かんぽの宿奈良でのスケッチ、2016 年 8 月 18 日。屋上展望室の窓に記された説明によれば、この絵の左端を出はずれた、はるか前方が薬師寺方面になる。
Sketch made in Kampo Hotel Nara, August 18, 2016. According to the description in the observation room, Yakushiji Temple would be seen far forward outside the left of this picutre.
2016 年 6 月 17 日から 8 月 10 日までの記事への M・Y 君の感想
M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2016 年 8 月 15 日付けで貰った。長いので、部分的に(特に引用部分)省略・修正して紹介する。(文中、「筆者」とあるのは、感想の対象であるブログ記事の筆者、T・T を意味する。)
1. 幼少年時代の絵
「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」に続いて始まった「幼少年時代の絵」は「12:最近のスケッチを添えて」によって完結することになりました。今回は第 8~12 回のうち、印象に残った部分についての感想を記します。
筆者は「このシリーズを書いて、私の絵や、絵を描いた経験は、ずいぶんいろいろな思い出につながっていることに、改めて気づいた」と結んでいます。そのことは、以下の箇所にも現れていました。「幼少年時代の絵 10」の『グラブ』について、
『坂道のある風景』の絵については、
「イーゼルペイント画こども美術展」の入賞に関連して、第 11 回から第 12 回の記事にかけて、これに同じく入賞した二人の友人のことを書いています。一人は、筆者がその展覧会の会場で佳作になっている作品に出会った樋爪十四夫氏(七尾の小学校で隣のクラスの級長だったが、近年故人となったとのこと)で、彼に送った葉書への返信を紹介しています。
その返信の後半部には、4 年生(1945年)から中学 3 年生(1950 年)にかけてのことが書かれていています。まず、「ほんのまねごとのような疎開」について説明しています。空襲の激しい大都市の国民学校の児童は親許をはなれ、学校の先生と共に空爆のない町の旅館などに分宿し、町の学校の教室を間借りし、勉学に励んでいました。食糧難の時代、この集団生活も悲惨だったようです。4 年生(敗戦の年)の夏に小さな市の七尾からも疎開したとは、今まで安全と考えていたところでも戦争の激化の影響があると想定されたのでしょう。7 月初めころから空襲による爆撃(焼夷弾)で建屋が類焼しないように、指定された区画の家屋は何月何日までに出て行くように(建物疎開)と命令されました。また、学童にも疎開することが強制されました。本土決戦、一億総玉砕という掛け声の具体性が分らない国民に先の見通しはなく、命令には従わざるをえませんでした。「まねごとのような疎開」とは、そこまでしなくても自分のところは大丈夫だのにという気持ちがあったことを表しているものと、私は類似の経験から推察します。「僕は、そこで病後をすごし、自然に浸透出来ました」とあるのは、この疎開の雰囲気をよく表している名言だと思いました。敗戦以降の民主化過渡期における自身の活躍(生徒会活動)や絵を描くことへの情熱など、よく書かれた樋爪氏の名文を興味深く拝見しました。
続いて筆者は、「イーゼルペイント画」で金賞を共に受賞したもう一人の友人、「金沢市内の別の中学の女生徒」との意外な関係を述べています。
英文小説 "Vicky" は「私」が北海道へ移り住むことになる友人へ宛てた何通ものメールの形で書かれています。最後の部分で「私」は、英文紙から Edward Thomas の詩 "October" 中の言葉「いつの日か私はこの時を幸福な日と思うだろう/そしてメランコリーという名のこの気分は/もはや黒ずんだり不明瞭だったりしていないであろう」を知り、この「いつの日か」に自分がたどり着き、青春時代のメランコリーを幸福な気分で追想していることに気づきます。この小説中の Vicky と「私」の関係の前半のあらましを以下に紹介します。
高校 1 年の夏休みに「私」は Vicky (Venus と Victory を合わせたものとして、「私」が一女生徒に密かに付けた呼び名)宛てに、お互いに勉強で競い合おうという趣旨の葉書を出しましたが、返事がなく、新学期に顔を合わせても話しかけられさえもしませんでした。それで、「私」は彼女にに対し、尊敬に加えて、いささかか敵意の混じった感情を抱き始めます。そのうちに、彼女への葉書で多用した言葉を、彼女が「私」の後ろで友だちとの会話で使うのをもれ聞き、「私」は彼女に侮辱されたように感じると同時に、彼女が「私」の出した葉書を少しは記憶しているらしいことを嬉しくも思います。卒業式の日、「私」は、彼女が遅くなって一人で帰って行くのに道ですれ違うことになります。彼女は黙って頭を下げ、「私」がそれに対して「さようなら」とひと言いったのを最後に、彼女との青春の日々は終わりとなります。——そして、金賞を共に受賞したと分かった後の S・T さんとの交流のことが、この小説の続編ともいえるような形で、第 12 回の記事の中程に綴られています。
2. 水彩画『自鳴琴の館』
1. 幼少年時代の絵
「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」に続いて始まった「幼少年時代の絵」は「12:最近のスケッチを添えて」によって完結することになりました。今回は第 8~12 回のうち、印象に残った部分についての感想を記します。
このシリーズの最終回となる第 12 回は、記事を飾るための幼少年時代の絵はもう出尽くしたので、代わりに最近のスケッチを掲載する。[…]幼少年時代の絵と比較して進歩したか、あるいは退歩したかの判断は、読者の方々にお任せする。と、スケッチの成果を読者に問うています。この労作シリーズをしめくくる、よい構成だと思います。1 枚目のスケッチは、両側を松の木と右横から延びる枝でかこんだ、セザンヌの『サント=ヴィクトワール山』の構図に似ていると感じました。
筆者は「このシリーズを書いて、私の絵や、絵を描いた経験は、ずいぶんいろいろな思い出につながっていることに、改めて気づいた」と結んでいます。そのことは、以下の箇所にも現れていました。「幼少年時代の絵 10」の『グラブ』について、
この絵のグラブは従兄のお古で、引揚げ時に持ち帰り、中学生時代まで使用したが、その後、従兄に返した。従兄のお古のボールも一緒に持ち帰った。引揚げ後最初に間借りしていた家の長男さんと、ある日曜日に近くの緩やかな坂道のところで、そのボールでキャッチボールをした。その時、彼の悪送球に私の手が届かず、ボールはてんてんと転がって溝へ落ち、さらに川へまで転げて行ってしまった。[…]古い絵は思いがけない記憶をよみがえらせてくれる。と書いていました。また、この回の二番目のイメージについて、「次回掲載予定の、もっと等級が上の賞状を探していたところ、一緒に出てきた、ほとんど忘れていた賞状である」と記し、第 11 回の記事で、『坂道のある風景』への「イーゼルペイント画こども美術展」(県レベル)の金賞賞状(1950 年、15 歳)と、同じ絵への全国学童水絵作品展入選賞状を紹介しています。
『坂道のある風景』の絵については、
[…]小林君に頼んで、彼の家の二階にあった勉強部屋の窓からの眺めを描かせて貰うことにした。と述べています。これを読んだ時、なるほど、筆者の創作『夏空に輝く星』にはこの経験が具体的に書かれていたのだ、と思いました。第 12 回の終わりの部分に、
その眺めは、彼のところへよく遊びに行って見慣れていたものだった。小林君の家は坂を下ったところにあり、まだ舗装されていなかったその坂道と、左右の家々の屋根、そして家々の植木などが見えた。手前に隣家の一階の屋根が、視野中の右下にやや大きな場所を占めている。北陸の屋根瓦は釉薬がかけられていて、屋根が光り輝いて見える。しかも私は、それより少し前に近眼を矯正する眼鏡をかけ始めたばかりだったので、それ以前に見ていたのと同じ風景が、より輝いて見えるようになり、感動していた。
なお、私が高校 2 年の夏休みに国語の宿題として書いた創作『夏空に輝く星』の、絵を描くことを好む主人公・稔のモデルは、主に高校 1 年の頃の私自身である。稔は、数馬君がモデルである殿村文雄の家の[…]窓からの風景を写生させて貰っている。その風景の細かい描写が作中になされているが、これは「金賞」作品に描いた小林君の家の二階からの眺めがモデルになっており、その写生をする時の稔のモデルは中学 3 年生の時の私である。と、筆者自身が明かしています。
「イーゼルペイント画こども美術展」の入賞に関連して、第 11 回から第 12 回の記事にかけて、これに同じく入賞した二人の友人のことを書いています。一人は、筆者がその展覧会の会場で佳作になっている作品に出会った樋爪十四夫氏(七尾の小学校で隣のクラスの級長だったが、近年故人となったとのこと)で、彼に送った葉書への返信を紹介しています。
その返信の後半部には、4 年生(1945年)から中学 3 年生(1950 年)にかけてのことが書かれていています。まず、「ほんのまねごとのような疎開」について説明しています。空襲の激しい大都市の国民学校の児童は親許をはなれ、学校の先生と共に空爆のない町の旅館などに分宿し、町の学校の教室を間借りし、勉学に励んでいました。食糧難の時代、この集団生活も悲惨だったようです。4 年生(敗戦の年)の夏に小さな市の七尾からも疎開したとは、今まで安全と考えていたところでも戦争の激化の影響があると想定されたのでしょう。7 月初めころから空襲による爆撃(焼夷弾)で建屋が類焼しないように、指定された区画の家屋は何月何日までに出て行くように(建物疎開)と命令されました。また、学童にも疎開することが強制されました。本土決戦、一億総玉砕という掛け声の具体性が分らない国民に先の見通しはなく、命令には従わざるをえませんでした。「まねごとのような疎開」とは、そこまでしなくても自分のところは大丈夫だのにという気持ちがあったことを表しているものと、私は類似の経験から推察します。「僕は、そこで病後をすごし、自然に浸透出来ました」とあるのは、この疎開の雰囲気をよく表している名言だと思いました。敗戦以降の民主化過渡期における自身の活躍(生徒会活動)や絵を描くことへの情熱など、よく書かれた樋爪氏の名文を興味深く拝見しました。
続いて筆者は、「イーゼルペイント画」で金賞を共に受賞したもう一人の友人、「金沢市内の別の中学の女生徒」との意外な関係を述べています。
彼女は高校が私と同じになり、 1 年 2 学期初めの総合テストの結果発表でも名前を並べ(彼女の方が最高点で、縦書きのリストの私の右に名があった)、卒業式でも席を並べた(彼女は卒業生総代として最前列の右端の席を当てられ、私は県内の化学に優れた生徒に与えられる「高峰賞」を受け取るため、その左にいた)。しかし、私たちは、高校時代はもとより、卒業後も、互いに金賞の絵でも並んでいたことを知らないまま、40 数年を過ごした。私が定年退職したかどうかという頃の同窓会の席上で絵の話が出た折に、彼女、S・T さんが、「絵といえば、私は中学生時代に金賞を貰いました」といったことで、ようやく分かったのである。(S・T さんをモデルにした英文短編小説 "Vicky: A Novella" — "Passage through Spacetime" 所収 — を書いたよりものちのことである。)
英文小説 "Vicky" は「私」が北海道へ移り住むことになる友人へ宛てた何通ものメールの形で書かれています。最後の部分で「私」は、英文紙から Edward Thomas の詩 "October" 中の言葉「いつの日か私はこの時を幸福な日と思うだろう/そしてメランコリーという名のこの気分は/もはや黒ずんだり不明瞭だったりしていないであろう」を知り、この「いつの日か」に自分がたどり着き、青春時代のメランコリーを幸福な気分で追想していることに気づきます。この小説中の Vicky と「私」の関係の前半のあらましを以下に紹介します。
高校 1 年の夏休みに「私」は Vicky (Venus と Victory を合わせたものとして、「私」が一女生徒に密かに付けた呼び名)宛てに、お互いに勉強で競い合おうという趣旨の葉書を出しましたが、返事がなく、新学期に顔を合わせても話しかけられさえもしませんでした。それで、「私」は彼女にに対し、尊敬に加えて、いささかか敵意の混じった感情を抱き始めます。そのうちに、彼女への葉書で多用した言葉を、彼女が「私」の後ろで友だちとの会話で使うのをもれ聞き、「私」は彼女に侮辱されたように感じると同時に、彼女が「私」の出した葉書を少しは記憶しているらしいことを嬉しくも思います。卒業式の日、「私」は、彼女が遅くなって一人で帰って行くのに道ですれ違うことになります。彼女は黙って頭を下げ、「私」がそれに対して「さようなら」とひと言いったのを最後に、彼女との青春の日々は終わりとなります。——そして、金賞を共に受賞したと分かった後の S・T さんとの交流のことが、この小説の続編ともいえるような形で、第 12 回の記事の中程に綴られています。
2. 水彩画『自鳴琴の館』
上掲のイメージは、2016 年度『美交会展』に出品予定の私の水彩画、『自鳴琴の館』である。自鳴琴とは、オルゴールのことをいう古風な日本語である。昨秋訪れて撮影した京都嵐山オルゴール博物館の写真を参考にして描いた。として、水彩画の近作を紹介しています。このオルゴール博物館については、2015 年 10 月 1 日付け「京都へ」(『水彩画とキルト 親子展』の疲れを癒すために旅に行かれたとの記事)の中に、同博物館の写真を見て、立派な博物館との印象を受けました。この写真を基にして、このような詳細な写実画を描かれたことに感心しました。『水彩画とキルト 親子展』で奥様が「最近の絵は変わってきた」とおっしゃっていました。しかし、ブログのラベル "collected watercoloers" にまとめられた絵を通して見ると、筆者の最近の絵は細密さは従来に変わりありませんが、色調などが変化しているように感じられます。