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ランタナ。わが家の庭で、2013 年 9 月 7 日撮影。
Lantana. Taken in my yard on September 7, 2013.漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」4 本シリーズの第 3 回では、漱石の『草枕』の主人公が作品の第四章までの中で、「非人情」の概念とどのように関わっているかを見るとともに、第九章までの粗筋をたどり始めた。そして第六章には、「非人情」の語は使われていないものの、「非人情」の芸術論が展開されており、少し詳しく見ておく必要があると述べた。
第一章で「非人情」の語が初登場したときには、「淵明、王維の詩境」をその手本に挙げていたが、第六章では、主人公が専門とする絵画から考察が始まり、三種類の絵が述べられる。第一種は、「ただ眼前の人事風光をありのままなる姿として」描いたもので、「感じはなくても物さえあれば出来る」。第二種は、「[人事風光]をわが審美眼に漉過して」描いたもので、「物と感じと両立すれば出来る」。そして、第三種は、主人公がいま描きたいと思っている種類の絵で、「あるものはただ心持ちで」、この心持ちを「具体を藉(か)りて、人の合点するように髣髴(ほうふつ)せしめ」ようとするものである。
「心持ちを絵にする」といえば、「非人情」の正反対のようであるが、この分類の前に述べられている主人公の心持ちのあり方が「非人情」なのである。すなわち、「わが、唐木(からき)の机に憑(よ)りてぽかんとした心裡の状態」、「常よりは淡きわが心の、今の状態には、わが烈しき力の銷磨しはせぬかとの憂を離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。淡しとは単に捕え難しと云う意味で、弱きに過ぎる虞(おそれ)を含んではおらぬ」という境地である。
主人公にとって、この境地を絵として実現することは難しく、「こんな抽象的な興趣を画にしようとするのが、そもそもの間違である」、「多くの人のうちにはきっと自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何らの手段かで、永久化せんと試みたに相違ない。試みたとすればその手段は何だろう」と考える。これは抽象絵画を指しているかのようである。
『草枕』の発表されたのは 1906 年であり、狭義の抽象絵画はカンディンスキーによって、1910 年代前半に始められたとされ、また、広義には、ピカソのキュビスムから始まったと見られ、その出発点は、1907 年秋に描き上げられた『アビニヨンの娘たち』である。これを考えると、ここには漱石の芸術に対する炯眼ぶりが現れているといえそうである。ただし、主人公が「何らの手段かで」と考えたのは、次のパラグラフを見ると、絵画以外の手段と分り、炯眼ぶりといっても、抽象絵画出現の予想までには至っていなくて、「抽象的な興趣を画にしようとする」欲求の段階にとどまっている。(つづく)
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タマスダレ。わが家の庭で、2013 年 9 月 7 日撮影。
Fairy lily. Taken in my yard on September 7, 2013.漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」3 本シリーズの第 2 回では、漱石の『草枕』の主人公が作品の第二章までの中で、「非人情」の概念とどのように関わっているかを見た。今回も、「非人情」の言葉を作中で検索しながら、第三章以下での関わりを見て行きたい。
第三章で、主人公は静かな宿に泊まり、不思議な一夜を経験する。その途中で、「非人情」を目指しながらも修行が足りないという思いが、次のように述べられている。どれもこれも芸術家の好題目である。この好題目が眼前にありながら、余は入らざる詮義立てをして、余計な探ぐりを投げ込んでいる。せっかくの雅境に理窟の筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪るさが踏みつけにしてしまった。こんな事なら、非人情も標榜する価値がない。もう少し修行をしなければ詩人とも画家とも人に向って吹聴する資格はつかぬ。
第四章では、主人公が翌日目覚めて宿の造作を観察する場面で、「非人情」が出て来る。家は随分広いが、[…]。客は、余をのぞくのほかほとんど皆無なのだろう。〆た部屋は昼も雨戸をあけず、あけた以上は夜も閉(た)てぬらしい。これでは表の戸締りさえ、するかしないか解らん。非人情の旅にはもって来いと云う屈強な場所だ。
次に「非人情」が登場するのは、章が少し飛んで、第九章なので、途中の章の概要を記しておく必要があるだろう。第四章で、髪を銀杏返しに結った「ただの女とは違う」宿の若い奥さん(ヒロインの那美)が登場し、主人公と語り合う。第五章で、主人公は床屋へ出かけ、そこの親方から那美についての情報を仕入れる。
第六章で主人公は、「常よりは淡きわが心の、今の状態には、わが烈しき力の銷磨しはせぬかとの憂を離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している」という境地になっていて、その境地を絵に出来ないかという考察をする。「非人情」の語は使われていないものの、ここは「非人情」の芸術論であり、少し詳しく見ておく必要がある。(つづく)
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キキョウ。わが家の庭で、2013 年 9 月 7 日撮影。
Balloon flowers. Taken in my yard on September 7, 2013.漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」2 本シリーズの初回では、小宮豊隆の「解説」から、『草枕』の「非人情」は、これを執筆した当時の漱石としてはまだ到達し切れていなかったが、晩年に到達した境地である、と知ったことを述べた。また、そうとなれば、私は、『草枕』初読および再読の結果としての、「漱石の非人情説」への感想をどうまとめるか、という課題を自らに課さなければならない、とも述べた。その課題へ入る前に、今回は、『草枕』の中で、「非人情」の境地に主人公の達する道筋が、どのように描かれているかを見ておきたい。
『草枕』の第一章において、主人公は「山路を登りながら」次のように考える。[…]自身がその局に当れば利害の旋風(つむじ)に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩くらんでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解げしかねる。
これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。
ここに「非人情」の本質がすでに述べられており、その少しあとで、「非人情」の語が早くも登場する。すなわち、次の箇所である。こうやって、ただ一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ。
そして、「もちろん人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ」と思いながらも、「まるで人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりついでに、なるべく節倹してそこまでは漕ぎつけたいものだ」と決心する。
第二章では宿へ着くまでの旅中の出会いが描かれ、主人公は「非人情」を味わい始める。[…]自分の見世を明け放しても苦にならないと見えるところが、少し都とは違っている。返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れない。ここらが非人情で面白い。その上出て来た婆さんの顔が気に入った。
その婆さんは、「源兵衛が覊絏(はづな)を牽」く「青馬(あお)」に乗って「城下へ御輿入」した「志保田の嬢様」の話をして、その嬢様は「今でも御覧になれます。湯治場へ御越しなされば、きっと出て御挨拶をなされましょう」という。主人公は「非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない」と思う。この嬢様が第三章以下に本作品のヒロインとして登場し、主人公の「非人情」が鍛えられる場面が展開することになる。——このように「非人情」の語をたどってみると、漱石の作品構成の巧みさがしみじみと分る。
(『草枕』からの引用は、青空文庫版によった。)(つづく)
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秋雨の合間に咲いたカンナ。2013 年 9 月 3 日、わが家の庭で。
A flower of canna that bloomed in the lull of the autumn rain.
Taken in my yard on September 3, 2013.漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」 私が夏目漱石の『草枕』を初めて読んだのは高校 1 年生のときだった。そのときに次のような読後感を記している(1951 年 9 月 14 日付け)。芸術の客観性ということが強く出ている。しかし、何もかもが第三者的立場のみから感受され、考察され、判断されたらどうだろう。それは、あくまで芸術の中だけのことであろう。躍動する生命を持っているわれわれは、何事にも直接ぶつかる場合が多い。そこでは自分を一つにして力闘することが必要だ。(何だか、よく分っていない。)
ここでいう「芸術の客観性」は、『草枕』では「非人情」という言葉で表されていて、芸術家が観察対象とする自然にはもちろん、人物にも情を交わさないで、傍観的態度で接することを意味している。
私が上記の日記を最近、ブログ "Ted's Archives" に掲載したとき、「(何だか、よく分っていない。)」の箇所について、「引用時の注」として次のように記した。自分の論旨がうまく閉じていないことを気にしたのだろう。「その力闘は、第三者的立場とは異なる。それゆえ、実人生にも関わる芸術に、客観性だけが強調されるのはどうかと思う」とでも続ければ、このときの考えが一応まとまるだろう。
しかし、この注の「」内を、この通りに高校時代の日記につないで、芸術の「非人情」に疑問を呈したのでは、日記中で「非人情」を「あくまで芸術の中だけのことであろう」と述べて、「芸術中」では一応よしとしていることと矛盾するようである。ただし、日記中の「芸術の中だけ」が「小説中の主人公がそのように考えるだけ」を意味すると取れば、必ずしも矛盾はしない。
こう考えると、『草枕』の主人公が唱える「非人情」は、作品の中だけでよしとされているのか、漱石自身が追い求めた境地なのかということを知りたくなる。そこで、先般『漱石全集第四巻』(岩波書店、1956)で再読した『草枕』のページをぱらぱらとめくってみた。ぱらぱらとめくってみても、答が求まる問題ではないが、巻末にある小宮豊隆の「解説」が助けてくれた。小宮は、漱石が『草枕』を書いている間に知人に当てた手紙に、「是とても全部の漱石の趣味意見と申す訳に無之」と記していることを引きながらも、次のように記している。
勿論『草枕』の画工によって唱導された「非人情」説の境地は、後の漱石にも断えずあがこれの目標になっていた。[…中略…]漱石の晩年のモットオであった「則天去私」も亦『草枕』の「非人情」と重要な繋がりを持っている。しかし、この「則天去私」になるまでには、『草枕』の「非人情」説は、幾度もアンティテーゼを置かれて、十分鍛錬されなければならなかったのである。
これによれば、「非人情」は、『草枕』執筆当時の漱石としてはまだ到達し切れていなかったが、晩年に到達した境地である、ということになる。そうとなれば、「小説中の主人公がそのように考えるだけ」は、成り立たなくて、私は、『草枕』初読および再読の結果としての、「漱石の非人情説」への感想をどうまとめるか、という課題を自らに課さなければならない。これについては、日を改めて記すことにしたい。
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わが家のこの場所にモミジアオイの花が 1 日に最も多く咲いたのは 10 輪で、 2 回あった。写真は 2 回目の 8 月 23 日に撮影。(本文に無関係。)
This year, the largest number per day of the flowers of scarlet rose mallow that blossomed in this place of my yard was ten, and it happened twice. The photo was taken on the day of the second time, August 23. (Not related to the main text.)
M 君
貴君の「読んでおきたい本」のリストが、なかなか渋いものであることに感服しました。それでも、私の興味と重なるところがないではありません。王朝文学については、NHK ラジオで『枕草子』の朗読と解説のシリーズ番組があったときに、岩波文庫版を見ながら聞いていましたし、泉鏡花の作品は、高校時代に岩波文庫で少し読んだほか、比較的近年にも同文庫の『外科室・海域発電 他五篇』を読みました。また、"Good-bye, Mr. Chips" は私も大学で習い、かなり以前にテレビでその映画を見た影響で、新潮文庫の訳本も読みました。
世界史は大学受験の必須科目だったので、高校で習いましたが、雑談の多い先生で、中世以前ぐらいまでしか進まず、大部分は味気ない受験参考書での独学でした。それで、以前から何か読みたいと思い、 The Penguin History of the World (J. M. Roberts) という本を買っていながらが、なかなか読むにいたっていません。シャーロック・ホームズは、大学院生のとき、東大原子核研究所へ実験に行って、宿舎で時間を過ごす間などに、和訳で一通り読みました。貴君のように英語でも読みたい気はしますが、手が回りません。探偵ものにやや近いジャンルの SF では、H. G. Wells、Isaac Asimov から最近の物理学者が書いたものまで、英語で何冊か読みました。
ニーチェの『キリスト教は邪教です』の内容を紹介していただき、ありがとうございます。初耳の内容でした。『ツァラトゥストラ…』は、若い頃に新潮文庫版で読みましたが、ほとんど記憶に残っていません。
晴夫君が Sam の日記に最初に登場するのは、「夏休み中の登校日」 の末尾と、同じ日の日記ながら、次の記事に分割した「町内の海水浴に合流」でした。彼が紫中にいたことは覚えていません。貴君は私の日記に Jun の名で、ごく簡単な記述ながら、4 回登場しています(検索で出ます)。その年の 8 月 19 日には、Jack とお宅へ始めてお邪魔したようです。
K ・T さんなら The English Literature of Early 19th Century を持っているかも、とのことですが、年賀状ででも尋ねてご覧になってはいかがですか。彼女は同窓生には、なかなか親切です。[…略…]
さて、きょうの貴君のメールへの返事に移ります。貴君も筆矢選手の派手な守備をご記憶でしたか。1951 年 7 月 31 日の私の日記の「引用時の注」にも筆矢選手などのことを書いています。松ヶ枝、石引両小の名投手は、O 君とU 君ですね。彼らの思い出を大学時代の友人・Y君宛の手紙に書いたのを、ブログ記事 でご覧になれます。彼らのことは、他にも何度か書いたはずですが、すぐには思い出せません。
大乗寺といえば、昨年、故 Y・A さんの納骨の折にその門前に集合しました。A 家の墓はそこから少し、山へ登ったところでした。褐色で艶のある石に「A 家の墓」と横書きしたハイカラな墓で、Y さんは無神論者だったという理由で坊さんも呼ばず、姉君が準備した花束から少しずつを各人が分け取って墓前に供え、拝礼するだけの、簡素ながら心温まる納骨の儀でした。
長いメールになりました。悪しからず。
T. T.