2013年9月5日木曜日

漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」1 ("Detachment" Advocated for Arts by the Hero in Soseki's Kusamakura -1-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


秋雨の合間に咲いたカンナ。2013 年 9 月 3 日、わが家の庭で。
A flower of canna that bloomed in the lull of the autumn rain.
Taken in my yard on September 3, 2013.

漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」

 私が夏目漱石の『草枕』を初めて読んだのは高校 1 年生のときだった。そのときに次のような読後感を記している(1951 年 9 月 14 日付け)。
芸術の客観性ということが強く出ている。しかし、何もかもが第三者的立場のみから感受され、考察され、判断されたらどうだろう。それは、あくまで芸術の中だけのことであろう。躍動する生命を持っているわれわれは、何事にも直接ぶつかる場合が多い。そこでは自分を一つにして力闘することが必要だ。(何だか、よく分っていない。)
ここでいう「芸術の客観性」は、『草枕』では「非人情」という言葉で表されていて、芸術家が観察対象とする自然にはもちろん、人物にも情を交わさないで、傍観的態度で接することを意味している。

 私が上記の日記を最近、ブログ "Ted's Archives" に掲載したとき、「(何だか、よく分っていない。)」の箇所について、「引用時の注」として次のように記した。
自分の論旨がうまく閉じていないことを気にしたのだろう。「その力闘は、第三者的立場とは異なる。それゆえ、実人生にも関わる芸術に、客観性だけが強調されるのはどうかと思う」とでも続ければ、このときの考えが一応まとまるだろう。
しかし、この注の「」内を、この通りに高校時代の日記につないで、芸術の「非人情」に疑問を呈したのでは、日記中で「非人情」を「あくまで芸術の中だけのことであろう」と述べて、「芸術中」では一応よしとしていることと矛盾するようである。ただし、日記中の「芸術の中だけ」が「小説中の主人公がそのように考えるだけ」を意味すると取れば、必ずしも矛盾はしない。

 こう考えると、『草枕』の主人公が唱える「非人情」は、作品の中だけでよしとされているのか、漱石自身が追い求めた境地なのかということを知りたくなる。そこで、先般『漱石全集第四巻』(岩波書店、1956)で再読した『草枕』のページをぱらぱらとめくってみた。ぱらぱらとめくってみても、答が求まる問題ではないが、巻末にある小宮豊隆の「解説」が助けてくれた。小宮は、漱石が『草枕』を書いている間に知人に当てた手紙に、「是とても全部の漱石の趣味意見と申す訳に無之」と記していることを引きながらも、次のように記している。
勿論『草枕』の画工によって唱導された「非人情」説の境地は、後の漱石にも断えずあがこれの目標になっていた。[…中略…]漱石の晩年のモットオであった「則天去私」も亦『草枕』の「非人情」と重要な繋がりを持っている。しかし、この「則天去私」になるまでには、『草枕』の「非人情」説は、幾度もアンティテーゼを置かれて、十分鍛錬されなければならなかったのである。
 これによれば、「非人情」は、『草枕』執筆当時の漱石としてはまだ到達し切れていなかったが、晩年に到達した境地である、ということになる。そうとなれば、「小説中の主人公がそのように考えるだけ」は、成り立たなくて、私は、『草枕』初読および再読の結果としての、「漱石の非人情説」への感想をどうまとめるか、という課題を自らに課さなければならない。これについては、日を改めて記すことにしたい。

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