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学士會会報の最新号に英文学者・外山滋比古氏が「日本語にはパラグラフが存在しなかったため、『欧米の言語構造が、パラグラフ単位で意味を積み重ねている』ことを見落とし、これを軽視した。今もってわれわれが欧米文化の根本を理解しきれていないのは、ここに原因がある」と述べている [1]。私は、これに全く同感であり、先日この引用文を私の英訳とともにツイッターで述べた。氏はさらに、「知識と思考が一緒になって出来るエッセイ」が「将来の日本の言葉をリードしていく最も有望なジャンル」と述べている。エッセイ執筆のまねごとをしている私にとって、嬉しい言葉である。ここでは、氏の主張について、その要点を紹介する。
外山氏が「日本語にはパラグラフが存在しなかった」といっているのは、古来、日本語で書かれた文にはパラグラフ(段落)ごとに意味をまとめて表現するという手法がとられて来なかったため、パラグラフを文の重要な構成要素とする欧米の言語に比べて、科学性、論理性、思考性において劣る、という意味である。例えば『源氏物語』にはパラグラフ構造がなく、始めから最後までのっぺらぼうに続いており、日本の古典はすべてそうである、といっている。現在印刷されている古典にパラグラフの形が見られるのは、後の編集によるものであろう。
そして、英文に見られるパラグラフ構造において、パラグラフ自体が三部に分かれているという特徴がある、と外山氏は述べている。最初に抽象的な一般論(動詞は現在形)があり、次に具体例(動詞は過去形)が述べられ、最後に抽象的一般論に帰る、という形になっているのが典型的であるというのである。このような、抽象・具体・抽象の三層構造において、情報量は初めほど多く、逆三角形をしているが、日本人の発想はこれとは逆で、終りほど重要な三角形をしていると説明している。
私は文章を書くときに、段落を大いに気にします。科学論文を英語で書いて来た習性によるのだろう。上の二つの段落はいずれも短いものだが、それぞれ三つの文からなり、最初の文でその段落の主要点を述べ、次の文で具体的な例を挙げて説明し、最後の文で主要点について補足をしている。いま書いているこの段落自体も、最初の二つの文が一層目で、次の文が二層目、そして、この文が三層目となって、外山氏の「三層構造」を満足させている。
日本で随筆あるいはエッセイといえば、主に情緒的な作品を指すが、欧米でエッセイというのは、主に論文調のものである。外山氏がエッセイと呼んでいるのは、欧米式エッセイである。氏は寺田寅彦のエッセイと瀧澤敬一の『フランス通信』を優れたエッセイの例として挙げている。そして、文末において、「日本語を他の国の言葉に負けない思考性と創造性を持った言葉にしたいと考えています」と述べている。氏が「言葉」の語で表現しているのは、単語や文だけでなく文章構造も加えた文章作品である。したがって、ここに述べられているのは、思考的創造性において欧米に引けをとらない欧米式日本語エッセイの輩出が日本語の地位を高める、という考えといえよう。
文献
外山滋比古,知識と思考,学士會会報 No. 883, p. 41 (2010).
[The English version below gives only the introductory part of the Japanese version.]
In the latest issue of Gakusikai Kaiho [1], the Japanese scholar of English Literature, Shigehiko Toyama, writes, "The Japanese language does not have the notion of the paragraph, so that we have not understood the fact that the structure of Western languages piles up the meaning by the unit of a paragraph. Because of this, we are even now unable to grasp the base of Western cultures." I totally agree with him and a few days ago wrote the above quote on Twitter both in the original Japanese and my English translation. He also writes, "The essay, which is the product of the cooperative work of knowledge and thinking, is the most promising genre to lead the future Japanese language." I am writing mean essays in Japanese (and in English), so that these are pleasant words to me. Here, I describe the essence of Toyama's essay.
Reference
Shigehiko Toyama, Knowledge and thinking, Gakushikai Kaiho, No. 883, p. 41 (2010) in Japanese.
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