2016年9月14日水曜日

新聞記者の取材を受ける (Interviewed by a Newspaper Reporter)

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 さる 8 月 17 日、私のブログ記事「旧友への手紙 2」のコメント欄に、読売新聞の山田記者から書き込みがあった。戦前の小学校での級長について記事を書いているので話を聞きたいという内容である。そのブログ記事には、手紙の相手の旧友や私が小学校(当時は国民学校)で級長をした思い出が書いてあったのである。書き込みには記者のメールアドレスを記してあったので、すぐに、「古いことで、あまり多くの記憶はないが、それでもよろしければ」として、電話番号を知らせるメールを送った。その日の夕方、早速電話での取材があった(山田記者は、たまたま、私が卒業した金沢の小学校の後輩であり、取材以外のことでも話をした)。

 出来上がった記事は 2016 年 9 月 7 日付け読売新聞(教育面)に「学校:モノ・風景——学級委員」(山田睦子記者)として掲載され、記者から掲載紙が 2 部送られて来た。私からの取材は記事の冒頭に、次の通りにまとめられていた。
 「全校朝礼で整列する時、クラスの先頭に立って列の乱れを注意したり、運動会の行進で列の先頭を歩いたりしました」
 大阪府立大学名誉教授の多幡達夫さん(81)は戦時中、石川県七尾市の国民学校に通っていた 1 〜 3 年時、担任の教師に指名され、級長を務めた。「冬は腕章、夏はシャツのポケットにつける布の級長章が支給されました。子どもながらに誇らしい気持ちでした」と思い起こす。
 最後の「誇らしい気持ち」のところは、自ら進んで述べたものではなく、記者の誘導的な質問に対して、「そういう気持ちがないではなかった」という意味の返事をしたつもりだったが…。記事には、冬服に「く」の字型の印のある腕章をつけた級長君のイラストも付いている。私のブログ記事には「腕章」と書いていたが、私が貰ったのは、正確には、腕に巻く腕章でなく、服の腕の部分に縫い付ける記章である。その記章の色や形について、黄土色の生地の上に3本の赤い「へ」の字型(山型)を重ねたもの、というような説明をしたつもりだったが、電話ではうまく伝わらなかったようだ。新聞社などからの電話取材はいままでにも何回か受けたが、電話でのインタビューに、思いや事実を正確に伝えることの難しさを改めて感じた。

 なお、「学級委員」の記事には、私からの取材に続いて、同じく級長についての、広島大学名誉教授の言葉がある。次いで、戦後は級長制がなくなり、子供同士の選挙で選ぶ学級委員などに変わったこと、さらに近年は、特定の子どもがリーダーを務める状況が少なくなっていることが述べられている。


旧帝國陸軍の階級肩章―兵長
By Alex Tora [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons.

 私が冬服用に貰った級長の記章には旧陸軍の階級章のような雰囲気があったことから、『ウィキペディア』の「軍服(大日本帝国陸軍)」のページを調べてみた。すると、「伍長勤務上等兵は上等兵肩章と合わせて臂章を付す」という説明付きで、上掲の記章の図があった。この記章の中に黄土色の山型の筋を 2 本入れて赤い部分を 3 等分すると、まさに、私の貰った級長章になる。読売紙の記事の始めにあるように「運動会の行進で列の先頭を歩いた」時にも、黄土色の「国民服」姿で号令台の上に立つ校長の前を通る時、「頭(かしら)右! 敬礼!」という軍隊式の号令をかけて、クラスの一同に校長への敬礼をさせたのだった。あのような軍国主義教育を決して再現させてはならない。

2016年9月9日金曜日

私はネコである (I Am a Cat)

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写真から絵画風に加工して貰った「私」。
Image of "me", which was made from a photo into a painting style at a shop.

 私はシャムネコである。名前はミーコという。多幡家の次女が小学生の時、彼女の友だちのところから貰われてきて、一家に可愛がられ、17年の生涯をそこで全うした。現在は遺影となって、多幡家の居間を飾っている。遺影は、多幡夫人の小学校同級生が経営していた店で、写真から絵画風に加工を施して貰ったもので、白い額に納まっている。小柄ながら気の強かった私は、一度多幡夫人の腕に噛み付いた。その跡がいまも私のいた記念として鮮やかに残っている。

 [追記]海外旅行で知り合いフェイスブックで友だち同士になっている M・M さんが、これまでにネコを 64 匹も飼ったということを書いていた。それを読んで、わが家で飼っていたネコの、絵画風にした写真を彼女に見せることを、何年か前に約束していたのを思い出し、この記事を書いた。かつて Physics Today 誌で、ネコが共著者になった論文の話を読んだが、最近、同じ話について書かれた記事 "In 1975, a Cat Co-Authored a Physics Paper" をインターネット上で見つけて、フェイスブックの私のタイムラインにリンクしたところでもあった。

2016年8月28日日曜日

2016 年 6 月 17 日から 8 月 10 日までの記事への M・Y 君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts from June 17 to August 10, 2016)

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かんぽの宿奈良でのスケッチ、2016 年 8 月 18 日。屋上展望室の窓に記された説明によれば、この絵の左端を出はずれた、はるか前方が薬師寺方面になる。
Sketch made in Kampo Hotel Nara, August 18, 2016. According to the description in the observation room, Yakushiji Temple would be seen far forward outside the left of this picutre.

2016 年 6 月 17 日から 8 月 10 日までの記事への M・Y 君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2016 年 8 月 15 日付けで貰った。長いので、部分的に(特に引用部分)省略・修正して紹介する。(文中、「筆者」とあるのは、感想の対象であるブログ記事の筆者、T・T を意味する。)



1. 幼少年時代の絵

 「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」に続いて始まった「幼少年時代の絵」は「12:最近のスケッチを添えて」によって完結することになりました。今回は第 8~12 回のうち、印象に残った部分についての感想を記します。
 このシリーズの最終回となる第 12 回は、記事を飾るための幼少年時代の絵はもう出尽くしたので、代わりに最近のスケッチを掲載する。[…]幼少年時代の絵と比較して進歩したか、あるいは退歩したかの判断は、読者の方々にお任せする。
と、スケッチの成果を読者に問うています。この労作シリーズをしめくくる、よい構成だと思います。1 枚目のスケッチは、両側を松の木と右横から延びる枝でかこんだ、セザンヌの『サント=ヴィクトワール山』の構図に似ていると感じました。

 筆者は「このシリーズを書いて、私の絵や、絵を描いた経験は、ずいぶんいろいろな思い出につながっていることに、改めて気づいた」と結んでいます。そのことは、以下の箇所にも現れていました。「幼少年時代の絵 10」の『グラブ』について、
この絵のグラブは従兄のお古で、引揚げ時に持ち帰り、中学生時代まで使用したが、その後、従兄に返した。従兄のお古のボールも一緒に持ち帰った。引揚げ後最初に間借りしていた家の長男さんと、ある日曜日に近くの緩やかな坂道のところで、そのボールでキャッチボールをした。その時、彼の悪送球に私の手が届かず、ボールはてんてんと転がって溝へ落ち、さらに川へまで転げて行ってしまった。[…]古い絵は思いがけない記憶をよみがえらせてくれる。
と書いていました。また、この回の二番目のイメージについて、「次回掲載予定の、もっと等級が上の賞状を探していたところ、一緒に出てきた、ほとんど忘れていた賞状である」と記し、第 11 回の記事で、『坂道のある風景』への「イーゼルペイント画こども美術展」(県レベル)の金賞賞状(1950 年、15 歳)と、同じ絵への全国学童水絵作品展入選賞状を紹介しています。

 『坂道のある風景』の絵については、
[…]小林君に頼んで、彼の家の二階にあった勉強部屋の窓からの眺めを描かせて貰うことにした。
 その眺めは、彼のところへよく遊びに行って見慣れていたものだった。小林君の家は坂を下ったところにあり、まだ舗装されていなかったその坂道と、左右の家々の屋根、そして家々の植木などが見えた。手前に隣家の一階の屋根が、視野中の右下にやや大きな場所を占めている。北陸の屋根瓦は釉薬がかけられていて、屋根が光り輝いて見える。しかも私は、それより少し前に近眼を矯正する眼鏡をかけ始めたばかりだったので、それ以前に見ていたのと同じ風景が、より輝いて見えるようになり、感動していた。
と述べています。これを読んだ時、なるほど、筆者の創作『夏空に輝く星』にはこの経験が具体的に書かれていたのだ、と思いました。第 12 回の終わりの部分に、
なお、私が高校 2 年の夏休みに国語の宿題として書いた創作『夏空に輝く星』の、絵を描くことを好む主人公・稔のモデルは、主に高校 1 年の頃の私自身である。稔は、数馬君がモデルである殿村文雄の家の[…]窓からの風景を写生させて貰っている。その風景の細かい描写が作中になされているが、これは「金賞」作品に描いた小林君の家の二階からの眺めがモデルになっており、その写生をする時の稔のモデルは中学 3 年生の時の私である。
と、筆者自身が明かしています。

 「イーゼルペイント画こども美術展」の入賞に関連して、第 11 回から第 12 回の記事にかけて、これに同じく入賞した二人の友人のことを書いています。一人は、筆者がその展覧会の会場で佳作になっている作品に出会った樋爪十四夫氏(七尾の小学校で隣のクラスの級長だったが、近年故人となったとのこと)で、彼に送った葉書への返信を紹介しています。

 その返信の後半部には、4 年生(1945年)から中学 3 年生(1950 年)にかけてのことが書かれていています。まず、「ほんのまねごとのような疎開」について説明しています。空襲の激しい大都市の国民学校の児童は親許をはなれ、学校の先生と共に空爆のない町の旅館などに分宿し、町の学校の教室を間借りし、勉学に励んでいました。食糧難の時代、この集団生活も悲惨だったようです。4 年生(敗戦の年)の夏に小さな市の七尾からも疎開したとは、今まで安全と考えていたところでも戦争の激化の影響があると想定されたのでしょう。7 月初めころから空襲による爆撃(焼夷弾)で建屋が類焼しないように、指定された区画の家屋は何月何日までに出て行くように(建物疎開)と命令されました。また、学童にも疎開することが強制されました。本土決戦、一億総玉砕という掛け声の具体性が分らない国民に先の見通しはなく、命令には従わざるをえませんでした。「まねごとのような疎開」とは、そこまでしなくても自分のところは大丈夫だのにという気持ちがあったことを表しているものと、私は類似の経験から推察します。「僕は、そこで病後をすごし、自然に浸透出来ました」とあるのは、この疎開の雰囲気をよく表している名言だと思いました。敗戦以降の民主化過渡期における自身の活躍(生徒会活動)や絵を描くことへの情熱など、よく書かれた樋爪氏の名文を興味深く拝見しました。

 続いて筆者は、「イーゼルペイント画」で金賞を共に受賞したもう一人の友人、「金沢市内の別の中学の女生徒」との意外な関係を述べています。
彼女は高校が私と同じになり、 1 年 2 学期初めの総合テストの結果発表でも名前を並べ(彼女の方が最高点で、縦書きのリストの私の右に名があった)、卒業式でも席を並べた(彼女は卒業生総代として最前列の右端の席を当てられ、私は県内の化学に優れた生徒に与えられる「高峰賞」を受け取るため、その左にいた)。しかし、私たちは、高校時代はもとより、卒業後も、互いに金賞の絵でも並んでいたことを知らないまま、40 数年を過ごした。私が定年退職したかどうかという頃の同窓会の席上で絵の話が出た折に、彼女、S・T さんが、「絵といえば、私は中学生時代に金賞を貰いました」といったことで、ようやく分かったのである。(S・T さんをモデルにした英文短編小説 "Vicky: A Novella" — "Passage through Spacetime" 所収 — を書いたよりものちのことである。)

 英文小説 "Vicky" は「私」が北海道へ移り住むことになる友人へ宛てた何通ものメールの形で書かれています。最後の部分で「私」は、英文紙から Edward Thomas の詩 "October" 中の言葉「いつの日か私はこの時を幸福な日と思うだろう/そしてメランコリーという名のこの気分は/もはや黒ずんだり不明瞭だったりしていないであろう」を知り、この「いつの日か」に自分がたどり着き、青春時代のメランコリーを幸福な気分で追想していることに気づきます。この小説中の Vicky と「私」の関係の前半のあらましを以下に紹介します。

 高校 1 年の夏休みに「私」は Vicky (Venus と Victory を合わせたものとして、「私」が一女生徒に密かに付けた呼び名)宛てに、お互いに勉強で競い合おうという趣旨の葉書を出しましたが、返事がなく、新学期に顔を合わせても話しかけられさえもしませんでした。それで、「私」は彼女にに対し、尊敬に加えて、いささかか敵意の混じった感情を抱き始めます。そのうちに、彼女への葉書で多用した言葉を、彼女が「私」の後ろで友だちとの会話で使うのをもれ聞き、「私」は彼女に侮辱されたように感じると同時に、彼女が「私」の出した葉書を少しは記憶しているらしいことを嬉しくも思います。卒業式の日、「私」は、彼女が遅くなって一人で帰って行くのに道ですれ違うことになります。彼女は黙って頭を下げ、「私」がそれに対して「さようなら」とひと言いったのを最後に、彼女との青春の日々は終わりとなります。——そして、金賞を共に受賞したと分かった後の S・T さんとの交流のことが、この小説の続編ともいえるような形で、第 12 回の記事の中程に綴られています。

2. 水彩画『自鳴琴の館』
 上掲のイメージは、2016 年度『美交会展』に出品予定の私の水彩画、『自鳴琴の館』である。自鳴琴とは、オルゴールのことをいう古風な日本語である。昨秋訪れて撮影した京都嵐山オルゴール博物館の写真を参考にして描いた。
として、水彩画の近作を紹介しています。このオルゴール博物館については、2015 年 10 月 1 日付け「京都へ」(『水彩画とキルト 親子展』の疲れを癒すために旅に行かれたとの記事)の中に、同博物館の写真を見て、立派な博物館との印象を受けました。この写真を基にして、このような詳細な写実画を描かれたことに感心しました。『水彩画とキルト 親子展』で奥様が「最近の絵は変わってきた」とおっしゃっていました。しかし、ブログのラベル "collected watercoloers" にまとめられた絵を通して見ると、筆者の最近の絵は細密さは従来に変わりありませんが、色調などが変化しているように感じられます。

2016年8月10日水曜日

水彩画『自鳴琴の館』 (My Watercolor "The Orgel Hall")

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私の水彩画『自鳴琴の館』。
My Watercolor "Orgel Hall."

 上掲のイメージは、2016 年度『美交会展』に出品予定の私の水彩画、『自鳴琴の館』である。自鳴琴とは、オルゴールのことをいう古風な日本語である。昨秋訪れて撮影した京都嵐山オルゴール博物館の写真を参考にして描いた。ホルベイン不透明水彩絵具とホルベイン紙 F6 を使用し、2016 年 7 月 27 日に完成した。

 ほぼ中央に見える三日月型の顔の装飾は、私の撮った写真から、建物内部の窓際にある装飾かとばかり思っていたが、オルゴール博物館のホームページにある写真をいま見て、壁面の装飾であることを知った(訪れた時にも、壁面にこの装飾のあることを見ていたかもしれないが、記憶していなかった)。そういえば、小さいので絵では省略したが、その装飾を照らすランプも屋外の壁面にあることが、私の写真からも分かる。右手の丈の高い木の中ほどの、葉が最も茂っている向こうに、オルゴール博物館の楼状の部分があるようだが、写真ではその形がよく見えないので、これも省略した。

 訪問当日は雨天だったので、直射日光による極端な明暗のない、美しい写真が撮れた。それだけに、絵の中で建物の立体性を表現するには、微妙な陰影に注意する必要があった。建物の円筒形または半円筒形部分の下部が、半球形に突出しているように見えるのは、実際にそうなのか、壁面のツタのはい方でそのように見えるのかが写真でははっきりしないので、絵でもはっきりしないように描いたつもりである。

 道路を隔てただけの比較的近くから写真を撮ったため、建物の六角形の部分の中程よりも左側やその後ろの部分は上部が著しく右に傾斜する形で写っていた。そこで、建物の垂直・水平の線は補正して描いたのだが、合わせて六角屋根の中心部分の位置を少し左寄りに修正すべきだったことに、絵の完成後にようやく気付いた。

2016年6月29日水曜日

幼少年時代の絵 12:最近のスケッチを添えて (Drawings in My Childhood. 12: Together with My Recent Sketches)

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最近のスケッチ、その 1。奈良県の「かんぽの宿・大和平群」で。 2016 年 5 月 24 日。中央の山は葛城山、その右に二上山の雄岳。
My recent sketch 1. At Kampo Hotel Yamato-Heguri, Nara Prefecture, May 24, 2016. The mountain at the center is Mt. Katsuragi, and the one at its right is Odake of Mt. Nijo.


最近のスケッチ、その 2。岐阜県の「かんぽの宿・恵那」から見た恵那峡。 2016 年 6 月 10 日。
My recent sketch 2. At Kampo Hotel Ena, Gifu Prefecture, June 10, 2016. The view of Ena Gorge.


最近のスケッチ、その 3。同上の場所から少し右寄りの風景。 2016 年 6 月 11 日。
My recent sketch 3. At the same place as above, June 11, 2016. The view of Ena Gorge at the right of the above sketch.

 このシリーズの最終回とする今回は、記事を飾るための幼少年時代の絵はもう出尽くしたので、代わりに最近のスケッチを掲載する。F0 サイズ(185 mm × 145 mm)のスケッチブックにステッドラー・ピグメントライナー(耐水性ペン)と色鉛筆で描いている。幼少年時代の絵と比較して進歩したか、あるいは退歩したかの判断は、読者の方々にお任せする。

 前回、「イーゼルペイント画こども美術展」に一緒に入賞した小学校の旧友・樋爪十四夫君に葉書を送って返信を貰ったことを書いた。その返信は以下の通りである(誤字などもそのまま引用する)。
多幡達夫君え
 達夫君、おはがきありがとうございました。僕は君からのお便りに おどろきとよろこびを感じ 早速 筆をとりました。しかし僕は、文も文字も あまり書けないので残念です。
 思えば、君とお別れしたのは、6 年程前になりましょう。以前、金沢に出た折、君とよく似た人にすれちがったこともありましたが、長い間御ぶさたしています上に、僕は、目がねをかけていますのでお互いにわからなかったのです。僕はおしらせをいただいて、もう一度ゆっくりお目にかかりたくてなりません。
 今朝私もあの絵の賞状を頂きました。昔の友達同志が絵画の道で一しょになった事を考えると見えない深い御縁を思わせられます。
 僕の事を申し上げるのは、失礼ですが 久しぶりにおちついて 6 年間をふり返る事を嬉しく思います。
 僕は国民学校時代、体も弱く、よく病気になっておりました。そして、四年生の夏、ジフテリアにかかって、医大の附属病院の窓より B29 の音や勇姿を眺めたものでした。
 それから、ほんのまねごとのように疎開もしました。そこは小さな山のふもとでありました。僕は、そこで病後をすごし、自然に浸透出来ました。
 終戦後、民主々義のえいきょうを受け、だんだん自由な世界となり、現在の生徒会の赤ん坊も出来 大いにかつやくしました。6 年を終えると地区の関係から、袖江中学校に入学し、生徒会を作り、市内はもちろん県下を舞台に、我々の学校の名をとどろかせたものでした。
 僕は、絵についてはまだまだ未熟ですが書いている、書きに行くたのしみをだれよりも知っているつもりです。度々、展らん会などにも出してみました。僕は心のゆとりをもとめ生活の美をたしなむつもりでいるせいかのんびりと、していてあまり上達しませんが、県の美展に入賞のおぼえもあって そのおかげかはからづも僕の古いお友達の一人、達夫君におはがきをいただけたわけです。
 お休みにでも、2、3 日 思い出のいなか七尾えおいでになりませんか。僕の家の人達もかんげいするでしょう。
 又お手紙を下さい。お元気で。
 末筆ながら、お家の方にもよろしく。
  文も文字も乱れました。失礼をおわびいたします。
  1950. 6. 28
   Your loving old friend
    T. Hizume

 この返信から 1 年足らずの後に、彼は金沢大学附属高校へ入学して、私と同じく金沢に住むことになり、私たちは再会を果たした。高校時代の私の日記を見ると、彼は高校 1 年になったばかりの 4 月 4 日に、わが家を訪ねてくれている。手紙にあるように生徒会活動に精を出したからだろう、彼は社交的になっていたが、中学生時代の私は生徒会活動をむしろ避けるようにしていたせいで非社交的だった。それで、彼によい応対ができなかった。そのせいか、金沢での互いの住まいが徒歩十数分の距離にあり、また、その後、大和デパートへ美術展を見に行った折にひょっこり出会ったりしたにもかかわらず、高校時代には特に親しくならないままで終わった。近年になって、再々会したいと思い始めていたが、それが出来ないまま、彼が亡くなったのは残念である。彼が手紙の中で「達夫君」と、私に下の名で呼びかけているのは、文末の英文の挨拶と同様に、欧米式スタイルをとったものとも思われるが、小学生当時、彼の親戚に生まれた赤ちゃんの名として、「隣のクラスに達夫君という、よく出来る子がいる」といって、「達夫」の名を付けさせた — 母が私に話してくれた。母は樋爪君の母君から聞いたのだろうか — ということとも関係しているかも知れない。

 「イーゼルペイント画こども美術展」の入賞に関連して、もう一人のことを書いておかなければならない。同じ金賞を受賞して私の絵の横にあった絵の作者は、金沢市内の別の中学の女生徒だった。彼女は高校が私と同じになり、 1 年 2 学期初めの総合テストの結果発表でも名前を並べ(彼女の方が最高点で、縦書きのリストの私の右に名があった)、卒業式でも席を並べた(彼女は卒業生総代として最前列の右端の席を当てられ、私は県内の化学に優れた生徒に与えられる「高峰賞」を受け取るため、その左にいた)。しかし、私たちは、高校時代はもとより、卒業後も、互いに金賞の絵でも並んでいたことを知らないまま、40 数年を過ごした。私が定年退職したかどうかという頃の同窓会の席上で絵の話が出た折に、彼女、S・T さんが、「絵といえば、私は中学生時代に金賞を貰いました」といったことで、ようやく分かったのである。(S・T さんをモデルにした英文短編小説 "Vicky: A Novella" — "Passage through Spacetime" 所収 — を書いたよりものちのことである。)

 その同窓会の時、彼女の作品名が『雨前』だったと聞いた。そういえば、私の絵の隣にあった絵は、玄関先か軒下にアジサイの花が咲いている、しめやかな雰囲気のものだったような記憶がある。そして、高校 1 年で選択科目の図画の時間でも彼女と一緒だった私は、校庭の写生が課題だった折に彼女の絵を覗き見て、その上手さに舌を巻いたこともあった。

 上記の同窓会後間もなく、私は大連の嶺前小学校同窓生の美術愛好家たちが東京で開催していた「美嶺展」という展覧会に水彩画を出品し始めた。しかし、同展の中心的な人たちが高齢化したため、私が 4 年目の出品をした第10 回展(2006 年)をもって、美嶺展は幕を閉じることになった。その最終展に、私は S・T さんほか数名の東京在住の高校同期生たちを招いた。私の出品作は嶺前小学校のレンガ造りの校舎を描いたものと、イタリアのブラーノ島の街並みの夕立後の風景を描いたものだった。S・T さんが後者の絵を見ているとき、私は彼女に近づいて、ふと、「これは、ブラーノ島の雨後の風景です。あなたの金賞の絵も『雨後』でしたね」といった。彼女は、「『雨前』でした」と、静かに訂正した。私は「あっ、そうでしたね。ハハハ」と、記憶違いのきまり悪さを笑いに紛らした。「雨前」とは、私にとっては珍しいが、趣のある言葉である。俳句の季語ででもあるのだろうかと調べたが、そうでもないようだ。

 S・T さんはその後絵を描いていないということだが、近年、彼女への暑中見舞いのメールに、私は時折、スケッチや水彩画のイメージを添付する。すると、彼女からの返信に、鑑賞眼の高いことがうかがえる助言や感想が記されて来る。

 話は変わるが、中学 3 年生の時に図画の先生から大きな画用紙を支給された機会のもう一つは、石川新聞社主催の「金沢の都会らしい風景を描く」という題名の展覧会への出品のためだった。小林君の家の二階からの眺めを描いてうまくいった私は、今度も高所からの眺めを描こうと思った。当時は金沢に市電が走っていて、小学校 6 年生の時からの友人、数馬紹朗(つぐお)君(壮年期に早くも故人となった)の家が電車通りに面していた。そこで、私は彼の家の屋根の上で写生をさせて貰うことにした。秋も終わりに近い頃で、その絵のデッサンを図画の先生に見て貰うため、風の強い日に、筒状に巻いた画用紙を手に持って登校する途中、風にあおられて絵が裂けてしまい、今回も新しい画用紙を再度支給して貰うことになった。描いた風景には写真館と書店の洋風の建物があり、いくらか都会的ではあったものの、それらの両方の建物を画面に収めるため、画用紙を横長に使い、電車通りが画面下部に真横に走る形となった構図は、平板的で面白味がなかった。また、色彩も全体に藍色がかった薄暗い調子になり、自分でもあまりよい出来ばえとは思わなかった。校内の出品作品が先生のもとに集められたのを見たとき、私は、それまで名前を知らなかった笠森君というのが、当時の金沢でひときわ都会らしい場所だった香林坊の三叉路を、正面にベージュ色のビルが見える高所からのアングルで、大胆なタッチで描いた縦長の作品に惹き付けられ、これは素晴らしいと思った。案の定、彼の絵が石川新聞社長賞に輝いた(私の作品は佳作だったはずだが、その賞状はいま見当たらない)。

 なお、私が高校 2 年の夏休みに国語の宿題として書いた創作『夏空に輝く星』の、絵を描くことを好む主人公・稔のモデルは、主に高校 1 年の頃の私自身である。稔は、数馬君がモデルである殿村文雄の家の、屋根からでなく、窓からの風景を写生させて貰っている。その風景の細かい描写が作中になされているが、これは「金賞」作品に描いた小林君の家の二階からの眺めがモデルになっており、その写生をする時の稔のモデルは中学 3 年生の時の私である。さらに、この創作の冒頭で、稔は公園で写生をしており、そのモデルは小学校 6 年生の時の私ともいえる。「イーゼルペイント」という絵の具の商品名を、私と同じ職場にしばらくいた、私より十数歳も若い低温物理学の教授が知っていたのに驚いたこともある。しかし、彼との間でなぜ「イーゼルペイント」が話題になったかを思い出せない。私のウェブサイトに掲載した『夏空に輝く星』を彼が読んだのかと思い、この創作中を検索したが、「イーゼルペイント」の語は見当たらず、不思議である。—— このシリーズを書いて、私の絵や、絵を描いた経験は、ずいぶんいろいろな思い出につながっていることに、改めて気づいた。(完)

 後日の注記:上記の低温物理学教授は、その後、彼の出身大学へ移った。そしてある年、私に「英語論文を書く技を磨く」という内容の講義をして欲しいと、彼の大学へ招いてくれた。その折に彼は、私のホームページに掲載されていた "Surely You're Joking, Mr. Tabata!"(高校同窓会のことを記したもの。目下リンク切れ)という英文随筆の末尾が印象深かったと話した。その時私は、そこに Vicky のニックネームで登場する女性と私が中学生時代にイーゼルペイントで描く展覧会で共に金賞を貰ったことを話したのだったかも知れない。