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2 ハイゼンベルクの悲劇(つづき)
2.5 パウリの反逆の理由
亀淵氏は、
亀淵氏が上記の疑問に対して与えている答えは、後年、K. ブロイラー教授(ボン大学)がしてくれたという説明(次の「」内の部分)を疑問つきで引用したものである。
ところで、パウリが渡米中に厳しく批判されたのは、アメリカの物理学者たちからだけではなかった。イギリス生まれのアメリカの理論物理学者・数学者、フリーマン・ダイソンの随筆集 [10] に次の記述がある。
なお、パウリがハイゼンベルクとの共同研究から手を引くということは、前者がアメリカ滞在中に後者へ手紙で書き送っていたのである。このことはハイゼンベルクの自伝 [11] に次のように記されている(引用文中 Wolfgang とはパウリを指す)。
ところで、ハイゼンベルクの当時の研究は、その後の理論物理学の中でどのように位置づけられているのだろうか。次回はこの話から始めたい。
文献
2.5 パウリの反逆の理由
亀淵氏は、
ハイゼンベルクとは学生時代からの親友であり、しかも三カ月前まではこの問題を一緒に研究していたパウリが、事もあろうに素粒子論の著名な研究者たちが居並ぶ場所で、何故このような暴挙に出たのか。と疑問を呈している。ここに「三カ月前」とあるが、パウリがこの国際会議より前に三カ月間の訪米をしていたことからの「三カ月」であろう。しかし、パウリがアメリカへ出発したのは、ハイゼンベルクの自伝 [8] によれば、1957 年のクリスマス前から a week プラス a few weeks あと、つまり 1958 年 1 月下旬頃で、その時から数えれば、国際会議までの期間は五カ月ほどになる。
亀淵氏が上記の疑問に対して与えている答えは、後年、K. ブロイラー教授(ボン大学)がしてくれたという説明(次の「」内の部分)を疑問つきで引用したものである。
「おそらくパウリは米国で意気揚々と件の研究について講演したことであろう。しかし、米国の若手の俊秀たちから猛反撃を受け、一筋縄ではゆかない仕事だなと考え直したと思われる。そこで、今はもうその理論を信じてはいないということを、会議に来ている俊秀たちに公然とした形で表明したかったのであろう」と。これでは自己の名誉のために友の名誉を犠牲にしたことになるのだが......。ブロイラーは推定として述べているが、同じことを次の通り、断定的に述べた文献 [9] がある(この文献はポーキングホーンの著書と異なり、学術的なもので、私が今回興味を持ったことは脚注扱いである)。
Although Pauli drafted the first preprint, entitled 'On the Isospin Group in the Theory of the Elementary Particles,' he withdrew from further collaboration in January 1958, after he encountered severe criticism and opposition to the theory from the U.S. physicists at the American Physical society meeting in New York; thus Heisenberg was left to work out the details of the theory with younger collaborators (Dürr et al., 1959). ([9] p. 1120, footnote)上記の引用末にある "Dürr et al., 1959" という文献は、この記述全体の典拠のようにも見えるが、そうではなく、これはハイゼンベルクが若手共同研究者たちと研究を続けた結果として発表した論文(前回も記した [8])である。したがって、パウリがアメリカ物理学会の席上でアメリカの物理学者たちから厳しい批判を受けたということの典拠を明記してはないのだが、パウリがハイゼンベルクとの共同研究から手を引く決心をしたのは、渡米早々のことだったようである。
ところで、パウリが渡米中に厳しく批判されたのは、アメリカの物理学者たちからだけではなかった。イギリス生まれのアメリカの理論物理学者・数学者、フリーマン・ダイソンの随筆集 [10] に次の記述がある。
Pauli happened to be passing through New York, and was prevailed upon to give a lecture explaining the new idea [of Heisenberg and Pauli] to an audience that included Niels Bohr, who had been mentor to both Heisenberg and Pauli [...]. Pauli spoke for an hour, and then there was a general discussion during which he was criticized sharply by the younger generation. Finally, Bohr was called on to make a speech summing up the argument. "We are all agreed," he said, "that your theory is crazy. The question which divides us is whether it is crazy enough to have a chance of being correct. My own feeling is that it is not crazy enough." ([10] pp. 105-106)ここにあるパウリの講義が若手研究者たちから鋭く批判されたという記述は、ブロイラーの推定および文献 [9] の記述を裏書きしている。その上、パウリは恩師ニールス・ボーアからも手厳しい批評を受けていたのである。"Not crazy enough" が厳しい批評になるということは、ボーアの言葉だけでは分かりにくいが、ダイソンは次の節で、以下のように説明を加えている(要約して紹介しようと思ったが、ダイソンの文は磨かれた宝石のようで、さらに削ることは不可能に思える)。
When the great innovation appears, it will almost certainly be in a muddled, incomplete, and confusing form. To the discoverer himself it will be only half-understood. To every body else it will be a mystery. For any speculation that does not at first glance look crazy, there is no hope. ([10] p. 106)
なお、パウリがハイゼンベルクとの共同研究から手を引くということは、前者がアメリカ滞在中に後者へ手紙で書き送っていたのである。このことはハイゼンベルクの自伝 [11] に次のように記されている(引用文中 Wolfgang とはパウリを指す)。
Then we were divided by the Atlantic, and Wolfgang's letters came at greater and greater intervals. [...] Then, quite suddenly, he wrote me a somewhat brusque letter in which he informed me of his decision to withdraw from both the work and the publication [of our common project]. ([11] p. 235)自伝中にこの話が記されているのは、"The Unified Field Theory" と題する章であり、その章は次の文で結ばれている。
Toward the end of 1958 I received the sad news that he [Wolfgang] had died after a sudden operation. I cannot doubt but that the beginning of his illness coincided with those unhappy days in which he lost hope in the speedy completion of our theory of elementary particles. I do not, of course, resume to judge which was the cause and which the effect. ([11] p. 236)ここだけを読めば、いかにも悲しい。しかし、その前には、亀淵氏もハイゼンベルクの自伝の和訳を参照して述べているように、「会議の数週間後、二人はともにイタリーのコモ湖畔のヴァレンナの夏の学校に講師として招かれる。しかしこのときのパウリはハイゼンベルクに対して友好的だった」との事実がある。またその場所で、パウリはハイゼンベルクに「あなたは例の研究をさらに続けてゆくべきでしょう。私はしかし、もう力にはなってあげられないが」と言ってもいたので、これには救いを感じる。
ところで、ハイゼンベルクの当時の研究は、その後の理論物理学の中でどのように位置づけられているのだろうか。次回はこの話から始めたい。
文献
- H. P. Dürr, W. Heisenberg, H. Mitter, S. Schlieder, and K. Yamazaki, "Zur Theorie der Elementarteilchen," Z. Naturf. 14a, 441 (1959).
- J. Mehra and H. Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory, Volume 6, Part 2 (Springer, New York, 2001).[注:私がこの本をたまたま持っていたのは、かつて大阪科学館で持たれていた「湯川秀樹を研究する会」に参加していて、その会で討論の参考になりそうなことが書いてあると知ったからである。]
- F. Dyson, From Eros to Gaia (Penguin, London, 1993; first published by Pantheon, New York, 1992).[注:私がまだ勤務していた頃、この本を当時の同僚だった豊田直樹氏(現・東北大名誉教授)に勧めたようだが、今回は本記事に関わる話題を彼にメールで告げたところ、本文に引用した箇所がこの本にあることを逆に彼から教えられた次第である。]
- W. Heisenberg, Physics and Beyond: Encounters and Conversations, translated from German by A. J. Pomerans (Harper & Row, New York, 1972); original German edition, Der Teil und das Ganze: Gespräche im Umkreis der Atomphysik (R. Piper, Munich, 1969); Japanese version, 部分と全体, translated by K. Yamazaki (Misuzu-Shobo, Tokyo, 1974; new edition 1999).
(つづく)
(2020 年 7 月 25 日投稿、7 月 27 日改訂)
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