2017年6月18日日曜日

大阪・能勢町へ (Went to Nose-cho, Osaka)

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能勢町の宿でのスケッチ。
A sketch made at a hotel in Nose-cho.

 白内障手術後の保養のため、さる 6 月 15 日、大阪・能勢町にある旅館「能勢温泉」で一泊する旅に妻と出かけた。住んでいる所と同じ大阪府下の町ながら、能勢町を訪れたことは滅多になかったので、能勢電鉄の車両や同電鉄・山下駅からの宿の送迎バスの、窓からの眺めも珍しかった。

 夜、宿泊客を何組かに分けて、宿のバスで少し出かけ、ホタルを見る催しがあった。ホタル見物が早く終わったグループだろうか、星を観察する催しに出かけている人たちもあった。ニュージーランドへ旅行した際にも、同様の催しを経験した。ただし、ニュージーランドで見たのは日本のホタルと異なり、土ボタルとう昆虫で、幼虫が洞窟の中で青白く発光するのである。能勢のホタルは、川ぶちの茂みにたくさん飛び交いながら発光していた。私は白内障手術後これまでの強度近視用とは異なる弱近視用の眼鏡が必要となったが、それをまだ作っていない。したがって、裸眼で見たホタルの光は、他の人たちが見たよりもかなりぼやけて見えていたと思うが…。

 「能勢温泉」は「かんぽの宿」を引き継いで 10 周年になるということで、宿泊客に一人当たり約 300 g の地元産の米の土産がついた。そういえば、同旅館のホームページや宿泊・送迎などのシステムが「かんぽの宿」にそっくりだった。

 宿では例によって、窓からの風景をペンと色鉛筆で 1 号サイズのスケッチブックに描いた(上掲のイメージ)。白内障手術前と着彩がいくらか変わったとすれば、黄緑色が以前よりも明るく鮮やかに見え、色鉛筆の黄緑では不足で、黄色を多く重ねたことかと思った。しかし、帰宅後、以前のスケッチを見ると、それらでも結構黄色を重ねていたので、それほど大きな変化はないといってよさそうである。

 翌日の帰途、「天王寺都ホテル」で昼食をして来た。墓参の折に愛用していた「金沢都ホテル」が改築で 3 年間使えないので、ポイント・カードに溜まっているポイントが失効しないように、同じ系列のホテルを利用しておくためである。昼食のメニューはバイキングしかなく、妻も私もついスウィーツを多く取り過ぎて、家では当分スウィーツ類をなしにしなければ、と話し合っている。

2017年6月11日日曜日

T・K 君へ:白内障手術のこと (To T. K.: About My Cataract Surgery)

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和文写真説明は本文を参照されたい。
Flowers of clematis in my yard; taken on May 3, 2017.

T・K 君

 梅雨の候となりましたが、お元気でお過ごしでしょうか。先月は素早いご返信をいただき、ありがとうございました。

  上掲の写真は、右に見える貴君から貰ったモミジの木と、左のレンギョウの木との両方につるを這わせたテッセンが、一度に 14 輪(他の花の影にほとんど隠れている花も入れて)の花を咲かせた、わが家では珍しい光景です。先月初めに 2 階の窓から撮りました。今月に入ってからまた、9 輪の花が咲きましたが、どの花もやや小ぶりで、花弁も斑入りのようになり、これほど見事な写真は撮れませんでした。

 さて、貴君も白内障の疑いがあるとのこと、いずれ手術をされる時のために、私の経験をお知らせします。

 一昨年の 12 月に、そろそろ白内障になっていないかと思い、近くの眼科医で検診を受けました。すると、左目がもう手術をしてもよい状況だといわれました。ただし、強度近視なので、手術するならメガネの関係で、両目を同時にするべきだということでした。気候のよい 4 月にでも手術を受けようと思っていたところ、妻が黄斑上膜(網膜前膜または黄斑前膜とも呼ばれます)という網膜上の老化による病気(J・M 君が先日手術をすると書いて来たのと同じもの)の手術を急ぐことになり、昨年 4 月には妻がその手術と、ついでに、あまり進んでいなかった白内障の手術も受けましたので、私は今年に延ばした次第です。

  手術前の私の目の状況は、左目で見たときは、右目で見たときよりも全体にやや薄暗く、メガネの度も合わなくなって来ている、という感じでした。今年3月に、手術する病院への紹介状を貰うため、再度近くの眼科医へ行くと、右目も左目に追いつくぐらいに白内障が進んで来ているといわれました。

 手術は妻も私も、眼科の充実していることで全国的にも有名な大阪労災病院(堺市内にあります)で受けました。私の場合、2 週間の間をおいて、左、右の順で、それぞれ一泊入院での手術でした。

 手術室前での準備時間を入れて、病室を出てから病室へ戻るまでが 30 分ほどで、正味の手術時間は、自分では時計を見ていませんが、5 分程度ということでした。局部麻酔は、目薬のように麻酔薬を垂らすので、その際の痛みもなく、手術中は多少圧力のようなものを感じることはありましたが、痛みは全くありませんでした。病室へ戻ってから 1 時間はベッドで安静にしていることが必要でしたが、あとは起き上がって動くことも出来ました。翌朝には手術した目のカバーも外され、すぐに視力の改善したことが実感出来ます(視力の回復の速さには個人差があるということですが)。朝食後に診察があって、退院となりました。

 手術で結晶体に替えて挿入する眼内レンズには、単焦点、多焦点などのものがありますが、健康保険が適用されるのは単焦点レンズだけで、また、これで十分だと思います。単焦点にも、近、中、遠焦点のものがあるそうですが、手術担当医は私に、これまでの生活と大きな差が出ないようにと、近焦点の中でも焦点距離 30 cm のものを勧めて、「読書に最適です」といってくれました。私が「パソコンもよく使います」というと、「では、50 cm にしましょう」といってくれました。結果的には、これで大変よかったと思っています。

 目下、裸眼の視力は、0.2 ないし 0.3(左右で少し異なり、また術後の日数によっても少し変わります)ですが、矯正視力は両目とも1.2です(定年退職後間もない頃に近眼鏡を更新した際には、1.0 が出なかったと思います)。そのうちに遠くを見るためのメガネを作る予定ですが、外出時にも、遠くの文字を読もうとしたり、遠くから来る人の顔を認識しようとしたりしなければ、メガネなしでもそれほど不自由はなさそうです。屋内生活では、32 インチ・テレビ画面の小さめの文字を見る必要のある時に、1.5 m 程度までは近づかなければならないのが不便といえば不便なだけで、メガネは全く不要といえます。

 読書も楽になりましたが、長年の癖で、かけてもいないメガネを触ろうとしたり、顔を洗うときなどに外そうとしたりする仕草から抜けきれないのが、われながら滑稽です。

 白内障手術を済ませた人が視野が明るくなったというのを聞き、手術前には、私は視野がまだそれほど暗くなっていないから、そういう感じはしないだろうと思っていました。しかし、確かに、術後は周囲がずいぶん明るくなりました。そして、白いものが純白に見えるさまは、「何年もクリーニングに出していない薄汚れたカーテンも真っ白に見える」と冗談をいっているほどです。

 そのほか、明るい青色と、黄色とが鮮やかに見えるようになりました。色感がこれまでと異なるのは、眼内レンズの特性だろうかとも思いました。しかし、インターネットで調べてみると、モネが 1900 年(60 歳)に描いた「睡蓮の庭」と、白内障に苦しんでいた 1923 年(83 歳)に同じ場所を描いた「ジベルニーの日本風歩道橋」を載せて、「モネの絵のタッチが年とともに変化してきた原因は、…中略…青系の波長の短い光が混濁した水晶体を通らなくなったために、網膜に到達する光が赤・黄系の色だけになり、全体に黄色味がかった色になったから」と説明しているページがありました。手術によって本来の見え方に戻ると、青色が目立つように感じることがこれで分かります。

 術後に黄色が鮮やかに見えるのも、「全体に黄色味がかった色」に見えていた原因が除かれれば、本来黄色い部分が術前よりも際立ってくるということでしょう。鏡で見る自分の顔や、インターネットのブログ、ツイッター、フェイスブックなどの自分のページに載せている顔写真の中の黄色が目立ってきて、なるほど、日本人は黄色人種だ、とも思わされています。

 長女はモネの絵と白内障の話を知っていて、私の絵がどう変わるか楽しみだといっていましたが、私の白内障はモネの場合ほどに進んでいなかったので、絵の特徴が変わりはしないでしょう。軽い白内障の手術では、色感が変わったといっても、描く対象と絵の具の色が同様に少しだけ変わるのですから、同じ風景を描いた時の着彩は、手術前後で同じになるはずです。

 以上、多少なりともご参考になれば幸いです。

 2017年6月8日

 T・T



 ブログ記事への注:「モネの絵のタッチが年とともに変化してきた原因は、…」という説明は、東京逓信病院の「白内障ではどのように見える?」というウェブページによる。なお、モネの絵における白内障の影響については、次の英文ウェブページにも記述が見られる。

2017年5月15日月曜日

ラジオに親しんで (Listening to Radio Programs)

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キショウブ、わが家の庭で、2017 年 5 月 15 日撮影。
Iris pseudacorus (yellow iris); taken on May 15, 2017 in my yard.

ラジオに親しんで

 白内障手術の退院時に貰った「退院後の生活について」というリーフレットに、「テレビ・読書・パソコン:目が疲れない程度にしてください」とあったので、最近は読書・パソコンを控えめにしている(テレビは普段からあまり多く見ないほうである)。特に、まず左目だけの手術が終わって右目の手術を待っていた 2 週間は、左目は焦点距離 50 cm の人工レンズを入れたため、裸眼で読書・パソコンに適した状態になったものの、右目はメガネがなくてはよく見えない強度近視のままという、いわば独眼状態で、読書・パソコンは不便だったこともあり、もっぱらラジオを聞いて過ごした。

 格別親しんだ番組は、いずれも NHK 第 2 の、『高校講座』のうち「国語総合」、「現代文」、「古典」、そして、『カルチャーラジオ 科学と人間』であった。これらの番組は、インターネットでも随時聞けるようになっていて便利である(前記の『』付き題名のリンクからアクセス出来る)。「古典」の講座で心が引かれたのは、『古今著聞集』の「小式部内侍が大江山の歌の事」と『徒然草』の「相模守時頼の母は」という話だった。

 「小式部内侍…」の概略は、次の通りである。和泉式部が藤原保昌の妻として丹後の国に下っていた時、京で歌合せがあり、その娘、小式部内侍が歌合せの詠み手として選ばれて歌を詠むことになった。藤原定頼・中納言が小式部内侍をからかって、「母上の和泉式部の助けがなくてお困りでしょう」と声をかけた。すると、小式部内侍は、「大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天橋立」(大江山を越え、生野という所を通って行く、丹後への道のりは遠いので、まだ天橋立を訪れたことはなく、母のいる丹後からの便りもございません)と詠んだので、定頼は驚いて逃げてしまった。

 「相模守時頼の母は」は、相模守時頼の母、松下禅尼が障子を全部新しく張り替えないで、破損しているところだけを修繕し、物はこのようにして使うものだと時頼に気づかせようとしたという内容である。(以上の概略は、インターネット上にある講座の「学習メモ」を参考にした。)

 私はこれらの話を幼い頃に母から聞かされたことを思い出した。私が小学校 3 年生だった春に父が死亡し、その秋から母と大連へ移って、母の両親である祖父母、母の姉である伯母、そして、その娘である従姉と一緒に暮らすようになった(従兄もいたが、まもなく海軍飛行予科練習生に召集された)。そして、私は伯母のほうがこのような話を若い頃からよく知っている「文学少女」だと思って来た。しかし、上記の話を母が聞かせてくれたことを思えば、母も結構「文学少女」だったというか、伯母と同じ女学校で習った教材の話をよく覚えていたのである。

 大連へ移って以後、私が母から文学的な話をほとんど聞くことがなかった理由として、次のようなことが考えられる。一つには、母が伯母の知識に遠慮して、文学的な話を私にしなくなったということである。引き揚げ後は、伯母たちと私たち母子は別々の家に間借りしたが、互いに近くに住んで、しょっちゅう行き来し、伯母は私によく話しかけてくれていた。二つには、母は生活に忙しくて、私にそういう話をして聞かせる余裕がなくなったということである。伯母は病弱だったので、大連では母が家事などの大部分をしていた。また、祖母は引き揚げを目前にして大連で亡くなったが、一緒に引き揚げた祖父は「寝たきり」状態に近く、短期間を除いて、私たち母子と同居し、母は学校に勤めながらその世話をしていたのだった。


 (2017 年 5 月 16 日、一部修正追加)

2017年5月13日土曜日

T・K 君へ、2017 年 5 月 (To T. K., May 2017)

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上:アリウム・ロゼウム、下:バイカウツギ、どちらもわが家の庭で、2017 年 5 月 6 日撮影。
Upper, Alliumu roseum (rosy garlic); Lower, Philadelphus satsumi (mock orange); both photos taken in my yard on May 6, 2017.

T・K 君へ、2017 年 5 月

T・K 君

 いつのまにか「新緑の候」と書くのも遅いような季節となりました。いかがお過ごしでしょうか。

 近年は 4 月に貴君にお目にかかる計画をして来ましたが、今年の 4 月は気候不順だったこと、私が東京での菫台高校同期・関東在住者会に 2 泊 3 日で行って来たこと、そして 4 月 18 日と 5 月 2 日にそれぞれ 1 泊入院で両眼の白内障手術をしたことなどで、それが出来ませんでした。

 白内障手術では、従来強度近視(焦点距離 1 cm)だったため、極端な相違が出ないようにと、50 cm という近焦点の人工レンズを勧められました。家の中の暮らしにはメガネは不要になりましたが(中学 3 年の初め以来のことです)、外出にはこれまでよりもずっと度の弱いものでしょうが、近視用メガネが必要になります。術後 1〜2ヵ月経過して、視力が安定してからメガネを作るようにということなので、それまでは遠くへの外出が出来ません。

 J・M 君も私と一緒に貴君に会うことを楽しみにしていると思い、まだしばらくはその予定が立てられないことをメールで伝えました。すると、彼も「近々黄斑上膜と白内障の手術をする予定で、阪大病院の予約待ちをしているところです」と書いて来ました。

 東京での同期会は、このところ R・M、A・S(旧姓・K)の両君が幹事になって続いて来て、私が欠席した昨年で終わりということになったのでしたが、今年は R・M 君の世話で、4 月 5 日、レストラン「銀座の金沢」において、特別に開催されました。そして、出来れば明年以後も同じ場所で「昼食会」という気軽な名称で続けようということになりました。7 名が参加しましたが、男性 1 名と女性 2 名が間近になって体調の関係で出席出来なくなったということでした。

 私は視力の安定するまで、目を疲れさせないように努めています。そのため、これまではパソコンに向かっている時間がいかにも多過ぎたことに気づき、よい反省の機会を得たと思っています。来たる 16 日には、近くの西文化会館で「歌声ひろば」(従来は「うたごえ喫茶」という名でした。リーダー役の女性——若く見える元気な人でしたが、2〜3 年前に還暦を迎えたといっていました——が引退したのか、今年から、ピアノ伴奏を主にしていた若手の男性だけが来演することになり、名称が変わりました)を楽しんで来る予定です。

 貴君も高齢化に負けないで、元気な日々をお過ごしください。いずれお目にかかる日を楽しみにしています。

 2017 年 5 月 11 日

 T・T

2017年4月16日日曜日

2017 年 4 月、東京で (In Tokyo, April 2017)

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上:東京・北の丸公園で。下:千鳥ヶ淵の桜。この日は七分咲き。どちらも、4 月 5 日撮影。
Upper: Kitanomaru Park, Tokyo. Lower: Cherry blossoms in Chidori-ga-fuchi Moat. Blossoms were open about 70% on that day. Both the photos were taken on April 5.

 金沢菫台高校第 5 期生関東在住者の同窓会が、昨 2017 年 4 月まで毎年東京で開催され、一旦終了となった。しかし、昨年は、さまざまな理由で出席できなかった者が多かったことや、夫君の介護で長年出席できなかった女性(S・T さん)が夫君の他界で出席可能な条件が整ったこともあって、金沢のおいしい料理をつつきながら懇親をしたいと、今年も開催された。場所は銀座 1 丁目の「Dining Gallery 銀座の金沢」

 私は前日の 4 月 4 日に上京し、宿泊する学士会館で、夕方から大時代の友人 M・Y、A・M 両君と歓談した。A・M 君はわれわれの恩師の先代、荒勝文策教授の業績を本にまとめることになった経緯や、準備中の原稿について話してくれた。われわれの学生時代の実験や旧友たちの話も出て、楽しいひと時だった。

 高校同窓会当日は、北の丸公園や千鳥ヶ淵緑道を散策してから会場へ向かった。散策中に、方角を勘違いしたりして、学士会館を出てから会場へ行くための地下鉄に乗るまで、久しぶりに履いた先の細い革靴で、1時間半も歩いた。地下鉄を降りてからも、会場のあるビルを探すのに、南北へ少しばかり行き過ぎを繰り返し、結構歩きいたが、到着は幹事君に次いで 2 番目だった。出席予定の女性 2 名が健康上の緊急事態でドタキャンとなり、7 名の参加(うち女性 2 名)だったが、参加者たちはみな大変元気で、賑やかに語り合った。明年以降も、同じ会場で「昼食会」として続けようということになった。

 6 日の午前中、大連嶺前小学校の同期生、H・O 君が学士会館へ会いに来てくれた。喫茶室でミルクティーを飲みながら小一時間の会話を楽しんだ。彼は、嶺前同期会で何年も前に伊豆へ旅行した頃と変わりないほど、私が元気そうだといってくれた。彼が関わって昨年 12 月に横浜で開催された『マチュピチュの出会いと古代アンデス展』について、彼の知人が『さきたま新聞』に書いた記事のコピーを貰った。ノンフィクション作家である O 君の「私はこんどの裏方としての仕事こそ我がライフワークだったのだと思い返したのである」という言葉などが引用されている。

 追記:例年このブログサイトに掲載しているわが家の庭や近隣の公園の春の植物の写真は、今年はフェイスブックに掲載した。下記のリンク先をご覧いただければ幸いである。