2017年2月23日木曜日

続々・漱石「夢十夜」の読み (Impressions of Soseki's Ten Nights' Dreams: Continued Again)

[The main text of this post is in Japanese only.]


近藤ようこ・漫画、夏目漱石・原作『夢十夜』。
Ten Nights' Dreams comicized by Kondo Yoko, originally written by Natsume Soseki.

 このシリーズの初回と続編で、ともに「夢十夜」の第一夜の女が、男の顔が見えるかとの問いに対して、「そこに、写ってるじゃありませんか」と謎めいた答えをしたことを取り上げた。今日ふと、主として読んでしまった本を収めてある本箱をのぞいてみて、20 数年前に読んだ吉田敦彦著『漱石の夢の女』(1994、青土社)に目がとまった。何が書いてあったか全く覚えていないが、「夢十夜」の第一夜の女についても書いてあったに違いないと思って、開いてみた。案の定、第 1 章、第 1 節「神秘的な老人とアニマの美女たち」に、神話の女神を思わせる女性として(吉田氏は神話学が専門である)、真っ先に、第一夜の女について書いてある。

 「そこに、写ってるじゃありませんか」について吉田氏が感想を述べている段落を引用する。第一夜中の「自分」を吉田氏は「漱石」と書いていることに注意されたい。
 漱石が「私の顔が見えるかい」と一心に聞くと、美女は「見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんか」と言って、にっこり笑って見せる。そのことからこの美女が、じつは漱石の内部にある存在であることが、明らかになる。なぜなら彼女は、漱石の内から外に投射された自分の臨終の姿を眺め、その外の自分の眸に映る映像をはっきり見ている。そしてそれをまるで教えさとすような口調で、漱石に優しく指摘してやっているからだ。つまりこの美女は、漱石の心の深層の無意識内にあって、今やまさに生けるがごとき艶麗さを保ったまま、死んで埋没しようとしている、理想の女性像であり、ユング派の分析心理学の用語を借りれば、彼のアニマにほかならないと思えるのだ。
なるほど。答えているのは漱石の内部にいる女で、その女が、漱石の外部に投射された女自身の姿の中にある眸を意味して、「そこ」といっているという解釈である。参った! 内なる女と外(といっても、これも漱石の心の中であることに変わりはない)なる女を考えることによって、「そこ」という代名詞が生きてくるのである。

 後日の注:当初の文には、次の最終段落があったが、読み返してみると、なぜそれを書いたのかが分からない。「投射」とはフィルムの映像をスクリーンに映し出すようなことで、音声を伴う必要はないからである。そこで、その段落を本文からカットすることにした。(2019 年 8 月 27 日)
 内なる女は言葉を発するが、姿がなく、外なる女には姿だけがあって、言葉を発しないのかも知れない。そうすると、吉田氏の「投射」という表現は、いささか不適切なようにも思えるが、姿のないものに姿を想像する過程と解釈すればよいだろう。

2017年2月16日木曜日

J.M.W. ターナーの作品 140 余点など:Artsy サイト (J.M.W. Turner's Works more than 140, etc.: Artsy Site)


J.M.W. ターナーのウェブページ
Web page of J.M.W. Turner.

 私が神戸市立博物館のターナー展を見たときのブログ記事を掲載していた関係で、美術の収集と教育のためのリソース "Artsy" の職員からメールが届いた。「インターネット接続を持つすべての人が世界中のすべてのアートにアクセスできるようにする」という Artsy の使命や、シアトル美術館が J.M.W. ターナー の作品を含む「自然を見る:ポール・G・アレン・ファミリー・コレクションの風景画」というページを提供することになったことや、ターナーのページが、彼の略歴、140 余点の作品、独占記事、ターナー展のリストなどを掲載していることが記されていた。そして、ターナーのページへのリンクを設けて、アクセスを広げて貰えればありがたい、とあった(原文は下記の英文記事の下部に引用してある)。アクセスしてみると、なかなか見ごたえのあるページだったので、ここに紹介する次第である。

I got the e-mail message quoted below. In response to the request written in this e-mail message, I am pleased to introduce the page of J.M.W. Turner included in the Artsy Web site.

Hi - my name is Alonzo, and I work at Artsy. While researching J.M.W. Turner, I found your page: https://ideaisaac2.blogspot.com/2014_02_01_archive.html.

I am reaching out to certain website and blog owners that publish content in line with our mission to make all the world’s art accessible to anyone. We hope to continue promoting arts education and accessibility with your help.

The Seattle Art Museum is scheduled to exhibit "Seeing Nature: Landscape Masterworks from the Paul G. Allen Family Collection"page, which features J.M.W. Turner. As such, we would like to take the opportunity to now promote him work. Our hope is that the timing of this outreach will effectively support both the Museum and J.M.W. Turner.

Our J.M.W. Turner page provides visitors with Turner's bio, over 140 of him works, exclusive articles, and up-to-date Turner exhibition listings. The page also includes related artists and categories, allowing viewers to discover art beyond our Turner page. We would love to be included as an additional resource for your visitors via a link on your page. We believe that by spreading access we can provide a new, empowering way for approaching art. If you are able to add a link to our J.M.W. Turner page, please let me know. Thanks in advance for your consideration!

Best,
Alonzo

"I don't paint so that people will understand me, I paint to show what a particular scene looks like." --J.M.W. Turner

2017年2月9日木曜日

続・漱石「夢十夜」の読み (Impressions of Soseki's Ten Nights' Dreams: Continued)

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「夢十夜」が含まれる新書サイズ『夏目漱石全集 第十六巻』(岩波書店、1956)。
Natsume Soseki 's Complete Works Vol. 16 (Iwanami, 1956),
in which the work Ten Nights' Dreams is included.

 きょう、2017 年 2 月 9 日は漱石の生誕 150 周年にあたるそうだ。『朝日新聞』の「天声人語」欄には、東京の二松学舎大学でアンドロイドの夏目漱石先生に会ったところ、低い声で『夢十夜』と『吾輩は猫である』の一節を読み上げてくれた、という話が書いてある。『しんぶん赤旗』の「潮流」欄には、漱石が亡くなる直前まで書いていた作品『明暗』に、主人公が購入した「比較的大きな洋書」である「経済学の独逸(ドイツ)書」が出てくるが、これは『資本論』ではないかという仮説を東北大学名誉教授・故服部文男さんが立てていたという話がある。漱石ファンの私としても何か書かないわけにはいかない。

 先の記事「漱石『夢十夜』の読み」を掲載した翌々日、『朝日新聞』で「グーグルが日本語版の検索結果を表示する基準を変更した」という記事を読んだ。そこで、「夢十夜」の言葉を検索してみると、私の先日のブログ記事が、その変更の好影響を受けたのかどうかは分からないが、2 番目か 3 番目に出た。そこで、さらに「夢十夜 第一夜」を検索してみた。その結果には、いろいろ興味深い記事が見つかったが、私が論じたのと同じ箇所を論じたものは、少なくともヒットの上部には見当たらなかった。ただ、『ぶっくらぼ』というサイトの「夏目漱石『夢十夜』問題と解説と読書感想文」と題する記事に「『第一夜』問題と解説」という章があり、いくつかの問題と、それに対する答えが書いてあった。

 その 2 番目に、
Q.<ほら、そこに、写ってるじゃありませんか>の「そこ」とは、どこをさすか?
A.自分の瞳。
というのがある。この記事では、「女」と、彼女に相対している男を意味する「自分」を使い分けているので、この「自分」は、<ほら、そこに …>といった女自身という意味でなく、文中に「自分」とある男のことを指していることになる。男が女に尋ねたのは彼の顔が見えるかということである。この答えでは、その問いに対して、男の顔が男自身の瞳に映っているじゃないですか、と答えたことになり、私としては合点がいかない。女の言葉自体が、私の先の記事でも述べたように、謎めいているにもかかわらず、それについて一つの答えを求める問題を作るのもどうかと思われる。

 そもそも、しばしば多義的な解釈を可能にする文学作品を取り上げて、一義的な答えを求める質問を作ること自体に問題があるだろう。意味が一義的であるべき法律の条文でさえ、解釈が別れる場合がある。暗示や感覚を大切にする文学では、なおさらのことである。(ただし、安倍政権が憲法 9 条についての従来の内閣の解釈を変えて、集団的自衛権行使を容認したのは、解釈が別れる場合に当たらない。これはあくまでも、解釈のねじ曲げである。)

 私が高校生の頃、正確には 1948 年度から 54 年度まで、大学進学希望者に対して、全国一斉の進学適性検査というものが行われた(こちら参照)。制度としては、今の大学入試センター試験に似ているが、内容的には、予備学習を必要としないで、主に思考力・判断力を要する問題が、理系と文系に分けて出題された。その検査に慣れるための模擬検査が、私の高校でも、業者の作成した問題を使って、たびたび行われた。文系の問題では、文学作品の一部が示されていて、それについてのいくつかの質問があったりした。

 それらの質問の中には、上記の「第一夜」の問題と同様、一義的な解釈を選択肢から選ぶ質問もあった。そういう問いに対して、私は初めのうちしばしば、「問題作成者は、この選択肢を正解に近いものとして入れることにより、迷わせる意図かもしれないが、これを選ぶのは安易な考えだ」などと思って、自分の気に入る別の選択肢を採り、不正解になった。実は、迷わせる意図と思った選択肢が正解だったのである。そこで以後は、私自身の解釈を抑えて、虚心に答えを選ぶことにしたところ、模擬検査の結果は俄然よくなったのだった(文末の注参照)。

 話が、つい古い思い出にそれてしまったが、要は、漱石の生誕 150 周年に当たって、「夢十夜」の、そして、優れた文学作品の解釈には、前回紹介した『図書』誌の対談の題名にもあった通り、多様性があり得ることを強調したい、ということである。


 注:しかし、本番の検査では、文系の問題はやけに難しく、私は理系の点がよかったにもかかわらず、合計点が 100 点満点中の 70 点に届かなかった。県下の最高得点者というのが、私の住んでいた市の隣の市の高校にいて、彼は私と同じ大学の同じ学部・同じ学科に進んだ。彼自らが遠慮がちに私に聞かせてくれた点数も 80 点弱だったと思う。

 (2019 年 8 月 28 日修正)


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2017年2月5日日曜日

漱石「夢十夜」の読み (Impressions of Soseki's Ten Nights' Dreams)

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近藤ようこ・漫画、夏目漱石・原作『夢十夜』。
Ten Nights' Dreams comicized by Kondo Yoko, originally written by Natsume Soseki.

 岩波書店の広告誌『図書』2月号に、夏目房之介と近藤ようこの対談が載っている。近藤が漱石の「夢十夜」をもとにした漫画『夢十夜』を岩波書店から出版した機会に、「多様な読みの可能性へ」と題して語り合っているのだ。この対談を読むと、《 確かに「夢十夜」は多様な読みを可能にする作品だ。私の読みは彼ら二人の読みとは異なるぞ 》と思われて来た。その相違を詳しく書くには、近藤の漫画も見ておく必要があろうかと、早速購入した。広告誌は、その役割をよく果たしたのである。

 漫画が届くとすぐに、「夢十夜」の原作と漫画を併読したが、私には、絵のない原作で読む方が味わい深いように思われた。これは、近藤の漫画がよくないということではなく、イメージが押し付けられる形になる漫画と、いやでも想像がふくらむ文学との相違であろう。また、対談記事の二人と読みが大きく異なるのは、第一夜の話だけのようにも思われた。そこで、ここでは第一夜だけを取り上げることにする。

 房之介は対談において、「漱石のあらゆる作品の中で、第一夜ほどロマンティックなものはないですよ。[...]第一夜は人気がある」と語っている。これは、いささか誇張のようにも思われるが、さほど異論はない。

 近藤が最初の場面を病院の一室として描いたのに対し、房之介は「畳の部屋に女が寝ていて、縁から男が庭に出るというイメージを持っていた」と述べる。すると近藤は、男が庭へ出てからの場面から「すごく西洋的な話」だと思ったといい、房之介は「言われてみればその通り」と答える。しかし、第一夜冒頭の原文には、「腕組をして枕元に坐(すわ)っている」とあり、病院のベッドから少し離れた横の位置で男が椅子にかけているという漫画の場面は、私にはどうしても思い浮かばない。さらに、女が死ぬと、男は「それから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘っ」ている。病院ではそうはいかないだろう(漫画では、「それから庭へ下りて」の文は省略され、男は病院の広い庭らしいところへ足を運んでいる)。庭へ出てからの小道具が西洋的であるとはいえ、他の九夜との調和からいっても、最初の場面には畳の部屋がふさわしく、第一夜全体として和風の話だと思う。

 次に私が二人の読みと異なる読みをするところは、女の目についての描写である。房之介は近藤の漫画について、「印象に残ったのは死にゆく女の瞳です。真っ黒にしたのはなぜ?」と問いかける。近藤は「流し読みをしている時には気づかなくって、いざ絵にしようと思ったら一面に黒目と書いてあって」といい、房之介は「僕も前から気になっていたんです、白目がないという表現が。黒目がちということの文学的表現なのかどうかがわからない」と答えている。しかし原作では、「一面に黒目」や「白目がない」という通りの言葉はなく、「大きな潤(うるおい)のある眼で、長い睫(まつげ)に包まれた中は、ただ一面に真黒であった」とある。私は、房之介が匂わせている通り、「ただ一面に真黒」は美人を表す「黒目がち」の誇張的な表現と取りたい。

 原作では、「その真黒な眸(ひとみ)の奥に、自分の姿が鮮(あざやか)に浮かんでいる」と続く。『大辞泉』を基にしたインターネットの『goo 辞書』によれば、「ひとみ」とは「目の虹彩、あるいは虹彩と瞳孔 (どうこう) のこと。黒目」である。周囲に白目が全くないという設定であれば、白目の存在を意識したような「真黒な眸」という表現は出て来なくて、「真黒な眼」とでもなるだろう(漫画では、白目の部分も黒くしてあるが、完全な「一面に真黒」ではなく、男の姿などが映っている様子を白抜きで表す工夫がなされている)。

 虹彩と瞳孔が出て来たついでにいえば、死ぬと瞳孔が開くといわれる。詳しくいえば、瞳孔の周囲でカメラのシャッターのような役をしている虹彩(多くの日本人では褐色の部分)が形作る穴である瞳孔が広がり、そこから覗く水晶体の露出部分が広くなるのである。漱石は「ただ一面に真黒」によって、女の死が極めて近いことをも表現したのかもしれない。私のこの読みは、科学的過ぎるだろうか。だが、物理学者・寺田寅彦を門下生とした漱石は、その影響でしばしば科学力を発揮している。

 房之介は上に引用した「黒目がちということの文学的表現なのかどうかがわからない」に続いて、「一番変なのは、[男が『私の顔が見えるかい』と聞いたのに対し]女が『[見えるかいって、そら、]そこに、写ってるじゃありませんか』と言うところです」と述べている。近藤はそれに対して、「自分の目に映っているのに……」と応じる。確かに像が結ばれているのは女の目の中である。しかし、その像を作る光線の元をたどれば、「そこ」にいる男に行き着く。女の言葉を「そこの、あなたからの光線が私の目に入って像を結んでますから、あなたが見えてるとおわかりになるじゃありませんか」を簡略化した文学的表現と取れば、科学性さえ感じられる。ただし、男が女の水晶体上に見得るのは自分の虚像であって、女が網膜上の実像をその奥の神経細胞で認識できているかどうかまではわからない。女のいう「そこに、写ってるじゃありませんか」を筋の通った言葉と取るのは、やはり無理なようだ。謎や矛盾の多いのが夢というものであろう。

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