2020年1月30日木曜日

2020 年 1 月の歌声参加 -2- (Participation in Singing Events in January 2020 -2-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


「五色浜の子守歌」の楽譜と「みんなで歌う音楽会」のチラシ。
Musical Score of "Goshikihama Lullaby" and Flyer for "Concert to Sing Together."

 2020 年 1 月 27 日、大阪府下は風が強い上に、小雨もしばしば降る寒い日だった。そのせいか、岸和田福祉会館(3 階講座室 1、約 20 名収容可)での「ねこじゃらし音楽事務所」による「みんなで歌う音楽会」(ピアノ・ソングリード=喜多陵介さん、ソングリード=原田富子さん)は、毎月 10 名を少し超える参加者があるところ、今回は 9 名に留まった。歌った曲を以下に記す(*印は私のリクェスト)。
  1. 早春賦
  2. スキー
  3. 歌のおくりもの(喜多さんの作詞作曲。この会場で毎回歌うオープニング・テーマ)
  4. 今日だけのハーモニー(同上)
  5. 寒い朝
  6. 北風小僧の寒太郎
  7. 白い想い出*
  8. 雨の物語
  9. ペチカ
  10. わたしの城下町*
  11. おめでとうの歌(喜多さんの作詞作曲。毎回、その月生まれの参加者の下の名を入れて歌う。その月生まれの人がいない場合には、参加者の親、子、孫の場合もある)
  • 10 分間の休憩(お茶、あるいはインスタント・コーヒーを飲んで寛ぐ。今回はお茶とチョコレート)
  1. はずんで行こうよ(原田さんによる手話の動作を見習いながら、手や腕を動かして歌い、リラックスする)
  2. 五色浜の子守歌(特別配布の楽譜によるもので、このリストの下に詳細説明を記す)
  3. 花〜すべての人の心に花を
  4. 涙そうそう
  5. 島人ぬ宝
  6. わかれ*
  7. ラストダンスは私に*
  8. ラ・ノヴィア*
  9. ロンドンデリー・エア*
  10. 赤いサフラン*
  11. 女ひとり
  12. 歌をありがとう(喜多さんの作詞作曲。毎回歌うエンディング・テーマ)
 「五色浜の子守歌」の採用は、私が先月のこの会で「江戸子守唄」をリクェストした用紙のコメント欄に、母が歌ってくれた子守歌で、いつか皆さんと一緒に歌えたら嬉しい、と書いたことに起因している。その後、私は五色浜の所在地・淡路島の淡路文化会館経由で、合唱グループ「五色サルビアエコー」が使っている楽譜を入手でき、そのコピーを喜多さんに渡しておいた(より詳細については、先の二つの記事「6 年ぶりに『五色浜の子守歌』」「『五色浜の子守歌』を守ってきた人たち」を参照されたい)。それを早速取り上げて貰うことになり、80 年余り前に母から聴いた子守歌を、歌声の会場で皆さんと一緒に歌えたのである。喜多さんの計らいに厚く感謝する次第である。私の当日のリクェスト 8 曲のうちの 7 曲も採用され、私にとって贅沢な一日となった。YouTube 掲載の「五色サルビア・エコー」による「五色浜の子守歌」(「雨」「里の秋」を含む)をここに引用しておく。


 この会場での他の方々のリクェストは比較的少なく、消化できなかったのは私の 1 曲の他にもう 1 曲のみだった。残り 3 曲となり、リクェストに当てられる時間があと 1 曲という時点で、喜多さんは 3 曲の題名をいって、参加者の希望を挙手で問うた。私は他の方のリクェスト「女ひとり」に手を挙げ、それが最多数で採用になった。

 終了後に後ろの席にいた女性から「歌がお上手ですね」と言われた。「長年、歌を歌わない人間でしたが、ごく最近になって、書斎で CD を聴きながら歌うようになりました」と答えると、「道理で」との返事があった。前半をも含めての返事ならば、「下手なところも大いに見受けられる」ということになりそうであり、それが事実でもあるのだが、女性の返事は後半についてのものと解釈したい。

 女性の褒め言葉がお世辞でなければ、私の音楽の成績に「優」でなく「良」しかつけなかった小・中学校の諸先生方も、天国で喜んでおられるだろうか。先生方にリベンジするために歌に励んだと思われるかもしれないが、私にはそういう気持ちはなく、高齢化後の楽しみの一つとして、また健康のために歌っているだけである。なお、書斎で歌っているといえば、狭い空間でのことのように聞こえるかもしれないが、私の書斎は 2 階にある 10 畳ほどの洋室で、思う存分に大きな声を出すことができる(といっても私は大声の持ち主ではないが)。——歌嫌いから歌好きに変わった契機については、別途記したい。

 追記:他の会場での録画によるものだが、「みんなで歌う音楽会」のオープニング・テーマの一つ「歌のおくりもの」と、手話付きの歌「はずんで行こうよ」(本記事の掲載当初、題名を誤記していたのを訂正した)が『ねこじゃらしうたチャンネル』に掲載されたので、ここに埋め込んでおく。動画の会場での手話と歌のリーダーは原田さん(芸名リチコさん)でなく、「ねこじゃらし音楽事務所」所属のもう一人の女性歌手、ピチコさん。(2020 年 2 月 2 日、16 日)





(完)

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2020年1月29日水曜日

2020 年 1 月の歌声参加 -1- (Participation in Singing Events in January 2020 -1-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『みんなで歌う うたのほん』。
Min-na de Utau Uta no Hon (Book of Songs for Everyone).

 ブログを通じての交流が最近始まった「まくらが歌謡楽団」への報告(先方のブログ記事のコメント欄へ記入)のために準備した文に修正を加えて、こちらの記事にもしておく。

 1 月 23 日(木)14 時〜16 時に大阪・心斎橋、アクロスビル7階の喫茶店アートクラブで開催された『歌声クラブ』(ピアノ・ソングリード=喜多陵介さん、ソングリード=小泉じゅん子さん)に行って来た。参加者は 15 名(うち男性 5 または 6 名)だった。歌った曲は全て、参加者が歌集(喜多陵介・編「みんなで歌う うたのほん」NPO 法人うたじぞう発行、2015 年、504 曲を収める)中からリクェストしたもので、今回は全 23 曲、曲目は以下の通りだった(*印は私のリクェスト)。
1. 夜明けのうた*
2. 愛燦燦
3. 心の窓に灯を
4. 切手のないおくりもの
5. 街の灯り
6. この広い野原いっぱい*
7. 希望のささやき
8. 故郷を離るる歌*
9. カチューシャ*
10. 蘇州夜曲
11. エーデルワイス(最初に英語歌詞で)
----- 10分間の休憩(希望者は 500 円払えば、追加の飲み物を注文でる)-----
12. 一杯のコーヒーから
13. 津軽のふるさと
14. さざんかの宿
15. 山の煙
16. 踊子
17. 花は咲く
18. 時代
19. 明日があるさ
20. 見上げてごらん夜の星を
21. 春一番
22. 小さな喫茶店
23. 花の首飾り
 消化し切れなかったリクェストもかなりあると、喜多さんが最後に例を挙げて述べた。私のリクェストでも 2 曲が、残ったうちに入った。リクェスト用紙には、その歌についての思い出・感想などを記入するコメント欄があり、私は全てのリクェストにコメントを書き込んだので、多く出した割には採用率が高かったのかもしれない。リクェスト者の氏名あるいはニックネームを書く欄もあるが、この催しではそこは発表されないので、私は書き込んでいない。「故郷を離るる歌」へのコメントは最も長くなったが、先のブログ記事「『故郷を離るる歌』にまつわる思い出」中に引用した短文よりずっと短く、次のように書いた。
 戦後の大連で引き揚げを前にした日々に、幼友だちの A さんが歌っていたので覚えました。引き揚げは寒い時期の 2 月初めで、舞鶴へ着くと雪景色でした。
「A さん」は、この文に関する限り、省いてもよいのだが、同じ会場でまた「幼友だちの A さん」を出すことを考えて入れておいた。私はこの会場へは、まだ 3 回目の参加である。

 喜多さんは、それぞれのコメントや歌自体、あるいは作詞者、作曲者、歌手などについての、軽妙な冗談を交えた話を挟みながら会を進行している。例えば、「さざんかの宿」については「これを真似してはいけませんよ」、「明日があるさ」については、「今ならば、ストーカーといわれそうですね」でそれぞれ始まる話がしばらく続いた。

 終了後、私は喜多さんから、「岸和田で次回『五色浜の子守歌』を取り上げますよ」と告げられた。昨年 1 月の岸和田での催しは休んだのだったが、今年はぜひとも参加しなければならないことになった。

 なお、喜多さんが主宰する「ねこじゃらし音楽事務所」が、このたび YouTube に『ねこじゃらしうたチャンネル』を開始することになり、この日の「エーデルワイス」の場面がそこに掲載されたので、下に貼り付ける。



 追記:この日の「心の窓に灯を」も掲載されていたので、ここに追加する。(2020 年 2 月 6 日)



(つづく)

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2020年1月19日日曜日

水滴の「ぽちゃん」(2):1960 年代の研究 [What Makes a Dripping Faucet Go 'Plink' (2): The Study in the 1960s]

[The main text of this post is in Japanese only.]


ロゲルギスト著『第四 物理の散歩道』。
Buturi no Sanpomiti (Walkways of Physics) written by Logergist. Logergist is the name of a physicists' group, consisting of S. Chikazumi et al.

 昨日書いた記事「水滴の『ぽちゃん』」に出てくるケンブリッジ大と筑波大の実験によく似た話を、かつてロゲルギスト著の『物理の散歩道』シリーズで読んだように思った。ロゲルギストとは、計測と制御の問題を中心に集まった物理学者の集合名で、名前の由来は、logos と ergon、つまり「情報とエネルギー」の面から物理現象を見なおそうとするところからつけたという。メンバーは近角聡信、礒部孝、今井功、近藤正夫、木下是雄、大川章哉、高橋秀俊であった。今日になって、同シリーズの全 10 巻(正篇、新編、各 5 巻)の目次を順に見て行くと、水玉の話が正篇第 4 巻に見つかった[文献 1]。

 その第 1 章は、お茶につぐお湯の温度が音でわかる、という話から始まる。第 2 章で水道の蛇口からしたたる水の音「ポチン......ポチン」の話となり、そのブラウン管波形の写真も掲載されている。振動数は 2100 サイクルで、「ピアノのまんなかの鍵盤から 3 オクターブ上の C 音の振動数」とも説明してある。そして、水玉が水面をたたいてできるくぼみの底に、後続の片割れのしずくがさらに作る穴が気泡となり、その気泡の仕業らしいことや、水の中に直径 3 ミリくらいの気泡があったとして、水のはずみで空気が伸縮する振動数を計算すると、まさに 2100 サイクルになることが述べられている。気泡が片割れのしずくの働きでできる点や、振動数の値は異なるが、これは水滴の作り方、大きさなどの相違と考えれば、気泡の振動によって音が出ることは、ケンブリッジ大の研究と同様で、ロゲルギストがすでに明らかにしていたのである。

 第 3 章には、気泡がどのようにできるかを 16 ミリの撮影機で撮った写真の 1 シリーズが紹介してある。第 4 章では、水のしたたるいろいろな瞬間の写真をランダムに撮って、あとで並べ替え(カメラのシャッターと同期しないクセノン放電管で照明して撮影しための工夫である)、あたかも高速度の映画を見ているようにした 1 シリーズの写真が示されている。これによれば、大きいしずく(正)がちぎれたあと、片割れのしずく(副)が追いかけていることがわかる。この現象を、回転する濾紙の上にインクを混ぜた黒い水のしたたりを落とす方法でも確認し、黒痕の面積比から副しずくの体積は正しずくの約 9%程度と推定している。

 第 5 章では、副しずくが生じないようにすると、音がほとんど聞こえないという実験で、水玉の音は気泡によることを確認し、気泡ができるどの瞬間に音が出るかを第 6 章で述べている。瞬間撮影用クセノン管の放電の遅延時間を電子回路で制御して撮った写真によって、泡が閉じた瞬間に音が出始めることをつきとめたのである。

 第 7 章で第 1 章の主題に戻り、湯の温度を変えた時に湯滴の作る音をマイクロフォンでキャッチし、振動数はほとんど変わらないが、振動の減衰に大きな差がある(温度が高いと減衰は速い)ことをブラウン管写真で示し、その理由の考察も述べている。

 ごく短い第 8 章では、水道の蛇口を細目に開けた時、水の柱が伸びて、その先端で小さい水玉に別れ、水面にあたって、「チャラチャラ、チョロチョロ」と音をたてる場合の瞬間写真を示し、音の発生機構は、しずくがポツポツと一つずつ落下する場合と同じだという説明をしている。——ここまで読むと、ケンブリッジ大と筑波大の実験で、実際に副しずくが生じていなかったのだろうか、撮影に写っていないか気付いていないだけということはないのだろうか、という疑問がわく。——

 ここに紹介したロゲルギストの実験を読み返して、現在に比べればかなり原始的な装置・方法しか使えなかった 1960 年代に、これだけのことをよく研究したものだという気がした。なお、近角聡信の死亡(2016 年 5 月 8 日)で、ロゲルギストは全員が故人になったとのことである[文献 2]。

 追記:水滴の音の話ではないが、上に紹介した「水玉の物理」の続編的な話がのちの巻に掲載されている[文献 3]。


 [文献]
  1. ロゲルギスト、「水玉の物理」、『第四 物理の散歩道』(岩波書店、東京、1969年)p. 110 所収。
  2. 田崎晴明、ウェブページ「日々の雑感的なもの、2016/5/12(木)」
    https://www.gakushuin.ac.jp/~881791/d/1605.html#12)。
  3. ロゲルギスト、「水玉はどう縮む」、『第五 物理の散歩道』(岩波書店、東京、1972年)p. 79 所収。

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2020年1月18日土曜日

水滴の「ぽちゃん」(What Makes a Dripping Faucet Go ‘Plink’)

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チコちゃん(❤AYA❤️さん作成、GMO Media 提供のフリー画像)。
Chiko (free image created by ❤AYA❤️ and provided by GMO Media).

 2020 年 1 月 18日(土)午前 8:15~午前 9:00 の NHK 総合テレビ番組『チコちゃんに叱られる!』を見た。出題の中に、「水滴の "ぽちゃん" ってなんの音?」というのがあった。物理学を専攻した私は、なんとか正解を当てたいと思い、水滴が水面に達した時の接触音と跳ね上がった水滴が再度落ちた時の音とか、水の粒だけでは音が出なくて、空気を含んだ気泡が出来てそれが空中で弾ける音が関わっているだろうとか、考えてみた。しかし、チコちゃんの解答は「100 年間、世界中の科学者の間でずっと謎だったけど、"ぽちゃん" でなく、"ぽ" と "ちゃん" であることが、ついこの間やっとわかった」であり、科学者たちがごく最近突き止めたばかりの研究が紹介された。その研究の一つの動画付きニュースが文献 1 にある。

 文献 1 に紹介されている研究は、ケンブリッジ大学の工学者、アヌラグ・アガルワル氏らの研究チームが学術誌に発表したものである[文献 2]。「ぽちゃん」という音は、水滴が水面に衝突したときの音ではなく、衝突からわずか数ミリ秒後、水滴によって水面にくぼみができ、くぼみが反動で元に戻ろうとするとき、水面下に小さな気泡が生じ、この気泡こそがぽちゃんという音を発生させる元だったということである。気泡は毎秒5000回振動しており、この振動がさらに水面を震わせて、あの音が出るという。

 しかし、この研究報告の動画には音がついていない。そこで、『チコちゃん』の番組スタッフは、この研究を追試している日本の研究者たちを訪れた。それは筑波大学大学院システム情報工学研究科の京藤敏達教授らのチームである。彼らの測定では、水面下に小さな気泡ができた時の、「ぽっ」と音がする波形が記録された。続いて、水面上に立ち上がった水柱が少し遅れて「ぴっ」と小さい音を出すこともわかった。これでは、まだ「ぽちゃん」の解明にはならない。なお研究が必要だという。

 ここでテレビ放映では、「それの答えが何の役に立つねん」という声が出た。これに対する京藤教授の答えがすばらしい。「今役立つことは、将来役立たないが、今役立たないものは、将来役に立つ。」研究予算配分にあずかる役人や政治家によく味わってもらいたい言葉である。

 ところで、文献 1 の元の英文記事[文献 3]や文献 2 では、「ぽちゃん」は "plink" である。このオノマトペ式の英単語では、短くて、まだ解明すべき点が残っていることが表せない。
(つづく)


 [文献]
  1. 「水滴の『ぽちゃん』、音出る仕組みを解明」、ナショナルジオグラフィック日本版サイト、https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/062600279/(2018 年 6 月 22 日)。
  2. Phillips, S., Agarwal, A. and Jordan, P., "The Sound Produced by a Dripping Tap is Driven by Resonant Oscillations of an Entrapped Air Bubble." Sci. Rep. Vol. 8, p. 9515 (2018)
    doi:10.1038/s41598-018-27913-0.
  3. "Here’s What Makes a Dripping Faucet Go 'Plink.' " National Geographic,
    https://on.natgeo.com/2tktTnD (June 22, 2018).

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2020年1月16日木曜日

「故郷を離るる歌」にまつわる思い出 [Memories Related to the Song "Der letzte Abend (Japanese Version)"]

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わが家の庭に咲いたネリネの花。2019 年 12 月 28 日撮影。
Diamond-lily flowers which bloomed in my yard; taken on December 28, 2019.

「故郷を離るる歌」にまつわる思い出

 「まくらが歌謡楽団」のブログ "makuragakayogakudan" を書いている櫻ミサさん(ペンネーム)と、このほど 「ブログサークル」という SNS を通じて、「歌声」のキーワードから知り合った。そして、櫻さんが同 SNS に作った「歌声の催しで最も好きな 1 曲は?」という趣旨の掲示板に投稿をしたところ、「美しい文で、私だけが読ませていただくのはもったいないような気がする」といわれ、彼女のブログにもその投稿を転載して貰うことになった。

 投稿文は、あまり長くならないように書いたため、説明不足の点があり、拡張版をここに掲載しようと思った。しかし、それは「好きな曲」から外れた長い昔話になりそうなので、まずは、投稿文そのものを、若干修正して引用し、この記事の中心は、その投稿文の前半にある思い出の詳述ということにしたい。
 1 曲を選ぶのは本当に難しい。この 1 月という月にプライベートに関係することを理由に選べば、ドイツ民謡「故郷を離るる歌」である。戦後の大連で、引き揚げを前にした 1947 年 1 月頃、幼友だち・Y 子さんとその姉君がよく歌っていた。私は石川県の金沢市で生まれ、たまたま敗戦前年に大連へ移住した。他方、彼女たちは大連生まれで、引き揚げを待ち望んではいても、「故郷を離るる」悲しみも深かったに違いない。Y 子さん一家の引き揚げ先も同じ石川県だったので、彼女と大学生時代に再会し、友人関係はずっと続いた。そして、彼女は 9 年前の 1 月に金沢の病院で亡くなった。今月参加する歌声の会では、この歌をぜひリクェストして、彼女の追悼をしたいと思っている。


 実は、引用文中の「1947 年 1 月頃」というのは半ば創作で、もう少し早い時期だった可能性が大きい。Y 子さんも私も小学校 5 年生だった遠い昔のことである。祖父、伯母、従姉、母を含む私の家族が大連から引き揚げたのは Y 子さん一家より一足先だったが、どちらも 1947 年 2 月だった。したがって、Y 子さんと 1 歳年長のその姉君・R 子さんによる「故郷を離るる歌」をよく聞いたのは、2 月よりも前であることだけは確かである。それは、何日間かに及ぶ早朝、元々は私たち家族の住まいでありながら、当時 5 家族が同居していた家の中でのことである。6 人家族だった Y 子さん一家に、私たちの家の 2 階の一室に入って貰わなければならない事態になっていたお陰ともいえる。

 私は、そのような事態になったのは、大連港からの引き揚げに備えて、旧満洲を含む中国各地から参集した人たちを受け入れるためだったとばかり思っていたが、それ以外にも大きな理由があったことを、のちに本を読んで知った[文献 1、2][注 1]。戦後間もなく中国人が支配するようになった大連市政府から「日僑人民住宅調整」という命令が 1946 年 7 月初めに出されたというのが、その理由である[文献 1、p. 125]。中国人と日本人の住宅不均衡を平均化しようという提案のもとに、その調整権限は日本人労働組合に委ねられたのだった[文献 2、p. 383]。

 Y 子さん一家が、わが家の後ろにあった自宅から私たちの家の 2 階へ移って来た時期についても、私は記憶がはっきりしていなかったが、いま文献 1 を見ると、その p. 136 に、住宅調整期限ぎりぎりの 1946 年 9 月末だったように記されている。そうだとすれば、Y 子さんたちが「故郷を離るる歌」を盛んに歌いながら、2 階から 1 階の台所へ降りて来ていたのは、引越し早々で、まだ自宅生活の気分から抜けきれなかった秋のことだったのかもしれない。私は台所に隣り合う部屋に起居していて、食糧不足の苦しい生活の中[注 2]、彼女たちの歌声を心温まる思いで聞き、「故郷を離るる歌」を覚えたのである。

 Y 子さんには、もう一人、私より数歳年長の姉君・K さんがいた。文献 1 を読み返すと、一家がわが家の 2 階へ引っ越すにあたっては、K さんの誕生以来備わっていたピアノを、ブローカーの手を経て、ソ連人将校夫妻に買って貰ったことが述べられている。このことから思えば、Y 子さん姉妹は幼少時から音楽によく親しんでいたのである。K さんはのちに小学校の音楽教師になり、R 子さんも中高年頃に地域のコーラス・グループに参加していたと聞いた。Y 子さんは大学生時代に、学内の歌声運動でリーダー的役割を務めていたと、間接的に聞いたことがある。

 歌声の催しで私がリクェストして来たいろいろな歌の中で、Y 子さんが歌っていたのを聞いたのではないが、彼女を思い起こす歌が他に 3 曲ばかりある。そのうちの一つ、「ケセラ・セラ」については先に記した(ここでの「Y 子さん」を、その記事では「A さん」と記している)。残りの歌については、またの機会に書きたい。

 なお、Y 子さんが亡くなった知らせを聞いて記した追悼記事でも、「故郷を離るる歌」に一言触れた。それによれば、私は大連で一旦聞き覚えたこの歌の歌詞を忘れていて、「歌声喫茶」の歌集で改めて覚え直したのであった。また、「故郷を離るる歌」の日本語歌詞の訳詞者が吉丸一昌であることは、いま知ったばかりだが、彼は、父が好んでいたと母から聞いた唯一の歌「早春賦」の作詞者でもあることは、不思議な巡り合わせである。


 [注]
  1. 文献 1 は Y 子さんの母君の作品で、ご自身とその家族や周囲の人たちをモデルに、戦後の大連での日本人の暮らしを描き、第 13 回金沢市文学賞を受賞した。
  2. 私の家族には祖母もいたのだが、引き揚げのわずか前の 1947 年 1 月 29 日、かの地で亡くなった。死因についての医師の診断書は、「栄養失調」だったと母から聞いた。より詳しくは文献 1(p. 116)で知った。口内から食道や胃に至るまでの粘膜が炎症に冒される「高梁病(こうりゃんびょう)」が元だったということである。高梁は中国で主食に使用されていた作物であり、高梁食には油脂の併用が欠かせない。戦後の大連の日本人は白米が入手出来ないことから、高梁食を白米食の時と同じ淡白な(かつ少量しか入手できない)副食物と一緒に摂取していたため、繊細な体質だった祖母にその弊害が出たのである。
 [文献]
  1. 浅野幾代、『大連物語』(北国出版、金沢、1985)。
  2. 富永孝子、『大連・空白の六百日』(新評論、東京、1986)。

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2020年1月1日水曜日

2020 年初めのごあいさつ (Greetings for the New Year of 2020)

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妻の年賀状の挿絵として、彼女が登った思い出の山の一つである飯豊山(いいでさん。新潟・山形・福島三県にまたがる。標高 2105 m)を私が描いたもの。『週刊 日本百名山』No. 41
(朝日新聞社、2001)の表紙写真(撮影・高橋金雄)を参考にした。
A picture I made for my wife's New Year card, showing Mt. Iide-san,
one of the mountains she climbed.

新年おめでとうございます

皿を蹈(ふむ)の音のさむさかな 蕪村

 柴田宵曲はこの句を「厨(くりや)の鼠を詠んだものに相違ないが 姿を描かず 音だけを現したところに特色がある 皿を蹈む鼠の音の寒さは 他の何者よりも適切なような気がする」(『新編 俳諧博物誌』岩波文庫 1999年)と評しているそうです[注 1]
 いま何よりも寒く感じられる音は 安倍改憲がもたらそうとしている軍靴の響きではないでしょうか

 皆様のご健康とご幸福をお祈りします


 [注]
  1. 柴田宵曲の評は、『新編 俳諧博物誌』からの直接の引用でなく、「Blog 鬼火~日々の迷走」からの孫引きのため、「評しているそうです」とした。

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