先に、私の大学生時代からの親友で、世界的に名を知られた超伝導物理学者だった真木君の夫人から、彼の訃報を受け、追悼文を掲載した [1]。今回は、私たちが大学4回生になる春休み [2] に貰って、最も気に入り保存してあった彼の手紙を、夫人の許しを得てここに掲載し、彼を偲ぶ一つのよすがとする。この手紙を貰ったとき、冒頭と末尾が、当時の私の、友人への手紙の書き方によく似ていたので、思わず私が彼に宛てた手紙の下書きを出して比べてみたが、彼の言葉は私のものの「おうむ返し」ではなかった。互いに影響を与え合っていたのだろう。
ヨーロッパの田園風景でも眺めるような印象の、彼の和やかな雰囲気と純朴な心の伝わってくる手紙である。彼はこのような心情を生涯持ち続けたと思う。
私が卒業研究で分属する希望研究室を、長らく第五講座(湯川研究室)といっていながら、実際に決める間際に、原子核実験の第四講座(木村研究室)に変えたことによって、真木君に「ある程度の精神的な動揺」を与えたとは、気の毒なことをした。しかし、彼が動揺を難なく乗り越えたことは、彼の後の活躍ぶりが証明して余りあるところである。
『パンセ』について、「君のように、三、四人の友人と一緒に読めばいいのだが」とあるのは、私が2回生の夏休みに郷里で、中学時代からの友人たちと四人で『パンセ』の読書会をしたことを真木君に伝えてあったことによる。
真木君はこの秋に脳膜炎をわずらい、4回生をもう一度繰り返すことになった。したがって、私と学年や所属講座を異にした [3] ため、やや疎遠にはなったものの、年賀状は交換していた。彼が博士課程を終了してアメリカへ留学していた間は、滞在先が分からなくて、音信が途切れた。彼の帰国後の1968年頃から、賀状やクリスマスカードの交換が復活した。いずれ、それらのカードの文によっても、彼を偲びたい。
希望と輝きを持った季節が、長いためらいの後にも、一歩一歩確実にやって来る。ぼくたちは、いよいよ大学生活四年の最後の年を迎えるわけである。この休暇にも、君はきっと多大の成果をおさめたことだろう。
ぼくは、いつものように、休みの前には途方もないような計画をたてるのだが、それをまた、いつものように脱線ばかりしている。
冬休みには母と弟の紘三と一緒に、九州の伯父の家に行った。ぜひとも行きたかったというよりも、家でじっとしているのが、なにかしら退屈だったので。
それで、正月の間、方々を見物したり、また隣にある教会へ遊びに行ったりした。そこの神父さんは、そのとき不在で、そこを管理している人が英語の先生で、たくさんのレコードと立派な電蓄を持っていたので、レコードを聞きに行ったりしたのである。
この休みには、合唱団の中国地方への演奏旅行もあったのだが、なんだか家にじっとしていたかったので、どこへも行かなかった。——それに合唱団は、もう休団ということになってるし——。君が第四講座に入ったのは、まさに晴天の霹れきだった。ぼくもそれを聞いて本当に迷ったが、しかしやはり、そんなことはぼくにとってなにもなかったこととし、このまま行こうと思っている。
それでもある程度の精神的な動揺が起こったので、家にじっとして本でも読んでみたかった。パンセを以前はところどころしか見てなかったので、それを始めから読みなおしてみることにした。こんなときには、本当に君のように、三、四人の友人と一緒に読めばいいのだが。
また、ドイツ語をしばらく読んでいなかったので、Wilhelm Meisters Wanderjahre を手にしたが、あまりにも大部なのと、とても興味があるが、読む速度が実に遅いので、5章まで読んで、置いてあるので、また読んでみようと思っている。
それで勉強の方の成果となると、実に恥ずかしいことで、最初 Theory of Sounds を読んだが、いかにも内容が冗長なように思えたので、途中でやめてしまい——もう少し読めばおもしろくなりそうな気もするのだが——Schiff の Quantum Mechanics に手をつけたが、これも第5章のところでとまっている。
また、昨夜から電磁気の方に興味がわいてきたので、田村先生の物理学Cを読んでいる。どうも一つのことに精神の集中ができないようだ。
そういえば、ヴァイオリンの練習もこのごろ行きどまり状態だ。これを通りこせば、なんとかなるのだが。こんなすべての期待を新学期にかけている。
新しい講義を楽しみにしている。これからもいろいろと啓発してくれ給え。
'57 4 2
真木和美
多幡達夫様
ヨーロッパの田園風景でも眺めるような印象の、彼の和やかな雰囲気と純朴な心の伝わってくる手紙である。彼はこのような心情を生涯持ち続けたと思う。
私が卒業研究で分属する希望研究室を、長らく第五講座(湯川研究室)といっていながら、実際に決める間際に、原子核実験の第四講座(木村研究室)に変えたことによって、真木君に「ある程度の精神的な動揺」を与えたとは、気の毒なことをした。しかし、彼が動揺を難なく乗り越えたことは、彼の後の活躍ぶりが証明して余りあるところである。
『パンセ』について、「君のように、三、四人の友人と一緒に読めばいいのだが」とあるのは、私が2回生の夏休みに郷里で、中学時代からの友人たちと四人で『パンセ』の読書会をしたことを真木君に伝えてあったことによる。
真木君はこの秋に脳膜炎をわずらい、4回生をもう一度繰り返すことになった。したがって、私と学年や所属講座を異にした [3] ため、やや疎遠にはなったものの、年賀状は交換していた。彼が博士課程を終了してアメリカへ留学していた間は、滞在先が分からなくて、音信が途切れた。彼の帰国後の1968年頃から、賀状やクリスマスカードの交換が復活した。いずれ、それらのカードの文によっても、彼を偲びたい。
- Kazumi Maki (1936−2008), Ted's Coffeehouse (2008 年 12 月 29 日;目下リンク切れ); IDEA & ISAAC: Femto-Essays に同文を掲載.
- 追悼文に最初、真木君が3回生の秋に脳膜炎をわずらったと書いたが、4回生の秋の間違いと分かり、訂正した。
- 私が修士課程2回生のとき(1959年)のガリ版刷りの「物理学教室 教室会議構成員名簿」では、真木君は第二講座(原子核理論の小林研究室)の修士課程1回生となっているが、のちに、博士課程は湯川研究室だったと聞いた。
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