2010年1月31日日曜日

キーウィの模型 (Models of Kiwis)

  旅の11日目、2004年1月14日、午前8時50分ホテルを出発し、9時にクライストチャーチ空港到着。10時20分発のニュージーランド航空機(66人乗りプロペラ機)で北島へ向う。12時にロトルア空港到着。チョップスティック・レストランで中華料理の昼食、シーフード・スープ、アワビ、チキン、イカなど6品。13時40分からレインボー・スプリングスの動植物園を見学。写真は、そこで見たキーウィの模型。実物は撮影禁止になっている。[ニュージーランド旅行の写真 131; 2004年1月14日]

 キーウィ(キーウィー、キウィ、キウイなどとも記す。英語では kiwi)は、ニュージーランドに生息し、ニワトリくらいの大きさの飛べない鳥類のグループ。ニュージーランドの国鳥とされている。オスが巣作りや子育てをすることから、ニュージーランドでは家事に協力的な夫をキーウィ・ハズバンド (kiwi husband) と呼ぶ。

 マオリ族に次のような寓話が伝わっている。森の王タネマフタは、彼の子である木々が地面で暮らす虫たちによって食べられてとても病んでいるのを見て、兄であり空の王であったタネホカホカに相談をした。「このままでは森が死んでしまう」と。タネホカホカは空に住む鳥たちを一堂に集め、地上に降りて虫を食べて森林を守ってくれる鳥を募った。すると、キーウィだけがこの要請に「参ります」と応じた。二人の王はこれを喜び、地上で暮らすには、キーウィが持っていた美しい翼を失い、強い脚を持つ必要があるがどうかと確認した。それでもキーウィは「参ります」といった。こうして、キーウィはいまのような姿となった。

 以上、[1] から要約。マオリ伝説の詳しい英語版は [2] に見られる。

 最近掲載したニュージーランド旅行の写真

文献

  1. 「キーウィ (鳥)」, フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 [2009年12月15日 (火) 17:15].

  2. "How the Kiwi lost his Wings," the Web site of KiwiNewZ.

2010年1月30日土曜日

再度のクライストチャーチ (Christchurch Again)

  バスの中で大きなサンドイッチ、ジュース、フルーツ、クッキーの昼食をとり、グレイマウス駅へ13時10分に到着。13時45分発のトランツ・アルパイン号で列車の旅を楽しむ。クライストチャーチ駅へ18時35分に到着し、バスでホテルについたのは18時50分。ホテルはこの旅行の最初に泊まったのと同じクラウンプラザ・クライストチャーチ。上の写真は、ホテルの窓から翌朝撮ったもの。[ニュージーランド旅行の写真 130; 2004年1月14日]

 車窓からはよい写真が撮れないと思ったせいもあるだろうが、車中で腹具合がいささかよくなかったためもあってか、列車に乗って以後のその日(1月13日)の、私のデジカメによる写真はない。列車の途中の停車駅、アーサーズ・パスで私が妻のアナログカメラで撮った列車の横に立つ妻の写真や、終着駅での、参加者一同7名とバスの運転手さんの集合写真(添乗員さんが撮って帰国後に送って下さった)はあるのだが。

 最近掲載したニュージーランド旅行の写真

2010年1月29日金曜日

湯川とファインマンの裏返しイメージ (The Backwards Image of Yukawa and Feynman)

 昨年、私のウェブサイトに載せてあるファインマンについての随筆を自費出版書に入れるにあたって、かつて Physics Today 誌に裏返しに印刷されていた湯川やファインマンらが並んでいる写真を、AIP(アメリカ物理学協会)の許可を得て利用したいと思った。…本文(英文)へ

2010年1月28日木曜日

フランツ・ジョセフ氷河 (Franz Josef Glacier)

 フランツ・ジョセフ氷河。ニュージーランド南島、西海岸のウェストランド国立公園内にある。同じ公園内にあるフォックス氷河とは氷河の大きさが似ており、距離的にも近くに位置することから、双子の氷河といわれている [1]。[ニュージーランド旅行の写真 129; 2004年1月13日]

 最近掲載したニュージーランド旅行の写真

文献

  1. 「フランツ・ジョセフ氷河」, フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 [2010年1月12日 (火) 20:48].

2010年1月27日水曜日

故エリック・ロメール監督 (Eric Rohmer, 1920–2010)

 先日の朝日紙に、私が昨年2月に見た映画『我が至上の愛 アストレとセラドン』を作った監督で、ヌーヴェル・ヴァーグの重要人物だったエリック・ロメールを悼む文が掲載されていた [1]。彼はさる11日、89年の充実した生涯を閉ざしたのである。上記の映画は87歳のときのもので、遺作となった。

 追悼文の著者は上記の映画を「優雅な卑猥さともいうべきものが漲っている」と評している。私は一向に卑猥とは思わなかった。そもそも「卑猥」という言葉は「いやしくてみだら、下品でけがらわしい」(『広辞苑』)を意味し、「優雅」と一緒に使うのは矛盾している。言葉の遊びをてらっただけの、不正確な表現に過ぎない。評において「優雅」が形容語で、「卑猥」のほうが主体的な名詞であることにも注意されたい。

 イギリスのガーディアン紙の追悼文 [2] 中の『アストレとセラドン』の批評には、"the combination of the intellectual with the sensual," "sumptuous hedonic settings," "tantalizingly erotic" という表現はある。しかし、「卑猥」を意味する語 indecent, obscene, salacious, lewd, immoral, nasty, coarse, broad, dirty, ribald, smutty ("Kenkyusha's New Japanese-English Dictionary") のどれも使われてはいない。

 篠山紀信氏が霊園でヌード撮影をしたとして公然わいせつの疑いで書類送検されたというニュースも、私には警察庁の行き過ぎと思われる。日本人にはおおらかさが欠けているか、あるいは、芸術的なものを見ても「卑猥」と感じる心が強過ぎるのではないだろうか。

文献

  1. 蓮實重彦, 優雅な卑猥さ生んだ「軽さ」: 映画監督エリック・ロメールを悼む, 朝日新聞 (2010年1月23日).

  2. T. Milne, Obituary: Eric Rohmer, The Guardian (January11, 2010).

2010年1月26日火曜日

2010年1月25日月曜日

湯川の仕事に対する中国古典の影響 (Effects of Chinese Classic Literature on H. Yukawa's Work)

 湯川秀樹は、李白の言葉が晩年に発表した素領域理論のきっかけになったことを記している。彼のノーベル賞受賞対象となった中間子論の発想においては、中国古典の影響はあったのだろうか。本文(英文)へ

2010年1月24日日曜日

09年12月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M. Y.'s Comments on December-2009 Articles)

 M.Y. 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2009年12月分への感想を1月23日づけで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。青色の文字をクリックすると、言及されている記事が別ウインドウに開く。

×     ×     ×

 「古城渓谷と中世古都巡り:ライン河、マイン河の船旅(12日間)」に奥さまと参加した旅行記を読ませていただきました。私もそのうちの数カ所の街は訪問したことがあり、数年前に聞いた NHK ラジオ ドイツ語講座でミュンヘン、ケルンの街について触れられていたこともあって、馴染み深く、新たに知ることも多くありました。

 旅はミュンヘンから始まり、パッサウ港から船出し、ドナウ河を遡行しニュルンベルク手前のマイン・ドナウ運河を通り、バンベルクからマイン河を下り、ランクフルトを通りマインツよりライン河に入り、リューデスハイムからいよいよこの旅のハイライト、世界遺産ライン河渓谷クルーズを経て、ケルンで終わるものです。旅行社の NT 社が建造したオランダ船籍の「セレナーデ II 号」で航行します。その船の仕様は、1,700トン、乗客定員136名、全長110メートル、全幅11.4メートルというものです。

 ライン河はその後オランダに入り、ロッテルダム付近で北海に注ぎ、他方、ドナウ河はシュバルツバルト(黒い森)を出て、東欧10カ国を通って黒海に注いでいること。運河の完成は1992年。運河の水門で水面の高さが調節され、船がドナウ、マイン河の高低差を通過することなどが、「ライン河、マイン河の船旅 (11)」に書かれています。ローテンベルク、ハイデルベルクなど河から遠く離れている所へは、バスで観光し、船が次の港で待ちうける場合もあり、河や港が混雑しないよう巧く運航されているようです。

 旅行記には、多くの美しい写真やスッケチを中心に、街とその名所旧跡の歴史や説明、感想などが簡潔に書かれ、必要に応じて Wikipedia の検索結果が引用され、よくまとまった読み物となっています。国境を越えて北海から黒海までつながった河を意識し、ミュンヘンからケルンまでの地図を見ながら旅行記を読み続けると、平和でのどかな気持ちになりました。この旅行記を読んでいる途中に、NHK で放送された本年のニューイヤコンサート(ウインフィル)のアンコール曲「青く美しきドナウ」の演奏で背景に写しだされた、源流からウイーン付近、ハンガリー、ルーマニアの湿原地帯を通って黒海にとうとうと注ぐドナウ河の美しい映像を見たのも、何か縁があるものと思いました。

 船内での催しや出来事が適宜書かれていて、船旅もいものだと思いました。美人パーサーのアドリアンさんがスケッチ中の筆者の写真を撮っていたので、その写真と当のスケッチを比べてみたこと*。「ドイツ語講座」や「ナプキン折り講座」。世界的なチターソリスト、トミー・テーマソンのチターのコンサート。その曲目が収められた CD を買ってサインして貰ったこと、など。「さよならカクテルパーティ」で挨拶している船長、ホテルマネジャー、総料理長、パーサーのアドリアンさんの並んだ一枚の写真は、クルーズを締めくくるに相応しい構成要素になっているようです。

 日本に着いてからの次の思いには大いにうなずけます。

 関西空港からわが家の最寄り駅まで JR 阪和線で向かう沿線の、紅葉の名残を示していた木々はドイツよりも美しいのだが、町並みはいかにも貧相に見えて仕方がなかった。ドイツでは、日本のように小さな住宅が密集しているところがなく、船やバスで通り過ぎたところにポツリポツリと見えた小さな町や村も、みな美しかったのがうらやましく思われる。ドイツでは、建築物の材料が日本の家屋より保存に適しているということがあるにしても、空襲で破壊されたところでも、昔の様式のままに復元しているのが素晴らしい。自国伝来のものに強い誇りを持っていることの現れであろう。その反面、過去のナチズムに対しては徹底的な反省がなされたが、日本では侵略戦争に対する反省が不十分で、それを美化する人々さえいることは恥ずかしいではないか。

 「出発前につぼみをふくらませていたわが家のアマリリス(ヒッペアストラム)が留守中に花開いて私たちの無事帰国を祝ってくれた」で終わったよい旅を、心豊かに楽しまれたことと思います。   

 * 引用者注:私の文中に、「比べてみた」とは書いてありませんが、スケッチと写真を並べて掲載したので、その時点で比較して、家々がよく一致しているなどと思ったのは確かです。

2010年1月23日土曜日

最終号 (The Final Issue)

手書き時代の『堺文化会ニュース』第9号(1977年6月20日)

『堺文化会ニュース』最終200号(2010年1月20日)

 私が関係して来た「堺の文化をそだてる市民の会」(略称:堺文化会)の機関紙『堺文化会ニュース』が、昨日届いた200号を最終号として発行を終えることになった。

 堺文化会は、1972年に当時の市長が汚職のため辞職し新市長が選挙されるにあたり、清れん潔白な新市長の選出を願って作られた「きれいな堺市政をすすめる文化人の会」のあとを受けて、1974年に誕生した。その活動は、堺にある多くの各種文化団体と協力して、堺の文化水準の向上に役立つことを目的としている [1]。

 昨年、堺文化会は35周年を迎えたが、世話人たちの高齢化のため、今後は機関紙の発行と会費の徴集をやめ、必要・可能な文化活動にその都度独立採算制で取り組むという方針になったのである。

 最近の『堺文化会ニュース』は、ちゃんとした印刷になっていたが、私は1977年から6年間ほど、手書きや「ベタ刷り」を切り貼りしてガリ版刷りで仕上げた時代に編集をしていた。一つの時代の終わりとして感慨深いものがある。この機会に私は『ウィキペディア』に、堺文化会の代表世話人だった経済学者、故・上林貞治郎のページを作った [2]。

文献

  1. 上林貞治郎, 回想:『堺文化会ニュース』100号, 『堺文化会ニュース』No. 100 (1993年5月10日).

  2. 「上林貞治郎」, フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 [2010年1月23日 (土) 01:13].

2010年1月22日金曜日

2010年1月21日木曜日

おしゃべり度の単位ディラック (Dirac, the Unit of Talkativeness)

 インターネットで最近流行の「ツイッター」なるものについて、昨20日づけの朝日紙「ニュースがわからん!」欄で解説してあった。私も一昨日から、アメリカの Twitter 本社に登録して、英語で書き始めた(英語も日本語も制限字数140)。

 一昨日は、いま読んでいるイギリスのノーベル賞物理学者ディラックの伝記 [1] はすばらしい本だと書いた。すると驚いたことに、昨朝、その本の著者グレアム・ファーメロ氏が私の発信文の閲読者(フォロワー)に登録してくれたことを知った。

 となれば、また、その本のことを書かなければと、まだ読んでないところに多分書いてあるだろう事柄を索引で探してみると、それについての説明(同書 p. 89)が、以前ナイジェール・コールダーの本 [2] (p. 25) で読んだのと異なっていた。そこで、どちらが正しいかという疑問を書いておいた。

 ディラックがあまりにも無口なので、彼の友人たちが「ディラック」という「おしゃべり度」の単位を冗談で作り、1時間当り1語と定義したということである。[2] では1年当り1語という、極端に少ないものだった。多分今度の本のほうが正しいのではないかと思うが、コールダーの本にある定義も面白味が大きく、捨て難い説明である。

 けさツイッターを開いて、ファーメロ氏へのリンクをクリックすると、彼からの次のような回答があった。「無口さの単位ディラックの定義について、残存する記録はない。コールダーは逸話のようなものに基づいて書いたのだろう。」

 早速お礼の言葉を発信した。ただし、ファーメロ氏が「無口さの単位 (unit of taciturnity)」といっているのは不正確だと思う。値が大きければよくしゃべることになるのだから、「おしゃべり度の単位 (unit of talkativeness)」というべきであろう。

文献

  1. G. Farmelo, The Strangest Man: The Hidden Life of Paul Dirac, Quantum Genius (Faber and Faber, London, 2009).

  2. N. Calder, The Key to the Universe (Viking, New York, 1977).

2010年1月20日水曜日

理系クン (Scientifically-Oriented Guys)

 先般、南部陽一郎博士についての過去の記事を見る必要があって、『日経ビジネス ONLINE』の無料登録をしたところ、ウィークデイには毎日、同紙記事の案内メールが届く。読みたい記事はあまりないが、2009年12月18日から週1回の連載で4回続いた「著者に聞く」コラムの「『ワタシの夫は理系クン』鼎談」という記事 [1] は、理系の私にとって少し面白く、斜め読みした。最終回の見出し「したくもない『雑談』をするスキルなんて、本当はいらないんじゃない?」は、まさに私がそう思って押し通して来たことを表しているかのようである。

 鼎談者は『ワタシの夫は理系クン』[2] の著者でアニメ・コミックを専門にするカルチャー系フリーライター・渡辺由美子、日経ビジネス ONLINE 副編集長・山中浩之、自らも「理系クン」と自覚する科学技術振興機構研究員・福地健太の各氏である。三氏の結びの言葉の概略を以下に紹介するが、どれも、私自身が長年の経験で理解してきたことである。

 渡辺:夫から聞いた「理系クン」的性分として、コミュニケーションに「100%完璧を求める」心理があるということに驚いたが、それは、私がつい考えてしまう「オールマイティであらねば」に近い心理だと思うと納得がいく。
 山中:コミュニケーションのカギは、話し方でなく好奇心・興味と気づけば、「誰とでも話す」ことは、自分をだまさない限り無理と分かる。無理はしなくていいから「食わず嫌い」を直す感覚で、自分の「興味・共感エリア」を増やしていくと、楽しく話のできる相手が広がる。
 福地:好きなこと最優先でかまわない。そもそもコミュニケーションは、100%でなくても失敗じゃない。

 いま伝記 [3] を読んでいるイギリスのノーベル賞物理学者、P・A・M・ディラックは、会話によるコミュニケーション嫌いの最たる人であった。

文献

  1. 「『ワタシの夫は理系クン』鼎談」1, 2, 3, 4, 日経ビジネス ONLINE (2009年12月18日〜2010年1月15日).

  2. 渡辺由美子, ワタシの夫は理系クン(エヌティティ出版, 2009).

  3. G. Farmelo, The Strangest Man: The Hidden Life of Paul Dirac, Quantum Genius (Faber and Faber, London, 2009).

2010年1月19日火曜日

カヒカテアの木々と山々 (Kahikatea Trees and Mountains)

 なおモエラキからグレイマウス駅へ向う途中。カヒカテアの木々と山々[ニュージーランド旅行の写真 126; 2004年1月13日]

 最近掲載したニュージーランド旅行の写真

2010年1月18日月曜日

『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』 ("Capitalism: A Love Story")

 マイケル・ムーア監督の新作映画『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』を先日見た。同監督は、アメリカの銃社会の問題を扱った『ボウリング・フォー・コロンバイン』や、ブッシュのイラク戦争を批判した『華氏911』などのドキュメンタリー映画で知られている。『キャピタリズム』は、2007年に始まった経済危機がアメリカにもたらしている諸様相を取り上げ、その元凶が、経営者と金持ちがマネー愛におぼれる資本主義の構造でることを痛烈に指摘している。

 だれもが裕福になれる可能性があるというアメリカン・ドリームにだまされて来た労働者・住民が、力を合わせて銀行に立ち向かう場面などからは、日本の国民も大企業優遇の政府にだまされ続けていてはいけないというメッセージを感じないわけにはいかない。日本は労働者の団結の自由を保障した憲法を持っている点で、アメリカよりもましであるように述べた箇所があったが、最近は労働組合の組織率が年々低下し [1]、現実には憲法で保障された団結権はいささか空文化しているといえよう。

 バラク・オバマの大統領当選が、アメリカにおける明るい兆しとして描かれているが、一昨日の朝日紙は、「フロント・ランナー」欄でムーア監督を取り上げ、彼が昨年12月1日に来日した際、その日、オバマ大統領がアフガン増派を発表する予定であることに落胆していたと伝えている [2]。私もオバマ大統領のアフガン増派政策と、その釈明を中心とした彼のノーベル平和賞受賞講演には、大いにがっかりした。

 なお、ムーア監督はこの映画で、資本主義に代って、民主主義が進められるべきだとの見解を発しているように取れた。しかし、資本主義とは経済構造を中心とした面から見た社会のありようであり、民主主義とは政治の運営形態を中心とした面から見た社会のあり方であって、分類の範疇が異なる。経済構造が政治の運営形態に大きく影響するにしても、概念としては、民主主義のもとでの資本主義や社会主義は、ともにあり得る。この映画が指摘している通りの資本主義の欠陥を是正するはずの社会主義が、独裁主義と多く結びついて来たのは、人類にとって不幸な歴史であろう。

 ただし、民主主義が資本主義に取って代るべきと主張しているように取れたのは、日本語字幕のせいかも知れない。英語ではこれらは democracy と capitalism であって、語尾が異なるため、前者がそっくり後者の代替物になり得るという感じは出にくい。

文献

  1. 「労働組合」, フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 [2009年12月14日 (月) 13:20].

  2. 石飛徳樹,「映画監督マイケル・ムーアさん(55歳):反骨の人、資本主義にメス」, 朝日新聞, 2010年1月16日づけ, p. b1.

2010年1月17日日曜日

中国との交流記(3)(Academic Exchanges between China and Me)

 [大連嶺前小学校同窓会会報『嶺前』第30号(2009年12月発行)に掲載した文を転載する。]




 先号まで2回にわたって、私が初めて上海と北京の大学・研究機関を訪れて交流したときの記録を紹介した。その翌年の春には、上海と北京でそれぞれ世話になった F、C 両先生が京都で開催された会議にそろって来日され、会議のあと、私が当時務めていた大阪府立放射線研究所へ寄ってもらうことができた。今回はまず、その記録を紹介する。

×    ×    ×


C、F 両教授を招いて:放射線談話会報告(1989年)

 さる4月17日、北京師範大学の C 教授が来所し、新装なった講堂で、同大学の簡単な紹介に続き、「ポリプロピレンの放射線耐性にかかわる因子」と題する講演を行った。また、同時に来所した上海科学技術大学の F 教授が、好意により、「社会に利益をもたらす放射線プロセシング」と題する賛助講演を行った。

 放射線談話会の講演要旨を本紙[引用時の注:『大放研だより』]で紹介することが習わしになっているが、今回は、その主講演の内容が談話会の世話をした筆者の専門分野と異なっていたので、C 先生に要旨の送付を頼んでおいた。しかし、最近の中国国内情勢[引用時の注:同年6月、天安門事件があった]のためか、C 先生からは、帰国後なんの音信も届いていない。そこで、例外的に演者たちのプロフィルを少し詳しく紹介し、談話会報告に代えることにしたい。

 昨年筆者が両先生に招かれて講演し、歓待にあずかってきたところであるが、さる4月10日から15日まで京都で開かれた日中放射線化学シンポジウムのため両先生が来日し、お返しの招待をする絶好の機会ができたのである。

 C 先生は、1953年に Fuzon 大学を卒業し、以後、北京師範大学化学系において研究と教育を続けている。この間、1982年から1983年までアメリカのメリーランド大学へ留学した。主な研究テーマは、化学線量計の開発と、放射線耐性を持った高分子の開発である。国際会議や IAEA の会合などのため、これまでにも4回、日本を訪問している。F 先生と同様に、国際的な研究協力に強い関心と熱意を持っている。同じく北京師範大学化学系の教授で無機化学が専門の夫君との間に、一男一女がある。

 F 先生は1953年にアメリカのウィスコンシン大学を卒業し、1958年頃、ハーブ教授の下でぺレトロン開発のリーダーとして活躍した。1959年に中国へ帰り、以後、上海科学技術大学において、放射線物理学、放射線技術の分野で活躍して来た。現在、IAEA の放射線技術とその応用に関する地域専門家会議において指導的な役割を果たすとともに、上海放射線線量測定委員会委員長、上海放射線センター顧問などを務めている。将来に向けての主な関心はマイクロドシメトリーとのことである。夫人との間に一男がある。

 4月15日の午後、両先生を京都の宿舎へ迎えに行き、筆者の家に二晩泊まって貰った。翌日曜日にどこかへ案内しようかと思ったが、F 先生はシンポジウムで疲れたので家でくつろぎたいと言い、C 先生も翌日の講演の準備をしたいとのことだった。午後、F 先生は筆者の娘に少し手伝わせて、4品の中国料理を作り、もてなしてくれた。その手際のよさと、美しく味のよいてきばえに感心した。彼はビールをたいへん好み、酔いがまわると、自慢ののどでアメリカの歌をいくつも聞かせてくれた。C 先生はやさしい性格の持ち主で、筆者の家のネコが、よくなついた。

 追記:7月始め C 先生から要旨が届いた。

[大放研だより Vol. 30, No. 1, p. 23 (1989) から引用]

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 さらに、その翌年、私は上海科学技術大学の F 教授の招きに再度応じることになった。以下はその記録である。

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上海再訪(1990年)

 さる10月22日から出入りを入れて5日間、2年前に続いて2回目の上海訪問の機会を得た。ちょうどその週、NHK テレビのモーニングワイドの時間に、最近の上海の様子を紹介する特別企画があった。それをご覧になった方がたは、それを見ないで現地のごく一部を覗いてきた私よりも上海について多くをご存じかも知れない。しかし、なまの見聞からは、また別の印象も伝えられるかと思い、あえて上海再訪記をつづることにした。

 2回の訪間の間には1989年6月の天安門事件があった。しかし、私たちの職場では、すでに89年10月、こんども私を招いてくれた F 教授のほか2人の放射線専門家を招いて、科学・技術の交流を行なっている。そのとき、高齢者に属する F 先生は、その頃一英文誌に掲載されていた天安門事件の記事も一べつした上で、中国の若者たちがあまりにも急激な変化を求め過ぎるので、強く取りしまられるのも仕方がないとの見方を述べていた。しかし、今回の帰国前夜に一時間あまり話し合った F 先生の助手の、まだ若い X 博士は、中国政府が軍隊を使って弾圧をしたことに対しては批判的であった。ひとつの研究室内に中国の縮図を見る思いがした。

 私の乗った中国東方航空の便は、出発から到着まで予定よりかなり遅れていたが、出迎えの F 先生の到着のほうが遅かった。中国語の話せない私は、英語で話し合える F 先生をみつけたときは、本当にほっとした。私たちの研究に最も関心を持っているのは F 先生のところの W 副教授だが、彼女は北京へ出張中で、翌日はまだ帰らないとのことだった。それで F 先生は、私が第一夜を市街部の北西にある金沙江大酒店というホテルで過ごし、翌23日に市内見物をしたあと、夕方、郊外にある上海科学技術大学の室舎に移るよう計らってくれた。

 金沙江大酒店の付近は高層アパートの建ち並ぶ住宅地で、夜はたいへん静かだった。F 先生は、日本のある女優が結婚後、夫とともにこのホテルに泊まったと話し、独身時代にはみな、もっと賑やかな場所のホテルを好む、とつけ加えた。朝、窓外を見ると、団地の向こうに中山公園と思われる緑地帯が望まれた。

 市街には相変らずたくさんの人びとがうごめいていたが、前回の訪問時よりも服装の現代化がかなり進んで、若い人たちのほとんどは日本の町で見かける人たちと変わらない格好をしているようだった。そういえば、前回、人民服に似た紺色の上着とズボンを着用していた W 先生も、今回は青い上着の内側に真っ赤なジャケットをのぞかせていた。また、X 博士は私に「ひとつお願いがあるのですが」といって、彼の夫人のために日本のドレスメーキングの本を2、3冊送ってほしいと頼んだ。

 24日は土砂降りの雨となった。宿舎の窓から見ると、自転車で通勤通学する人びとが、みな一様に、帽子つきのうす青色の雨ガッパを着て、ゆう然と進んで行く。自転車に乗った人たちが片手で傘をさし、足早にペダルを踏んで、あっという間に駆け抜けて行く日本の雨の朝の光景とは、だいぶん趣きが異なっている。

 この雨の中を私に研究室まで来て貰うのは気の毒だといって、その日の午前は F 先生、W 先生、それにもう一人の女性の副教授が宿舎の私の部屋へ研究の討論に来てくれた。宿舎の部屋には、寝室のほかに、書斎用の机・いすと応接セットの備わった別室が付属しているので、そこでゆっくり討論することができた。午後は、いくらか小降りになった雨の中を F 先生の研究室へ出かけ、一時間半ばかりの講義をした。

 翌25日は、市街部にある上海輻射中心(日本風にいえば、放射線センター)と上海計量研究所の放射線部門を再訪した。前者では、貯蔵期間を延ばすためにガンマ線を照射した果物の試食にあずかった。ここでは、食品保存の研究がおおむね目標達成に近づいたので、新しく低エネルギー電子線加速器を設置して、放射線化学的技術の開発に向う予定とのことだった。

 日本では企業の研究所で行なっているような開発研究も、中国では大学や国の研究機関で進めなければならず、F 先生は大学間の交流に加えて、今後は日本の企業の技術的指導や援助を大いに期待したいといっていた。私は、わが国では政府の進める「産官学共同」の科学技術政策のもとで、基礎研究の枯渇の恐れがあることや、わが国の企業はその豊かさにもかかわらず、長期的視野での投資を好まない傾向にあることの具体的な例を話した。あとの話に対して F 先生は「いつどこでも、金持ちは近視眼的なものだ」といって笑った。

 敗戦後しばらく中国に残留した私の知人[引用時の注:嶺前小で2年先輩の I さん]が中国の大学で学んで帰国し、そのすぐあとで、同じ経験をした人たちとともにその思い出を執筆し出版したことを、私は最近知った。その本の中で、執筆者たちは異口同音に、少し前まで敵国民であった自分たちに対して、中国の先生や学生たちがいかに温かく親切であったかを印象深く記していた。それを読んだ私は、中国の人たちが困っているときには、われわれ日本人はできる限りの援助をしなければならないと強く感じたということを、25日の上海輻射中心主催の昼食会の席で話した。

 到着した日の夕食時、F 先生は東欧の政治的変化に触れ、「それは決して社会主義の崩壊を意味するものではない。伝統あるものがたやすく崩壊しはしない。人類の太古の暮らしは社会主義的だったのだから」との彼の考えを語った。中国の政治が、人類のよい伝統を正しく発展させる方向に進むことを心から望みたい。

[『堺文化会ニュース』No. 85 (1990年11月) から転載]

(つづく)

2010年1月16日土曜日

ロウバイ (Wintersweet)

 ロウバイ(蝋梅、蠟梅、臘梅、唐梅): 学名 Chimonanthus praecox。名前に梅がついているので、バラ科サクラ属と誤解されやすいが、ロウバイ科ロウバイ属の落葉広葉低木。1月から2月にかけて黄色い花をつける。花の香りは強い。ソシンロウバイ(素心蝋梅)、マンゲツロウバイ(満月蝋梅)、トウロウバイ(唐蝋梅)などの栽培品種がある。よく栽培されているのはソシンロウバイで花全体が黄色。(以上 [1] による。)花言葉は「先導」「先見」「慈愛」 「優しい心」[2]。

 昨年、数輪しか花をつけなかったわが家の植木鉢のロウバイが、今年は沢山の花を咲かせている。上に引用した説明によれば、ソシンロウバイという品種かと思われる。写真は2010年1月11日に撮った。

文献

  1. 「ロウバイ」, フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 [2010年1月3日 (日) 10:23].

  2. 「ロウバイ」ウェブサイト『花言葉事典』.

2010年1月15日金曜日

サザンカ (Sasanqua)

サザンカ サザンカ 咲いたみち
たき火だ たき火だ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ
霜焼けおててが もうかゆい

 上の歌詞は巽聖歌(たつみ せいか、1905−1973)が作り、渡辺茂が曲をつけている「たきび」の二番だが、サザンカの花を見ると、その一行目だけがふと思い出される。写真は、近くの地蔵堂脇に咲いていた八重のサザンカ。2010年1月10日に写した。

 ふと思い出す歌の一部といえば、「勝って来るぞと 勇ましく 誓つて故郷(くに)を 出たからは」というのがある。私がごく幼い頃、小学校2年生くらいだった6歳上の兄がこの歌を歌いながら炬燵の周りを歩くと、私はそれにつき従って行進していたと、母から聞いたことがある。インターネットで調べると、この歌は1937年9月に出来た「日中戦争時代の軍歌第1号『露営の歌』」とある [1]。母がいっていた年代とよく一致する。まさにその頃からの、いま憲法9条を守りたいと切に思っている私の、軍国主義にまみれた持続的記憶なのである。この歌の五番の最後は「東洋平和の ためならば なんの命が 惜しからう」となっている。侵略戦争を「東洋平和のため」といいくるめた軍国思想、恐るべし。

文献

  1. 田村譲, 「軍歌」, ウェブサイト「たむたむ(多夢・太夢)ページ」.

2010年1月14日木曜日

クロガネモチ (Round leaf holly)

 クロガネモチ(黒鉄黐): 学名 Ilex rotunda、モチノキ科モチノキ属の常緑高木。雌雄異株で、花は淡紫色、5月から6月に咲く。たくさんの果実を秋につける。果実は真っ赤な球形で、直径 6 mm ほど。関東以西に多く、しばしば庭木として用いられ、比較的都市環境にも耐えるため、公園樹、あるいは街路樹として植えられる。「クロガネモチ」が「金持ち」に通じることから、縁起木として庭木として好まれる地域もある。(以上 [1] による。)花言葉は「魅力」「寛容」「執着」「仕掛け」[2]。

 写真は実をつけているクロガネモチ。2010年1月9日、堺市・鈴の宮公園で。

文献

  1. 「クロガネモチ」, ウィキペディア日本語版 [2009年11月9日 (月) 06:30].

  2. 「クロガネモチ」, 楽天 ICHIBA.

2010年1月13日水曜日

利休鼠 (Rikyūnezumi: A color)

 一日小雨の降り続いた昨日、こんなことを考えた。

 ♪雨がふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふる …♪ という歌がある(「城ヶ島の雨」、作詞・北原白秋、作曲・梁田貞)。利休鼠とはどんな色か。『広辞苑』(第三版)でその説明を見ると「利休色のねずみ色を帯びたもの」とある。「利休色」を見ると「緑色を帯びた灰色」とある。そこで後者の説明を前者の説明に代入すれば、「利休鼠」とは「緑色を帯びた灰色のねずみ色を帯びたもの」となる。

 「ねずみ色」の説明を見ると、「青ばんだ淡い黒色、灰色」である。とすれば、「ねずみ色」は「灰色」と等置出来るだろう。上に書き換えた「利休鼠」の説明中の「ねずみ色」へ「灰色」を代入すれば、「利休鼠」とは「緑色を帯びた灰色の灰色を帯びたもの」の説明を得る。つまり「わずかに緑色がかった灰色」であろうか。

 ただし、「ねずみ色」の説明にある「青ばんだ淡い黒色」と「灰色」は完全には同等でない気もする。「灰色」の説明には「灰のような薄黒い色」とあって、「青ばんだ」がないからである。「ねずみ色」の含む「青ばんだ」を考慮して、正確を期せば、「利休鼠」とは、「わずかに緑青色がかった灰色」となろうか。

 上の写真は昨日、雨雲のかかっている空を撮って、緑と青の中間の色をわずかに施す加工をしたものである[Pixelmator Version 1.5 Spider (Pixelmator Team Ltd., 2009) 使用]。城ヶ島の雨が利休鼠であるのは、雨や雨雲自体がその色をしているのではなく、雨滴を透して磯が見える情景の色であろうが、わが家にいて磯の写真は撮れないので、雨雲で表した次第である。

 ここまで書いて、インターネットの辞書「goo 辞書」を見ることを思いつき、調べると、「りきゅう-ねずみ」の説明に「わずかに緑色を帯びた鼠色(提供元:「大辞林 第二版」)」とあった。同じ「大辞林 第二版」の「ねずみ-いろ」の第一の説明は、「鼠の毛のような青みがかった灰色」で、『広辞苑』の説明と同じく青を含んでいる。したがって、この辞書の「りきゅう-ねずみ」の説明には「青ばんだ」も入っていることになり、完ぺきなようである。しかし、「鼠色」が「青みがかった灰色」と理解している人は、どれくらいの割合いるだろうか。

 なお、[1] によれば「利休鼠」の RGB 値(16進数および sRGB 色空間による、HTML の color 属性;インターネットで使用されるもの)は "#54745C" となっており、それを使って表したこの文の文字が「利休鼠」の近似色である(閲覧環境によっては、色が適切に表示されない場合がある)。

 同じ『ウィキペディア日本語版』の「利休鼠」のページの説明では、「緑色がかった灰色」で、これでは『広辞苑』の「利休色」と変らない。そのページには、HTML の color 属性を「16進表記」の名で "#888E7E" としている。このパラグラフの文字の色がそれである。

 色全般についての『ウィキペディア日本語版』の項目としては、[1] のほかに、[3]、[4] もある。[4] に相当する英語版のページ [5] には、日本語版にはない「歴史」の項目があり、日本語版では色名の「あいうえお順」で各色の説明ページがリンクされているのに対し、英語版では色シリーズごとに分けた表を同じページ内に入れて説明しているのもよい特色である。「利休鼠」はその英語版ページでは "Green/Blue Green Series" に入れられており、やはり「青み」が関わっていることが分かる。HTML の color 属性は "Hex triplet" の名で "#656255" としてある。このパラグラフの文字の色がそれである。同じ「利休鼠」でも見立てはいろいろであり、互いにかなり異なる。私が想像して写真に表した色は "#54745C" に近い。

文献

  1. 「色名一覧」, ウィキペディア日本語版 [2009年12月13日 (日) 02:41].

  2. 「利休鼠」, ウィキペディア日本語版 [2007年11月9日 (金) 17:24].

  3. 「色」, ウィキペディア日本語版 [2010年1月8日 (金) 17:56].

  4. 「日本の色の一覧」, ウィキペディア日本語版 [2009年10月23日 (金) 12:55].

  5. "Traditional colors of Japan," Wikipedia, the free encyclopedia (21 December 2009 at 22:27).

2010年1月12日火曜日

キダチアロエ (Aloe arborescens)

 キダチアロエ:学名 Aloe arborescens、アロエ属の多肉植物のうち、普通観賞用に栽培されるものをいう。「木立ち」の名の通り茎が伸びて立ち上がる。暖地では戸外でも育ち、冬に赤橙色の花をつける。葉の外皮は苦味が強いが、葉内部のゼリー質は、食用に使用されるアロエベラ (A. vera) と変わらず、苦味はない。アロエ属の科は分類体系によって異なっており、アロエ科、ユリ科、ツルボラン科のいずれかとなる。(以上、[1] の一部をキダチアロエを主体に編集し直して引用。)花言葉は「健康」「万能」「迷信」[2]。

 写真は2010年1月9日、堺市・石津川のほとりで。一昨年からこの場所に群生するキダチアロエを撮影しているが、年ごとに少しずつ増えているようだ。わが家の庭にもこの植物が数株あるが、日当りのよくない場所へ押しやってあるせいか、とんと花を咲かせない。

文献

  1. 「アロエ」, ウィキペディア日本語版 [2010年1月8日 (金) 09:11].

  2. 「アロエ」, 花言葉事典.

2010年1月11日月曜日

ツメレンゲ (Orostachys japonicus)

 ツメレンゲ(爪蓮華):学名 Orostachys japonicus、ベンケイソウ科イワレンゲ属に分類される多年生の多肉植物で、古典園芸植物のひとつ。和名はロゼット(地中から放射状に直接出ている葉の集まり)の様子が仏像の台座(蓮華座)に似ており、かつロゼットを構成する多肉質の葉の先端が尖っていて、その形状が獣類の爪に似ることから。(以上、[1] による。)花言葉は「誠実」[2]。

 写真はわが家の植木鉢に咲いたツメレンゲの花(2009年12月25日撮影)。このところ毎年、花茎が二、三本延びて花を咲かせていたが、この冬は一本で、しかも短く、少し寂しい。

文献

  1. 「ツメレンゲ」, ウィキペディア日本語版 [2009年10月13日 (火) 14:10].

  2. ウェブページ「花咲か里: ツメレンゲ」(2009年11月16日).

2010年1月10日日曜日

ネリネ属 (Nerine)

 ネリネ属 (Nerine) は、南アフリカ原産のヒガンバナ科(生物分類表に採用のクロンキスト体系ではユリ科)の属のひとつ。ネリネ属にはおよそ30種があって、栽培や交配などがなされており、現在では広く分布している。全体的にアマリリスと比べて小さいが、特徴がよく似ている。似た特徴を持つ植物としてリコリスもある。(以上 [1] による。)名はギリシャ神話の海の妖精ネレイスにちなむ [2]。花言葉は「はなやか」「また会う日を楽しみに」「幸せな思い出」「輝き」「忍耐」「箱入り娘」[3]。

 写真はわが家の庭に咲いたネリネ(2009年12月25日撮影)。このところ毎年一本の茎が出て花が咲く。増えれば、もっと嬉しいのだが。

文献

  1. 「ネリネ属」, ウィキペディア日本語版 [2009年11月28日 (土) 16:48].

  2. 湯浅浩史・文, 矢野勇・写真, 愛蔵版・花おりおり (朝日新聞社, 2002).

  3. 「ネリネ」, 花言葉事典.

2010年1月9日土曜日

ライン河、マイン河の船旅(41) (Cruise on the Rhine and Main 41)

補遺 3

 旅の第11日目、11月27日には、船でいつもより1時間15分早い6時から朝食をとり、7時に下船。バスでアムステルダムへ行き、10時55分発のルフトハンザ機でフランクフルトへ。そこから14時10分発のルフトハンザ機で関西空港へ向かい、第12日目となる11月28日、午前9時20分に到着した。

 関西空港からわが家の最寄り駅までJR阪和線で向かう沿線の、紅葉の名残を示していた木々はドイツよりも美しいのだが、町並みはいかにも貧相に見えて仕方がなかった。ドイツでは、日本のように小さな住宅が密集しているところがなく、船やバスで通り過ぎたところにポツリポツリと見えた小さな町や村も、みな美しかったのがうらやましく思われる。あまり美しいとはいえない工業地帯もちらりと見えはしたけれども。

 ドイツでは、建築物の材料が日本の家屋より保存に適しているということがあるにしても、空襲で破壊されたところでも、昔の様式のままに復元しているのが素晴らしい。自国伝来のものに強い誇りを持っていることの現れであろう。その反面、過去のナチズムに対しては徹底的な反省がなされたが、日本では侵略戦争に対する反省が不十分で、それを美化する人々さえいることは恥ずかしいではないか。

 上記の感想は、帰国後、一友人へのメールにすでに書いたものだが、その後読んでいた加藤周一の著書 [1] に、私の感想に通じる文があり、わが意を得たりと思ったことであった。その文は、京都で庭園設計をしていた芸術家、マーク・ピーター・キーン氏についての話の中で、京都の路地と家並みが美しかったので米国の爆撃目標からはずされたといわれているにもかかわらず、戦後日本の不動産業者がその大部分を破壊したことを歎いているものである。そして、欧州には「歴史的中心部」の破壊を放置する町はない、とも記している。いまからでも、日本の行政が歴史的町並みの保存にもっともっと力を入れることが望まれる。

わが家の玄関先で出迎えてくれたヒッペアストラム(アマリリス)の花。

 わが家の植木鉢で育てているアマリリスが3年ほど前から12月に花を咲かせるので、不思議に思っていたが、ドイツでも旅行中に花の咲いたアマリリスが売られているのを見た。『ウィキペディア』で調べると、一般に「アマリリス」と呼ばれているのは、Hippeastrum 属の園芸雑種、とある [2]。そこで、"Hippeastrum" で検索すると、英語版『ウィキペディア』のページがあり(日本語版はまだない)、「この植物は一般に、しかし間違ってアマリリスと呼ばれている」とあって、また、冬期に咲くものもあることが記されていた [3]。出発前につぼみをふくらませていたわが家のヒッペアストラムが、留守中に花開いて私たちの無事帰国を祝ってくれた(上の写真)。

 このシリーズを何人かの方々が続けて読んで下さり、温かいお言葉もいただいたことに感謝を表する。なお、[4] には、セレナーデ号に同船した方が、上手に、またマメに撮影された多数の写真をスライド・ショー形式で連載しておられたことを付記しておく。

(完)

文献

  1. 加藤周一, 『高原好日——20世紀の思い出から』(ちくま文庫, 2009).

  2. 「アマリリス」, ウィキペディア日本語版 [2009年10月27日 (火) 09:59].

  3. "Hippeastrum," Wikipedia, the free encyclopedia (21 December 2009 at 18:10).

  4. ぐりぐらのフォトログ (2009年12月2日〜2010年1月4日).

2010年1月8日金曜日

ライン河、マイン河の船旅(40) (Cruise on the Rhine and Main 40)

補遺 2

 前回記したハイデルベルクの聖霊教会にある原爆関連のステンドグラス窓「物理学の窓 (Physik-Fenster)」について、ドイツ語のウェブサイトを調べたところ、次のことが分かった。この窓はヨハネス・シュライター (Johannes Schreiter) が設計し、1984年に製作された。他に一連の窓が設計されたが、進歩的過ぎるとみなす人たちとの論争があり、それは1986年に終結したものの、これ以外の窓は作られなかった [1]。一連の窓は「物理学の窓」を含めて六つ設計されており、それらの設計写真が詳しい説明つきで [2] に掲載されている。設計されながら作られなかった五つの窓は「医学の窓」「生物学の窓」「音楽の窓」「哲学と文学の窓」「祝福と主の祈りの窓」である。

 文献 [2] の説明によれば、「物理学の窓」の上部には、原爆の惨禍を連想させるような、新約聖書の「ペテロの第二の手紙」第3章10の言葉「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」が記されている。それに続いて、旧約聖書の「イザヤ書」第54章10の「(山は移り、丘は動いても、)わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない と あなたをあわれまれる主は言われる」という、救いの言葉が記されているのである(聖書の和訳は [3] による)。――地球を破滅させる原爆使用の惨禍からの救いをもたらす主とは、核兵器廃絶をめざす世界中の人々の強い連帯とその広がりでなければならないだろう。――

ロルヒハウゼンの街。

 旅の9日目、ライン河古城渓谷クルーズの途中、バッハラッハの街とシュターレック城を撮影したのとほぼ同時刻に撮ったライン河右岸の街(上の写真)の名前が分からなくて、掲載を省略していたが、インターネットでふと、ロルヒハウゼン (Lorchhausen [4]) と分かった。

 (補遺は明日もう1回記す予定。)

文献

  1. "Heiliggeistkirche (Heidelberg)," Wikipedia: Die freie Enzyklopädie (15. November 2009 um 20:37 Uhr).

  2. "Gemeindehaus: Ausstellungen," Web site 'EGS Marburg' (2008).

  3. 『聖書』(日本聖書協会, 1955).

  4. "Lorchhausen," Wikipedia: Die freie Enzyklopädie (13. November 2009 um 18:50 Uhr).

2010年1月7日木曜日

ライン河、マイン河の船旅(39) (Cruise on the Rhine and Main 39)

補遺 1

 前回、旅の10日目夕刻の「さよならカクテルパーティ」の写真を出し、添乗員さんたちへの謝辞を述べたところで、旅行記は一応終了の形となったが、書きもらしたことなどを少し加えておきたい。

ハイデルベルク城から見た聖霊教会。

 ハイデルベルクの聖霊教会(Heiliggeistkirche、上の写真)には、赤い色で広島に落とされた原爆の悲劇を表し、その悲劇の年月日とアインシュタインの質量とエネルギーの等価を示す有名な方程式 E=mc2 を記して、科学が使い方を誤れば悪にもなることへの反省を込めたステンドグラスがある旨、現地ガイドさんから説明があった。内部の見学は希望者が自由時間に、ということだったので、妻と私は解散後まずそのステンドグラスを見ようと、ハウプト通りをまっしぐらに聖霊教会まで戻った。そして、入り口の重い扉を押し開けて中へ入ったが、中には前面と左右にガラス扉があり、それらには鍵がかかっていて、それ以上中へは行けなかった。向って右のガラス扉から、見たいステンドグラスの下端をわずかに覗くことが出来ただけだった。

 あとで、同行のUさん夫妻から、私たちよりあとの時間に行ったところ、ガラス戸は開いていて、中まで入って見ることが出来たと聞いた。Uさん夫妻はそれほどの見ものでもないようにいわれたが、核兵器廃絶を切に願う私としては、見損ねたことをまことに残念に思ったのだった。「ハイデルベルク 聖霊教会 原爆」のキーワードでグーグル検索をすると、そのステンドグラスの写真を掲載している何人かの人たちのウェブページが出て来る。クリックして拡大し最も大きく見ることの出来るのは [1] に掲載のものかと思われる。説明文としては [2] にある次のものが比較的詳しい(引用にあたり著者・オフィスダンケの許可を得た)。文中「左手」とあるのは、「右手」が正しいかと思う。私もよく右と左を書き間違えるのだが。

 聖霊教会内部に入ったすぐ左手の窓は、燃えるような赤のステンドグラスで、印象的な窓がある。これは、大学の学部を象徴するようなデザインで窓を飾ろうというアイデアがあり、試みにひとつ作られた。「物理学の窓」といい、聖書の引用と、広島に原爆投下された悲劇の日付が刻まれている。赤いのは、愛でなく暴力を表すという。

 (補遺は明日も続く。)

文献

  1. 「聖霊教会 (Heiliggeistkirche)」, ウェブサイト『ただいま実験中! from ロマンチック街道』(つるっぺ, 2007).

  2. 「(8) 聖霊教会」, ウェブサイト『カッチイのドイツ旅行案内』(Office-Danke, 2009).

2010年1月6日水曜日

ライン河、マイン河の船旅(38) (Cruise on the Rhine and Main 38)

ケルン大聖堂とその横の広場のクリスマス市。

 旅の10日目の11月26日、ケルン大聖堂横の広場にもクリスマス市が華やかに開店していた(上の写真)。自由時間に大聖堂の内部を見たあと、博物館のどれかへ入るには時間が不足かと思われ、ホーエ通りでショッピングをするあてもない私たち夫婦はいささか時間を持て余した。その間に撮った写真は下の1枚だけである。

クリスマスの飾りつけをしてケルンの街を走るトレーラーバス。

 船は17時にケルンを出港した。セレナーデ号で過ごす最後の宵を迎え、17時30分から、2階ロビーでのグループ毎の記念撮影、18時から3階ラウンジで「さよならカクテルパーティ」、18時30分から2階レストランで「さよなら夕食会」と、行事が続いた。

セレナーデ II 号の主要クルー。

 上の写真は「さよならカクテルパーティ」で挨拶しているセレナーデ II 号の主要クルー。左から、船長 ヤン・テンセン氏、ホテルマネージャー ベン・フェルショア氏、総料理長 マイケル・ツォルン氏、パーサー アドリアン・バローさん(私のスケッチ中の姿の写真を撮った人)である。写真掲載は省略するが、似た雰囲気で三姉妹と自称して3つのグループを分担していた添乗員の N.S.さん、A.Y.さん、N.N.さん、そして、関空を出発してミュンヘンから観光を始めた私たちグループがニュルンベルクまで面倒を見ていただいた M.O.さん、船の駐在員の E.A.さん、の皆さんにも大変お世話になり、楽しい旅が出来たことに感謝して、旅行記を一応終えることにする。(明日は補遺を記す予定。)

2010年1月5日火曜日

ライン河、マイン河の船旅(37) (Cruise on the Rhine and Main 37)

白雪姫の像。

 上の写真は旅の10日目の11月26日、ケルンの街の中で現地ガイドさんから説明のあった白雪姫の像である。像の下の左右には、いろいろな仕事をする小人たちの姿がユーモラスに作られている。

 解散後の自由時間にはまずケルン大聖堂の内部を見た。そこで撮った写真の一部を下に示す。1枚目の「町の守護聖人の祭壇(Altar der Stadtpatrone; Dreikönigsaltar とも呼ばれる)」は、「東方の三博士 (Heilige Drei Könige)」をテーマにした、シュテファン・ロッホナー (Stefan Lochner) による1445年頃の作品 [1]。2枚目の写真は南側廊にある一連の五つの窓「バイエルン窓 (Bayernfenster)」の一つで、中段に「東方の三博士と羊飼いによる崇拝 (Die Anbetung durch die Heiligen Drei Könige und die Hirten)」の場面が描かれている。バイエルン窓はバイエルンの王ルートヴィヒ1世が贈ったものである [2]。3枚目の写真は、深い奥行きと際立った高さをもった本堂。

町の守護聖人の祭壇。

バイエルン窓の一つ。

本堂。

文献

  1. "Dreikönigsaltar (Stephan Lochner)," Wikipedia: Die freie Enzyklopädie (4. Dezember 2009 um 12:06 Uhr).

  2. "Bayernfenster," Wikipedia: Die freie Enzyklopädie (31. Oktober 2009 um 12:19 Uhr).

2010年1月4日月曜日

ライン河、マイン河の船旅(36) (Cruise on the Rhine and Main 36)

ライン河からのケルン大聖堂の眺め。

 旅の10日目の11月26日、正午に船はケルンに入港した。その少し前にケルン大聖堂(Kölner Dom、正式名称はザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂 Dom St. Peter und Maria)が見えて来た(上の写真)。

 現存のケルン大聖堂は3代目である。初代が完成したのは4世紀で、最も古い聖堂として知られていた。818年に完成した2代目は、1248年に火災で消失した。その年のうちに3代目の建設が始まったが、完成したのは600年以上のちの1880年だった。第二次世界大戦時の空襲で内部は激しく破壊されたものの、全体は崩れることなく、1956年まで復旧工事が行われ、復元された。この際に周囲の廃墟から再利用した粗悪なレンガを使った部分があったが、1990年代に入り空襲前の外観に戻す作業が始まっている。1996年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された(以上、[1] から要約)。

 13時に下船して、徒歩でケルン市内の観光に出かける。ケルン (Köln) は、ローマ帝国によってローマ植民市として建設されたライン河中流の古市で、ケルンという名はラテン語で植民市を意味する Colonia に由来する。現在の人口は約10万人 [2]。

ケルン大聖堂でこれから結婚式を挙げるカップル。

 ケルン大聖堂に近づくと、腕を組んで並んでいる若いカップルがいた(上の写真)。現地ガイドさん(写真左端)が、結婚式を挙げたばかりかと尋ねると、これからだと答えた。私たち一同は拍手を贈った。高さ157メートルの大聖堂の塔は、近くからでは写真に収まりきらない(下の写真)。現地ガイドさんからは大聖堂の詳しい説明を聖堂前で聞いたあと、内部見学は希望者が自由時間中にということで、市内中央部のショッピング・ストリート、ホーエ通り (Hohe Strasse) まで案内して貰い、そこで解散となる。

近くで見たケルン大聖堂の塔。

文献

  1. 「ケルン大聖堂」, ウィキペディア日本語版 [2009年12月20日 (日) 13:28].

2010年1月3日日曜日

ライン河、マイン河の船旅(35) (Cruise on the Rhine and Main 35)

船室の壁面に掛かっていた絵。

 旅の9日目、11月25日のライン河古城渓谷クルーズが終わった夕刻、船室のベッド頭部側の壁面に掛かっていた、いささかユーモラスな水彩画と、その周辺をスケッチした(上のイメージ)。絵にあるサインは外人名のようだったが、モデルたちは日本人らしくも見える。船のパンフレットにある客室の写真にもこれによく似た絵が写っているところを見ると、どの部屋にも同じ画家の絵が掛けられているのかも知れない。

 旅の10日目の11月26日、朝7時30分に船はアンデルナッハを出港し、ケルンへ向かう。朝食後、9時から、日本茶と和菓子のティータイムがあり、ゆったりとクルーズを楽しむ。この間に、眼前をゆるやかに流れて行く風景を船室からスケッチしたのが下の2枚である。

アンデルナッハからケルンへのライン河畔の眺め 1。

アンデルナッハからケルンへのライン河畔の眺め 2。

 1枚目は、朝食後間もなくで、まだ日が高くなかった時間のものである。船の進行方向は絵の右側で、中ほどの二軒の家は、右側に見え始めたばかりのときに、スケッチブック中の、風景が流れ去る方向へ移動した位置へ描いた。したがって、実際には屋根の傾斜面の上下の端が川岸にほぼ平行であるような向きに建てられているのであるが、向かって左の壁面が見える状態になっている。他方、続いて描き足した右端の家は、それらの二軒と同じ向きに立っていたのだが、眼前左寄りへ通り過ぎたところを見て描いたので、逆に、向って右の壁面が見える状態になった。よくいえば、船の進行ないしは時間の流れを取り込んだ絵であるが、悪くいえば、実景をごまかして描いたものである。

 2枚目のスケッチのときには、かなり日が高くなっていた。船はやはり進行中で、かなり離れて立っていた家々を寄せ集め、その間の家々を省略するなどの修飾をしている。今回の旅でのスケッチは、ここまでに掲載した11枚で全部である。観光地での自由時間にも立ち止まって描くには、気温が低過ぎたのが残念だった。

2010年1月2日土曜日

ライン河、マイン河の船旅(34) (Cruise on the Rhine and Main 34)

シュトルツェンフェルス城。

ラーネック城。

 旅の9日目、11月25日のライン河古城渓谷クルーズ。マルクスブルク城に次いで、左岸にシュトルツェンフェルス城(Schloss Stolzenfels、上の1枚目の写真)、右岸にラーネック城(Burg Lahneck、上の2枚目の写真)が見える。シュトルツェンフェルス城は1259年に完成したが、9年戦争の間の1689年、フランス軍による破壊を受けた。現在の姿は19世紀前半に当時流行のネオゴシック様式で建て替えられたものである [1]。城の向かって右側の前面が緑色になっているのは、けばけばしいと思ったが、あとで城の部分を拡大した写真を見ると、それは修理工事のために掛けてあるネットの色で、いわば仮の姿だった。

 ラーネック城はマインツ大司教エプシュタインのジーグフリート3世によって1226年に建てられ、30年戦争中の1632、1636年に大きな損壊を受けた。1774年ゲーテは、ここでライン河に注ぐラーン川沿いを旅し、この城の眺めに刺激され、"Geistesgruß (精神のあいさつ)" という詩を書いている [2]。

 この辺りで外気がかなり冷えて来たので、屋上の甲板から降り、3階ラウンジの窓から眺めていた。そのせいで、ラーネック城を過ぎてから、同じ右岸にあったエーレンブライトシュタイン城塞 (Festung Ehrenbreitstein [3]) の写真は撮り損ねた。

ドイチェス・エックのヴィルヘルム1世乗馬像。

先端付近から見たドイチェス・エック。

 夕闇のせまる午後4時過ぎ、船はドイチェス・エック(Deutches Eck、上の2枚の写真)にさしかかる。ここは、コブレンツ (Koblenz) においてモーゼル川 (die Mosel) とライン河が合流する岬である。ドイツ統一の象徴として、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の乗馬像(最初は1897年に出来たが、第2次世界大戦で壊れ、1993年に再建された)のほか、ドイツとその16州の旗が立っている [4]。

 ライン河古城渓谷の観光はここで終わり、船は17時30分、アンデルナッハに入港した。夕食後20時30分から3階ラウンジで、添乗員たちが各地で手に入れて来た品物を景品としたビンゴ大会が行なわれた。私たち夫婦も参加したが、景品は得られなかった。

文献

  1. "Stolzenfels Castle," Wikipedia, the free encyclopedia (13 October 2009 at 08:54).

  2. "Burg Lahneck," Wikipedia: Die freie Enzyklopädie (23. Oktober 2009 um 12:19 Uhr).

  3. "Festung Ehrenbreitstein," Wikipedia: Die freie Enzyklopädie (18. Dezember 2009 um 09:34 Uhr).

  4. "Deutsches Eck," Wikipedia, the free encyclopedia (30 December 2009 at 17:36).

2010年1月1日金曜日

ライン河、マイン河の船旅(33) (Cruise on the Rhine and Main 33)

リーベンシュタイン城址(右)とシュテルンベルク城址(左)。

 旅の9日目、11月25日のライン河古城渓谷クルーズ。ネコ城を過ぎてから20分あまりの間、城は現れなかったが、次に右手にリーベンシュタイン城址 (Burg Liebenstein)とシュテルンベルク城址 (Burg Sternberg) が隣り合って見えて来る(上の写真)。この二つの城には、次のような「反目する兄弟」の伝説があるそうだ。

 妻を早く亡くした騎士が、自分と残された二人の息子の世話をさせるため、美しい乙女を城に迎えた。息子兄弟はともにこの娘に惹かれたが、娘は弟の方に思いを寄せた。弟は十字軍遠征で聖地へ行くことなり、乙女は貞節を守って愛する弟の帰りを待った。しかし数年後、弟はギリシャ人の妻を連れて帰ってきた。父親はその弟夫婦のために隣に城を建て、「愛の岩」と名づけた。弟の不誠実に怒った兄は、その城を高い壁で覆わせた。ある日この兄弟が教会で出会った際、争いとなり、剣で戦い始めた。その仲裁に入った乙女に剣が刺さり、兄弟もともに傷つき亡くなった。さらに、父親も驚愕のあまり命が絶えてしまった。([1] から、字句を一部修正して引用)

 「愛の岩」はドイツ語で Liebenstein であり、右側の城のことになる。引用した伝説には「その城を高い壁で覆わせた」とあるが、写真のほぼ中央に見える壁がそれであるとすれば、むしろ左側のシュテルンベルク城址に近く、この表現に合わない。リーベンシュタイン城の方にあった「高い壁」は崩壊したのか、あるいは上記伝説の表現が不正確なのか。

ボッパルトの市街。

 「反目する兄弟」の城から10分ほど航行すると、左岸にボッパルトの市街(Boppard、上の写真)が見える。一対の尖塔は、1236年に建てられた聖セヴェルス教会 (St.-Severus-Kirche)。そして、今度は右岸にマルクスブルク城(Burg Marksburg、下の1枚目の写真)。その下にはブラウバッハの街が広がる(下の2枚目の写真)。マルクスブルク城は、ライン地方の城の中で戦乱による破壊を免れ、中世の面影を残す唯一の遺構であるという。現在、内部のキッチン、大広間、領主たちの寝室、牢獄、武具の展示などを見て回ることができる [2]。下2枚目の写真中、左の方に立つ尖塔は、1276年に建てられた聖バルバラ教会 (St. Barbarakirche)。

マルクスブルク城。

マルクスブルク城とその下のブラウバッハの街。

文献

  1. ヨーロッパ周遊一人旅・ドイツ・ライン川流域:yokoさんの旅行ブログ.

  2. 「マルクスブルク城」, ウィキペディア日本語版 [2009年2月17日 (火) 20:12].