湯川博士の誕生間もない1907年から、京大で活躍中の1958年までの写真を集めたウエブページがある [1]。大阪科学館の斎藤さんが、同館に展示するパネルを作成するために、基礎物理学研究所からコピーを貰って、それを紹介しているものである。
その中に「アキレス腱切断 ソフトボール大会で、湯川はヒットを打ったものの、一塁まで走ったところでアキレス腱切断。2カ月ほど研究所を休むことになる。京大農学部グラウンドにて、1956年ごろ」という説明のついた写真がある。
1956年ならば、私が京大3回生のときのことで、私はその年度の後期に湯川博士の「量子力学 I」という講義を聞いている。そう思ってよく見ると、その写真の湯川博士は、まさに私が記憶している博士そのものである。『湯川秀樹著作集 月報8』中の「湯川先生の思い出」と題する荒木不二洋氏の文によれば、このソフトボール試合は1956年5月18日に行われた湯川研究室内の東西対抗戦で、湯川博士はボールを外野を越えてかっ飛ばされたが、一塁を回って二塁へ走る途中で足をくじかれたそうだ。
似たような記述は、室田和香さん(理論物理刊行会元職員)の「湯川博士の思い出」というウエブページ [2] にもある。ただ、一塁への途中で転倒されたようになっていて、荒木氏の記述との間に、細かい点ではあるが、食い違いが見られる。
アキレス腱といえば、湯川研究室の修士課程を修了した MS さん(私がこのブログに引用した母への手紙にときどき登場している)が1958年の秋から私のいた木村研究室へ原子核実験の勉強に来ていた。彼女も、研究室仲間とバドミントンをしていたときだったかにアキレス腱を切った。「湯川研は師弟ともにアキレス腱が弱い」と話題になっていたような気がするが、その辺の記憶は不確かだ。
ところで、湯川博士は核兵器廃絶の運動に熱心だった。最近わが国の核兵器保有を論じたがる政治家たちは、「日本のアキレス腱」ではないだろうか。「アキレス腱」には「致命的なものとなる弱点」の意味がある(『広辞苑』)。念のため。
Random writings of a retired physicist
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2006年10月25日水曜日
湯川博士とアキレス腱
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