私が学生時代に下宿から母宛に送った手紙の一部を母が保存してくれていた。湯川さんの講義などの印象を書いたものがあれば、既報「湯川秀樹博士を研究する市民の会」[1] に提供する話題として役立つと思って取り出してみたが、ほとんどは修士課程の間のもので、湯川さんの講義を聴いた学部3回生のときのものは見当たらない。ただ1通、ちょうど湯川さんの講義のごく始め頃のものがあった。講義の印象は記してないが、大学生協で炭の共同購入をしたことなどが書いてあり、すっかり忘れていた50年近く前の学生生活がよみがえる。以下に、1956年秋(便せんに日付けは記してなく、封筒は保存されていないが、内容からそう推定される)に母へ送ったその手紙を引用する。
昨日は強い風を伴った雨で、きょうも雨が降っています。冬に備えて大学の協同組合の炭の共同購入で一俵買っておきましたが、まだセーターを着ると暖かすぎるような気温。夏休みの終り頃にTKさんから借りたのを毎日着ていたのが不思議な現象として思い出されます。
今週は物理学の学会があって、また休講が沢山。それでも昨日は、湯川さんの二度目の講義がありました。『岩波講座 現代物理学』[2] の中の湯川さんの書かれた量子力学編に大体そって講義されるので、少し前にそうとも知らず読んでみていたのが、予習した結果となり、楽しく聞けました [3]。
本とノートが沢山になったので、近くの道具屋で、組み立て式三段の本立てを買ったところ、九五〇円で、またまた仰天でした。
四回生で理論系と実験系のそれぞれ四つずつの研究室のどれかに属することになるのですが、去年、物理、化学、数学等の学科に別れるために行ったような各研究室の教授や大学院生との懇談会がいま順々に行われています [4]。
歯はもう全然痛みません。また、親知らずの生え出たところが痛かったのかも知れません。
引用時の注
湯川・朝永両博士生誕100年へ向けて, Ted's Coffeehouse 2 (2006年2月5日).
湯川秀樹, 井上健, 岩波講座 現代物理学 量子力学 上 (岩波書店, 1955).
湯川さんの講義ぶりについての印象は記していないが、湯川さんは当時はまだ日本で唯一のノーベル賞受賞者で、私たち物理学科の学生にとっては神様のような存在だったので、印象を書くなど恐れ多いという気持もあったようである。ただ、私自身も話をするときの声は小さいほうだが、湯川さんの講義は小声だったことが記憶に残っている。本の中では脚注にするような話や、余談などのときには、声を一段と落とされたので、いつも前から3列目ぐらいの座席にいた私でも、そのあたりは聞き取りにくかったものである。長い数式でも、ノートなどを参照することもなく、黒板にすらすらと書かれたことも印象深い。
湯川さんの小声については、湯川さんと相前後して京大物理教室で学んだ田村松平、小林稔両先生も、桑原武夫他編『湯川秀樹』(日本放送出版協会, 1984) の中に書いておられる。特に小林先生は、湯川さんの数物学会例会での中間子論の発表の後、講義室の後ろの人が、何も聞こえなかったからもう一度はじめからやり直して欲しいと発言して皆失笑した、というエピソードを書いておられる。当時は、学科への分属では物理学科が、物理学科の中の研究室への分属では湯川研究室が、圧倒的に希望者が多かったので、私たち学生は自主調整の目的で懇談会を行ったのである。湯川研の大学院生からは就職の厳しい状況を聞かされ、その結果、湯川研希望者数は適当な数にまで減少し、私も所属することになった原子核実験の木村研究室に最大数の学生が集まった。原子力ブームの始まりの時期だったのである。最初湯川研希望者の一人だったA君は、湯川研との懇談会の後、「おれは、湯川研の助手になることをあきらめたよ」といい、それに対して毒舌家のS君が「助手になることをあきらめたとは、みみっちいな」といって仲間たちを笑わせたことが記憶にある。