2005年8月4日木曜日

木陰(写真)/ 運動会の準備


木陰

 写真は、堺市・八田荘公園で、2005年8月1日撮影。

運動会の準備

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年10月13日(月)晴れ

 明日の準備のための準備委員は丸公
[1] となる。各ホームから二名ずつ会場準備のため奉仕者を出すよう伝達したら、たちまち集まって来た。丸公に魅力を感じて来たものらしかったが、大方は真面目に働いてくれた。
 アーチ作りも、運動場と一体
[2] の会場も九分通り出来た。アーチ作りでは、最初、卯辰山か尾山神社へ行って、杉葉を持って来るつもりだったが、どちらも許可がいるにもかかわらず、事前にそれをしてなかったので、アドバイザーから「君たちは泥棒をするつもりか! 仕方ない。学校の杉の木のを取ってやれ」といわれる結果となった。拳闘部や山岳部に属している連中が仕事にかかったので、うまく行った。運動場のくい打ちとライン引きはラグビー部がやってくれた。一体のステージ作りと幕張りは、過去二年間の経験を有するシミキン、アンチ、ゴンボの諸兄がやってくれた。適材適所の配置で、何もかもうまく行った。
 運動会に必要なもろもろの用具や品物を買い集めるのがぼくの仕事だったが、大体予算の90%くらいで出来そうである。魚釣り競争の魚は、5月に使う紙の鯉のぼりで間に合わせることにした。「東海道膝栗毛」では、昨年はもっこを使ったのだが、今年は叺(かます)で作ることにした。


 引用時の注

  1. 「丸公」は、原文では○の中に公が書いてある。公務による出席扱いのこと。
  2. 「一体」は第一体育館のこと

2005年8月3日水曜日

サルスベリ(写真)/ 日本はそうなってよいのだろうか:自民党の改憲案


サルスベリ

 写真はサルスベリ。堺市内の小公園で、2005年8月1日撮影。

日本はそうなってよいのだろうか:自民党の改憲案

 自民党の新憲法起草委員会が8月1日、新憲法草案の条文を公表した。それによれば、現行憲法で「戦争の放棄」となっている第2章は「安全保障」と名を変え、その中身も自衛軍の保持を主体としたものになっている。そして、自衛軍は、「国際社会の平和及び安全の確保のために国際的に強調して行われる活動…を行うことができる」としている。これでは、アメリカのイラク攻撃のような正当性のない戦争にも、自衛軍がかりだされることになる。皆さんはそういう戦争に喜んで行くだろうか。皆さんの子どもたちをそういう戦争に喜んで送り出すだろうか。

 この改憲案は、わが国の誇りであり世界が手本にしようとしている([1-3] 参照)現行憲法の第9条を、大幅に後退させ、わが国を人間同士の殺し合いを辞さない野蛮な国におとしめるものである。日本は、そういう国になってよいのだろうか。2日付け朝日新聞の改憲案に対する解説記事でさえ、愚かにも「穏健」という見出し文字を使っているが、国民はだまされてはいけない。改憲案はあくまでも、日本を戦争をする国に仕向けようとしているのである。

文 献

  1. "Article 9 Society": C. Overby の主導によって1991年、アメリカのオハイオ州に創設された、すべての国の憲法に、日本国憲法の9条に盛られた諸原則を採択させるという長期的目標の達成を目指す組織。

  2. "The Hague Appeal for Peace Conference"(NGO主催による「ハーグ平和アピール会議」1999年5月11日~15日)は、"Ten Fundamental Principles for a Just World Order"(「公正な世界秩序のための10の基本原則」)の第1に "Every Parliament should adopt a resolution prohibiting their government from going to war, like the Japanese article number nine."(「各国議会は、日本国憲法第9条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである」)を挙げている。

  3. "Final Report from the Millennium Forum Peace, Security and Disarmament Thematic Group, June 12, 2000"(「NGO ミレニアム・フォーラム平和、安全保障及び軍縮テーマグループ最終報告書、2000年6月12日」)中に "topics and suggestions, other than those contained in the Forum Declaration itself or already described here, that were most frequently raised"(「最も頻繁にとり上げられた議題及び提案」)の一つとして、"a proposal for all countries to adopt in their own constitutions the war-renouncing principles expressed in Article 9 of the Japanese constitution"(「すべての国が、日本国憲法第9条に表現されている戦争放棄の原則を時刻の憲法において採択する」)を記している。(2011年12月29日の注:このリンクは、現在切れている。)

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 08/03/2005 16:54
 確かに、冷静に判断を試みても、改憲案が日本を「安全保障」「安全の確保」という表現を用いて、自衛軍が諸外国に出向く可能性を前向きなほどに認めているようにうけとれますね。「戦争の放棄」が「安全保障」と名をかえるのはあまりに残念ですね。過去に極端な戦争一色に突っ走った国が、「戦争の放棄」という徹底した態度を貫きづづけることに転じてこそ、平和とは何かの根源を感じさせる憲法になるのに、と思います。

Ted 08/03/2005 20:42
 このような改憲には大いに反対の声を上げましょう。

片桐 08/03/2005 21:01
 私も朝日新聞で読みました。集団的自衛権まで認められるんですよね(条文にはないけれど)。戦争に参加できるようになる憲法案ですね。反対!

Ted 08/03/2005 22:04
 「集団的自衛権」については、2日付け朝日新聞1面記事が、『起草委の舛添要一事務局長は1日、「自衛には個別も集団も含まれる。その議論は終った」と述べ、憲法解釈で行使も認められるとの立場を明確にした』と報じています。第6章司法には「軍事裁判所の設置」も入れており、まさに、軍事国家を目指しています。

ゆっぴー☆ 08/04/2005 08:12
なんか、なしくずしにどんどん勝手に決められて腹が立ちますよね。ゆっぴーは、ムッキー! やっぱりマスコミは、権力側のための広告機関なんでしょうかね? 英語版で9条についてちょっと書いてみますね。本当は改憲論争を詳しく英文で説明したいんですけど、スラスラ書ける内容じゃないので、ゆっぴーには無理っぽいです。ウー、もっと英語ができればなぁ…。

Ted 08/04/2005 08:21
 まだ、自民党内の草案ということで、決まったわけではありません。ゆっぴー☆さんは、気性から考えて、外国暮らしの長い、英語もぺらぺらの方かと思っていました。Ha-ha! 英語版ブログでの9条論、読みに行きますよ。

キジバト(写真)/ 疑いと自信を交互に持つ


キジバト

 わが家の門の脇のカイヅカイブキの木に、何年か前から時どき、キジバトのつがいが来て巣を作っていた。今年は巣を作っていないのだが、先日、2羽が訪ねてきていた。以前のつがいの子どもたちが、生まれ故郷を見物に来たのだろうか(2005年7月28日撮影)。

疑いと自信を交互に持つ

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月13日(月)晴れ

 土曜日に尾山荘とかで行われた新聞コンクール審査会に出席された IT 先生から Jack が聞いて来たところによると、ぼくの採点でも1位になった、第28号に KW 君の「真摯な態度で」という生徒会会計就任の言葉が掲載されていた「いずみの原」が1位だったそうだ。2位以下もぼくの採点通りだったかどうか知りたいと思ったが、自分が最も力を入れてもっと立派なものにすべきだった新聞が選外佳作以下であっては、ちょっと聞きに行きかねた。いずれ北国新聞で分かるだろう。

 たとえば、自分自身のひらめきの強さと洗練性に対する感覚の感度について、疑いと自信を交互に持つこと――それは、皮相的に考えれば、矛盾であり、無意味のようである。しかし、疑いと自信の両者は、ともに必要なのだ。なぜならば、自信を失えば、それ以上積み重ねては行けないし、また、疑いがなければ、どれだけ曲がっていても、直してまっすぐにする機会を作り出すことが出来ない。
 ところで、疑いと自信を交互に持つというような行為の意義は何だろうか。それは、その行為の生みだす結果にあるだろう。好結果が容易に見通せる場合には、行為の有意義性が直ちに決定出来るが、そうでない場合には、行為という掛け橋をとったり掛けたりした場合を考えて、見極めなければならない。

2005年8月2日火曜日

原爆に関する新しい本 (New Books on Atomic Bombs)


【Read in English.】

 【概要 (Abstract in Japanese)】私は英国で発行されている "The Good Book Guide (GBG)" を購読している。今月は広島と長崎に原爆が投下されて60年になるので、同誌の8月号には、最近発行または再発行された原爆に関する本が紹介されている。各紹介文の一部をここに引用し、これらの本が、世界中のいっそう多くの人びとを、核兵器廃絶について真剣に考えさせるようになることを望む。(本文は上記リンク先の英文のみ。)

2005年8月1日月曜日

金沢ふるさと偉人館 (Great People of Kanazawa Memorial Museum)

Read in English.


ふるさと偉人館のパンフレットから。

 7月22日に金沢21世紀美術館で二つの展覧会を観て昼食をとった後、妻と私は、その近くにある金沢ふるさと偉人館 [1] を訪れた。そこには、金沢で生まれあるいは育った次の人びとの資料が展示されている。(イメージ中の写真上段左から右へ)谷口吉郎、建築家 (1904-1979);高峰譲吉、化学者 (1854-1922);三宅雪嶺、評論家 (1860-1945);(中段)中西悟堂、自然保護者・詩人 (1895-1984);藤岡東圃、国文学者 (1870-1910);(下段)八田與一、土木技師 (1886-1942);鈴木大拙、仏教学者 (1870-1966);木村栄、天文学者 (1870-1943)。

 偉人館の建物は3階からなり、1階には谷口吉郎、中西悟堂、八田與一の、そして、2階には他の5名の資料が展示されており、3階にはホールと講座室がある。私は中学・高校生に対する第3回高峰賞 [2] 受賞者の一人だったので、高峰譲吉の資料にとくに興味を抱いた(現在、高峰賞は中学生を対象にした個人賞と、中学校を対象とした団体賞とになっている)。

 夏休み中であるにもかかわらず、私たちが偉人館を見学している間、他の見学者は一人も見かけなかった。館の案内書に書いてあるように、このような場所を子どもたちが見学して、先人たちの偉業と生き方を知り、夢と大志をもつことは大いに望ましいのであるが…。

 なお、金沢生まれの3人の作家、泉鏡花 (1873-1939)、徳田秋声 (1871-1943)、室生犀星 (1889-1962) の記念館は、それぞれ別の場所ある [3-5]。

文 献

  1. ウェブサイト 金沢ふるさと偉人館.
  2. ウェブサイト 高峰譲吉博士顕彰会.
  3. ウェブサイト 泉鏡花記念館.
  4. ウェブサイト 徳田秋声記念館.
  5. ウェブサイト 室生犀星記念館.

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 08/01/2005 16:45
 私も同じように願いますが、現代っ子たちが歴史上の偉人の生き方を自分のために知りたいと、素直に思えるような学習への動機を、いまの社会はことごとく失わせているようにも思います。(~することが)"highly desirable " であるとの正当な大人の願いで、子どもたちを惹きつけるのがかえって難しい時代なので、まずは大人が子どもたちを取り巻く世界や、彼らの「かなり現実への失望の多い」未来観を、彼らのことばで知ることが重要な仕事だと思います。(私もそれに取り組みたいのですが。)
 高校までの私にも、過ぎ去った「歴史」に対して真剣に関心を抱くことは難しいことで、私が在籍した京大教育学部の教官たちも、学生の歴史的センスの不足に、ちょうど私の時代から問題意識を持ち始めていました。
 作家たちをはじめ、金沢の豊かな文化的財産が、そのままの形でなくとも生かされる道はきっとあるだろうと思います。

Ted 08/01/2005 20:09
 いまの子どもたちとそれを取り巻く世界の問題、おっしゃる通りです。
 私たちが育った環境と、いまの子どもたちのそれとの、この問題に関する相違としては、次のようなことが考えられるのではないでしょうか。
 (1) 敗戦までの歴史や道徳の教育が教えた「偉人たち」の中には、武将や軍人が多かったため、アメリカの占領統治下でそのような教育が禁止された影響で、文化的・科学的な偉人たちについても、教えたり、子ども向けの本や雑誌に書いたりすることが少なくなったということ。
 (2)「民主主義教育」が、偉人たちだけが偉いのではなく、皆がそれぞれのあり方で偉いということに力点をおき過ぎて、偉人について教えなくなったということ。

Y 08/01/2005 20:49
 なるほど、教育において、確かに「偉人たち」が語られるスペースが少なくなったと思います。一番の主たる教材である教科書の時代による変遷は、注目されなければなりません。私も高校の教師だった母も、「いまの教科書は(わかりやすいが)ひどく(内容が)薄い」と言っています。(2) のように、価値観・生き方の多様化・個別化が、「尊敬する個人」を挙げづらくなっている、という関連性は考えられるでしょうね。
 私は教育学で基礎を作ったことと(今でも私が書く福祉の論文は、教育学(人の可能性の伸ばし方)の論文のような中身になっています)、2年前まで、長く子どもの家庭教師をしていたことから、この問題について考えていました。その観点で言いますと、いまの子どもたちは、学校や塾で多大なる課題をセッティングされて、学ぶことや学習内容を素直に面白く思う感性が犠牲にされ、「イヤイヤやる」というのが仲間の間でも通じ合う感性となっています。将来に対しても、非常に打算的な(たとえば経済的・物質的豊かさをまず達成するのが価値だ、といった)見通し、希望をもつ傾向にあるのです。教育における競争志向が、競争に勝っても負けても、自由で豊かな人生を切り拓く力があるのだという自信を子どもたちがもてなくさせている、という問題も大きいと感じます。またこの競争志向が、偉人の業績のように崇高なものをめざしたいという志向を、辺縁に追いやってしまうことも明らかです。
 ちょうど私のブログのほうで、これに関連する記事を書こうと考えたところですので、「文化的・科学的偉人」からは内容は離れるのですが、トラックバックさせていただきます。

Ted08/02/2005 08:13
 「多大な課題セッティング」や「打算的な競争志向」は、確かに、子どもたちから興味深く学ぶ意欲を奪っているでしょうね。
 トラックバック記事に期待しています。