2017年1月14日土曜日

2016 年 8 月 28 日から 9 月 14 日までの記事への M・Y 君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts from June 17 to August 10, 2016)

[The main text of this post is in Japanese only.]


かんぽの宿有馬からの眺め。2017 年 1 月 12 日描く。
The view from Kampo Hotel Arima. The sketch was made on January 12, 2017.

2016 年 8 月 28 日から 9 月 14 日までの記事への M・Y 君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2016 年 12 月 9 日付けで貰った。長いので、一部割愛して紹介する。(文中、「筆者」とあるのは、感想の対象であるブログ記事の筆者、T・T を意味する。)



1. 新聞記者の取材を受ける
 さる 8 月 17 日、私のブログ記事「旧友への手紙 2」のコメント欄に、読売新聞の山田記者から書き込みがあった。戦前の小学校での級長について記事を書いているので話を聞きたいという内容である。そのブログ記事には、手紙の相手の旧友や私が小学校(当時は国民学校)で級長をした思い出が書いてあったのである。[…]出来上がった記事は 2016 年 9 月 7 日付け読売新聞(教育面)に「学校:モノ・風景——学級委員」(山田睦子記者)として掲載され、記者から掲載紙が 2 部送られて来た。
このように始まり、筆者の国民学校 1~3 年時(1942 年~1944 年度)の級長経験について新聞記者から取材された話が述べてられています。筆者は「内容は電話ではうまく伝わらなかったようだ。新聞社などからの電話取材はいままでにも何回か受けたが、電話でのインタビューに、思いや事実を正確に伝えることの難しさを改めて感じた」と記しています。私も図書館でこの新聞記事を読みました。級長の「腕章」のイラストの間違いは記者の誤りですが、新聞記事はよくまとめられており、興味深いものでした。私はその当時、中国の上海にいましたが、1944 年 9 月、3 年生の一学期が終わった時に日本に引き揚げてきました(上海当時と引揚げ後のことは、本ブログ 2015 年 3 月 13 日付け「兄の半ズボン」のコメントで書きました。そのコメントはこちら)。

 私は 1、2 年生時に級長がいたことは記憶していません。3 年生になると男女組から男子だけの組になり、級長はいました。私たちは、ことある毎に先生から「内地(日本のことを内地といっていた)の生徒は立派である」といわれてきました。筆者は、読売紙の記事の始めにあるように「運動会の行進で列の先頭を歩いた」時にも、黄土色の「国民服」姿で号令台の上に立つ校長の前を通る時、「頭(かしら)右! 敬礼!」という軍隊式の号令をかけて、クラスの一同に校長への敬礼をさせたのだった、と級長の経験の一端を述べています。このことも上海の先生が褒めていた内地の生徒の立派さだっただろうと感じました。

 引き揚げて内地の国民学校に編入し、必ずしも上海の生徒が劣っているとは限らないことが分かってきました。たとえば、上海では冬でも服装は半ズボンに脛までの靴下履き、オーバーは着ない。これは厳しいきまりだと感じていました。大陸性気候で厳冬時には、日中は暖かくなりますが、朝の登校時は吐く息が白く、霜が降り、寒くて厳しい通学でした。虚弱体質の人はどうしていたのでしょうか。内地では外套を着用していました。また、冬にはほとんどの人は下駄履きでしたが、冬以外は裸足で通学していたことには驚きました。校舎入り口には足洗い場があり、そこで足を洗って校舎に入ります。学科の進み具合は上海の方が進んでいて、半月程はダブって習いました。当時は転校しても新参ものに対するいじめはなかったようです。

 内地では縦の関係が強いことを感じました。朝は町内(○○丁目の最小単位)会の小学生の「早起き会」、夜は「火の用心回り」がありました。「火の用心回り」は夜 8 頃、夕食を済ませて出かけます。町内の暗い夜道を「1 銭(しぇん)2 銭(しぇん)と釣り銭貯めて、米機貫く弾(たま)作ろう、カチカチ(拍子木の音)」と元気な声を出しながら、灯りのない夜道を一周します。何か他にも標語が 2、3 ありましたが、忘れてしまいました。これを休むと、翌日、学校の昼の廊下掃除の時、高等科(義務教育ではなく、中学校に進学しないが入学の余裕のある男子が 2 年間在籍)の生徒に仕置きをされます。そんなに酷いものではないですが、皆の前でやられるので、不名誉に感じていました。転校した学校の生活を中心に考えますと、内地の生徒が手本になるように立派だとは、必ずしもいえないように思っていました。[引用者の注:以下 2 段落割愛]

2. 私はネコである
 私はシャムネコである。名前はミーコという。多幡家の次女が小学生の時、彼女の友だちのところから貰われてきて、一家に可愛がられ、17年の生涯をそこで全うした。現在は遺影となって、多幡家の居間を飾っている。遺影は、多幡夫人の小学校同級生が経営していた店で、写真から絵画風に加工を施して貰ったもので、白い額に納まっている。小柄ながら気の強かった私は、一度多幡夫人の腕に噛み付いた。その跡がいまも私のいた記念として鮮やかに残っている。
以上の簡単な文章ながら、「追記」とあわせて読むと、この記事の執筆動機なども分り、簡潔な読み物となっています。絵画風に加工した猫の写真も大変よく出来ていて、愛猫の遺影に相応しい記念でしょう。

 私は最近、銀座三越で『生誕 130 年 藤田嗣治の子供たち展』と題した小展示会を鑑賞しました。藤田嗣治のいろいろな画風の絵と、多くの「小さな職人」の絵と、猫の絵も数点ありました。会場には小さなテーブルがあり、その上にフランス版の『小さな職人たち(原題:しがない職業と少ない稼ぎ Petits Métiers et Gagne-Petit)』や『藤田嗣治画文集 猫の本』が展示されていました。後者の画文集には、もちろん猫の絵が中心となっていますが、その他の絵も多くあり、ところどころにご本人の絵に関する思いが書かれていました。猫との出会いについては、「盛り場から夜遅くパリの石だたみを歩いての帰りみち、フト足にからみつく猫があって、不憫に思って家に連れて来て飼ったのが 1 匹から 2 匹、2 匹から 3 匹となり、(中略)ひどく温柔(おとなしや)かな一面、あべこべに猛々しいところがあり、二通りの性格に描けるので面白いと思いました」というようなことが書かれていました。

 NHK の『世界猫歩き』の岩合光昭さんは、「ネコは人間とともに世界に広まった。だからその土地のネコはその土地の人間に似る」といっています。猫と人間の関りには長い歴史があり、非常に多様で奥深いものです。

2017年1月1日日曜日

2017年始めのごあいさつ (Greetings for the New Year of 2017)

[The text of this post is in Japanese only.]


日本百名山の一つ、鳳凰山。妻の年賀状用に、私が「週刊 日本百名山 No. 5」
(朝日新聞社、2001)の表紙写真を参考にして描いた。

新年おめでとうございます
たちにカンナは見えぬかもしれぬ
              ——渡邊白泉
 俳人・白泉(1913~1969)の代表作は「戦争が廊下の奥に立つてゐた」。このような状況を再び招かないよう、いま、私たちは政治をしっかり見据えなければなりません。

 皆様のご健康とご幸福をお祈りします。