2017年7月18日火曜日

高校時代の日記から (From the Diary of Senior High School Days)

[The main text of this post is in Japanese only.]


高校 2 年生の時、物理のレッスンクラス一同で変電所を見学した際、山村先生が撮影。中央の列左から 3 人目が筆者。前列右端は変電所の方。
Lesson class of physics, the second year at Kanazawa Kindai Senior High School; taken by the teacher, Mr. Yamamura, on the occasion of visiting the transformer substation near the school, 1952. The third boy from left in the middle row is the author.

 私が卒業した金沢菫台高校は、それ以前には金沢商業という名の旧制中等学校だった。そして、菫台高校として 10 年間続いたのち、金沢商業高校に変わった。そこで、同窓会は「金商菫台同窓会」と名付けられている。その関西支部は約 10 年前に解散の危機に陥ったが、再建して、今年、再建 10 周年を迎えた。これを機会に、同支部では『金商菫台同窓会関西支部再建 10 周年記念誌(2007〜2017)』という冊子をさる 6 月の総会に合わせて発行した。表紙には関西 6 都府県の各名所のカラー写真を載せた、B5 版・本文 46 ページの立派な冊子である。作成に当たって、「母校・友そして故郷 懐かしき想い出」という範疇での寄稿が、会費を払って登録している全会員に求められ、10 余名の有志が寄稿した。そこに上掲の写真とともに掲載された私の文を以下に引用する。



 高校時代の思い出を書こうとしたが、卒業から 63 年も経ったいま、何らかの思い出を活写することは難しいと気づいた。そこで、高校時代の日記から、2 年生の初めの数日分を、若干手直しして紹介することにする。

 1952 年 4 月 14 日(月)雨
 20 名中 18 名が男生徒である物理の時間には、山村先生から 1 年間に 10 回テストをするという予告や、ギリシャ文字の説明があった。宮本先生の世界史では、自らに相づちを打つようにしばしば発せられる「えゝ」や、歴史という字の話(史という字を、交差した二本の足に巻物が支えられているように黒板に書かれた)を聞いた。国語甲では、桑山先生が昨年度より荘重な雰囲気だった。三野・山上両君他、集まる面々を見ると、これは最も優秀なレッスン・クラスといえそうだ。英語も昨年度に続き、正村先生に習うことになる。この時間、物理や国語甲とは逆に女生徒が多数で、男生徒は隅に押しやられている。

 1952 年 4 月 17 日(木)晴れ
 秋山校長の講義は分かりやすかったが、最初の課の最初の一文で 1 時間の大部分をかけて教えられた文法事項は、よく知っていることばかりだった。体操は、使い込まれたバットのような印象を受ける稲垣先生に習うことになった。解析 II の時間、三野君との間で先日来問題になっていた整数の 4 乗和を求める式に違いが生じた原因を調べる内職と、「あるいは」を「あるひは」と発音される分校先生の講義に耳を貸すのとを、半々にした。
 選挙規則第四条違反があったため、昨日、選挙管理員の再選挙があったが、またも、ぼくが選ばれてしまい、きょうはその役目をした。言葉遣いと態度がわれながら不愉快なものになったが、両隣のホームルームより数分早く済ませるという手際でやってのけた。

 1952 年 4 月 21 日(月)晴れ
 放課後、今年度初の新聞クラブの会合がある。新入部した 6 名の 1 年生は、同じような背格好で、同じようにきちんとした黒い学生服を着ている。全員、兼六中出身だそうだ。——たいへんなことだ。どうしても、しっかりやらなければならない。[注=私が編集長に選ばれたのだ。翌年度、私たち 3 年になったメンバーの一同が別々のクラブへ移ったため、人数不足でクラブ不成立となり、生徒会紙発行には新聞委員会が作られた。したがって、私はクラブ時代最後の編集長だった。]

 1952 年 4 月 22 日(火)晴れ
 漢文は、あだ名がエノケンの瀬川先生だ。「村田春海、和文ヲ結構スルニ、法ヲ漢文ニ取ル」を読まされた村田君が、自分と同姓の国学者名を「そんでんしゅんかい」と読んだのには笑わされた。

 [日記に書いた時点からすれば時効でもあろうが、登場した方がたに失礼があったとすれば、お許し願いたい。]

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