2017年7月25日火曜日

金沢での墓参 2017 -4- (Graves Visit in Kanazawa, 2017 -4-)

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上から、東滝(上に立つのは朝鮮型灯籠)、庭園上段の池[灑雪亭(さいせつてい)露地付近]、灑雪亭茶室(金沢市内に現存する最も古い茶室)、レストラン「かなざわ玉泉邸」入口。
Views of Gyokusen-en Garden, Kanazawa, the inside of Sai-setsu-tei tearoom (the 3rd picture), and the endtrance to the restaurant Gyokusentei (bottom).

 ところで、私の高校同期生に、多くの男子生徒の憧れの的で、学業も飛び切り優秀な女生徒がいた。私は高校時代の日記中で彼女に Vicky のニックネームを与え、彼女の試験結果が私より優っていた悔しさや、彼女が国語の朗読中に自らの読み違えがおかしくて笑いが止まらなくなったことや、彼女が珍しく遅刻して教室に飛び込み「のびたー」といったことなどまでを、つぶさに記していた。

 さる 4 月に開催された同期会の席上、私はその Vicky こと S・T さんに彼女の小学生時代について尋ねた。すると彼女は、医師だった父君が彼女の小学校 2 年生の春に亡くなり、経済的な事情で、先祖から伝わっていた玉泉園を母君が手放したこと、そして、高校生になってもこの思い出のために春は悲しい季節だったことを、参加者一同に聞かせてくれた。

 玉泉園のリーフレットには、「明治初期に脇田家が移住した後、数回の転売を経て西田家に渡り、…」とある。「数回の転売」の中に、上記の痛ましい話が潜んでいるのである。なお、1971 年に公開となる以前から、私はこの庭園の名を知っていたように思う。私と一緒に大連から引き揚げた伯母が、兼六坂沿いにあって玉泉園が見下ろせるほどの近くだった家を一時借りて住んでいたせいだろうか。

 今回も含めて 3 回にわたって紹介した写真のほかにも何枚かの庭園の写真を撮った後、静かな雰囲気のレストラン「かなざわ玉泉邸」へ入った。日本海でとれた魚介類や加賀野菜などの新鮮な材料を使った料理が次々に運ばれて来て、郷里の味を存分に楽しんだ。(完)

2017年7月24日月曜日

金沢での墓参 2017 -3- (Graves Visit in Kanazawa, 2017 -3-)

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上から、玉泉園・本庭の中心部(主庭池付近)、寒雲亭茶室(写)、寒雲亭露地付近、東庭。
Views of Gyokusen-en Garden, Kanazawa, and Kan-un-tei tearoom (replica) (the 2nd picture).

 玉泉園は、総面積約 2,370 平方メートル(約 720 坪)で、兼六園(11 万 7 千平方メートル)よりはるかに小規模ながら、それよりも 120 年近く古いという歴史を誇っている。崖地を利用した上下 2 段式の池泉回遊式庭園で、本庭、西庭、東庭の 3 庭からなる。

 前回述べた「玉澗流」という庭園の特色は、
  1. 築山を二つ設けてある、
  2. 築山の間に滝を組んである、
  3. 滝の上部に石橋(通天橋)を組んである、
  4. 石橋の上部は洞窟式になっている、
という点にあり、玉泉園はこの 4 特色を全て備えているそうだ(注)。滝の写真は次回に登場する。(つづく)

 注:以上の記述は、「かなざわ玉泉邸」発行のリーフレット『石川県指定名勝 玉泉園』を主に参考にした。

2017年7月23日日曜日

金沢での墓参 2017 -2- (Graves Visit in Kanazawa, 2017 -2-)

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上から、玉泉園の西庭、織部型隠れ切支丹灯籠(全体を十字架に見立て、下部に聖母マリア像が刻まれている)、筒胴(ずんどう)型飾り手水鉢、水芭蕉群生地。
Views of Gyokusen-en Garden, Kanazawa, and its ornaments.

 金沢での 2 日目には、ホテルで午前 10 時半頃までゆっくりしてから、金沢駅東口を出発する「兼六園シャトル」を利用した。このバスの料金は、土・日・祝日は半額で、当日は幸い、たまたま土曜日だった。7 番目の停留所「兼六園下・金沢城(観光物産館前)」で下車し、観光物産館で土産物を物色した後、兼六坂を隔てて兼六園と並ぶ玉泉園へ向かう。同園に隣接する「かなざわ玉泉邸」での昼食を予約していたので、入園料は不要である。

 玉泉園は、加賀前田藩の重臣・脇田家の庭園として、約 100 年を費やして完成したという。その名は、加賀藩二代藩主夫人「玉泉院」に由来し、幻の様式とされる「玉澗(ぎょくかん)流」 の築庭による、由緒正しい金沢の名勝である。

 上掲の写真は、いずれも玉泉園の入り口近くで撮ったもので、次回以降にも掲載する写真の場所の、園内での位置は、ウェブページ「玉泉園の見どころ」の最下部にある地図で知ることができる。その地図内の番号または地図の右にある名称をクリックすると、写真と詳細説明を見ることもできる(番号 4 は、地図のすぐ上に写真があるので、リンクが張られていない。同一ページ内でもリンクする手はあるのだが、ウェブページ作成者は、その必要がないと思ったのだろう)。ただし、それらの写真を見て貰うと、私の写真の拙さがバレることになる。(つづく)

2017年7月19日水曜日

金沢での墓参 2017 -1- (Graves Visit in Kanazawa, 2017 -1-)

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ホテル日航金沢の 18 階の部屋から見下ろした JR 金沢駅周辺のスケッチ。
Sketch around JR Kanazawa station looked down from an 18th-floor room of Hotel Nikko Kanazawa.

 例年は妻と二人で行く金沢での墓参に、今年は長女夫妻が同行してくれた。金沢へ着いてまず訪れるのは、妻の先祖代々の墓のある野田山である。駅前のホテルに荷物を預けたあと、タクシーで向かうのも例年通りならば、野田山墓地の入り口は 2 カ所あるので、運転手に「自衛隊(正確には陸上自衛隊金沢駐屯地)の前を通って行く方」と説明するのも、いつものことである。それで分かる運転手もいれば、分からない運転手もいる。今回、その入り口に掲示されている地図を注意して見ると、そこは「野田口」という覚えやすい名称だった。しかし、その名称で運転手が分かるとも限らない。

 金沢では旧暦にちなんで 7 月 15 日を中心とした期間に盆の行事が行われるので、その期間内には、入り口から野田山墓地内を巡回する無料の小型バスを利用でき、墓地事務所前まではそれで行ける。しかし、そこから妻の先祖代々の墓までは約 140 段の石段を登る必要がある。2 年前に膝痛を起こして以来、そこを登るのが不安になった私だが、今年も無事に参拝できた。

 続いて、私の両親の墓のある寺町の寺を訪れると、住職が今年 3 月に亡くなったことを、その長男である新住職から聞かされた。前住職は私より少し若いのだろうと思っていたが、やはりそうで、新住職に聞くと、昭和 15 (1937) 年生まれだったという。最後に野町の寺に私の母方の先祖の墓 2 基に参って、ホテルへ戻った。例年宿泊する金沢都ホテルが建て替えのため営業休止中で、ホテル日航金沢を初めて利用した。JR 金沢駅東側出口前右手に立つ高層ビルが同ホテルである。翌朝、その 18 階の部屋から見下ろした JR 金沢駅周辺の眺めをスケッチした(上掲のイメージ)。(つづく)

2017年7月18日火曜日

高校時代の日記から (From the Diary of Senior High School Days)

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高校 2 年生の時、物理のレッスンクラス一同で変電所を見学した際、山村先生が撮影。中央の列左から 3 人目が筆者。前列右端は変電所の方。
Lesson class of physics, the second year at Kanazawa Kindai Senior High School; taken by the teacher, Mr. Yamamura, on the occasion of visiting the transformer substation near the school, 1952. The third boy from left in the middle row is the author.

 私が卒業した金沢菫台高校は、それ以前には金沢商業という名の旧制中等学校だった。そして、菫台高校として 10 年間続いたのち、金沢商業高校に変わった。そこで、同窓会は「金商菫台同窓会」と名付けられている。その関西支部は約 10 年前に解散の危機に陥ったが、再建して、今年、再建 10 周年を迎えた。これを機会に、同支部では『金商菫台同窓会関西支部再建 10 周年記念誌(2007〜2017)』という冊子をさる 6 月の総会に合わせて発行した。表紙には関西 6 都府県の各名所のカラー写真を載せた、B5 版・本文 46 ページの立派な冊子である。作成に当たって、「母校・友そして故郷 懐かしき想い出」という範疇での寄稿が、会費を払って登録している全会員に求められ、10 余名の有志が寄稿した。そこに上掲の写真とともに掲載された私の文を以下に引用する。



 高校時代の思い出を書こうとしたが、卒業から 63 年も経ったいま、何らかの思い出を活写することは難しいと気づいた。そこで、高校時代の日記から、2 年生の初めの数日分を、若干手直しして紹介することにする。

 1952 年 4 月 14 日(月)雨
 20 名中 18 名が男生徒である物理の時間には、山村先生から 1 年間に 10 回テストをするという予告や、ギリシャ文字の説明があった。宮本先生の世界史では、自らに相づちを打つようにしばしば発せられる「えゝ」や、歴史という字の話(史という字を、交差した二本の足に巻物が支えられているように黒板に書かれた)を聞いた。国語甲では、桑山先生が昨年度より荘重な雰囲気だった。三野・山上両君他、集まる面々を見ると、これは最も優秀なレッスン・クラスといえそうだ。英語も昨年度に続き、正村先生に習うことになる。この時間、物理や国語甲とは逆に女生徒が多数で、男生徒は隅に押しやられている。

 1952 年 4 月 17 日(木)晴れ
 秋山校長の講義は分かりやすかったが、最初の課の最初の一文で 1 時間の大部分をかけて教えられた文法事項は、よく知っていることばかりだった。体操は、使い込まれたバットのような印象を受ける稲垣先生に習うことになった。解析 II の時間、三野君との間で先日来問題になっていた整数の 4 乗和を求める式に違いが生じた原因を調べる内職と、「あるいは」を「あるひは」と発音される分校先生の講義に耳を貸すのとを、半々にした。
 選挙規則第四条違反があったため、昨日、選挙管理員の再選挙があったが、またも、ぼくが選ばれてしまい、きょうはその役目をした。言葉遣いと態度がわれながら不愉快なものになったが、両隣のホームルームより数分早く済ませるという手際でやってのけた。

 1952 年 4 月 21 日(月)晴れ
 放課後、今年度初の新聞クラブの会合がある。新入部した 6 名の 1 年生は、同じような背格好で、同じようにきちんとした黒い学生服を着ている。全員、兼六中出身だそうだ。——たいへんなことだ。どうしても、しっかりやらなければならない。[注=私が編集長に選ばれたのだ。翌年度、私たち 3 年になったメンバーの一同が別々のクラブへ移ったため、人数不足でクラブ不成立となり、生徒会紙発行には新聞委員会が作られた。したがって、私はクラブ時代最後の編集長だった。]

 1952 年 4 月 22 日(火)晴れ
 漢文は、あだ名がエノケンの瀬川先生だ。「村田春海、和文ヲ結構スルニ、法ヲ漢文ニ取ル」を読まされた村田君が、自分と同姓の国学者名を「そんでんしゅんかい」と読んだのには笑わされた。

 [日記に書いた時点からすれば時効でもあろうが、登場した方がたに失礼があったとすれば、お許し願いたい。]