キャシディによるハイゼンベルクの伝記本
D. C. Cassidy's Uncertainty: The Life and Science of Werner Heisenberg.
2 ハイゼンベルクの悲劇(つづき)
2.3 ハイゼンベルクの当時の研究
亀淵氏は、ハイゼンベルクの当時の研究について、"素粒子の一元論的場の理論" の名で、「一元的な単一の場(あるいは方程式)から出発して、素粒子の総てを導出しようという大構想」と説明している。これに続いて亀淵氏は次の通りに述べている。
実は、私もこの研究についての新聞記事を見た一人であり、そのことについて次のように当時の日記に書きとめていた。それは、大学卒業前の 2 月と 3 月のことで、次の通りである。
この点は、キャシディによるハイゼンベルクの伝記本 [6] にも次の通り述べられていて、確かである。
2.4 誤訳でなかった「宇宙方程式」
上に引用したキャシディの本には続いて次の文がある。
しかし、その式の形が朝日新聞に載ったのは、ゲッチンゲン大学での講義の記事より 2 週間もあとだった。このことがある程度理解できる文がキャシディの本には続いて載っている。
なお、ここに引用した宇宙方程式は、キャシディの著書にあるのと同じものをハイゼンベルクと若手の研究者らの共著論文 [8] からコピーした。この論文を知ったことは、さらにあとで述べる。
ポーキングホーンの本にあるハイゼンベルクの講演内容の記述は、亀淵氏の紹介よりもやや専門的で、次のようになっている。
キャシディの本からの最初の二つの引用にあるように、パウリはハイゼンベルクの当時の研究の協力者だったのである。それが、国際会議の場に至って、なぜ反逆的な態度に出たのだろうか。この点を次に見て行きたい。
文献
2.3 ハイゼンベルクの当時の研究
亀淵氏は、ハイゼンベルクの当時の研究について、"素粒子の一元論的場の理論" の名で、「一元的な単一の場(あるいは方程式)から出発して、素粒子の総てを導出しようという大構想」と説明している。これに続いて亀淵氏は次の通りに述べている。
私はこのことを最初新聞で知ったから、彼が記者会見を開いて発表したかと思われる。その折、基礎方程式に対して普遍的(ユニヴァーサル)という形容詞でも用いたのか、日本では誤って "宇宙方程式" として喧伝されたようである。
実は、私もこの研究についての新聞記事を見た一人であり、そのことについて次のように当時の日記に書きとめていた。それは、大学卒業前の 2 月と 3 月のことで、次の通りである。
1958 年 2 月 27 日この日記は、私のウェブサイト内のページ [5] に転記して、元の日記帳は処分したので、「これが宇宙方程式」の切り抜きは残っていないが、その式については後述する。日記に書き写してあった新聞記事によれば、ハイゼンベルクは亀淵氏が推定したように記者会見を開いて発表したのではなく、ゲッチンゲン大学で講義したのを記者が記事にしたのである。
朝日新聞に次の記事:
【ゲッチンゲン(西独)25 日発UP=共同】ノーベル物理学賞受賞者、西独のハイゼンベルク教授は 25 日ゲッチンゲン大学で「素粒子理論の進歩」と題する講義をし、その中で同教授を中心とする研究グループが故アインシュタイン博士の考えていた「統一場の理論」の研究を発展させ、すべての物理学上の法則を例外なく説明する基本方程式を発見したと発表、…。
1958 年 3 月 13 日
[注:ハイゼンベルク博士が明らかにした素粒子の基礎方程式を報ずる朝日新聞の囲み記事「これが宇宙方程式」の切り抜きを貼付。]
この点は、キャシディによるハイゼンベルクの伝記本 [6] にも次の通り述べられていて、確かである。
The distribution [of the preprint on work made by Heisenberg and Pauli] was set for February 27, 1958. [...]ただし、この文によれば、講義の行われた日は、朝日新聞が報じたように 1958 年 2 月 25 日ではなく、現地時間の 24 日だったことになる。この違いは、朝日新聞が「UP=共同」の伝えたニュースに対して時差補正をしなかったことによるのだろうか。
Three days before the preprint was to be distributed, Heisenberg announced the new formula in a lecture at the University of Göttingen physics institute. ([6] p. 542)
2.4 誤訳でなかった「宇宙方程式」
上に引用したキャシディの本には続いて次の文がある。
An eager reporter in the audience relayed word of a sensational new "world formula" around the world. One enthused press agent proclaimed, "Professor Heisenberg and his assistant, W. Pauli, have discovered the basic equation of the cosmos! ([6] p. 542)これによれば、外国の新聞も「宇宙の基礎方程式」の言葉を使っていたということであり、朝日新聞が「宇宙方程式」と報じたのは誤訳ではなかったのである。
しかし、その式の形が朝日新聞に載ったのは、ゲッチンゲン大学での講義の記事より 2 週間もあとだった。このことがある程度理解できる文がキャシディの本には続いて載っている。
Two months later, more than 1800 listeners turned out to hear Heisenberg reveal the secret of the cosmos in the same auditorium on the occasion of Max Planck's one-hundredth birthday. During his highly technical talk, Heisenberg carefully wrote his new equation on the overhead projector in the darkened room: ([6] p. 542)ハイゼンベルクは 2 月のゲッチンゲン大学での講義では式を具体的には明かさないで、名称だけを話したらしく、上の引用に記されている別の講義で式を書き記したのである。しかし、その講義が先の講義よりも 2 カ月後というのは、朝日新聞が式自体を報じた時期と合わない。あとの講義はプランクの生誕 100 年を祝うものだったということなので、その誕生日を調べると、4 月 23 日である [7]。これは上の引用文が "Two months later" と始まっていることと一致する。しかし、3 月 13 日付けの朝日新聞が 4 月 23 日の講義内容を報道し得るはずはない。プランクの生誕 100 年を祝う講義は誕生日より 40 日余り早めに行われたが、伝記作者のキャシディは、生誕を祝う講義ならば誕生日頃だったに違いないと想像して書いたということも考えられる。
なお、ここに引用した宇宙方程式は、キャシディの著書にあるのと同じものをハイゼンベルクと若手の研究者らの共著論文 [8] からコピーした。この論文を知ったことは、さらにあとで述べる。
ポーキングホーンの本にあるハイゼンベルクの講演内容の記述は、亀淵氏の紹介よりもやや専門的で、次のようになっている。
[Heisenberg] had conjectured a 'non-linear spinor equation', whose solutions he thought would correspond to the structure of matter as it was then known. Not only was his equation hard to work with, but in the course of the attempt use was made of the dangerous concept of an infinite metric, something which could result in the appearance of unphysical ghosts. ([4] p. 77)これによれば、ハイゼンベルクがゲッチンゲン大学で大掛かりな講義をしたにもかかわらず、宇宙方程式はまだ欠陥のあることが明らかなものだったようである。
キャシディの本からの最初の二つの引用にあるように、パウリはハイゼンベルクの当時の研究の協力者だったのである。それが、国際会議の場に至って、なぜ反逆的な態度に出たのだろうか。この点を次に見て行きたい。
文献
- J. C. Polkinghorne, Rochester Roundabout: The Story of High Energy Physics, (W. H. Freeman, New York, 1989) p. 77.
- 多幡達夫「青春時代の日記から:大学生時代(5)」(2003) 、ウェブサイト IDEA and ISAAC 所収。
- D. C. Cassidy, Uncertainty: The Life and Science of Werner Heisenberg (W. H. Freeman, New York, 1991).
- Max Planck: Biographical in The Nobel Prize, the Web site of the Nobel Foundation.
- H. P. Dürr, W. Heisenberg, H. Mitter, S. Schlieder, and K. Yamazaki, "Zur Theorie der Elementarteilchen," Z. Naturf. 14a, 441 (1959).
(つづく)
(2020 年 7 月 25 日修正)
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