秋になお咲き続けるわが庭のカンナ。2018 年 10 月 28 日撮影。
Canna lily which still keeps blooming in autumn; taken in our yard on October 28, 2018.
戦後間もないプロ野球 2
私が自分はいつから阪急ブレーブス・ファンだったのだろうと考えていた折しも、かつて阪急でも活躍した古川清蔵氏が 96 歳で亡くなったとのニュースを知った。訃報記事(こちらなど)には、彼が戦中・戦後のプロ野球で活躍し、2 度の本塁打王(1942、43 年)に輝いた旨が述べられている。彼が本塁打王になったのは、中日ドラゴンズの前身の名古屋軍に所属していた時代で、その本塁打数は 8 本と 4 本だった(ウィキペディア、「古川清蔵」参照)。近年の本塁打王の本数に比べれば、いたって少ないが、試合数が極端に少なかったのではない。これらの年の各チームの試合数は 105 と 84 だった(ウィキペディア、「プロ野球 1 リーグ時代の優勝チーム・試合方式一覧」)。古川選手はこのうち、101、80 試合に出場している。
上記の「プロ野球 1 リーグ時代の...」には、「1945 年は太平洋戦争戦局悪化のため中止」との記述がある。後述の大連での「実満戦」やその試合の両チームが活躍した都市対抗野球は、もっと早く 1943 年から中断している。このことから私たちは、いまのようにいろいろなスポーツが十分に楽しめるのは、平和だからこそという事実を、しっかりとかみしめなければならない。
私がプロ野球のことを知ったのは、戦後の 1947 年 2 月に大連から引き揚げて来た後である。この年から約 2 年間、親戚の家の二階に間借りをして暮らしたが(間借り暮らし自体は、その後も移転しながら 10 年ほど続いた)、階下から聞こえるラジオのスポーツ・ニュースで、「ホームラン、大下、○号」というアナウンスをよく耳にした。大連の小学校の級友に尾下君というのがいたので、初めのうち、彼と同名のホームラン打者がいるのかと思った。私が阪急ファンになったのは、この年のうちのことか、翌年ぐらいのことかが、記憶でははっきりしないが、阪急ファンになった理由は、大連でその名を覚えた浜崎真二が阪急の監督になったことを知ったからだった。
そこで、ウィキペディアの「浜崎真二」のページを見ると、彼は大連から引き揚げた 1947 年に、「45 歳で選手兼総監督としてプロ野球に入団」とあった(「これは今でも日本プロ野球選手史上、入団最年長記録」とも記されている)。私はこの入団を新聞で知り、即座に阪急ファンになることを決めたのだったと思う。そうだとすれば、私が小学校 6 年生の時だったということになる。
大連には都市対抗で最強だった「大連満洲倶楽部」(略称=満倶)と「大連実業団」(略称=実業)の 2 チームがあり、「実満戦」は「満州の早慶戦」と呼ばれていたという。この実満戦は 1942 年を最後にいったん終了したが、戦後の 1946 年 11 月に復活したそうである(産経ニュース『満州文化物語(9)』による。私は、復活自体は知っていたが、その年月まで、はっきりとは知らなかった)。大連で近所にいた級友の W 君は中断間近の実満戦をよく見に行っていたのか、満倶や実業の選手たちについて詳しかった。1946 年秋に大連市の小学校野球大会が行われ、わが嶺前小学校は準決勝戦まで進んだ。その試合は満倶の球場で開催され、私は W 君と一緒に応援に行った。試合が始まると、彼は球審を指して、「あの人は満倶の名ピッチャー、浜崎さんだ」と教えてくれた。この一事が、私が阪急ファンになる原点となったのである。
ちなみに、小学校の準決勝戦は延長 12 回 0 対 0 の引き分けで再試合になり、わが校が 1 対 2 で惜敗した。その相手校が決勝戦には比較的楽勝して優勝した。わが校としては、いかにも残念な結果だった。
上記の実満戦の復活で思い出すのは、その頃、私と同じ家に住んでいた従姉が、「とくら」さんという勤め先の上司に連れられてその一試合の観戦に行ったことだ。従姉は帰宅後、あるバッターがホームランを打った時、「とくら」さんが「彼はよく打つだろう。名前が "とくら" なんだ」と自慢げにいった、と話していた。その強打者、戸倉勝城も 1951 年から 1957 年まで阪急で活躍し、1959 年から 4 年間、同球団の監督も務めた(ウィキペディア、「戸倉勝城」)。(つづく)
注:この記事の後半の内容の一部は、先に「野球応援の思い出」の題で、大連嶺前小学校同窓会誌に書き、「大連嶺前小での野球応援の思い出」として私のウェブページに転載してある。
(2018 年 10 月 31 日、一部修正。)
私が自分はいつから阪急ブレーブス・ファンだったのだろうと考えていた折しも、かつて阪急でも活躍した古川清蔵氏が 96 歳で亡くなったとのニュースを知った。訃報記事(こちらなど)には、彼が戦中・戦後のプロ野球で活躍し、2 度の本塁打王(1942、43 年)に輝いた旨が述べられている。彼が本塁打王になったのは、中日ドラゴンズの前身の名古屋軍に所属していた時代で、その本塁打数は 8 本と 4 本だった(ウィキペディア、「古川清蔵」参照)。近年の本塁打王の本数に比べれば、いたって少ないが、試合数が極端に少なかったのではない。これらの年の各チームの試合数は 105 と 84 だった(ウィキペディア、「プロ野球 1 リーグ時代の優勝チーム・試合方式一覧」)。古川選手はこのうち、101、80 試合に出場している。
上記の「プロ野球 1 リーグ時代の...」には、「1945 年は太平洋戦争戦局悪化のため中止」との記述がある。後述の大連での「実満戦」やその試合の両チームが活躍した都市対抗野球は、もっと早く 1943 年から中断している。このことから私たちは、いまのようにいろいろなスポーツが十分に楽しめるのは、平和だからこそという事実を、しっかりとかみしめなければならない。
私がプロ野球のことを知ったのは、戦後の 1947 年 2 月に大連から引き揚げて来た後である。この年から約 2 年間、親戚の家の二階に間借りをして暮らしたが(間借り暮らし自体は、その後も移転しながら 10 年ほど続いた)、階下から聞こえるラジオのスポーツ・ニュースで、「ホームラン、大下、○号」というアナウンスをよく耳にした。大連の小学校の級友に尾下君というのがいたので、初めのうち、彼と同名のホームラン打者がいるのかと思った。私が阪急ファンになったのは、この年のうちのことか、翌年ぐらいのことかが、記憶でははっきりしないが、阪急ファンになった理由は、大連でその名を覚えた浜崎真二が阪急の監督になったことを知ったからだった。
そこで、ウィキペディアの「浜崎真二」のページを見ると、彼は大連から引き揚げた 1947 年に、「45 歳で選手兼総監督としてプロ野球に入団」とあった(「これは今でも日本プロ野球選手史上、入団最年長記録」とも記されている)。私はこの入団を新聞で知り、即座に阪急ファンになることを決めたのだったと思う。そうだとすれば、私が小学校 6 年生の時だったということになる。
大連には都市対抗で最強だった「大連満洲倶楽部」(略称=満倶)と「大連実業団」(略称=実業)の 2 チームがあり、「実満戦」は「満州の早慶戦」と呼ばれていたという。この実満戦は 1942 年を最後にいったん終了したが、戦後の 1946 年 11 月に復活したそうである(産経ニュース『満州文化物語(9)』による。私は、復活自体は知っていたが、その年月まで、はっきりとは知らなかった)。大連で近所にいた級友の W 君は中断間近の実満戦をよく見に行っていたのか、満倶や実業の選手たちについて詳しかった。1946 年秋に大連市の小学校野球大会が行われ、わが嶺前小学校は準決勝戦まで進んだ。その試合は満倶の球場で開催され、私は W 君と一緒に応援に行った。試合が始まると、彼は球審を指して、「あの人は満倶の名ピッチャー、浜崎さんだ」と教えてくれた。この一事が、私が阪急ファンになる原点となったのである。
ちなみに、小学校の準決勝戦は延長 12 回 0 対 0 の引き分けで再試合になり、わが校が 1 対 2 で惜敗した。その相手校が決勝戦には比較的楽勝して優勝した。わが校としては、いかにも残念な結果だった。
上記の実満戦の復活で思い出すのは、その頃、私と同じ家に住んでいた従姉が、「とくら」さんという勤め先の上司に連れられてその一試合の観戦に行ったことだ。従姉は帰宅後、あるバッターがホームランを打った時、「とくら」さんが「彼はよく打つだろう。名前が "とくら" なんだ」と自慢げにいった、と話していた。その強打者、戸倉勝城も 1951 年から 1957 年まで阪急で活躍し、1959 年から 4 年間、同球団の監督も務めた(ウィキペディア、「戸倉勝城」)。(つづく)
注:この記事の後半の内容の一部は、先に「野球応援の思い出」の題で、大連嶺前小学校同窓会誌に書き、「大連嶺前小での野球応援の思い出」として私のウェブページに転載してある。
(2018 年 10 月 31 日、一部修正。)
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