2007年4月22日日曜日

50余年前に読んだ湯川博士の文

 昨年の私のブログに

 湯川博士が昔、新年の新聞に、原爆が発明されたのちの物理学者としての心を「あひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」の歌を引いて書いていたことを思い出した。

と書いたのがある [1]。

 湯川会のMさんは、湯川秀樹選集全5巻、湯川秀樹自選集全5巻、湯川秀樹著作集全10巻別巻1を全部揃えて持っていて、最近、これらに入っている著作を比較し、それぞれに単独で現れている作品の整理を行ない、さらに年別の作品数の推移を表わすグラフも作成した。彼ならば、冒頭に引用された短歌と1950年代初め頃に書かれたもの、というわずかのヒントで、湯川博士の上記の文をこれらの著作集の中から見つけられるのではないかと思い、同会のグループメールで尋ねてみた。すると、すぐに返事があり、『湯川秀樹選集 第3巻 論説篇 原子と人間』pp.11~15(甲鳥書林、1955)に「原子と人間 II」(1955年1月筆)として掲載されていることを教えて貰った。

 その文の書き出しは次のようになっているそうである。

 あひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり とは原子を知つた今日の人間の心境であるともいえよう。人間がこの世にあらわれるよりもずっと前から原子はもちろん存在していた。…

以下、人間は原子の力を知って、原爆、水爆を作り出してしまったことを述べ、「科学の進歩がかならず人間をより幸福にすると単純に信じてよい時代はすぎてしまつた」が、「原子力の悪用を禁止しようとする努力がよりよい世界へ向かつての第一歩であることも明白である」と結んでいるという。

 1955年1月といえば、私が大学1回生のときの正月ということになり、新聞は郷里の自宅で読んだはずで、初出の掲載紙は北国新聞の可能性が大きいのだが、出典の記載はないそうだ。湯川博士が核兵器廃絶の運動の重要性に思いをいたしたきっかけは、1954年3月1日のアメリカによるビキニ環礁での水爆実験だそうだから、この随筆を書いたのは、そのすぐあとになる。私の心にそれが長年記憶されていたということは、おだやかな文章の中にも、博士の強い主張がにじみ出ていたことを示すものであろう。

 なお、湯川会のIさんが、「あひみての…」の短歌は、藤原敦忠の作 で『拾遺和歌集』と『小倉百人一首』に収められていることを調べて、会のウエブサイト [2] の「湯川と古典」のページに、他の湯川博士と関連の深い古典のことばとともに載せている。

  1. カイコウズの大木, Ted's Coffeehouse (2006年7月22日).
  2. 湯川秀樹研究Wiki

2007年4月4日水曜日

ノーベル賞論文原稿

 さる3月4日に湯川秀樹を研究する市民の会(湯川会)・大阪市立科学館・大阪市立科学館友の会主催で行われた「市民による湯川秀樹生誕100年シンポジウム」の記事が、4月2日付けの読売新聞に掲載されたと、湯川会顧問のSさんから連絡があった。

 その記事は「湯川理論 市民が挑む:生誕100年シンポ ノーベル賞論文など解説」の見出しで、科学欄に載っている。湯川論文の解釈の発表は会員5人が担当したこと、論文が発表された1935年当時、阪大の専任講師だった湯川博士の研究室が大阪・中之島の、いまの国際国立美術館入口付近にあったこともメンバーが文献調査で明らかにしたことなどが紹介されている。

 私はこの記事がオンラインで読めないかと検索したが、見つからなかった。代わりに、読売紙に連載された「京大附置研究所・センター」紹介記事の第1回分として、基礎物理学研究所に保存されている湯川博士のノーベル賞論文原稿について書かれた次のような記事(2007年2月16日付け)を見つけた(全文は [1] に)。

連載[知のかたち]京大附置研究所・センターから (1)
  基礎物理学「湯川秀樹博士の論文」
    ノーベル賞原稿、長年放置
 赤茶けたリポート用紙14枚に、筆記体の英文が裏面まで続く。…(中略)…「世紀の論文」は長年、行方不明だった。79年、司書の記憶を頼りに、理学部図書室の片隅に無造作に積み上げられた段ボール箱から発見されたのだという。…(以下略)…

 この記事について湯川会メーリングリスト宛メールを送ったところ、会員のMさんから、ノーベル賞論文原稿を含む湯川博士の資料が発見された経緯を記した文 [2] のコピーが折り返し送られて来た。それを読むと、私が1985年に中間子論50年京都国際シンポジウムに参加した際に配付を受け、昨年、大阪市立科学館へ寄贈した薄手の冊子 [3] が、その資料の一部を整理したリストだったと分かる。[1] から [3] までが一つの線でつながったのである。

  1. http://osaka.yomiuri.co.jp/kyoto/ky70222a.htm(後日の注:リンク切れとなった).
  2. 小沼通二, 『自然』1980年10月号, p. 69 (1980).
  3. R. Kawabe and M. Konuma, ed., Source Materials of Hideki Yukawa on Meson Theory (Organizing Committee for Kyoto International symposium: The Jubilee of the Meson Theory, 1985).

2007年4月3日火曜日

メソトン

 湯川博士は1935年に、原子核の中で陽子と中性子を結びつけている核力は、重さが電子と陽子の中間の粒子によって媒介されているという中間子論を発表したが、その理論は、しばらくの間、学界から注目されることもなかった。それが、突然世界的に注目されるようになったのは、1937年、カール・アンダーソンらが宇宙線中に、現在ミューオンと呼ばれている粒子を発見し、それが湯川博士が存在を予想した粒子と思われたことによる。発見当初、この粒子はユーコン(この命名については [1] の末尾を参照されたい)、メソトロンなどと呼ばれた。メソトロンの命名についてはアンダーソンと彼の師であるロバート・ミリカンの間で言い争いがあったという話を、私は遅まきながら昨日、湯川会顧問のSさんが以前に書いた文 [2] で初めて知った。

 アンダーソンらはミリカンの留守中に短報を Nature 誌に投稿し、「メソトン」という名を提案した。帰ってきたミリカンが、それを聞くやいなや、「エレクトロンとかニュートロンとかいうのだから、メソトロンにすべきだ」といって反対した。アンダーソンは「プロトンというのもある」と反論したが、結局 r の追加文字を Nature 誌に電報で送ることになった、というのである。

 Sさんはこの話をローリー・ブラウンら編集の本 [3] から引用している。実は、私はその本の原書 [4] を以前から持っていながら、アンダーソンの文 [5] のところを読んでいなかった。そこを開いてみると、この本のもとになったシンポジウム(1980年フェルミ研究所で開催)には、カール・アンダーソンが出席出来なくて、ハーバート・アンダーソンが彼の原稿を代読した、とある。そして、代読者による緒言がついていて、その中にも、上記のようなミリカンとカール・アンダーソンの仲のよくなかった関係が、「300ページほどのミリカンの自伝の中で、カール・アンダーソンについては、若い共同研究者たちとの宇宙線の研究として、ひとこと書いてあるだけ」と、暗にミリカンを批判する形で述べられている。

 その後、「メソトロン」という名には問題ありとして、「メソン」に変わった話と、さらに現在パイオンと呼ばれている、湯川博士の予想した粒子に実際に対応するものの発見(1947年)に伴って、「メソン」が「ミューメソン」に変わった話については、先のブログ記事 [6, 7] を参照されたい。

 なお、アブラハム・パイスの本 [8] によれば、1939年に開催された宇宙線シンポジウムに提出された論文には、現在のミューオンが、ユーコンを含む6通り以上の名前で呼ばれていたが、編集者たち [9] は「メソトロン」に統一したそうだ。6通りとは、重い電子、軽い陽子、ユーコン、メソトロン、メソトン、メソンあたりか。他にどういうのがあったのだろうか。

  1. 「湯川ポテンシャルへのヒント」Ted's Coffeehouse 2 (2007年3月27日).
  2. 「新粒子の命名『メソトロン』」月刊うちゅう, Vol. 22, No. 10 (2005).
  3. L・M・ブラウン, L・ホヂソン=編, 早川幸男=訳, 『素粒子物理学の誕生』(講談社, 1986).
  4. L. M. Brown and L. Hoddeson, ed. "The Birth of Particle Physics" (Cambridge Univ. Press, 1983).
  5. C. D. Anderson with H. L. Anderson, "Unraveling the particle content of cosmic rays", ibid. P. 131 (1983).
  6. 「中間子命名にハイゼンベルクの父が関与」Ted's Coffeehouse 2 (2007年1月13日).
  7. 「パイオンの名の由来」Ted's Coffeehouse 2 (2007年3月24日).
  8. A. Pais, "Inward Bound", p. 431 (Clarendon Press, 1986).
  9. Rev. Mod. Phys. Vol. 11, p. 122 (1939).
(2007年4月3日