0/_contents/-char/ja
を見ると、巻数は全部並べてありますが、各巻中の号数はまだごく部分的にしかありません。

 英語辞典での「非人情」の説明案ということですが、漱石の非人情に関する考えを探るエッセイが未完のままで、まだ、そこまで考察が及びません。

 貴殿の一つ前のメールに A・L 氏の名がありましたが、私は在任中の最終年度にウクライナのハリコフ大学へごく短期間招かれることになり、氏からウクライナのことを若干教えて貰いました。クリミヤ地方でできるワイン(名を忘れました)が美味しいという情報も多いに役立ちました。あらかじめ、そのワインについて聞いているということを先方(教授は英語ができなくて、助手とのやりとりでした)にメールで伝えたところ、到着初夜から、そのワインを存分にご馳走になりました。L 氏はいまどうしていますか。

 とりあえず、いただいたメールに関連のことを記しました。

 T・T

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2019年10月23日水曜日

N・T 氏へのメール -3-:趣味のことなど (Email Messages to N. T. -3-: Hobbies etc.)

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭のシュウメイギクの花の数が増えた。2019 年 10 月 18 日撮影。
Many flowers of Japanese anemone bloomed in my yard; taken on October 18, 2019.

N・T 氏へのメール -3-:趣味のことなど

2019 年 10 月 1 日
N・T 様

 8 月 25 日付けのメールで、「漱石関係の記事を集めた URL は、修正が完了したことをお知らせしたあとにでもご覧いただければ」と書きながら、また、修正は早くに完了しながらも、雑事に紛れて、お知らせが遅れてしまいました。下記の URL で、私のブログ中の漱石について書いた文をまとめてご覧になれます。
  https://ideaisaac2.blogspot.com/search/label/Sōseki
全部で 26 件あり(連載の 1 回分も 1 件と数えて)、早い方の 6 件は、最初にまとまって出る 20 件の末尾右下にある「前の投稿」という文字をクリックすると出て来ます。漱石について触れてあるのが記事のごく一部でしかないものもありますが、悪しからずご了承ください。

 上記の雑事の一つは、来たる 10 月 21 日から 25 日まで堺市役所本館エントランスホールで開催される無審査の美術展に出品する水彩画に取り組んでいたことで、9 月 16 日に完成し、それに関する記事を
  https://ideaisaac2.blogspot.com/2019/09/my-watercolor-mt-poroshiri.html
に書いております。それと前後して、昨年の台風 21 号による屋根や樋の破損(屋根はスレートが何枚も剥がれましたが、下地がしっかりしていて雨漏りするまでには至りませんでした)の修理を依頼してあったのがようやく実施されることになり、業者が何日も出入りするという事態もあった次第です。

 とりあえず、漱石関係記事修正終了のお知らせまで。

 T・T


2019 年 10 月 2 日
N・T 様

 長文のご返信、ありがとうございました。絵や文について褒めて下さいましたが、いずれも恥ずかしいもので、恐縮です。

 絵は子供の頃に描くことが好きでしたが、勤務中はずっと遠ざかっていて、定年退職後も少し遅れて 2003 年から再開しました。といっても、「幌尻岳」と同じサイズの水彩画は 1 年に 1、2 枚(近年はもっぱら 1 枚だけ)しか描きません。それらの絵のイメージは
  https://ideaisaac2.blogspot.com/search/label/watercolor
で、まとめてご覧いただけます(同じ絵についてダブって書いている記事もあります)。写真を見て描くと、細部にとらわれ過ぎて、写真の真似にしかならず、そこから脱却したいと思いながら、なかなか出来ません。

 「非人情」の「英訳」を "hi-ninjo" とするご提案は、なるほどと思いました。先生も那美さんが浴場へ入って来た場面が印象的だったとは嬉しいです。子規や内田百間などもお読みのようで、先生のご趣味の広さに感服しました。

 シェークスピアのお話がありましたが、私は少しばかりシェークスピア・ファンでもあります。大放研時代にカナダのハミルトンで開催された国際会議に参加した折、エクスカーションとして、近くの(といっても、バスで 1 時間以上走ったでしょうか)Stratford という、シェークスピア生誕の地に因んで名付けられた市で『オセロ』の上演を夜に見る催しがあり、それに参加したことがきっかけとなりました(日本からの他の会議参加者はほとんどその催しには行っていなかったようです)。

 その後、ロンドン・シェークスピア・グループの日本公演が大阪でも行われることに気づき、セリフが十分には聞き取れないにも関わらず、1980 年の『ベニスの商人』、1986 年の『ハムレット』を見に行きました。同じ頃に、NHK 教育テレビで BBC 制作の『シェークスピア劇場』が数年にわたって放映され、そのテキストを全巻揃えましたが、これは、あまり見たり読んだりは出来ませんでした。

 なお、「研究論文の引用に関して英国人が総じてフェアーであること」を書かれたという、物理学会誌のご論文は、「忘れられた論文 : 金属における量子干渉効果を予言した Chambers–斯波–福山理論をめぐって」日本物理学会誌 62 (6), 449 (2007) ですね。CiNii での検索で書誌情報は出て来ましたが、本文へのリンクはありませんでした。私が物理学会誌に投稿した文は、すべて「会員の声」欄掲載のもので、以前は掲載から 1、2 年経ったものは CiNii で公開されていましたが、今はやはり本文へのリンクがありません[注 1]。

 いずれまた、趣味の話などでの交流ができれば幸いです。

 T・T

 [注]
  1. 日本物理学会誌に掲載の論文や記事は CiNii に代わって J-Stage サイトで掲載作業進行中であることが、その後分かった。同サイトの『日本物理学会誌』巻号一覧ページはこちら

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2019年10月20日日曜日

N・T 氏へのメール -2-:漱石記念館など (Email Messages to N. T. -2-: Soseki Museum, etc.)

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭に今年初めて咲いたシュウメイギクの花。2019 年 10 月 11 日撮影。
The first flower this year of Japanese anemone in my yard; taken on October 11, 2019.

N・T 氏へのメール -2-:漱石記念館など

2019 年 8 月 24 日
N・T 様

 拙文「オランダとロンドンで」をお読みの上、ご感想をいただき、恐縮です。

 貴殿の「英蘭紀行」中、漱石記念館の名が出たあと、漱石の話がいろいろ続いていた[注 1]ので、記念館をご覧になったものと思い込んでいましたが、今日お知らせいただいた熊本新聞のウェブページによれば、先生のご旅行時には閉館されていて、今年 5 月に場所を変えて新記念館として開館されたということですね[注 2]。漱石についてまたお便りされるかもしれないとのこと、大歓迎です。

 ローザとはロザリンド・フランクリンのことですね。彼女について別の機会に書かれましたら、またぜひ読ませて下さい。

 なお、私の「ゆっくり人の時空漫歩」は、その後ホームページでは継続していなくて、ブログをそのような目的に使っています。"Ted's Coffeehouse 2" というタイトルのブログサイトで、和英両文で書いていた時もありますが、最近は概ね表題と写真説明のみが英文付き、本文は和文のみとなっています。記事の投稿も、論文集編集に力を入れ始めてから、ガクンと減り、月に 1 ないし 3 回程度になっています。ホームページに英文で書いていた短いエッセイも、ブログ "IDEA & ISAAC: Femto-Essays""IDEA & ISAAC: Surely I'm Joking!" で続けてはいますが、このところ、何年かに 1 記事を書く程度になっています。このように、寂しい執筆状況ですが、お暇の折にご笑覧・ご高評いただければ幸いです。

 T・T


2019 年 8 月 25 日
N・T 様

 漱石記念館の件では、貴殿の紀行文中、「[漱石の留学時の下宿]の向かいの建物には以前、多くの日本人が訪れた漱石記念館があり」のところの「以前」の語が頭に残らない雑駁な読み方をしていました。私の方こそ、申し訳ありません。メール中のエピソード[注 3]、楽しく拝読しました。

 なお、私のブログ中、漱石について書いた文は、"Sōseki" というラベルをつけてあり、下記の URL でまとめてご覧になれます。
  https://ideaisaac2.blogspot.com/search/label/Sōseki

2013 年に書いていた "漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」" と題するシリーズは、もう少しで終わるところで未完のままになっていますが。

 T・T

 追伸。漱石に触れながら "Sōseki" のラベルを入れ忘れたブログ記事がいくつもあることに気づきましたので、これから追加修正します。上記の URLは、その修正が完了したことをお知らせしたあとにでもご覧いただければ幸いです[注 4]。

 T・T


 [注]
  1. N・T 氏は近くにある赤い郵便ポストを見て、「僕ハモーダメニナッテシマッタ」と書いてきた子規に、漱石が少しでも苦しみを忘れさせようと、ユーモア溢れる書簡を投函したポストかもしれない、と思っている。また、ラベンダーヒルへの坂道やクラッパム公園は、漱石が転倒し乳母車にぶつかりながらも、下宿の主人ミス・リール婆さんから勧められた自転車の練習に励んだところ、ということも記している。
  2. 新・ロンドン漱石記念館のホームページがこちらにある。研究家向けに私宅で再開館したとのことで、見学には予約が必要である。
  3. N・T 氏夫妻が地下鉄を降りて漱石の下宿跡へと向かっていると、すれ違った婦人から、「今日は休日ですので,ミュージアムはお休みですよ」教えられたが、その瞬間には、ミュージアムとは漱石記念館だということが分からなかった、などの話が書かれていた。
  4. その後、修正は完了している。

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2019年10月19日土曜日

"ONLY FOR YOU ..." は悪質迷惑メール (The Malicious Spam Message "ONLY FOR YOU ...")

[English text comes after Japanese one.]


わが家の庭に咲いたヤブランの花。2019 年 9 月 21 日撮影。
Flowers of big blue lilyturf in my yard; taken on September 21, 2019.

"ONLY FOR YOU ..." は悪質迷惑メール

 私としたことが、ハッカーにやられた。といってもパソコンでなく、ツイッターのアカウントだったので、被害は私のツイッター上の友人たちに、私が受け取ったのと同様の迷惑ダイレクトメールが私の名で送られたということだが。2人の賢明なツイッター友人がすぐに、ハッキングされているらしいよ、と教えてくれた。

 ハッキングされた経緯は次の通りである。私宛のダイレクトメールに "ONLY FOR YOU" としてリンクが書いてあったので、最近ツイッター友人になった絵を描く外国人あたりが、自分の絵を安く売る宣伝のウェブサイトでも知らせてきたのかと早合点し、買うつもりはないけれども、どういう絵なのか見るだけは見ておこうと思い、リンクをクリックしたのである。

 すると、「安全なウエブサイトだけを見るように出来るツイッター用のアプリを使いますか」という意味の英文が出た。それはあった方がよかろうと思い、そのアプリの利用を承認した。こういう勧めが出るということは、リンク先が怪しいものだったのかも知れないと思い、それ以上見ることはやめたのだが、実はそのアプリ自体がツイッターのアカウント情報を盗み、盗み主が盗んだアカウントの持ち主になりすますことを可能にする悪アプリだったのだ。

 これ以上の被害を防ぐ対策として、ツイッター社へそのアプリが悪アプリだという報告をして、それを除去し、ツイッターのパスワードを変え、私宛ダイレクトメールの送り主になれる人をツイッター友人だけに制限した。また、ツイッターやフェイスブック上で、ツイッター友人たちへのお詫びと注意の言葉を発信しておいた。もしもツイッター・アカウントのハッキングをこうむったならば、ツイッターの "Help Center" > "Security and hacked accounts" を参照すると、役立つ情報が得られる。

I quote below similar passages as above posted in English on Facebook.
Yesterday, my twitter account was used by a wicked person to send a spam message, "ONLY FOR YOU ...," by the direct message function. I'm sorry about this. The message includes a URL. Please don't click it. If you already clicked the link and allowed the connection of an application of a certain name related to Twitter, please delete the application from your account to protect your account information. For the details of protection, see "Help Center" > "Security and hacked accounts" of Twitter.

Notes added later:

The explanation for the application mentioned above was something like this: "Useful for not opening the dangerous site." However, the application itself was a virus.

I clicked the link in the direct message supposing that an overseas twitter friend and painter might have wanted to introduce me to her/his site to sell her/his paintings cheaply. I had no idea of buying one of them but just wanted to look at them.

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2019年10月12日土曜日

N・T 氏へのメール -1-:海外訪問記など (Email Messages to N. T. -1-: Writings on Overseas Visits, etc.)

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭に咲いたモミジアオイの花。2019 年 9 月 1 日撮影。
The flower of scarlet rosemallow in my yard; taken on September 1, 2019.

N・T 氏へのメール -1-:海外訪問記など

 さる 6 月以来、かつて数年間同僚だったことのある東北大名誉教授 N・T 氏との間でメールの交換が続いている。私から彼へのメールを適宜修正して、本ブログの記事として連載する。



2019 年 6 月 21 日
N・T 様

 お便りと添付のお原稿「ラザフォードの指導を受けた日本人若手研究者~S. Oba とは誰か~」を興味深く拝読しました。古い Physics Today 誌の写真から、ラザーフォードのもとで研究した S. Oba 氏の正体を突き止められた経過は、探偵小説のように面白く、また原子核物理学を専攻した私としても、はなはだ参考になるお話でした。ゆったりとして有益だったという蘭英旅行についても書かかれましたら、拝読出来れば幸いです。

 私は 2 年ほど前から、英文で専門誌に発表した論文をデジタル論文集にまとめて ResearchGate サイトに掲載する仕事を続けていましたが、先般ようやく全 94 編を 20 の分冊(Volume と称していますが、1 Volume は高々数十ページ程度のものです)にまとめ終えたところです。これ以後なお、所内誌・学内誌に掲載した論文や技報などの中のめぼしいものを Supplements としてまとめておきたいと思っています。

 とりあえず、お礼まで。ご壮健で過ごされますよう、祈っております。

 T・T


2019 年 8 月 23 日
N・T 様

 奥様のご要望で昨秋エアコンを設置されたとのこと、東北地方も 35 度くらいの最高気温が頻発するようになったようで、エアコンは必需品でしょう。

 「英蘭紀行」、掲載版「ラザフォードの指導を受けた日本人若手研究者——S. Oba とは誰か」と、そのサプルメンタルマテリアルをお送りいただき、ありがとうございました。「英蘭紀行」は短文ながら、豊かな内容になっていて、感服しました。ケンブリッジ訪問に関連して、奥様とラマヌジャンの映画をご覧になったことに触れてありますが、奇しくも、私も数年前に妻とともにその映画を見ています(原作となった本の原書も、かつて読みました)。また、私は漱石の大ファンですが、かつてロンドンを訪れながら漱石記念館を見て来なかったことが悔やまれます。貴殿の漱石に関するご知識の豊かなことにも驚かされました。

 なお、私がロンドンを訪れたのは、大放研時代の終わり頃に、国際会議でオランダ(ライデンの国際会議場で開催)へ行ったついででしたので、その旅について、「英蘭紀行」に題名だけ似て、あまり学問的でない、拙いエッセイ「オランダとロンドンで」を『大放研だより』に書き、それを私のウエブサイト(以前使用していた OCN 提供のサイトが数年前にサービス中止となり、移転してのち、あまり手を入れていませんが)に転載してあります。ご興味がありましたら、下記の URL でご覧下さい。
  http://ideaisaac.web.fc2.com/slow2b.html#sec2-14

 なお残暑が続きます。くれぐれもご自愛下さい。

 T・T

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2019年9月27日金曜日

『追悼「M 子先生」』 (The Book Entitled In Memory of "M-ko Sensei (Doctor M-ko)")

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭に咲いたハナトラノオの花。2019 年 9 月 21 日撮影。
Flowers of obedient plant in my yard; taken September 21, 2019.

『追悼「M 子先生」』

 2007 年に「にっぽん丸」という船で日本の周りを一周しながら途中の各地を見物する旅で、埼玉県在住の女医さん夫妻と一緒になった。その夫妻とは、妻とともに交流が続くことになったが、夫君は早くも 2008 年に亡くなられた。女医さんとはその後も何回かお目にかかったり、メール交換をしたりしたが、昨年 9 月に 89 歳で突然亡くなられたとの知らせが、年末に娘さんの一人からあった。

 女医さんは亡くなる少し前に、朝日新聞社の「朝日自分史」という企画で自分史を作成する気になって、資料をまとめておられたそうだ。3 人の娘さんたちがその遺志を継いで、『追悼「M 子先生」』という本にまとめたといって、今月初めに恵贈を受けた。

 「M 子先生」は、高知県の漁業の町で製材所の四女として生まれ、高知師範学校 1 年に在学中、高知の大空襲に会い、間もなく父親をがんで亡くした。翌年には音楽と体育が苦手(私に似ている)の自分には小学校の先生は無理と悟り、師範学校を退学し、学費のめどがたたないまま、高知県立女子医専に入った。ところが、戦後すぐに行われた GHQ による女子医専の見直しで、高知県立女子医専は廃校になり、大阪女子高等医専へ入り直したそうである。

 「M 子先生」は最後まで現役の女医さんだった。晩年の休暇中の彼女だけを知る私には、女医さんというより、ごく普通のおばさんといった感じの、人懐っこい方と思われたが、『追悼「M 子先生」』を読んで、なかなか苦労して勉強されたのだと知った。

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2019年9月18日水曜日

水彩画『幌尻岳』 (My Watercolor "Mt. Poroshiri")

[The main text of this post is in Japanese only.]


 来たる 2019 年 10 月 21 日(月)から 25 日(金)まで、堺市役所本館エントランスホールで開催される『美交会展・33』(主催・堺の文化をすすめる市民の会)に出品する予定の水彩画を、9 月 16 日に完成した(上掲の写真。色調が実際の絵より、いささか鮮やかすぎるようだ)。ホルベイン不透明水彩絵具とホルベイン紙 F6 を使用した。文献 1 の表紙写真を撮影して、その左右をカットした形でパソコン画面に表示したものを参考にして描いた。

 文献 1 の目次上部にある説明によれば、その写真は、伊藤健次氏の撮影による『戸蔦別岳から望む盛夏の幌尻岳』と題するものである。そこに添えられている元の写真の小さなコピーを見ると、表紙写真では元の写真の下部がいくらかカットされており、長い稜線は実は手前左寄りまで、まだ続いているのである。その稜線が上縁をなすカール(圏谷)を、深田久弥は「全く円戯場と呼ぶにふさわしい」と形容している(文献 2)。幌尻岳(ぽろしりだけ)は北海道日高振興局の沙流郡平取町と新冠郡新冠町にまたがる標高 2,052 m の山で、日高山脈の主峰である。山名はアイヌ語で「大きい(ポロ)山(シリ)」を意味するそうだ(文献 3)。

 パソコン上のコピー写真では、元の写真より色彩が全体にやや茶色味がかっており、初めのうち、特に山頂近くの向かって左側の斜面辺りを、その色合いで描いていた。途中で、元の写真はもっと盛夏らしく緑色が強いと気づき、緑がかった色に修正した。しかし、修正は不十分で、出来上がりの頂上付近は、パソコン上のコピー写真と元の写真との中間のような色合いとなった。手前の傾斜の黄緑色は黄色味が強すぎたようだ。微妙に異なる緑色を塗り分けるのは難しいものである。また、表紙写真は中央下部に「幌尻岳」の文字が白抜きで縦に大きく入って風景の一部を隠しており、その辺りを描くには、目次ページの小さな写真の拡大コピー(あまり大きく拡大してもぼやけるだけで、それほど大きくはできなかった)も参考にした。

 なお、妻はこの山に 2009 年 8 月、朝日旅行のグループで登っている。

 文献
  1. 『週刊 日本百名山』No. 35(朝日新聞社、2001)。
  2. 深田久弥『日本百名山』(新潮社、1964)。文献 1 に「幌尻岳」の章が朝日文庫版から再録されている。
  3. 三宅修「"北海道の背骨" 日高山脈の盟主」、文献 1 所収。

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2019年8月1日木曜日

N 君への手紙 (The Letter to N)

[The main text of this post is in Japanese only.]



上:小学校 6 年生時の写生「天徳院の鐘楼堂」。下左:鐘楼堂の写真 1。下右:鐘楼堂の写真 2。
Upper: Watercolor, "Bell Tower of Tentokuin Temple," made in my 6th grade of elementary school.
Lower left: Bell Tower Photo 1. Lower right: Bell Tower Photo 2.

 昨年秋に M・N 君から、今後年賀状をやめるが、貴君とはお付き合いを続けたい、ということを記したハガキが届いた。それに対して、私の一番新しい水彩画をプリントした手紙を送ったところ、彼から絵について微に入り細をうがった感想を述べた手紙が届き、それ以来、彼との頻繁な手紙交換が続いている。彼は書道を趣味にしており、「學」という文字を記した色紙を贈ってもくれた。その色紙は、歳を取っても学ぶことを忘れてはいけないという戒めのように、私の書斎を飾っている。以下に引用するのは、私から彼への 14 通目の手紙である。私の 2 通目以降の手紙には、近年描いた水彩画の写真を同封して来たが、今回は例外的な形となった。



 M・N 君

 7月6日付けのお葉書、ありがとうございました。

 昨年も中学同期会が開催されたとは、羨ましい限りです。紫中の同期会は 5 年前をもって終了となりました。[…略…]旧四高博物館は私も何年か前に訪れました。お葉書には M 君の質問へのお返事がなかったので、あるいは貴君から彼へ直接お便りをされたのかと思っていました。案の定、彼は貴君からお便りがあったと、メールで知らせてくれました。

 さて、今回は近年の私の絵の写真を同封する代わりに、墓参で金沢を訪れた際に見学して来た天徳院の一部の写真と、そこを私が小学校6年生の初め頃の図画の時間に写生した拙い絵の写真を手紙中にプリントすることにしました[引用時の注:上掲の 3 イメージ]。

 金沢へは[7 月]12 日に妻と長女を伴って出掛け、長女が予約してくれた「D ホテル金沢」(金沢駅東口から徒歩 2 分のところに新しく建ちました)に宿泊しました。D デパートと関係のあるホテルかと思いましたが、経営しているのは D ハウス・グループの会社で、最近全国各地に系列ホテルを作っています。12 日は幸い涼しい曇り日で、野田山、寺町、野町の 3 カ所での墓参を無事に済ませ、翌 13 日午前にバスで天徳院へ赴きました。その日は時折薄日の射す観光日和でした。

 私は中学 1 年の 12 月から高校 2 年の 12 月の間、天徳院のごく近くの 2 軒の家に(途中での引越しを挟んで)住んでいましたが、当時、この寺院は観光対象にはなっていなくて、由来もよくは知りませんでした。ところが、最近は「珠姫の寺」という形容の言葉をつけて、観光客を誘致しており、一度訪れたいと思っていました。天徳院を訪れてみたい理由がもう一つありました。それは、私が今なお何枚か保存している子供時代の絵の中に、上述の天徳院の一部を写生した水彩画があり、その場所をぜひまた見たいと思ったということです。何年か前に同窓会で金沢へ一人で行った際に、天徳院へ寄ったのですが、山門の前に受付が出来ていて、山門内へ入るのも有料になったと知り、ゆっくり時間のある別の機会にしようと引き返したのでした。

 その後、ブログに子供時代の絵を順次載せて、それぞれの絵に若干の説明を付けました。天徳院の絵については、描いた部分の名称が分からなくて、インターネットで天徳院を検索し、楼門という言葉を見つけ、それだろうと思い、その絵を「天徳院の楼門」と名付けました。しかし、それが間違いだったことが今度の見学で分かりました。

 このたび訪れてみると、山門の前の受付は閉鎖され(城下町周遊バスのルートから遠く外れているので、思ったほど観光客が来ないせいでしょうか)、山門から右横手に続く、屋根と壁のある回廊を通って、寺院内で受付をすることになっていました。その途中に、「霊鐘」を収めた場所、鐘楼堂があります。「霊鐘」とは、加賀藩十二代藩主前田斉広の夢に現れて、「天徳院に行くを望む」と言ったため、御殿から移されて来たという由来のある鐘です。その鐘楼堂が私の写生した建物でした。なお、間違えて書いていた「楼門」というのは、天徳院の山門のタイプを示す言葉でした。

 鐘楼堂付近の境内には木々が大きく育って茂り(寺院裏の境内にあった前田家の墓地が野田山へ移転され、跡地に小立野小学校が建てられました。その際に何本かの木々が移植されたのかも知れません)、私が写生した向かって左寄りの位置からは堂の正面、特に朱塗りの上部とその部分にある窓が見えにくいほどになっていました(鐘楼堂の写真1)。そこで、右寄りの位置からの写真も撮って来ました(同写真2)。地面に苔がびっしりと生えている点でも、昔とは様子が異なっていました。[引用時の注:鐘楼堂の左右に連なる回廊の壁も、その後修復されたようである。]

 私は 6 年生の初め頃のこの鐘楼堂の写生が、水彩画の最初の経験のように記憶していました。戦後の大連では満足な授業を受けられなかったので、5 年生で習い始めるはずの水彩画を、5 年生末に金沢へ引き揚げて来るまで経験していなかったのです。しかし、机上に置いた「やかん」を水彩で写生した絵があり、その裏には、学年と組を「五ノ二」と書きかけて、「二」の上部の短い線だけを書き、上から線を引いて消し、「六ノ二」と修正してあります。このことから、「やかん」の方が 6 年生になったばかりのもので、「天徳院」より先だったと推測されます。

 「やかん」の採点としては、渦巻き状に 3 重半のような丸が画用紙の表にありますが、「天徳院」には、裏面に同心円状の 4 重丸があり、後者の採点記入方法は、鉛筆描きデッサンの「大八車」の作品にあるものと同じです。「大八車」の裏面には「六ノ一」と、私がやはり組を間違えて記しており、これも 6 年生になりたての作品のようです。図画の先生が変わったという記憶はありませんが、「やかん」の時は、図画の先生が未赴任で、クラス担任の先生が図画も指導していたのかも知れません。これらのことを総合すると、「やかん」、「大八車」、「天徳院」の順で描いたという推定が出来ます。(「やかん」と「天徳院」のあと先については、先述のブログ記事を書いた際に推定したもので、「大八車」を加えての推定は、この手紙を書くに当たって、原画を再度引っ張り出して考えたものです。文を書き始めると、いろいろ調べて推定したくなるのは、研究を仕事にしていたために生じた性癖でしょうか。)

 「やかん」の写生時には、各自が家から自分の描きたい静物を持参したのだったと思います。その時、H 君(先の手紙にも高校時代に金大附高での勉強ぶりを偵察に行った話に登場しました)が、何かのオモチャを持参して、慣れた筆使いで着彩をしていました。聞くところによると、彼は水彩画を習いに行っているとのことでした。そこで、私は自分ももっと水彩画の練習をしなければと思い、同じ「やかん」の絵を家でも描き、間借りしていた二階の部屋から道路を隔てて見えた家の写生や、辞書とインク瓶を並べての写生もした記憶があります。それらの習作の中では「やかん」だけを保存してあり、学校での写生と比べると、蓋のつまみと本体の陰影などに工夫を加えたものの、学校でのものより筆勢が弱いように思われます。筆勢の弱さは最近の作品にもしばしば見られるところではないでしょうか。

 高校生時代には天徳院の参道の前、向かって左側に「不許葷酒入山門」[くんしゅさんもんにいるをゆるさず。清浄な寺門の中に修行を妨げ心を乱す不浄な葷酒(ねぎの類に属する植物と酒)を持ち込んだり、それらを口にしたものが入ることを許さない、の意]と刻んだ石柱(戒壇石)が立っていましたが、今はそれが右側へ移され、左側には比較的新しい大きな石柱が立っていました。「不許葷酒入山門」の読み方は、高校時代に漱石の小説中に同じ言葉がフリガナ付きで出て来たのを見て知り(難しいのは「葷」だけですが)、大いに嬉しく思ったものです。

 天徳院内では、徳川二代将軍秀忠の次女で、3 歳で加賀の国へ輿入れし、14 歳で加賀三代藩主前田利常の正室となったという珠姫の半生(と言っても 24 歳という若さで亡くなったのです)を、からくり人形で演じるドラマが見られるとのことです。しかし、到着したのが、午前中は 10 時から 1 回だけの上演時間の終了後でした。そこで、多分同様の上演を撮影したと思われる DVD の上映(11 時から)の方を見て来ました。上映が済んでスクリーンが巻き上げられると、その向こうに静止状態のからくり人形一式を見ることが出来ました。寺院内のいろいろな展示物にも興味深いものがありました。茶一服を注文しての、黙照禅庭と呼ばれる回遊式庭園の鑑賞も楽しめました。

 かつて同期生・A 君の家のあった天徳院参道入り口付近には、小立庵(しょうりゅうあん)という手打ち蕎麦店が出来ていて、車での来客がひっきりなしという繁盛ぶりでした。私たちもその店で「金沢じぶそば」(同店が発祥元とか)を注文して昼食としました。

 昼食後、母校の現・金沢商業高校の正門前から小立野小学校前(私が卒業した石引小は、崎浦小と合併してこの学校に変わったのですが、ここを見たのは初めてです)を散策して、天徳院前バス停へ戻りました。バスを待つ間に、このバス停付近までの小立野の街の(少なくともメインストリートの)電線が地下埋設式になっていて、そこから湯涌方面へ向かう先で、旧来の電柱式のままになっていることに気づきました。

 […略…]梅雨も明けて、いよいよ猛暑の候に入ります。くれぐれもお身体をお大切に。ご機嫌よう。

 2019年7月25日

 T・T

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2019年7月16日火曜日

7 月上旬の花々 (Flowers during the First Half of July)


 2019 年 7 月上旬にわが家の庭に咲いた花々の写真 7 枚をフェイスブックにまとめて掲載した。こちらをクリックして出る画面で、ポインターを写真上に置くと右端に出る ">" 印を次々にクリックすると、全 7 枚をご覧になれる。最初のクチナシの花は、咲き始めには白いが、最盛期になると、2 枚目の写真のように黄色味を帯びる種類である。3 枚目はキキョウ、4 枚目はヤノネボンテンカ、5 枚目はハマユウ、6 枚目はアガパンサス、7 枚目はパイナップルリリー。

On my Facebook page, I posted seven photos of Flowers that had bloomed in my yard during the first half of July. Click here to see all of them one by one.

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2019年7月14日日曜日

金沢、天徳院 (Tentokuin Temple, Kanazawa)


天徳院で撮った写真。こちらをクリックして出る画面で、ポインターを写真上に置くと右端に見える ">" 印を次々にクリックすると、全 7 枚をご覧になれる。
Photos taken at Tentokuin Temple. Click here to see all of seven photos.

 2019 年 7 月 12、13 日、妻と長女を同伴して金沢へ墓参に行き、ついでに中学・高校時代にその近くに住んだ天徳院を訪れた。当時は観光の対象とはなっていなくて、由来も知らなかったが、最近は「珠姫の寺」という形容をつけて、からくり人形上演や DVD で珠姫の生涯を紹介するなど、観光客の誘致に努めている。珠姫は加賀藩三代藩主前田利常の正室で、天徳院の名は珠姫の戒名に因んでいる。

 2 枚目の写真中央に見える朱塗り壁の鐘楼堂は、私が小学校 6 年生の時の図画の時間に、初めて水彩画で風景写生をする対象に選んだもので、その絵を今も持っている(イメージはこちら)。手前に木々が多く茂っている様子は、その頃と異なっていた。この鐘楼堂を再度見たいというのも、今回この寺を訪ねた一因だった。

 上掲の組写真に入れ忘れた本堂正面の写真と、続いての散策で見て来た私の出身高校(名称も校舎も変わってしまった)の写真を下に載せる。

On July 12 and 13, 2019, I made a trip to Kanazawa to visit ancestors' graves with my wife and elder daughter. There we also visited one of the sightseeing spots, Tentokuin Temple, near which I had lived during junior and senior high school days. This temple was established in 1623 to commemorate Tamahime, who had been the wife of Toshitsune Maeda, the third generation feudal lord of Kaga Province in the Edo period. All the buildings were made during 10 years from 1693. However, those were destroyed by fire in 1768 except for sanmon (the main gate) and rebuilt thereafter. The photo of the front view of the main building, which I missed to add to the above set of photos, is shown below together with the photo of my alma mater (senior high school) near the temple.


(2019 年 7 月 16 日最終修正)

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