2014年10月7日火曜日

J・M 君へ:KJ 君の大恋愛 (To J. M: KJ's Passionate Love Affair)

[The main text of this post is in Japanese only.]


バラ。2014 年 9 月 22 日、堺市・中の池公園で撮影。
Rose; taken in Nakanoike Park, Sakai on September 22, 2014.

2014 年 9 月 28 日

M 君

 昨日の昼食時、先にも書きました、近年恒例の R・M 君らとの菫台高校ミニ同期会があり、KJ 君を含めて 5 人が集まりました。会場は、これも恒例になった堂島の「魚匠・銀平」という店。そこからほど近いセルフサービスのコーヒー店で二次会をしている時、テレビに御岳山噴火のニュースが映りました。御岳山は百名山の一つで、妻も 2 年前に登っています。今日午後 2 時現在では、登山客らの心肺停止が 30 数人にもなったそうですね。

 KJ 君と私は集合場所へ行く前に先に落ち合いました。彼は、奥さん(M 子さん)が要介護 1 の認定を受けることになったことを話し、「私の口からいうのも何だが、頭のよい人だったのに、昔のことは覚えていても、少し前に話したことも覚えていなくて…」といっていました。彼と M 子さんの大恋愛のことは、貴君に伝たことがあったでしょうか。婚約時代の彼らに私が初めて会ったのは、私が修士課程 2 年の夏休み前のことでした。帰省後、MS 君に M 子さんの印象を話したところ、「君自身のことをいっているようだ」といわれました。字が綺麗で静かな話し方をするなどなどの美点を述べたためだったでしょう。

 [中略]

 私は 10 月にはいくつもの予定が入りましたので、貴君とともに KJ 君に会う機会は 11 月にでも持てれば嬉しいと思っています。(昨日 KJ 君に、貴君とメールでやり取りした話の一部を伝えました。)

 T・T


2014 年 10 月 1 日

M 君

 KJ 君の大恋愛については、私が母へ送った手紙に、彼自身の手紙を引用しながら詳しく報告しています。それらの私の手紙を、最初に使っていたブログサイト『エコー!』で記事にしたのですが、そのプロバイダーのシステムが事故を起こし、ブログは消滅しました。幸い、各記事の控えはパソコン上においてあったので、一部、目下使っているブログサイトへ過去の日付けで再現しました。しかし、母への手紙を掲載した 2006 年頃の記事は、まだ再現出来ていません。そこで、パソコン上の控えから、KJ 君の大恋愛関係の部分を抜き出して集めることによって、貴君に伝えることにします(KJ 君に無断で悪いですが、50 年以上も昔のことですから、事後にでも快諾を貰えることと思います)。

 文中、「MT 君」とあるのは、貴君のことです。貴君に私の下宿へ遊びに来て貰った折に、KJ 君がもう婚約したと話したようです。貴君のご来訪は主題には直接関係ありませんが、KJ 君の婚約時期の間接的証拠として、以下の引用に含めます。また、最後の引用は、私の小説「夏空に輝く星」に対する M 子さんの感想が中心の話ですが、そこには KJ 君と M 子さんの親密さや彼女の頭のよさが現れていると思い、含めるものです。その中に出て来る「SN 君」とは、紫中 1 年と菫台高校で KJ 君や私と一緒だった友人(中学は 2 年から野田中)のことです。

 婚約時代の KJ 君と M 子さんに私が初めて会った、修士課程 2 年の夏休み帰省前頃の記録がありませんが、それまでに KJ 君が決心し、私も意見を聞かれて賛成した通り、M 子さんは最初の婚約者との約束を破棄して、KJ 君と婚約したのです。1960 年の春休み早々に彼らは結婚式を挙げ、私も披露宴に招かれて出席しました。以下、母への手紙からの抜粋です。

×     ×     ×

 KJ 君から最近 2 回も封書での便りがありました。某女子大を昨年出て彼の学校へ就職してきた人が、「実にすばらしい」人で、「早速お近づきになっ」て、一緒に帰ったり、「お茶を飲みに行っ」たりしているそうです。しかし、「この先生にはちゃんと婚約者があっ」て、「私はみのらぬ恋ゆえ実に実に悲しいです」と。彼女の婚約者は(…略…)。「雨がまるで私の心を読み取ったかのように寂しく降っています…。近いうちにぜひ来たまえ。テレビもあることだから」とも。
(1959 年 5 月 21 日——修士課程 2 年生のとき——)

 最近の KJ 君の手紙から。
 「きょうは少々冷静に考えて下さい。〈冷静にならなければならないのは彼の方です。〉
 「私のために…ここまで書けば分かると思いますが…実は某女子大出身の同僚の先生・M. I さんとのことなのです。(…中略…)。4月以来、ほとんどといっていいくらい毎日一緒に帰ります。たとえば、火曜日は(…中略…)。土曜日、まず、一緒に元町、三の宮へ行き、ドンクに入り、それから須磨浦へ行った。そして、ステレオコンサートを聞き、また三の宮へ出た。非常に疲れて、家まで送るのが辛かったので、タクシーに乗って貰うために、お金を彼女に渡したが、彼女はそれを拒み、『そんなんだったら、家まで送って』と私の手を強く握りしめていた。それでは送ろうとしたとき、同僚の先生にその熱い場面を見られた。また、生徒たちも私たちのことはよく知っている…。
 「(…中略…)。いろいろと話し合った。なぜこうも気が合うのか? もしも私が彼女にとって価値のない男性であれば、彼女は婚約している身だから、こうはならなかっただろう。しかし、彼女も迷っている。私の心は決まっている。
 「このように全く気の合う女性は初めてなのだ。私は好きで好きでたまらない。どうしても彼女を自分のものにしたいのです。(…中略…)。ともあれ、君の意見を聞かせてくれ給え。」
 すぐに返事を送りましたが、母さんならば、どんな意見を述べるでしょうか。
(1959 年 6 月 x 日)

 母さんの KJ 君に対する感想は、ぼくのと大体同じでした。KJ 君はその後何ともいって来ませんが、某女子大出身の先生とはどうなったのやら。
(1959 年 6 月 22 日)

 24 日の秋分の日には、前日に会社に電話して、MT 君に遊びに来て貰いました。晴天ならば、一緒にどこかへ行くつもりで、午前 10 時過ぎに下宿へ来て貰う約束をしたのですが、あいにく雨でした。それでも、昼食を挟んで前後 4 時間余り、いろいろ楽しく話し合いました。
 湯川研究室の修士課程を今春終えた MR さんという人が彼の会社へ就職してきたそうです。MR さんはゆっくりと話す人で、「ぼくの、ような、つぶしの、きかない、にんげんが、こういう、ところへ、きても、なにも、することが、ないね」などといっているとか。MT 君自身は経理関係の仕事をしているそうです。ぼくも、夏休みの旅行の話、実験の珍談、KJ 君のニュース等々を話し、話題はつきませんでした。MT 君は「奥さんのある自分というものが、まだピンと来ない」といっていました。
(1959 年 9 月末頃)

 先日、KJ 君から手紙が来て、九州へ修学旅行に行って来たとのことでした。M 子さんが彼の本箱から菫台高校の雑誌『新樹』を見つけ出して、ぼくの小説を読み、彼らの交換日記帳にその感想を書いていたと、学会の帰途神戸へ寄ったとき彼が話してくれたので、彼に後でその内容を知らせてくれるように頼んでおきました。それについても、次のように書いてきました。
 「『文全体として、表現や物の形容にしつこさがあり、何となくゴツゴツした生硬さが感じられますが、内容の進展に頭のよさがうかがわれます。また、全体から受ける感じは、適確さそのものですね。登場人物中のあなたはすぐ分かりました[KJ 君が作中のどの人物のモデルになっているかということ]。SN さんも。[夏休み中に SN 君が KJ 君のところへ来て、M 子さんも一緒に会ったらしい。](…中略…)。よいお友だちに恵まれた高校生活を過ごされたあなたは大変幸せだと思います。』彼女は以上のように述べています。」
 ぼくは以下の感想を送りました。
 「M 子さんのご感想を知らせてくれてありがとう。(…中略…)。文章の生硬さと形容の執拗な点をまず批判しておられることは、この評者の感受性の鋭さをうかがわせるものである、と私からご批評に対する批評を呈したい。ところで、君が写し送ってくれた文章の後半は、私の作品そのものに対する直接の批評ではない。その文章が述べられた場所にふさわしく、それは、あの作品の登場人物の一人のモデルとして、あの中に呼吸している過去の君を、あの中でやさしくまさぐってみたことに関する彼女の感想である。そこまでわざわざ写してくれて、ご馳走様!」
(1959 年 11 月 16 日)

×     ×     ×

 KJ 君の件は以上です。

 きょうから朝日紙で漱石の『三四郎』の連載が始まりましたが、私はそれをよそ目に、『門』を読んでいます。その理由や、他の書きたいことについては、また日を改めて。

 T・T

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