『図書』誌掲載の亀淵氏のエッセイ
Kamefuchi's essay published in the magazine Tosho
1 はじめに
最近、理論物理学者で筑波大名誉教授の亀淵迪氏によるエッセイ「英雄の生涯」[1] を読んだ。ここで英雄とは、彼の専門分野での二人の巨人、W. ハイゼンベルクと湯川秀樹を意味する。そして、著者が述べているのは、その英雄たちの晩年における悲劇についての、「目撃者としての証言」である。ハイゼンベルクについては、1958 年 7 月の CERN における「高エネルギー物理学国際会議」の席上で、座長のパウリが彼の講演 [2] に対し途中で激しく攻撃し始め、その研究を全面的に否定したという話である。湯川については、1967 年 8 月、ロチェスター大学での「場と粒子についての国際会議」で、彼が座長をしていたセッションで、彼の協力研究者 K が共著論文 [3] を発表する時に、聴衆の大半が席を立って退出したという話である。著者は英雄像を貶めることを懸念しながらも、真実を伝えることこそ肝要だと思い返して筆を執ったという。私のこの記事では、亀淵氏のエッセイに関連して、他の文献などから知ったことを幾つか述べ、考察も行う。
2 ハイゼンベルクの悲劇
2.1 ポーキングホーンの本にも
亀淵迪氏は英雄たちの悲劇について、「世上、あまり語られることのないようなので」として書き始めている。しかし、私はハイゼンベルクついての同じ話を最近たまたまある本 [4] で読んだ。
その本はイギリスの理論物理学者、神学者、英国国教会司祭であるポーキングホーンが、1950 年から 1980 年までの 20 回に及ぶ国際会議を記述することによって綴った、高エネルギー物理学の異色の歴史書である。その本の中でポーキングホーンは、パウリがハイゼンベルクの講演中にその内容を攻撃した言葉を会議録から引用して、亀淵氏のエッセイにあるよりもやや詳しく述べている。また、その記述の前のページには、ハイゼンベルクの講演に対するパウリの発言の一つ "No credits for the future" を添えて、その時のパウリの写真も載っている。そして、その話は、ハイゼンベルクに同情的な感想を含む次の言葉で締めくくられている。
この記事の読者の中には、物理学史の本に感情的な言葉が入っていることを不思議に思う人がいるかも知れないので、この本の性格について付言しておく。これは客観的記述の教科書あるいは無感情な学術書という性格の本ではなく、一般向け(といっても、主に科学に関心のある人たちが対象になろう。私も高エネルギー物理学を「趣味」とする者として読んだ次第である)に、やや砕いて書いた本で、会議の雰囲気や著名な学者たちの特徴も伝わって来る、楽しい読み物になっている。このような本書の性格は、題名と副題に "Roundabout"(「漫遊旅行」の意味がある)と "Story" の語がそれぞれ入っていることからも推定されよう。
2.2 座長パウリの暴挙
座長のパウリは「講演者を差し措き自分が立ち上がって話し出す。しかもその言動は徐々に激しいものとなり、物理の会議では耳にしたことのないような罵詈雑言の限りを尽く」したという [1]。このような座長の振る舞いに抗議をする参加者はいなかったのか、という疑問を持つ向きもあろう。それに対する答えは、次のことから想像できそうである。亀淵氏のエッセイには、問題のセッションの初めに座長のパウリが「辛辣を持って鳴る彼らしく」、「別に新しいアイディアは何もないようですが、とにかく開会します」と前置きしたことが記されている。ポーキングホーンはこのパウリの前置きをもっと詳しく引用したあと、ここでも次のように私見を述べている。
文献
最近、理論物理学者で筑波大名誉教授の亀淵迪氏によるエッセイ「英雄の生涯」[1] を読んだ。ここで英雄とは、彼の専門分野での二人の巨人、W. ハイゼンベルクと湯川秀樹を意味する。そして、著者が述べているのは、その英雄たちの晩年における悲劇についての、「目撃者としての証言」である。ハイゼンベルクについては、1958 年 7 月の CERN における「高エネルギー物理学国際会議」の席上で、座長のパウリが彼の講演 [2] に対し途中で激しく攻撃し始め、その研究を全面的に否定したという話である。湯川については、1967 年 8 月、ロチェスター大学での「場と粒子についての国際会議」で、彼が座長をしていたセッションで、彼の協力研究者 K が共著論文 [3] を発表する時に、聴衆の大半が席を立って退出したという話である。著者は英雄像を貶めることを懸念しながらも、真実を伝えることこそ肝要だと思い返して筆を執ったという。私のこの記事では、亀淵氏のエッセイに関連して、他の文献などから知ったことを幾つか述べ、考察も行う。
2 ハイゼンベルクの悲劇
2.1 ポーキングホーンの本にも
亀淵迪氏は英雄たちの悲劇について、「世上、あまり語られることのないようなので」として書き始めている。しかし、私はハイゼンベルクついての同じ話を最近たまたまある本 [4] で読んだ。
その本はイギリスの理論物理学者、神学者、英国国教会司祭であるポーキングホーンが、1950 年から 1980 年までの 20 回に及ぶ国際会議を記述することによって綴った、高エネルギー物理学の異色の歴史書である。その本の中でポーキングホーンは、パウリがハイゼンベルクの講演中にその内容を攻撃した言葉を会議録から引用して、亀淵氏のエッセイにあるよりもやや詳しく述べている。また、その記述の前のページには、ハイゼンベルクの講演に対するパウリの発言の一つ "No credits for the future" を添えて、その時のパウリの写真も載っている。そして、その話は、ハイゼンベルクに同情的な感想を含む次の言葉で締めくくられている。
It was a scene at once farcical and sad. Justification lay with the sceptical Pauli but Heisenberg was one of the greatest physicists of the twentieth century who should have been able to enjoy a more dignified close to his career. ([4] p. 77)
この記事の読者の中には、物理学史の本に感情的な言葉が入っていることを不思議に思う人がいるかも知れないので、この本の性格について付言しておく。これは客観的記述の教科書あるいは無感情な学術書という性格の本ではなく、一般向け(といっても、主に科学に関心のある人たちが対象になろう。私も高エネルギー物理学を「趣味」とする者として読んだ次第である)に、やや砕いて書いた本で、会議の雰囲気や著名な学者たちの特徴も伝わって来る、楽しい読み物になっている。このような本書の性格は、題名と副題に "Roundabout"(「漫遊旅行」の意味がある)と "Story" の語がそれぞれ入っていることからも推定されよう。
2.2 座長パウリの暴挙
座長のパウリは「講演者を差し措き自分が立ち上がって話し出す。しかもその言動は徐々に激しいものとなり、物理の会議では耳にしたことのないような罵詈雑言の限りを尽く」したという [1]。このような座長の振る舞いに抗議をする参加者はいなかったのか、という疑問を持つ向きもあろう。それに対する答えは、次のことから想像できそうである。亀淵氏のエッセイには、問題のセッションの初めに座長のパウリが「辛辣を持って鳴る彼らしく」、「別に新しいアイディアは何もないようですが、とにかく開会します」と前置きしたことが記されている。ポーキングホーンはこのパウリの前置きをもっと詳しく引用したあと、ここでも次のように私見を述べている。
It would be of no use waving your hands in front of him and expressing the hope that it would all work out right in the end. ([4] p. 77)聴衆一同はすでにこの時点でパウリに一本取られており、辛辣さの発揮がたびたび有意義な効果をもたらしたことで有名なパウリに向かって、その暴挙に対する忠告を敢えて出来る参加者はいなかったのであろう。
文献
- 亀淵迪、図書 No. 859, p. 18 (2020 年 7 月)。
- W. Heisenberg, "Research on the non-linear spinor theory with indefinite metric in Hilbert space" in 1958 Annual International Conference on High Energy Physics at CERN(CERN, Geneva, 1960) p. 851.
- Y. Katayama, "Space-time picture of elementary particles" in Proceedings of the 1967 International Conference on Particles and Fields, Ed. C. R. Hagen, G. Guralnik and V. A. Mathur (Interscience, New York, 1967) p. 157.
- J. C. Polkinghorne, Rochester Roundabout: The Story of High Energy Physics, (W. H. Freeman, New York, 1989).
(つづく)
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