湯川秀樹博士は1933年4月、東北大学で開催された日本数学物理学会年会において、「核内電子の問題に対する一考察」という、「生まれて初めての研究発表」(湯川著『旅人』の表現による)を行った。その要旨 [1] 中には、次のようなところがある。
…輻射との類推により(輻射が電子、陽子間の相互作用の仲介者であつたと同様な意味で)電子が陽子と中性子との間の相互作用の仲介者であって、核内に於ては電子は一種の場の如く作用すると考へられる。
而して上に述べた様な形の電子に関する方程式を解けば、中性子と陽子との間の相互作用がわかる筈である。電子には静止質量のあることからして中性子と陽子との間の距離が h/(2πmc) に比して大きくなれば相互作用の勢力は急激に減少することが想像される。…
これによれば、湯川博士はこの要旨を書いた時点において、すでに、核力の到達距離と、核力を媒介する粒子の質量が逆比例の関係にあることに気づいていたことになる。
他方、湯川博士の自伝『旅人』には、次のように述べられている。
十月初めのある晩、私はふと思いあたった。核力は、非常に短い到達距離しか持っていない。それは十兆分の二センチ程度である。このことは前からわかっていた。私の気づいたことは、この到達距離と、核力に付随する新粒子の質量とは、たがいに逆比例するだろうということである。こんなことに、私は今までどうして気がつかなかったのだろう。
「十月」とは1934年10月のことであり、この記述は、1933年春の学会講演要旨と矛盾するように思われる。湯川博士は『旅人』を書く際に、講演要旨のことを忘れていたのだろうか。または、中間子論の着想をドラマティックに表現するため、ここでは創作を行ったのだろうか。あるいは、『旅人』を連載していた朝日紙の担当記者の入れ知恵によって、このように書いたのだろうか。――この謎に対する答えは、日本物理学会誌・湯川追悼特集号中の、河辺・小沼両氏による記事 [2] に見出すことができるようだ。
その記事には、湯川博士が1933年春の学会講演要旨を書いたすぐあとで、要旨に記した核力の到達距離と媒介粒子の質量の関係を、いったん否定していたことが記されている。すなわち、湯川博士は講演原稿中では「実際計算すると出てこない」と訂正し、また、その頃書かれた「ボーズ電子論」という草稿(「談話会及び Colloquium 原稿, 1934-1935」というファイルに保存されていたもの)に「…電子のコンプトン波長を含む項は一種の位相因子として入り、…距離と共に急激に減少するとは言えないという結論に導かれる」と記していたのである。このように一度はほうむり去られた関係だったので、再発見の必要があったと見るべきだろう。
『数物学会誌』第7巻第2号; 日本物理学会編『日本の物理学史』下 資料編 (東海大学出版会, 1978) p. 319 に再録; 朝永振一郎「量子力学と私」[『朝永振一郎著作集11』(みすず書房) と『物理学と私』(岩波文庫) に所収] にも解説とともに引用されている.
河辺六男, 小沼通二, 日本物理学会誌 37, 265 (1982); 九後汰一郎, 数理科学 No. 522, 19 (2006) に、関連箇所が引用されている.