近藤ようこ・漫画、夏目漱石・原作『夢十夜』。
Ten Nights' Dreams comicized by Kondo Yoko, originally written by Natsume Soseki.
岩波書店の広告誌『図書』2月号に、夏目房之介と近藤ようこの対談が載っている。近藤が漱石の「夢十夜」をもとにした漫画『夢十夜』を岩波書店から出版した機会に、「多様な読みの可能性へ」と題して語り合っているのだ。この対談を読むと、《 確かに「夢十夜」は多様な読みを可能にする作品だ。私の読みは彼ら二人の読みとは異なるぞ 》と思われて来た。その相違を詳しく書くには、近藤の漫画も見ておく必要があろうかと、早速購入した。広告誌は、その役割をよく果たしたのである。
漫画が届くとすぐに、「夢十夜」の原作と漫画を併読したが、私には、絵のない原作で読む方が味わい深いように思われた。これは、近藤の漫画がよくないということではなく、イメージが押し付けられる形になる漫画と、いやでも想像がふくらむ文学との相違であろう。また、対談記事の二人と読みが大きく異なるのは、第一夜の話だけのようにも思われた。そこで、ここでは第一夜だけを取り上げることにする。
房之介は対談において、「漱石のあらゆる作品の中で、第一夜ほどロマンティックなものはないですよ。[...]第一夜は人気がある」と語っている。これは、いささか誇張のようにも思われるが、さほど異論はない。
近藤が最初の場面を病院の一室として描いたのに対し、房之介は「畳の部屋に女が寝ていて、縁から男が庭に出るというイメージを持っていた」と述べる。すると近藤は、男が庭へ出てからの場面から「すごく西洋的な話」だと思ったといい、房之介は「言われてみればその通り」と答える。しかし、第一夜冒頭の原文には、「腕組をして枕元に坐(すわ)っている」とあり、病院のベッドから少し離れた横の位置で男が椅子にかけているという漫画の場面は、私にはどうしても思い浮かばない。さらに、女が死ぬと、男は「それから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘っ」ている。病院ではそうはいかないだろう(漫画では、「それから庭へ下りて」の文は省略され、男は病院の広い庭らしいところへ足を運んでいる)。庭へ出てからの小道具が西洋的であるとはいえ、他の九夜との調和からいっても、最初の場面には畳の部屋がふさわしく、第一夜全体として和風の話だと思う。
次に私が二人の読みと異なる読みをするところは、女の目についての描写である。房之介は近藤の漫画について、「印象に残ったのは死にゆく女の瞳です。真っ黒にしたのはなぜ?」と問いかける。近藤は「流し読みをしている時には気づかなくって、いざ絵にしようと思ったら一面に黒目と書いてあって」といい、房之介は「僕も前から気になっていたんです、白目がないという表現が。黒目がちということの文学的表現なのかどうかがわからない」と答えている。しかし原作では、「一面に黒目」や「白目がない」という通りの言葉はなく、「大きな潤(うるおい)のある眼で、長い睫(まつげ)に包まれた中は、ただ一面に真黒であった」とある。私は、房之介が匂わせている通り、「ただ一面に真黒」は美人を表す「黒目がち」の誇張的な表現と取りたい。
原作では、「その真黒な眸(ひとみ)の奥に、自分の姿が鮮(あざやか)に浮かんでいる」と続く。『大辞泉』を基にしたインターネットの『goo 辞書』によれば、「ひとみ」とは「目の虹彩、あるいは虹彩と瞳孔 (どうこう) のこと。黒目」である。周囲に白目が全くないという設定であれば、白目の存在を意識したような「真黒な眸」という表現は出て来なくて、「真黒な眼」とでもなるだろう(漫画では、白目の部分も黒くしてあるが、完全な「一面に真黒」ではなく、男の姿などが映っている様子を白抜きで表す工夫がなされている)。
虹彩と瞳孔が出て来たついでにいえば、死ぬと瞳孔が開くといわれる。詳しくいえば、瞳孔の周囲でカメラのシャッターのような役をしている虹彩(多くの日本人では褐色の部分)が形作る穴である瞳孔が広がり、そこから覗く水晶体の露出部分が広くなるのである。漱石は「ただ一面に真黒」によって、女の死が極めて近いことをも表現したのかもしれない。私のこの読みは、科学的過ぎるだろうか。だが、物理学者・寺田寅彦を門下生とした漱石は、その影響でしばしば科学力を発揮している。
房之介は上に引用した「黒目がちということの文学的表現なのかどうかがわからない」に続いて、「一番変なのは、[男が『私の顔が見えるかい』と聞いたのに対し]女が『[見えるかいって、そら、]そこに、写ってるじゃありませんか』と言うところです」と述べている。近藤はそれに対して、「自分の目に映っているのに……」と応じる。確かに像が結ばれているのは女の目の中である。しかし、その像を作る光線の元をたどれば、「そこ」にいる男に行き着く。女の言葉を「そこの、あなたからの光線が私の目に入って像を結んでますから、あなたが見えてるとおわかりになるじゃありませんか」を簡略化した文学的表現と取れば、科学性さえ感じられる。ただし、男が女の水晶体上に見得るのは自分の虚像であって、女が網膜上の実像をその奥の神経細胞で認識できているかどうかまではわからない。女のいう「そこに、写ってるじゃありませんか」を筋の通った言葉と取るのは、やはり無理なようだ。謎や矛盾の多いのが夢というものであろう。
["続・漱石「夢十夜」の読み" へ]
漫画が届くとすぐに、「夢十夜」の原作と漫画を併読したが、私には、絵のない原作で読む方が味わい深いように思われた。これは、近藤の漫画がよくないということではなく、イメージが押し付けられる形になる漫画と、いやでも想像がふくらむ文学との相違であろう。また、対談記事の二人と読みが大きく異なるのは、第一夜の話だけのようにも思われた。そこで、ここでは第一夜だけを取り上げることにする。
房之介は対談において、「漱石のあらゆる作品の中で、第一夜ほどロマンティックなものはないですよ。[...]第一夜は人気がある」と語っている。これは、いささか誇張のようにも思われるが、さほど異論はない。
近藤が最初の場面を病院の一室として描いたのに対し、房之介は「畳の部屋に女が寝ていて、縁から男が庭に出るというイメージを持っていた」と述べる。すると近藤は、男が庭へ出てからの場面から「すごく西洋的な話」だと思ったといい、房之介は「言われてみればその通り」と答える。しかし、第一夜冒頭の原文には、「腕組をして枕元に坐(すわ)っている」とあり、病院のベッドから少し離れた横の位置で男が椅子にかけているという漫画の場面は、私にはどうしても思い浮かばない。さらに、女が死ぬと、男は「それから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘っ」ている。病院ではそうはいかないだろう(漫画では、「それから庭へ下りて」の文は省略され、男は病院の広い庭らしいところへ足を運んでいる)。庭へ出てからの小道具が西洋的であるとはいえ、他の九夜との調和からいっても、最初の場面には畳の部屋がふさわしく、第一夜全体として和風の話だと思う。
次に私が二人の読みと異なる読みをするところは、女の目についての描写である。房之介は近藤の漫画について、「印象に残ったのは死にゆく女の瞳です。真っ黒にしたのはなぜ?」と問いかける。近藤は「流し読みをしている時には気づかなくって、いざ絵にしようと思ったら一面に黒目と書いてあって」といい、房之介は「僕も前から気になっていたんです、白目がないという表現が。黒目がちということの文学的表現なのかどうかがわからない」と答えている。しかし原作では、「一面に黒目」や「白目がない」という通りの言葉はなく、「大きな潤(うるおい)のある眼で、長い睫(まつげ)に包まれた中は、ただ一面に真黒であった」とある。私は、房之介が匂わせている通り、「ただ一面に真黒」は美人を表す「黒目がち」の誇張的な表現と取りたい。
原作では、「その真黒な眸(ひとみ)の奥に、自分の姿が鮮(あざやか)に浮かんでいる」と続く。『大辞泉』を基にしたインターネットの『goo 辞書』によれば、「ひとみ」とは「目の虹彩、あるいは虹彩と瞳孔 (どうこう) のこと。黒目」である。周囲に白目が全くないという設定であれば、白目の存在を意識したような「真黒な眸」という表現は出て来なくて、「真黒な眼」とでもなるだろう(漫画では、白目の部分も黒くしてあるが、完全な「一面に真黒」ではなく、男の姿などが映っている様子を白抜きで表す工夫がなされている)。
虹彩と瞳孔が出て来たついでにいえば、死ぬと瞳孔が開くといわれる。詳しくいえば、瞳孔の周囲でカメラのシャッターのような役をしている虹彩(多くの日本人では褐色の部分)が形作る穴である瞳孔が広がり、そこから覗く水晶体の露出部分が広くなるのである。漱石は「ただ一面に真黒」によって、女の死が極めて近いことをも表現したのかもしれない。私のこの読みは、科学的過ぎるだろうか。だが、物理学者・寺田寅彦を門下生とした漱石は、その影響でしばしば科学力を発揮している。
房之介は上に引用した「黒目がちということの文学的表現なのかどうかがわからない」に続いて、「一番変なのは、[男が『私の顔が見えるかい』と聞いたのに対し]女が『[見えるかいって、そら、]そこに、写ってるじゃありませんか』と言うところです」と述べている。近藤はそれに対して、「自分の目に映っているのに……」と応じる。確かに像が結ばれているのは女の目の中である。しかし、その像を作る光線の元をたどれば、「そこ」にいる男に行き着く。女の言葉を「そこの、あなたからの光線が私の目に入って像を結んでますから、あなたが見えてるとおわかりになるじゃありませんか」を簡略化した文学的表現と取れば、科学性さえ感じられる。ただし、男が女の水晶体上に見得るのは自分の虚像であって、女が網膜上の実像をその奥の神経細胞で認識できているかどうかまではわからない。女のいう「そこに、写ってるじゃありませんか」を筋の通った言葉と取るのは、やはり無理なようだ。謎や矛盾の多いのが夢というものであろう。
["続・漱石「夢十夜」の読み" へ]
0 件のコメント:
コメントを投稿