湯川博士は1935年に、原子核の中で陽子と中性子を結びつけている核力は、重さが電子と陽子の中間の粒子によって媒介されているという中間子論を発表したが、その理論は、しばらくの間、学界から注目されることもなかった。それが、突然世界的に注目されるようになったのは、1937年、カール・アンダーソンらが宇宙線中に、現在ミューオンと呼ばれている粒子を発見し、それが湯川博士が存在を予想した粒子と思われたことによる。発見当初、この粒子はユーコン(この命名については [1] の末尾を参照されたい)、メソトロンなどと呼ばれた。メソトロンの命名についてはアンダーソンと彼の師であるロバート・ミリカンの間で言い争いがあったという話を、私は遅まきながら昨日、湯川会顧問のSさんが以前に書いた文 [2] で初めて知った。
アンダーソンらはミリカンの留守中に短報を Nature 誌に投稿し、「メソトン」という名を提案した。帰ってきたミリカンが、それを聞くやいなや、「エレクトロンとかニュートロンとかいうのだから、メソトロンにすべきだ」といって反対した。アンダーソンは「プロトンというのもある」と反論したが、結局 r の追加文字を Nature 誌に電報で送ることになった、というのである。
Sさんはこの話をローリー・ブラウンら編集の本 [3] から引用している。実は、私はその本の原書 [4] を以前から持っていながら、アンダーソンの文 [5] のところを読んでいなかった。そこを開いてみると、この本のもとになったシンポジウム(1980年フェルミ研究所で開催)には、カール・アンダーソンが出席出来なくて、ハーバート・アンダーソンが彼の原稿を代読した、とある。そして、代読者による緒言がついていて、その中にも、上記のようなミリカンとカール・アンダーソンの仲のよくなかった関係が、「300ページほどのミリカンの自伝の中で、カール・アンダーソンについては、若い共同研究者たちとの宇宙線の研究として、ひとこと書いてあるだけ」と、暗にミリカンを批判する形で述べられている。
その後、「メソトロン」という名には問題ありとして、「メソン」に変わった話と、さらに現在パイオンと呼ばれている、湯川博士の予想した粒子に実際に対応するものの発見(1947年)に伴って、「メソン」が「ミューメソン」に変わった話については、先のブログ記事 [6, 7] を参照されたい。
なお、アブラハム・パイスの本 [8] によれば、1939年に開催された宇宙線シンポジウムに提出された論文には、現在のミューオンが、ユーコンを含む6通り以上の名前で呼ばれていたが、編集者たち [9] は「メソトロン」に統一したそうだ。6通りとは、重い電子、軽い陽子、ユーコン、メソトロン、メソトン、メソンあたりか。他にどういうのがあったのだろうか。
- 「湯川ポテンシャルへのヒント」Ted's Coffeehouse 2 (2007年3月27日).
- 「新粒子の命名『メソトロン』」月刊うちゅう, Vol. 22, No. 10 (2005).
- L・M・ブラウン, L・ホヂソン=編, 早川幸男=訳, 『素粒子物理学の誕生』(講談社, 1986).
- L. M. Brown and L. Hoddeson, ed. "The Birth of Particle Physics" (Cambridge Univ. Press, 1983).
- C. D. Anderson with H. L. Anderson, "Unraveling the particle content of cosmic rays", ibid. P. 131 (1983).
- 「中間子命名にハイゼンベルクの父が関与」Ted's Coffeehouse 2 (2007年1月13日).
- 「パイオンの名の由来」Ted's Coffeehouse 2 (2007年3月24日).
- A. Pais, "Inward Bound", p. 431 (Clarendon Press, 1986).
- Rev. Mod. Phys. Vol. 11, p. 122 (1939).
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