昨年の私のブログに
湯川博士が昔、新年の新聞に、原爆が発明されたのちの物理学者としての心を「あひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」の歌を引いて書いていたことを思い出した。
と書いたのがある [1]。
湯川会のMさんは、湯川秀樹選集全5巻、湯川秀樹自選集全5巻、湯川秀樹著作集全10巻別巻1を全部揃えて持っていて、最近、これらに入っている著作を比較し、それぞれに単独で現れている作品の整理を行ない、さらに年別の作品数の推移を表わすグラフも作成した。彼ならば、冒頭に引用された短歌と1950年代初め頃に書かれたもの、というわずかのヒントで、湯川博士の上記の文をこれらの著作集の中から見つけられるのではないかと思い、同会のグループメールで尋ねてみた。すると、すぐに返事があり、『湯川秀樹選集 第3巻 論説篇 原子と人間』pp.11~15(甲鳥書林、1955)に「原子と人間 II」(1955年1月筆)として掲載されていることを教えて貰った。
その文の書き出しは次のようになっているそうである。
あひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり とは原子を知つた今日の人間の心境であるともいえよう。人間がこの世にあらわれるよりもずっと前から原子はもちろん存在していた。…
以下、人間は原子の力を知って、原爆、水爆を作り出してしまったことを述べ、「科学の進歩がかならず人間をより幸福にすると単純に信じてよい時代はすぎてしまつた」が、「原子力の悪用を禁止しようとする努力がよりよい世界へ向かつての第一歩であることも明白である」と結んでいるという。
1955年1月といえば、私が大学1回生のときの正月ということになり、新聞は郷里の自宅で読んだはずで、初出の掲載紙は北国新聞の可能性が大きいのだが、出典の記載はないそうだ。湯川博士が核兵器廃絶の運動の重要性に思いをいたしたきっかけは、1954年3月1日のアメリカによるビキニ環礁での水爆実験だそうだから、この随筆を書いたのは、そのすぐあとになる。私の心にそれが長年記憶されていたということは、おだやかな文章の中にも、博士の強い主張がにじみ出ていたことを示すものであろう。
なお、湯川会のIさんが、「あひみての…」の短歌は、藤原敦忠の作 で『拾遺和歌集』と『小倉百人一首』に収められていることを調べて、会のウエブサイト [2] の「湯川と古典」のページに、他の湯川博士と関連の深い古典のことばとともに載せている。
- カイコウズの大木, Ted's Coffeehouse (2006年7月22日).
- 湯川秀樹研究Wiki
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