吉村浩一著『鏡の中の左利き』。
Left-Handers in Mirrors: The Mirror-Reversal Puzzle written by H. Yoshimura.
NHK 総合テレビで土曜日午前 8 時 15 分から 45 分間放映されている番組『チコちゃんに叱られる!』が、2018 年 10 月 20 日の放映で、チコちゃんの質問の一つに、人類が悩み続けてきた難問「鏡の謎」を取り上げた。「鏡は左右を逆にするが、上下を逆にしないのはなぜか」という疑問である。答えは「分からない」だった。解説に登場する学者あるいは研究者は誰かと思ったら、この問題について私と共著論文を書いたことのある法政大学の心理学教授・吉村浩一氏で、分からない理由として心理も絡む複雑さを説明した。彼や私は、実はこの問題はほとんど解決できたと思っているのだが、国内に別の論を唱える学者がいることなどに配慮して、「まだ分かっていない」という解説をしたのかと思う。
この問題に興味を持たれた方には、先のブログ記事「『鏡映反転』に一言」中でも紹介したが、吉村浩一著『鏡の中の左利き』(2004 年、ナカニシヤ出版、税抜き 2200 円)の一読をお勧めする。巻末に「一物理屋のコメント」と題して、不肖私も解説を記している(その解説はこちらでもご覧になれる)。なお、本ブログ・サイトのラベル "mirror puzzle" をクリックすると、本記事と「鏡の謎」についての他の 8 編の記事をまとめてご覧になれる。
さらに、学問的なレベルで関心のある方は、『認知科学』Vol. 15, No. 3 (2008) pp. 496–558 掲載の『小特集——鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見える」のは何故か?』の各論文を個別にダウンロードしてご覧になることが出来る。各論文には英文で発表された原論文なども引用されている。その中の「第2部:多幡説 鏡像の左右逆転・非逆転:物理的局面からの解明」は、私が Tabata–Okuda 論文(同一専門誌に同時掲載された Corballis 論文と基本的に同じ説を述べている。両論文は当該専門誌の正規論文より短い形式のもので、「報文」と呼ぶ場合もある)とYoshimura–Tabata 論文 を基にして論じたものである。相異なる説としては、小亀説と高野説が展開されていて(小亀氏はその後故人となった)、各説について別の説の主張者たちからの批判が述べられ、それへの回答も付されている。読者の方々はどの説に軍配を挙げられるだろうか。
(2018 年 10 月 21 日一部加筆・修正)
後日の追記
吉村氏にメールを送って、このブログを読んで貰った。彼からの返信に、「研究室を訪れたチコちゃん担当ディレクターには、われわれの論文の考え方を最後まで説明しましたが、結局、固有座標系と共有座標系という考え方は理解して貰えなかったようです。今後は、解説にさらなる工夫が必要と、改めて思いました。しかし、定説がないという意味では、番組通りの流れでよかったとも思います。先生のブログでもそのように理解して頂いているようなので、安心しました」という旨のことが記されていた。
固有座標系は、鏡像では左右がいつも逆になるという見方に対応し、共有座標系は、「鏡は前後を逆にするだけ」という見方や、立っている自分の前の床に置いてある鏡に映った像について「上下が逆」とする見方(この場合でも左右が逆ともいえるのである)に対応している、というだけのことなのだが...。
吉村氏の著書の題名『鏡の中の左利き』は、右利きの人が利き手に関係のある何かをしている状態の鏡像を見れば、誰だって鏡像は左利きになっていると思うだろうことを意味している。これは、その鏡像を見ている自分の左右ではなく、鏡像自体の体で左右を判断しているからである。これが、鏡像に固有の座標系を使っているということ、つまり固有座標系の適用である。共有座標系の適用では、実物側と鏡像側に、同じ基準(座標系)を当てはめることになる。このように相異なる見方が存在することに気づかないで、「鏡像では左右が逆になる」「いや、鏡像では前後が逆になるだけである」といい合うのはナンセンスなのである。(2018 年 10 月 22 日)
この問題に興味を持たれた方には、先のブログ記事「『鏡映反転』に一言」中でも紹介したが、吉村浩一著『鏡の中の左利き』(2004 年、ナカニシヤ出版、税抜き 2200 円)の一読をお勧めする。巻末に「一物理屋のコメント」と題して、不肖私も解説を記している(その解説はこちらでもご覧になれる)。なお、本ブログ・サイトのラベル "mirror puzzle" をクリックすると、本記事と「鏡の謎」についての他の 8 編の記事をまとめてご覧になれる。
さらに、学問的なレベルで関心のある方は、『認知科学』Vol. 15, No. 3 (2008) pp. 496–558 掲載の『小特集——鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見える」のは何故か?』の各論文を個別にダウンロードしてご覧になることが出来る。各論文には英文で発表された原論文なども引用されている。その中の「第2部:多幡説 鏡像の左右逆転・非逆転:物理的局面からの解明」は、私が Tabata–Okuda 論文(同一専門誌に同時掲載された Corballis 論文と基本的に同じ説を述べている。両論文は当該専門誌の正規論文より短い形式のもので、「報文」と呼ぶ場合もある)とYoshimura–Tabata 論文 を基にして論じたものである。相異なる説としては、小亀説と高野説が展開されていて(小亀氏はその後故人となった)、各説について別の説の主張者たちからの批判が述べられ、それへの回答も付されている。読者の方々はどの説に軍配を挙げられるだろうか。
(2018 年 10 月 21 日一部加筆・修正)
後日の追記
吉村氏にメールを送って、このブログを読んで貰った。彼からの返信に、「研究室を訪れたチコちゃん担当ディレクターには、われわれの論文の考え方を最後まで説明しましたが、結局、固有座標系と共有座標系という考え方は理解して貰えなかったようです。今後は、解説にさらなる工夫が必要と、改めて思いました。しかし、定説がないという意味では、番組通りの流れでよかったとも思います。先生のブログでもそのように理解して頂いているようなので、安心しました」という旨のことが記されていた。
固有座標系は、鏡像では左右がいつも逆になるという見方に対応し、共有座標系は、「鏡は前後を逆にするだけ」という見方や、立っている自分の前の床に置いてある鏡に映った像について「上下が逆」とする見方(この場合でも左右が逆ともいえるのである)に対応している、というだけのことなのだが...。
吉村氏の著書の題名『鏡の中の左利き』は、右利きの人が利き手に関係のある何かをしている状態の鏡像を見れば、誰だって鏡像は左利きになっていると思うだろうことを意味している。これは、その鏡像を見ている自分の左右ではなく、鏡像自体の体で左右を判断しているからである。これが、鏡像に固有の座標系を使っているということ、つまり固有座標系の適用である。共有座標系の適用では、実物側と鏡像側に、同じ基準(座標系)を当てはめることになる。このように相異なる見方が存在することに気づかないで、「鏡像では左右が逆になる」「いや、鏡像では前後が逆になるだけである」といい合うのはナンセンスなのである。(2018 年 10 月 22 日)
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