2017年9月11日月曜日

水彩画『鳳凰山・地蔵岳』 (My Watercolor "Jizō-dake, Mt. Hōō")

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 来たる 2017 年 10 月 20 日(木)から 24 日(火)まで、堺市東区北野田の東文化会館で開催される『第31回・美交会展』(主催・堺の文化をすすめる市民の会)に出品する予定の水彩画を、9 月 9 日に完成した。ホルベイン不透明水彩絵具とホルベイン紙 F6 を使用し、文献 1 の表紙にある写真を参考にして描いた。文献 1 の目次の上部に同じ写真を小さく添えて記してある説明によれば、その写真は、内田良平氏が撮影した『観音岳から望む 8 月の地蔵岳』である。小さな写真と表紙の写真を比べると、後者は元の写真の下部を 2 割近くカットしてあると分かる。表紙の写真を私が参考にするにあたって、さらに左右を(左を少し多めに)カットした。

 同様な水彩画を昨年 12 月に、妻が知人・友人へ送る賀状の挿絵にするため、妻の登った山々から、今年の干支である酉(とり)に関係のある名の山として、上記の写真を選び、私が透明水彩絵の具で F4 紙に描きかけた。しかし、途中まで進めた着彩が気に入らず、透明水彩では修正もままならず、その時の目的としては、F1 サイズのスケッチブックにペンと色鉛筆で急きょ簡潔に描いたものを用いた(元日のブログ記事に掲載)。したがって、画具が全て異なるながら、同じ写真から、失敗作を含めて 3 度描いたことになる。

 鳳凰山は、地蔵岳・観音岳・薬師岳の 3 山の総称で、鳳凰三山とも称される。地蔵岳(2,764 m)の山頂部にはオベリスク・地蔵仏と呼ばれる巨大な岩塔があり、これが「鳥のくちばしに見立てられる」というのが、鳳凰山の名の由来の一説であるが(文献 2)、他にもさまざまな説があるそうだ(文献 3)。深田久弥は、「地蔵仏は高さ約十八メートル、極めて印象的なオベリスクで、甲府盆地からでもよく注意すると認めることができる。それは鳳凰山のシンボルのように立っている。その巨石に初めて攀じ登ったのはウォルター・ウェストンで、明治三十七年(一九〇四年)の夏であった」(文献 4)と記している。

 地蔵仏の姿は、「二個の巨石が相抱くように突っ立っている」(文献 4)という様子である。ただし、二個からなることは、この絵の横方向に相当する位置から見ないと分からない。参考にした写真では、樹木のない中央部分の傾斜がもう少し黄色味を帯びているが、絵では、妻が登った印象として「白っぽかった」ということを強調するため、黄色味を抑えた。白っぽいのは、風化花崗岩の砂礫で覆われているからだそうで(特に絵の左端に見える「賽ノ河原」と名付けられた部分)、1814 年に編纂された『甲斐国志』にも「砂白くして海浜の景色あり」と描写されているという(文献 3)。賽ノ河原には「昔の信仰登山者のおいて行った小さな石の地蔵が、壊れた形で散らばって」(文献 4)いる。画中、賽ノ河原の奥に多くの小さい点々で表したのがそれである。

 なお、中央部分の傾斜の黄色味を抑えて描いたのには、もう一つ理由がある。私はさる 4 月の半ば過ぎと 5 月初めの 2 回に分けて、左右の目の白内障手術をした。その結果、本来あるべき色感を取り戻したのだが、白内障が進んでいた頃と比べれば、風景が青白く見える印象を受けた。その感懐を、際立てて絵に残しておきたい思いもあったのである。過去 2 年間に描いた水彩の風景画[『自然エネルギー』(オランダ・キンデルダイクの風車)と『自鳴琴の館』(京都嵐山オルゴール博物館)]をいま見ると、必要以上に黄色が強調されているように思われる。ペンと色鉛筆描きの『鳳凰山』中の賽ノ河原も、黄色が強すぎた。

 文献
  1. 『週刊 日本百名山』No. 05(朝日新聞社、2001)。
  2. 「鳳凰山」、『ウィキペディア』https://ja.wikipedia.org/wiki/鳳凰山[2017 年 4 月 24 日 (月) 09:06]。
  3. 深田久弥『日本百名山』中「鳳凰山」の項。文献 1 の p. 3 に朝日文庫版(1990)から、同項の全文が転載されている。
  4. 三宅修「明るい稜線と大展望の魅力」、文献 1 の p. 6。
 (2017 年 9 月 16 日、一部加筆・修正)

2017年8月15日火曜日

ディオプトリー (Diopter)

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ハマユウの花。わが家の庭で、2017 年 7 月 16 日撮影。
Flower of spider lily; taken on July 16, 2017 in my yard.

ディオプトリー

 私は近年、強度近視に老眼が加わり、読書用、屋内用、外出用の 3 種類の近眼鏡を使い分けていたが、白内障手術後、屋内ではほとんどメガネが不要になった。しかし、外出にはメガネがあった方がよい。そこで、さる 8 月 9 日に眼科医でメガネの処方箋を作って貰った。両眼とも "−1.75 D" とある。いままで何度もメガネを作り替えながら、度数の意味を調べたことがなかったが、インターネット検索を使うと、容易に理解出来た。

 D は、昔高校の物理で習ったディオプトリー(米語表記 diopter、独語表記 Dioptrie)という単位を表している(単位の名称を習ったということは、その意味も習ったのだろうが、覚えていなかったということになる)。その単位のつく数値は、焦点距離(メートル単位)の逆数で、マイナスは「眼前」を意味し、近視の場合にはマイナスになる(レンズの種類としては凹レンズ)。1.75 の逆数は 0.571で、 "−1.75 D" は裸眼の焦点が眼前 57.1 cm の場合に適合するレンズの度数ということである。

 看護師の最初の測定では、多分 −2.00 D だったのだ(度数は通常 0.25 刻み)。これだと白内障手術で入れて貰った眼内レンズの焦点距離 50.0 cm とよく一致する。しかし、医者は「…75…も調べてみなさい。屋内でも使えるように」というような指示を看護師にしていた("…" の部分はよく聞き取れなかった)。

 視力検査表の、最初の時より上の段までしか見えないレンズで再測定してくれたあと、看護師は「一番よく見えるので処方箋を書きましょうか」といった。私は、それでは医者の指示が活かされないように思い、「お医者さんは何とおっしゃったのですか」と看護師に尋ねた。すると彼女は、片目ずつで 1.0、0.9、0.8 の視力が出ているレンズを左右に入れたテスト用メガネを並べて、「念のため、度数の低い場合の検査もしました。片目で 0.9 でも、両目で見ると 1.0 のところまで見えるはずです。0.9 あるいは 0.8 ずつのでもよいかも知れません。どれにしますか」といった。

 そして、視力検査表の、普通は一カ所ずつ点灯するランプを、1.0 に対応する段の全てに点灯して見せてくれた。なるほど、0.9 ずつのレンズでも、両目で見ると、その段のすべての輪(「ランドルト環」というそうだ)の切れ目がほぼ見えている。そこで、0.9 ので処方箋を書いて貰った。これがちょうど、医者のいった "…75…"、いま思えば −1.75 D に対応していたのだ。私は看護師に対して、最初に「外出用のメガネを作りたい」といったので、彼女は医者の「屋内でも使えるように」という言葉を重視しないで、検査表が一番よく見えるのでよいと思ったのだろう。

 しかし、家の中でテレビを 2 メートルあまり離れたところから見る時や、自分の描いた水彩画を離れた場所から眺めて印象を確かめる時には、メガネの必要を感じている。これらの場合の対象物は、5 メートル離れて見る視力検査表よりは近くにあるので、弱めの度数のレンズでむしろよく見えるはずである(白内障手術で私が入れて貰った固定焦点の眼内レンズは、肉眼のように調節が効かない)。したがって、−2.00 D よりも −1.75 D を選んでよかったと思う。

2017年7月25日火曜日

金沢での墓参 2017 -4- (Graves Visit in Kanazawa, 2017 -4-)

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上から、東滝(上に立つのは朝鮮型灯籠)、庭園上段の池[灑雪亭(さいせつてい)露地付近]、灑雪亭茶室(金沢市内に現存する最も古い茶室)、レストラン「かなざわ玉泉邸」入口。
Views of Gyokusen-en Garden, Kanazawa, the inside of Sai-setsu-tei tearoom (the 3rd picture), and the endtrance to the restaurant Gyokusentei (bottom).

 ところで、私の高校同期生に、多くの男子生徒の憧れの的で、学業も飛び切り優秀な女生徒がいた。私は高校時代の日記中で彼女に Vicky のニックネームを与え、彼女の試験結果が私より優っていた悔しさや、彼女が国語の朗読中に自らの読み違えがおかしくて笑いが止まらなくなったことや、彼女が珍しく遅刻して教室に飛び込み「のびたー」といったことなどまでを、つぶさに記していた。

 さる 4 月に開催された同期会の席上、私はその Vicky こと S・T さんに彼女の小学生時代について尋ねた。すると彼女は、医師だった父君が彼女の小学校 2 年生の春に亡くなり、経済的な事情で、先祖から伝わっていた玉泉園を母君が手放したこと、そして、高校生になってもこの思い出のために春は悲しい季節だったことを、参加者一同に聞かせてくれた。

 なお、1971 年に公開となる以前から、私はこの庭園の名を知っていたように思う。私と一緒に大連から引き揚げた伯母が、兼六坂沿いにあって玉泉園が見下ろせるほどの近くだった家を一時借りて住んでいたせいだろうか。

 今回も含めて 3 回にわたって紹介した写真のほかにも何枚かの庭園の写真を撮った後、静かな雰囲気のレストラン「かなざわ玉泉邸」へ入った。日本海でとれた魚介類や加賀野菜などの新鮮な材料を使った料理が次々に運ばれて来て、郷里の味を存分に楽しんだ。(完)


[2017 年 7 月 29 日修正(玉泉園の継承に関連して推定で記した部分が間違いと分かり、削除した。)]

2017年7月24日月曜日

金沢での墓参 2017 -3- (Graves Visit in Kanazawa, 2017 -3-)

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上から、玉泉園・本庭の中心部(主庭池付近)、寒雲亭茶室(写)、寒雲亭露地付近、東庭。
Views of Gyokusen-en Garden, Kanazawa, and Kan-un-tei tearoom (replica) (the 2nd picture).

 玉泉園は、総面積約 2,370 平方メートル(約 720 坪)で、兼六園(11 万 7 千平方メートル)よりはるかに小規模ながら、それよりも 120 年近く古いという歴史を誇っている。崖地を利用した上下 2 段式の池泉回遊式庭園で、本庭、西庭、東庭の 3 庭からなる。

 前回述べた「玉澗流」という庭園の特色は、
  1. 築山を二つ設けてある、
  2. 築山の間に滝を組んである、
  3. 滝の上部に石橋(通天橋)を組んである、
  4. 石橋の上部は洞窟式になっている、
という点にあり、玉泉園はこの 4 特色を全て備えているそうだ(注)。滝の写真は次回に登場する。(つづく)

 注:以上の記述は、「かなざわ玉泉邸」発行のリーフレット『石川県指定名勝 玉泉園』を主に参考にした。

2017年7月23日日曜日

金沢での墓参 2017 -2- (Graves Visit in Kanazawa, 2017 -2-)

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上から、玉泉園の西庭、織部型隠れ切支丹灯籠(全体を十字架に見立て、下部に聖母マリア像が刻まれている)、筒胴(ずんどう)型飾り手水鉢、水芭蕉群生地。
Views of Gyokusen-en Garden, Kanazawa, and its ornaments.

 金沢での 2 日目には、ホテルで午前 10 時半頃までゆっくりしてから、金沢駅東口を出発する「兼六園シャトル」を利用した。このバスの料金は、土・日・祝日は半額で、当日は幸い、たまたま土曜日だった。7 番目の停留所「兼六園下・金沢城(観光物産館前)」で下車し、観光物産館で土産物を物色した後、兼六坂を隔てて兼六園と並ぶ玉泉園へ向かう。同園に隣接する「かなざわ玉泉邸」での昼食を予約していたので、入園料は不要である。

 玉泉園は、加賀前田藩の重臣・脇田家の庭園として、約 100 年を費やして完成したという。その名は、加賀藩二代藩主夫人「玉泉院」に由来し、幻の様式とされる「玉澗(ぎょくかん)流」 の築庭による、由緒正しい金沢の名勝である。

 上掲の写真は、いずれも玉泉園の入り口近くで撮ったもので、次回以降にも掲載する写真の場所の、園内での位置は、ウェブページ「玉泉園の見どころ」の最下部にある地図で知ることができる。その地図内の番号または地図の右にある名称をクリックすると、写真と詳細説明を見ることもできる(番号 4 は、地図のすぐ上に写真があるので、リンクが張られていない。同一ページ内でもリンクする手はあるのだが、ウェブページ作成者は、その必要がないと思ったのだろう)。ただし、それらの写真を見て貰うと、私の写真の拙さがバレることになる。(つづく)