写真は筆者(向かって左から 3 人目)が 1998 年にウクライナのハルキウ大学へ招かれた際のもの。当時私を歓迎してくれた人たちは、ロシアの軍事侵攻を受け、どうしているだろうかと心配している。
The photo was taken when the author (third from the left) was invited to Kharkiv University in Ukraine in 1998. I worry about how the people who welcomed me at that time are doing under Russia's military invasion.
以下は私の出身高校(石川県立金沢菫台高校、現・石川県立金沢商業高校)の同窓会誌『金商菫台プレス』No. 64, pp. 26–27 (2024) に掲載された私の寄稿である。
× × ×
私が高校を卒業したのは、ちょうど 70 年前で、この節目の年に執筆依頼を頂いたことは光栄である。過去の寄稿を一部省略して振り返ると、創立 80 周年記念 20 号(1980 年)に「南東部カナダの夏」の題で国際学会出張の経験を、47 号(2007 年)に「集うこと十回」として新聞部同窓会のことを、それぞれ投稿し、関西支部発行の小冊子から「趣味の不透明水彩画」の文が 63 号(2023 年)に転載されている。以上から本誌読者の方々が察知される私の人物像は、在校時代に新聞部に属し、就職後は理系か文系か不明だが国際学会に参加するような研究に従事し、水彩画を趣味とする、ということぐらいだろう。
そこで、在校時代の私の情報を追加してみよう。『金商菫台百年史』(2000 年)中の、菫台時代の生徒会誌『新樹』についての記事に、「二号、三号のころまでは、[...中略...]文学的要素が濃く、四号あたりから、[...中略...]多幡達夫の『不思議の国アリスにおける with の使用法』など、生徒の研究論文が見られます」とある。『新樹』四号は私が 2 年生の時の発行で、拙文の実際の題名に「における」以下の部分はなく、エッセイ的な内容だった。ただ、秋山校長の英語授業で習った同題名のルイス・キャロル作品の冒頭部分を、英文から受ける感じを含めて鑑賞した形だったので、研究論文という印象を与えたのだろう。『新樹』五号には、3 年の時のホームルーム担任で英語も習った坂井先生の勧めで「ヘンリィ・ライクロフトの手記」として、同題名の英文学作品の部分和訳と感想を書いた。同時に、前年夏休みの国語の宿題として提出した創作「夏空に輝く星」を載せるようにと、宿題を出された桑山先生に勧められ、一年余り前の稚拙なものを今更と思いながらも、「よい記念になるよ」とも言われて承諾した。同期生達の関心は、ヒロインのモデルが誰かに注がれたようだった。
追加の情報からは全くの文系人間と思われそうだが、実は私は高峰賞(「転載時の注」参照)を受賞し、京大理学部へ進学した。進学先の決め手となったのは、日本最初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹博士の下で素粒子論物理学を学び、博士と同様な成果を挙げたいという大志を抱いたことだ。高峰賞を貰った後、親友たちから「次はノーベル賞!」と言われもした。しかし、大学 4 年で専攻を決める際、諸事情を勘案し、素粒子論でなく、実験原子核物理学を選んだ。修士課程修了後、専攻分野の恩師・木村毅一博士が作った大阪府立放射線中央研究所に就職し、電子の後方散乱の実験で理学博士を取得、1990 年、同研究所が大阪府立大(現・大阪公立大)に統合された折に、私の職名は総括研究員から教授に変わった。1999 年に名誉教授の称号を得て定年退職し、以後は自分のウェブサイトに研究所名をつけて、ささやかな活動を続けている。
抱いた大志はそのままの形では実現しなかったが、50 年前後を経てなおよく引用されている論文をいくつか発表したという、まずまずの研究生活が出来、悔いることは全くない。また、湯川博士を尊敬し続けたお陰で、2007 年の同博士生誕百年に向けて大阪科学館で活動した「湯川秀樹を研究する市民の会」のアドバイザーの一人として、物理好きの一般市民の方々と共に博士のノーベル賞論文を学ぶ機会を持ち、2010 年に姫路在住京大同窓生の会で「湯川の仕事に対する中国古典の影響」という講演をしたなどの思い出も出来た。金商高在校生や若い同窓生の方々にも、大いに大志を抱いて貰いたい。それがよい人生につながるだろうから。
転載時の注:高峰賞は、金沢が生んだ偉大な科学者・国際人である高峰譲吉博士の功績を顕彰し、併せて科学教育の振興を図ることを目的として 1945 年春に設立された「高峰譲吉博士顕彰会」が行っている事業の一つ。第 1 回高峰賞授与は 1951 年度に行われ、当時は石川県内の中学・高校生から、それぞれ理科・化学の優秀な生徒各 10 名(正賞・副賞各 5 名)が選ばれていた。1971 年度の第 21 回から、個人賞に加え学校賞が制定され、代わりに高校生は対象から外された。(金沢市のウェブサイトを参考にした。)
私が高校を卒業したのは、ちょうど 70 年前で、この節目の年に執筆依頼を頂いたことは光栄である。過去の寄稿を一部省略して振り返ると、創立 80 周年記念 20 号(1980 年)に「南東部カナダの夏」の題で国際学会出張の経験を、47 号(2007 年)に「集うこと十回」として新聞部同窓会のことを、それぞれ投稿し、関西支部発行の小冊子から「趣味の不透明水彩画」の文が 63 号(2023 年)に転載されている。以上から本誌読者の方々が察知される私の人物像は、在校時代に新聞部に属し、就職後は理系か文系か不明だが国際学会に参加するような研究に従事し、水彩画を趣味とする、ということぐらいだろう。
そこで、在校時代の私の情報を追加してみよう。『金商菫台百年史』(2000 年)中の、菫台時代の生徒会誌『新樹』についての記事に、「二号、三号のころまでは、[...中略...]文学的要素が濃く、四号あたりから、[...中略...]多幡達夫の『不思議の国アリスにおける with の使用法』など、生徒の研究論文が見られます」とある。『新樹』四号は私が 2 年生の時の発行で、拙文の実際の題名に「における」以下の部分はなく、エッセイ的な内容だった。ただ、秋山校長の英語授業で習った同題名のルイス・キャロル作品の冒頭部分を、英文から受ける感じを含めて鑑賞した形だったので、研究論文という印象を与えたのだろう。『新樹』五号には、3 年の時のホームルーム担任で英語も習った坂井先生の勧めで「ヘンリィ・ライクロフトの手記」として、同題名の英文学作品の部分和訳と感想を書いた。同時に、前年夏休みの国語の宿題として提出した創作「夏空に輝く星」を載せるようにと、宿題を出された桑山先生に勧められ、一年余り前の稚拙なものを今更と思いながらも、「よい記念になるよ」とも言われて承諾した。同期生達の関心は、ヒロインのモデルが誰かに注がれたようだった。
追加の情報からは全くの文系人間と思われそうだが、実は私は高峰賞(「転載時の注」参照)を受賞し、京大理学部へ進学した。進学先の決め手となったのは、日本最初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹博士の下で素粒子論物理学を学び、博士と同様な成果を挙げたいという大志を抱いたことだ。高峰賞を貰った後、親友たちから「次はノーベル賞!」と言われもした。しかし、大学 4 年で専攻を決める際、諸事情を勘案し、素粒子論でなく、実験原子核物理学を選んだ。修士課程修了後、専攻分野の恩師・木村毅一博士が作った大阪府立放射線中央研究所に就職し、電子の後方散乱の実験で理学博士を取得、1990 年、同研究所が大阪府立大(現・大阪公立大)に統合された折に、私の職名は総括研究員から教授に変わった。1999 年に名誉教授の称号を得て定年退職し、以後は自分のウェブサイトに研究所名をつけて、ささやかな活動を続けている。
抱いた大志はそのままの形では実現しなかったが、50 年前後を経てなおよく引用されている論文をいくつか発表したという、まずまずの研究生活が出来、悔いることは全くない。また、湯川博士を尊敬し続けたお陰で、2007 年の同博士生誕百年に向けて大阪科学館で活動した「湯川秀樹を研究する市民の会」のアドバイザーの一人として、物理好きの一般市民の方々と共に博士のノーベル賞論文を学ぶ機会を持ち、2010 年に姫路在住京大同窓生の会で「湯川の仕事に対する中国古典の影響」という講演をしたなどの思い出も出来た。金商高在校生や若い同窓生の方々にも、大いに大志を抱いて貰いたい。それがよい人生につながるだろうから。
転載時の注:高峰賞は、金沢が生んだ偉大な科学者・国際人である高峰譲吉博士の功績を顕彰し、併せて科学教育の振興を図ることを目的として 1945 年春に設立された「高峰譲吉博士顕彰会」が行っている事業の一つ。第 1 回高峰賞授与は 1951 年度に行われ、当時は石川県内の中学・高校生から、それぞれ理科・化学の優秀な生徒各 10 名(正賞・副賞各 5 名)が選ばれていた。1971 年度の第 21 回から、個人賞に加え学校賞が制定され、代わりに高校生は対象から外された。(金沢市のウェブサイトを参考にした。)