2004年10月28日木曜日

論文執筆法の精髄

 論文を執筆しようとしている私の一友人に「論文はどんな論文でも、問題と答えである。レトリックの問題としてとらえる」とはどういう意味か、と尋ねられた。この言葉の出典は、ある大学の通信コースの論文執筆手引書のようである。禅問答のような言葉だが、長年、科学論文執筆を仕事の一部としてきた私には、その意味がよく分かった。私は、前半の文の説明を書いているうちに、後半の文の説明に役立つ例さえ、自然に書いてしまっていた。この言葉は、論文の書き方の精髄をうまくとらえていると思う。友への説明を以下に引用しておく。これから、卒業論文、学位論文、研究論文等を書こうとする人たちに役立てば幸いである。



 論文における「問題」とは、論文作成に当たっての研究課題の目標、つまり、どういう点に疑問を持ち、あるいは何を明らかにしようとして、その課題に取り組んだか、など(研究の動機も、「問題」のうちに入れられる)であり、論文の「答え」とは、その取り組みの結果、疑問がどう解決されたか、何がどのように明らかになったか、などである。

 そして、論文というものは、「緒言」の章において、まず上記のような「問題」について述べ、本論から結論の章にかけて、その問題に対応する「答え」を述べていくものである、ということが、「論文はどんな論文でも、問題と答えである」の意味だと思う。

 ただし、研究の開始時点においては、「問題」がはっきりしていない場合もある。おおよそ、こういうことについて研究してみたい、と考えて(その場合でも、漠然とした動機や問題意識はあるわけだが)研究に着手した結果、いろいろ具体的なことを見出したとする。その成果を論文に書くときには、読者に分かりやすいように、見出した事柄が答えであるような問題を後で設定して、「緒言」にかかげるという手もある。

 「レトリックの問題としてとらえる」というのは、上記のような論文の構造は、修辞学(「広辞苑」によれば、「読者に感動を与えるように最も有効に表現する方法を研究する学問」)的要請によるものと考えるべきである、ということであろう。つまり、論文に書く「問題」を研究の開始時点で実際に意識していたかどうかにかかわらず、読者を十分に得心させる表現方法という見地から効果的と思えるならば、上に述べた「問題を後で設定する」例のような行き方もまじえて、「問題と答え」を呈示すべきである、ということだと思う。

 上記の「表現方法という見地」あるいは「レトリックの問題」について、もう一例を挙げるならば、研究の過程で答えが二転三転したような場合、論文にそのような過程をたどった話を書けば、読者はそれを読む時間をムダにさせられるだけなので、最終的に到達した答えだけを書けばよい、といういことがある。途中で得た他の答えが不適当であることを述べる必要があれば、過程の話としてではなく、考え得る他の答えと、それらが不適当である理由という形に整理して述べるのがよいのである。(科学史などでは、二転三転の過程自体が研究対象になり得るが、それは、また別の話である。)

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