2006年8月10日木曜日

日本の原爆研究と科学者誓約運動

 湯川秀樹を研究する市民の会(湯川会)の S さんが、さる8月8日の深夜テレビ番組で日本でも原爆を作る試みのあったことが放映されていたと、グループメールで紹介し、湯川博士の名前も数回出たと述べた(番組については、テレビ局のウエブサイト [1] 参照)。これに関連して、私を含め何人かの会員が、同じくグループメールによって関連事項や感想を寄せた。戦争がもっと長引いたとしても日本で原爆を完成できた可能性はきわめて薄かったとはいえ、大勢の一般市民の命を奪うような兵器の開発を目指す動きが、わが国においてもあったということは、戦争の狂気を改めて思い知らせるものである。

 折しも、被爆61年目を迎えた長崎で出された平和宣言に、「核兵器は科学者の協力なしには開発できません。科学者は、自分の国のためだけではなく、人類全体の運命と自らの責任を自覚して、核兵器の開発を拒むべきです」とのことばが入れられた [2]。科学者・技術者の平和への責任も重い。

 ピースプレッジ・ジャパン [3] では、科学者が「自分の知識の及ぶ限り、核兵器およびその他の大量破壊兵器の研究、開発、製造、取得、利用に一切参加しないこと」を誓う誓約運動を2004年8月9日から展開していて、私も誓約に参加したが、誓約者はまだ182人(うち海外63人)である。これからの日本の平和に責任のある若い科学者たちが、この誓約にこぞって参加するよう望みたい。

 私が S さんのメールに応えて湯川会会員宛に書いたグループメール(8月9日付け)は、京大での原爆研究に関するものである。以下にそれを引用する。

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 湯川会の皆さん

 S さんのメール「深夜の番組で」以来、日本での原爆研究が話題になっていますが、『週刊ポスト』1985年8月9日号に、ジャーナリスト・佐野真一が京大での原爆研究についての記事を書いていました(職場の同僚からゼロックスコピーを貰って保存していました)。京大原子炉教授・石田正弘と同初代所長・京大名誉教授・木村毅一(肩書きはいずれも当時)から取材したもので、『陸軍(理研)ばかりか海軍(京大)でも魔の殺戮兵器が… 幻の「日の丸原爆」を追う』というセンセーショナルな題名になっています。しかし、内容はおおむね皆さんのメールにも書かれていた通りで、原爆の実現にはほど遠い状況だったことを示しています。

 木村毅一先生は湯川博士の同級生、私の恩師で、私の最初の職場・大阪府立放射線中央研究所(大放研)の初代所長でもありました。木村先生の随筆集『アトムのひとりごと』(丸善, 1982; 自費出版) 中の「原子力関係研究の思い出」という文(1965年大放研研究発表会講演記録)にも、戦中・戦後の原子核研究に関連して、ウランの核分裂にふれたところがあります。湯川博士の名も出てきますので、その部分を以下に引用します。

 荒勝研究室の残留組は、戦争中、研究資材の不足する中で、ウランの核分裂に関する研究にたずさわっていたのです。その頃、湯川教授や坂田氏、谷川氏などの理論家と、荒勝研究室の実験グループが一緒に核分裂に関する文献を読み、ウラン235の濃縮法についての検討をしばしば行ないました。その結果、われわれの採用しようとした方法は、超遠心分離法でありましたので、超遠心分離器の研究に着手しました。この研究は戦後まで継続され、真空中で毎分250万回転に到達することができました。この研究者が後にサイクロトロンの建設に協力しなければならなくなりましたので、この研究はここで中断することになりました。一方、仁科研究室では、ウラン235を濃縮するため熱拡散方式にいどんでおられたようでした。
 しかし、日本でこの種の研究は十分実を結ぶことなく終戦となり、アメリカでは1942年12月2日、シカゴ大学で世界最初の原子炉が臨界に達し、1945年には原子爆弾が完成し、広島、長崎がその洗礼を受けたのであります。

 T.T.

  1. 終戦61年目の真実~昭和史の"タブー"に迫る~
  2. 長崎平和宣言
  3. Peace Pledge