2005年5月9日月曜日

アンクル・サムに頼るな


 写真は2005年5月7日、堺市大仙公園で(記事には無関係)。

 『ネイチュア』誌は先月 "Don't rely on Uncle Sam" と題する巻頭論説 [1] を掲載した。アンクル・サムとはアメリカ政府または同国民のあだ名である。論説の主旨は次の通り。

 「無認可」の遺伝子組換えトウモロコシがここ数年間、欧州市場に出回ることになったが、これはスイスのシンジェンタ社が米国で栽培させていたものであり、米国の規制制度が適切な対応を取れなかったことによる。しかし、米国連邦政府の事件調査体制は十分でない。スイスが EU に加盟していなくても、シンジェンタ社は欧州の会社であり、欧州委員会はこの問題の経緯を独自に調査すべきである。(要約は筆者)

 「アメリカ頼みではいけない。」これは日本の政治についてもいえることである。たとえば、奥野恒久(室蘭工大、憲法学)は次のように記す [2]。

2004年1月、小泉首相が「日本が侵略されても国連が守ってくれるわけではない」(1月27日衆議院予算委員会)と語ったように、イラクへの自衛隊派遣について、「そうしないと、いざという時にアメリカ軍に守ってもらえない」との説明が多くなされた。しかしこの説明こそ、「国際貢献」とはほど遠いはずである。

アメリカ頼みの日本政府は、イラク攻撃を無条件に支持した。これでは、「国際貢献」の名で、侵略に加担することにさえなるのである。


  1. "Don't rely on Uncle Sam," Nature Vol. 434, p. 807 (2005).

  2. 奥野恒久「日本国憲法の平和主義は『一国平和主義』か」日本の科学者 Vol. 40, p. 198 (2005).

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


テディ 05/09/2005 20:59
 国際貢献という名目の米国貢献。これ程までに「アンクル・サム」に尻尾を振り、頼り切る我が首相。彼の国の覇権が未来永劫続くと疑っていないように見えます。しかしかっての軍部が米国を過小評価したことの裏返しであるような米国への過大評価が政権内部に根強くあるようです。たとえ米国が当分の間パワーを持ち続けていたとしても、世界を意のままに出来ていないことはここしばらくの世界情勢を見ても明らか。米国を見て世界を見ぬ我が首相は任期までどうにかなればいいさとでも思っているのでしょうか…。

Ted 05/09/2005 21:59
 それにしても、NHKの世論調査では、首相支持率がまた上向きましたねぇ。

タニウツギが花盛り / 「オリンピック賛歌」の和訳を英訳


タニウツギが花盛り

 堺市大仙公園内の日本庭園の一隅で例年美しく咲くボタンを見ようと、さる5月7日に出かけたが、遅かった。咲き終った花の部分は手入れのため切り取られ、わずかに残る花たちもすでにしおれていた。同庭園では、代わって、タニウツギが花盛りだった(写真)。

「オリンピック賛歌」の和訳を英訳

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年7月19日(土)

 グォー、グォー、グォーという、いかにもはるか彼方から放送しているにふさわしい雑音。ときどき大きくなったり小さくなったり、深い井戸の底に向かって叫ぶような響きを持ったりする、アナウンサーの懸命な声。

Olympics! Faster, higher, stronger! Many torches were kindled on the road where a lot of people walked and went away as if they had been smoke. But you, Saint Fire of the Olympics, had once kindled up like a beautiful, bright lily, praising Zeus. Doing their best, the youths of Hellas competed. Their godlike beauty gave inspiration to sculptors, and their works became statues to be offered to God.

Nowadays the world changed into Great Hellas, where the young gather and contest to select physically strong ones. Victory puts olive-wreaths on the strong ones' head and give them the noble words: "To win is a great thing, but to join in competition is a much greater thing."

Now Saint Fire of the Olympics brightens the hopeful sea route and the peaceful harbor in the world with its holy light. The flame itself is produced from golden light that runs through the sky of all the universe and

 「炎々として聖火は燃え盛りました。…」じつに感激的な、力のあふれた志村アナウンサーの放送だ。「点火されました。点火されました。…」

the spiritual fire that blazes in human's mind. ――実況放送を聞きながら、「オリンピック賛歌」[1] の和訳を英訳。――

1952年7月20日(日)晴れ

 YMG 君さえ、ぼくが読書中に対話の箇所にぶつかると、左卜全のに次いで真似て読んでみたい声で、解析の補講について、「ある式の両辺をある数で割って変形してある形を作りだしたり、積を和に直して加法定理を使うかと思えば、それを2倍角の公式を使って展開したり、また、和から積に直したり、たいへんだ」といっていた。それほど高級なものなのだ。英語の講義もよい。
 いつから始まったか知らないぼくの自己解剖の癖は、いまだに勢いの衰えを見せない。いまも、次のようなことを書きたくなった。ぼくが頭の中で展開する会話と議論と態度と動作がそのまま外に現れたならば、ぼくは、いかにキビキビ、ハキハキしていて、ユーモラスで、かつ豊富な話題と意見と思想の持ち主であることだろう。その上たいへんな冗舌家かも知れない。にもかかわらず(in spite of か none the less を使って訳すべきところだ)、表現されるぼくは、何と非スポーツマン的(このことばでぼくの欠点のすべてが表せるかと思う)なのだろう。

 引用時の注

  1. インターネットで検索すると、「オリンピック賛歌」には何種類かあるようだが(The Olympic Anthem and music 参照)、ここに記したもの(歌でなく散文のような訳になっているが)の原文に相当するものは見つからない。ご存じの方は、教えていただければ幸いである。

2005年5月8日日曜日

カプリ島へ接近 / 思想なき思想だ…


カプリ島へ接近

 写真はイタリアのナポリ・カプリ島間の高速船から(2003年5月13日)。

思想なき思想だ…

高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年7月15日(火)

 そうだよ、そうだよ。ありがとう。そして、すみません、おかしな時間に行って。
 きりこ [1]、きりこ、きりこ、人、人、人、ろうそく、花、…。そこに満ちているものは何だ。多くの人びとは何をしにここへ来ているのだ。哲学をしに来ているのでもなければ、悲しみに来ているのでも、喜びに来ているのでもない。そこら一帯には、崇高さとさまざまな感情との交錯が見られる。花がへんな具合に投げ込まれるのに顔をしかめているボーイスカウトの服装をした少年を横目で見ながら、2本のろうそくに火を写して環の上に立てて考えた。行事…、単に惰性的なものだけでもあるまい。それなのに、何ときびきびしていないこれらの人たちだろう。しかも、そこに崇高さの雰囲気が保たれているのだ。これは、まさに思想なき思想だ…。ぼく自身も、そこへ行って、何の思索も行わないで、新しい誓いの横溢を感じている自分を見出したではないか。
 「傷痍軍人更生資金…」と書かれた箱。少し離れて、共産党30周年で何かをメガホンで叫んでいる男。その付近には鉄かぶとの警官。「あの人、共産党か。見たとこ、普通やけどね」という、小学校1、2年生くらいの女の子の声がした。

1952年7月16日(水)薄曇り

 31.5度ある。SNN 君がよくいう「ピンボケ」になりそうだ。80分授業の夏季講習は長くも感じられなかったが。FK 先生に英語を習うのは初めてだ。かなりの年齢の先生だが、細い声で it を [et] のように発音して授業を進められた。
 内省的、求心的でばかりあってはいけない。――何度か自分で自分に言い聞かせてきたことだ。

1952年7月17日(木)、18日(金)雨のち曇り

 歯を磨いて歯ブラシを口から出すたびに、それが真っ赤になっているのを見る。母は、歯槽膿漏だろうとかいっていた。思想朦朧なんかでは、たまったものではない。
 祖父が、教え子が館長をしている図書館から借りた「吉田松陰」という古めかしい本の最初の、松陰の年譜のところを書き写すように、という。大きな文字で、ページの上下も広く空いているが、10ページもある。ぼくが忙しくしていることは祖父も理解しているが、さて、どうしたものか。

 引用時の注

  1. 細い木で作った枠に和紙を貼り、吊り下げるようにした縦長、裾開きの箱形の飾りで、一つの面に「南無阿弥陀仏」と書かれている。北陸地方で、うら盆会に墓所や廟所へ持参する。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


テディ 05/08/2005 11:39
 1952年と言えば武装闘争路線を策定した徳田球一の日共に対して政府が破防法を制定した年で、北陸の田舎では「共産党員」といえばさぞ凶悪犯でも見るような目で見られていたのでしょう。

Ted 05/08/2005 15:30
 そうです。1951年10月に、分裂状態にあった共産党の一派が極左冒険主義といわれる綱領を発表し、破防法は1952年7月に成立しましたが、幅広い反対闘争のため、事実上発効できない状況だったようです。
 その頃、金沢では社会党の国会議員も勤めた岡良一氏(私と同期の息子がいました。その息子の2年上の姉は五木寛之夫人)が市長だったかと思いますが、彼のことを「あれはアカだ」と、はれ物にさわるように言う人もあったくらいですから、共産党員に対する目は、おっしゃる通り、凶悪犯でも見るようなものだったでしょう。

2005年5月7日土曜日

スイカを食った!


 写真はイタリアのナポリ・カプリ島間の高速船から見た奇岩群(2003年5月13日写す)。

高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年7月1日(火)雨

 スイカを食った! といっても、西瓜ではない。水禍だ。犀川は濁流うずまいて流れたが、橋梁の流失することも、堤防の決壊することもなく、ぼくの家もまず安全だった。ただ、便所の屋根が空から降ってくるものを完全にさえぎることができなくなって、水でビシャビシャになったのには困った。Ted の家は高地にあるから、こんな時は、水の威力を高所から傍観することは容易であっても、家が直接憂慮されることはなかったであろう。
 夏休みを間近に控え、学期末試験の日割りが発表になる。九、十、十二の三日間である。


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 05/07/2005 11:12
 昨年は夏から台風の襲来が続きましたが、これは夏台風ではなく集中豪雨の災禍ですね?

Ted 05/07/2005 13:27
 北陸では7月頃にときどき豪雨があります。1944年7月、私は石川県七尾市にいて、国民学校3年生でしたが(その年の9月に大連へ移りました)、大水がありました。わが家は床下浸水程度でしたが、前の道路が川のようになって、泥水がとうとうと流れていました。その思い出は東条内閣総辞職、小磯・米内の協力内閣成立と結びついています。いま歴史書を見ると、確かに東条内閣総辞職は1944年7月18日とあります。

2005年5月6日金曜日

記憶の分類法 (Classification Schemes of Memory)


 写真はイタリアのナポリ・カプリ島間の高速船から。大きな岩の左側に、カメが頭をもたげているような形の岩が見える(2003年5月13日写す)。




 先のブログ [1] において、ある本 [3] に対する批評記事 [2] から、記憶の分類について学んだことを記した。これに関して、もっと詳しく知りたいと思い、ウエブの検索をしたところ、先に学んだ分類は情報のタイプに基づくものであり、ほかに持続期間に基づく分類と時間の向きによる分類がある [4] と知った。情報のタイプによる分類と持続期間による分類は、互いに独立な分類法ではなく、前者は後者の一部、すなわち長期記憶に対する分類のようである。時間の向きによる分類(回想的記憶と展望的記憶)は、持続期間による分類と同じレベルで別の観点から分類するものといえようか。それにしても、展望的記憶が回想的記憶と本質的に異なるとは考えにくい。展望的記憶は、その内容がすでになされた決定であって、スケジュールという形で未来に関係しているという、回想的記憶の特別な場合に過ぎないのではないだろうか。

As I wrote in a previous blog post [1], I learned about a classification scheme of memory from the review [2] of a book [3]. I wanted to learn more about it. At a Web site [4] I have learned the following: There are three schemes of classification of memory, i.e., classification by duration, classification by information type and classification by temporal direction. The scheme I learned before is the first one, and it classifies long-term memory, the largest part of any model about memory, into declarative (explicit) and procedural (or non-declarative; implicit) memories.

The classification by information type deals only with the long-term memory. Then it is not a scheme independent of the classification by duration but the one that subdivides the latter. The explanation of the latter at the above Web site [4] is as follows:

Classification by Duration
A basic and generally accepted classification of memory is based on the duration of memory retention, and identifies three distinct types of memory: sensory memory, short-term memory, and long-term memory.

The classification by temporal direction is explained as follows:

Classification by Temporal Direction
A further major way to distinguish different memory functions is whether the content to be remembered is in the past, retrospective memory, or whether the content is to be remembered in the future, prospective memory. Thus, retrospective memory as a category includes semantic memory and episodic/autobiographical memory. In contrast, prospective memory is memory for future intentions, or 'remembering to remember' (Winograd, 1988). Prospective memory can be further broken down into event- and time-based prospective remembering. Time-based prospective memories are triggered by a time-cue, such as going to the doctor (action) at 4 pm (cue). Event-based prospective memories are intentions triggered by cues, such as remembering to post a letter (action) after seeing a mailbox (cue). Cues do not need to be related to the action (as the mailbox example is), and lists, sticky-notes, knotted handkerchiefs, or string around the finger are all examples of cues that are produced by people as a strategy to enhance prospective memory.

Can this classification be said to be the one at the same level with the classification by duration from a different viewpoint? Anyway I doubt that prospective memory is essentially different from retrospective memory. The former seems only to be the special case of the latter in which the retrospective content is a decision already made in the form of a schedule related to the future.

I also quote the description about declarative memory [4] below.

Declarative memory requires conscious recall, in that some conscious process must call back the information. It is sometimes called explicit memory, since it consists of information that is explicitly stored and retrieved.

Declarative memory can be further sub-divided into semantic memory, which concerns facts taken independent of context; and episodic memory, which concerns information specific to a particular context, such as a time and place. Semantic memory allows the encoding of abstract knowledge about the world, such as "Paris is the capital of France". Episodic memory, on the other hand, is used for more personal memories, such as the sensations, emotions, and personal associations of a particular place or time. Autobiographical memory - memory for particular events within one's own life - is generally viewed as either equivalent to, or a subset of, episodic memory. Visual memory is part of memory preserving some characteristics of our senses pertaining to visual experience. We are able to place in memory information that resembles objects, places, animals or people in sort of a mental image.

A commentator on my blog post [1] wrote that the word "information" used in the review [2] to explain the semantic memory seemed a little odd in the context, and I felt the same. Considering the fact that classification of memory can be made by information type, however, the use of the word "information" is quite natural.


  1. Life's Speeding Up at Higher Ages (歳とともに人生は速くなる), Ted's Coffeehouse (May 4, 2005).

  2. Y. Dudai, Nature Vol. 434, p. 823 (2005).

  3. D. Draaisma, Why Life speeds Up As You Get Older: How Memory Shapes Our Past translated by A. & E. Pomerans (Cambridge University Press, 2004).

  4. Memory - Learn all about Memory (Encyclopedia.lockergnome.com).


[The English version was also posted at "ISAAC & IDEA* Femto-Essays" site.]

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 05/08/2005 14:07
 Ted さんは物理学でもちろん時間論も、主たるご研究ではなくとも、今までに研究されたことと思いますので、ブログでもそうですが、私の立場からみますと、物理学のお立場から少し、時間や空間について綴られる際は、その部分は大変明快で、本ブログのように、「このように分類して、本当にそれで満足して良いのだろうか?」というふうに生じる問題意識と、その物理学理論の双方を尊重してご研究や執筆を進められると良いのだろうと思います。
 人間の現実的事象について、classification が明快にできるといいのですが、どうしても疎外内容(=漏れこぼれ)や、関連性の関連、といったような複雑な(この場合だと、時間の)在り方を認めた論述になりにくいのでは、と私は思っているのですね。精神病理学でも、精神の疾患ごとに時間体制が異なることを分類的に述べられた理論は多かったのですが、どの疾患も「同次元で」時間論を考察してよい関係にはないと、私はその病を負った人たちを実際に多く知っていますので、そう思うんですね。At the same level で論じているのか?と、Ted さんも疑問を提出しておられますよね。
 「一般論」と「普遍的な事実に関する学」とは異なりますし、私のやってきた、今後もそうであるのは「個別(具体的な)」現実事象に徹して、そこに「普遍(だと思われるもの)」を見出そうという、これも西田幾多郎の言ったことですが、そういう立場なのですね。ただ、個別事象を見た体験が豊かであれば、そこから普遍と思われるものを見出すのは可能なのですが[もちろん科学的な実証性(再検査・再実験可能、と言うのでしょうか? また忘れてしまって)はありませんが]。
 やはり general な、一般的な理論を形成したり参照することも、並行して重要だと私は考えます。簡単に例をあげると、「人間学」においてまったく「社会学的な要素や、この社会の法律をはじめとする一般規律や社会情勢」が踏まえられていないなら、やはりまだまだだと思うのですね。
 展望的記憶に着目されたのは面白いです。私は、上の理由が大きいためもあって、「分類」より「定義」を重視することが多いんですね。展望的記憶を Ted さんがご自身で「再定義」していかれる、といったことが重要だと思えるのですね。もちろん、「漏れこぼれのない定義」は、そう容易には生み出せないのですが。
 それと、私が先日から見慣れない単語なのか、気になっているのが、declarative という単語などで、こういった時間論・記憶論でも、文脈に合っているということでよく用いられるのでしょうか? Declare, declaration の第一義的な意味が、「宣言(する)」、発表する、断言する、といったものなので、本文でのニュアンスはどういったものなのだろう、と思ったのですね。また教えてください。
 最後に、本文に association が出てきましたが、現代にまで通用するブロイラーの統合失調症定義である「4つのA」のひとつは、associaton の障害です(元はドイツ語です)。言葉が上手くつながらなくなり、会話や読書に困難が生じる患者さんが中にはいて、と私は説明していますが、それだけではなく、本ブログで話題になっているような、体験記憶の association が弛緩したり、混乱したりしていくという深刻さがあり、先生が取り上げられた展望的記憶についても、この種の障害が生じることがあるのですね。実は、「大変抽象度の高い」病気だ、とも言えます。(だから統合失調症論は難解にならざるを得ないのです。)

Ted 05/08/2005 17:06
 「…というふうに生じる問題意識と、その物理学理論の双方を尊重してご研究や執筆を進められると良いのだろうと思います」について: 研究というほどのものではない執筆ですが、私もそういう方向で考えています。というか、それ以外の方法は私にとって困難でしょう。
 「…疑問を提出しておられますよね」と「展望的記憶を…ご自身で…」について: 私の疑問は確かに時間に関係していますが、その関わり方は単純です。記憶の獲得自体は、すべて過去になされなければなりません。展望的記憶は「未来の記憶」といっても、未来という時間において獲得がなされるのではなく、内容と、cue による想起の時期とが未来に関係づけられているだけです。したがって、記憶の重要な性質である獲得・保存の上では、回想的記憶と何ら異ならないと思われる、ということで、元記事に書いた以上に難しく定義を考える必要もなさそうな気がします。鏡像の問題で友人になった心理学の先生に一度意見を聞いてみようかと思っています。
 『「人間学」においてまったく「社会学的な要素や、この社会の法律をはじめとする一般規律や社会情勢」が踏まえられていないなら、やはりまだまだだ』について: ご卓見と思います。
 記憶の分類での declarative の意味について: 日本語のウエブサイトで確かめたところ、declarative memory はそのまま「宣言的記憶」と訳されています。他方、non-declarative memory は procedual memory という同義語の方の訳である「手続き記憶」が使われています。Declarative には文法用語としての「陳述的」という意味もあります。Declarative memory の訳には、こちらを使う方がよいように思われます。宣言的記憶の意味は、「言葉で表せる記憶」なのです。手続き記憶は「言葉を介さず、体で覚えている記憶」です。