2008年3月18日火曜日

分からなかった

 昨日の朝日新聞に「『原爆研究』日誌、京大に」という記事が掲載された。そのオンライン版 [1] を検索したところ、日経新聞の月曜日夕刊に「湯川秀樹の遺伝子」という記事 [2] が連載されていることに気づいた。

 第1回は、「1949年、日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士。晩年は物理研究のほか核廃絶・平和運動にも献身し、科学と社会のかかわりを終生問い続けた。湯川博士の遺伝子を受け継ぎ、その精神をいまに生かそうとする人びとの姿を、秘史をひもときながら追った」と始まっている。しかし、これまでのところ、中心人物として登場するのは、湯川博士の京大同期生(私の恩師でもある)木村毅一博士の恩師で、台湾において世界で2番目のコッククロフト・ウォルトン型加速器を作った荒勝文策博士である。つまり、湯川博士の前の世代の学者の話である。

 荒勝博士に習った堀場雅夫氏(堀場製作所最高顧問)はインタビューを受けて、「毎回楽しみに読んでいますが、『湯川秀樹の遺伝子』というタイトルは逆でしょう。荒勝先生の遺伝子こそ湯川さんが受け継いだ。遺伝子を逆にたどれば、という考え方もあるかもしれませんが…」と述べている。そのうちに湯川博士の遺伝子を受け継いだ人びとも登場するのだろうか。

 それはともかく、この連載には湯川博士の名も当然ながら、たびたび出てくる。竹腰秀邦京大名誉教授は、湯川博士の量子力学の講義は、「小声でぼそぼそしゃべり、さっぱり分からなかった」と述べ、堀場氏も次のように語っている。

 「2回生で量子力学の講義を受けましたが、黒板に向かってしゃべるし、全然分からん。それで文句言ったら、湯川さんは『聴かんでもいい』と言う。そやかて必修科目でしょ。仲間と組んでストライキに打って出たら、湯川さんも心変わりしたみたいです。研究者としては立派かもしれんが、プロの教師としては荒勝先生と対照的でした。」

 私が湯川博士の量子力学の講義を聞いたときは(先にも書いたことがあるかも知れない)、その頃発行されたばかりの、『岩波講座 現代物理学』中の量子力学編に執筆された通りを話された。したがって、それを見ながら聞いておれば、分かったような気になることができたが、ノートをとる必要のなかったことは、講義を聞いた印象がいささか薄いという結果にもなった。他方、学園祭か何かの折に聞いた湯川博士の一般向けの講演は、なかなか味わい深いものだったように記憶している。

 後日注記:下記のリンクは、その後いずれも切れている。

  1. http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200803180063.html
  2. 湯川秀樹の遺伝子(8)海軍支援、緊迫の加速器建造(連載の別の回の記事は、ページ下部の「他の『深める ローカル』の記事を読む」をクリックして、たどることができる。)