2005年5月31日火曜日

夢京橋キャッスルロード / 国文学独特の情緒


夢京橋キャッスルロード

 夢京橋キャッスルロード(写真)は江戸時代の街並みを再生した彦根の新しい観光スポット(2005年5月24日撮影)。

国文学独特の情緒

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月21日(木)晴れ

 関西学院を脱けて東京へ、大学へ。慎太郎の努力は不運の彼自身を着々と高めている。全部読み終わらなければ、この蘆花の自伝的小説 [1] の主人公については、まだ考察できないが、思いのほか興味深く読んでいる。この間まで『アンナ・カレーニナ』を読んでいたぼくには、考察の論理性の少ないことが、始めのうち物足りなく感じられた。しかし、国文学独特の情緒と、自然と感情の日本画的な表現には、翻訳物では味わえないものがある。
 金属機械によって絶えず製造されている材木の新鮮な匂いがときどき漂って来て [2]、本の香りと一緒に鼻を楽しませてくれるのを感じながら、午後のほとんどを慎太郎と過ごしてしまった。

 引用時の注

  1. 徳富健次郎(蘆花)の『思出の記』(岩波文庫判、上下2冊、1939)。私が当時読み、いまも持っているのは、1952年発行の第8刷、臨時定価百二十円、旧仮名遣い、旧漢字使用のもの。

  2. 二階に間借りしていた家の向かいが製材所だった。

2005年5月30日月曜日

失敗以前に知っておくべきだったこと


 高校時代の交換日記から

 左のイメージは、昨日の引用分で終りとなった14冊目のノートの表紙。”It is six of one and half-a-dosen of the other.”(こちら六個で、あちら半ダース=大同小異)という諺をタイトルとしてある。

(Ted)

1952年8月20日(水)曇り

 “Before you give advice, that is to say, advice which you have not been asked to give, it is well to put to yourself two questions — namely, what is your motive for giving it, and what is it likely to be worth? If these questions were always asked, and honestly answered, there would be less advice then.” [1] — これは先日の失敗以前に知っておくべきだったことだ。忠告に関していわれているのだが、すべての新規の行動に対して敷衍されてもよいことばだと思う。

 “Not until the following autumn do the couple set about building their home.” の訳を「翌年の秋になって始めて~する」という肯定表現で書かなかったことが、一学期のアチーブメント・テストの-1点の原因かも知れない。
 家主の娘さん(高校1年)が英語の夏休みの宿題を見て欲しいといってきたが、「お国はどちらですか」を “Which is country?” などとしていたので、彼女の頭は電灯の発明される以前の夜のような状態ではないかと疑った。「何か白いものが見えます」を “Something white see.” とやっているにいたっては、肝をつぶしてしまった。[2]


 引用時の注

  1. 英語の学習書からの引用であろう。

  2. 「お国はどちらですか」の正解は “Where do you come from?” だろうが、 “Which is your country?” でも通じるだろうし、「何か白いものが見えます」の訳も、受動態にするだけで正解になるのだから、このとき私が与えた評価(娘さんに直接いったのではなく、日記に記したのみの評価だが)は厳しすぎたといえる。「肝をつぶしてしまった」という表現は、当時読んでいた徳富蘆花の『思出の記』の影響らしい。同書の五の巻(一)の初め近く(岩波文庫版、下巻の最初のページ)に「四ヶ月前宇和島から来て、初めて此処を覗いた時は肝を潰した」とあり、また、私のこの翌日の日記に、同書についての感想の一部が記載されている。

2005年5月29日日曜日

玄宮園 / アインシュタインの空間概論


玄宮園

 写真は彦根城の四代藩主・井伊直興によって造営された玄宮園。中国唐時代の玄宗皇帝の離宮になぞらえた池泉回遊式の大名庭園として、江戸時代初期の文化をいまに伝えている。中央に国宝の彦根城天守が見える。(由来は JR 西日本「駅からはじまるハイキングMAP」による。写真は2005年5月24日撮影。)

アインシュタインの空間概論

 【概要】M・ヤンマーの空間の概念に関する著書 [3] に、アインシュタインが前書きを書いている。それは同概念の歴史についての非常によい理解を与えてくれるものであり、私は、ヤンマーの著書は第3版で追加された「最近の発展」の章だけを読めばよいという気にさえなった。アインシュタインは、空間について (a) 物質世界の位置という性質であるとの考え方と (b) すべての物質の器であるという考え方の二通りがあると述べ、(a) によれば物質のない空間は考えられず、(b) によれば物質は空間に存在するものとしてのみ考え得る、と説明している。さらに、ニュートンの絶対空間の考えは (b) に対応するが、この考えに抵抗したライプニッツとホイヘンスの (a) に対応する考えが、物理学の基本的概念が物質から場に取って代わられるに従い、支持されるようになって来たとして、「場なしに空間なし」ということばを記している。[本文(英文)はこちら

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


Y 05/29/2005
 仕事などで手一杯の状態で、しばらくお休みしていました。また他のブログ記事を読ませていただきます。興味深いお話を、ありがとうございます。
 (1)「場=field」ですが、この field が物質世界の位置である、というのは、どのような座標軸(次元、観点)から定められる「位置」なのでしょうか? 物理学において空間の「位置」がどのように定められるかをお教えいただければ。
 (2) 確かに、この「場=field」の考え方ですと、independent, absolute な空間はもはや必要ないと思えますが、「位置」としての空間は、(b)のような容器的性質を一切持たない、純粋に「位置」としての空間になるのですね? 定義からするとそうなのですが、私たちの日常的な空間理解だと、物質を存在させる容器的性質が空間にあると思い込んでしまうものですから。

Ted 05/29/2005
 まず、「場」と「物質世界の位置」の関係について説明します。最近の物理学では「場」の方が「物質」よりも基本的で重要な概念になっているので、空間についての (a) の考え方において、「物質世界の位置という性質」は「場の世界の位置という性質」という言葉で置き換えられます。場のいろいろな場所=位置での強さを表すためには、座標とその関数としての場の量を使いますが、座標系はいわば便宜的なもので、原点をどこに取ろうとも、また、向きをどのように取ろうとも、また、どのように運動していようとも、物理現象の記述は同等に出来るのです。したがって、存在の主は「場」であり、空間を構成する「位置」は、「場」のあるところでだけ意味のある召使いのようなものだということになります。「場」のないところに位置を想定しても無意味、つまり、そこには空間もない、というわけです。
 上の説明から、「位置」とはどのような座標軸から定められるか、に対する答が、どのような座標軸でもよい、となることがお分かりと思います。ただし、加速度をもって運動している(宇宙の全質量分布を基準として)座標系を利用すると現象の記述が一見煩雑になるので、普通は等速運動をしている座標系(速さ0の系—静止している系—も含む)が利用されます。
 日常生活の範囲では、ニュートン力学でほとんど話が片づきますので、空間の概念としても、(b) のような、ニュートンの絶対空間を頭に浮かべて差し支えないのです。(a) のような空間は、哲学や先端物理学においてのみ重要といえるかも知れません。

スケッチで14冊目の交換ノートを終える


 「高校時代の交換日記」は、下に引用する分で14冊目のノートの終りとなる。裏表紙の内側に左に掲載のスケッチがあり、「上野学園の窓から。きょう行くのが最後だったので、ちょっと描いておいた」と説明書きがある。見えているのは前田家の墓地もあった天徳院裏の、赤松の多い林。上野学園に近い部分では、多くの木々が伐採中だったようである。その後、前田家の墓は野田山へ移転し、この辺りに小立野小学校が建ったと思う。

(Ted)

(続)1952年8月19日(火)晴れ

 昼食後、Twelve のところへ行って少し話してきた。休み中ずっと家にいるらしいが、まだ宿題は出来ていないそうだ。

 イネの波とハスの葉とシャツをふくらませる風と日光と青空と雲の中にたたずんだ。時のひだに触れてみた。誰かぼくと共に、この輝く自然の気分に浸ってみたいものはいないか、と考えた。風に吹かれて白っぽい緑の裏を見せたハスの葉は、KZ 君を思い出させた。しかし、彼がつねに発した詩的なことばも、ぼくを満足させなかった。声を出したくなって、誰もいないのを確かめてから、「ヘンリー・ダヴィッド・ソローは」といってみたが、声にならなかった。――家へ入ると、外の輝きから自分だけが見捨てられたように感じられる午後だ。――

 「眼鏡をかけた坊主頭の学生さん」と、司会のアナウンサーから紹介された Jack への問題は、第1ヒントで答えられなければならないものだった。Sam といい、彼といい、タバコに縁があるようだ。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 05/30/2005
 素晴らしいスケッチ、Ted さんの最近のもの? と思いましたら、この交換日記に添えられたものでしたか。説明がなければ大人が描いたスケッチだと思ってしまいます。Ted さんは基本として、直線が非常に得意でいらしたのですね(これまで拝見した絵からも)。私はそれが駄目なのです。手がとても不器用ですからね。
 今、(逃避行動ではなく)ヴァイオリンを何ヵ月ぶりかで、少し弾いたのですが、不器用で大雑把な代わりに、女性でこんなに力のある弾き方をする人は耳にしなかったな…と改めて気づきました。Ted さんも私も恐らく、人柄通りということと、研究をしても、三つ子の魂百まで、ということは強く思います。Ted さんの完成度の高い交換日記を読ませて頂いても、今(まで)の先生にまっすぐにつながっているように思います。
 日記は第二段落が、細分化されすぎない心的描写で、けれども未来ある高校生を感じさせて非常に良いですね。「…ハスの葉は、KZ 君を思い出させた。」確かに毎日の生活でこういうことはありますね、けれども私たちはそれを描写することを忘れてしまっているのが、とてももったいなく思います。ですが、私たちの心に再・描写されて(あるいは reflect されて)いれば、それが「私にとって貴重なこと」と思います。それを文字に表すと必然的に、自己内他者を含めて、他者たちへ向けての物語性をおびる…ということで、出来事そのものとの関係性の中で「物語を物語るということ」(今の先生の一連のブログでの日記のご紹介も)の意味探究、これは私の教育学の恩師が専攻されていることでもあります。

Ted 05/30/2005
 スケッチは、もともと少し黄色みをおびていたのがさらに年月とともに変色した表紙裏に、HB の鉛筆らしいもので描いてあったので、スキャナーで最初に取り込んだときは、うまく再現できませんでした。そこで、3B の鉛筆でところどころなぞって、スキャンし直し、画像処理ソフトで一旦グレイ・スケールに変換し、明るさ調整をし、それから色を褐色に変えました。
 「…ハスの葉は、KZ 君を思い出させた」には、理由があります。実は、交換日記ではKZ 君を "Lotus(ハス)" のニックネームで記していたのですが、ブログに引用するに当たり KZ 君に変えたのです。KZ 君の勉強部屋には「僕の愛人は勉強である」と書いて貼ってあったので、lover of study から lo と stu を取って並べ替え、Lotus のニックネームを私が作り、日記上でだけ使っていたのです。
 「物語を物語るということ」の意味探究とは、興味深いテーマですね。

2005年5月28日土曜日

二城下町への小旅行



 5月23、24日、妻とともに滋賀県の琵琶湖湖畔にある長浜と彦根への小旅行をした。下記文中の青色の文字は、それぞれの場所の写真と簡単な説明を掲載した記事へリンクされている。英文中のリンクは直接原寸大の写真へ行くもの。

 長浜では、長浜城旧長浜駅舎を見て、「長浜浪漫ビール」で昼食。さらに、舎那院大通寺などを訪れ、黒壁スクエアに多くあるガラス工芸品の店を見物後、彦根へ向かった。

 ちょうど移動中、土砂降りの雨になったが、宿へ到着後、雨は止んだ。宿の窓から、雨後の琵琶湖畔をスケッチした(上掲のイメージ)。近くの高校の野球部員がトレーニングに来ていたのを描き込んだが、あまり熱心に体操などしている様子ではなかった。翌朝、彦根城内で玄宮園その他の史跡を見て、夢京橋キャッスルロード宗安寺まで散策し、帰途についた。両市とも、史跡や古い街並みの保存・再現に力を入れていることが印象的だった。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ポー 05/29/2005
I have been to Hikone once but never looked around there. I just watched 'BIRDMAN RALLY' (鳥人間コンテスト) at Lake Biwa. I wish I had visited those castles or places.

Ted 05/29/2005
Oh, you watched Bird Rally. I think that the flying club (or something of a similar name) of my former work place, Osaka Prefecture University, has been getting one of the highest ranks in that rally.

ポー 05/29/2005
That's marvelous! Unfortunately, the team I cheered didn't recorded anything.

Ted 05/29/2005
It's a real pity of you.

Y 05/29/2005
 いつも丁寧に企画をされて、豊かに小旅行や散策を楽しんでおられますね。うちはあれこれと忙しくなるとなかなかそうできなくなってしまったので、昨日週に一日でも外をよく歩こう、という話を私もしましたが。
 私も滋賀の実家に居たとき、旧長浜駅舎も見に行きましたし、「長浜浪漫ビール」も見た覚えがあるので、そこで食事をしたかもしれません。弟や、姉も一緒に居たかと思うので15年ほど前かもしれません。安土のほうも同様に、史跡の保存・再現に力を入れていたと思います。湖西のほうはドライブに向いているのですが、湖北まで行くと琵琶湖も本当にきれいですよね。鉄道の旅行だと、まず米原から別の県に抜けてしまいますが。滋賀出身でも滋賀をあまり知らず、京都の方が知っているため、こんなコメントになってしまうのですが。

Ted 05/29/2005
 ぜひ、「週に一日でも外をよく歩」いて下さい。私は、定年退職以来歩き過ぎで、最近は少し足が痛んだりしますので、週に一日でも歩くことを休まなければ、と思っています。
 そうです、安土も。滋賀県は、史跡の保存・再現に力を入れているところが多いのに感心します。

大通寺 / こんな夢を見た


大通寺

 正面に大きな二階建ての山門(写真)を構える大通寺は、長浜廃城後、長年にわたって町の中心的存在であった。戦国時代、豊臣秀吉の居城・長浜城の中に道場として開かれたのが最初といわれ、江戸時代初期に現在地に移ったもの。本堂や大広間は京都・伏見城の遺構と伝わる重要文化財。(JR 西日本「駅からはじまるハイキング MAP」による。写真は2005年5月23日撮影。)

こんな夢を見た

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月19日(火)晴れ

 「どんな話?」
 光の中から出てくる声
 Sam の厚い唇
 犬、アゲハチョウ
 帽子のつばの埃
 なぜぼくはそれに定冠詞をつけるのか

 彼女は死んではいなかった
 しかし、病んでいた
 そして、一切の輝きが消えていた
 それは死も同然だった
 ぼくは冷ややかに
 彼女をうち見た

 彼女は天体に関する話をした
 それはぼくの小説の中の
 ヒロインの話と同じだった
 可愛そうに
 ぼくは彼女のその話に
 耳をかさなかった ――こんな夢を見た。

 何と薄弱な意志だろう。ヱルテルの結末はどうなったか。雲が飛ぶ。木々がざわめく。青く明るい。ああ、ぼくはセンチメンタリストか、ロマンチストか。沈黙から愛を告白されて泣いている。――『思い出の記』の中の、目的が分からなくて縊死する関西学院の秀才。ぼくはそういうことはない。何もかも歴然としているではないか。

 “In human intercourse the tragedy begins, not when there is misunderstanding about words, but when silence is not understood.” という文が “Conjunction” のところに出て来た。この文は沈黙の危険をいったものであるが、かといって、あらゆる場合にことばが沈黙の上であるとはいえない。こういう文章を見ても迷わないくらい、いままでとは打って変わって、ぼくはソローのことばをしっかりと信じ始めた。上の英文は、事務的な相談や、切迫して方便に頼らなければならないときの問題などにのみ通用するものだろう。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 05/29/2005
 大通寺はなかなかの威容でしたね。参道にあたる周辺の商店街もなかなかの賑わいぶりでしたが…。

Ted 05/29/2005
 大通寺の山門は京都・南禅寺の「三門」という山門を想起させました。大連の小学校同窓生中の美術愛好家が毎年東京で開いている美術展に出す私の水彩画の題材として先に、大阪の中央公会堂を描いて来い、といった同期生に、次は何を描いて欲しいかと尋ねたところ、南禅寺といわれ、二の足を踏んでいます。

2005年5月27日金曜日

長浜の舎那院 / 先を急ぐ旅人として


長浜の舎那院

 写真の舎那院は、814(弘仁5)年、弘法大師の開創と伝えられている。1500年代に一度、兵乱によって消失したが、豊臣秀吉が再建した。木造の愛染明王坐像である本尊と、秀吉が一族の祈願のために献じた阿弥陀如来坐像が、重要文化財に指定されている。(JR 西日本「駅からはじまるハイキング MAP」による。写真は2005年5月23日撮影。)

先を急ぐ旅人として

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月18日(月)晴れ

 朝、Jack が「恐ろしい、嬉しい、大ニュース!」と叫んで、上野学園へやって来た。Sam が3週間前の日曜に出場したものに出られることになったそうだ。県体のこと、和田信賢のこと、放送劇のこと、三角関数のこと、彼の兄が明々後日に帰ってくることなどを医務室で話して行った。

 いまのぼくはどんな思想を持っているというのだ。嫌悪すべき感情以外の何ものもない! ない! 和田信賢はこの世にいなくても、多くのものを放送界に残したから、「ある」といってもよい。が、ぼくのこの小さな頭の中には、まだほとんど何もない。ない。ない。このことを知れ! ここにいたって、ぼくは完全にソローのことばを肯定し、一昨日のことについては、そうなったことがかえってよかったことと、ぼくが悪かったこととを認める。昨日、「われわれは悪かったのではない」と書いた。そのことばは、ある範囲では純粋に成り立つのだが、今度の問題のあらゆる局面をもれなく考慮に入れたものとはいえない。――こう書いてみたが、まだはっきりしない。――
 何かの芽が路傍の土をもち上げて頭を現したとしよう。そこをとおりかかった二人の旅人の一人が、これは何なにの芽に違いない、といえば、もう一人が、いや、ここがこんな格好だから何なにだろう、という。しかし、どちらも相手の主張を完全に否定は出来なくて、彼らの結論はどちらへも落ち着かない。もしも彼らにそれを徹底的に調べる余裕があれば、それが何であるかを研究し始めるだろう。しかし、彼らが先を急ぐ旅人ならば、次にそこを通るときにはかなり成長しているだろうから、それを見ようということにして、ずんずん歩いて行くだろう。また、もしも彼らの主張しあったものが、そのどちらでもなく、彼らにとって未知のものだったとすれば、彼らは先の道を歩むことによって、それと同種のものをしばしば見出して、それが何であるかを知るようになるかも知れない。――ぼくは、先を急ぐ旅人として自分の道を歩み続けよう。芽を出した植物の名前はそのうちに分かるだろうし、歩くことは旅人の使命なのだから。――

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 05/27/2005
 この頃の Ted 少年はもとより内省的性向とはいえ、悩める多感な思春期のもっとも熱き時代だったのですね。

Ted 05/27/2005
 日記に書くという操作によって、悩みはいささか誇張されたきらいがあります。青春の悩みは大学生時代までも続きますが、その頃は高校生時代よりも、自分への信頼感が強くなっていたようです。

2005年5月26日木曜日

長浜オリジナル・ビールの店 / 他の有効なことをした方が…


長浜オリジナル・ビールの店

 長浜を訪れたさる5月23日、昼食は長浜オリジナル・ビールの飲める「長浜浪漫ビール」という、しゃれた店でとった。その店は、旧長浜駅舎の前を通って北国街道へ行く途中の米川を渡ったところに、川に面して立つ。

他の有効なことをした方が…

 高校時代の交換日記から

(Ted)

(続々)1952年8月17日()晴れ

 われわれは悪かったのではない。Minnie が承諾しなかったということは、彼女をも含めたわれわれに「何かあるもの」(これはよいことばではあるが、乱用すると、その抽象性によって、無責任なことばになる恐れがある)を得る機会を失わせたかも知れない。しかし、やむを得ない。その問題に固執して原因を究明するよりも、他の有効なことをした方がよいだろう。その究明も決して有効でないことはないだろうが、そこにのみ「何か」を求めなければならないことはないのだから。KZ 君のような「わが友人は一人」という考え方を嫌う、とぼくは書いたではないか。

 NHK の聴取者一千万突破記念の「ミュージック・パレード」がいろいろな歌を聞かせてくれている。どれもこれも、歌詞は満足には知らないが、耳でよく親しんだものだ。それらを聞いていると、まだ、あまり大きくではないが、ここまで成長して来た自分の足跡が思い出される。

 「ベルが鳴った/電話のベルが鳴った」で始まるサトウ・ハチローの和田信賢をしのぶ詩はよかった。徳川夢声の朗読も真に迫っていた。「石がある/草がある/枝がある/匂いがある/屋根がある/ぼくの投げ出した下駄がある/(何とかな)夜明けがある/…」というように、些細なものから、それらと並べて「ある」というと奇抜な感じのするものに至るまで、「ある」ものを列挙して、「だが和田信賢はない/ない、ない、ない/この世にない」と述べたところは、サトウ・ハチローが作るいつもの子どものための文章の中によく見受ける調子だったが、今度のは、特別な響きをもって胸にこたえた。

2005年5月25日水曜日

旧長浜駅舎 / 2万円を使う義務と責任


旧長浜駅舎

 写真は現存する日本最古の駅舎である旧長浜駅舎。現在は資料館として一般公開されている。完成は1882(明治15)年で、舎内は鹿鳴館調の造り。長浜鉄道文化館が併設されている。(JR西日本「駅からはじまるハイキング MAP」による。写真は2005年5月23日撮影。)

2万円を使う義務と責任

 高校時代の交換日記から

(Ted)

(続)1952年8月17日()晴れ

 Jack は香林坊へ行く途中、「世界の文学」の放送劇で聞いたモリエールの「女学者」の話をしてくれた。惜しいかな、ぼくがつかめたのは筋の切れ端だけだった。われわれの学校の演劇クラブが午後5時半から MR で放送劇に出演するということだったので、Sam の家を出てから、Jack と大変な速足で歩いた。兼六園の出口まで15分。ぼくが UE 君の家に住んでいて紫錦台中へ通っていた頃は、登・下校に世界的標準の千五百メートル競泳に必要な時間を要したのだから、あと15分で帰宅することは無理だった。足を洗って二階へ上がったときは、1/3ほど済んでいた。「星はみな輝いている」とかいう題名の劇だったが、内容はたいしてよいとも思われなかった。低い声で「先生」か何かの役をしていたのは誰だろう。NHKの「新世界設計図一月号」で内閣官房長官役をしていた左卜全にとても似た発声だったので、気に入った。新聞クラブで海水浴に行く前日の晩、A・U 君と IT 先生に電話をしてから古本屋へ入っていたときに出会った NG 君が鴎外の「高瀬舟」を探していたのは、この劇のためだったのだ。

 けさ、なおもヘンリー・ダヴィッド・ソローと Minnie のことを考えながら上野学園への道を歩いていると、後ろから「お早う」といわれた。誰かも見極めないで「お早う」と返してから見ると、庭球のラケットを下げ自転車似乗った生徒会会計の TN 君だ。《そうだ! まだ2万円を使う義務と責任がある! 少なくとも2学期が始まるとすぐに5千円を使う予定を立て、それを巧みに実行しなければならないという仕事がある! [1]》と思った。
 しまった。時計を忘れて来た。
 Pleasureという語の第1音節を、昨日野球ゲームで知るまで、pleaseのpleaと同様に読んで得とくとしていた。
 "Be the motive what it may, it is always well to be on the side of caution."
 "It is necessary for perseverance to step in and complete what resolution and energy begin."(『英語の総合的研究』から)(上野学園で)

 引用時の注

  1. 学校新聞『菫台時報』の編集・発行のこと。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

じょぷりん 05/25/2005
 現存する日本最古の駅舎は、旧長浜駅舎なのですねぇ。東京駅も相当古いと思っていましたが、「最古」ではないのですね(笑)

Ted 05/25/2005 13:49
 私は、この写真の説明を書くために JR 西日本が無料配布している「駅からはじまるハイキング MAP」を見て初めて、日本最古の駅舎と知った次第。そういうものならば、内部も見てくればよかったと後悔しています。

四方館 05/25/2005
 長浜や近江八幡などは文化財や古い町家や保存、共存した街づくりが功を奏していますね。近江商人の伝統もあるゆえか、自存自立精神も文化意識も旺盛な感がします。

Ted 05/25/2005
 私は長浜と彦根を今回訪れて、これらの市における文化財や、町並みを保存した街づくりに初めて接し、感心しました。

じょぷりん 05/25/2005
 「駅からはじまるハイキング MAP」なるものがあるのですね。その種の配布物は大好きです。

Ted 05/25/2005
 「駅からはじまるハイキング MAP」は、なかなかよく出来ています。矢印通りに進んだつもりでも、道を間違えてしまうこともよくありますが。

2005年5月24日火曜日

長浜城 / 暁の眠りは十分でなかった



長浜城。豊臣秀吉が初めて城主となった長浜城は、1983年に長浜城歴史博物館として再興された。2005年5月23、24日に、長浜と彦根を訪れた(その小旅行については、別の記事で紹介する)。

暁の眠りは十分でなかった

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月17日()晴れ

 ヘンリー・ダヴィッド・ソロー、ヘンリー・ダヴィッド・ソロー、Minnie、ヘンリー・ダヴィッド・ソロー、――暁の眠りは、この想念のために、十分でなかった。
 お邪魔したね。あんなに遊んでよかったのかい。もしも、駄目だったのなら、昨日の Minnie のように(といっても、彼女は「駄目です」ということばは使わなかった)断ってくれてもよかったのだ。しかし、Sam はべつに困ったような顔もしていなかったと思うが。
 「何かしら学ばなければならないもの」とは、ああいう時間の中にもあるものだろうか。きょうのような日の、われわれのような人物の時間の使い方としては、あまりにも悠長すぎるものではなかっただろうか。あのペナント・レースで4~6位を占めた人物にはまだ許されることだが。われわれは、この間断られたボールをたたいて、柔らかくして、いつか千円札の幕が下がっていた香林坊の靴屋へ持って行ったついでだったのだ [1]。

 引用時の注

  1. 「ボールをたたいて、柔らかくして、…靴屋へ持って行った」とは、靴の修理にゴムのボールを使って貰ったということか。これは、Jack と共にした行動のようである。その後、Sam も含め、先にも書いてあったような、英語の辞書か単語集を使っての野球ゲームをしたらしい。「4~6位」とあることから、6人という大勢で一緒に遊んだようだが、誰だれだったのか記憶にない。この日の日記は長いので、分割して掲載する。

2005年5月22日日曜日

ああ何ということ!



 写真はわが家の植木鉢に咲いたユリ、2005年5月22日。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月16日(土)晴れ

 和田信賢さんの死は、家にラジオのないときだったら、なにも感じなかっただろう。「話の泉」でのあの明朗で、知識とユーモアを処理するにふさわしい声がもう聞けないのは、何といっても残念だ。

 けさも露を踏んで、ここ、上野学園医務室へ来ている。昨日の午後はここで風呂を貰った。まったく、ありがたいことだ。これからここへ入って来る盲・ろうの孤児たちは、ここで楽しい生活を見出すだろう。社会施設の立派なものは、見ていても気持がよい。しかし、まだまだ不足なところがあるだろう。

 Sam は「考えられんことやな」とか、「たしか…のはずだ」ということばをよく使うね。それらのことばは、Sam の妥当性を尊ぶ考え方を如実に示すものと思う。妥当性は「進適」[1] の問題を解く場合に重要なことだ。もちろん、その用途は、そこだけに限られたものでなく、実際面においても、広く要求される。

 ああ何ということ!
 Sam はなぜ「たいへん」を連発したのかね。昨年のいまごろ、ぼくが交換ノートに書いたことを理解し、そして覚えていて使ったのかい? われわれは二人で行き、そして、すべての話は Sam がしたけれども、Minnie や彼女の母は、ぼくが一人で行ったように感じなかっただろうか。もしも、そう感じられなかったとしても、Sam に時間的損失と精神的損失(これは、あったかどうか、ぼくには分からないが)を与え、自分自身にもそれを蒙らせ、彼女や彼女の母に不快を与えた責任は、一切ぼくにあるのだ。
 Sam はエマーソンのことば [2] を巧みに説明したね。しかし、それが具体的に必要とする手段 [3] について、われわれはその問題点をよく知らなかったのだ。彼女から承諾を得られなかったのは、彼女がその手段をよいと思わず、そして、実際によくなかったのだ。
 Henry David Thoreau のことばを、ぼくは自分の小説の中で肯定した。また、彼女の家を辞するとき、それが正しかったと思った。だがすぐに、――Sam と競争するように兼六園球場の裏を歩いていたとき――疑問に思った。「とても声が聞こえないくらいに身体と身体とが遠く離れていなければならないのだ」ということは、はたして、この問題にも当てはまるものだろうか。……どうも、いまのぼくには分からない。ぼくはあのとき、沈黙を破るだけの落ち着きがあり、ことばも持っていた。あるいは彼女に承知させ得たかも知れない。しかし、平生のぼくを見ていることによって、それを信じてくれそうもない Sam と一緒にいたことが、ぼくに何もいわせなかった [4]。
 いや、正しくなかったことはない。
 彼女の母にあのようにいわれるほど、便りは出していないよ。昨年求めていたものを受け取ってから、ずっとあとになって(去年の昨日ぐらいだっただろう)、礼状を出しただけだ。
 黒い、豪快な顔をし、鋭い目を持った H・I さん――あるいは、彼女らしい人物――が、Sam とあそこへ行くとき、大学病院前にいた。そして、くしくも、Jack と帰るときにも、またいた。「I さんじゃないですか」という機会は、その二回ともに見出されなかった。H・I さんは、石引小学校のとき、少なくとも国語や社会の時間の発言においては、われわれのクラスが彼女一人に牛耳られていたといってよい人物だ。もしも、Minnie が彼女のような性格の持ち主だったら、決してわれわれの要求に承諾を与えなかったことはなかっただろう。しかし、H・I さんが休憩時間にデッサンをするのを、彼女の背に無邪気に、もたれんばかりにして見ていたときのぼくの感情と、よい響きの音を押し殺すようにして口から出しながら話す Minnie の声をきょう聞いていたときのぼくのそれとは、同一だっただろうか。[5]

 Jack は彼自身が、彼が宿題として書いた小説の主人公のようになりそうな気がする、といった。その結末は、とても悲壮なものだそうだ。彼は自分の悲劇を考えながら、愉快そうな顔をしていた。[6]

 引用時の注

  1. 進学適性検査のこと。当時、各大学の入試成績と合わせて、全国一斉に行われたこの検査の成績が、合格者選別に用いられた。理系と文系の問題からなり、回答は選択式で、既得の知識を試すのではなく、推理・考察力を試す内容のものであった。この検査に備えて、業者の作成した問題によって校内で行われていた模擬検査を、高校2年のときから私も受けていた。

  2. 「われわれが出合う人は、誰でも何かしら自分より優れた点を持っているものであり、われわれはそれを学ぶべきである」という意味のことば。

  3. Minnie にわれわれの交換日記の仲間に入ることを勧めたのだったか。私はその後、このとき Minnie を訪問したことさえ、すっかり忘れてしまっていた。Minnie は、私が前日書き上げた小説の女主人公のモデルの一人だった。私は、小説を書いたあとで、なお、そのモデルについてもっとよく知りたくなったかのようだ。

  4. 責任を Sam に転嫁しているような書き方だが、私を無口と思っている人の前では、大いに話したいときでも、そうすることをしばしば差し控えたのは事実である。

  5. 小学校6年のときの同級生、H・I さんについては、「A先生の計らい」に H子として記した。また、彼女は "The Girl of Masculine Spirit (男勝りの少女)"(英文)にも H・I として登場している。彼女がいまなお東洋文学の准教授として働いているカリフォルニア大学サンタバーバラ校のウエブサイトに、彼女の最近のポートレートを見ることが出来る(私がこれを見つけたのは、つい先日のことである。—後日の注:その後、彼女は名誉教授となったおり、新しいリンクと差し替えた—)。

  6. Jack は大学卒業後、神戸に住み、高校の校長も勤めたあと、なお高校の非常勤講師として働いている。孫が10人ほどいて、幸せそうである。

アインシュタインの原爆に関することば



 イメージは K. Nabeshima の「憲法九条を守ろう、活かそう:アピール用フリー素材&ネタ」サイトから。

 「アメリカ物理学会ニュース」の2005年5月号 [1] に、アインシュタインが1946年に行った講演の一部が引用されており、「原子爆弾や生物学的兵器から安全であるためには、戦争をさけなければならない。…(略)…もしも戦争を準備するなら、戦争を止めることはできない」とある。これは、いまなお通用する重いことばである。彼が生きていて日本の憲法9条を変える動きを聞いたとすれば、なんといっただろうか。[以上は、英語版記事のアブストラクトである。]


  1. P. Rife, "Einstein, Ethics and the Atomic Bomb" APS News, Vol. 14, No. 5, p. 8 (2005). (Article based on a talk given at the 2005 APS March Meeting in Los Angeles.)

Related Sites

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ヨハン 05/24/2005
 私個人が思うこと:最強のパワーを秘める物は、転用すれば最強兵器に、最強兵器だから我こそはと持ちたくなる。止められないのは人間の心の弱さ、弱い心を直さなければ、止めなければ。しかし性、どうにもならない。弱き者の弱き心が最強の武力を求める。真の強者は程度の大小を論じて、弱者を叩いたりはしないものだが、弱者が得物を持つと性質が悪い。常に正当化に余念がない。世界平和のためには強き心を持つ指導者が不可欠。思想や哲学、教養に法律、宗教すら弱き心の前では無力に等しいのが人類の性なのでは…。悪魔の兵器と言われて久しい物を、英知で克服できる日はいつのことやら。

Ted 05/24/2005
 「性」といってあきらめないで、人間の弱さに気づいた仲間の連帯によって、人類の英知の面にふさわしい平和な世界を少しでも早く築きたいものです。

K_Nabeshima 05:36:43
 Ted さん、こんにちは。拙作「 P = mc^9 」を取り上げてくださり、ありがとうございます。"よく出来ている" とのご批評、おおきな励ましを得た思いです。世界物理年にあたって同日本委員会が出した一文のなかに「真理への想像力」「論理的な思考」という言葉が出てきますが、これは自然だけでなく社会や歴史に対しても通用する言葉だと、私は受けとめました。先人に学び、このような science の精神を失わない市民であり続けたい、後世にも引き継いでゆきたい、と思います。

Ted 05/25/2005
 この記事にちょうどよい9条を守る訴えのイメージを作っていただき、こちらこそ感謝です。「真理への想像力」には「恒久的平和への想像力・創造力」も含まれるものと、私は受け止めます。Scientists も science だけを考えていてはいけないのです。

ゆっぴー☆ 07/18/2005 06:46
 こんにちは~(☆^ー^☆)。旅行から帰ってきたゆっぴーです。早速、この記事を読みました。一見、難しい公式なのかなって思ったら、E=mc2 にかけたとってもユーモラスな公式じゃないですか。K. Nabeshima さん、尊敬します。
 以下、Tedさんのこの記事を読んだ感想です。さすがアインシュタインですね。正論だと思います。彼が現代にタイムマシンで来たらがっかりするとゆっぴーは思いますよ。科学技術の進歩には喜ぶと思いますが、その使い手の人間の方は全然進歩していないように、彼は思うだろうと、ゆっぴーは思います。核兵器の脅威は、60年前より確実に増大していますからね。ゆっぴーはアインシュタインとは、どんな人物だったのかという点に興味を持ちました。調べているうちに見過ごせないモノを見つけてしまったのでトラックバックします。

Ted 07/18/2005
 アインシュタインは私の最も尊敬する物理学者の一人です。今年は、彼が物理学に大きな影響を与えることになった特殊相対性理論ほか、重要な3論文を一度に発表した年から100年目にあたり、世界物理年に指定されています。なお、1999年末にはアメリカのTime 誌が、アインシュタインを20世紀を代表する人物、 "Person of the Century" に選びました。物理学上の業績だけでなく、平和のための発言や努力においても、彼は立派な人物だったと思います。

「夏空に輝く星」完成

 高校時代の交換日記から
(Ted)

1952年8月15日(金)晴れ

 「夏空に輝く星」は、自分でも意外な結末になった。
 「何処を見てるの?」ときいた宏子の問いに、
 「あなたを見てるのです」とは、どうしても書けなかった。
 『「Vega?」と彼女がいった。』という最後の文章を書いたときに、ラジオの放送劇「野分」で「つぶやくように」ということばが出たので、それをそのまま挿入してみた。へき頭で主人公の稔がつぶやき、最後でもまた、つぶやくのはどうかとも思われるが、単純に「いった」とするよりは、この方が場面にふさわしいかも知れない。――「小声でいった」と直そうか。[1]

 引用時の注

  1. 「夏空に輝く星」はここをクリックしてご覧になれる。最後は「小声でいった」になっている。「ウエブ版への序文」にある M 君とは、交換日記の相手の Sam のことである。

2005年5月21日土曜日

靖国問題とは

 [四方館さんの「ひよいと穴からとかげかよ」にトラックバックして書いたものである。トラックバック先の記事はプロバイダーの事故により消滅したが、記事の関連部分は以下の通り。]

<靖国問題を根源から問う>
中国や韓国から歴史認識問題や首相の靖国神社公式参拝で厳しくも激しい批判を浴びるなか、就任以来の高支持率も低落の一途をたどり今やただのガンコおやじに成り下がりつつある小泉首相は、なおも参拝の継続に意欲を滲ませている。…



 日本共産党の不破哲三議長が2005年5月12日の時局報告会でおこなった講演の要旨を、インターネット上で読むことができる [1]。その中に、「靖国神社の問題とはなにか」と題する部分がある。これは、この問題のたいへん平易で分かりやすい解説である。多くの皆さんの一読をお奨めしたい。

 忙しい方がたのために、ごくかいつまんで紹介すれば、次の通りである。

 靖国神社は、戦争中、国民を戦場に動員する役割をになった神社であり、その成り立ちを考えただけでも、そこへの参拝を戦争への反省とすることは、道理に合わない。それに加えて二つの重大な問題がある。一つは、1978年10月、国会も国民も知らないうちに、戦争を起こした罪を問われたA級戦犯が戦争の犠牲者として合祀されたことである。もう一つは、靖国神社が「英霊の顕彰」と「英霊が生まれた近代史の真実を明らかにすること」を使命としていることである。したがって、靖国神社は、「日本の戦争は正しかった」という、ヨーロッパでいえば、ネオ・ナチの精神に匹敵する立場を、日本の国民に吹き込む政治目的を持った運動体なのである。

 上記の二つの重大問題については、「やすくに大百科:私たちの靖国神社」という、同神社へ行けば誰でももらえるリーフレットや、同神社にある「遊就館」という展示館の紹介書『遊就館図録―靖国神社』、そして、同神社の後援でつくられ、ビデオとして販売されているドキュメント映画「私たちは忘れない」(ここでいう「忘れない」は、日本の戦争の、彼らが「真実」と称する歴史や、英霊たちの「武勲」を忘れてはならないという意味)の中身を引きながらの説明となっている。

 このような神社に首相が公式参拝するならば、日本は侵略戦争を反省していない、と外国から見られて当然である。なお、不破議長の紹介している靖国神社の性格については、同神社と遊就館のホームページ [2, 3] において、直接確かめることもできる。

  1. 日本外交のゆきづまりをどう打開するか、しんぶん赤旗 (2005年5月17日).

  2. 靖国神社

  3. 遊就館

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

くうママ 05/21/2005
 靖国神社の本当の姿、ネオ・ナチの精神に匹敵する立場というのは本当に、まったく知らなかった事実で、なぜ靖国参拝に騒ぐのかと不思議に思っていたくらいでした。めちゃめちゃびっくりな真実。これからは、ニュースを見る視点が変わりそうです。

Ted 05/22/2005 07:54
 ニュースを見るには、メディアのいうことをうのみにしないで、日頃から幅広い意見に耳を傾け、自分独自の判断力をもつように心がけなければなりません。

ヨハン 05/21/2005 21:10
 流石は Ted さん、いつもながら考えさせられます。A 級戦犯、英霊、戦没者、あるいは犠牲者、捉え方によって幾様にも表現できる日本人の曖昧さもあるのでしょうが一国の首相であるなら個人の主観より被害国の客観的な捉え方を理解すべきである。にもかかわらず…。政治家や政党を批判をしても無意味かも知れませんが、先日の歌舞伎町視察の発言に小泉首相の志の低さが感じられたのは私だけでしょうか。

Ted 05/22/2005
 プラトンの国家論は、国を守る兵士の勇気を国の三要素の一つとするなど、現代にふさわしくないものではありますが、統治者は哲人でなければならない、という点は、いまの日本の政治を動かしている人たちに学んでもらいたいものです。

Yasuyama 05/21/2005 22:11
 どうなんでしょ。 参拝を決行される方々が それ程信心深い方々とも思えないんですけど。で、参拝することによるデメリットというのは私でも判るのですが、判らないのが 参拝するとどんな御利益があるんでしょうか。これに触れた文章をついぞ目にした事がありません。今の時点で遺族会にそれほどの集票力が有るとも思えないし謎です。いやぁ、何かきっと良い事があるにちがいないと思ってしまうのは下司の勘ぐりなのかなぁ。

Ted 05/22/2005
 「良い事」は、わが国を好戦的な国へ導けばば、アメリカとの結託がいっそう強くなり、いま政治を動かしている人たちや彼らと結びついている財界の人たちの利益がますます増大する方向へ国内政治も持って行きやすくなる、ということだと思います。裏に経済という大きな動機のあるのが、いまの政治です。

K_Nabeshima 05/22/2005
 Ted さん、こんにちは。以前にこちらでご紹介いただいた「憲法9条を守ろう、活かそう/アピール用フリー素材&ネタ」をやっている K_Nabeshima です。すでにご存知かもしれませんが、拙サイトで「靖國」にちなんだ「米國参拝」という番外編ネタを5月5日にアップしました。よかったらご笑覧ください。http://www3.to/9jo/#39
 また、「世界物理年」にちなんで、浅学をかえりみず「平和憲法の理論式」なるものをつくってみました。導出過程の論述はなく結論のみの公開という怪しげな式です(苦笑)。専門家のご批評を賜りますれば、さいわいです。http://www3.to/9jo/#41

Ted 05/22/2005
 「米國参拝」と「平和憲法の理論式」を拝見しました。P = mc^9、よく出来ています。文句のつけようがありません。近日中に引用させていただこうかと思います。「原爆に関するアインシュタインのことば」というブログを準備中ですので。

四方館 05/23/2005
 重ねてのTBどうも畏れ入ります。コメントが遅くなりました。不破さんの説明はとても明快で判りやすいものですね。明治の初期以来、国体護持を体現している靖国の特異性というものが戦後処理の中で封殺できなかっのは禍根の残る問題ですネ。私にはガンジガラメの感がしてきます。

Ted 05/24/2005
 「ガンジガラメ」とは、靖国参拝反対の勢力にとって動きがとれない、という意味でしょうか。何とかして、はね返したいものです。

四方館 05/24/2005
 ひとり靖国問題のみに拘わらず、天皇制維持とセットになり、尚且つその上に、戦後60年という長い歳月を、憲法の根幹に関わるような路線変更を解釈論議だけで済ませてきた幾多の政治的事実の積み重ねに思いを致さば、やはり取り返しのつかなさを感じざるを得ないという意味です。

Ted 05/25/2005
 「幾多の政治的事実の積み重ね」はすべて、日本の政治の右傾化に関わる問題ですが、どう解決されるべきかについては、個別の対策があり得るし、また、「取り返しのつかなさを感じ」る中にあっても、少しずつでも取り返す方向に努めるべきだと思います。

自作小説への反省

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月14日(木)晴れ

 英語のほかの一切を顧みないで専念し、やっと、小説は最後の一節を書けばよいことになった。いろいろな資料のよせ集めのようで、筋がはっきりしていないし、具体的な事件が少なくて、ほとんどが主人公の思索であるということも、これを読む誰でもに少しの興味もわかせないであろう原因を作っているのではないかと思う。
 二節の終りで「すっとした」稔が、三節で《この一週間は変な焦燥と不安の連続だった…》と思うのと、絵が陰うつになることから一挙に悩みに突入するのは、どう考えても唐突だ。
 何といっても、「事件の発展」を中心に置かないで、「思索の発展」をそこに置いたことが、小説らしくなくなった原因だ。思索や情景の細部は、自分が実際に感じて記しておいたものを使えば、より実感が出るかと思って、いままでにわれわれの通信帳で Sam に読んで貰ったものをたくさん取り入れたが、それがかえっていけなかったかも知れない。それは一貫性を減らす役割しか果たしていないようだ。Sam の書いてくれた「談話は方便」というソローのことばを使わせて貰ったよ。あと一節、といっても七枚くらい書かなければならない。普通の作文の長いもの一つほどの量だ。
 Sam 以外の人がこれを読めば、よほどの推理力を働かせない限り、稔が敏夫に書いた葉書の内容は理解出来ないかも知れない。事件の発展だけを追う読者には、路傍に落ちている石を見るよりもつまらなく感じるだろう。良のところへ行く途中の稔と繁行の会話は遊離的のようだ。「あらゆる思惟の実現する世界」について話していて、「無感情の世界」を思い出すのも無理だった。
 「新感情蘇生の瞬間」を長ながと説明しておきながら、次にそれの起こるのが夢の中だというのも苦しい。野間が初登場する場面はぎこちない。だいたいにおいて、力の入るところと、そうでないところとの区別のない、一本調子だからいけない。――まとまりなく書いたね。――
 悩みは悩みらしくなく、解決は解決らしくなく、中心事件なく、まとまりなし、というないないづくしがこの小説かも知れない。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

のぞみ猫 05/21/2005
 小説書くのって、案外、簡単なようで難しいですよね…。私も、もう1つのブログにオリジナル小説を描いて掲載しているのですが、読み返せば返すほど、「あぁ、ここも直さないと~」と思う箇所が増えます…。

Ted 05/21/2005
 のぞみ猫さんの初コメント、ありがとうございます。もう1つのブログというのを訪れてみましたが、「Novels☆休止中」となっていて読めないようで、残念に思いました。近日中に公開されるのでしょうか。私の高校時代の創作へのリンクは、明日掲載予定のブログに設けます。お読みになって、ご感想をいただければ幸いです。

Y 05/21/2005
 私は、事件性にあふれた小説はそれこそあふれているので、個人的思索の発展を中心とした小説は興味深く思いますが、それは私が極端に内省的な性格を元来としているからなのだと思います。それでも、ドストエフスキーやカフカの小説中の主人公の個人的な思索についていったり、川端康成の描く主人公の感性に最後までついていくのは、なかなか大変です。Ted さんの書かれた小説も、描写がきっと細かくて、じっくりたどって読めば面白く、ざっと読もうものなら難儀するような小説だったのではないかな、と思います。私も、今、断然学問の(ある意味)ドライな世界でものを書くほうが、楽で進みやすいものですから、この時の Ted さんのご苦労はわかる気がします。

Ted 05/21/2005
 このときの作品「夏空に輝く星」(Sam はこの題名を見て、「花火の名前のようだ」といいました)は、拙いものですが、青春の記念としてホームページに掲載しています(明日のブログにリンクを設ける予定)。お暇の折に読んでいただければ幸いです。どんなジャンルのものでも書けばよかった夏休みの国語の宿題で小説に挑んだのは、小学校6年からの文学好きの友人・KZ 君の影響があったと思います。彼は中学3年の時に小説を書いていました。

2005年5月20日金曜日

M・Y 君からの感想(2005年4月分)

 さる5月10日付けで、M・Y 君から "Ted's Coffeehouse" 4月分への感想文を貰った。やや長いが、同君の了承を得て、ここに全文を紹介する。赤茶色の文字は関連ページへのリンクになっている。




 4月のTed's Coffeehouse を読ませていただきました。感想を以下に記します。

1. 随筆

(1) 世界平和アピール7人委員会の核廃絶に関するアピール
 5年に1度開かれる核不拡散条約再検討会議(5月2日から)に合わせて表記委員会の「核兵器使用60周年にあたり日本国民と政府に訴える」「再検討会議に際し、核軍縮への具体的努力を」「核兵器依存の即時停止と速やかな廃絶を」の3つのアピールを再録されたことは、時宜を得て有意義だと思います。同委員会の1955年以来の70余回におよぶ国内外へのアピールの発信と委員メンバーの変遷を見ますと、平和運動の歴史の重みを感じます。

 核戦争が起こると、地球は急速に冷え、「核の冬」が訪れ、文明は崩壊し、人類は絶滅するだろう、と予測し、核専制攻撃や核シェルターなどの一切の生き残り戦略を無効と主張する M・ロビンソンの『核の冬』(岩波新書)を読みましたが、核廃絶に説得力のある書だと思います。

(2) ハンス・ベーテはいわば私の恩師の一人
 アナン国連事務総長の説く今回の核不拡散再検討会議の意義と、ハンス・ベーテの遺志に沿ってNPTの有効性と信頼性が強化されるようにとの筆者の願いが書かれてあり、上記 (2) の随筆とも関連深いものです。本随筆への Y さんの4月29日付けコメントを興味深く読ませていただきました。

(3) 多重の安全対策を:JR福知山線の大惨事に思う
 スピ-ドの自動制御装置の改善、急カーブの改善、軽車両化の見直し、線路とビルの距離の制限等々、多重の安全対策を施すことの即刻実施が必要と、事故翌日に書かれています。短時間の間によく事故の本質を見ておられると思いました。

 「安全を優先する企業風土」を醸成すること、これはJR西日本だけでなく全ての企業が心すべきことです。ことに、原子力、航空において。しめくくりの「地球最後の日をかいま見る思いがする。地上にすでに生命はなく、巨大化した太陽のみが君臨する。人間のいのちの連帯感がもたらすイメージだろうか」は、私には核の冬を想像させます。

(4) Wedding Invitation from India (インドから結婚式招待状)
 インドの富裕階級の結婚式とはこんなものなのでしょうか。関係のあった人に祝って貰う他、結婚式を通じて多くの人々に社交の場を提供する、なんと鷹揚で社交的な民族でしょうか。

(5) 時間について学位論文のこと
 これらは Y さん宛ての書簡形式がとられおり、一般の読者への話題の提供の仕方に工夫がなされていると思いました。時間については、難しいでしょうが、これが理解の糸口となることと思います。

2. 写真

(1) 桜
 4月11日の写真の説明にあるように、今年はエコーの桜記事募集イベントのお陰でいつになく丁寧に桜を見物されたとのこと。3月29日のサクラがまちかまえているから始まり、4月3日、大阪開花の日、堺のわが町ではの大阪城公園の標準木による大阪気象台の開花宣言直後に観察した堺・上の桜並木、阪南の名所・山中渓の花曇りの桜、4月8日のいま満開、堺市わが町近辺と続きます。

 さらに、堺の桜名所浜寺公園の賑う花見客、4月11日の名残を惜しむのクローズアップ、まだ楽しめる桜:堺市大仙公園の有終の美を誇っているシダレザクラ、4月15日のこれから咲くサトザクラは、『植物の世界』によれば、オオシマザクラを中心にして他の種との間の複雑な交配によるもの、と生成の由来を調べます。

 このように、2005年の各所の桜の花が、蕾のころから散り際におよぶまで、みな美しく撮られ、簡潔な説明付きで見ごたえがありました。今年は開花宣言の日から急に暖かくなり満開の見頃の期間が短かったので忙しかったですね。よい記録として残るでしょう。

(2) 安土へのハイキング播州赤穂への旅行
 いずれも「駅からはじまるハイキングマップ」に従って散策されたとのこと、安土城址へ行くには大きなステップの石段450段も登らなければならず、奥様は平気で、貴君には少し苦しいとは、ほほえましい情景を思い浮かべます。三重の塔に耐震構造の古来の知恵を思い、田園風景の道は詩情豊かに撮れています。

 私は播州赤穂は車窓で眺めただけなので、説明文とともに素晴らしい播州赤穂のスケッチと、4月29日などの記事にカットとして添付されている写真を楽しく拝見しました。辿られたコースもよかったですね。天気にも恵まれ、その上、八重桜が盛りでよい旅でしたね。

3. 交換日記

(1) Ted と Sam の交友の動機
 当時の Ted の4月9日の日記に、「指導資料」の記載にあたり、Sam との交友について、「中学校で学習上から」「ものの見方の共鳴」と記入した、とあり、交友の動機と内的な絆が分かります。日記を読み進めると、Sam は楽天的な行動派、Ted は思索的ではっきりしない性格と、相異なる点がお互い引き付けるところがあったことと推察します。

 例えば Sam は何?何だって?に「ぼくに生徒会会計をとは一体全体何事だ。何をしてよいかさっぱり分からないが」、とたじろぎながらも「何とかなるだろう、という気持ちが心の中に働いている。そして、たいていの場合は、わずかばかりの成果に、何とかなったんじゃないかと満足して、それに安んじているだろう」と書きます。地球の静止する日でも、Sam は「僕は今年度も執行委員にまつりあげられてしまった。挨拶にはへんちくりんな副詞ばかり並べておいてやった。一度笑いが止まらなくなって、次の言葉が出なくなってしまった」と飄々としています。

 他方、Ted はたいへんなことだで、年度最初の新聞クラブ会合で編集長に選ばれ、「重大なことだ。たいへんなことだ。どうしても、しっかりやらなければならない」と完全主義です。さらに、やはり不安であるでも、「活発でなく、覇気に乏しく、まずかった。やはり不安である」と述懐しています。トラの行列と花火とで、Sam は冒頭に、「Ted よ、僕を待ったりすることなく街へ出て、何か得たかい」と記し、快晴の中で祭りと花火を愉しんでいます(この情況も生き生きと描写されています)が、同日の Ted の日記は一言、「苦悩と、もがき」なのです。

(2) Ted と Sam の切磋琢磨
 Sam はなるほど、こういうふうに書けばで、Ted のような表現ができない、といって、Ted の表現力を学ぼうとしています。いそがしくて、ひじょうによいことだでの、Ted の「ぼくの直さなければならない点があるかい」との疑問に、Sam は「いかなる愚問に対しても、はっきり意思表示すること、これはちょっとばかり強調しておこう。これはくどくどノートに書いているより実行が必要だ」と注記しています。

 また、三分の一去ってまた一難で、Ted は「ぼくが苦しめられるのは、ぼくの弱さのためにほかならない。Sam がぼくに与えた宿題の究極の問題が、いよいよ具体的にぼくがいやでもそれと知らなければならなくなりつつあるのだ」と書き、次の日には「強い自尊心を神がかり的なまでに保持していて…(略)…いままでのぼくだったことを発見した。…(略)…この発見はSamが昨年の夏休みに読んだ本から抜粋して書いてくれた二つの自我自覚の形…(略)…に属する考えから出されたものであって…」とあり、交換日記で互いに切磋琢磨している様子がうかがえます。

(3) Ted の懊悩、思索と青春の憧れ
 一人深い山奥へ入り込みで、Ted は「やろうとしないで、やってみないで、胸に重荷しばりつけている。――ユダヤ人はバビロンの幽囚となったが、ぼくは苦悩の幽囚になりかけている」と悩みます。Ted はまた、くるっとして輝く目と…で、女生徒たちの顔や姿に魅せられながら、「緑色の躍動的なセータ姿といい、次の世代に対する力強い希望を感受してよいように思う。だが、…それより先に、自分自身のしなければならないことがある。」と、勉学に打ち込みつつも青春の憧れを抱き、さらに、思索し悩む(0と100の中庸われわれに必要なことは何なのだ?)というように、多感な時期を過ごしています。

(4) 映画
 映画のことがよく出ます。『月世界征服』『モホークの太鼓』『わが谷は緑なりき』等は当時私も見ています。『わが谷は緑なりき』はアカデミー賞授賞作品で、多分我々の学校推薦の映画だったと思います。19世紀末の英国の炭鉱町が舞台で、主人公の回想の物語りです。家族愛で結ばれながらも、Sam の日記に書かれているように落盤事故、ストライキ、家族の死、姉は不本意に嫁ぎ、自分はいじめられるというように、語られることは陰惨で不幸であるが、主人公の回想の情景はしみじみとした味わいで美しく描かれ、モーリン・オハラの控えめながらも芯の強い女らしさに魅力を感じた印象に残る映画でした。その後に見た美しい回想で物語られる邦画の「野菊の如き君なりき」に構成手法の共通点を感じました。

(5) その他
 別れには、互いに一目置いていた友人との惜別の情が、しんみりと美しい文章で書かれています。ひらひらひらひら花びらがは、Sam の巧みな情景描写です。そこにはまた、Sam が Ted と上述「別れ」の友人 KZ 君を視野に認めたが、遠慮して声をかけなかったことを悔やむ繊細な気持ちがよく書かれており、義足をつけた白衣の傷痍軍人が「異国の丘」や「湯の町悲歌」など歌っている情景は当時を偲ばせます。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 05/21/2005
 本当に丁寧にご感想を寄せてくださる方がいらっしゃるのですね。私も、このブログでTed さんが綴っておられる work は、本当に読みごたえがあり、さまざまなご感想やご意見をお受けになると良いと、思っています。また、読者さんに比してコメント者が限られていますので、このようにご感想を時々公開していただけると、嬉しいですね。
 M・Y さんがご覧になっているとおり、多彩な内容が組まれているので、毎日飽きることがありませんし、私たちにとって大変豊かな勉強になります。

Ted 05/21/2005
 これほど丁寧に読んで貰えると、いい加減なブログは書けません。(Ha-ha!)M・Y 君はありがたい友人です。
 私のブログへの身にあまる Y さんの賛辞、恐れ入ります。

意識と無意識の闘い



 写真は交配の繰り返しによって作り出されたブルー系バラの代表「ブルームーン」。2005年5月15日、堺市浜寺公園の「ばら庭園」で。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月12日(火)

 Sam は同窓会の途中で、行かないと考えた、といった。ぼくも、ふと、漱石の『三四郎』中の美禰子のように、無意識のうちに、ということがあるかも知れないと思った。だが、それは、あくまでも無意識のことだ。校長先生のいわれた「女の子のことを考える」[1] の「考える」は意識上のことではないか。意識上では、ぼくは決して Minnie を女性という面で対象にしているのではない。
 たとえば、無意識の中の行動が犯罪になることがあるだろうか。このことについて、ぼくはよくは知らないが、無意識が自分をある方向へ引っ張って行くことに抵抗出来るものだろうか。――こんなことをいっていて、万が一、無意識の中に悪が根差した場合にはどうするのだ? 無意識とは、ある場合には、意識が成長したものかも知れない。だとすれば、悪い無意識は、意識であるうちにたたき潰さなければならないのだ。――Sam! もしも、ぼくに悪い意識の成長が認められるならば、遠慮なく注意してくれ給え。
 ところで、先に、意識上で対象にしていなければ、無意識下のことは問題でないように書いた。そこへ戻って考えてみよう。「同一の問題に対しては、相対立する意識と無意識において、前者が勝利する」という定理があればよいのだが――。意識と無意識が共有する問題について、意識は最小限、行動を味方につけようとするであろう。それに成功すれば、意識は勢力を二倍にして無意識と闘うことになる。定理の証明はこれで十分とはいえまいが、無意識をあやつることは不可能でも、確固とした意識があれば、闘いには勝利できるのではないだろうか。

引用時の注

  1. ここに書いてある校長の話について、日記中には記述が見当たらないが、紛失した日記帳の方にあったのかも知れない。何かの機会に、「君たちははまだ、女の子のことを考えるべき年齢ではない」というような訓話があったのだろう。私は Minnie 訪問を企てるに当たり、それを気にしていたらしい。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 05/20/2005
 意識と無意識のとらえ方は、精神の学をやってきた私からみても、その通りだ、と的確なとらえ方に思えますね。意識は最小限、行動を味方につける—そうですね。けれども、一般に言う「無意識」も、行動を起こすことがあるのですね。行動にはならなくても、精神症状となって活発に自己「外」のものの様相を呈して現れることもありますし、また無意識の次元から押し出すものが、意識の領野に急激にのぼってきて、行動を迫ることはあるでしょうね。
 確かに、高校生の時期というのは、自然の情に対してこのような理性的葛藤が多い時期なのだろうと思います。これも本当に貴重な日記ですね。

Ted 05/21/2005
 「無意識」も、行動を起こすことがある:これについては、第2パラグラフで取り上げています。高校生時代の考察も結構行き届いたものがありました。しかし、第3パラグラフの記述は、冗長で、まずいところもあったので、引用にあたって整理しました。「意識は最小限、行動を味方につける」あたりの原文は、次のようになっています。

最小限、行動上では意識が勝つといえるだろう。そうすれば、意識は行動という味方を得、勢力を二倍して無意識に向かう。ここで関ヶ原の戦いということになる。悪い無意識が形成された以上、戦争はまぬがれないのだ。戦争となれば、正義の軍には勝利の神あり、とかで、かなり有利になるから、しめたものだ。しかし、次々に強い新たな意識を動員し、味方の屍を乗り越えて戦わなければならないだろう。…

2005年5月19日木曜日

生命操作への疑問

 [以下の記事は、四方館さんの「水音とほくちかくおのれをあゆます」にトラックバックして書いたものである。四方館さんのその記事は、プロバイダーの事故により消滅したが、関連部分は私の記事内に、次の通り引用してあった。]

<身体・表象>-6
<身分け、錯綜体としての身>
     引用抜粋:市川浩・著「身体論集成」岩波現代文庫 P7~P12
 生き身である<身>は、自然の一部でありながら、動的均衡を保ちつつ自己組織化する固有のシステムとして自然のうちに生起する。<身>は相対的に<閉ざされ>、まとまりをもったシステムだが、自己組織化はたえまない<外>との相互作用のなかではじめて可能となるのだから、<開かれた>システムでもある。…


 私は昨日の朝日新聞夕刊に掲載された福岡伸一・青山学院大教授(分子生物学)の随筆 [1] で、生命に関するルドルフ・シェーンハイマーの動的平衡論について読み、目からウロコの落ちる感を抱いた。はからずも、きょうまた、四方館さんのブログで「動的平衡」のことばを目にし、福岡教授の随筆の要旨をぜひ紹介しておきたいと思うにいたった。

 ナチスから逃れてアメリカへ渡ったユダヤ人科学者・シェーンハイマーは、放射性同位元素で目印をつけたアミノ酸をネズミに食べさせる実験を行った。実験の結果は、食べたアミノ酸が、瞬く間に全身に散らばり、ありとあらゆる臓器や組織を構成するタンパク質の一部となり、ネズミの身体を構成していたタンパク質が3日間のうちに約半分という割合で食物由来のものによって置き換えられることを示した。生命を構成している分子は、「行く川のごとく流れの中にある」というわけである。さらに、この分子の流れは、流れながらも相互に関係性を保っているそうである。シェーンハイマーは、生命のこの在りようを「動的な平衡」と名づけたのである。

 福岡教授は「ある意味では20世紀最大の科学発見と呼ぶことができる」シェーンハイマーの業績をこのように紹介した後、今日の生命工学に目を移す。そして、現在その発展を阻んでいる諸問題が、「技術レベルの過渡期性を意味しているのではなく、むしろ動的な平衡系としての生命を機械論的に操作するという営為自体の本質的な不可能性を証明しているように思えてならない」と結んでいる。

 私は生物学・生命工学に疎いものではあるが、福岡教授のこの生命工学の現状に対する批判は、問題の核心を鋭くついているように思う。


  1. 福岡伸一、生命工学の現状:「機械的な操作」の限界示す、朝日新聞夕刊・文化欄 (2005年5月18日).

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ヨハン 05/19/2005
 神の域とされていた行為を平然とやってのける時代に成りつつあります。ただ私個人としては何が出来るかより出来た結果何がもたらされるかを考えるべき時代が来たのかな…等と思ったりもします。軍事から飛躍的に発展した科学が平和利用のみに限定出来ずに今日に至り、未だに秘密主義の軍事にのみ生かされていくのも悲しい事実です。遺伝子操作等もいつしか破滅を招く要素にならぬ事を願う一人ですが、SF 小説のようにしか解釈できない人も多いのが現実。今までに人類の行為により失った生態系は測り知れず…人類の進歩の妨げとなる「自然との共存」こそが本来の人類の最善であると考えるのは間違いなのでしょうか。

Ted 05/20/2005
 ヨハンさんのお考えは、私のものと基本的に同じであることを嬉しく思います。「自然との共存」は人類の進歩の妨げではなく、進歩と思われているものに多くの弊害が伴っていることをこそ反省し、何が本当の進歩かを考え直さなければならないと思います。

Y 05/20/2005
 遺伝学も大いに含めて、これらは私の夫の研究分野のひとつなのですが、私としては、「生命工学」なるものに(私の居た教育学部教育学科では、企業でやってきた「人間工学」への反省から、教育学の学者に復帰された女性がいました)、どのような「生命との日々の関わり」が研究生活として形成・維持されているのか、その風景を知りたく思います。
 生命工学と生物学が一線を画するに違いないのは、生きものに直接、接する(たとえ実験動物として殺傷する日々であっても)かどうか、という点にまずあって、この「直接性」を欠いた「操作的」な生命との関わりになれば、それは生命工学の領域になるのでしょうか。そのように「機械論的に操作する」学であれば、「生命の動的平衡」を目の当たりにできないのは「直接性」を失っているその所為ゆえ、ということになりますね。しかし、何が「生命との直接性」か、という問題になると、大型装置を使用すれば直接性が失われる、ということではなく、やはり生命と向き合う根本姿勢として、自分は生物学者の立場を取るのか、生命工学を担う者として自己を考えるのか、ということになるのかもしれません。研究姿勢、というのは、私が今、いろいろな医療関係の学会を見ていましても、はっきりと表れてそこに添う者、添わない者に分かれるように思います。
 学問にはたえず倫理が必要であるので、生命工学は生命工学の倫理を厳しく問いただしてほしい、という気がいたします。「研究成果」と「殺傷した生命」とを天秤にかけるより、もっと根源的なところでも倫理を確立しておいてほしいと。
 私のような分野は、間違ってもそのような命のレベルでの犠牲を生み出さない分野なので(もちろん倫理綱領はあります)、科学技術の行動範囲を逸した「画期的な」研究が日々おこなわれ、生命が無残に扱われていないか、将来も含めて気になるのです。

Ted 05/21/2005
 貴重なコメントをいただきました。「学問にはたえず倫理が必要である」、全くその通りです。
 折しも、阪大からアメリカの医学専門誌に投稿し公表された論文に、学生によるデータ捏造のあったことが報じられています。研究においては、テーマの選択や取り組みの姿勢から発表にいたるまで、すべての局面で倫理性が要求されます。このことは、研究以外の仕事でも同様でしょうが、特に研究は頭脳の自主的な活動に任される部分が多いのですから、研究者はこれについてよく自覚しなければなりません。ノーベル賞物理学者ファインマンの学生向け演説にも、研究における integrity(誠実さ)の重要性を説いたものがありました。["Cargo Cult Science" in Surely You're Joking, Mr. Feynman! (Norton, New York, 1985).]

四方館 05/21/2005
 福岡伸一氏の文春新書『もう牛を食べても安全か』という書はタイトルのような時事的レベル以上の論究のようで、興味惹かれますね。生命科学から見たシェーンハイマーの「動的平衡論」については第一世代とされ、第二世代の散逸構造論、第三世代のオートポイエシスなど、その流れを概観するにも私の知識なぞではいまのところどうも手に負えそうもないですね。

Ted 05/21/2005
 四方館さんは哲学から生命工学まで、ずいぶん幅広く、また深く勉強していらっしゃいますね。私も見習わなければなりません。私には「動的平衡論」さえ、聞き初めでした。

ワン、ツゥー、スリー、フォア、ポプラがゆれる



写真は堺市浜寺公園の「ばら庭園」で、2005年5月15日。

 高校時代の交換日記から

(Sam)

[1]

 さっそく将棋のことについて反撃?を始めなければならない。王の活動範囲は万能である。いかなる方向へも進むことが可能であるから――。あまり有能でもなさそうだというのなら、それは、その王の所有者がそうであるのだろう。または、直接攻撃に参加しないから、そう思われるのかも知れないが、そうならば、有能でないというのは、王の持たされている性格から考えて無理である。

 一、ワン、ツゥー、スリー、フォア、ポプラがゆれる
   小川のほとりにお家が二つ
   窓には微笑むバラの花
   あなたはナイト、私はクイーン
   やさしく夢見る二人のハート
   ワン、ツゥー、スリー、フォア、歌うも二人
   踊るも二人で笑って泣いて
   ハッピーエンドの物語
(1) [2]

(Tedの欄外注記) (1) ありがとう。

 引用時の注

  1. 日付がないが、1952年8月上旬の日記である。

  2. 私が夏休みの宿題として執筆中だった小説に入れる必要があって、美空ひばりが当時唄っていた歌「私のボーイフレンド」(作詞・門田ゆたか、作曲・原六朗)の歌詞を Sam に教えて貰ったのである。

2005年5月18日水曜日

人麿文学の最高峰



写真はシルバーグレー系の色素をもとにして青いバラを作り出す試みの代表作「たそがれ」。堺市浜寺公園の「ばら庭園で」、2005年5月15日写す(記事には無関係)。

 [以下の記事は、四方館さんの「あうたりわかれたりさみだるる」にトラックバックして書いたものである。四方館さんのその記事はプロバイダーの事故により消滅したが、関連部分は私の記事内に、次の通り引用してあった。]

<相聞の歌に隠された悲劇>
嘗て、梅原猛氏が「柿本人麿の死は、賜れた死、すなわち刑死であった」と、かなり衝撃的な説を述べた長大な書「水底の歌」を読んだ。
…(略)…
   柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時に、
   妻の依羅娘子(よさみのおとめ)の作れる歌二首
今日今日とわが待つ君は石川の貝に交じりてありといはずやも
直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
…(略)…

 柿本人麿が刑死したという説には驚いたが、四方館さんが人麿の妻・依羅娘子の歌を万葉集巻2から引用しておられるのにも、少しばかり驚いた。私は最近、リービ英雄著『英語で読む万葉集』の中で、柿本人麿が妻の死を嘆き悲しんだ歌を読んだように思ったからだ。私の記憶違いだったかと思いながら、リービの著書を取り出して探してみると、やはり人麿が妻の死を悲しんだ歌だった。依羅娘子は、人麿がその後結ばれた妻だったのだろうか。

 リービが紹介している歌は次の通り。

   柿本朝臣人麻呂の妻死して後に泣血哀慟して作りし歌二首 より
    或る本の歌に曰く
…大鳥の 羽易の山に 汝が恋ふる 妹は座すと 人の云へば 岩根さくみて なづみ来し 良けくもぞなき うつそみと 思ひし妹が 灰にて座せば
                         (柿本人麿、巻2・213)

 リービの英訳は、そこだけでも十分に悲しみが出ている「うつそみと」以下の部分を紹介する。

my wife, whom I thought
was of this world,
is ash.

 リービはこの歌についてのコメントにおいて、皇子皇女の死を悼むために人麿は最大級の「公」の挽歌を創りだしたが、彼の文学の最高峰は「私」的な挽歌の方にあるという結論にいたった、と述べている。そして、最後にある「灰」ということばから、「もう一つの文学が誕生したのだ」と、この長歌を絶賛している。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 05/18/2005
 私が採り上げた五首は
人麿の、鴨山の‥‥が、巻二の223、以下227迄。
 リービ英雄が紹介しているこの長歌には妻の名が詳らかではありませんが、歌中に、
「吾妹子が 形見に置ける みどり児の ‥‥」とあるのので、この妻とのあいだには幼な児がいたということになりますね。この時代ですから、妻は複数人居てもおかしくはないですから、依羅娘子は別の妻ということになりましょう。
 万葉集巻二のこの歌の前後には、まず210番にこの歌とまったく類似の長歌が配され、
その反歌としての短歌二首が211・212と並び、続いて、「或る本の歌に曰く」との詞書が付され、213番にこの歌があります。抜粋の箇所にあたる部分は
「…大鳥の 羽易の山に わが恋ふる 妹は座すと 人の言へば 石根さくみて なづみ来し 吉けくもそなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば」
となっています。
 古来、「人麿家集」と謂われる人麿のものと伝えられる集があるるとのことで、ただ学説的には、この歌集のすべてが人麿の歌ったものであるということにはずいぶん疑問がふされているものらしいのですが、「或る本の歌に曰く」という詞書は、この伝・人麿家集につながるのではないかと考えられているのではと思われます。
 ところでリービ英雄が絶賛した根拠ともなる「灰にて座せば」の詩句ですが、ここで気になるのは、果たしてこの妻は火葬として荼毘にふされたのかどうかです。持等天皇は自分が死んだときは火葬にと生前望んでいたということが伝えられているようですが、実際に火葬されたものかどうか真偽の程はわからないのでは。もう一つ、700年に死んだとされる僧道昭が火葬にと遺言し、そのとおり荼毘に付されたとされ、これを機に火葬の風習が当時の上流階級にも波及していったとされているようです。この点において、この歌が実際に人麿の詠んだ歌であったどうかに国文学者のあいだでは疑問符がつけられていた、という記憶があるのですが…。

Ted 05/19/2005
 いろいろお教えいただき、ありがとうございます。同じ巻二・213でも、終りの方が異なるものがあるのですね。
 『広辞苑』によれば、人麿は生没年未詳となっていますが、持統、文武朝に仕えたとあり、それは690年から706年のことになります。706年が僧道昭の死んだとされる年の6年後であることから、人麿の一人の妻が火葬されたことを疑う根拠も、それほど確かではないように思われますが…。

Y 05/19/2005
 was of this world の of の使い方に、また懐かしく感心したのですが、人麿のような人は、「公」と「私」との両方に、その文学の最高峰があると考えたほうがいいのでしょうね。
 Ted さん、先日のばら庭園で本当に写真をたくさん撮られたのですね。良い写真ばかりだと思います。今はデジカメの小型なものを持ち歩けば、私のように不器用でも、写真の技術はあがるかなぁと考えるのですが。うちにあるのは、3年半は前に買ったデジカメなので、少し大きいのが難点です。

Ted 05/19/2005
 掲載している写真はおおむね、画像処理ソフトを使って、トリミング、明るさの変更、像の周辺のシャープ化などの修正を加えています。

わが恩師の一人がユネスコの記念メダルに



 写真は「ブラック・ティ」という名のバラ。2005年5月15日、
堺市浜寺公園の「ばら庭園」で。

 昨5月17日メディアは、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が故湯川秀樹博士の生誕百年である2007年を前に、博士をたたえる「ユネスコ・メダル」を作製し、博士の母校京都大学でスミ夫人(95)に手渡したことを報道した [1-4](ユネスコの文書は [5])。メダルは、夫人が選んだ湯川博士の写真をもとに、ユネスコ親善大使の平山郁夫・東京芸大学長が肖像をデザインしたもので、銀と銅の2種類があるとのことである。ユネスコは物理学者のアインシュタイン、画家のピカソら世界的な功績があった人物や、世界遺産のメダルを作製している。生前、日本委員を務めるなど、ユネスコの活動にも貢献した湯川博士は、日本人として初のユネスコ・メダル登場となった。

 中間子の存在を予言した理論物理学上の功績によって、湯川博士が日本人で初めてのノーベル賞を受賞したのは1949年、私が中学2年生のときだった。私は理論物理学こそ専攻しなかったが、物理学の道を歩むことになったのは、博士のノーベル賞受賞が刺激となっている。私の父は戦前の中等学校の数学教員だった(敗戦前年の1944年に死去)ので、博士のノーベル賞受賞がなければ、私は父と同じ道を歩んでいたであろう。大学も湯川博士に習うことのできるところを選んだのだった。3回生の後期に待望の湯川先生の量子力学の講義を聞くことができた(試験のとき、一つの問題で計算間違いをしたのがたたり、成績は芳しくなかったが)。亡き恩師の一人が、ユネスコの記念メダルの形としても、その優れた功績をたたえられたことは、まことに喜ばしい。


  1. 故湯川博士たたえメダル ユネスコが夫人に贈呈(共同通信)(gooニュース).[その後リンク切れ]

  2. 湯川秀樹博士の肖像、ユネスコメダルに 日本人初 (asahi.com) (メダルの写真入り).[その後リンク切れ]

  3. 故湯川秀樹博士たたえメダル ユネスコ スミ夫人に贈呈 (京都新聞) (湯川博士の銅像の前でメダルを受け取るスミ夫人の写真入り).[その後リンク切れ]

  4. 故湯川博士たたえメダル ユネスコが夫人に贈呈 (Kolnet) (メダルを手にするスミ夫人の写真入り).[その後リンク切れ]

  5. Hideki Yukawa (1907-1981) (UNESCO.ORG) (英文、メダル両面の写真入り).

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 05/18/2005
 ユネスコメダルになるのは日本人初とのことですネ。喜ばしいニュースですね。
 ところで Ted さんのお父さんは旧制中の先生でしたか。とすると親族の方にも教師がおられたり、祖父の代からの教育家系だったりされるのではないですか?

Ted 05/18/2005
 父は農家のあとを継ぐことを嫌って、田舎から金沢へ出て来たのです。母方の祖父は旧満州・奉天の小学校々長や大連の「満人」女学校の校長などを勤めた教育家。母は結婚前に小学校教員、引揚げ後に盲ろう学校教員を勤めました。(父は女学校での教育実習のときに母を見初めたとか。)他に、父方の従姉に小学校教員だったのが一人います。

四方館 05/18/2005
 母上のご実家が。私の小学校の恩師も、その父上、そして恩師のお子さんもと、父子三代が教員をしていると聞いたことがあります。明治の小学校令以後、教育家系がどのような階層の人たちに担われてきたか、些か関心のわく問題です。

Ted 05/18/2005
 父母が就職した頃の任命証書には、氏名の上あるいは肩に平民(父)、士族(母)などと書いてありました。

新しい白壁の部屋



写真は堺市浜寺公園の「ばら庭園」で、2005年5月15日。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月5日(火)晴れ

 新しい白壁の部屋。光っている机、正方形に切られた窓、新建築物に特有の匂い(京都の伯父の家を思い出させる)、静寂…ただセミの声のみ。これが昨日からのぼくの午前の環境だ。窓から見えるのは、前田家の墓地。赤松がそこに生えている木の大部分のようだ。「上野学園」の一室である。出来たばかりで入園児は2人しかいないらしい。園長である前盲ろう学校長の S・S 氏が、静かでよいから夏休み中毎日ここへ来て勉強しなさいと、同校に勤める母を通じて、ぼくにいわれたのだ。周り中真っ白で、絶えず塗料の匂いがするので、少しばかり気が変になりそうだが、静かさと腰かけて向かう机とがよい。風は家にいるよりも入って来ない。

 19人の重臣や兵卒が一人のあまり有能でもなさそうな王を守って奮戦し、敵の捕虜といえども彼らの生まれながらの位階によって、重要な味方となり、時には攻撃の先鋒を承って、初めは自分が仕えていた方の王を往生させることもあるゲームを、ぼくがしないでいる心理が分からない、と Sam はいったね。何も Sam に分かって貰えないような難しい心理を持ってそれを拒絶しているのではない。ただ、いまのぼくには、沈思黙考してヤリやフ(香車とか歩兵とか書いてあるのに、なぜこう呼ぶのだろうか)をひねくっていることよりも、もっと重要なことがありそうな気がするのだ。

 われわれは(もしも Sam が、ぼくの一昨日書いた必要条件を持ち合わせているなら)Minnie の家へ2度足を運ばなければならないだろう。葉書も書かない、電話も駄目で、突然行くならば、決して目的(事務的な目的はない、といったが、全くすべての意味でないわけではない)は達せられないだろう。で、初めに、ほんの事務的な断わりを得に行った方がよいだろう。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 05/19/2005
 前盲ろう学校で、夏休みの勉強を始められましたか。私はゲームは苦手なのですが、将棋は大好きです。鍛えている暇がないのですが。
 「葉書も書かない、電話も駄目で」…。礼と先生のご多忙など、いろいろなことを考えていますので、精神分析学の新宮先生へのお葉書を今、出してきたところです。Ted さんも、葉書も電話も駄目ということでしたら、Minnie さんへ封書の手紙は余計に、出せなかったですよね…? 私は先生がたの開封のご負担を考えているので、ほとんど葉書、場合によっては FAX で学術的なことも私生活もご報告しているのです。葉書だったら、お疲れでも読もうという気持ちにならない先生はいらっしゃらないだろうと思って。
 「人麿文学の最高峰」ブログを読みたいので、次に参ります。

Ted 05/19/2005
 「上野学園」は「前盲ろう学校」でなく、盲ろう学校生徒のために新設された小さな寄宿舎で、前盲ろう学校校長が園長になっていたのです。
 このときの日記になぜ「葉書も書かない」とあるのか、よく覚えていませんが、先方からなかなか返事が来ないと、いらいらする原因になるので、葉書であらかじめ訪問の連絡をするのは止めておこう、というように Sam と相談したのかも知れません。

2005年5月17日火曜日

愉快に過ごすための…

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月3日(

 Sam と対等で実行したい、と書いたね。だから、もしも Sam が、そこへ行こうという意志と、行って何かを得たいという意志において、ぼくと同程度でなければ、今度の場合、われわれは行くことが出来ないのだ。[1]

1952年8月4日(月)晴れ

 きょうの午後をもっと愉快に過ごすための権利と義務と責任がぼくにあったはずだ。Sam と Jack はどうだったか知らないが、ぼくは、そこに不満足を見出した。われわれがそうなってしまった責任の6割くらいはぼくにあったと思われる。――いや、こういうことは問題とするに足りない。[2]

 こんなに陰うつで重苦しく無変化なものは、小説にならない!! [3]

 引用時の注

  1. さんざんちゅうちょしながらも後日実行した件についての記述。関連の記述は翌々日以後の日記にも見られる。

  2. この日の午後、3人で何をしたのかは、思い出せない。

  3. 1年あまり前からの交換日記をネタに、夏休みの宿題としての小説の筋を考えてみたのだった。8月15日には原稿用紙約50枚の作品を完成している。いま思えば、意外に速い。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 05/17/2005
 最後の行まで、面白いですね。何の訓練もうけていないのに、この文章を書かれるというのは、Ted 先生が新聞部にいらっしゃって、新聞をよく読まれ、また作られる生活を送っておられたことからくるのでしょうか…。「…という意志において」「…と思われる」という表現は、後者は私は大学の心理学実習で、前者は哲学関連分野で初めて習いましたのでね。また注3を導く、最後の一行は面白くたのもしいですね。

Ted 05/17/2005
 私の高校時代の文には、新聞部活動の他に、漱石やトルストイ、その他の文学作品をよく読んでいた影響が出ていると思います。

2005年5月16日月曜日

浜寺公園の「ばら園」


 昨5月15日午後、浜寺公園(堺市浜寺公園町)の「ばら園」を訪れた。同公園は大阪府営で、「ばら園」や「名松100選」に選ばれた松林が見どころである。桜も美しいことは先月紹介した。公園も「ばら園」も入場料無料で、いまが春咲きのバラのシーズンである「ばら園」入口では、両園のパンフレットも貰えた。

 「ばら園」のパンフレットによれば、同園は大阪府の「花ふる大阪事業」によって1993年に完成したもので、「昔ながらの風景の中にバラの彩りを取り入れた日本庭園」をコンセプトに整備されたそうである。まち、湖沼・水路、里、海辺、山間、山の各風景をイメージしたゾーンからなる2.7haの面積は、なかなか見ごたえがある。いろいろな色や種類のバラをカメラに収めた。ここに掲載の写真は「里の景」ゾーンの眺めである。

 バラのクローズ・アップ写真は下記の名称などをクリックするとご覧になれる。[9枚の写真へのリンクを記していたが、旧サイトからの復活に際して省略]

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 05/16/2005
 浜寺公園もずいぶんとさま変わりしたものですェ。私の知るのは40年も昔。米軍キャンプ場跡地のの施設が宿泊施設として利用できた時代です。毎夏、4、5泊の合宿をしていましたよ。

Ted 05/17/2005
 40年もいらっしゃっていませんか。ぜひ一度ご家族でお出かけ下さい。浜寺水路沿いの遊歩道や浜寺大橋の眺めも悪くはありません。昔よりは大幅に人工的になった感があるかも知れませんが。私は逆に昔の浜寺公園を知りません。

Y 05/16/2005
 「昔ながらの風景の中にバラの彩りを取り入れた日本庭園」というコンセプトがいいですね。立派な庭園ですね。京都も、週末には良いところを以前のように毎週巡りたいですが、夫が今の正式任務で本当に一杯の状態なので、夏の小旅行案を出し合って楽しみにするぐらいなんですね。

Ted 05/17/2005
 私は学生時代せっかく京都に住みながら、あまりどこへも行かなかったので、友人たちから京都のどこそこを知っているかと聞かれると、たいてい「知らない」と答えなければならない始末です。これからでも出来るだけ訪れたいものです。夏にご夫君と楽しい小旅行が出来るとよいですね。

mtym 05/16/2005
 はじめまして。私のブログにコメントを寄せていただきありがとうございます! 実は今日、ちょっとくさくさしていたのですが、美しい「バラ園」を拝見したおかげで心が癒されました。どうもありがとうございます。先ほどホームページにもお邪魔させていただきましたが、本当に写真がお上手で勉強になりました。

Ted 05/17/2005 09:10:34
 ホームページへのご来訪、ありがとうございました。私の写真は、写真としての芸術からは遠く、スケッチのためのアングル選びの練習のような撮り方になっているかと思います。

波と雲の白、水の緑と青…



 写真は5月15日、堺市浜寺公園で。(本文に無関係)

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月1日(金)雨のち曇り、2日(土)雨のち晴れ

 一汽車後れて決行した。UE 君と駅へ行く途中、北鉄本社前付近で大雨にあい、進退極まったが、小降りになるとすぐに前進を続けた。駅へ着いたのは、ちょうど予定の汽車が発車したときだった。誰も来ていなかったので、IT 先生が昨夜泊まられた親戚へ電話したところ、Jack と、彼の家に昨夜泊まった SN 君とが、次の汽車で行くと知らせていたこと、そしてまた、彼らがそのことを方ぼうへ連絡中であることを知った。
 音楽クラブ――「テナーのうまい人」や ST 君や HS 君が来ていた――と一緒だったので、団体割引で行けた。浜茶屋は音楽クラブとは別だった。新聞部の入った「小波屋」は、最もひっそりしていて、われわれ――IT 先生、UE 君、Jack、SN 君、まだ幼くて腕白ざかりの IT 先生の甥、それにぼく――だけしかいなかった。着いたときも一度大雨が来たが、あとはきれいに晴れ上がって、波と雲の白、水の緑と青、砂の白と茶色、それらがわれわれを十分に楽しませてくれた。
 帰る頃になって、音楽クラブの浜茶屋に、同クラブ OB・高峰賞受賞者・東大生で、豊かな目と口を持ち、白い鷹揚な顔つきの T・U 君を見た。Jack は、私が彼の家に間借りしていたころ彼を見たことがあるのに、「U ってどれや?」と聞き、改めて見直していた。T・U 君や他の卒業生たちや HS 君はそこで泊まる様子だった。

2005年5月15日日曜日

最初のぼたんを掛け違えている



写真は「うらら」という名前のバラ。堺市浜寺公園の「ばら庭園」で。

 普段は読まない『文芸春秋』誌の6月号を買った。グラビア「京都早起きの旅」と「特別企画 証言1970–72」中にある三島由紀夫の自決関連記事に惹かれてのことである。買ってみると、他に、「総力特集 中国に告ぐ」という記事があった。特集の最初に掲載されているのは、「北京五輪を断固ボイコットせよ:尖閣列島に自衛隊を常駐させよ。中国分裂を狙え」という見出しの、石原慎太郎・東京都知事による談話である(10ページにおよぶ)。

 同談話には、部分的にはもっともらしいことが述べられており、日本が国連安保常任理事国入りを「熱望するのも考えものです」という部分には、私は賛同さえする。しかし、都知事の論調全体に対しては、私はまったく同意できない。なぜかと考えてみると、理由は都知事の基本姿勢にある。それは、気に入らないものはたたき潰そう、という好戦的姿勢である。平和共存という考えが微塵もない。彼の論調から、仲間の前で自分だけが強くて偉いと自慢している腕白坊主を連想するのは、私だけだろうか。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

RIN 05/15/2005
 確かに石原さんの言い方はいつもきつい感じがします。しかし私は九州の田舎出身ですが、田舎の知事さんは調和を重視するためか、なかなか昔の古いしきたりなどを変えることに苦難しているように見えてしまいます。都民の皆さんが選んだ知事さんでしょうから、それだけ変革を望まれているように感じています。

Ted 05/15/2005
 変革を望むにしても、変革の方向がどちらを向くかを見極めて選ばなければならないと思います。

テディ 05/15/2005
 現在のような混沌とした先のはっきりしない時代には彼のような「わかりやすい」事を言う人が大衆の支持を得やすいという危険な傾向もあると思います。彼自身もそれを踏まえて計算したうえでの好戦的な発言でしょうね。もともとの性格もありますが。怖いのは日本全体がそんな「ムード」になることです。先の戦争の前のように。我々は踊らされてはいけません!

Ted 05/16/2005
 石原都知事は頭のよい人だと思いますが、そのよさは、正しい姿勢で使うのでなければ、大きな弊害を生むことにさえなります。都民のみなさんにもそのことに気づいて貰いたいものです。

ヨハン 05/15/2005
 石原都知事は言いたいことをはっきり言える人と思われがちですが、かなり右翼的な一面もあり子供っぽい人でもあります。そもそも日本には国連安保常任理事国に加わっても恥ずかしくないような立派な思想や人格を持った政治家は少ないような気がします。自国の内政を疎かにしアメリカに加担するだけ、金を出すだけ、それしか能が無いのも考え物です。アジア各国は冷ややかに見ています。知事を含め日本の代表者達は、人格的にも世界からも一目おかれる存在を目指してもらいたいものです。

Ted 05/15/2005
 おっしゃる通り、立派な人格の政治家がいまの日本には少なすぎます。

Ted 06/03/2005
 「愛国者」というニックネームの方から、6月2日付けでコメントがありました(投稿者のリンク先記入なし)。最初に「平和ボケの人たちが集まる掃き溜めはここですか?」という文があり、これは正々堂々と議論する人が使うべき言葉ではなく、そのコメントを削除しました。平和を愛する人びとを「平和ボケ」呼ばわりする方が、戦争賛美者にならないことを切に望みます。

宿題の小説の主人公


 写真は堺市大仙公園で(2005年5月7日)。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年7月31日(木)雨

 7月27日付けの Sam の、長らくなかった4ページにわたる記録は、じつに生き生きとしている。リンゴの投げ合いの場面はレーヴィンとキティのスケート場の場面を思わせる。しかし、一カ月ばかり会えないということが、Sam にとってどうだというのだろう。Kid という女性は名前の通り、いかにも可愛らしそうだ。Tarko の働いている様子もほほえましい姿に違いない。それで、彼女らが Sam にとって関心のない女性でないということと、ぼくの提案している問題とどういう関係があるのだろうか。おそらく、少しの関係もあるまい。(だからといって、Sam がこの日に書いたことは一切ぼくにとって読む必要のないことだったというのではない。)
 Sam は Green のにっこり笑うのを見、後ろ髪と肩の温かく柔らかなのを見る。しかし、今度の問題でぼくが必要とするのは、Minnie の髪や肩を見ることではない。彼女の声を女性の声として聞き、微笑を女性の微笑として受け取ろうというのではない。もちろん、実際には Minnie は女性であるから、彼女の家へ行くのは、Jack や HZ 君や HY 君のところへ行くのとは勝手が違ってくる。それで、Sam に依頼するようなことになるのだが、Sam にどんな役割を持って貰おうというのでもない。スポークスマンとか何とかいうのでなく、対等で行きたい。また、そうでなければならないし、そうあるのが当然だ。[1]
 きょうも、ぐずぐずしていて悪かった。雨に遭っただろうね。ご免なさい。
 それにしても、突然行くことには賛成しかねる。一応うなずきはしたが、4日は駄目だと思う。「休暇になるとは、こんな問題を」ということを説明しろということだが、休暇以外は忙しくてその暇がないということに過ぎない。

 小説の主人公の性格についてヒントを与えてくれて、ありがとう。どれも皆、書いてみたいものばかりである。だが、1. を書くのは困難だ。正反対にするとなると、思想までもそうしなければならないだろう。もしも、それだけを反対にしなければ、釣り合いのない人物が出来上がるかも知れない。思想を反対にすることは最も困難であり、かつ避けたいと思うことである。小説を通して、ぼくはぼくの思想を主張しなければならない。小説の主人公が作者の主張したいものとは反対の主張をしたのでは、おかしなことになるのではないだろうか。
 2. は Sam が列挙した中で最も新鮮味を感じさせる題材であるが、残念なことには、現在のぼくの書きたくて書けない問題である。後期には新聞部を止めようかと思っているぼくが、学校新聞の理想家を謳うようなものを書くのはどうかと思う。こう書くと引込み思案だと、Sam は思うかも知れない。現に編集長をしているくせに、Ted には学校新聞をよくして行く気がないのか、とも思われるかも知れない。だが、駄目である。女主人公を書くとなると、いっそう駄目である。手ごろなモデルが見つからない。いくら創作とはいえ、一人の人物の足先から頭のてっぺんまで、すべて考え出すということは無理である。といって、これを男生徒にすると、理想性が薄く、面白くないものになることは明らかである。
 結局、3. に近いものを書くことになりそうだ。が、抽象的方向に走りやすいことと、身近の経験をあまりにも取り入れようとし過ぎて躍動味のないものになりがちであること――この二つを撃退しながら書かなければならない。

 引用時の注

  1. Sam と一緒に Minnie を訪ねようという提案は、たしかに知的交流を主眼としたものではあったが、いまこの辺りを読み返すと、私の意識下にあった、そして意識に上ることもなくはなかった、女性への関心を、意識上では不自然に押し隠そうとしていたように思える。しかし、少しあとの日々には、「無意識の意識」についても大いに考察している。

2005年5月14日土曜日

カリカチュアを地で行く



 写真はピース(平和)という名前のバラ。堺市浜寺公園の「ばら庭園」で。

 米統合参謀本部が作成した「統合核兵器作戦ドクトリン」第2次最終調整版(2005年3月15日付け)には、戦域核兵器が使用される具体例として、「米軍・多国籍軍・同盟軍か市民に対して大量破壊兵器を使用するか使用する意図を持つ敵」が挙げられているという [1]。大筋でいえば、大量破壊兵器を使う「意図」があるだけで、核兵器による先制攻撃をする、ということである。

 この論理によれば、アメリカこそが真っ先に核兵器によって先制攻撃されなければならないことになる。カリカチュアを地で行くような愚かな指針案である。この案は、数年にわたって議論が重ねられてきて、年内に完成するものだとか。核兵器の廃絶こそが世界の多くの人びと声である。このようなドクトリンを決定したのでは、アンクル・サムは世界の笑いものになるであろう。

  1. しんぶん赤旗 (2005年5月13日).

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[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 05/14/2005 11:25
 なんというか、もちろん私はとっくに「戦後」の現代っ子なので、戦争による被災地というのを自分で実際に訪れたりして、本当に目にしなければ、私にはもっと大切なことはわからないのではないかなあ、と思うのですね。政治の指針案には、この「市民・国民の本当の現実にじかに接した際に生まれるはずの、何か強いもの」がなく、政治的、というより、戦闘の威力を発揮する可能性を拡大している意思に、何の希求精神があるのかがみえてこないのですね。「大きなものを使う人は、小さな一市民の余りに不条理な(被災などの)現実が真にはわからないだろう」と、私の立場からは思えるのですね。

Ted 05/14/2005 18:00
 由名さんは現代っ子でも、核兵器使用指針案の問題点の核心をずばりと指摘しておられます。希求すべきものは平和であるのに、気に入らない国は一般市民の多数の犠牲をも顧みないで力で叩く、それも核兵器という非人道的なものを使って、というような、道義的に許されない指針案です。

tosiki 05/14/2005 16:10
 逆に言えば、自らの特権意識を露呈していることにもなるかと思います、成文化しなくともほとんど公知の事実となっていますが。成文化することで明らかに宣言するのであるなら、国際社会はそれを看過してしまうと取り返しがつかないということになる。どうなってしまうのでしょう、祈るような気持ちです。

Ted 05/14/2005 18:04
 各国の政府が米国に対して批判すべき問題ですが、日本のいまの政府には、それが出来ないでしょう。情けないことです。

ヨハン 05/14/2005 20:22
 おっしゃるとおりです。第二次大戦以後、どんどんおかしくなっていく軍事大国に恐怖を感じる一人でした。一方で映画や絵画など自由主義ならではの素晴らしい一面もあるのに、対照的に暴力絶対主義な部分が残念でなりません。自分達しか出来ないと思い込むエゴが世界を不幸にしている事に気付く日はいつ来るのでしょうか…。勝てば官軍、大嫌いな言葉です。

Ted 05/14/2005
 昨年の大統領選挙で、ブッシュはぎりぎりの過半数でした。アメリカ国民が政治を変えるのも遠いことではないと思いたいです。2人ばかりですが、私のアメリカの友人たちも、ブッシュの当選を残念がっていました。

Y 05/14/2005
 簡素な私の意見をご評価くださり、ありがとうございます。何よりも私の立場からはっきりと申し上げたいのは、このアメリカの「ドクトリン」など、長くアメリカが積極的に見せ付けている行動は、何も「政治」や「政治的行為」ではない、ということです。こうした行動に「政治」という言葉で国策の賢明さという価値を付与しようとしても、無駄です、それは「政治」という言葉の尊厳をおとしめる行為です。もちろん、日本でもいくらでもその種の小型版(?)がなされてきましたが。
 私に素晴らしい意味での「政治」という言葉を教えてくださったのは、意外ですよ、精神分析学・精神病理学の日本のトップ、新宮一成先生です。学問界でよくなされて(拘泥されて)いる、学派対立や流派対立ではないのです、国内であれ世界の場であれ、学者が社会的にしなければならない「政治的な行為」(私たちの分野では、まず著書論文をあらわす、ということですが)があるのですね。新宮先生は、そこまでのスケールで学問や著書を考えられる先生です。
 ですから、私が学者に復帰して、「福祉の政治をします」と言っているのは、そのような冷静な、しっかりした根拠(現場や学的根拠)をもった「政治」があり、それをなるべく賢明におこなっていこうと考えているからです。もちろん、しなければならない事は多いので、段階的に。
 Ted さんにも、Ted さんだからこそお出来になる、Peace &Politics の行為を様々な範囲の思慮を活用されて、今後もしていっていただきたいと、期待しております。

Ted 05/14/2005 22:27
 そうですね。しっかりした福祉をする、しっかりした科学をする(そのための条件整備を「政治家」に要求もしながら)、そういうことこそが本当の「政治」です。

テディ 05/15/2005
 このドクトリンが正式に決定されたらそれはかなり全世界にとっての「脅威」でしかないでしょう。先のイラク戦争の場合も、ありもしない「大量破壊兵器」の脅威を簡単にでっちあげて、どう考えても米国自身にとっても絶対的な必然性のない戦争を始めた国です。「大量破壊兵器使用の意図」なんていくらでも勝手に創り上げてしまうでしょう。この「第2次最終調整版」が本当に報道された内容であるのなら、かなりネオコンの息のかかった案になっていると思われますが、さて最終的にどうなりますか注目したいものです。

Ted 05/15/2005
 ブッシュ政権の外交政策を先導しているシンク・タンク「アメリカ新世紀プロジェクト」(PNAC) の思想的支柱と目されているロバート・ケーガンは、ネオコンのイデオローグだそうですから、「ネオコンの息のかかった案」であるのも当然でしょう。[ロバート・ケーガン著『ネオコンの論理』(光文社)の紹介ウエブ・ページ参照。]

庭のシャクヤク / 胸がどきどきして


庭のシャクヤク

 わが家の庭にシャクヤクが2輪咲いた。まだ、つぼみがいくつもある。今年、わが家のシャクヤクは、だいぶん楽しめそうだ(写真は2005年5月13日)。

胸がどきどきして

 高校時代の交換日記から
(Sam)

1952年7月28日(月)晴れ

 Ted の書くべき小説
[1] の主人公の性格として、ぼくの意見を書くならば、
 1. Ted と正反対の性格の男生徒を書くこと。
 2. 才能ある女生徒で、ジャーナリストの卵であり、在来の学校新聞を革新する野心もある女主人公を書くこと。
 3. 青年期の苦悩に絶望をいだく主人公を書くこと。
この三つのうちから、どれか最も好ましいと思われるものを選んでは――。とにかく、小説を書くことによって、未知の新しい分野の知識を得られるものであることが望まれる。

1952年7月29日(火)雨

 四時ちかくになると、もういけない。胸がどきどきして、なんだかじっとしていられない。家を飛び出すと、大和へまっすぐに。各階を六、七分くらいずつ費やして、くまなく商品を見て歩いた。五時二十分前に劇場に入り、映画を見て時を待つ。クイズに対する説明は「ホロ酔いクイズ」のより、よほど簡単である。一度拍手の練習をしてから、公開録音に入る。解答者はみんな二十歳くらいの人ばかり。学生はぼく一人。問題は難しいのばかりだ、と思ったりなどしているうち、ぼくの番! 何かすばらしい賞品がほしいと思ったが、それより「人びとを笑わせてクイズを面白く」してやろうと思ったから、何でもベラベラしゃべってみた。が、たいへんな不調で、ガッカリ――。
[2]

 引用時の注

  1. 私が国語の夏休みの宿題として何らかの作品を書かなければならなかったので、小説を書くことにして、どういう主人公がよいだろうかをSamに相談したのである。

  2. Sam は、この日、北陸文化放送のクイズ番組に出場したのだ。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


Y 05/14/2005 20:12
 Ted さんの書くべき小説として、この1、2、3を提示されるとは、そして北陸文化放送のクイズ番組に出演されるとは、Sam さんは理知的でありながら大物ですね。将来、お仕事もばりばりお出来になった方ではないかなぁと思うのですが、そんな Sam さんがTed さんの本当に良いところ(魅力)をよく見抜いて、交換日記を続けておられたのでしょうね。

Ted 05/14/2005
 Sam は高卒で JTB に就職し、金沢の支店勤務のあと、かなり若いうちに名古屋にあった同社の審査精算センター所長になり、次いで東京にある JTB が経営する交通関係の専門学校の講師になり、大学の非常勤講師もしていました。たしか、私の職場が大学附属になる前に、彼の方が先に大学で教えるようになったのだったと思います。

2005年5月13日金曜日

海水浴


 写真は指導を受ける少年野球チーム(堺市大仙公園で、2005年5月7日)。

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年7月27日()晴れ

 クラブのメンバーで海水浴に行くことになっていた日がきょうである。SW 君と北鉄バスターミナルへ行ったら、Green が友だちと二人で来ていたのには驚いた。女生徒はもう一人、Rush が妹を連れて来ていた。やがて先輩のNK君が来られ、「打木行きのバスは八時三十分発だ」と聞かされて、七時前から来ていたと思われるRushを始め、一時間も早起きしたぼくをゲッソリさせた。カメラを持ってSM先生が来られ、Jintan と Bamboo が来て、メンバーは揃った。
 むし暑いバスにゆられること一時間余りで石川郡旭村字打木へ来る。そこから六、七分歩いて八田というところで止まる。NK君の親類の家で休ませて貰い、そこから支度をして海まで200 m ばかりのところを歩いて行く。砂防林に囲まれて、カボチャ畑が多く目に付く。たいへんのんびりとした、そして金沢から遠く来た感じに包まれる。海は浅いが、波は激しかった。けれども、深さが肩の辺りのところまで出ると、白く砕ける波はなくて、そんなに泳ぎにくいことはなかった。女生徒たちは浜の海辺に近い浜茶屋を借りた。彼女らは、浅くて白波の砕けるところで、嬉々としていた。だから、午前中はいつも彼女らとはかなりの距離があった。
 NK 君が海水浴場の標識の上に乗り、海を背景にしてみんなで写真を撮った。SW 君が篭に一杯リンゴを買って来て、みんなで好きなだけ食べた。それでも余った。女生徒たちがそのリンゴを海へ持って行き、投げて遊んでいた。しまいには全員で、四つばかりのリンゴを投げ合った遊んだ。男生徒たちは沖の方に、女生徒たちは海辺の近くにいた。リンゴは山の側から、大海原に向かって投げられ、その反対方向に投げ返されていた。そのうち、だんだん球の飛び方が乱れ、一人ひとりの距離もばらばらになって行った。思わぬところからリンゴが飛んで来て、面食らったり、二人で取り合いを演じ、水のかけ合いになったりした。二人ばかりの顔にも当たった。それでも、だいたい最初の原則は変わらなかった。
 Green の投げたリンゴがよくぼくのそばへ飛んできた。そして、次第にまともに飛んできた。飛んで来る割合もだいぶん多くなって来た。そして、Green はぼくの投げ返したリンゴを追って、白波を浴びながら、手と脚を懸命に動かしていた。それを拾うと、にっこり笑って投げて来た。そして投げ返した。Green の投げたのが、ぼくの上を越して、かなり深いところへ落ちたとき、Greenは「ごめん!」といった。Green とぼくだけでみんなのリンゴを持ってしまったこともあったが、Greenにもぼくにも投げるべきリンゴがなかったときは、さみしいような気がした。水から上がって、ゴムの大きなボールで円陣パスをしたときも、これと同じ気がした。
 帰りのバスは混み合っていたので、Green の後ろ髪と肩だけしか、ぼくは見ることができなかった。温かくて柔らかな、そんな感じを受けた。それは、Greenの肩に見える服自体から受ける感じとは、はなはだ異なるものだった。六枚町で降りて、みんなで氷イチゴを口に入れてから別れた。Green と彼女の友だちと SW 君とぼくは、長土塀通りを2/3ほどまで一緒に歩いて帰った。話し始めると何だかつじつまの合わないことをいいそうな気がした。しかし、短くて十分に意志の通じることばも見当たらなかった。別れるとき、「サヨナラ」といったが、これで、よほどの偶然がないかぎり、一カ月ばかり Green とは会えないのである。

 夕方歯ブラシを買いに行って来た。帰りに老朽した柱材が積んである上に腰をかけて、脚をぶらぶらさせながらお里の子と話をしていた Kid [1] の下駄を下駄で蹴ったら、右手を振り上げて追っかけて来た。街路樹を利用して、さんざん、やかしてやったが、とうとうぼくの痛い背中を二回叩いて逃げて行った。
 一時間ほど前には、ぼくが海水着を洗っている横で、ぞうきんを洗っていた Tarko [2] が、ナイロンのエプロンを掛けて、両手に力をこめて、胸と腰を突出させながら井戸の水をくんでいる。流し場には、茶わん篭やおひつや鍋が置かれている。

 さて、Ted よ、きょうは昨日の続きだよ。昨日は書き出そうとして止めたが、きょうのこんなことを書こうかと思ったのだ。GreenもKidもTarkoも、ぼくの関心のないとはいえない女性である。
 しまった! 電話、電話。電話を忘れた。しかし、明日はこれをたずさえて Ted の家まで行こう。


 引用時の注

  1. 近所の女の子か。

  2. Sam は祖母と2人暮らしで、引揚げ者であった私たち3人家族と同様、2階に間借りをしていた。Tarko とは階下の女の子か。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 05/14/2005
 Ted さんの日記かと思って読んでいましたら、登場人物が違うし、Sam さんの文章でしたか。「これで、よほどの偶然がないかぎり、一カ月ばかり Green とは会えないのである。」そうですね、高校時代だからこそ、こういう、こんなに滅多に会えない、話せない間柄であるのに心惹かれる恋をするのかもしれませんね。それは、おとなになった私でも、ほかにも好きな人はいるのかもしれない、と思いますが、生活などを背負っている以上、なかなかもって連絡もできませんしね。

Ted 05/14/2005
 最近引用している辺りでは、Sam はインクで書いていましたので、ブログ上でも彼の日記の文字を青色にしています。私は消しゴムを使って文章をよく修正しないと満足できない癖があり、日記はずっと鉛筆書きでした。

Y 05/14/2005 19:51
 推敲なしで、Sam さんはこの一連の日記を書かれるのだろうと思ってはいましたが(その辺りは Sam さんのご性格を想像しているのです)、非の打ち所のない、素晴らしい文章を、高校生の年齢でインクで書かれるのですね。私も、子ども時代から、消しゴムや修正液がないと文章を書く自信がないんです。ところが、…なぜか勉学研究のこの間までの「長い空白期間」を経ると、恩師の方への郵送での文章などでも、ボールペンで一気に文章が書けるようになったので、不思議ですよね。と、書いていて思い出しましたが、パソコン(以前はワープロ)での推敲に推敲を重ねた文章というのは、「基本的には」私の恩師の先生がたぐらいに「一流の物書き」になられると、だめだ、と見破られます。なので、私の大学時代は、かえって手書きでよろしい、といった表現も先生はされました。学術論文でありながら、個々の個性でもって綴る芸術的な文章書きのプロにならなければならないので、指導は厳しくて、私に唯一、丁寧に論文指導をしてくださった教育人間学の恩師は、岩波書店に先生が出される論文を、「印刷して声を出して(文章を)読むと、また違うんだよ。(その文章の良い点悪い点が新たに発見できるんだよ。)」という指導をされていました。

Ted 05/14/2005
 「印刷して声を出して読むと、また違うんだよ」に似て非なるような話:ノーベル賞物理学者の P・A・M・ディラックは、友人によって、「1ディラック」という雄弁さの単位は one word per year だ、と冷やかされたほど無口な人でしたが、その講義は、印刷すればそのまま本になるような話し方だったとか。

2005年5月12日木曜日

総天然色漫画


 写真は堺市笠池公園で(2005年5月7日)

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年7月25日(金)晴れ

 子どもたちを連れて北国第一劇場へ「夏休み子ども劇場」の総天然色漫画を見に行く。たんに笑って楽しむ漫画ではなく、教育的意図を強く持ったものだった。「善業善徳、悪業悪徳」「助けられたり助けたり」など、筋もわりと分かりやすくて、すぐにそのまま童話に書けそうに思った。

1952年7月26日(土)晴れ

 午後の日盛りをプールへ遊泳に行った。目標は二百米をブレストで泳ぐことなのだが、とうていおぼつかない。
 プールから帰ったら、Ted から通信が届いていた。「いい試み」と思ったが、案外であった。ぼくが悪い。――でも、うまく電話をかけられるということぐらい、練習しておかなければならない。
[1]
 以下、誤解といわれるかも知れない。もしそうであったら、はっきり弁明するなり、訂正するなりしてくれ給え。Ted が休暇になるとは、こんな問題を持ちだすのは何に起因するか?(これは、ぼくが推測するより、Ted から説明して貰わないと分からない。)

 さて、Ted が Minnie にしろ Vicky にしろ、理知的、形象的に対象を考えているのなら、(いや、Ted のは磨石の相手として求めたものが自然、Minnie や Vick yとなった、といった方が正しいだろうが)――書きだそうとしたが、止める。
[2]

 引用時の注

  1. 最終的には8月16日に Sam と私が実行することになった件について、私から電話で相談を持ちかけたのだが、この日は、話し合いがうまく進まなかったのである。

  2. 「止める」といった Sam 自身のロマンティックな思いに関する記述は、翌日の長文の日記に見られる。

2005年5月11日水曜日

男子と女子の青年部が合併


 写真は、ツツジ咲く小公園で、人数不足ながら男女対抗ソフトボール試合を楽しむ子どもたち(2005年5月7日、堺市笠池公園で)。

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年7月23日(水)晴れ

 帰りがけに老猫にかけたことばが気にかかる。たとえそれが思ったことをそのままいっただけのものであるとしても、他人様の可愛い所有物に対していったあのことばは気にかかる。もしこのことでぼくを非難する意思表示がなされた場合には弁解して貰いたい。どんなふうにいってくれてもよいが、「悪意がなかった」ということを強調して貰いたい。
(1) [1]

 (1)(Ted の欄外注記)5月頃のサトウ・ハチロー作詞のラジオ歌謡「トランプ占い」[2] のように、つまらないことを気にかけなくてもよい。

1952年7月24日(木)晴れ

 この頃になってまた始めた速記文字の練習は、依然として遅記である。ぼくの現在のタイプの毎分の打字数とほぼ同じくらい書けることになれば、一応はなんでも書ける、すなわち役に立つのだが、現在のままでは、講演中にしばしば講師にタイムを要求しなければならないようなものだ。
 生徒会の帳簿を整理しなければならない。面倒で利益のない職務だが、やむを得ない。よい体験になるだろうことは間違いないのだが、宿題の方がそれだけできなくなるのが辛い。
 八時からというのが九時になってようやく、青年部の総会が開かれた。全市的にそういうことになっているので、ということで、これまで別べつに活動していた男子青年部と女子青年部が合併して、「青年部」として活動して行こうとするのである。まことに結構である。それが普通だと思うから。


 引用時の注

  1. Sam が、私の間借りしていた家の家主の飼い猫に対して、家主の娘さんの前で何か失礼なことをいったのだったか。

  2. 「…/折れてるハートが気にかかる/なまじ1ゆえ、エースのゆえに/何だか気になる気にかかる」というような歌詞だった。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 05/11/2005
 速記の練習というのは、そういえば当時、商業過程では必須のようになっていたのですね。4年長の次兄が商業だったので、たしか習っていたなと、憶い出しました。

Ted 05/11/2005
 速記では頻出の言葉に対する特別な記号もあるようで、Sam が「なければならない」はこう書く、といってくれたのをわれわれの日記で愛用していました。それで、必ずしも「なければならない」と書かなくてもよいようなところにまでも、よく使ったので、それを普通の文字で入力するのは骨が折れます。「なければならない」の記号を少しもじったものを、われわれの間でだけ通じる「かも知れない」の記号として使ってもいました。

四方館 05/11/2005
 ハハハ、これは申し訳ないですが、笑えますね。二様に使われていたのなら、余計に面倒ですね。

2005年5月10日火曜日

真似たくないことば


 写真は堺市大仙公園で、2005年5月7日(記事には無関係)。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年7月21日(月)晴れ

 詩的――。先日1頭の牛が死んで大損害のあった SN 君の家へ、Jack と TKH 君と一緒に行った。TKH 君が犀川を渡るのは大仕事だった。遊ぶこと以外は一切考えなかった午後――。しかし、詩的感興がうすれるにつれて、ぼくは彼らの仲間であることに倦怠を感じた。母の心配を懸念して帰宅したのは、「三つの歌」の始まったとき。[1]

1952年7月22日(火)晴れ

 「僕の友達は一人だけです。」東京へ移った KZ 君から Jack へ来た葉書の最後のことばである。8月1日にこちらへ来る(といっても金沢は素通りで、能登にいる OK 君のところへ行くのだ)予定だと書いてある。円盤投げや砲丸投げが得意で、考古学が好きだった OK 君、黒い大きな顔の中に、大きな白い歯を持った彼、奥満州で経験した奇々怪々を純真な調子で、かつ物恐ろしさを加えて語った彼、彼が KZ 君とそれほど固く結びついた理由はどこにあるのだろう。一方は豪快、他方は繊細。
 「友達は一人だけ」という考え方をしたいならば、それもよかろう。しかし、それは、その一人の中にあらゆるものを見出してのことばか、その一人以外の、かつて接触した人物すべてに絶望してのため息か、あるいは、他の理由による発言か、いずれにせよ、ぼくの真似たくないことばだ。

 引用時の注

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  1. 実は、この日の日記には斜線を引いて消してある。翌日の日記との間に多少の矛盾を感じたからだろうか。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 05/10/2005
「僕の友達は一人だけです」と云った彼は、むしろとてもナイーブで繊細な人のような気がしますね。外部への表現としては無骨で紋きり方の言い方しかできない。自分の内面や思考をうまく言葉に言い表せないタイプの人には意外に多いのではないかと思いますが‥‥。

Ted 05/10/2005
 私の日記には、KZ君が「一人だけの友達」と考えたOK君は豪快で、KZ君自身は繊細、と書いたつもりですので、四方館さんが「繊細な人」といわれるのはよいのですが、「むしろ」や「気がします」と書かれたのは、日記の文が分かり難かったのかと思います。KZ 君は文学青年で、「外部への表現としては無骨で紋きり方の言い方しかできない」ということはありませんでしたが、繊細過ぎたと思います。40歳台で死亡し、お悔やみに行ったときの夫人の口ぶりから、自殺だっただろうと私は思っています。

四方館 05/10/2005
 ああ、そうだったのですか。完全に取り違えをしてしまいましたね。Ted さんにとっては KZ さんの繊細にすぎる弱さや脆さのなかにご自分との「似て非なるもの」を感じていらっしゃったのでしょうか。一見似ているようだが、非なる部分が明瞭にある。その非は決定的なほどの差異なんだろうと。近いが遠い、遠いは近い、といったような逆説が成り立つようなところがあるように。「一人だけの友達」という言葉に、ある受け容れ難さを感じられていた Ted さんを考えますと、そんな感がしてきますが‥‥。

Ted 05/10/2005
 「似て非なるもの」、そうです。KZ 君は、小学校6年から中学校3年の途中、Sam という親友が出来るまでは、影響を受けることの多かった友人でしたが、高校時代には、かなり差異を感じていました。昨年、小学校の同窓会で、KZ 君が「一人だけの友達」と言った OK 君に会いました。そのとき OK 君は、「KZ 君に会うと、彼はよく君のことを話題にしたものだ」と言っていましたから、KZ 君にとって私は「似て非なるもの」同士として、OK 君に次ぐくらいの友人だったのかもしれません。

2005年5月9日月曜日

アンクル・サムに頼るな


 写真は2005年5月7日、堺市大仙公園で(記事には無関係)。

 『ネイチュア』誌は先月 "Don't rely on Uncle Sam" と題する巻頭論説 [1] を掲載した。アンクル・サムとはアメリカ政府または同国民のあだ名である。論説の主旨は次の通り。

 「無認可」の遺伝子組換えトウモロコシがここ数年間、欧州市場に出回ることになったが、これはスイスのシンジェンタ社が米国で栽培させていたものであり、米国の規制制度が適切な対応を取れなかったことによる。しかし、米国連邦政府の事件調査体制は十分でない。スイスが EU に加盟していなくても、シンジェンタ社は欧州の会社であり、欧州委員会はこの問題の経緯を独自に調査すべきである。(要約は筆者)

 「アメリカ頼みではいけない。」これは日本の政治についてもいえることである。たとえば、奥野恒久(室蘭工大、憲法学)は次のように記す [2]。

2004年1月、小泉首相が「日本が侵略されても国連が守ってくれるわけではない」(1月27日衆議院予算委員会)と語ったように、イラクへの自衛隊派遣について、「そうしないと、いざという時にアメリカ軍に守ってもらえない」との説明が多くなされた。しかしこの説明こそ、「国際貢献」とはほど遠いはずである。

アメリカ頼みの日本政府は、イラク攻撃を無条件に支持した。これでは、「国際貢献」の名で、侵略に加担することにさえなるのである。


  1. "Don't rely on Uncle Sam," Nature Vol. 434, p. 807 (2005).

  2. 奥野恒久「日本国憲法の平和主義は『一国平和主義』か」日本の科学者 Vol. 40, p. 198 (2005).

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


テディ 05/09/2005 20:59
 国際貢献という名目の米国貢献。これ程までに「アンクル・サム」に尻尾を振り、頼り切る我が首相。彼の国の覇権が未来永劫続くと疑っていないように見えます。しかしかっての軍部が米国を過小評価したことの裏返しであるような米国への過大評価が政権内部に根強くあるようです。たとえ米国が当分の間パワーを持ち続けていたとしても、世界を意のままに出来ていないことはここしばらくの世界情勢を見ても明らか。米国を見て世界を見ぬ我が首相は任期までどうにかなればいいさとでも思っているのでしょうか…。

Ted 05/09/2005 21:59
 それにしても、NHKの世論調査では、首相支持率がまた上向きましたねぇ。

タニウツギが花盛り / 「オリンピック賛歌」の和訳を英訳


タニウツギが花盛り

 堺市大仙公園内の日本庭園の一隅で例年美しく咲くボタンを見ようと、さる5月7日に出かけたが、遅かった。咲き終った花の部分は手入れのため切り取られ、わずかに残る花たちもすでにしおれていた。同庭園では、代わって、タニウツギが花盛りだった(写真)。

「オリンピック賛歌」の和訳を英訳

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年7月19日(土)

 グォー、グォー、グォーという、いかにもはるか彼方から放送しているにふさわしい雑音。ときどき大きくなったり小さくなったり、深い井戸の底に向かって叫ぶような響きを持ったりする、アナウンサーの懸命な声。

Olympics! Faster, higher, stronger! Many torches were kindled on the road where a lot of people walked and went away as if they had been smoke. But you, Saint Fire of the Olympics, had once kindled up like a beautiful, bright lily, praising Zeus. Doing their best, the youths of Hellas competed. Their godlike beauty gave inspiration to sculptors, and their works became statues to be offered to God.

Nowadays the world changed into Great Hellas, where the young gather and contest to select physically strong ones. Victory puts olive-wreaths on the strong ones' head and give them the noble words: "To win is a great thing, but to join in competition is a much greater thing."

Now Saint Fire of the Olympics brightens the hopeful sea route and the peaceful harbor in the world with its holy light. The flame itself is produced from golden light that runs through the sky of all the universe and

 「炎々として聖火は燃え盛りました。…」じつに感激的な、力のあふれた志村アナウンサーの放送だ。「点火されました。点火されました。…」

the spiritual fire that blazes in human's mind. ――実況放送を聞きながら、「オリンピック賛歌」[1] の和訳を英訳。――

1952年7月20日()晴れ

 YMG 君さえ、ぼくが読書中に対話の箇所にぶつかると、左卜全のに次いで真似て読んでみたい声で、解析の補講について、「ある式の両辺をある数で割って変形してある形を作りだしたり、積を和に直して加法定理を使うかと思えば、それを2倍角の公式を使って展開したり、また、和から積に直したり、たいへんだ」といっていた。それほど高級なものなのだ。英語の講義もよい。
 いつから始まったか知らないぼくの自己解剖の癖は、いまだに勢いの衰えを見せない。いまも、次のようなことを書きたくなった。ぼくが頭の中で展開する会話と議論と態度と動作がそのまま外に現れたならば、ぼくは、いかにキビキビ、ハキハキしていて、ユーモラスで、かつ豊富な話題と意見と思想の持ち主であることだろう。その上たいへんな冗舌家かも知れない。にもかかわらず(in spite of か none the less を使って訳すべきところだ)、表現されるぼくは、何と非スポーツマン的(このことばでぼくの欠点のすべてが表せるかと思う)なのだろう。

 引用時の注

  1. インターネットで検索すると、「オリンピック賛歌」には何種類かあるようだが(The Olympic Anthem and music 参照)、ここに記したもの(歌でなく散文のような訳になっているが)の原文に相当するものは見つからない。ご存じの方は、教えていただければ幸いである。

2005年5月8日日曜日

カプリ島へ接近 / 思想なき思想だ…


カプリ島へ接近

 写真はイタリアのナポリ・カプリ島間の高速船から(2003年5月13日)。

思想なき思想だ…

高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年7月15日(火)

 そうだよ、そうだよ。ありがとう。そして、すみません、おかしな時間に行って。
 きりこ [1]、きりこ、きりこ、人、人、人、ろうそく、花、…。そこに満ちているものは何だ。多くの人びとは何をしにここへ来ているのだ。哲学をしに来ているのでもなければ、悲しみに来ているのでも、喜びに来ているのでもない。そこら一帯には、崇高さとさまざまな感情との交錯が見られる。花がへんな具合に投げ込まれるのに顔をしかめているボーイスカウトの服装をした少年を横目で見ながら、2本のろうそくに火を写して環の上に立てて考えた。行事…、単に惰性的なものだけでもあるまい。それなのに、何ときびきびしていないこれらの人たちだろう。しかも、そこに崇高さの雰囲気が保たれているのだ。これは、まさに思想なき思想だ…。ぼく自身も、そこへ行って、何の思索も行わないで、新しい誓いの横溢を感じている自分を見出したではないか。
 「傷痍軍人更生資金…」と書かれた箱。少し離れて、共産党30周年で何かをメガホンで叫んでいる男。その付近には鉄かぶとの警官。「あの人、共産党か。見たとこ、普通やけどね」という、小学校1、2年生くらいの女の子の声がした。

1952年7月16日(水)薄曇り

 31.5度ある。SNN 君がよくいう「ピンボケ」になりそうだ。80分授業の夏季講習は長くも感じられなかったが。FK 先生に英語を習うのは初めてだ。かなりの年齢の先生だが、細い声で it を [et] のように発音して授業を進められた。
 内省的、求心的でばかりあってはいけない。――何度か自分で自分に言い聞かせてきたことだ。

1952年7月17日(木)、18日(金)雨のち曇り

 歯を磨いて歯ブラシを口から出すたびに、それが真っ赤になっているのを見る。母は、歯槽膿漏だろうとかいっていた。思想朦朧なんかでは、たまったものではない。
 祖父が、教え子が館長をしている図書館から借りた「吉田松陰」という古めかしい本の最初の、松陰の年譜のところを書き写すように、という。大きな文字で、ページの上下も広く空いているが、10ページもある。ぼくが忙しくしていることは祖父も理解しているが、さて、どうしたものか。

 引用時の注

  1. 細い木で作った枠に和紙を貼り、吊り下げるようにした縦長、裾開きの箱形の飾りで、一つの面に「南無阿弥陀仏」と書かれている。北陸地方で、うら盆会に墓所や廟所へ持参する。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


テディ 05/08/2005 11:39
 1952年と言えば武装闘争路線を策定した徳田球一の日共に対して政府が破防法を制定した年で、北陸の田舎では「共産党員」といえばさぞ凶悪犯でも見るような目で見られていたのでしょう。

Ted 05/08/2005 15:30
 そうです。1951年10月に、分裂状態にあった共産党の一派が極左冒険主義といわれる綱領を発表し、破防法は1952年7月に成立しましたが、幅広い反対闘争のため、事実上発効できない状況だったようです。
 その頃、金沢では社会党の国会議員も勤めた岡良一氏(私と同期の息子がいました。その息子の2年上の姉は五木寛之夫人)が市長だったかと思いますが、彼のことを「あれはアカだ」と、はれ物にさわるように言う人もあったくらいですから、共産党員に対する目は、おっしゃる通り、凶悪犯でも見るようなものだったでしょう。

2005年5月7日土曜日

スイカを食った!


 写真はイタリアのナポリ・カプリ島間の高速船から見た奇岩群(2003年5月13日写す)。

高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年7月1日(火)雨

 スイカを食った! といっても、西瓜ではない。水禍だ。犀川は濁流うずまいて流れたが、橋梁の流失することも、堤防の決壊することもなく、ぼくの家もまず安全だった。ただ、便所の屋根が空から降ってくるものを完全にさえぎることができなくなって、水でビシャビシャになったのには困った。Ted の家は高地にあるから、こんな時は、水の威力を高所から傍観することは容易であっても、家が直接憂慮されることはなかったであろう。
 夏休みを間近に控え、学期末試験の日割りが発表になる。九、十、十二の三日間である。


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 05/07/2005 11:12
 昨年は夏から台風の襲来が続きましたが、これは夏台風ではなく集中豪雨の災禍ですね?

Ted 05/07/2005 13:27
 北陸では7月頃にときどき豪雨があります。1944年7月、私は石川県七尾市にいて、国民学校3年生でしたが(その年の9月に大連へ移りました)、大水がありました。わが家は床下浸水程度でしたが、前の道路が川のようになって、泥水がとうとうと流れていました。その思い出は東条内閣総辞職、小磯・米内の協力内閣成立と結びついています。いま歴史書を見ると、確かに東条内閣総辞職は1944年7月18日とあります。

2005年5月6日金曜日

記憶の分類法 (Classification Schemes of Memory)


 写真はイタリアのナポリ・カプリ島間の高速船から。大きな岩の左側に、カメが頭をもたげているような形の岩が見える(2003年5月13日写す)。




 先のブログ [1] において、ある本 [3] に対する批評記事 [2] から、記憶の分類について学んだことを記した。これに関して、もっと詳しく知りたいと思い、ウエブの検索をしたところ、先に学んだ分類は情報のタイプに基づくものであり、ほかに持続期間に基づく分類と時間の向きによる分類がある [4] と知った。情報のタイプによる分類と持続期間による分類は、互いに独立な分類法ではなく、前者は後者の一部、すなわち長期記憶に対する分類のようである。時間の向きによる分類(回想的記憶と展望的記憶)は、持続期間による分類と同じレベルで別の観点から分類するものといえようか。それにしても、展望的記憶が回想的記憶と本質的に異なるとは考えにくい。展望的記憶は、その内容がすでになされた決定であって、スケジュールという形で未来に関係しているという、回想的記憶の特別な場合に過ぎないのではないだろうか。

As I wrote in a previous blog post [1], I learned about a classification scheme of memory from the review [2] of a book [3]. I wanted to learn more about it. At a Web site [4] I have learned the following: There are three schemes of classification of memory, i.e., classification by duration, classification by information type and classification by temporal direction. The scheme I learned before is the first one, and it classifies long-term memory, the largest part of any model about memory, into declarative (explicit) and procedural (or non-declarative; implicit) memories.

The classification by information type deals only with the long-term memory. Then it is not a scheme independent of the classification by duration but the one that subdivides the latter. The explanation of the latter at the above Web site [4] is as follows:

Classification by Duration
A basic and generally accepted classification of memory is based on the duration of memory retention, and identifies three distinct types of memory: sensory memory, short-term memory, and long-term memory.

The classification by temporal direction is explained as follows:

Classification by Temporal Direction
A further major way to distinguish different memory functions is whether the content to be remembered is in the past, retrospective memory, or whether the content is to be remembered in the future, prospective memory. Thus, retrospective memory as a category includes semantic memory and episodic/autobiographical memory. In contrast, prospective memory is memory for future intentions, or 'remembering to remember' (Winograd, 1988). Prospective memory can be further broken down into event- and time-based prospective remembering. Time-based prospective memories are triggered by a time-cue, such as going to the doctor (action) at 4 pm (cue). Event-based prospective memories are intentions triggered by cues, such as remembering to post a letter (action) after seeing a mailbox (cue). Cues do not need to be related to the action (as the mailbox example is), and lists, sticky-notes, knotted handkerchiefs, or string around the finger are all examples of cues that are produced by people as a strategy to enhance prospective memory.

Can this classification be said to be the one at the same level with the classification by duration from a different viewpoint? Anyway I doubt that prospective memory is essentially different from retrospective memory. The former seems only to be the special case of the latter in which the retrospective content is a decision already made in the form of a schedule related to the future.

I also quote the description about declarative memory [4] below.

Declarative memory requires conscious recall, in that some conscious process must call back the information. It is sometimes called explicit memory, since it consists of information that is explicitly stored and retrieved.

Declarative memory can be further sub-divided into semantic memory, which concerns facts taken independent of context; and episodic memory, which concerns information specific to a particular context, such as a time and place. Semantic memory allows the encoding of abstract knowledge about the world, such as "Paris is the capital of France". Episodic memory, on the other hand, is used for more personal memories, such as the sensations, emotions, and personal associations of a particular place or time. Autobiographical memory - memory for particular events within one's own life - is generally viewed as either equivalent to, or a subset of, episodic memory. Visual memory is part of memory preserving some characteristics of our senses pertaining to visual experience. We are able to place in memory information that resembles objects, places, animals or people in sort of a mental image.

A commentator on my blog post [1] wrote that the word "information" used in the review [2] to explain the semantic memory seemed a little odd in the context, and I felt the same. Considering the fact that classification of memory can be made by information type, however, the use of the word "information" is quite natural.


  1. Life's Speeding Up at Higher Ages (歳とともに人生は速くなる), Ted's Coffeehouse (May 4, 2005).

  2. Y. Dudai, Nature Vol. 434, p. 823 (2005).

  3. D. Draaisma, Why Life speeds Up As You Get Older: How Memory Shapes Our Past translated by A. & E. Pomerans (Cambridge University Press, 2004).

  4. Memory - Learn all about Memory (Encyclopedia.lockergnome.com).


[The English version was also posted at "ISAAC & IDEA* Femto-Essays" site.]

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 05/08/2005 14:07
 Ted さんは物理学でもちろん時間論も、主たるご研究ではなくとも、今までに研究されたことと思いますので、ブログでもそうですが、私の立場からみますと、物理学のお立場から少し、時間や空間について綴られる際は、その部分は大変明快で、本ブログのように、「このように分類して、本当にそれで満足して良いのだろうか?」というふうに生じる問題意識と、その物理学理論の双方を尊重してご研究や執筆を進められると良いのだろうと思います。
 人間の現実的事象について、classification が明快にできるといいのですが、どうしても疎外内容(=漏れこぼれ)や、関連性の関連、といったような複雑な(この場合だと、時間の)在り方を認めた論述になりにくいのでは、と私は思っているのですね。精神病理学でも、精神の疾患ごとに時間体制が異なることを分類的に述べられた理論は多かったのですが、どの疾患も「同次元で」時間論を考察してよい関係にはないと、私はその病を負った人たちを実際に多く知っていますので、そう思うんですね。At the same level で論じているのか?と、Ted さんも疑問を提出しておられますよね。
 「一般論」と「普遍的な事実に関する学」とは異なりますし、私のやってきた、今後もそうであるのは「個別(具体的な)」現実事象に徹して、そこに「普遍(だと思われるもの)」を見出そうという、これも西田幾多郎の言ったことですが、そういう立場なのですね。ただ、個別事象を見た体験が豊かであれば、そこから普遍と思われるものを見出すのは可能なのですが[もちろん科学的な実証性(再検査・再実験可能、と言うのでしょうか? また忘れてしまって)はありませんが]。
 やはり general な、一般的な理論を形成したり参照することも、並行して重要だと私は考えます。簡単に例をあげると、「人間学」においてまったく「社会学的な要素や、この社会の法律をはじめとする一般規律や社会情勢」が踏まえられていないなら、やはりまだまだだと思うのですね。
 展望的記憶に着目されたのは面白いです。私は、上の理由が大きいためもあって、「分類」より「定義」を重視することが多いんですね。展望的記憶を Ted さんがご自身で「再定義」していかれる、といったことが重要だと思えるのですね。もちろん、「漏れこぼれのない定義」は、そう容易には生み出せないのですが。
 それと、私が先日から見慣れない単語なのか、気になっているのが、declarative という単語などで、こういった時間論・記憶論でも、文脈に合っているということでよく用いられるのでしょうか? Declare, declaration の第一義的な意味が、「宣言(する)」、発表する、断言する、といったものなので、本文でのニュアンスはどういったものなのだろう、と思ったのですね。また教えてください。
 最後に、本文に association が出てきましたが、現代にまで通用するブロイラーの統合失調症定義である「4つのA」のひとつは、associaton の障害です(元はドイツ語です)。言葉が上手くつながらなくなり、会話や読書に困難が生じる患者さんが中にはいて、と私は説明していますが、それだけではなく、本ブログで話題になっているような、体験記憶の association が弛緩したり、混乱したりしていくという深刻さがあり、先生が取り上げられた展望的記憶についても、この種の障害が生じることがあるのですね。実は、「大変抽象度の高い」病気だ、とも言えます。(だから統合失調症論は難解にならざるを得ないのです。)

Ted 05/08/2005 17:06
 「…というふうに生じる問題意識と、その物理学理論の双方を尊重してご研究や執筆を進められると良いのだろうと思います」について: 研究というほどのものではない執筆ですが、私もそういう方向で考えています。というか、それ以外の方法は私にとって困難でしょう。
 「…疑問を提出しておられますよね」と「展望的記憶を…ご自身で…」について: 私の疑問は確かに時間に関係していますが、その関わり方は単純です。記憶の獲得自体は、すべて過去になされなければなりません。展望的記憶は「未来の記憶」といっても、未来という時間において獲得がなされるのではなく、内容と、cue による想起の時期とが未来に関係づけられているだけです。したがって、記憶の重要な性質である獲得・保存の上では、回想的記憶と何ら異ならないと思われる、ということで、元記事に書いた以上に難しく定義を考える必要もなさそうな気がします。鏡像の問題で友人になった心理学の先生に一度意見を聞いてみようかと思っています。
 『「人間学」においてまったく「社会学的な要素や、この社会の法律をはじめとする一般規律や社会情勢」が踏まえられていないなら、やはりまだまだだ』について: ご卓見と思います。
 記憶の分類での declarative の意味について: 日本語のウエブサイトで確かめたところ、declarative memory はそのまま「宣言的記憶」と訳されています。他方、non-declarative memory は procedual memory という同義語の方の訳である「手続き記憶」が使われています。Declarative には文法用語としての「陳述的」という意味もあります。Declarative memory の訳には、こちらを使う方がよいように思われます。宣言的記憶の意味は、「言葉で表せる記憶」なのです。手続き記憶は「言葉を介さず、体で覚えている記憶」です。

考えることのできない者は幸福か不幸か


 写真はわが家の庭の草花(2005年5月2日写す)。

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年6月17日(火)晴れ

 第六巻を読み終った。あゝ何と深い感銘を覚えることだろうか。

1952年6月27日(金)

 短い行ばかりしかない。
 その次が空白!
 ぼくは一体何をしているのか?
 貧乏暇なし。まったく余裕のない生活だ。それでいて、けっしてぼくの体ははち切れるほど快活さに満ちているのではない。誰だったかが、Sam の目はたるい、といったそうだ。まったくだ。心の窓が曇っているのだろう。心も体も疲れきっているらしい。体重曲線も下降の兆しを見せている。
 多忙の蜜蜂には考える暇はない、という諺があったように思う。考えることのできない者は、幸福か不幸か。
 考えることのために多忙な蜜蜂もいる――。それにも考える暇はない。考える、また考える。それも、単なる葦にすぎないのと同じように――。

 ヨハネ伝福音書
  福音、福音、福音、福音、
 見えざる聞こえざる光と音に、
 我は見たり、
 救いの漁に我も行きて――。

 おゝ高きもの、
 おゝ恵みあるもの。

 明日には明日の朝日が輝くであろう。

 どんな意義や言い伝えがあるのかも知らないで、むしゃむしゃと氷室の万頭というのを食べた。世の中には、えてしてこういうことが多い。
 どのような精神・目的によって生みだされたものかということを顧みることなく、ただ、その結果造りだされたものをのみ云々するやからの多いことよ。

2005年5月5日木曜日

われわれの持ち合わせていない何か


 写真は堺市八田北町の泉北スポーツ広場に沿う並木。左前方にスポーツ広場がある(2005年5月2日写す)。

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年6月14日(土)晴れ

 三限と四限の間に長土塀郵便局まで行った。ちょっとした金を送るためであった。IS 君が連れだってきてくれた。四十七円五十銭払い、無事用件をすませて帰校したら、幾何の時間に十分ほど後れていた。
 買手と売手で双方の条件が一致しなければ、売買は成立しない、ということはよく知っているのだが、なかなか難しいものだ。きょうもとうとう見つけられなかった。一冊十円以内であること、現金は後払いであること、たったこれだけの条件なのに――。
 たいへんな人出だ。香林坊から武蔵が辻へ行くまでに何回も足を降ろして止まらなければならなかった。

1952年6月15日()晴れ

 リーダーなどをしているうちに午前は終ってしまった。
 きょうの午後はすべて有意義だったかな? Ted もぼくも持ち合わせていないものが何かあるね。どちらか一方にそれがあれば、もっと充足した時間が得られるのだが――。Ted が尻込みする理由を、別の方面から考えなければならない。

1952年6月16日(月)雨

 M・K 先生の時間に、次の時間の内職をしていて、たしなめられたが、やり遂げるまでは、止める気になれなかった。四限と六限が入れ替え、H は、ぼくがホームに本年度予算作成についての報告を行い、そのあとで HR アドバイザーの説話を聞いた。

ドレスデン国立美術館展


 さる4月28日、兵庫県立美術館で開催中の「ドレスデン国立美術館展―世界の鏡」を観に行った。ドレスデンはエルベ川に沿うドイツ東部の中心都市であり、16世紀以来、ザクセン公国の首都として繁栄してきたところである。この展覧会では、12の美術館・博物館の総合体であるドレスデン国立美術館から選りすぐった品じなが展示されている。それらは、近世から近代にかけて国際交流によって集められた、世界有数の美術コレクションの一部をなすものである。(写真は兵庫県立美術館の上部に掲げられている展覧会の看板を、斜め位置の陸橋から撮影したもの。)

 展示室は七つあり、「I ドレスデンの美術収集室」「II オスマン帝国―恐怖と魅惑」「III イタリア―芸術の理想」「IV フランス―国家の表象と宮廷文化」「V 東アジア―驚嘆すべき別世界」「VI オランダ―作られた現実」「VII ロマン主義的世界観」と名づけられていた。一瞬、ドレスデンはドイツの都市と思っていたのが間違いかと思わされるほど、このコレクションには各国の文化が映し出されている。展覧会の副題に「世界の鏡」とある由縁である。

 第 I 室へ入ると、まず、集光鏡、四分儀、天球儀、地球儀、渾天儀が展示されている。これらは美術品というより科学技術品であるが、集光鏡は鉱石等の溶解を観察するだけでなく、美術品の成分を調べ、また試し焼きをするなど、その使用は美術と深く関わっていたようである。また、渾天儀は天のメカニズムを思い描くために考えられたものであり、ここにも科学の探求心と芸術の創造性の融和がみられる。この展覧会を紹介する朝日新聞の記事 [1] が「科学と芸術 共存の時代」と題されていたことがうなずかれる。

 その記事は、今回の目玉であるヨハネス・フェルメールの「窓辺で手紙を読む若い女」(1659年頃;上掲の写真の中央にその一部が見られる)が、正確な遠近法を簡単に表現できるカメラ・オブスクーラを利用したらしいことも、科学と芸術の共存の範疇に入れている。私はデジィタル写真を参考にして水彩画を描くとき、写真をちょうど画用紙の大きさにしてコンピュータのモニターに表示し、必要に応じて物差しで計測もしながら、デッサンをする。また、彩色に当たっては、画像処理ソフトによって、明るさをいろいろに変えて写真を眺めることもする。これなども科学と芸術の共存であろうか。

 展示されていた絵画では「窓辺で手紙を読む若い女」のほか、ティツィアーノの「白いドレスの女性の肖像」(1555年頃)、カナレットの「ヴェネツィア、サン・ヴィオ広場とカナル・グランデ」(1722、23年頃)、カスパー・ダーヴィッド・フリードリヒの「月を眺める2人の男」(1819年)、エルンスト・フェルディナント・エーメの「サレルノ湾の月夜」(1827年)、ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダールの「満月のドレスデン」などが見ごたえがあった。日本の伊万里焼とそれに習ったマイセンの磁器(模様や絵柄もほとんど同じものが作られている)が、幾組も並べて展示されているのも興味深かった。フランスの宮廷文化の影響を受けたザクセン最盛期の君主・アウグスト強王は、伊万里焼を熱愛したそうである。強王という名からは想像し難い、繊細な心をも合わせ持つ人物だったらしい。


  1. 加藤義夫、ドレスデン国立美術館展 世界の鏡:科学と芸術 共存の時代、朝日新聞夕刊、2005年4月8日

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 05/05/2005 11:40
 ドレスデンといえば第二次世界大戦末期に連合国軍により徹底的な空爆を受けて壊滅的な被害を受けた都市として有名ですね。
 →4. ドレスデン爆撃(姫路城不死鳥伝説)
 →Bombing of Dresden in World War II(Wikipedia, the free encyclopedia.)
それらの美術品は戦火をくぐりぬけたのでしょうか?ドレスデン国立美術館展の Web Site を見てもそこらへんに触れた記述はありませんでした。

Ted 05/05/2005 17:04
 私も、その点を不思議に思っていました。最近テレビのクイズ番組「世界不思議発見」で、古代エジプト女王の像が、戦争中に他の美術品とともに岩塩の採掘坑へ疎開してあって、戦火をまぬがれたという話がありましたが、それらがドレスデン国立美術館のものだったかも知れません。

Y 05/08/2005 14:19
 兵庫県立美術館は、あの世界的な建築家の方がデザインされた、けれども少し不便なところにある美術館でしたでしょうか? 長時間かけて行ったことがあるのですが、混同していて…この美術展は行きたいですねー。私は京都の美術館については、あまり納得していないのです。博物館はいいのですが。それに、京都は土日の人出がすごいので、行列にもまれなければなりません。夫と一緒にしか行かないもので、土日になるのですが。
 ヨハネス・フェルメールの「窓辺で手紙を読む若い女」がありましたか、それは素晴らしいですね。科学領域に見出せる芸術性や美術、芸術創作に欠かせない科学的要素、というのは確かにあると思います。

Ted 05/08/2005 14:47
 そうです。兵庫県立美術館は安藤忠雄氏が設計したもので、JR灘駅から南へ徒歩約10分、阪急王子公園駅からならば約15分のところです。土日はやはり混雑すると思います。