最近のスケッチ、その 1。奈良県の「かんぽの宿・大和平群」で。 2016 年 5 月 24 日。中央の山は葛城山、その右に二上山の雄岳。
My recent sketch 1. At Kampo Hotel Yamato-Heguri, Nara Prefecture, May 24, 2016. The mountain at the center is Mt. Katsuragi, and the one at its right is Odake of Mt. Nijo.
最近のスケッチ、その 2。岐阜県の「かんぽの宿・恵那」から見た恵那峡。 2016 年 6 月 10 日。
My recent sketch 2. At Kampo Hotel Ena, Gifu Prefecture, June 10, 2016. The view of Ena Gorge.
最近のスケッチ、その 3。同上の場所から少し右寄りの風景。 2016 年 6 月 11 日。
My recent sketch 3. At the same place as above, June 11, 2016. The view of Ena Gorge at the right of the above sketch.
このシリーズの最終回とする今回は、記事を飾るための幼少年時代の絵はもう出尽くしたので、代わりに最近のスケッチを掲載する。F0 サイズ(185 mm × 145 mm)のスケッチブックにステッドラー・ピグメントライナー(耐水性ペン)と色鉛筆で描いている。幼少年時代の絵と比較して進歩したか、あるいは退歩したかの判断は、読者の方々にお任せする。
前回、「イーゼルペイント画こども美術展」に一緒に入賞した小学校の旧友・樋爪十四夫君に葉書を送って返信を貰ったことを書いた。その返信は以下の通りである(誤字などもそのまま引用する)。
この返信から 1 年足らずの後に、彼は金沢大学附属高校へ入学して、私と同じく金沢に住むことになり、私たちは再会を果たした。高校時代の私の日記を見ると、彼は高校 1 年になったばかりの 4 月 4 日に、わが家を訪ねてくれている。手紙にあるように生徒会活動に精を出したからだろう、彼は社交的になっていたが、中学生時代の私は生徒会活動をむしろ避けるようにしていたせいで非社交的だった。それで、彼によい応対ができなかった。そのせいか、金沢での互いの住まいが徒歩十数分の距離にあり、また、その後、大和デパートへ美術展を見に行った折にひょっこり出会ったりしたにもかかわらず、高校時代には特に親しくならないままで終わった。近年になって、再々会したいと思い始めていたが、それが出来ないまま、彼が亡くなったのは残念である。彼が手紙の中で「達夫君」と、私に下の名で呼びかけているのは、文末の英文の挨拶と同様に、欧米式スタイルをとったものとも思われるが、小学生当時、彼の親戚に生まれた赤ちゃんの名として、「隣のクラスに達夫君という、よく出来る子がいる」といって、「達夫」の名を付けさせた — 母が私に話してくれた。母は樋爪君の母君から聞いたのだろうか — ということとも関係しているかも知れない。
「イーゼルペイント画こども美術展」の入賞に関連して、もう一人のことを書いておかなければならない。同じ金賞を受賞して私の絵の横にあった絵の作者は、金沢市内の別の中学の女生徒だった。彼女は高校が私と同じになり、 1 年 2 学期初めの総合テストの結果発表でも名前を並べ(彼女の方が最高点で、縦書きのリストの私の右に名があった)、卒業式でも席を並べた(彼女は卒業生総代として最前列の右端の席を当てられ、私は県内の化学に優れた生徒に与えられる「高峰賞」を受け取るため、その左にいた)。しかし、私たちは、高校時代はもとより、卒業後も、互いに金賞の絵でも並んでいたことを知らないまま、40 数年を過ごした。私が定年退職したかどうかという頃の同窓会の席上で絵の話が出た折に、彼女、S・T さんが、「絵といえば、私は中学生時代に金賞を貰いました」といったことで、ようやく分かったのである。(S・T さんをモデルにした英文短編小説 "Vicky: A Novella" — "Passage through Spacetime" 所収 — を書いたよりものちのことである。)
その同窓会の時、彼女の作品名が『雨前』だったと聞いた。そういえば、私の絵の隣にあった絵は、玄関先か軒下にアジサイの花が咲いている、しめやかな雰囲気のものだったような記憶がある。そして、高校 1 年で選択科目の図画の時間でも彼女と一緒だった私は、校庭の写生が課題だった折に彼女の絵を覗き見て、その上手さに舌を巻いたこともあった。
上記の同窓会後間もなく、私は大連の嶺前小学校同窓生の美術愛好家たちが東京で開催していた「美嶺展」という展覧会に水彩画を出品し始めた。しかし、同展の中心的な人たちが高齢化したため、私が 4 年目の出品をした第10 回展(2006 年)をもって、美嶺展は幕を閉じることになった。その最終展に、私は S・T さんほか数名の東京在住の高校同期生たちを招いた。私の出品作は嶺前小学校のレンガ造りの校舎を描いたものと、イタリアのブラーノ島の街並みの夕立後の風景を描いたものだった。S・T さんが後者の絵を見ているとき、私は彼女に近づいて、ふと、「これは、ブラーノ島の雨後の風景です。あなたの金賞の絵も『雨後』でしたね」といった。彼女は、「『雨前』でした」と、静かに訂正した。私は「あっ、そうでしたね。ハハハ」と、記憶違いのきまり悪さを笑いに紛らした。「雨前」とは、私にとっては珍しいが、趣のある言葉である。俳句の季語ででもあるのだろうかと調べたが、そうでもないようだ。
S・T さんはその後絵を描いていないということだが、近年、彼女への暑中見舞いのメールに、私は時折、スケッチや水彩画のイメージを添付する。すると、彼女からの返信に、鑑賞眼の高いことがうかがえる助言や感想が記されて来る。
話は変わるが、中学 3 年生の時に図画の先生から大きな画用紙を支給された機会のもう一つは、石川新聞社主催の「金沢の都会らしい風景を描く」という題名の展覧会への出品のためだった。小林君の家の二階からの眺めを描いてうまくいった私は、今度も高所からの眺めを描こうと思った。当時は金沢に市電が走っていて、小学校 6 年生の時からの友人、数馬紹朗(つぐお)君(壮年期に早くも故人となった)の家が電車通りに面していた。そこで、私は彼の家の屋根の上で写生をさせて貰うことにした。秋も終わりに近い頃で、その絵のデッサンを図画の先生に見て貰うため、風の強い日に、筒状に巻いた画用紙を手に持って登校する途中、風にあおられて絵が裂けてしまい、今回も新しい画用紙を再度支給して貰うことになった。描いた風景には写真館と書店の洋風の建物があり、いくらか都会的ではあったものの、それらの両方の建物を画面に収めるため、画用紙を横長に使い、電車通りが画面下部に真横に走る形となった構図は、平板的で面白味がなかった。また、色彩も全体に藍色がかった薄暗い調子になり、自分でもあまりよい出来ばえとは思わなかった。校内の出品作品が先生のもとに集められたのを見たとき、私は、それまで名前を知らなかった笠森君というのが、当時の金沢でひときわ都会らしい場所だった香林坊の三叉路を、正面にベージュ色のビルが見える高所からのアングルで、大胆なタッチで描いた縦長の作品に惹き付けられ、これは素晴らしいと思った。案の定、彼の絵が石川新聞社長賞に輝いた(私の作品は佳作だったはずだが、その賞状はいま見当たらない)。
なお、私が高校 2 年の夏休みに国語の宿題として書いた創作『夏空に輝く星』の、絵を描くことを好む主人公・稔のモデルは、主に高校 1 年の頃の私自身である。稔は、数馬君がモデルである殿村文雄の家の、屋根からでなく、窓からの風景を写生させて貰っている。その風景の細かい描写が作中になされているが、これは「金賞」作品に描いた小林君の家の二階からの眺めがモデルになっており、その写生をする時の稔のモデルは中学 3 年生の時の私である。さらに、この創作の冒頭で、稔は公園で写生をしており、そのモデルは小学校 6 年生の時の私ともいえる。「イーゼルペイント」という絵の具の商品名を、私と同じ職場にしばらくいた、私より十数歳も若い低温物理学の教授が知っていたのに驚いたこともある。しかし、彼との間でなぜ「イーゼルペイント」が話題になったかを思い出せない。私のウェブサイトに掲載した『夏空に輝く星』を彼が読んだのかと思い、この創作中を検索したが、「イーゼルペイント」の語は見当たらず、不思議である。—— このシリーズを書いて、私の絵や、絵を描いた経験は、ずいぶんいろいろな思い出につながっていることに、改めて気づいた。(完)
後日の注記:上記の低温物理学教授は、その後、彼の出身大学へ移った。そしてある年、私に「英語論文を書く技を磨く」という内容の講義をして欲しいと、彼の大学へ招いてくれた。その折に彼は、私のホームページに掲載されていた "Surely You're Joking, Mr. Tabata!"(高校同窓会のことを記したもの。目下リンク切れ)という英文随筆の末尾が印象深かったと話した。その時私は、そこに Vicky のニックネームで登場する女性と私が中学生時代にイーゼルペイントで描く展覧会で共に金賞を貰ったことを話したのだったかも知れない。
前回、「イーゼルペイント画こども美術展」に一緒に入賞した小学校の旧友・樋爪十四夫君に葉書を送って返信を貰ったことを書いた。その返信は以下の通りである(誤字などもそのまま引用する)。
多幡達夫君え
達夫君、おはがきありがとうございました。僕は君からのお便りに おどろきとよろこびを感じ 早速 筆をとりました。しかし僕は、文も文字も あまり書けないので残念です。
思えば、君とお別れしたのは、6 年程前になりましょう。以前、金沢に出た折、君とよく似た人にすれちがったこともありましたが、長い間御ぶさたしています上に、僕は、目がねをかけていますのでお互いにわからなかったのです。僕はおしらせをいただいて、もう一度ゆっくりお目にかかりたくてなりません。
今朝私もあの絵の賞状を頂きました。昔の友達同志が絵画の道で一しょになった事を考えると見えない深い御縁を思わせられます。
僕の事を申し上げるのは、失礼ですが 久しぶりにおちついて 6 年間をふり返る事を嬉しく思います。
僕は国民学校時代、体も弱く、よく病気になっておりました。そして、四年生の夏、ジフテリアにかかって、医大の附属病院の窓より B29 の音や勇姿を眺めたものでした。
それから、ほんのまねごとのように疎開もしました。そこは小さな山のふもとでありました。僕は、そこで病後をすごし、自然に浸透出来ました。
終戦後、民主々義のえいきょうを受け、だんだん自由な世界となり、現在の生徒会の赤ん坊も出来 大いにかつやくしました。6 年を終えると地区の関係から、袖江中学校に入学し、生徒会を作り、市内はもちろん県下を舞台に、我々の学校の名をとどろかせたものでした。
僕は、絵についてはまだまだ未熟ですが書いている、書きに行くたのしみをだれよりも知っているつもりです。度々、展らん会などにも出してみました。僕は心のゆとりをもとめ生活の美をたしなむつもりでいるせいかのんびりと、していてあまり上達しませんが、県の美展に入賞のおぼえもあって そのおかげかはからづも僕の古いお友達の一人、達夫君におはがきをいただけたわけです。
お休みにでも、2、3 日 思い出のいなか七尾えおいでになりませんか。僕の家の人達もかんげいするでしょう。
又お手紙を下さい。お元気で。
末筆ながら、お家の方にもよろしく。
文も文字も乱れました。失礼をおわびいたします。
1950. 6. 28
Your loving old friend
T. Hizume
この返信から 1 年足らずの後に、彼は金沢大学附属高校へ入学して、私と同じく金沢に住むことになり、私たちは再会を果たした。高校時代の私の日記を見ると、彼は高校 1 年になったばかりの 4 月 4 日に、わが家を訪ねてくれている。手紙にあるように生徒会活動に精を出したからだろう、彼は社交的になっていたが、中学生時代の私は生徒会活動をむしろ避けるようにしていたせいで非社交的だった。それで、彼によい応対ができなかった。そのせいか、金沢での互いの住まいが徒歩十数分の距離にあり、また、その後、大和デパートへ美術展を見に行った折にひょっこり出会ったりしたにもかかわらず、高校時代には特に親しくならないままで終わった。近年になって、再々会したいと思い始めていたが、それが出来ないまま、彼が亡くなったのは残念である。彼が手紙の中で「達夫君」と、私に下の名で呼びかけているのは、文末の英文の挨拶と同様に、欧米式スタイルをとったものとも思われるが、小学生当時、彼の親戚に生まれた赤ちゃんの名として、「隣のクラスに達夫君という、よく出来る子がいる」といって、「達夫」の名を付けさせた — 母が私に話してくれた。母は樋爪君の母君から聞いたのだろうか — ということとも関係しているかも知れない。
「イーゼルペイント画こども美術展」の入賞に関連して、もう一人のことを書いておかなければならない。同じ金賞を受賞して私の絵の横にあった絵の作者は、金沢市内の別の中学の女生徒だった。彼女は高校が私と同じになり、 1 年 2 学期初めの総合テストの結果発表でも名前を並べ(彼女の方が最高点で、縦書きのリストの私の右に名があった)、卒業式でも席を並べた(彼女は卒業生総代として最前列の右端の席を当てられ、私は県内の化学に優れた生徒に与えられる「高峰賞」を受け取るため、その左にいた)。しかし、私たちは、高校時代はもとより、卒業後も、互いに金賞の絵でも並んでいたことを知らないまま、40 数年を過ごした。私が定年退職したかどうかという頃の同窓会の席上で絵の話が出た折に、彼女、S・T さんが、「絵といえば、私は中学生時代に金賞を貰いました」といったことで、ようやく分かったのである。(S・T さんをモデルにした英文短編小説 "Vicky: A Novella" — "Passage through Spacetime" 所収 — を書いたよりものちのことである。)
その同窓会の時、彼女の作品名が『雨前』だったと聞いた。そういえば、私の絵の隣にあった絵は、玄関先か軒下にアジサイの花が咲いている、しめやかな雰囲気のものだったような記憶がある。そして、高校 1 年で選択科目の図画の時間でも彼女と一緒だった私は、校庭の写生が課題だった折に彼女の絵を覗き見て、その上手さに舌を巻いたこともあった。
上記の同窓会後間もなく、私は大連の嶺前小学校同窓生の美術愛好家たちが東京で開催していた「美嶺展」という展覧会に水彩画を出品し始めた。しかし、同展の中心的な人たちが高齢化したため、私が 4 年目の出品をした第10 回展(2006 年)をもって、美嶺展は幕を閉じることになった。その最終展に、私は S・T さんほか数名の東京在住の高校同期生たちを招いた。私の出品作は嶺前小学校のレンガ造りの校舎を描いたものと、イタリアのブラーノ島の街並みの夕立後の風景を描いたものだった。S・T さんが後者の絵を見ているとき、私は彼女に近づいて、ふと、「これは、ブラーノ島の雨後の風景です。あなたの金賞の絵も『雨後』でしたね」といった。彼女は、「『雨前』でした」と、静かに訂正した。私は「あっ、そうでしたね。ハハハ」と、記憶違いのきまり悪さを笑いに紛らした。「雨前」とは、私にとっては珍しいが、趣のある言葉である。俳句の季語ででもあるのだろうかと調べたが、そうでもないようだ。
S・T さんはその後絵を描いていないということだが、近年、彼女への暑中見舞いのメールに、私は時折、スケッチや水彩画のイメージを添付する。すると、彼女からの返信に、鑑賞眼の高いことがうかがえる助言や感想が記されて来る。
話は変わるが、中学 3 年生の時に図画の先生から大きな画用紙を支給された機会のもう一つは、石川新聞社主催の「金沢の都会らしい風景を描く」という題名の展覧会への出品のためだった。小林君の家の二階からの眺めを描いてうまくいった私は、今度も高所からの眺めを描こうと思った。当時は金沢に市電が走っていて、小学校 6 年生の時からの友人、数馬紹朗(つぐお)君(壮年期に早くも故人となった)の家が電車通りに面していた。そこで、私は彼の家の屋根の上で写生をさせて貰うことにした。秋も終わりに近い頃で、その絵のデッサンを図画の先生に見て貰うため、風の強い日に、筒状に巻いた画用紙を手に持って登校する途中、風にあおられて絵が裂けてしまい、今回も新しい画用紙を再度支給して貰うことになった。描いた風景には写真館と書店の洋風の建物があり、いくらか都会的ではあったものの、それらの両方の建物を画面に収めるため、画用紙を横長に使い、電車通りが画面下部に真横に走る形となった構図は、平板的で面白味がなかった。また、色彩も全体に藍色がかった薄暗い調子になり、自分でもあまりよい出来ばえとは思わなかった。校内の出品作品が先生のもとに集められたのを見たとき、私は、それまで名前を知らなかった笠森君というのが、当時の金沢でひときわ都会らしい場所だった香林坊の三叉路を、正面にベージュ色のビルが見える高所からのアングルで、大胆なタッチで描いた縦長の作品に惹き付けられ、これは素晴らしいと思った。案の定、彼の絵が石川新聞社長賞に輝いた(私の作品は佳作だったはずだが、その賞状はいま見当たらない)。
なお、私が高校 2 年の夏休みに国語の宿題として書いた創作『夏空に輝く星』の、絵を描くことを好む主人公・稔のモデルは、主に高校 1 年の頃の私自身である。稔は、数馬君がモデルである殿村文雄の家の、屋根からでなく、窓からの風景を写生させて貰っている。その風景の細かい描写が作中になされているが、これは「金賞」作品に描いた小林君の家の二階からの眺めがモデルになっており、その写生をする時の稔のモデルは中学 3 年生の時の私である。さらに、この創作の冒頭で、稔は公園で写生をしており、そのモデルは小学校 6 年生の時の私ともいえる。「イーゼルペイント」という絵の具の商品名を、私と同じ職場にしばらくいた、私より十数歳も若い低温物理学の教授が知っていたのに驚いたこともある。しかし、彼との間でなぜ「イーゼルペイント」が話題になったかを思い出せない。私のウェブサイトに掲載した『夏空に輝く星』を彼が読んだのかと思い、この創作中を検索したが、「イーゼルペイント」の語は見当たらず、不思議である。—— このシリーズを書いて、私の絵や、絵を描いた経験は、ずいぶんいろいろな思い出につながっていることに、改めて気づいた。(完)
後日の注記:上記の低温物理学教授は、その後、彼の出身大学へ移った。そしてある年、私に「英語論文を書く技を磨く」という内容の講義をして欲しいと、彼の大学へ招いてくれた。その折に彼は、私のホームページに掲載されていた "Surely You're Joking, Mr. Tabata!"(高校同窓会のことを記したもの。目下リンク切れ)という英文随筆の末尾が印象深かったと話した。その時私は、そこに Vicky のニックネームで登場する女性と私が中学生時代にイーゼルペイントで描く展覧会で共に金賞を貰ったことを話したのだったかも知れない。
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