2005年8月1日月曜日

金沢ふるさと偉人館 (Great People of Kanazawa Memorial Museum)

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ふるさと偉人館のパンフレットから。

 7月22日に金沢21世紀美術館で二つの展覧会を観て昼食をとった後、妻と私は、その近くにある金沢ふるさと偉人館 [1] を訪れた。そこには、金沢で生まれあるいは育った次の人びとの資料が展示されている。(イメージ中の写真上段左から右へ)谷口吉郎、建築家 (1904-1979);高峰譲吉、化学者 (1854-1922);三宅雪嶺、評論家 (1860-1945);(中段)中西悟堂、自然保護者・詩人 (1895-1984);藤岡東圃、国文学者 (1870-1910);(下段)八田與一、土木技師 (1886-1942);鈴木大拙、仏教学者 (1870-1966);木村栄、天文学者 (1870-1943)。

 偉人館の建物は3階からなり、1階には谷口吉郎、中西悟堂、八田與一の、そして、2階には他の5名の資料が展示されており、3階にはホールと講座室がある。私は中学・高校生に対する第3回高峰賞 [2] 受賞者の一人だったので、高峰譲吉の資料にとくに興味を抱いた(現在、高峰賞は中学生を対象にした個人賞と、中学校を対象とした団体賞とになっている)。

 夏休み中であるにもかかわらず、私たちが偉人館を見学している間、他の見学者は一人も見かけなかった。館の案内書に書いてあるように、このような場所を子どもたちが見学して、先人たちの偉業と生き方を知り、夢と大志をもつことは大いに望ましいのであるが…。

 なお、金沢生まれの3人の作家、泉鏡花 (1873-1939)、徳田秋声 (1871-1943)、室生犀星 (1889-1962) の記念館は、それぞれ別の場所ある [3-5]。

文 献

  1. ウェブサイト 金沢ふるさと偉人館.
  2. ウェブサイト 高峰譲吉博士顕彰会.
  3. ウェブサイト 泉鏡花記念館.
  4. ウェブサイト 徳田秋声記念館.
  5. ウェブサイト 室生犀星記念館.

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 08/01/2005 16:45
 私も同じように願いますが、現代っ子たちが歴史上の偉人の生き方を自分のために知りたいと、素直に思えるような学習への動機を、いまの社会はことごとく失わせているようにも思います。(~することが)"highly desirable " であるとの正当な大人の願いで、子どもたちを惹きつけるのがかえって難しい時代なので、まずは大人が子どもたちを取り巻く世界や、彼らの「かなり現実への失望の多い」未来観を、彼らのことばで知ることが重要な仕事だと思います。(私もそれに取り組みたいのですが。)
 高校までの私にも、過ぎ去った「歴史」に対して真剣に関心を抱くことは難しいことで、私が在籍した京大教育学部の教官たちも、学生の歴史的センスの不足に、ちょうど私の時代から問題意識を持ち始めていました。
 作家たちをはじめ、金沢の豊かな文化的財産が、そのままの形でなくとも生かされる道はきっとあるだろうと思います。

Ted 08/01/2005 20:09
 いまの子どもたちとそれを取り巻く世界の問題、おっしゃる通りです。
 私たちが育った環境と、いまの子どもたちのそれとの、この問題に関する相違としては、次のようなことが考えられるのではないでしょうか。
 (1) 敗戦までの歴史や道徳の教育が教えた「偉人たち」の中には、武将や軍人が多かったため、アメリカの占領統治下でそのような教育が禁止された影響で、文化的・科学的な偉人たちについても、教えたり、子ども向けの本や雑誌に書いたりすることが少なくなったということ。
 (2)「民主主義教育」が、偉人たちだけが偉いのではなく、皆がそれぞれのあり方で偉いということに力点をおき過ぎて、偉人について教えなくなったということ。

Y 08/01/2005 20:49
 なるほど、教育において、確かに「偉人たち」が語られるスペースが少なくなったと思います。一番の主たる教材である教科書の時代による変遷は、注目されなければなりません。私も高校の教師だった母も、「いまの教科書は(わかりやすいが)ひどく(内容が)薄い」と言っています。(2) のように、価値観・生き方の多様化・個別化が、「尊敬する個人」を挙げづらくなっている、という関連性は考えられるでしょうね。
 私は教育学で基礎を作ったことと(今でも私が書く福祉の論文は、教育学(人の可能性の伸ばし方)の論文のような中身になっています)、2年前まで、長く子どもの家庭教師をしていたことから、この問題について考えていました。その観点で言いますと、いまの子どもたちは、学校や塾で多大なる課題をセッティングされて、学ぶことや学習内容を素直に面白く思う感性が犠牲にされ、「イヤイヤやる」というのが仲間の間でも通じ合う感性となっています。将来に対しても、非常に打算的な(たとえば経済的・物質的豊かさをまず達成するのが価値だ、といった)見通し、希望をもつ傾向にあるのです。教育における競争志向が、競争に勝っても負けても、自由で豊かな人生を切り拓く力があるのだという自信を子どもたちがもてなくさせている、という問題も大きいと感じます。またこの競争志向が、偉人の業績のように崇高なものをめざしたいという志向を、辺縁に追いやってしまうことも明らかです。
 ちょうど私のブログのほうで、これに関連する記事を書こうと考えたところですので、「文化的・科学的偉人」からは内容は離れるのですが、トラックバックさせていただきます。

Ted08/02/2005 08:13
 「多大な課題セッティング」や「打算的な競争志向」は、確かに、子どもたちから興味深く学ぶ意欲を奪っているでしょうね。
 トラックバック記事に期待しています。

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