2012年2月17日金曜日

影と陰の一体曲線 (The Single Curve Made of the Shadow and the Shade)


 1枚目の写真は、1月31日のウォーキングの折に右手の赤い屋根が青空によく映えている様子に見とれて撮ったものである。掲載に当たってはトリミングを施すつもりだったが、左手に、撮影時に気づかなかった太くて黒い曲線が意外にも写っていた。それが面白いので、トリミングをしないまま掲載した。歩道と車道との間の柵には、そのような曲線状の影を作るような太い横桟はない。曲線の左右での柵の影のずれから、歩道・車道間の段差によるものと思われるが、手前では、段差の側面は見えていないはずで、段差の影のみが黒線を形作っているだろう。他方、道路が右へカーブし始める辺りから前方では、側面(それ自身の陰の中にある)も見えているはずである。つまり、黒い曲線は、前方へ行くに従って影が陰を取り込んで一体となったものと思われる。

 2枚目の写真は、1月30日に撮ったもので、これも影が面白い。午後のまだ早い時間だったが、冬の陽は木々の影を長く映して、道に美しい模様を作っている。

On the occasion of walking exercise on January 31, I was fascinated by the red roof shining well under the blue sky and took the upper photo. Trying to crop it for posting here, I found, on its left, a thick, black curve, of which I had been unaware when shooting. The origin of the curve was a little mysterious, so that I am posting the photo without trimming. The fence between the sidewalk and the roadway does not have such a thick horizontal bar that would make such a shadow. From the mismatch of the shadow of the fence at the left and the right of the curve, it seems that the curve was made by the difference of the heights between the sidewalk and the roadway. Portion of the black curve nearer to my camera must be made only of the shadow of the side face, because the side face itself is unseeable from that position. On the other hand, portion of the black curve further than that, where the road turns gradually to the right, should consist of both the side face, in its own shade, and its shadow. Namely, the black curve is considered to be the shadow that captures more of the shade as it goes further.

The lower photo, taken on January 30 in Tsukuno-minami housing complex, also shows intriguing shadows. Though it was still early in the afternoon, the sun of winter was projecting long shadows of trees on the road to make a pretty pattern.

2012年2月15日水曜日

不整合の整合 (Consistency of Being Inconsistent)


 2012年2月14日付けの朝日紙に、同紙のデジタル版を広告するページがあり、そこに「就活」こと就職活動を応援する特集が充実したとして、「就活メーク」を動画で習得できることを紹介している(上掲のイメージ上部)。他方、同日同紙の「天声人語」欄(上掲のイメージ下部)は、漱石の『草枕』から「文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする」という一節を引いて、就職活動での没個性化を嘆き、「同調圧力に抵抗力のある人は頼もしい」と述べている。

 これらの二つの記事は、一つの新聞の内容としては相矛盾している。しかし、没個性化を応援する動き*と、没個性化を嘆く論とが互いに自由に表現されているのは、社内が没個性化していない証拠と見れば、その状況は天声人語子の主張と合致している。一見不整合なところに整合性がある興味深い例である。

 ちなみに私は、大学院の指導教授が建設に尽力し所長を兼務することになったばかりの研究機関に推薦の形で就職したので、「就活」を必要としなかった(いまほど盛んな「就活」をする時代でもなかったが)。もしも、私が「就活」をしたとすれば、個性を出したほうだろうか、どうだろうか。


*「就活メーク」の記事中には、就活メークの分かっていない学生のメークについて「自分らしさが出ない人も多い」という箇所があり、就活メークのすすめは必ずしも没個性化のすすめとはならないとの見地で書かれているようだ。しかし、上掲のイメージ中、中央のメークがよくて、下のメークがよくないとするのは、没個性化であろう。


The Asahi Shimbun dated 14 February, 2012, carried a page advertising the digital edition of the newspaper. There, it is described that feature articles to help shukatsu (job hunting) have been much developed and that you can learn by a video how to make yourself up for shukatsu (upper part of the above image). On the other hand, the Vox Populi, Vox Dei column of the newspaper of the same day (lower part of the above image) quotes the following passage from Soseki's novel Kusamakura: "Civilization uses all the means to develop individuality and next uses every method to eliminate individuality." Then the writer laments the loss of individuality in job hunting by saying, "Those who are resistant to the pressure on individuality is reliable."

These two articles are inconsistent as the contents of a single newspaper. However, we can regard this as the free appearance of both the intention to help job hunting and the lamenting of the trend of job hunting. Here is the respect of individuality in the company of The Asahi Shimbun and is consistent to the insistence of the writer of Vox Populi, Vox Dei. This is a fascinating example of the case that inconsistency at first glance is, in fact, consistency.

By the way, I did not need shukatsu. This is because I got a job, by recommendation, at the research institute that was just established by the commitment of my teacher at the graduate course, who served concurrently as the director of the institute. (It was not even the period when job hunting as hard as now was necessary.) Would I have showed off individuality, if I had needed shukatsu?

2012年2月13日月曜日

『クロイツェル・ソナタ』(The Kreutzer Sonata)


トルストイの作品に刺激されて R・F・X・プリネが1901年に描いた
「クロイツェル・ソナタ」
Tolstoy's novella inspired the 1901 painting Kreutzer Sonata
by René François Xavier Prinet
[Public domain], via Wikimedia Commons.

Abstract: I reread Leo Tolstoy's novella The Kreutzer Sonata. It was early days of my becoming a first-grade student of a senior high school that I read this work for the first time, and I did not remember Tolstoy's message presented in the work through Pozdnyshev's talk. I first thought that this forgetting was due to my difficulty at that time to understand the message. However, I finally noticed that it was possibly due to my disagreement to the idea that totally denied sensual love. Anyway, the tragedy told near the end of the novella is extremely impressive, and this can be said to be one of the best literary works about the tragedy caused by jealousy, together with William Shakespeare's The Tragedy of Othello, the Moor of Venice. My memory about the first listening to Beethoven's Kreutzer Sonata (Sonata No. 9 in A Major for piano and violin, Op. 47) is also described. (Main text is given in Japanese only.)

 レフ・トルストイの『イワン・イリイチの死』を読んだついでに、高校一年の初め頃に呼んだ記憶のある『クロイツェル・ソナタ』(1899) も読んだ(『新潮世界文学』版 [1] による)。この作品の題名は、作中の一場面にベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第9番が出て来ることによる。『岩波文庫解説総目録』[2] には、この短編小説について、次の通りに紹介してある。

嫉妬にかられて妻を殺害した男の告白という凄惨な小説。殺人事件にまで発展した嫉妬心が、夫の心の中でどのように展開していったかをトルストイは克明・非情に描き出している。その間、恋愛・結婚・生殖など、すべて性問題に関する社会の堕落を痛烈に批判し、最後に絶対的童貞の理想を高唱する。


 この作品は「わたし」が汽車で乗り合わせた紳士ポズドヌイシェフが車中で語る形で展開している。そして、上記解説中の「恋愛・結婚・生殖など…高唱する」のも、ポズドヌイシェフの言葉として述べられているが、解説 [3] には、「説教家トルストイの意見が生のまま披瀝されている感がある」とある。実際、1890年に発行された『クロイツェル・ソナタへのエピローグ』中には、トルストイが『クロイツェル・ソナタ』で意図しているメッセージを明かして、「肉体的愛は人類の価値ある目標の追求の妨げになる」旨を述べている [4]。

 同じ文献 [4] には、1908年、トルストイの生誕80年にあたっての国際的祝祭の折に、イギリスの作家ギルバート・ケイス・チェスタートンがトルストイのこの考えは「人間であることを嫌うもの」と批判したことが述べられている。私も『クロイツェル・ソナタ』でトルストイが意図したメッセージは行き過ぎていて、同意出来ないので、読後にはそういう「理想」が述べられていたことなど、記憶に残らなかったほどである。再読を始めたときには、ポズドヌイシェフの語る「恋愛・結婚・生殖など」の論が初読において記憶に残らなかったのは、それらがまだ理解出来ない年齢だったからかと思ったが、必ずしもそうではないであろう。そうした論が説得性を欠いている反面、終盤での劇的場面の告白からきわめて激しい印象を受けたことが原因だろう。

 「嫉妬にかられて妻を殺害」するというテーマはウィリアム・シェイクスピアの『オセロ』でも扱われているが、これは奸悪なイアーゴウという人物の企みによって生じた嫉妬がもとになっている。他方、『クロイツェル・ソナタ』での嫉妬は、ヴァイオリンの上手な友人トルハチェフスキーと妻の親密さを見て、自らの心情に発したものであり、ポズドヌイシェフが裁判で無罪になったといっている点に疑問が湧かなくもない。文献 [3] によれば、俳優アンドレーエフ・ブルラークがかつて汽車の中で見知らぬ客から妻に裏切られた夫の苦しみについての告白を聞いたと、トルストイに話したことが執筆の動機になったということである。ともあれ、『オセロ』と『クロイツェル・ソナタ』は嫉妬に基づく悲劇を描いた文学の双璧であろう。

 この作品の中で実に効果的に使われているベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第9番を私が最初に聞いたのは、学生時代に同じ下宿にいた二、三歳年長の N さん(いまは亡き彼もヴァイオリンが好きだったようだ)にレコードで聞かせて貰ったときである。彼は楽譜を広げて、「いまは、ここ、…ここ…、…ここ…」と親切に譜面を指差しながら聞かせてくれた。私は楽譜は読めないのだが、音の相対的な流れを目で同時に追いながらの鑑賞も面白いものだと思った。その感激とともに、トルストイの『クロイツェル・ソナタ』も想起していたに違いない。この小説の初読の記憶では、悲劇の直前の場面でこの曲が演奏されていたことになっていた。しかし、それは年月を経るうちに私の頭の中で改作されたものであった。

文 献

  1. 原卓也 訳, クロイツェル・ソナタ, 新潮世界文学 20:トルストイ V, p. 643 (新潮社, 1971).
  2. トルストイ/米川正夫 訳 クロイツェル・ソナタ, 岩波文庫解説総目録(中), 岩波文庫編集部編, p. 881 (1997).
  3. 木村浩, トルストイの作品, 新潮世界文学 20:トルストイ V, p. 879 (新潮社, 1971).
  4. The Kreutzer Sonata, Wikipedia: The Free Encyclopedia (26 January 2012 at 00:44).

2012年2月11日土曜日

『生きる』と『イワン・イリイチの死』(To Live and The Death of Ivan Ilyich)


『新潮世界文学』トルストイの巻の一部。
Part of Tolstoy volumes of "Shinchō Sekai Bungaku."

Abstract: A comparison is made between the Japanese film Ikiru (To Live) (1952) directed by Akira Kurosawa and Leo Tolstoy's novel The Death of Ivan Ilyich (1886). The conclusion is as follows: Getting a hint from The Death of Ivan Ilyich, the theme of which was the fear of death, Ikiru was made an entirely different work, the main theme of which is how to live a short, remaining life meaningfully. (Main text is given in Japanese only.)

 先日 TV で見た1952年の黒澤明監督による映画『生きる』について、「脚本はレフ・トルストイの『イワン・イリイチの死』が下敷きにされており、作中にそれを暗示するせりふも盛り込まれている」とあったので、そのトルストイの作品 [1] を読んでみた。まず、それぞれのごく簡単なあらすじを文献から引用しておくことが、両者の比較についての私見の客観的裏付けになるであろう。

 生きる:市役所の市民課長、渡辺は、自分が余命いくばくもないことを知りがく然とする。自暴自棄になった彼だったが、希望に燃える若い女性事務員の姿に、自分も生きがいを見つけようと模索。悪疫の源となっていた地区に清潔で新しい児童公園を作ろうと全力で奔走する [2]。

 イワン・イリイチの死:一官吏が不治の病にかかって肉体的にも精神的にも恐ろしい苦痛をなめ、死の恐怖と孤独にさいなまれながら諦観に達するまでを描く [3]。


 これらのあらすじでいえば、『生きる』の「自暴自棄になった」までは、『イワン…』の「死の恐怖と孤独にさいなまれ」までに、よく対応している。そして、強いていえば、『生きる』の後半、「希望に燃える…全力で奔走する」は、『イワン…』の「諦観に達する」に対応している。

 しかし、『生きる』の主題はその題名が示しているように、主人公が短い余命をどのような生きがいを見つけて生きたかを描いた後半にあるのに対し、『イワン…』の主題は「死の恐怖」にあると思われる。『イワン…』の主人公が「諦観に達する」といっても、それは死の一、二時間前のことで、作品の長さにすれば95%以上終わったところにおいてである。つまり、両作品の主題は、それぞれ生と死という対極を扱っているといえるであろう。したがって、『生きる』の脚本が『イワン…』を下敷きにしているといっても、それは、『安城家の舞踏会』が『桜の園』を下敷きにしている([4] 参照)のとは大いに異なり、むしろ「『生きる』は『イワン…』にヒントを得ながら、趣きの全く異なる作品に仕上げたもの」というべきかと思う。

 なお、[5] によれば、『イワン…』はチャイコフスキー、モーパッサン、ロマン・ロランらが激賞した作品だとのことである。

 余談ながら、『イワン…』を読みながら、私は自分が高校2年のときに書いた拙い創作「夏空に輝く星」[6] を思い出した。「夏空…」において主人公の悩みを記した文章が、『イワン…』においての主人公の苦しみの記述に、それとなく似ているように思われたのである。自分の文を文豪のものと比較することは大それてはいるが、当時私はトルストイと漱石の相当な愛読者だったので、私の書くものが彼らの作品から影響を受けていたことは、十分にあり得ることなのだ。

文 献

  1. レフ・トルストイ, イワン・イリイチの死, 新潮世界文学 20:トルストイ V, p. 455 (新潮社, 1971).
  2. BS シネマ:山田洋次監督が選んだ日本の名作100本~家族編~アンコール「生きる」1952年・日本, NHK BS オンライン、映画カレンダー (2012年2月).
  3. トルストイ/米川正夫 訳 イワン・イリッチの死, 岩波文庫解説総目録(中), 岩波文庫編集部編, p. 880 (1997).
  4. 『安城家の舞踏会』と『桜の園』の比較 (Comparison between A Ball at the Anjō House and The Cherry Orchard) Ted's Coffeehouse (2012年2月7日).
  5. 木村浩, トルストイの作品, 新潮世界文学 20:トルストイ V, p. 879 (新潮社, 1971).
  6. 「夏空に輝く星」(初出, 新樹, No. 5, p. 106 (石川県立金沢菫台高校生徒会, 1954); PDF 版, 2011).

2012年2月9日木曜日

映画『生きる』と『おかあさん』(Japanese Films To Live and Mother)


『生きる』に主演の志村喬
Takashi Shimura in the film To Live
By Robert8528 (Own work) [Public domain],
via Wikimedia Commons.

 このところテレビの NHK BS プレミアムで古い邦画を見るのに忙しい。さる2月6日には1952年の黒澤明監督 (1910–1998) による『生きる』を、2月7日には同じく1952年の成瀬巳喜男監督 (1905–1969) による『おかあさん』を見た。

 『生きる』は私の母が封切りのときに見て、主演の志村喬 (1905–1982) がブランコをこぎながら「ゴンドラの唄」[1] を歌う場面を聞かせてくれたことを記憶している。母が50歳、私が高校2年生のときのことになる。ブランコの場面以外にも、あら筋を聞いたのかもしれないが、全く覚えていなかった。母の死去の年齢を過ぎて、いまこの映画の全貌を知った次第である。『ウィキペディア』の説明 [2] に、「脚本はレフ・トルストイの『イワン・イリイチの死』が下敷きにされており、作中にそれを暗示するせりふも盛り込まれている」とあり、『イワン・イリイチの死』を読み始めている。

 『おかあさん』の主演は田中絹代 (1909–1977)。その長女役を演じた香川京子(1931–)が可愛らしい。折しも朝日紙夕刊に香川へのインタビュー記事が連載中である。2月7日の2回目の記事に、同じ成瀬巳喜男監督のもとで一つ前の『銀座化粧』で田中絹代の妹分役として出演した手応えについて尋ねられた香川は、「成瀬監督は、静かな方でしたけど、ご覧になる目が厳しかった」と語り、田中絹代については、「田中さんは、次の『おかあさん』などでもご一緒しましたが、役に向き合う姿勢がすばらしく、近づきたいと思いました」と述べている。

文 献

  1. 「ゴンドラの唄」, YouTube (歌・初音ミク、字幕に映画『生きる』の解説が出る。ただし、読みづらい).
  2. 「生きる (映画)」, ウィキペディア フリー百科事典 [2012年1月9日 (月) 14:19].

On Monday and Tuesday this week, I watched on TV the Japanese films To Live by Akira Kurosawa and Mother by Mikio Naruse, both released in 1952. As for the former film, I remember this: My mother saw it when it was released and told me about the scene of the leading actor Takashi Shimura singing "The song of the gondola" on a swing. I have understood all the story of the film at last. As for the leading actress Kinuyo Tanaka in the latter film, I happened to read Kyoko Kagawa's words about her, which appeared in the interview article in The Asahi Shimbun issued just on Tuesday. Kagawa played the role of the beautiful first daughter in Mother and is reported to have said that she wanted to act like Tanaka whose attitude of getting into the character of the play had been marvellous. (Abridged from the Japanese version.)

2012年2月7日火曜日

『安城家の舞踏会』と『桜の園』の比較 (Comparison between A Ball at the Anjō House and The Cherry Orchard)


Abstract: The other day, I watched the 1947 Japanese movie Anjō-ke no Butōkai (A Ball at the Anjō House) on TV. Then I learned that the film was based on Anton Chekhov's play The Cherry Orchard. So, I have read the play in a Japanese translation again and made a comparison between the film and the play. Atsuko in Anjō-keno Butōkai seems to hold a more significant role to strive for the new life in the future than Anya, who plays a similar role together with Trofimov in The Cherry Orchard. Some other noticeable differences are also described. (Main text is given in Japanese only.)

 先日テレビで見た1947年の日本映画映画『安城家の舞踏会』がアントン・チェーホフの戯曲『桜の園』を下地とした作品と知り、学生時代に読んだ『桜の園(四幕のコメディ)』[1] を再読した。『桜の園』は没落した地主一家が過去の栄華に執着しながら、数かずの思い出を秘めた所有地「桜の園」を手放す様子を描いている。そして、これは当時の社会的変動(農奴解放)を一荘園の生活に縮写した戯曲とされている [2]。他方、『安城家の舞踏会』は、太平洋戦争終結直後の変革の中で没落する名門華族・安城家の人々を描いている。安城家は、これまで通りの生活をするために全てのものを手放し、いまや抵当に入れた家屋敷まで手放す時が来て、過去の暮らしが夢のように消えて行く最後を記念するために舞踏会を催すが、その裏に家族最後のいろいろなあがきがあった [3]。

 『桜の園』の主な登場人物は次の通り。「その」はいずれも「女地主の」を意味する。([1]、[4] による。カッコ内は筆者の付記。)

  • ラネーフスカヤ:女地主。
  • アーニャ   :その娘、17歳。(トロフィーモフを愛している。)
  • ワーリャ   :その養女、24歳。(ロパーヒンに気がある。)
  • ガーエフ   :その兄
  • ロパーヒン  :商人。(競売で「桜の園」を買うことになる。)
  • トロフィーモフ:大学生。
  • ピーシチク  :近郊の地主。
  • シャルロッタ :アーニャの家庭教師。
  • エピホードフ :事務員。
  • ドゥニャーシャ:小間使い。(エピホードフにプロポーズされていたが、ヤーシャに惚れてしまう。)
  • フィールス  :老僕、87歳。
  • ヤーシャ   :ラネーフスカヤの若い従僕。(女地主とともに、パリから帰る。)

 『安城家の舞踏会』の登場人物を、『桜の園』にほぼ対応する順序に並べてみると、次の通りとなる(主な登場人物の数は同じであるが、『安城家の舞踏会』は家族の数を多くしてあるので、完全な対応は取れない)。登場人物名直後のカッコ内は演じた俳優。「その」はいずれも「安城家当主の」を意味する。(人物の説明は [5] により、カッコ内のみ筆者が付記した。)

  • 安城 忠彦(滝沢 修): 安城家当主。華族の生活を捨てられない。
  • 安城 敦子(原 節子): その次女。家の没落に現実的に対応しようとする。
  • 安城 昭子(逢初夢子): その長女。出戻り。気位が高い。
  • 安城 正彦(森 雅之): その長男。放蕩息子。
  • 春小路正子(岡村文子): その姉。
  • 由利 武彦(日守新一): その弟。忠彦に代わり借金の件で新川と交渉している。
  • 新川龍三郎(清水将夫): 闇会社の社長。借金の形に安城家の屋敷を手に入れようとしている。
  • 新川 曜子(津島恵子): 新川の娘。正彦の許嫁。
  • 遠山 庫吉(神田 隆): 運送会社社長。安城家の元運転手。昭子を愛している。(最終的に屋敷を手に入れる。)
  • 千代  (村田知英子): 忠彦の恋人。芸者。忠彦の妻となる。
  • 菊    (空あけみ): 安城家小間使。正彦と恋仲。
  • 吉田   (殿山泰司): 安城家家令。忠彦の幼い頃から屋敷で働いている。

 『桜の園』の若い娘アーニャは、恋人トロフィーモフとともに、新しい生活を積極的に求める役を果たしているが、『安城家の舞踏会』の敦子は、一人でその役を背負っており、存在感がはるかに強いように思われる。また、『桜の園』よりも『安城家の舞踏会』の方が、緊迫感という面での劇的要素を多く含んでいるようである。そのことは、例えば、どちらにもピストルが登場しながら、『桜の園』では第2幕でエピホードフが言葉に出すだけであるのに対し、『安城家の舞踏会』ではそれが危機的な場面を2度も作り出していることや、後者には正彦が曜子を手込めにしそうな場面があること、いったんは新川龍三郎の手に渡った屋敷が、さらに遠山の手に渡ることなどに見られる。

 他方、『桜の園』は作者自身が「四幕のコメディ」という副題をつけている通り、喜劇的要素を含んでいる。「ボードビル的な、あるいは衝撃的な登場人物…中略…。彼らをその上に乗せて展開する舞台の底流に、滅びゆく古い生活への哀愁がただよっていなかったならば、この戯曲は作者が呼んだとおり愉快な喜劇の舞台を繰りひろげたことだろう」との批評がある [6]。また、社会問題にふれる長広舌の見事さにおいては、『桜の園』が勝っているように思われる。たとえば、第2幕でトロフィーモフがインテリゲンチャの怠惰と労働者の条件の劣悪さについて語ったり、終末を迎えた農奴制を批判したりするくだりにそれが見られる。——ただ、戯曲の活字と映画の印象から両者の正確な比較をすることは、いわば土俵が異なっていて、はなはだ困難である。

文 献

  1. チェーホフ作, 湯浅芳子訳, 桜の園 (岩波, 1950).
  2. 「桜の園」, 岩波文庫解説目録 (中) 岩波文庫編集部編 (岩波, 1997) p. 891.
  3. 「安城家の舞踏会」, goo 映画.
  4. 「桜の園」, ウィキペディア フリー百科事典 [2011年10月19日 (水) 17:00].
  5. 「安城家の舞踏会」, ウィキペディア フリー百科事典 [2011年12月12日 (月) 10:36].
  6. 池田健太郎, 解説:チェーホフの生涯と作品, 『新潮世界文学23 チェーホフ』p. 747 所収 (新潮社, 1969).

2012年2月5日日曜日

映画『めし』(The film Repast)


原節子
Setsuko Hara. Source: Japanese actress photo album before World War 2
[Public domain], via Wikimedia Commons.

 一昨日もまた、NHK BS プレミアムで原節子が出演する映画を見た。1951年公開の成瀬巳喜男監督による『めし』である。原作は同年に『朝日新聞』に連載された林芙美子の長編小説。大恋愛の末に結ばれた岡本初之輔(上原謙が演じている)と三千代の夫婦が、結婚から五年を経て倦怠期に入っているという物語である。原節子は三千代の役を好演しているが、私はこの役は彼女に相応しくない感じがした。特に結末が保守的で気に入らないし、そのあたりの場面も彼女に似つかわしくない。しかし、原が演じたことで、この作品は明るいものになったと言えよう。

 上記の感想は私が原節子をひいきするあまりのものかと思ったが、『ウィキペディア』[1] の説明には、原作は連載中に林が急逝して、未完の絶筆となり、映画化にあたり成瀬らによって独自の結末が付与されたとある。そして、映画独自の結末には林文学のファンなどからは批判を受けることもあり、「この夫婦は別れるべきだった」という意見がある*、と記されている。林の文学をよく知らない私も、林のファンと同じ感想を持ったのである。——もう一つ感じるのは、大抵の感想は、インターネット上に同様のものが見つかる時代になったということである。

* 文献1には、「林自身はそのような想定をしていた」という引用文も記されているが、この中の「そのような」は、直前の「この夫婦は別れる」を指すのか、あるいは、もう少し前の「映画独自の結末」を指すのか、不明瞭である。その後に、「なお林自身がどのような結末を想定していたかは不明である」と記されていることを考えれば、この引用文は不要のものである。

文 献

  1. 「めし」, ウィキペディア フリー百科事典 [2011年5月16日 (月) 12:38]

The day before yesterday, I saw, on TV (the NHK BS premium channel), another film in which Setsuko Hara played. This 1951 film, directed by Mikio Naruse and entitled Meshi (Repast), is an adaptation from the novel of the same title written by Fumiko Hayashi and carried in a series in The Asahi Shimbun. The story is about the couple, Hatsunosuke Okamoto (played by Ken Uehara) and Michiyo, who became weary of their marriage after five years from the fulfilment of their passionate love. Setsuko Hara plays the role of Michiyo quite well, but I think the role is not suitable for her. Particularly, I do not like the end of a conservative approach and think that last scenes are unsuited to Hara. However, this film became a pleasant one because of Hara's performance.

I thought that the above impressions might be peculiar ones caused by my fondness for Hara. However, the Wikipedia page [1] of this film tells us the followings: the author Hayashi suddenly died without completing the novel "Meshi." So, in making the film, Naruse and his coworkers made the final scenes according to their own idea. Thus, fans of Hayashi's novels sometimes criticize the ending of the film by saying,* "The couple should have been divorced." This shows that I, who am not well acquainted with Hayashi's novels, had the same view as that of Hayashi fans. — Another thing I think is this: It is such an age that one often finds an opinion similar to one's own on the Internet.

Note

* In Ref. 1, another quote is given as follows: "Hayashi herself had such a plot in her mind." However, it is not clear which "such a plot" means, the couple's divorce or the ending employed in the film. Thereafter it is written that Hayasi's own plot for the ending is unknown. Considering this, the second quote is unnecessary.

Reference

  1. "Meshi," Wikipedia: Free Encyclopedia, Japanese edition (Monday, May 16, 2011, 12:38).