2015年2月28日土曜日

追悼:播磨良子博士 (1931〜2015) [Obituary: "Radiation Shielder," Yoshiko Harima (1931–2015)]

[The main text of this post is in Japanese only.]


播磨良子さん。1961 年 11 月、大放研で開催した彼女の送別会席上で。
Yoshiko Harima on the occasion of the farewell party for her at the Radiation Center of Osaka Prefecture, in November 1961.

 放射線遮蔽分野の研究者として知られる播磨(旧姓・増田)良子さんが、2015 年 1 月 1 日に亡くなられたとの知らせを 1 月末にご長男から貰った。

 播磨さんは私の京大理学部物理学科の 4 年先輩に当たるが、私が同学科の原子核実験・木村研究室の修士課程 1 年に在学中の 1958 年秋、同研究室へ研修生として参加された。湯川研究室で理論を学んだ彼女が、大阪府立放射線中央研究所(大放研)へ就職する準備のためだったのである。私はそうとも知らないまま、翌年、同じ大放研への就職を決め、翌々年(1960年)、一緒に就職することになった。

 大放研では、同じ第一部(物理部門)に所属し、課は異なったが、居室は当初、第一部内の三つの課のメンバー全員が一つの大部屋を使っていた。播磨さんは放射線応用課でガンマ線を使う仕事をされ、私は放射線線源課で電子線を使う仕事をしていた。大放研に 1 年 8 カ月足らずおられたのち、播磨さんは結婚して東京工大へ移られた。木村研時代から 3 年あまり、私は常時、播磨さんの聡明で朗らかな話し声(京都弁での)に接してきた次第である。

 播磨さんは東京工大でガンマ線ビルドアップ・ファクターの経験式作成を進められ、他方、私は電子線の物質透過に関するいろいろな経験式を作成するようになった。対象はガンマ線と電子線と異なっていながらも、経験式作成という共通性のある仕事上、しばしば交流させて貰い、得るところが多かった。また、東工大の図書館には、自分の論文を引用してくれた論文を調べるのに便利な雑誌 "Science Citation Index" があることを彼女に教えて貰ったので、阪府大在職中には、東京での学会に出席した折に大抵その雑誌を見に行き、彼女の都合がつく時には会って話して来てもいた。

 近年、播磨さんは大阪で開催される大放研 OB & OG 会にほとんど欠かさず参加され、その折ごとに楽しく話をさせて貰った。昨年 5 月に同会でお目にかかったのが最後となった。その時、 A・M 君や私の日本物理学会誌への投稿のことを話して、後日私の投稿の掲載ページのコピーをメールで送ったが、返信はなく、東京へ帰られてから体調がよくないのかとも思っていたのだった。

 アメリカ原子力学会賞を受賞された播磨さんのすばらしい業績は、放射線遮蔽関連分野で末長く役立つことであろう。晩年には、放射線物理教育にも熱心に取り組んでおられたようである。長年のご好誼に深く感謝し、ご冥福を祈る。

 私は播磨さんの受賞対象となった論文を正確には知らない。グーグル・スカラーの検索で引用頻度の高い順に出た彼女の論文 5 編を以下に記しておく。
  1. Yoshiko Harima, "An historical review and current status of buildup factor calculations and applications." Radiat. Phys. Chem. Vol. 41, p. 631 (1993).
  2. Yukio Sakamoto, Shun-ichi Tanaka and Yoshiko Harima, "Interpolation of gamma-ray buildup factors for point isotropic source with respect to atomic number." Nucl. Sci. Eng. Vol. 100, p. 631 (1988).
  3. Yoshiko Harima, Shun-ichi Tanaka, Yukio Sakamoto and Hideo Hirayama, "Development of new gamma-ray buildup factor and application to shielding calculations." J. Nucl. Sci. Tech. Vol. 28, p. 74 (1991).
  4. Yoshiko Harima and Hideo Hirayama, "Detailed behavior of exposure buildup factor in stratified shields for plane-normal and point isotropic sources, including the effects of bremsstrahlung and fluorescent radiation." Nucl. Sci. Eng. Vol. 113, p. 367 (1993).
  5. Yoshiko Harima and Yasushi Nishiwaki, "An approximate transmission dose buildup factor for stratified slabs." J. Nucl. Sci. Tech. Vol. 6, p. 711 (1969).
 (2015 年 3 月 5 日、最終修正)

追記(2015 年 3 月 5 日)

 播磨さんが受けられた賞の詳細について、高エネルギー加速器研究機構の放射線遮蔽グループに所属して長年播磨さんと共同研究をして来られた平山英夫氏に尋ねたところ、播磨さんがその受賞について書かれた記事、『核データニュース』No. 41, pp. 1–11 (1992) のデジタルコピーを送って下さった(私も日本原子力研究開発機構からの受託研究をしていた関係で、当時『核データニュース』の配布を受けていたので、かつて、それを読んだことがあるのを、翌日になってようやく思い出した)。その記事によれば、播磨さんが受賞されたのは、"American Nuclear Society 1991 Radiation Protection and Shielding Division Professional Excellence Award" である。

 上記の記事には、その賞の歴代受賞者の紹介や授賞式の様子から、多くの人々の協力で進められたガンマ線ビルドアップ・ファクターの研究のことまでが詳しく述べてあり、文末には 25 編の関連論文が記載されている。播磨さんが中心になってまとめられたビルドアップ・ファクターは、"ANSI/ANS-6.4.3-1991: Gamma-Ray Attenuation Coefficients & Buildup Factors for Engineering Materials" に採用されたということである。

2015年2月26日木曜日

科学論文執筆の今昔 (Past and Present of Writing Scientific Papers)

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Duplicate copy of my paper typewritten and submitted to The Physical Review (published in 1967; this paper was also accepted as my thesis at Kyoto University) Red letters, typewriten later, show corrections made at the editorial office.
(和文説明は本文末に記載。次のイメージについても同じ。)


Post-print of the above paper recently made by LaTeX.

 投稿中の論文原稿のコピーはプレプリントと呼ばれ、それを出版前に同じ分野の研究者たちに配布する場合が多い。他方、閲読者による修正示唆などを取り入れた最終原稿の形のものはポストプリントと呼ばれる。学会や出版社は著作権上、印刷版そのもののコピーを著者自身といえどもウェブサイトで公開することを許可していない場合が多いが、ポストプリントの掲載はたいてい許可されている。

 最近、研究者の交流サイト ResearchGate を通じて、時折古い論文のコピーを請求される。しかし、それらの別刷りの残部は、いずれも紙が変色してきているので、スキャンしても、あまり綺麗なデジタル・コピーは作れない。そこで、LaTeX ソフト(高度な数式などを美しく書き出せるように開発されたもの。いまや、本やリポート、あらゆる分野の論文作成などにも広く利用されている。このソフトは、かつては有料だったが、いまは無料でダウンロードできる)によって、美しい PDF ファイルとして、ポストプリントを作り、それを ResearchGate サイトに載せておけば、読みたい人はダウンロードして、心地よく読めることになる。また、そうすることには次のような利点もある。昔は論文に挿入する図を烏口やレタリングセットを使って時間をかけて作成したので、論文印刷後に返却されたそれらの原図は、紙のままで保存してあった。それらをスキャンして、PDF ファイル作成に利用すれば、専門誌上に縮小印刷された図より見やすい。さらに、私自身、紙の原図を保存することも以後不要になる。

 いまは投稿自体が LaTeX あるいは Word と作図ソフトで執筆した PDF ファイルを電子メールで送付する時代だから、原稿はそのまま、デジタル・ファイルとして手元に残る。したがって、現今の研究者たちがポストプリントを作成するには、投稿後の修正点を書き換えるだけで済む。他方、私の研究初期の頃は、論文の文章をタイプライターで打ったので、文章のデジタル・ファイルもない。そこで、ポストプリント作成には、印刷された論文別刷りをスキャンしてデジタル化することから始めなければならない(現役の研究者ならば、所属機関が購入している専門誌の論文のデジタル・ファイルは、出版社のウェブサイトから無料でダウンロードできるのだが)。原稿をタイプライターと烏口で作った時代は、いまや遠い過去の話となった。

 上掲のイメージ 1 枚目は、いまから 48 年前の 1967 年に フィジカル・レビュー誌に掲載された私の論文(学位論文となった)のタイプ打ち原稿、第 1 ページ(アブストラクト部分。表題、氏名、所属は表紙としてページ番号なしで打った)のコピー。2 枚目は、その論文の、最近作成したポストプリント(こちらからダウンロードできる)。タイプ打ち原稿に赤字でのちにタイプ打ちしたのは、編集部で修正された箇所。英語は丁寧な修正を受けたので、自分の拙い癖がよく分かり、以後の論文執筆に大いに役立った。

2015年2月12日木曜日

「いきぶ」:幼児期の思い出 ("Ikibu": Memories of My Childhood)

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春を待つ桜並木。
Cherry trees waiting for spring.

 さる 2 月 7 日(土)の午後、フジテレビで『デューク・エイセス 冬の心を歌う』という番組があり、最後に相馬御風・作詞、弘田龍太郎・作曲の「春よ来い」が歌われた。♩春よ来い 早く来い/あるきはじめた みいちゃんが/…♩という歌詞である。

 私が 4、5 歳の頃から 9 歳まで住んでいた N 市の家の隣にも「みいちゃん」という、同い年の女の子がいて、小学校へ入る前には、よく一緒に遊んだ。近くに同年齢の男の子がいなかったことや、私が体が弱くて、静かな遊びを好んだことも原因となって、他にも二人の近所の女の子たちとよく遊んでいた。

 そのため、遊ぶときには、彼女たちに合わせて、「わたし」を一人称として使っていた。小学校(当時は「国民学校」といった)入学後まもなく、教室で休み時間にふと、「わたし」を使ったところ、ませた女の子たちから、「男の子は自分のことを、"ぼく" というのよ。いってごらん」などといわれた。

 次の機会にその子たちの前で自分のことをいうのに、「わたし」を使うまいと緊張したあまりだろうか、家で使っていた幼児語の一人称を、つい飛び出させてしまった。それは「いきぶ」という言葉だった。今度は、ませた女の子たちから、「自分のことを、面白い言葉でいったわね。なんといったの。もう一度いってごらん」などといわれた。私は幼稚園へ行かなかった(当時は小学校入学前に、皆が幼稚園へ行くとは限らなかった)ので、とてもウブな新一年生だったのだ。

 2004〜2005 年に NHK TV で「あなたも挑戦! ことばゲーム」という番組があり、その中に「ブヌヌでバナナ」というコーナーがあった。日本語の単語の各文字を、五十音表の上あるいは下へ一文字あるいは二文字ずつずらせて聞かされる言葉から、元の言葉を早く当てることを競うゲームである(果物、スポーツなどのヒントがあらかじめ与えられる)。

 「いきぶ」は、母か兄が私のことをいった「赤ん坊」の「あかぼ」の部分に対して、「ブヌヌでバナナ」のゲームに似た変化をさせたものである。いや、「ブヌヌでバナナ」式の規則正しい変化では、「いきば」でなければならない。したがって、正確には、「変化させた」というより、幼児的になまったというべきだろう。

 私より 6 歳年長だった兄は、私が 3 歳の時に死んでしまい、一人っ子の甘えん坊として育った私は、小学校へ入るまで長らく、母と話すときの一人称として、「いきぶ」を使っていたのである。

 N 市へ引っ越す少し前頃に、父が私のために、片仮名の五十音表を大きく書いてくれた。「アイウエオ」はすでにかなり知っていたが、父は「アカサタナハマヤラワ、イキシチニヒミイリヰ」と横に読んで、「タツオ君はこれも、もう得意だろう」といった。その時、私はまだ五十音表の横読みを覚えてはいなかった。しかし、私が「あか」を「いき」に変えて、「いきぶ」といっていたことから、父は私が横読みを知っていると想像したのではないかと、ずっとのちになって思ったことであった。

2015年2月5日木曜日

高梁、倉敷への1日旅行 (One-Day Trip to Takahashi and Kurashiki Cities)

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Photos show views in Kurashiki.]



倉敷アイビースクエア。NHK連続テレビ小説「マッサン」で、スコットランド・ロンモート蒸溜所入口のロケ地として使用された。


白壁の家が並ぶ倉敷美観地区の一部。


大原美術館付近の倉敷川両岸。中央の赤茶色の塀の家は、大原家の旧別邸、有隣荘。


倉敷川で泳ぐ白鳥。


大原美術館入口の夜景。扉のすぐ上の照明は、同美術館創設に貢献した画家・児島虎次郎がヨーロッパから買ってきたものという。

 2 月 4 日、新幹線とバスを使っての、「ようこそミュージアム 倉敷 大原美術館」と名付けられた 1 日旅行に妻と参加した。参加者総勢 15 名。そのうち男性は私を含めて3名。午前中に、大原美術館創設に貢献した画家・児島虎次郎を顕彰する高梁市成羽美術館に寄り、館長から児島の業績と生涯の話を聞く。しかし、同美術館は目下全館を使って企画展「三沢厚彦 ANIMALS 2015 in 成羽」を開催中で、児島の絵は倉敷で見て下さいということである。

 午後は、まず、大原美術館で本館ほか4館の入場券を貰い、本館閉館後の学芸員とめぐる貸切鑑賞まで自由時間。その間に、倉敷アイビースクエア内の児島虎次郎記念館を見て、大原美術館隣のカフェ「エル・グレコ」で一休みし、大原美術館分館を見学。本館では説明を聞きながら、2 時間近く、ゆっくり鑑賞できた。同館は以前にも訪れたことがあるが、設立当初にはありながら、当時はよそへ行っていた絵や、その後新しく購入された絵もあり、大いに楽しめた。帰途、岡山から、「のぞみ」に初めて乗車した。帰宅は午後 10 時過ぎ。

2015年2月1日日曜日

2015 年 1 月 1 日までの記事へのエム・ワイ君の感想 5 (M.Y's Comments on My Blog Posts until January 1, 2015 -5-)

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寒い日のウォーキング途中、神社の灯篭のあかりに引き寄せられた。
2015 年 1 月 13 日撮影。
In the course of walking on a cold day, I was attracted to the light of a lantern in the shrine.
The photo was taken on January 13, 2015.

2015 年 1 月 1 日までの記事へのエム・ワイ君の感想 5

 M・Y 君から貰った "Ted's Coffeehouse 2" 2015 年 1 月 1 日までの記事への感想の続きを紹介する。



3. A・M 君へのメール

(2) 2014 年 12 月 11 日付け返信
A・M 君
 一昨日はご丁寧なお返事をいただき、ありがとうございました。その中に、来月、NPO法人「あいんしゅたいん」主催の講演会で日本とドイツの原爆研究についてお話をされるとありましたので、以前 online で購入しました "Scientific American" 誌の特集号 "The Science of War: Nuclear History" (2002) のコピーを圧縮ファイルでお送りします。多少なりともご参考になるところがあれば幸いです。
 T・T
 ここで言うドイツの原爆研究とは、M 君が日本物理学会誌 Vol. 69, No. 4, p. 227 (2014) の「歴史の小径」に投稿された「ハイゼンベルグ原子炉の謎」に関することと思います[引用者の注:「ハイゼンベルグ」と「ハイゼンベルク」の表記が混在しますが、それぞれ M・Y 君の引用先原文のままとなっています]。5 月 21 日付けの『サイエンスポータル』に「臨界寸前だったハイゼンベルク原子炉」という記事で紹介されていました。この記事の要所を紹介します。
 ウラン核分裂は 1938 年末にドイツで発見された。その直後に起こった第 2 次世界大戦中ナチスが原爆を開発するのではないか、という恐怖が米英の連合国に強かった。それが米国の原爆開発の誘引になったことはよく知られている。ドイツが原爆を開発するとなれば、その中心人物とみられていたのは、量子力学の建設者で、不確定性原理を提唱した理論物理学者のハイゼンベルクだった。ハイゼンベルクらは、ドイツ南西部の山間の美しい山あいの町、ハイガーロッホにある教会の地下の洞窟に重水炉を建設し、終戦直前の 45 年 2 月末に実験したが、核分裂の連鎖反応が維持する臨界に達しなかった。ナチスの降伏直前に米国が送り込んだアルソス特殊部隊によって 45 年 4 月に、近くの畑に埋められているのを接収され、徹底的に調べられた。現在は再現された炉心が現地の博物館で公開されている。M 氏らは、この構造をもとに計算して、原子炉がほんの少し大きければ、臨界に達していたとする結果をまとめ、日本物理学会誌 4 月号に連名で「ハイゼンベルグ原子炉の謎」とし題して報告している。第 2 次世界大戦前から、重水のほとんどはノルウエーのリューカンにある工場で製造され、備蓄されていた。原爆開発と関連して、この重水は最も重要な戦略物質となり、連合国とナチスの間で激しい争脱戦が繰り広げられた。1943 年 2 月に実際にあったノルウエーの 6 人の決死隊による爆破作業はカーク・ダグラス主演の映画「テレマークの要塞」にも描かれた。こうした連合国側の必死の重水阻止作戦が奏功し、ハイゼンベルク原子炉の臨界を止めたといえる。ハイゼンベルクが 1941 年秋にコペンハーゲンのボーア宅を訪れて会談した実話は 89 年に戯曲「コペンハーゲン」に描かれ、日本も含め世界中で上演された。ドイツの原爆計画や大戦中のハイゼンベルクの活動は、本人が多くを語らなかったこともあり、謎がまだ多いと M 氏は話している。

 M 君は「ハイゼンベルグ原子炉の謎」において、次のようなことも述べています。
一方ボーアは上記の書簡で、ハイゼンベルグが『ドイツは必ず勝利する。また我々は原爆を開発するためあらゆる手段を取っている』と述べたことに衝撃を受けた」と記している。さらに「『ハイゼンベルグがナチス当局と共謀し、おそらく両陣営に科学者たちがそれぞれの政府に従わない合意を提案するふりを装って連合国の原子爆弾開発計画を頓挫させるためボーアを巧みに操ろうとする含みがあったとボーアは解釈している』とアクゼルは記している。ハイゼンベルグがこの会談で何を目的として何を述べたかは歴史上の大きな謎としていまだに残されたままである。
 M 君は本稿の執筆について、私信で「ハイゼンベルグと言えば物理学を学んだ人には almost God のように思われていますので、手に余るテーマでしたが、京大原子核工学の K さんに原子炉物理学を教えてもらい、I 君にモンテカルロの計算をしてもらって、やっと書き上げることが出来た次第です。短い文章でしたが、随分時間がかかってしまい、思いのほか苦労しました」と述懐していました。

 筆者から M 君に送られた "Scientific American" 誌の特集号 "The Science of War: Nuclear History" は、 事実を真摯に探究される M 君になんらかの参考となることでしょう。(完)