2020年1月16日木曜日

「故郷を離るる歌」にまつわる思い出 [Memories Related to the Song "Der letzte Abend (Japanese Version)"]

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭に咲いたネリネの花。2019 年 12 月 28 日撮影。
Diamond-lily flowers which bloomed in my yard; taken on December 28, 2019.

「故郷を離るる歌」にまつわる思い出

 「まくらが歌謡楽団」のブログ "makuragakayogakudan" を書いている櫻ミサさん(ペンネーム)と、このほど 「ブログサークル」という SNS を通じて、「歌声」のキーワードから知り合った。そして、櫻さんが同 SNS に作った「歌声の催しで最も好きな 1 曲は?」という趣旨の掲示板に投稿をしたところ、「美しい文で、私だけが読ませていただくのはもったいないような気がする」といわれ、彼女のブログにもその投稿を転載して貰うことになった。

 投稿文は、あまり長くならないように書いたため、説明不足の点があり、拡張版をここに掲載しようと思った。しかし、それは「好きな曲」から外れた長い昔話になりそうなので、まずは、投稿文そのものを、若干修正して引用し、この記事の中心は、その投稿文の前半にある思い出の詳述ということにしたい。
 1 曲を選ぶのは本当に難しい。この 1 月という月にプライベートに関係することを理由に選べば、ドイツ民謡「故郷を離るる歌」である。戦後の大連で、引き揚げを前にした 1947 年 1 月頃、幼友だち・Y 子さんとその姉君がよく歌っていた。私は石川県の金沢市で生まれ、たまたま敗戦前年に大連へ移住した。他方、彼女たちは大連生まれで、引き揚げを待ち望んではいても、「故郷を離るる」悲しみも深かったに違いない。Y 子さん一家の引き揚げ先も同じ石川県だったので、彼女と大学生時代に再会し、友人関係はずっと続いた。そして、彼女は 9 年前の 1 月に金沢の病院で亡くなった。今月参加する歌声の会では、この歌をぜひリクェストして、彼女の追悼をしたいと思っている。


 実は、引用文中の「1947 年 1 月頃」というのは半ば創作で、もう少し早い時期だった可能性が大きい。Y 子さんも私も小学校 5 年生だった遠い昔のことである。祖父、伯母、従姉、母を含む私の家族が大連から引き揚げたのは Y 子さん一家より一足先だったが、どちらも 1947 年 2 月だった。したがって、Y 子さんと 1 歳年長のその姉君・R 子さんによる「故郷を離るる歌」をよく聞いたのは、2 月よりも前であることだけは確かである。それは、何日間かに及ぶ早朝、元々は私たち家族の住まいでありながら、当時 5 家族が同居していた家の中でのことである。6 人家族だった Y 子さん一家に、私たちの家の 2 階の一室に入って貰わなければならない事態になっていたお陰ともいえる。

 私は、そのような事態になったのは、大連港からの引き揚げに備えて、旧満洲を含む中国各地から参集した人たちを受け入れるためだったとばかり思っていたが、それ以外にも大きな理由があったことを、のちに本を読んで知った[文献 1、2][注 1]。戦後間もなく中国人が支配するようになった大連市政府から「日僑人民住宅調整」という命令が 1946 年 7 月初めに出されたというのが、その理由である[文献 1、p. 125]。中国人と日本人の住宅不均衡を平均化しようという提案のもとに、その調整権限は日本人労働組合に委ねられたのだった[文献 2、p. 383]。

 Y 子さん一家が、わが家の後ろにあった自宅から私たちの家の 2 階へ移って来た時期についても、私は記憶がはっきりしていなかったが、いま文献 1 を見ると、その p. 136 に、住宅調整期限ぎりぎりの 1946 年 9 月末だったように記されている。そうだとすれば、Y 子さんたちが「故郷を離るる歌」を盛んに歌いながら、2 階から 1 階の台所へ降りて来ていたのは、引越し早々で、まだ自宅生活の気分から抜けきれなかった秋のことだったのかもしれない。私は台所に隣り合う部屋に起居していて、食糧不足の苦しい生活の中[注 2]、彼女たちの歌声を心温まる思いで聞き、「故郷を離るる歌」を覚えたのである。

 Y 子さんには、もう一人、私より数歳年長の姉君・K さんがいた。文献 1 を読み返すと、一家がわが家の 2 階へ引っ越すにあたっては、K さんの誕生以来備わっていたピアノを、ブローカーの手を経て、ソ連人将校夫妻に買って貰ったことが述べられている。このことから思えば、Y 子さん姉妹は幼少時から音楽によく親しんでいたのである。K さんはのちに小学校の音楽教師になり、R 子さんも中高年頃に地域のコーラス・グループに参加していたと聞いた。Y 子さんは大学生時代に、学内の歌声運動でリーダー的役割を務めていたと、間接的に聞いたことがある。

 歌声の催しで私がリクェストして来たいろいろな歌の中で、Y 子さんが歌っていたのを聞いたのではないが、彼女を思い起こす歌が他に 3 曲ばかりある。そのうちの一つ、「ケセラ・セラ」については先に記した(ここでの「Y 子さん」を、その記事では「A さん」と記している)。残りの歌については、またの機会に書きたい。

 なお、Y 子さんが亡くなった知らせを聞いて記した追悼記事でも、「故郷を離るる歌」に一言触れた。それによれば、私は大連で一旦聞き覚えたこの歌の歌詞を忘れていて、「歌声喫茶」の歌集で改めて覚え直したのであった。また、「故郷を離るる歌」の日本語歌詞の訳詞者が吉丸一昌であることは、いま知ったばかりだが、彼は、父が好んでいたと母から聞いた唯一の歌「早春賦」の作詞者でもあることは、不思議な巡り合わせである。


 [注]
  1. 文献 1 は Y 子さんの母君の作品で、ご自身とその家族や周囲の人たちをモデルに、戦後の大連での日本人の暮らしを描き、第 13 回金沢市文学賞を受賞した。
  2. 私の家族には祖母もいたのだが、引き揚げのわずか前の 1947 年 1 月 29 日、かの地で亡くなった。死因についての医師の診断書は、「栄養失調」だったと母から聞いた。より詳しくは文献 1(p. 116)で知った。口内から食道や胃に至るまでの粘膜が炎症に冒される「高梁病(こうりゃんびょう)」が元だったということである。高梁は中国で主食に使用されていた作物であり、高梁食には油脂の併用が欠かせない。戦後の大連の日本人は白米が入手出来ないことから、高梁食を白米食の時と同じ淡白な(かつ少量しか入手できない)副食物と一緒に摂取していたため、繊細な体質だった祖母にその弊害が出たのである。
 [文献]
  1. 浅野幾代、『大連物語』(北国出版、金沢、1985)。
  2. 富永孝子、『大連・空白の六百日』(新評論、東京、1986)。

——————————
 「人気ブログランキング」へ一票を!

15 件のコメント:

  1. Tedさんのブログにお邪魔しました。櫻ミサです。ネットというのは本当に不思議なものですね。普通に生活をしてたら、ほぼ99%出会わない方々に、お会いすることがある…でもそれは、普段の生活で偶然のようでもあり必然でもある出会いと同じように…

    Tedさんとのブログサークルでの出会いには今、思い返すと順番がありまして…
    ① まくらが歌謡楽団のホームページを作る
    ② そのホームページに付いていたブログ(一方的なブログで、コメント欄がない)をご覧になった茂木さんが、意思疎通のできるブログの方が良いとご提案
    ③ 他のサイトからブログを持ってきて、ついでにその広告?にあったブログサークルというものにも訪問者アップを狙って登録する
    ④ 歌声関係でサークルを探したが、ほぼどなたもいらっしゃらなかった所、Tedさんのブログを見つけてお声をかける
    ⑤ ご丁寧なお返信をいただいた時に、素敵な絵と文章から、きっと茂木さんとお話しが合うのでは?とぜひとも我が楽団のブログにお誘いしたくなった

    と、こんな風に今月始めたばかりのブログですが、なんだか毎日がTedさんと茂木さんの書き込みによって始まるようで、ワクワクさせていただいています。

    さて、故郷を離るる歌、時代背景とはいえY子さんご姉妹の心が痛いほど伝わってきます。Kさんの大切なピアノ、そして思い出のお家、全て自分ではどうすることもできない事情によって失われた大切なもの「故」という漢字にはいくつかの意味がありますが、その全てがY子さんの歌には秘められていたのかなと思います。
    Tedさんによって「故郷を離るる歌」は、私や茂木さんの心に新たな1ページとして追加されました。このような想い出の曲は、せつなくて歌えそうにありませんが、せめてこの歌が流れたら、私もY子さんに思いを馳せたいと思います。

    返信削除
  2.  櫻さん、ご丁寧なコメントをいただき、ありがとうございます。悲しい時代背景は、戦争がもたらしたものです。戦争は2度と起こしてはいけないとの思いを込めて、歌に親しんでいるこの頃です。
     櫻さんと「まくらが歌謡楽団」のご活躍がますます発展されるよう願っています。

    返信削除
  3.  「まくらが歌謡楽団」のブログサイトで、茂木さんから、この記事へのコメントを書き込んだと知らせていただきましたが、Blogger からのコメント管理メールが届きませんでしたので、書き込みが不首尾に終わったと思われます。私もコメントの書き込みを試したところ、「編集」や「プレビュー」をクリックすると、投稿が失われるなどの不具合があるようです。
     上記ブログサイトで教えていただいたコメントの内容を、以下に転載します。
     「makuragakayougakudanのブログでお世話になっております茂木です。『故郷を離るる歌』を聴きながら読ませていただきました。詳細な描写に、記憶の襞にしまわれていたものが74年後に蘇ったのを見るような・・という感想です。全体を流れる気分は少し悲しいですが、日常生活では出会うことのないお話を聞かせていただきました。」
     茂木さん、コメントありがとうございます。茂木さんは戦後のお生まれでしたね。「日常生活では出会うことのない」と思われる戦争による苦しい暮らしが、いまでもアフガニスタン、シリア、イラク等々で起こっています。わが国の将来に、そして世界全体に、戦争による悲しみが生じないよう、ささやかながら努めて行きたいものです。

    返信削除
  4. Tedさん、本当に戦争は絶対にいけません。平和が当たり前なのではなく、暗く悲しい戦争の過去があるからこそ、今があるのだと思います。
    この前、私のブログで学生時代のドイツ語サークルについて書きましたが、あの頃もドイツは暗い過去の反省を現代に生かした教育を行っているが、日本は被害者意識ばかりで過去を振り返ろうとしない、という事で一晩中ディスカッションをしたものでしたが、今の日本はその頃よりさらに酷くなっていると思います。
    私の高校(藝大附属高校)では修学旅行が九州一周でしたが、長崎で原爆資料館に入った時、息が詰まって声も出ず、全て見終えた後、友人と抱き合って泣く事しかできませんでした。あのような事は二度と起こしてはいけない、音楽も平和でなければできません。私のようなちっぽけな存在では何もできませんが、今ある日常に感謝しつつ平和を祈りたいと思います。

    返信削除
    返信
    1.  櫻さん、再度のコメント、ありがとうございます。まくらが歌謡楽団やご自身のピアノ演奏会などで活躍していらっしゃる櫻さんは、決して「ちっぽけな存在」ではなく、音楽の活動自体が重要で立派な平和の訴えになっていると思います。

      削除
  5. Tedさん、有難いお言葉、恐縮いたします。平和な心を持ち続けることで、少しでも平和への貢献につながるのでしたら、私でもできるかもしれません。いつも、吉永小百合さんの原爆の詩の朗読、あの活動は本当に素晴らしいなぁと思います。

    返信削除
    返信
    1.  櫻さん、三つ目のコメントのご投稿をいただき、ありがとうございます。不詳私が昨年 3 月末まで代表を務めていた(高齢化のため辞任しましたが、後任がまだなく、目下、代表代行をしています)「福泉・鳳地域 憲法 9 条の会」が、毎月 1 回、街頭で宣伝・署名活動をするときに、女性の事務局長がマイクで話す言葉にも、「吉永小百合さんも原爆詩の朗読をして(平和運動に)頑張っておられます」という一言がいつも入っています。
       私は、吉永さんが若い頃に歌った「寒い朝」と「いつでも夢を」を、最近中古品で買った鮫島有美子さんの CD で知り、これらの歌は私の愛唱歌の仲間入りをしました。その CD は 1997 年録音となっており、鮫島さん 45 歳の時ということになりますが、これらの歌については、若いの頃の吉永さんに似せようとしたのか、ずいぶん若やいだ歌い方に聞こえます。私が参加している歌声の催しでも、冬になると「寒い朝」のリクェストが何人もの人たちから重複して出るという状況です。

      削除
  6. Tedさん、こんばんは!昨日はなんだか疲れてしまって返信できずにすみませんでした。なんて言いますか…今までピアノソロでの舞台がほとんどでしたから、自分が全身全霊で舞台に臨んだ結果の称賛は、全て自分のそれまでの努力の賜物だと当たり前のように受けていましたが、今回のようなバンドでの活動では、何か苦労がまだまだ報われない方が大きく、ついつい甘える気持ちが出てきてしまいます。

    さて、それはともかくとして…吉永さんはお若い頃からずっと素敵な方ですね。生き方がにじみ出ている数少ない女優さんのような気がします。鮫島有美子さんの「寒い朝」今、YouTubeで聴いてみました。たしかに、オペラの発声ではこの曲はあまり合っていないように感じました。その近くに鮫島有美子さんの「ともしび」がありましたが、こちらの方がすーっと入ってくるように思います。
    寒い朝、今日のブログの題材にさせていただきます!

    返信削除
    返信
    1.  「寒い朝」に触れたことがブログ題材のお役に立って幸いでした。私も YouTube の鮫島さんのビデオで「ともしび」を覚え、その後、彼女のロシア民謡 20 曲を集めた CD、その題名も「ともしび」、を中古品で買い、書斎で繰り返し聴きながら歌っています。

      削除
  7. Tedさん、こんばんは!「寒い朝」来月の歌声広場の曲目に追加されました!
    楽しみです♪

    返信削除
    返信
    1.  私が「寒い朝」を最近知ったのは、CD『秋桜:鮫島有美子/私の青春のうた II』によってでした。旋律も好きですが、歌詞の「寒い朝も 心ひとつで暖かくなる」というところも好きです。

      削除
  8. Tedさん、こんばんは!
    この時代の歌詞は日本らしさのよく出ている曲が多いなぁと思いますが、最近の歌は、リズムも欧米風、横文字のない歌が珍しい程で、どうして、もっと日本の良さを歌う歌手が出ないものかと思ってしまいます。

    返信削除
    返信
    1.  私も最近の日本の歌にはカタカナ語や横文字が多く、歌手の歌い方にも外国人の日本語のような歌い方をわざとしているようなのがあって、気に入りません。私の考え方が古いのかと思っていましたが、まだ若い櫻さんも似たようなご感想をお持ちと知って、嬉しいです。

      削除
  9. Tedさん、こんばんは!Tedさんも同じご意見で嬉しく思います。日本語は、美しいですが、実は歌になると難しいというのは、歌を勉強をして初めて知りました。今は、同大学のテノールの先生について学んでおりますが、簡単な童謡であってもなかなか歌わせてもらえず、まだモーツァルトのアリアの方がイタリア語で響きやすいそうです。日本人の歌手の方々ももっと多様性があっても良いように感じます。

    返信削除
    返信
    1.  童謡を歌うのはイタリア語のアリアより難しいとは、良いことを教えていただきました。私は「七つの子」「青い目の人形」「赤いくつ」「かなりや」などなどの童謡を歌うことが好きですが、歳のせいで幼児戻りをしたと言われそうだと思っていました。しかし、これからはそう言われても、イタリア語のアリアより難しいことに挑戦しているのだ、と胸を張って答えられますね。

      削除