2018年5月21日月曜日

東京、2018 年春 (Tokyo; Spring 2018)

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上:私の定宿・学士会館の正面玄関。下:同会館北側にある「日本野球発祥の地」の記念碑。
Upper, the main entrance hall of my usual lodging, Bachelor Hall (Gakushi-kaikan); lower, the monument of "The birthplace of Japanese baseball" at the north side of the Hall.

 さる 5 月 17 日に東京で開催された金沢菫台高校第5期生の集まりに参加するため、16 日に上京した。その晩、私の定宿・学士会館へ同期会の幹事君が会いに来てくれ、同会館の和食堂「二色」でコース料理を楽しみながら話し合った。アメリカで働いていた彼の娘さん夫婦が、トランプ大統領のアメリカン・ファースト政策の影響で失職し帰国しているそうだ。トランプ政策がそこまで影響しているとは知らなかった。彼の奥さんが初期の認知症状態なのだが、自らはそうと認めないで彼とよく言い争うというのも気になることである。

 翌朝、学士会館においてあった冊子『ふらっと おさんぽ神保町:神保町レトロ建築さんぽ特集号』の地図を参考に、さくら通り付近を少し散策してから、同期会の会場へ向かった。会場は昨年と同じく、銀座 1 丁目「キラリト銀座」6 階にある「銀座の金沢」で、11名(うち女性 4 名)が集まった。遠路参加の私が乾杯の発声をさせられた。昨年末敷居につまずいて倒れ背骨を折って以来今回が初めての外出という女性や、お一人様になって女性向け体操教室に熱心に通っている女性や、医者の指示に抵抗して高血圧の薬を 2 日おきに服用している女性や、年に何回も海外旅行をしている男性や、頸動脈のコレステロール除去手術を勧められながらも海外旅行を目論んでいる男性や、1 年先輩である夫人が友人と南極旅行に行って来たという男性などがいて、なかなか愉快な集まりだった。——こう書くと、新しい参加者が多かったように聞こえるかもしれないが、参加者たちは皆この会の常連で、1 ないし 3 年ぶり程度に聞くそれぞれのニュースが興味深かったのである。参加者が昨年よりも 4 名増加したのは、高齢者の同窓会にしては珍しく喜ばしいことだった。

 旧制四高(現・金沢大学)のボート部員が琵琶湖で遭難水死した事故を歌にしたという、「琵琶湖周航の歌」と「真白き富士の根」の合いの子のような「琵琶湖哀歌」(奥野椰子夫・作詞、菊池博・作曲、東海林太郎と小笠原美都子が歌った;下の動画参照)の歌詞と楽譜を見つけてコピーして来た女性もあり、「頸動脈コレステロール」君はその歌を知っていて歌ってくれた。



一部分「琵琶湖周航の歌」にそっくりな節があると思ったが、『ウィキペディア』の同歌の説明にも、「メロディの半分ほどは琵琶湖周航の歌の借用である」と記されている。

 「海外旅行しばしば」君は、宝塚歌劇を東京でよく見るそうで、同歌劇の終演後に劇場に流される歌「さよなら皆様」(内海重典・作詞、河崎一朗・作曲;下の動画参照)を歌った。これは一同で校歌斉唱をする直前のことで、彼は校歌をあまり覚えていなかったため、校歌斉唱には無言でいる代わりとして歌ったもののようだった。



 校歌の歌詞は、最近送られて来た同窓会誌『金商菫台プレス』に載っていたので、そのインターネット版のコピーを私から幹事君に送っておき、当日、ハードコピーを参加者分だけ用意して貰った。私は校歌のメロディーをよく覚えている方だろうと自負していたが、他のほとんどの参加者たちもしっかりと歌っていた。

 以上のように、12 時から 15 時 20 分頃まで、郷土料理を食しながらたっぷり楽しみ、幹事ほか一同も記念写真の撮影を忘れてしまったまま解散した。

 その夕方、例年の私の上京時通り、先のブログ記事で紹介した『荒勝文策と原子核物理学の黎明』の著者・政池氏と M・Y 君に学士会館へ来て貰い、夕食も共にして、4 時間近く歓談した。政池氏から上記著書の執筆に関する裏話をいろいろ聞くことが出来た。私は最近自分のデジタル論文集作成に時間をかけていて、彼の著書をまだ十分には読んでなかった[注 1]。それで、詳しい感想を述べるべきせっかくの機会にそれが出来なかったのは悪かったと、いささか気がとがめ、帰宅翌日に彼へお詫びのメールを送った。

 東京の地下鉄で半蔵門線を利用すると、乗り換えに階段も含めてずいぶん長距離を歩くことになる。目下工事中の箇所も多く、今後はもっと便利になるのだろうが、よい運動になった。——と思っていたのだが、帰宅すると体重がかなり増えていた。ご馳走を食べながら座っていた時間が、歩いた時間よりもはるかに多かったからだろうか。


 注 1:『荒勝文策と...』をまだ十分に読んでいなかった理由としてはもう一つ、読書の時間があれば英書を読むことの方を好むという私の性癖もある。今回の旅に携行する小さな本として、未読の文庫版や新書版の和書があるにも関わらず、それらを選ばないで、Bernard Malamud の "The Magic Barrel" という短編集のペーパーバックを選んだ。2005 年 4〜7 月に NHK ラジオ第 2 放送『原書で読む世界の名作』のテキストとなっていた本である。ついでに記せば、定年退職後だったにもかかわらず、その放送を十分に聞いた覚えはない。『原書で読む...』は、むしろ私の定年退職前の愛聴番組だったが、2007 年頃に終わってしまったのが残念である。終わり頃にあまり聞かなかったのは、著名な作家の作品が出尽くして、あまり知られていない(少なくとも私にとって)作家の作品を取り上げることが多くなったためのようだ。

2018年4月5日木曜日

政池氏へ:著書恵贈に対する礼状 (To Masaike: Message of Thanks to His Book)

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『荒勝文策と原子核物理学の黎明』のダストカバー。
Jacket of the book Bunsaku Arakatsu and the Dawn of Nuclear Physics.

2018 年 4 月 4 日

政池明様

 本日、ご著書『荒勝文策と原子核物理学の黎明』[注 1]が届きました。ご恵贈に感謝いたしますとともに、膨大な資料を読みこなして整然とした 400 ページを超える立派な正史にまとめ上げられたご力量に敬服いたします。なお、ご序文中に不肖私にまで謝辞を述べて頂き[注 2]、恐縮しています。まだ部分的にしか拝読していませんが、どこを開いても興味深い内容が読みやすい文で綴られていると思いました。「補論」中の木村磐根先生の文[注 3]は、大放研[注 4]についても触れられていて、私には格別興味深いものです。本書が広く普及・活用されることを願っています。

 例年、4 月初めに高校同期関東在住者会が東京で開催されていましたので、今年もその機会に貴君および M・Y 君にお目にかかりたいと思っていましたが、今年はその会の連絡がありませんでした。幹事の夫人の体調がよくないと以前から聞いていましたので、その関係で開催が困難になったのかと思っています。なんらかの機会を利用して、またお目にかかることができれば幸いです。

 ご序文中には N・T さんにも謝辞が述べられていますが、彼女のメールアドレスをご存知でしたら教えてください。物理学会講演会では同じ放射線物理分科会で発表していた間柄でしたが(ある時には、講演会を二人で抜け出して、彼女が希望する上野公園動物園のパンダを一緒に見に行きました)、定年退職後は形式的な年賀状を交換するだけになっているのが残念です。かといって、手紙や葉書をお送りするのは面倒かつ大げさなので、メールをお送りできれば、と思っていたところです。

 以上、とりあえず、余談を含めて、お礼をしたためました。

 T・T


 [ブログへの掲載時の注]
  1. 京都大学学術出版会、2018 年 4 月発行。アマゾンの同書情報ページはこちら。荒勝文策は台北帝大時代に人工原子核変換の実験にアジアで初めて成功し、太平洋戦争中は海軍から原爆の研究を要請された。広島、長崎への原爆投下直後には、荒勝研究室からその調査隊を派遣し、「原爆」だったことを明らかにしたが、広島での第3次調査の際、台風による山津波で犠牲者を出している。戦後、荒勝は占領軍から日本の原爆研究について取り調べを受けたり、純粋研究のために建設中だったサイクロトロンを原爆研究に関するものと間違えられて破壊されるなどの仕打ちを受けた。後者の扱いについては間もなく米国の陸軍長官が謝罪している。本書は、これらの史実を膨大な資料から丁寧に整理して詳述し、科学と社会の結びつきについて注意を喚起している。
  2. 政池氏からの返信によれば、荒勝研究室による第 3 次広島原爆調査時の、大野浦における山津波に関する西川喜良の回想記が、私が彼に上げた冊子からの引用だということである。その冊子とは、『京都大学原子爆弾災害綜合研究調査班遭難—「記念碑建立・慰霊の集い」の歩み』(紫蘭会広島支部・京都大学発行、1993)で、私は政池氏にこそ役立つ冊子だと思い、 彼がまだ『荒勝文策と...』の執筆に取り掛かっていなかった頃に、彼に手渡したのだった。
  3. 「木村毅一に関する証言と回想」。故・木村毅一博士は荒勝文策の弟子で、京大の原子核実験講座を彼から引き継いだ。政池氏や私の恩師である。木村磐根氏はその令息。
  4. 大阪府立放射線中央研究所。木村毅一が設立に尽力し、初代所長を務めた。筆者の最初の勤務先である。
 (2018 年 4 月 7 日、注 1 を拡張。)

2018年3月21日水曜日

サクラのわが標本木、開花 1 日 後 (My Sample Tree of Cherry, One Day after the Beginning of Blooming)

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堺市・日部神社のサクラの古木、開花 1 日後の様子。
Old cherry tree of Kusabe Shrine, Sakai, one day after the beginning of blooming.

 昨 3 月 20 日午前に外出した帰途、小雨の中を回り道して、近くの日部神社(堺市西区草部)にあるサクラのわが標本木を見に行った。5輪あまり咲いていて、開花といえる状態だった。夕方のテレビニュースで、和歌山市と大阪市で開花の発表があったと聞いた。和歌山市で昨年より 10 日、平年より 6 日早く、大阪市で昨年より 10 日、平年より 8 日、いずれも早いそうだ。和歌山市と大阪市で開花したとあれば、堺市でも開花して当然だが、わが標本木以外に、近くの公園にあるサクラの木はまだ開花状態ではない。

 わが標本木の開花日に、今回のように天気が悪くて写真を撮らなかったことは、近年になかった。今日も朝から雨だったが、午後に晴れ間が出来たので、撮りに出かけた。その写真が上掲のものである。

2018年2月10日土曜日

孔子の政治観と現日本の政治 (Confucian Principle of Politics and Politics of Present Japan)

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さる 2 月 6 日午前、堺市でも雪がちらついた。
In the morning of February 6, 2018, it snowed a little in Sakai City.

孔子の政治観と現日本の政治

 昨 2 月 9 日放送された「NHK 高校講座・国語総合」の講義は、「論語:政治を考える」というテーマだった(講師:東京都立戸山高等学校教諭・渡辺恭子)。『論語』中の「子貢問政。子曰『足食、足兵、民信之矣。』...」という章を学び、「孔子が重視した為政者の心構え」について考えるものである。この講座はインターネットで聞くことも出来(こちら)、「学習メモ」という教材を見ることも出来る。「学習メモ」にある『論語』のこの章の現代語訳を少し書き直して、その内容を紹介すれば、次の通りである。
 子貢が孔子に政治について尋ねると、孔子は「食糧を充分に満たし、軍備を十分に満たし、人民には信頼の心を持たせることだ」と答えた。子貢が「どれかをやむなく取り去る場合には、この三つの中で、どれを先にしますか」と尋ねると、孔子は「軍備を取り去れ」と答えた。子貢が「残り二つの中から、やむなくもう一つ取り去る場合には、どちらを先にしますか」と尋ねると、孔子は「食糧を取り去れ。昔から人は皆死ぬ定めにある。民は信義がなければ、国の存亡を問題にする前に、すでに人間として生きていけないからだ」と答えた。
 いま、日本の政権は、防衛費の極端の増大を行い、平和憲法を変えようとし、疑惑にはまともに答えようともしない。まさに、孔子の考えの逆を行っているといわなければならない。

2018年1月26日金曜日

2017 年 9 月 27 日〜 2018 年 1 月 5 日分記事への M・Y 君の感想 2 (M.Y's Comments on My Blog Posts from September 27, 2017, to January 5, 2018 -2-)

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わが家のロウバイの花。2018 年 1 月 15 日撮影。
Blossoms of wintersweet in my home; taken on January 15, 2018.

2017 年 9 月 27 日〜 2018 年 1 月 5 日分記事への M・Y 君の感想 2

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2018 年 1 月 22 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。(M・Y 君の感想には「筆者」の語が多く出てくる。この語は文を書いている自分自身を指す場合にも用いられるが、ここでは感想の対象になっているブログの筆者 T・T を指していることに留意されたい。)



3. 京丹後へのバス旅行 -1-~-5-
 12 月 2 日(土)、妻と早朝に家を出て、「京丹後『和久傳の森』と ちりめん街道」と称する、日帰りバス旅行に参加した。帰途のバスは交通渋滞に会って、予定よりも 30 分ほど遅れて大阪に到着したが、充実した旅だった。
と書き出し、5 回にわたって旅行での見聞を詳しく書いてあります。「和久傳の森」から「ちりめん街道」までは少し距離があるようですが、一日でその両方を訪れる日帰りバス旅行は、大変効率的でよい旅行だと思います。

 私は京都の町を散策していて、御池通りから河原町通りへ出る時、堺町通りに入ってすぐ左側に、「室町和久傳」という大きな料亭を見て、「和久傳」を知りました。この料亭の所有者が、植物生態学者・宮脇昭氏の指導で、2007 年から手がけ 56 種類の木々 3 万本が育つ和久傳の森を造り、安藤忠雄氏が自然の光や風を取り込んで、独特かつシンプルな設計の「森の中の家 安野光雅館」を建てていることを知り、経営者として世の中によい物を残そうという心意気に感心しました。また、安野光雅館を写真で見て、その簡素の美に感銘を受けました。

 ちりめん街道についても、掲載された写真やリンクされた情報を併せて見ていくと、江戸から明治・大正・昭和初期にかけて、高級織物「丹後ちりめん」が隆盛を極めた場所であり、ちりめん産業によって町を近代化した建物の多くが現在も住宅として利用されながら残っており、2005 年に重要伝統建造物群保存地区に指定された貴重な遺産であることがよく分かります。


T・T のデジタル論文集第 1 巻表紙。
The cover of T. T.'s Collected Works (Digital) Volume 1.

4. K・F 氏へ:私の論文集第 1 巻
K・F 様
 先日の電話では、先のメールに書き忘れた ResearchGate (RG) の最近の問題についてお話ししたいと思い、ややこしいことを述べて、失礼しました。文にまとめると以下のようなことです。
 先般、私がこれまで RG サイトに置いてきた post-print のうち、Elsevier に著作権のあるものが全て非公開の private file に変更されていました。不思議に思っていたところ、間もなく Nature 誌のオンラインニュースで、Elsevier が RG 社を著作権侵害で訴える準備をしているということを知りました。私が置いている post-print は、公開しても大丈夫なはずなので、private file から公開の形に自分でいったん戻しましたが、考えてみると、コメントなどを付けている点で、post-print の掲載規定には反しています。そこで、それらをまた private file に戻しました。しかし、private file のままにしておくことや、コメントを消去してしまうことは惜しいので、この際、コメントを付けた体裁での掲載が可能な、自分のデジタル論文集にまとめようと思い立ちました。
 以上のような次第で、まず、修士課程時代の論文 5 編を第 1 巻としてまとめましたので、添付します。論文 1、2、4 に付けたやや長めの「歴史的」コメントは、貴殿にもご興味があろうかと思います。ご笑覧いただければ幸いです。
 T・T
 引用に当たって一部省略しましたが、以上のように述べられています。これについて、筆者から私にも論文集第1巻のファイルを添付して、以下のようなメールが届きました。
[…]「歴史的」コメントは、貴君にもご興味があろうかと思います。K・F 氏からは「コメントは論文本体のように無機質ではなく、研究されたその場の情景、雰囲気、人間関係など想像出来、ご自分の論文集には貴重なものだと思います。私は興味をもって読ませていただきました」という感想を貰いました。[…]目下第4巻の編集中です。論文集として集めるに当たっては、タイトル、氏名、所属機関、受理年月日、アブストラクトなど、各論文の冒頭の部分は体裁を揃えた方がよいだろうと思い、そのための編集変更をするほか、デジタル化した post-print に誤りを見つけて修正したり、新しくデジタル化の必要な論文があったり、編集時のコメントを追加したりで、結構時間のかかる仕事ですが、楽しんでやっています。
 私もこの論文集に眼を通しましたが、K・F 氏の感想は簡潔に全てのことを言い表わしているようで、全く同感です。多数の論文を楽しみながら年月をかけてデジタル化された、コンピュータ・ソフト活用技術と熱意に敬意を表します。

 [T・T の注記]Y 君からのメールには、論文集についてもう少し詳しい、次のような感想がありましたので、感謝して紹介します。「貴君の労作『論文集第一巻』は、論文そのものの素晴らしさは言うに及ばず、共同実験テーマにおける貴君の修論と、武藤二郎先生、岡野事行先輩の博士論文のすみわけの話、加速器と測定器の配置図、実験試料の造り方の詳しい記述などいろいろあり、興味深く読ませていただきました。この論文集が、必要とされる学生や若き研究者の眼に止まることを祈ります。」
(完)

2018年1月25日木曜日

2017 年 9 月 27 日〜 2018 年 1 月 5 日分記事への M・Y 君の感想 1 (M.Y's Comments on My Blog Posts from September 27, 2017, to January 5, 2018 -1-)

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わが家の庭に咲いたネリネ。今年、茎が 1 本増えて、2 本になった。
2018 年 1 月 3 日撮影。
Flowers of spider lily in our garden. This year, the second stem newly appeared.
Photograph taken on January 3, 2018.

2017 年 9 月 27 日〜 2018 年 1 月 5 日分記事への M・Y 君の感想 1

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2018 年 1 月 22 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。(M・Y 君の感想には「筆者」の語が多く出てくる。この語は文を書いている自分自身を指す場合にも用いられるが、ここでは感想の対象になっているブログの筆者 T・T を指していることに留意されたい。)



1. 母校の旧校舎が国重要文化財に
 郷里に住む中学同期生の K・T さんからの賀状に、「我らが紫中(旧二中)の三尖塔がなんとかかんとかの遺産に指定されました」という添え書きがあった。インターネット検索をしてみた結果、私たちが学んだ時代にはまだ現役の校舎の一部として使われていた「三尖塔校舎」が、「旧石川県第二中学校本館」として昨 2017 年 11 月 28 日に国重要文化財の指定を受けたのだということが、同校舎を現在利用している「金沢くらしの博物館」のウェブページ「三尖塔校舎」で分かった。
として、これにまつわる話が述べられています。リンクされているウェブページ中に金沢市立紫錦台中学校の変革などが書かれており、同校は由緒ある優れた学校で、下記のような戦後の学制改革の混乱時から新制中学校として勉学の場を提供する役割を果たしたことが分かり、感銘をうけました。

 戦後 1946 年に新学制(6・3・3・4制《小学・中学・高等学校・大学》)が施行されました(アメリカ教育使節団の報告に基づく改革)。一時私の住んでいた県では新制中学校として新しい学校が建設され、高校は旧制中学校と女学校が校舎として利用され、いずれも男女共学でした。私どもは新学制の 2 回生でしたので、中学創設後 2 年目に入学しました。新制中学校が創設されたものの、校舎はまだなく、間借りした小学校と廃止になった青年学校の校舎をとりあえず使用することで、新制中学校はスタートしました。新しい校舎が出来、講堂を含めた中学校学舎が完成したのは、卒業の直前で、辛うじて卒業式に間に合いました。

 この過渡期に生徒は A 小学校、B 小学校(A、B は中学校の通学区域の小学校)青年学校に学年毎に分散して通学していました。先生は自転車などで、時間割に応じて三つの学校を行ったり来たりして授業を担当していました。今からは考えられないのんびりしたものでした。家が農業の人も多かったので、春・秋の農繁期(田植え、稲刈り)には農繁休暇が 4~5 日ありました。農家でない生徒にはありがたい休暇でした。石川県では新学制移行期に立派な学舎があったことを初めて知りました。

 [T・T の注:私たちの学区の新制中学は、幸運にも旧制中学の校舎を転用することになりましたが、新しく校舎を建設する必要のあった学区も多く、そういうところでは一時的に他の新制中学へ分散して学んだり、仮校舎時代があったりして、石川県全体としては、Y 君の住まわれた県と事情は大差なかったと思います。]

2. 2018 年始めのごあいさつ

 奥様の年賀状の挿絵として、奥様が登った思い出の山の一つである燕岳を、筆者が『週刊 続 日本百名山』Vol. 2(朝日新聞社、2002)の表紙写真(撮影・白旗史朗)を参考に描いたという絵は、2017 年 9 月 11 日掲載の水彩画『鳳凰山・地蔵岳』の絵[『週刊 日本百名山』No. 05(朝日新聞社、2001)の表紙写真による]と比べると、前者は白、黒、空色の3色で日本画的な絵画であり、後者は色彩豊かな洋画風です。筆者の長年にわたる趣味の絵画がこのような域に達していることをこの二つの絵が如実に語っているようです。

 [T・T の注:前者の絵は、参考にした写真が冬景色だったことと、短時間で簡略化して描いたことのため、たまたま日本画風の雰囲気になりました。白、黒、空色の他に、薄茶色や紫色なども少し使っています。]
(つづく)

2018年1月22日月曜日

有馬温泉へ (Went to Arima-Onsen Hot Spring)

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「かんぽの宿有馬」の客室からの眺め。上の 2 枚が水彩絵具による今回のスケッチで、
3 枚目は色鉛筆による約 1 年前のもの。
Sketches at Kampo-no-yado Arima Hotel. The top two pieces are watercolor works of this time,
and the third piece was made with colored pencils about one year ago.

 2018 年 1 月 17 日から「かんぽの宿」を利用して、妻と有馬温泉へ一泊の旅をした。昨年も 1 月に「かんぽの宿有馬」に宿泊したが、その折には宿の温泉施設が工事中で、宿からバスで外湯へ連れて行かれた(その不便さの分だけ、宿泊費が割安だった)。今回は、会員向けの「ゆったりのんびりプラン」(昼食付き)というのがあったので、それを利用した。このプランでは、二日目の午前いっぱい部屋でゆっくりできるので、いつもの旅行に携行するスケッチ用具中の色鉛筆に替えて、水彩画用の道具を持参した。

 上掲のイメージのうち、上の 2 枚が今回のスケッチで、3 枚目は昨年のもの。いずれも部屋の窓からの風景を描いている。今回は 3 階の和室、前回は、階は記憶していないが、洋室だった。宿が斜面に建っているため、 3 階の和室の床と同じくらいの高さのところに、宿の側面にある庭園の地面があった。

 1 枚目と 3 枚目の左寄りに描かれている建物は、どちらも「かんぽの宿」の隣に立つ同じホテルの一部で、1 枚目では前を通る道路から見て奥の部分、3 枚目では前方の部分が見えている。水彩絵具によるスケッチでは、筆を洗ったり、別の紙に試し塗りをしたりする必要があるため、時間がかかりそうに思われたが、色鉛筆の場合よりも広い面積を一気に着彩出来るので、むしろ早く仕上がるようだった。

 2 枚目に描いた苔のむす古木は、何の木か分からないが、その立派な姿に見とれて描いた。見とれるあまり太く描き過ぎてはいけないと思い、手加減をした。その結果、帰宅後に写真と比較すると、太さが不十分だったと気づいた。

2018年1月5日金曜日

母校の旧校舎が国重要文化財に (Old Building of My Alma Mater Became a National Important Cultural Property)

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旧石川県第二中学校本館の一部(1950年頃の撮影)。
Part of the main building of former Ishikawa Prefecture Second Middle School (taken around 1950).

 郷里に住む中学同期生の K・T さんからの賀状に、「我らが紫中(旧二中)の三尖塔がなんとかかんとかの遺産に指定されました」という添え書きがあった。どういう名称の遺産だろうかと、インターネット検索をしてみた。その結果、私たちが学んだ時代にはまだ現役の校舎の一部として使われていた「三尖塔校舎」が、「旧石川県第二中学校本館」として昨 2017 年 11 月 28 日に国重要文化財の指定を受けたのだということが、同校舎を現在利用している「金沢くらしの博物館」のウェブページ「三尖塔校舎」で分かった。

 同校舎は、明治 32 年(1899)に石川県第二中学校の校舎として建てられ、入り組んだ屋根、玄関の車寄せ、上げ下げ窓、胴蛇腹、ランプ吊りなど、明治時代の西洋風木造学校建築を今に残した貴重な建物だということである。同ページの略年表によれば、石川県第二中学校は明治 40 年(1907)3 月に石川県立金沢第二中学校と改称されたのである。私が母校の前身として知っていた名称は、この改称後のもの(略称「金沢二中」)である。そのページには、「三尖塔校舎」という呼び名は、左右両翼の尖塔に加え、正面玄関の上にある屋根も尖塔と見立てて、金沢二中時代から広く使われてきたものである旨の記述もある。尖塔は二つしか見当たらないのに、どうして「三尖塔校舎」かと、中学生時代から不思議に思っていた謎が、ようやく解けた。

 私は 2011 年に金沢を訪れた際、同校舎の一部の写真を撮っている(こちらに掲載)。その写真には、正面玄関上部の三角屋根と左翼上部の尖塔が写っている。卒業時の記念に学校で購入した校舎の写真はどうなっていただろうかと、古いアルバムを引っ張り出してコピーしたのが上掲の写真である。こちらには逆に、半ば木の陰になった右翼上部の尖塔と正面玄関上部の三角屋根とが写っている。「三尖塔」を揃えて写すことは、大きく成長した植木もあって、正面付近からでは困難なようだ。私たちの時代から現在に至る母校の正式名称は「金沢市立紫錦台中学校」で、そのウェブページの一つ、「紫錦写真館」上の航空写真の何枚かには「三尖塔」をまとめて見ることのできるものがある。

 この「国重要文化財指定」の件を、神戸に住む元同級生 T・K 君に携帯電話へのメールで知らせたところ、「中学の新聞のトップの挿し絵になっていた建物ですね。すごいですね」という返信が来た。そういえば、T・K 君も私も中学の新聞部に所属して、学校新聞『紫錦』の初期の号の編集にあたっていたのでる。題字とつり合いよく縦長の枠内に描かれていた、避雷針を伴った尖塔の一つの巧みな絵(図画の先生が描かれたのだろうか)は、いまでもおぼろげながら頭に残っている。

 なお、上掲の写真の当時には、中学の前の通りを市電が走っていたので、そのレールも写っているが、その後市電がなくなったのは残念である。

2018年1月1日月曜日

2018 年始めのごあいさつ (Greetings for the New Year of 2018)

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妻の年賀状の挿絵として、彼女が登った思い出の山の一つである燕岳を、私が『週刊 続 日本百名山』Vol. 2(朝日新聞社、2002)の表紙写真(撮影・白旗史朗)を参考に描いたもの。
A picture I made for my wife's New Year card, showing Mt. Tsubakuro-dake,
one of the mountains she climbed.

新年おめでとうございます

を解きおのれを解くや大枯野
         ——萩原季葉『雁の頃』

 同じ句集に「元旦の袴の腰に万歩計」
 大岡信『折々のうた』の解説から推定すると
定年退官後に句集を出し始めた萩原氏が 4 冊目の
上記句集を出したのは 91 歳の時
 氏の元気さにあやかるとともに
わが国を戦争する国に逆戻りさせないよう
声を上げ続けたいものです

 皆様のご健康とご幸福をお祈りします