2014年11月24日月曜日

J・M 君へ:中学ミニ同窓会での会話への付言 (To J.M: Additional Remarks to the Conversation at the Junior High School Mini-Reunion)

[The main text of this post is in Japanese only.]


ナンキンハゼの紅葉した葉と実。2014 年 11 月 15 日、泉北スポーツ広場横で撮影。
Leaves and fruits of Chinese tallow tree; taken at the side of Semboku Playground on November 15, 2014.

中学ミニ同窓会会話への付言

2014 年 11 月 15 日

M 君

 12 日には、楽しいひとときをを持つことができました。貴君が中学の佐々木先生(私は理科を習いました。電気抵抗のことを電気回路中の邪魔者といって説明されたので、「邪魔者」のあだ名をつけられていたかと思います)のことを話された時、KJ 君は「行列式!?」と突飛な連想の発言をしましたね。KJ 君と私の行っていた高校で解析 I を習った先生が同姓の佐々木ヨウコ先生という、奈良女高師出身の若い先生だったのです。下記のURLに、東京で「すみれ会」と称する高校同窓生関東在住者の会に出席した折に、ヨウコ先生を囲んで撮った小さな写真(TK 君と故 KB 君も写っています)と英文の記事を掲載してあります。
  http://ideaisaac.web.fc2.com/joking01.html#sec2
その記事中に、KJ 君と「行列と行列式」を使って連立方程式を解く方法の質問にヨウコ先生宅を訪れた思い出も、ごく簡単に書いてあります[注 1]。ご笑覧いただければ幸いです(この辺りにある英文随筆などをまとめて 2 冊目の自費出版書にしようと、編集を 9 割方進めましたが、その後とん挫しています)。

 突飛な連想といえば、私の京大時代の友人、真木和美君というのも、休憩時間に仲間で雑談をしていると、突飛かつ高尚な連想の言葉を発して友人たちを楽しませる人でした。彼は湯川研の博士課程を出ながらも超電導理論の道に進み、南部陽一郎氏(南部さんのノーベル賞は素粒子分野への貢献でしたが、超電導にも関係のある仕事でした[注 2])のもとへ留学し、32 歳で東北大教授になり、間もなく南カリフォルニア大学へ頭脳流出してしまいました。超電導方面でのノーベル賞受賞者がそれに先立って獲得するジョン・バーディーン賞を受けてもいて、私の 身近では唯一、ノーベル賞受賞の可能性のある人物でしたが、惜しくも数年前に亡くなりました。数学の達者な人でした。突飛な連想をするのは数学の得意な人の特徴かもしれません。

 また、KJ 君は阪神ファンだといって、貴君が私たちの中・高校生頃の阪神の選手の名を挙げられたのに話を合わせていましたが、実は、その頃の彼は大下弘選手の大ファンで、東急フライヤーズ・ファンだったのです(彼がせっかく話を合わせていたので、私は黙っていました)。大下選手が神戸出身だったからです(ここにも彼の神戸への執着が伺われます)。その点では、私が大連にいた浜崎監督の率いる阪急のファンになったのと共通しています。彼が阪神ファンになったのは、息子さんが野球に興味を持つようになってから、その好みに合わせたということでした。

 T・T

 引用時の注:
  1. 1951 年 8 月 12 日付けの私の高校時代の日記の後半にもこのことが書いてあった(こちら参照)。ヨウコ先生の回答は、翌日、学校で聞かされることになった。行列を使った連立方程式の解法は、高校では習うことになっていなかったので、先生も、とっさに分かりやすく説明することはできなかったのだろう。

  2. このことから、M・Y 君、A・M 君と私が 10 月 9 日、東京・学士会館に集まった折に、A・M 君は「南部さんのノーベル賞の仕事は、真木君の影響を受けたものではないか」との考えを述べた。しかし、その後調べてみると、南部さんのノーベル賞受賞対象となった仕事は 1960 年になされている(こちら参照。関連の論文発表は 1961 年)のに対して、真木君の渡米は 1964 年であり、A・M 君の仮説は成り立たない。

2014年11月14日金曜日

K・F 氏へ:アメリカ旅行報告への返信 (To K. F: Reply to His Message about Trip to USA)

[The main text of this post is in Japanese only.]


イチョウの黄葉。2014 年 10 月 28 日、堺市・八田荘公園で撮影。
Ginkgo leaves in autumn color; taken in Hattasō Park, Sakai, on October 28, 2014.

F 氏へ:アメリカ旅行報告への返信

2014 年 11 月 2 日

K・F 様

 アメリカ旅行の詳しいお土産話[注 1]を書き送っていただき、ありがとうございました。「ちょっと大変な旅行」を奥様とご一緒に無事にこなされたとは、お二人とも、すこぶるお元気ですね。そしてまた、F さんは帯磁率を比較する装置を自作して持参されたとのこと、すばらしいです。

 10 月 9 日に東京学士会館で持った M・Y 君、A・M 君とのミニ同窓会は、なかなか有益でした。夕食前と夕食中の合計約 4 時間、楽しく語り合いました。M 君が、木村先生の偉大さがいまになって分かってきたということを、最も多く話しました。

 お勧めした ResearchGate[注 2]について宿題にしてくださいとのこと、承知しました。いろいろなことに興味を持ち続けておられるのは、すてきなことだと思います。若さを保つ秘訣でもありましょう。機会があれば、ゆっくりお目にかかりたいものです。

 錦秋の候、ますますお元気でお過ごしください。

 T・T

 P. S. 私が何年か前に Quora というウェブ上の質問サイトで鏡像の左右逆転について答えた文[注 3]が、"Huffington Post" というアメリカの新聞の科学記事のウェブページに、10 月 30 日付けで引用されました。URL は次のとおりです。
  http://www.huffingtonpost.com/quora/why-does-a-mirror-reverse_b_6070582.html
Quora では、利用者がよいと思った回答に対して票を投じることができるようになっています。その投票では、必ずしも正解でなくても、一般の人たちにとって分かりやすい、あるいは、面白いと思われる答に票が集まるので、私の答は目下 1、2 位に大きく離されて、16 回答中、4 位程度でしかないのです。それにもかかわらず選んでくれた編集者は目が肥えていると思います。

 引用時の注
  1. F 氏からのメールには、アメリカの旅はヨセミテ公園から始まり、そこではエル・キャピタンと名付けられている高さ約千メートルの花崗岩の一枚岩を見ることを楽しみにしていたことや、その岩の直下に立ってハンマーで叩き、岩肌に触ってみたかったが、その機会はなかったことなどが書かれていた。そのメールをもらった少し後で、たまたま、私はテレビでヨセミテ公園を紹介する番組を見て、エル・キャピタンの名にも出会った。
  2. ResearchGate は、次のように説明されている、研究者の交流のためのウェブサイト。"Founded in 2008 by physicians Dr. Ijad Madisch and Dr. Sören Hofmayer, and computer scientist Horst Fickenscher, ResearchGate today has more than 5 million members. We strive to help them make progress happen faster. Our mission is to connect researchers and make it easy for them to share and access scientific output, knowledge, and expertise. On ResearchGate they find what they need to advance their research." 筆者の ResearchGate 上のプロフィール・ページはこちら
  3. Quora への投稿は 2011 年 1 月だった。こちら参照。

2014年11月8日土曜日

2014年9月3日~10月7日分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts from September 3 to October 7, 2014)

[The main text of this post is in Japanese only.]


イロハモミジの紅葉。2014 年 10 月 19 日、堺市・大仙公園内の日本庭園で。
Leaves of Japanese maple in autumn color; taken in Japanese Garden of Daisen Park, Sakai, on October 19, 2014.

2014年9月3日~10月7日分記事へのエム・ワイ君の感想

 M・Y 君から最近の "Ted's Coffeehouse 2" への感想を 2014 年 10 月 30 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. J・M 君へ:読書のこと(続き)とファンであるということ
2014 年 8 月 3 日夜
M 君
 貴君も加藤周一を好んでおられましたか。私が「夕陽妄語」を朝日紙で読んでいたのは、主に、読書用、家用、外出用の三つの眼鏡を持っていた時期です([…略…])。新聞記事は家用の眼鏡でおおざっぱにしか読まなかったのですが、「夕陽妄語」だけは、書斎へ持込んで読書用の眼鏡で精読しました。しかも、単行本になったときには、それを必ず買って再読するという熱心な加藤ファンでした。[…略…]
 ファンといえば、私はプロ野球のオリックス・ファンですが、オリックスは今年久しぶりに強いので、CATV の実況放送やインターネットの「一球速報」を毎試合、必ずしも全試合時間ではありませんが、見ています(以前はオリックスの一前身の阪急ファンで、若い頃は、たまには、旧西宮球場まで観戦にも行きました。[…略…])。[…略…]
と、J・M 君が加藤周一を好んでいたことに関連して、筆者が熱心な加藤周一ファンであることと、オリックス・ファンであることが述べられ、8月4日付けのメールからなる、次のブログ記事に続きます。

2. J・M 君へ:貴君にとって意外だったこと 2 題について

 「2 題の 1」では、「加藤周一が医業を止めたのは 1958 年ということです」と、J・M 君が加藤周一を生涯二刀流の人と思っていたのを正したことへの追加をしています。

 「2 題の 2」では、「『唯一無二』の阪急ファンだった」J・M 君の友人に筆者が加わって 2 人になったことに関連して、次のように述べています。
浜崎監督は大連にいた人だったので、阪急ファンになった次第です。[…略…]私はスポーツは全く苦手でしたが、野球の真似事やソフトボールだけは好きでした。KJ 君の家が小立野を出外れたところにあった頃は、そこを訪れると、稲刈りの終わった田んぼで、怪しげなバットを使い、よく野球の真似事をしたものです。
 当時の小中学生の間には野球が盛んでした。といっても、それは筆者が書いている通り、野球の真似事のような遊びでした。最近の小中学生の野球といえば、皆がユニフォームを着て大人が指導してやっていますが、当時は誰でもその輪の中に入れる放課後の遊びでした。近所の仲間(学年を問わず集まってきた連中)と暗くなるまでよく遊んだものです。
 […略…]A 君という軟投型のピッチャーから、3 打席目にうまくレフト前へヒットしたことを、いまでも覚えています。[…略…]私にしては珍しいヒットだったからでしょうか。[…略…]
 その頃、同様の仲間でソフトボール試合をして、ランニングホーマーを放ったこともあります。これは多分生涯に一本だけの記録でしょう。[…略…]
 ソフトボール試合といえば、大学院生のときの研究室対抗や、大放研での部対抗でも、ある程度活躍しました。大抵、捕手を勤めました。走るのが遅くてもよいので。
 また、中学時代には、二つのサイコロと、統計と確率に基づいて多数の表を使う野球ゲームを作成して、主に KB 君とそれでよく遊んでいました。それで、高校の数学で習う確率や統計は、いたってやさしく感じられました。その野球ゲームは、研究者になってからの、電子の物質透過のモンテカルロ法による計算に通じるところがあります。[…略…]
 以上のように、野球ゲームは高校の数学で習う確率や統計の理解を容易にし、後の研究にも役立ったことが書かれています。モンテカルロ計算は、計算機が大容量化しの計算速度早くなるにしたがって、正確に現象を取り扱えることが評価され、原子炉内部の計算、遮蔽計算にも実用化されています。

 J・M 君と筆者との関係については、一連の文通の中から読みとれますが、中学時代に共に新聞部に属していたようです。J・M 君は大学卒業後関西の会社に入社して経理を担当し、筆者が修士 2 年の 6 月に下宿に尋ねている仲、現在は大阪府下在住で、長期にわたる親友であると推察できます。

3.『生誕140年 中澤弘光展―知られざる画家の軌跡』

 2014 年 8 月 27 日付けの J・M 君宛てメールでは、「昨夜も夜中に目覚めて、貴君のメールにあった中学 2 年生のときの新聞部の集合写真のことを思い出し、思い出が次々に広がりました」と、亡き友人「ウォッチャン」のことが書かれ、中澤弘光展につながって行きます。そして、8 月30日付けのメールでは、
 「ウォッチャンのこと」へのご返信、ありがとうございました。それを拝読して、またまた、書きたいことが増えましたが、まずは、ご要望に応えて、中澤弘光展のことを書きます。
 私がこの展覧会を知ったのは、妻がよく見ているテレビ東京系列の放送番組『なんでも鑑定団』の、さる 3 月 11 日分を私もしばらく見ていてのことでした。その日の放送は、過去の放送から選りすぐったものの再放送で、中澤弘光の『潮風』の鑑定依頼も取り上げられており、その末尾にこの展覧会の案内を挿入してあったのです。[…略…]貴君が購入された瀬田の唐橋方面の油絵も、さぞ高価だったことでしょう。
 中澤弘光展を開催中の三重県立美術館[…略…]は、近鉄駅から街路樹や道路脇に広がる津偕楽公園([…略…])の豊かな緑を眺めながらの徒歩、約十分で行けるところにあります。
と、J・M 君と筆者の共通の話題である最近の美術展『画家の知られざる奇跡』鑑賞についての感想を書いています。中澤弘光の油絵を購入したことを書いて、美術展の感想を尋ねてきた J・M 君の要望に応えたものです。このような対話をしながらの生き生きとした文通が繰り返されており、ご両人の気まめさに感服します。新聞部での体験はこのように生かされているのですね。また、TV 放送でそれとなく見た絵に触発され、期間中にはるばる鑑賞に出かける好奇心と行動力にも感心させられました。私がこのブログを見た後に、横浜のそごう百貨店で同じ展覧会が開催されました。近くだから行って見ようと思っているうちに終わってしまいました。

4. J・M 君へ:深田久弥のことなど
[…略…]久弥の荒島岳についての文に、「大学一年の秋、私は年上の友人と二人で白山一周を試みた」とあることを、妻が教えてくれました。貴君のメールから察するに、この「年上の友人」とは貴君の伯父さんではないでしょうか。
 2014 年 8 月 31 付けメールで、筆者は上記のように J・M 君に問い、彼が聞いたという話を裏付ける、深田久弥についての話も以下のように紹介しています。
[…略…]貴君が小谷温泉の山田旅館で聞かれた話は、確かに久弥とその恋人のことです。『週間日本百名山』の『雨飾山 高妻山』の号に、山岳写真家の三宅修が、雨飾山は「遠くから見るときれいな双耳峰」であることを述べています。そして、久弥の
左の耳は僕の耳
右の耳は
はしけやし[いとおしい]
君の耳
そんな詩が浮かんだのに理由があるが、それは言えない。
という文(1957 年、同人誌『霧藻』掲載の「二つの耳」の終節)を引用し、その「理由」なるものを、次のように明かしています。
昭和16 [1941] 年、彼[久弥]は一高時代に見初めた少女と再会し、一緒に小谷温泉に出かけ、雨飾山に登ろうとしたが果たせなかった。彼女の名前は木庭志げ子、昭和22 [1947] 年に結婚して深田志げ子となる運命の出会いであった。
 また、次のように、深田久弥との古き縁について回想しています。
 私たちが高校 1 年のときだったと思いますが、新聞部の先輩[…略…]が、当時金沢に住んでいた深田久弥にインタビューに行き、『菫台時報』の「門を叩く」という欄の記事を書いていました。どういう記事だったか覚えていないのが残念です。

5. J・M 君へ:KJ 君の大恋愛
2014 年 9 月28 日
M 君
 昨日の昼食時、先にも書きました、近年恒例の R・M 君らとの菫台高校ミニ同期会があり、KJ 君を含めて 5 人が集まりました。[…略…]
 KJ 君と私は集合場所へ行く前に先に落ち合いました。彼は、奥さん(M 子さん)が要介護 1 の認定を受けることになったことを話し、「私の口からいうのも何だが、頭のよい人だったのに、昔のことは覚えていても、少し前に話したことも覚えていなくて…」といっていました。彼と M 子さんの大恋愛のことは、貴君に伝たことがあったでしょうか。婚約時代の彼らに私が初めて会ったのは、私が修士課程 2 年の夏休み前のことでした。[…以下略…]

2014 年 10 月 1 日
M 君
 KJ 君の大恋愛については、私が母へ送った手紙に、彼自身の手紙を引用しながら詳しく報告しています。…KJ 君の大恋愛関係の部分を抜き出して集めることによって、貴君に伝えることにします(KJ 君に無断で悪いですが、50 年以上も昔のことですから、事後にでも快諾を貰えることと思います)。
 […略…]
 婚約時代の KJ 君と M 子さんに私が初めて会った、修士課程 2 年の夏休み帰省前頃の記録がありませんが、それまでに KJ 君が決心し、私も意見を聞かれて賛成した通り、M 子さんは最初の婚約者との約束を破棄して、KJ 君と婚約したのです。1960 年の春休み早々に彼らは結婚式を挙げ、私も披露宴に招かれて出席しました。以下、母への手紙からの抜粋です。
×     ×     ×
 KJ 君から最近 2 回も封書での便りがありました。某女子大を昨年出て彼の学校へ就職してきた人が、「実にすばらしい」人で、「早速お近づきになっ」て、一緒に帰ったり、「お茶を飲みに行っ」たりしているそうです。しかし、「この先生にはちゃんと婚約者があっ」て、「私はみのらぬ恋ゆえ実に実に悲しいです」と。彼女の婚約者は(…略…)。「雨がまるで私の心を読み取ったかのように寂しく降っています…。[…略…]
(1959 年 5 月 21 日——修士課程 2 年生のとき——)
×     ×     ×
 最近の KJ 君の手紙から。
 「きょうは少々冷静に考えて下さい。〈冷静にならなければならないのは彼の方です。〉
「私のために…ここまで書けば分かると思いますが…実は某女子大出身の同僚の先生・M. I さんとのことなのです。(…中略…)。4月以来、ほとんどといっていいくらい毎日一緒に帰ります。たとえば、火曜日は(…中略…)。土曜日、まず、一緒に元町、三の宮へ行き、ドンクに入り、それから須磨浦へ行った。そして、ステレオコンサートを聞き、また三の宮へ出た。非常に疲れて、家まで送るのが辛かったので、タクシーに乗って貰うために、お金を彼女に渡したが、彼女はそれを拒み、『そんなんだったら、家まで送って』と私の手を強く握りしめていた。それでは送ろうとしたとき、同僚の先生にその熱い場面を見られた。また、生徒たちも私たちのことはよく知っている…。
「(…中略…)。いろいろと話し合った。なぜこうも気が合うのか? もしも私が彼女にとって価値のない男性であれば、彼女は婚約している身だから、こうはならなかっただろう。しかし、彼女も迷っている。私の心は決まっている。
「このように全く気の合う女性は初めてなのだ。私は好きで好きでたまらない。どうしても彼女を自分のものにしたいのです。(…中略…)。ともあれ、君の意見を聞かせてくれ給え。」
 […略…]
(1959 年 6 月 x 日)
×     ×     ×
 【引用者の注:(…中略…)と(…略…)はブログ原文中の略、[…略…]はここへの引用に当たっての略。】
 以上が「KJ 君の大恋愛」に関する抜粋です。KJ 君は優れた文章力で苦悩の過程を筆者に伝えています。M 子さんの婚約破棄という大決断の陰に筆者のご母堂も間接的に関与され、筆者が「それまでに KJ 君が決心し、私も意見を聞かれて賛成した通り、M 子さんは最初の婚約者との約束を破棄して、KJ 君と婚約したのです」という通り、親友として相談にのり、また M 子さんには、筆者の高校2年の創作「夏空に輝く星」が KJ 君のバックグランドを理解する上で、貴重な役割を果たしたことなどを考えると、KJ 君との知的でしんみりとした深い友情が感じられました。

 8 月 3 日から 10 月 1 日までの間に頻繁に交換されたメールを通して読みましたが、J・M 君の文章を直接には引用せず、それが読み解けるようにし、これほどの内容が(ここではふれませんでしたが、大津に住んでいた彼になじみ深い場所への旅行についても書かれています。「J・M 君へ:滋賀県高島市へのバス旅行」参照)うまく構成され、継続的に、事実をライブ放送のようにウェブ書かれた手腕に深く感銘しました。文通の内容があたかも予め構成されたように進んでいることにも感心しました。

 【引用者の注:「J・M 君の文章を直接には引用せず、それが読み解けるようにし」とありますが、十分に読み解けないところもあって、M・Y 君の推定が完全には当たっていなかった部分もありました。そういうところには修正を加えました。】