2018年11月18日日曜日

ツルゲーネフ・著、二葉亭四迷・訳「あいびき」 (Ivan Turgenev's The Rendezvous)

[The main text of this post is in Japanese only.]


ツルゲーネフ・著、二葉亭四迷・訳「あいびき」青空文庫版 XHTML ファイルの先頭部分。
A Japanese version of Ivan Turgenev's The Rendezvous.

 ツルゲーネフ・著、二葉亭四迷・訳「あいびき」青空文庫版をダウンロードして読んだ。これを読もうと思った動機は先の記事に記したように、11 月 9 日付けの朝日紙「天声人語」にあった紹介を読んだことである。「天声人語」は有料会員限定記事となっていて、オンラインでの参照が自由にできないが、その英語版 Vox Populi, Vox Dei は無料で読める。11 月 9 日付けの分 Bicentennial of Turgenev’s birth, an ideal time to read a classic には二葉亭四迷の写真も載っている。「天声人語」で読んだだけでは頭に残らなかった「あいびき」のあらすじを含む紹介が、いま Bicentennial of ... を読むと、実にうまく簡潔にまとめてあると思う。ここでは、少し異なった形での紹介をしてみたい。

 青空文庫版「あいびき」の作品データのところにウィキペディア「猟人日記」へのリンクがあり、どうしてかと思いながらそこをクリックすると、『猟人日記』の中の 1 編が二葉亭四迷により「あひゞき」(1888 年、『国民文学』に発表)として訳され、それが言文一致の名訳として知られる旨の説明があった。1888 年は明治 21 年、まだ文語文で小説が書かれていた時代で、その翌年に出た森鴎外の『舞姫』なども文語文である。

 二葉亭の口語文による訳は、現代の口語と大差なく、さらに、青空文庫版では新字新仮名に変換されており、読みやすい。促音の「っ」や「ふと」「ありあり」などの副詞が片仮名であることが少し妙、という程度の違和感しかない。作品の長さは、ダウンロードしたテキスト・ファイルを 12 ポイントのフォントで B5 サイズのワープロ文書に変換すると、12 ページに収まる程度である。冒頭に訳者による短い前書きがあり、「私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、これでも原文はきわめておもしろいです」と、二葉亭は自らの訳について謙遜している。

 作品は「自分」が樺(カバ)の林の中に座って周囲の自然を眺めているところから始まる。その自然描写は印象派の風景画を見るような美しさである。そのうちに「自分」が眠りに落ちて、目を覚ますと、農夫の娘らしい美少女が二十歩ほど離れたところに人待ち顔で座っていた。そこへ素封家の給仕と思われる若くて傲慢そうな男性が遅れてやってきて、あいびきが始まる。二人の会話から少女と青年の名はそれぞれ、アクリーナとヴィクトルと分かる。「自分」はあいびきの一部始終を観察している...という物語である。末尾に再び、今度は日の低くなった林の外の畑地の叙景が展開する。作中の「自分」はアクリーナに同情を禁じ得ないのだが、大抵の若い読者もそうだろうと思う。若くない私はむしろツルゲーネフの風景描写と二葉亭の妙訳の方に気を取られた。

 本ブログ記事題名の英訳をつけるに当たって、アマゾンで英訳版を探してみると、The Rendezvous の題で Herman Bernstein 訳(1907)が見つかった(Kindle 版は無料)。そこで、Bicentennial of ... で使用している The Tryst に代えて、The Rendezvous を採用した。

 Bernstein 訳の冒頭の 2 センテンスは、次の通りのやさしい英文である。
 I was sitting in a birch grove in autumn, near the middle of September. It has been drizzling ever since morning; occasionally the sun shone warmly;—the weather was changeable.
これを私が訳すと次のようになる。
 九月も半ば近い秋の日、私はカバ林の中に座っていた。朝から霧雨で、時には陽も暖かく射すという、変わりやすい天候だった。
他方、二葉亭訳は、
 秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖(あたた)かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。
となっている。私の訳は英訳を通しての孫訳ではあるが、いかにも素っ気ない文章であるのに反し、二葉亭訳にはリズム感があり、またその場の雰囲気をよく漂わせてもいる。このようなところが二葉亭訳の名訳といわれるゆえんであろう。

 (2018 年 11 月 19 日修正) 

【後日の追記】

 この記事を投稿した日の朝日紙「天声人語」欄は、奇しくも芸術(映画・文学)と雨の関係を述べていた。アメリカ文学において雨は死と再生の象徴であるとの見解も紹介されている。「あいびき」の冒頭でも小雨が降ったり止んだりしている。ロシア文学でも似たような象徴の意味が雨にあるのだろうか。その「天声人語」の英語版はこちら

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