2020年9月8日火曜日

水彩画『飯豊連峰大日岳』 (My Watercolor "Mt. Dainichi of Iide Mountain Range")

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水彩画『飯豊連峰大日岳』
My watercolor "Mt. Dainichi of Iide Mountain Range"

 来たる 2020 年 10 月 26 日(月)から 28 日(水)まで、堺市役所本館エントランスホールで開催される『美交会展・34』(主催・堺の文化をすすめる市民の会)に出品するつもりで描いていた水彩画を、9 月 8 日に完成した(上掲の写真)。ただし、美交会展の出品申し込み様式がまだ届かないことからすれば、今年はコロナウィルス・19 のため、中止になるのかもしれない。そういう思いでいたため、私は 3 日間の開催予定期間中に病院での定期的診察予約などを 2 日もうっかり入れてしまい、もしも開催されても今回は不参加とし、作品は次回に出す予定にしている。

 作画にはホルベイン不透明水彩絵具とホルベイン紙 F6 を使用した。文献 1 の表紙写真を撮影して、その左と下を一部カットした形でパソコン画面に表示したものを参考にして描いた。文献 1 の目次ページにある説明によれば、その写真は、高橋金雄氏の撮影による、御西岳から望む飯豊(いいで)連峰の最高峰・大日岳(2128 m)で、7 月の風景である。飯豊連峰は山形、新潟、福島の 3 県にまたがっている。妻が日本百名山をグループ登山で楽しんだ思い出の山々の一つを描いたつもりだったが、実は妻が登った(2007 年 9 月末)のは連峰の主峰である飯豊本山(2105 m)だったということである。なお、深田久弥は夏の一週間に飯豊の全主稜を歩き、「大きな残雪と豊かなお花畠、尾根は広々として高原を逍遥するように楽しく、小さな池が幾つも散在して気持ちのいい幕営地に事欠かない」と述べている(文献 2)。

 私のこれまでの水彩画は、参考にした写真を出来るだけ忠実に表現するようにしていたが、細かく描いていると年齢のせいで目が疲れやすくなって来たことや、以前から、いずれは粗いタッチの絵を描くようにしたいと思っていたこともあり、今回から絵のスタイルを変えた。今回参考にした写真は、そもそも粗いタッチで描きやすいものでもあった。

文献
  1. 『週刊 日本百名山』No. 41(朝日新聞社、2001)。
  2. 深田久弥『日本百名山』(新潮社、1964)。文献 1 に「飯豊山」の章が朝日文庫版から再録されている。

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2020年8月6日木曜日

亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -6- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -6-)

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本記事の文献 [25–28]
References [25–28] of this article.

4 理論物理学研究の相異なる方式

 亀淵氏はハイゼンベルクや湯川の晩年の研究が未完のままに終わった理由を説明するために、理論物理学研究の方式を "上昇的" と "下降的" に分けている。"上昇的" 方式は、「理論を基礎から積み上げてゆく」もの、"下降的" 方式は「既存の理論体系を遥かに越える高所に原理的な仮説を措定し、そこから下降して諸々の物理法則を演繹しようと試みる遣り方」で、「直感とか類推に頼る他はなく、客観性・必然性を欠き失敗する場合が多い」と説明している。そして、ハイゼンベルクも湯川も、研究経歴の前半は "上昇的" によって成果を挙げたが、後半には "下降的" に転じたと見る。

 理論物理学研究方式の同様な分類は南部陽一郎も述べている [25, 26]。亀淵氏が一人の研究者に対しても前半と後半で方式が変わり得るという見方であるのに対し、南部の場合は各方式が研究者に固有であるかのように、方式名に研究者の固有名詞が当てられている。ただし、これは各研究者の代表的成功研究の方式という意味と解釈すべきであろう。南部の分類は [25] においては "Yukawa mode" と "Dirac mode" であった。その説明としては、この分類を紹介しているミチオ・カクとジェニファー・トンプソンによる本 [27] の、簡潔な表現を紹介する。
The Yukawa mode is deeply rooted in experimental data. Yukawa was led to his seminal idea of the meson as the carrier of the nuclear force by closely analyzing the data available to him. The Dirac mode, however, is the wild, speculative leap in mathematical logic that led to astonishing discoveries, such as Dirac's theory of antimatter or his theory of the monopole [...]. Einstein's theory of general relativity fit into the Dirac mode. ([27] p. 85)

 のちに南部はこれを修正して、三つの型に分けた [26]。それぞれについての説明は次の通りである。
  1. アインシュタイン型(上から下へ、top down):「自然はこういう原理に従う筈だ」と仮定して理論を創る。例:アインシュタインの重力理論(一般相対性理論)「一般に空間は曲がっていてもよい」と仮定。
  2. 湯川型(下から上へ、bottom up):「新しい現象の背後には、深い理由は別にして、何か新しい場や粒子がある」という作業仮定から出発する。例:湯川の中間子論、パウリのニュートリノ仮説。
  3. ディラック型(天下り型):数学的に美しい理論は真であるとする。例:ディラックのモノポール理論、現在探究されている超対称性理論や超弦理論。
文献 [25] の段階ではディラック型の一例だったアインシュタインの一般相対性理論が、独立の型に昇格した。その結果、アインシュタイン型(top down)と湯川型(bottom up)は、亀淵氏の "下降的" と "上昇的" に符号することになった。ディラック型の例について、南部はモノポールの存在は場の量子論の自然な帰結であることが分かったが、まだ実証されていないと述べ、また、超対称性理論や超弦理論の研究が目下盛んであることから、「現在はまさにディラック・モードの全盛期」といっている。しかし、その成否もまだ不明であり、素粒子・高エネルギー物理学理論の将来はどうなるのか、なかなか目が離せない。

 ところで、アインシュタインの一般相対性理論が完全に top down 型といえるかどうか、私は疑問に思う。彼が一般相対性理論を創ることを思いつく出発点には、「例えば屋根から、自由落下する観察者を考えれば、彼にとっては、少なくともその近傍には、落下中、重力場は存在しない」という思考実験のあったことが知られている ([28], p. 78) からである。亀淵氏も、研究経歴の「後半に至って下降的に転ずる」ことについて、「アインシュタインも同様であった」として、重力場と電磁場の統一を目標に晩年の 30 年を浪費したことを述べてはいるが、一般相対性理論の時から下降的であったと記してはいない。

 ちなみに、カクとトンプソンの本 [27] には、南部による最初の 2 分類を合わせた型が、南部の 65 歳の誕生日(1985 年)を記念して、仲間たちから「南部モード」と名づけられたという話がある。その説明の一部を引用しておく。
This mode combines the best features of both modes of thinking and tries carefully to interprete the experimental data by proposing imaginative, brilliant, and even wild mathematics. The superstring theory owes much of its origin to the Nambu mode of thinking.
 Perhaps some of Nambu'a style can be traced to the clash of Eastern and Western influences represented by his grandfather and father. [...] ([27] p. 85)

 謝辞
 豊田直樹・東北大名誉教授から、2.5 節で引用した、パウリの講演に対してボーアが批判した話が文献 [10] にあることの教示を得たほか、本稿の話題についてのメール交換で、いろいろ有益な示唆を受けた。ここに記して感謝申し上げる。

 文献
  1. Y. Nambu, "Direction of particle physics," in Proc. Kyoto Int. Symp.: The Jubilee of the Meson Theory, Kyoto, Aug. 15–17, 1985, edited by M. Bando, R. Kawabe, and N. Nakanishi; Prog. Theor. Phys. Suppl. No. 85, 104 (1985).
  2. 南部陽一郎, 素粒子物理学の 100 年 (国際高等研, 京都府相楽郡, 2000).
  3. M. Kaku and J. Thompson, Beyond Einstein: The Cosmic Quest for the Theory of the Universe (Oxford University Press, Oxford, N. Y., 1997; first edition, Bantam, 1987).
  4. G. Holton, "What, precisely, is "thinking"? ...Einstein's answer," in Einstein, History, and Other Passions (AIP Press, Woodbury, 1995) p. 74. [See also "On trying to understand scientific genius," in Thematic Origins of Scientific Thought: Kepler to Einstein, Revised edition (Harvard University Press, Cambridge, Mass., 1988) p. 371.]
(完)

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2020年8月1日土曜日

亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -5- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -5-)

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本記事の文献 [15, 18, 22]
References [15, 18, 22] of this article.

3 湯川の悲劇

3.1 湯川の当時の研究

 亀淵氏は「[…] 講演が進み、湯川が研究協力者 K との共著論文 "素粒子の時空的描像" 発表のため、 K の名前を呼び上げた」と書いている。K とは湯川の晩年の研究を知る人ならばよく知っている片山泰久 (1926–1978) である。会議録に掲載された論文の書誌情報は本記事の第 1 回に文献 [3] として載せた。この研究は湯川らが晩年に取り組んだ素領域理論の仕事に属し、湯川は文献 [15] の「まえがき」で「片山泰久氏の大きな努力によって、1967 年には一応の理論を作り上げることができた」と記しているものである。湯川はこれに続けて、「そして翌年には片山氏との共著論文、それにさらに梅村氏も加わった論文を発表できるまでに至った」と、やや誇らしげに記している。それらの論文は文献 [16]、[17] である。

 その 3 年後に、湯川は文献 [18] の監修者として、その序文を記し、また、「第 V 部 素粒子の統一理論」を自ら執筆している。それらの中では、素領域理論に対する学界の反応や自らの思いが、次のように率直に述べられている。
[...]第 V 部では、統一理論へ向かってのひとつの道を辿ることにした。それは唯一の道ではないであろうし、また必ず目的に到達することが保証された道でもない。それどころか、正当的な道から、最も大きく逸脱していると、多くの研究者に思われている道である。([18] 序文、p. vii)
 このような方向に進んでゆくと、結局は何らかの意味における時空自身の量子化という問題に突きあたらざるを得ないかも知れない。素領域という概念自体も、背後に 4 次元連続体としての Minkowski 空間を想定している点で、まだ不徹底であるのかも知れない。しかし、その解明はすべて今後に残されている。([18] 第 V 部、p. 608–609)

3.2 湯川の当時の研究の影響・評価

 湯川らの論文 [16]、[17] の被引用数を Google Scholar で調べると、[17] についてのみ 46 と出て来る。Google Scholar の統計はかなり不正確であることは、私自身の論文の被引用数からも気づいている。例えば類似の題名のものがあると、同じもののように扱われていることがある。そこで、[16]、[17] については、掲載誌 Progress of Theoretical Physics のサイトにある同誌での被引用数と、そこにリンクされている Crossref サイトで表示される被引用数(両者の間に重複はない)の和を利用すると、39 と 28 である。湯川のノーベル賞受賞対象となった論文 [19] の被引用数 2400 余り(Google Scholar による)と比べれば、いかにも少ないことが分かる。しかし、将来の理論の発展において、新たな寄与が生じる可能性はないのだろうか。この点について、専門家の見解に当たってみたい。

 ロシア生まれで、スイス、イギリスで活躍した理論物理学者ニコラス・ケンマー(1911–1998)は、湯川の 1940 年代以後の研究について、文献 [20] で次のように述べている。
[...] Yukawa devoted the greater part of his subsequent life as a research worker to the quest for a better, deeper fundamental theory. He published over twenty papers spanning a period of twenty years developing various approaches to this goal. Central to his thinking was the belief that the association of any elementary particle with a single geometrical point in space was in some deep sense mistaken; the key concept in many of his publications is the 'non-local field'. [...] We cannot see into the future and say with confidence that all the ideas presented in these papers are lacking in any grains of deeper truth that we do not yet perceive. And we cannot measure the stimulation that readers of his papers on the way to developing ideas of their own may have received. Even so it is a fact that in present day work one would be hard put to find reference to or influence of his later publications.
これは控えめにながら、湯川の後半生の研究成果が不毛だったことを述べたものである。

 また、アメリカの理論物理学者で量子場の理論と素粒子物理学に関する歴史学者でもあるローリー・ブラウン名誉教授は、文献 [21] で次の通り述べている。
The idea of nonlocal fields (which is to be distinguished from the idea of local fields having nonlocal interaction) gradually became a theory of elementary particles with internal structure. By the late 1960’s it was superseded by Yukawa’s concept of "elementary domain", based upon the quantization of the classical continuously deformable body. These fundamental ideas do not play a major role in current theoretical physics but may well be vindicated in a future physics.
ここで、最後の文の but 以下の言葉は、湯川ファン(私もその一人である)に将来への期待を抱かせるものだが、ケンマーからの引用の終わりから 3 番目の文 "We cannot ..." とその次の文を合わせたものと同様、若い時に中間子論を発表し、また素粒子論の方法を確立した湯川への敬意のため、批判的表現を緩和する目的で挿入されたものと見るべきであろう。

 素粒子論が専門で京大名誉教授だった田中正(1928–2019)は、著書 [22] の中で、湯川の戦後の研究や素領域理論についての日本生まれの研究者たちによる評価を紹介し、自らの見解も述べている。ここではそれらの中から、最も歯に衣を着せない適切な批評と思われる南部陽一郎の、「湯川博士の戦後の研究活動」についての言葉を引用したい。
残念ながらこれはあまり実りをもたらさなかった。博士が素粒子を幾何学的に拡がったものとして捉えようとされた執拗な努力そのものは別として、その内容や方法は素朴すぎたようである。最近はゲージ場理論の発展によって幾何学的な見方が非常に重要になり、内部量子数を幾何学に帰着させる可能性も出てきたが、博士の考えが種になっているとはいえない。博士が中間子論以後日本の後進学者に与えた影響はもっと間接的なものであった。( [23]; [22] p. 311 から引用)
南部の言葉を引用している田中自身は、文献 [24] において、超弦理論の D0 ブレーンが湯川の素領域の考えに近いことを指摘している。しかし、これは南部が「博士の考えが種になっているとはいえない」といっている内容の一つであろう。

 次回は、亀淵氏がハイゼンベルクと湯川の「悲劇」の頃の研究が未完のままに終わった共通の理由として書いていることに関連して、理論物理学研究の相異なる方式ということについて考えたい。

 文献
  1. 湯川秀樹, 湯川秀樹自選集 2 (朝日新聞社, 1971).
  2. Y. Katayama and H. Yukawa, "Field theory of elementary domains and particles. I," Prog. Theor. Phys. Suppl., 41, 1 (1968).
  3. Y. Katayama, I. Umemura, and H. Yukawa, "Field theory of elementary domains and particles. II," Prog. Theor. Phys. Suppl., 41, 22 (1968).
  4. 湯川秀樹・監修, 岩波講座 現代物理学の基礎 11 素粒子論 (岩波書店, 東京, 1974).
  5. H. Yukawa, "On the interaction of elementary particles. I," Proc. Phys.–Math. Soc. Japan (3) 17, 48 (1935).
  6. N. Kemmer, "Hideki Yukawa. 23 January 1907–8 September 1981," Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society, 29, 661 (1983). JSTOR, https://www.jstor.org/stable/769816. Accessed July 30, 2020.
  7. L. M. Brown, "Yukawa, Hideki," in Complete Dictionary of Scientific Biography (Charles Scribner's Sons, New York, 2008); online version of this article available at
    https://www.encyclopedia.com/people/science-and-technology/physics-biographies/hideki-yukawa. Accessed July 31, 2020.
  8. 田中正, 湯川秀樹とアインシュタイン (岩波書店, 東京, 2008).
  9. 南部陽一郎, "湯川博士と日本の物理学," 科学 52, No. 2 (1982).
  10. S. Tanaka, "From Yukawa to M-theory," in Proc. Int. Symposium on Hadron Spectroscopy, Chiral Symmetry and Relativistic Description of Bound Systems, Nihon Daigaku Kaikan, Feb. 24-26, 2003; KEK Proceedings 2003-7, edited by S. Ishida et al. (KEK, Tsukuba, 2003) p. 3; also available as arXiv:hep-th/0306047.
(つづく)

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2020年7月27日月曜日

亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -4- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -4-)

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本記事の文献 [12]
Reference [12] of this article.

2 ハイゼンベルクの悲劇(つづき)

2.6 ハイゼンベルクの当時の研究の影響

 亀淵氏は、エッセイに述べた出来事の頃のハイゼンベルクと湯川の研究について、「両者の研究は、残念ながら、未完のままに終わった」と記している。氏がその共通の理由として書いていることについては後で考えたいと思う。ここでは、ハイゼンベルクの当時の研究が、それ自体は未完に終わったにしても、その研究の中で使った概念が他の研究者に与えた好影響はかなりあったようであり、これについて、科学史を専門とするボストン大学のカオ教授の記述を紹介したい。
 At the 1958 Rochester Conference on high-energy nuclear physics held in Geneva, Heisenberg invoked the idea of a degenerate vacuum to account for internal quantum numbers, such as isospin and strangeness, that provide selection rules for elementary particle interactions (1958).*
 In an influential paper submitted in 1959,** Heisenberg and his collaborators used his concept of a degenerate vacuum in QFT [quantum field theory] to explain the breaking of isospin symmetry by electromagnetism and weak interactions. [...]
 Heisenberg's degenerate vacuum was at the time widely discussed at international conferences. It was frequently quoted, greatly influenced field theorists, and helped to clear the way for the extension of SSB [spontaneous symmetry breaking] from hydrodynamics and condensed matter theory to QFT. ([12] p. 283)
上記引用中に何度も出て来る "degenerate vacuum"(縮退真空)という言葉は、最後の文にある SSB(自発的対称性の破れ)と密接に関係するものである。また引用文中、* と ** のところに引用されている文献は、それぞれ、この記事の第 1 回に記した文献 [2](「悲劇」の講演が論文として会議録に掲載されたもの)と、第 2 回に記した文献 [8](その後、若手研究者たちと共同で発表した論文)である。

 ちなみに、これらの論文の被引用数を Google Scholar で調べると、前者は 16、後者は 226 である。カオは "frequently quoted" と書いているが、ハイゼンベルクのノーベル賞受賞対象となった、行列に基づく量子力学の定式化の論文 [13] と 不確定性原理の論文 [14] の被引用数が 1709 と 4697 であるのに比べれば、かなり少ない(以上の被引用数はいずれも 2020 年 7 月 27日現在)。これは「悲劇」の頃の研究が構想全体としては成功に至らなかったためであろう。

 自発的対称性の破れの素粒子物理学への適用といえば、南部陽一郎のノーベル賞受賞理由が「素粒子物理学における自発的な対称性の破れのメカニズムの発見」だったので、私はほとんど南部の独創であるように思っていた。ところが、実はハイゼンベルクの研究が南部に影響を与えていたのである。カオがこれについて南部の論文を引きながら述べている部分を、これも少し長くなるが、引用しておく(論文に関する注の数字は省略)。
 Nambu's work on superconductivity led him to consider the possible application to particle physics of the idea of non-invariant solutions (especially in the vacuum state). [...]
 [...]
 [...]
 It is of interest to note the impact of Dirac and Heisenberg on Nambu's pursuing this analogy. First, Nambu took Dirac's idea of holes very seriously and viewed the vacuum not as a void but as a plenum packed with many virtual degrees of freedom. This plenum view of the vacuum made it possible for Nambu to accept Heisenberg's concept of degeneracy of the vacuum, which lay at the heart of SSB. Second, Nambu was trying to construct a composite particle model and chose Heisenberg's non-linear model, 'because the mathematical aspect of symmetry breaking could be mostly demonstrated there', although he never liked the theory or took it seriously.

 次回は湯川の場合の「悲劇」に関連する論文について述べたい。

 文献
  1. T. Y. Cao, Conceptual Developments of 20th Century Field Theories, (Cambridge University Press, Cambridge, 1997; second edition available, 2019)
  2. W. Heisenberg, Über quantentheoretische Umdeutung kinematischer und mechanischer Beziehungen, Z. Physik 33, 879 (1925).
  3. W. Heisenberg, Über den anschaulichen Inhalt der quantentheoretischen Kinematik und Mechanik, Z. Physik 43, 172 (1927).
(つづく)

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亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -3- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -3-)

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本記事の文献 [9, 10, 11]
References [9, 10, 11] of this article.

2 ハイゼンベルクの悲劇(つづき)

2.5 パウリの反逆の理由

 亀淵氏は、
ハイゼンベルクとは学生時代からの親友であり、しかも三カ月前まではこの問題を一緒に研究していたパウリが、事もあろうに素粒子論の著名な研究者たちが居並ぶ場所で、何故このような暴挙に出たのか。
と疑問を呈している。ここに「三カ月前」とあるが、パウリがこの国際会議より前に三カ月間の訪米をしていたことからの「三カ月」であろう。しかし、パウリがアメリカへ出発したのは、ハイゼンベルクの自伝 [8] によれば、1957 年のクリスマス前から a week プラス a few weeks あと、つまり 1958 年 1 月下旬頃で、その時から数えれば、国際会議までの期間は五カ月ほどになる。

 亀淵氏が上記の疑問に対して与えている答えは、後年、K. ブロイラー教授(ボン大学)がしてくれたという説明(次の「」内の部分)を疑問つきで引用したものである。
「おそらくパウリは米国で意気揚々と件の研究について講演したことであろう。しかし、米国の若手の俊秀たちから猛反撃を受け、一筋縄ではゆかない仕事だなと考え直したと思われる。そこで、今はもうその理論を信じてはいないということを、会議に来ている俊秀たちに公然とした形で表明したかったのであろう」と。これでは自己の名誉のために友の名誉を犠牲にしたことになるのだが......。
ブロイラーは推定として述べているが、同じことを次の通り、断定的に述べた文献 [9] がある(この文献はポーキングホーンの著書と異なり、学術的なもので、私が今回興味を持ったことは脚注扱いである)。
Although Pauli drafted the first preprint, entitled 'On the Isospin Group in the Theory of the Elementary Particles,' he withdrew from further collaboration in January 1958, after he encountered severe criticism and opposition to the theory from the U.S. physicists at the American Physical society meeting in New York; thus Heisenberg was left to work out the details of the theory with younger collaborators (Dürr et al., 1959). ([9] p. 1120, footnote)
上記の引用末にある "Dürr et al., 1959" という文献は、この記述全体の典拠のようにも見えるが、そうではなく、これはハイゼンベルクが若手共同研究者たちと研究を続けた結果として発表した論文(前回も記した [8])である。したがって、パウリがアメリカ物理学会の席上でアメリカの物理学者たちから厳しい批判を受けたということの典拠を明記してはないのだが、パウリがハイゼンベルクとの共同研究から手を引く決心をしたのは、渡米早々のことだったようである。

 ところで、パウリが渡米中に厳しく批判されたのは、アメリカの物理学者たちからだけではなかった。イギリス生まれのアメリカの理論物理学者・数学者、フリーマン・ダイソンの随筆集 [10] に次の記述がある。
Pauli happened to be passing through New York, and was prevailed upon to give a lecture explaining the new idea [of Heisenberg and Pauli] to an audience that included Niels Bohr, who had been mentor to both Heisenberg and Pauli [...]. Pauli spoke for an hour, and then there was a general discussion during which he was criticized sharply by the younger generation. Finally, Bohr was called on to make a speech summing up the argument. "We are all agreed," he said, "that your theory is crazy. The question which divides us is whether it is crazy enough to have a chance of being correct. My own feeling is that it is not crazy enough." ([10] pp. 105-106)
ここにあるパウリの講義が若手研究者たちから鋭く批判されたという記述は、ブロイラーの推定および文献 [9] の記述を裏書きしている。その上、パウリは恩師ニールス・ボーアからも手厳しい批評を受けていたのである。"Not crazy enough" が厳しい批評になるということは、ボーアの言葉だけでは分かりにくいが、ダイソンは次の節で、以下のように説明を加えている(要約して紹介しようと思ったが、ダイソンの文は磨かれた宝石のようで、さらに削ることは不可能に思える)。
When the great innovation appears, it will almost certainly be in a muddled, incomplete, and confusing form. To the discoverer himself it will be only half-understood. To every body else it will be a mystery. For any speculation that does not at first glance look crazy, there is no hope. ([10] p. 106)

 なお、パウリがハイゼンベルクとの共同研究から手を引くということは、前者がアメリカ滞在中に後者へ手紙で書き送っていたのである。このことはハイゼンベルクの自伝 [11] に次のように記されている(引用文中 Wolfgang とはパウリを指す)。
Then we were divided by the Atlantic, and Wolfgang's letters came at greater and greater intervals. [...] Then, quite suddenly, he wrote me a somewhat brusque letter in which he informed me of his decision to withdraw from both the work and the publication [of our common project]. ([11] p. 235)
自伝中にこの話が記されているのは、"The Unified Field Theory" と題する章であり、その章は次の文で結ばれている。
Toward the end of 1958 I received the sad news that he [Wolfgang] had died after a sudden operation. I cannot doubt but that the beginning of his illness coincided with those unhappy days in which he lost hope in the speedy completion of our theory of elementary particles. I do not, of course, resume to judge which was the cause and which the effect. ([11] p. 236)
ここだけを読めば、いかにも悲しい。しかし、その前には、亀淵氏もハイゼンベルクの自伝の和訳を参照して述べているように、「会議の数週間後、二人はともにイタリーのコモ湖畔のヴァレンナの夏の学校に講師として招かれる。しかしこのときのパウリはハイゼンベルクに対して友好的だった」との事実がある。またその場所で、パウリはハイゼンベルクに「あなたは例の研究をさらに続けてゆくべきでしょう。私はしかし、もう力にはなってあげられないが」と言ってもいたので、これには救いを感じる。

 ところで、ハイゼンベルクの当時の研究は、その後の理論物理学の中でどのように位置づけられているのだろうか。次回はこの話から始めたい。

 文献
  1. H. P. Dürr, W. Heisenberg, H. Mitter, S. Schlieder, and K. Yamazaki, "Zur Theorie der Elementarteilchen," Z. Naturf. 14a, 441 (1959).
  2. J. Mehra and H. Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory, Volume 6, Part 2 (Springer, New York, 2001).[注:私がこの本をたまたま持っていたのは、かつて大阪科学館で持たれていた「湯川秀樹を研究する会」に参加していて、その会で討論の参考になりそうなことが書いてあると知ったからである。]
  3. F. Dyson, From Eros to Gaia (Penguin, London, 1993; first published by Pantheon, New York, 1992).[注:私がまだ勤務していた頃、この本を当時の同僚だった豊田直樹氏(現・東北大名誉教授)に勧めたようだが、今回は本記事に関わる話題を彼にメールで告げたところ、本文に引用した箇所がこの本にあることを逆に彼から教えられた次第である。]
  4. W. Heisenberg, Physics and Beyond: Encounters and Conversations, translated from German by A. J. Pomerans (Harper & Row, New York, 1972); original German edition, Der Teil und das Ganze: Gespräche im Umkreis der Atomphysik (R. Piper, Munich, 1969); Japanese version, 部分と全体, translated by K. Yamazaki (Misuzu-Shobo, Tokyo, 1974; new edition 1999).
(つづく)
(2020 年 7 月 25 日投稿、7 月 27 日改訂)

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