カプリ島へ接近
写真はイタリアのナポリ・カプリ島間の高速船から(2003年5月13日)。
思想なき思想だ…
高校時代の交換日記から
(Ted)
1952年7月15日(火)
そうだよ、そうだよ。ありがとう。そして、すみません、おかしな時間に行って。
きりこ [1]、きりこ、きりこ、人、人、人、ろうそく、花、…。そこに満ちているものは何だ。多くの人びとは何をしにここへ来ているのだ。哲学をしに来ているのでもなければ、悲しみに来ているのでも、喜びに来ているのでもない。そこら一帯には、崇高さとさまざまな感情との交錯が見られる。花がへんな具合に投げ込まれるのに顔をしかめているボーイスカウトの服装をした少年を横目で見ながら、2本のろうそくに火を写して環の上に立てて考えた。行事…、単に惰性的なものだけでもあるまい。それなのに、何ときびきびしていないこれらの人たちだろう。しかも、そこに崇高さの雰囲気が保たれているのだ。これは、まさに思想なき思想だ…。ぼく自身も、そこへ行って、何の思索も行わないで、新しい誓いの横溢を感じている自分を見出したではないか。
「傷痍軍人更生資金…」と書かれた箱。少し離れて、共産党30周年で何かをメガホンで叫んでいる男。その付近には鉄かぶとの警官。「あの人、共産党か。見たとこ、普通やけどね」という、小学校1、2年生くらいの女の子の声がした。
1952年7月16日(水)薄曇り
31.5度ある。SNN 君がよくいう「ピンボケ」になりそうだ。80分授業の夏季講習は長くも感じられなかったが。FK 先生に英語を習うのは初めてだ。かなりの年齢の先生だが、細い声で it を [et] のように発音して授業を進められた。
内省的、求心的でばかりあってはいけない。――何度か自分で自分に言い聞かせてきたことだ。
1952年7月17日(木)、18日(金)雨のち曇り
歯を磨いて歯ブラシを口から出すたびに、それが真っ赤になっているのを見る。母は、歯槽膿漏だろうとかいっていた。思想朦朧なんかでは、たまったものではない。
祖父が、教え子が館長をしている図書館から借りた「吉田松陰」という古めかしい本の最初の、松陰の年譜のところを書き写すように、という。大きな文字で、ページの上下も広く空いているが、10ページもある。ぼくが忙しくしていることは祖父も理解しているが、さて、どうしたものか。
引用時の注
細い木で作った枠に和紙を貼り、吊り下げるようにした縦長、裾開きの箱形の飾りで、一つの面に「南無阿弥陀仏」と書かれている。北陸地方で、うら盆会に墓所や廟所へ持参する。
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
テディ 05/08/2005 11:39
1952年と言えば武装闘争路線を策定した徳田球一の日共に対して政府が破防法を制定した年で、北陸の田舎では「共産党員」といえばさぞ凶悪犯でも見るような目で見られていたのでしょう。
Ted 05/08/2005 15:30
そうです。1951年10月に、分裂状態にあった共産党の一派が極左冒険主義といわれる綱領を発表し、破防法は1952年7月に成立しましたが、幅広い反対闘争のため、事実上発効できない状況だったようです。
その頃、金沢では社会党の国会議員も勤めた岡良一氏(私と同期の息子がいました。その息子の2年上の姉は五木寛之夫人)が市長だったかと思いますが、彼のことを「あれはアカだ」と、はれ物にさわるように言う人もあったくらいですから、共産党員に対する目は、おっしゃる通り、凶悪犯でも見るようなものだったでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿