2016年6月19日日曜日

幼少年時代の絵 10 (Drawings in My Childhood. 10)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『グラブ』(1950 年、15 歳)。
"The glove" (1950, age 15).


清掃美化運動ポスター 3 等の賞状(1950 年、15 歳)。
The 3rd class certificate of merit for the beautification campaign poster (1950, age 15).

 一番目のイメージは、中学 3 年生の時に家で描いた作品であるが、学校で細かい短冊状の布切れを張り合わせて絵を作るための原画にしたものである。画用紙のサイズは、 285 mm × 221 mm である。布切れでの絵の製作に使用する原画は、自分で描いたものでなくてもよかったので、見栄えのする絵を手本にした生徒の作品に優れたものが多かった。そしてまた、布切れ細工では、平素の鉛筆や絵筆による絵で必ずしも優れた作品を生み出していない生徒たちが、驚くほど立派な作品を仕上げていて、これは普通の絵画とはかなり異なった能力が発揮される手法だと思った。

 この絵のグラブは従兄のお古で、引揚げ時に持ち帰り、中学生時代まで使用したが、その後、従兄に返した。従兄のお古のボールも一緒に持ち帰った。引揚げ後最初に間借りしていた家の長男さん(会社勤務)と、ある日曜日に近くの緩やかな坂道のところで、そのボールでキャッチボールをした。その時、彼の悪送球に私の手が届かず、ボールはてんてんと転がって溝へ落ち、さらに川へまで転げて行ってしまった。私は大切なボールを失って、長男さんの悪送球を大いに責めた。彼は「弁償すればいいんでしょう」といって、近くの店ですぐに新しいボールを買ってきて、同じ坂道のところでポンと投げてくれた。絵の中のボールは、その新しいボールである。古い絵は思いがけない記憶をよみがえらせてくれる。

 この絵の裏面には、まず「漆」という文字があり、ついで、これに関連する十数個の、主に漢字 2 文字の単語が並んでいる。図画か工作の時間に、そういう講義があり、先生が黒板に書かれた文字だけを写し取ったようである。最後に、「美しい/ 美術品/ 工芸品/芸術品」(縦書き。「/」は改行を示す)とある。「芸術品」が「美術品」「工芸品」よりも一文字上がっているのは、先生が芸術品の美しさを一段上と説明されたのだったか。

 二番目のイメージは、次回掲載予定の、もっと等級が上の賞状を探していたところ、一緒に出てきた、ほとんど忘れていた賞状である。しかし、この賞状を見ると、描いたポスターが思い出される。名案がなかなか思い浮かばなくて、学校への提出締め切り近くになってようやく描き上げたと思う。「まず汚すな!」の文字を入れて、紺色の制服姿の男子中学生が学校の廊下(ほとんど茶色づくめ)で体をかがめて、誰かが落として行った紙くずを拾おうとしている姿を描いた。絵の彩りや出来栄えは、われながらあまりよいとは思わなかったが、「まず汚すな!」の言葉がある程度救ってくれたのかもしれない。(つづく)

2016年6月18日土曜日

幼少年時代の絵 9 (Drawings in My Childhood. 9)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『校庭からの眺め』(1949 年、14 歳)。
"The view from the schoolyard" (1949, age 14).


『うちわ』(1949 年、14 歳)。
"The fan" (1949, age 14).

 上掲のイメージは、中学 2 年生の時に学校で描いた作品である。使用した画用紙は、 『校庭からの眺め』が 302 mm × 211 mm のやや厚手、『うちわ』が 256 mm × 354 mm の薄手のもので、中学 1 年生の時までに使ったものよりも、いくらか大きめになっている。戦後、年が経つとともに物資の供給状況がよくなってきたせいかと思われる。

 『校庭からの眺め』は、細かいところを大胆に省略して描いたように思われるかもしれないが、私はこの頃、近視がかなり進んで来ていたので、風景はおおよそこのようにしか見えていなかったのだろう。眼鏡をかけるようになったのは、中学 3 年の 1 学期途中からだった。右端の黒っぽい建物と大きな煙突は金沢大学医学部附属病院(当時はまだ金沢医科大学附属病院だったか)のもので、遠方の山並みは医王山(いおうぜん)である。

 『うちわ』は、工作の時間に実際にうちわを作るための案を描いたのだったかも知れない。(つづく)

2016年6月17日金曜日

幼少年時代の絵 8 (Drawings in My Childhood. 8)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『パレットと絵筆』(1948 年、13 歳)。
"The palette and paintbrushes" (1948, age 13).


『ニチニチソウ』(1948 年、13 歳)。
"The Madagascar periwinkle" (1948, age 13).

 上掲のイメージは、中学校 1 年生の図画の時間に描いた作品である。使用した画用紙は、 『パレットと絵筆』が 180 mm × 264 mm、『ニチニチソウ』が 270 mm × 190 mm の薄手のものである。

 『パレットと絵筆』には、名前の前に「第一学年十組」という所属の他に「5番」とも書いてある。これは、生年月日順に並べられた出席簿上の順番(女子は男子の後に続く)である。私の誕生日は 4 月 17 日で、かなり早い方だが、このクラスでは、金、柳瀬、岡部、数馬の諸君が、この順で私より早い生年月日の持ち主だった。先生が出席を取るたびに読み上げたので、いまなお私より前の名前だけを記憶している。そして、一学期の初めのうちは、座席も左端の一番前から後ろへと、この順に並んでいた。(つづく)

2016年6月14日火曜日

2016 年 4 月 11 日から 6 月 25 日までの記事への M・Y 君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts from April 11 to June 25, 2016)

[The main text of this post is in Japanese only.]


八重咲きの花(正確には総苞片が八重状になっている)をつけたドクダミ。恵那市明智町で、2016 年 6 月 11 日撮影。
Double flowers of fish mint; taken in Akechi, Ena, on June 11, 2016.

2016 年 4 月 11 日から 6 月 25 日までの記事への M・Y 君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2016 年 6 月 10 日付けで貰った。文末の注の部分に、消滅した過去の記事が紹介してあるのには驚いた。以下に引用して紹介する(一部訂正を施した)。(文中、「筆者」とあるのは、感想の対象であるブログ記事の筆者、T・T を意味する。)



 筆者は幼少の頃から絵を描くことが大好きだったことが、今回紹介する記事で明らかにされました。「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」に始まり、「幼少時代の絵」(1~7、なお継続中)と題し、大連への転居、敗戦による引き揚げ後、金沢市の小学校に転入し中学校に進学するなど、生活環境の変化にもかかわらず、大切に保存した数々の絵を取り上げ、幼少期を回顧し、語っています。どの絵も描かれた学年を基準に観ると優れた作品です。『鍾馗(しょうき)』(「幼少時代の絵 2」)には闊達な筆使いと鮮やかさで引き付けられます。

 「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」は、持ち物が最小限に制限される引揚げ時に絵の手本『明治神宮外苑』(石井柏亭・画)を持ち帰ったいきさつ、その絵の中の建物が TV 番組から「聖徳記念絵画館」と分ったこと、そして、大連小学校同期生の画家から石井画伯の名が懐かしい思い出につながっていると聞いたことを、一つの線上に浮かびあがらせた名作です。

 「幼少時代の絵 1」には、七尾市の国民学校 2 年の時、クラス担任だった若い女性の先生が突然亡くなられ、先生の思い出を告別式で朗読したことが述べられています。「幼少時代の絵 4」では、学校で配布されて使用した用紙の裏の印刷を見て、「学齢児童氏名」「保護者」「就学」などの欄があり、「学齢児童氏名」欄の下には、「本籍」などに続いて「渡満年月」という欄があり、大連や旧満州内で使用された独特の様式であったことに思いを馳せています。また、敗戦後大連の家に同居した Y 子さん(故人、文末の注参照)との出会いの絆を大切にし、生涯の友としたことにも触れてあるのが印象に残りました。日を追ってブログに掲載される構成がよく考えられていて、読みやすく、興味深く拝読しています。

 時間をかけて一枚一枚の絵を精査し、当時の社会も加味し、広い視野に立って追憶した物語を読み、筆者の必要なものの保管のよさや記憶力、推察力と文章力に感心しました。喜寿を記念して開催された『水彩画トキルト 親子展』の後に幼少年時代の絵についてまとめられているのは、時宜を得た意義深いことだと思います。

 この一連のブログ記事を読まれる方の便宜のため、筆者の学齢と在籍学校等を下記にまとめてみました。
  • 1942(昭和 17)年、七尾市の国民学校入学。
  • 1943(昭和 18)年、2年生。
  • 1944(昭和 19)年、3年生。4月、父君逝去。9 月初めに祖父君を頼って大連市へ転居。大連嶺前国民学校に転入。
  • 1945(昭和 20)年、4 年生。8 月 15 日敗戦。
  • 1946(昭和 21)年、5 年生。2 学期の途中で仮終業式をして閉校。
  • 1947(昭和 22)年、大連から引き揚げ、金沢市の国民学校に転入。4月、小学校 6 年生。

 一般的にいって、興味あることについてはよく記憶しており、忘れていたことも、写真や関連した文書など見ると記憶が蘇ってくるものです。私は、絵に関しては何年生の授業でどんな絵を描いたかについて、断片的な記憶があるのみです。1 年生の後半に絵日記を書くことが宿題になっていましたが、手元にないので、内容は憶えていません。工作については、実利的な意味もあり、興味を持っていましたので、造ったものや、その状況をよく憶えています。教科書の記憶については、「幼少年時代の絵 3」の爆弾三勇士の説明に引用してあった『小さな資料室』の、「資料 156」[国民学校国語教科書『初等科國語二』(3 年後期用)]を開いて確かめると、多くの表題とその概容についてぼんやりとではありますが、思い出されて、懐かしく拝見しました。

 爆弾三勇士については、3 年生の 3 学期に習いました。上海にいた時、遠足でその戦場の廟行鎮(びょうこうちん)に行き、攻め落としたトーチカ群やその前に張られていたという鉄条網の位置、かなり近距離の日本軍の攻撃開始位置など観察していましたので、この授業はよく記憶しています。経験豊富な女性の先生だけあって、与謝野鉄幹作詞(作詞者と詩作の動機などは後年知りました)「爆弾三勇士の歌」も教えてくれました。このメロディーは陸軍部隊が行軍する時に歌うに適した軍歌だと思ったものでした。ちなみに、憶えていた歌詞は次の通りです。
1. 廟行鎮の敵の陣/我の友隊すでに攻む/折から凍る如月の/二十二日の午前五時
2. 命令下る正面に/開け歩兵の突撃路/待ちかねたりと工兵の/誰か後をとるべきや
[引用者注:この歌は 10 番まであり、全歌詞はこちらやこちらでご覧になれます。後者のウェブページには、爆弾三勇士とされた兵士らの行動の真相も記されています。]

 [注]”Ted’s Coffeehouse" 2008 年 6 月 27 日付けの記事「(続)『大連物語』を読んで」には、Y 子さんの母親 I・A さんの著書『大連物語』への感想文(I・A さん宛)の後半が引用されていて、その中に、A 家と筆者の関係が詳しく述べられていました[引用者注:"Ted’s Coffeehouse" 旧サイトは消滅し、一部の記事を現サイトに復元しましたが、この記事はまだ復元出来ていません]。筆者はその前文で、「A 家にわが家の二階に住んで貰うような事態になったのは、戦後、中国人が支配した大連市役所の「住宅調整」命令によるものだったが、当時の私はそのことを知らなかった。満州の奥地や中国の青島あたりから多くの人々が引き揚げに備えて大連に集まってきて、大連の人口が増えたことだけが原因だと思っていたのである。[…]不確かだった私の認識は、富永孝子著『大連・空白の六百日』(新評論、1986年)と『大連物語』によって修正されたのである」と述べています。

2016年6月5日日曜日

幼少年時代の絵 7 (Drawings in My Childhood. 7)

[The main text of this post is in Japanese only.]


『校内一隅』(1947 年、12 歳)。
"The inside corner of the school" (1947, age 12).


『手』(1947 年、12 歳)。
"The hand" (1947, age 12).


『足』(1947 年、12 歳)。
"The foot" (1947, age 12).

 上掲のイメージは、いずれも小学校 6 年生の図画の時間に描いた作品で、『手』と『足』は 1 枚の画用紙の表と裏に描かれている。使用した画用紙は、『校内一隅』と『手・足』ともに 265 mm × 180 mm の大きさで、薄手のものである。

 『校内一隅』は廊下の端か、図画工作室の一隅か。正面に水道栓が並んでいて、その上に掲示板がある。この絵の裏面には四重丸の評価があり、『手』と『足』には何も評価がないが、どちらも上部の両端に画鋲で止めて飾られていた跡がある。

 『手』と『足』は粘土細工のためのデッサンだったかも知れない。粘土を各自が用意して持参する必要があったが、それほど大量の粘土がどこで得られるかが分からなくて困った記憶がある。おもちゃ屋で手に入る幼児の粘土細工遊び用のものでは、とても足りないと思った。しかし、結局どのようにして準備したのかは覚えていない。

 小学生時代の絵で手元にあるのは以上であるが、私は 1 組の N 君、3 組の T 君らとともに、卒業生が記念に学校に残す絵の作者に選ばれ、冬も近いある日、揃って兼六園へ写生に行った。私が選んだ写生の場所は、あつかましくも、兼六園の観光写真によく使われる徽軫(ことじ)灯篭を視野の右端に置いた霞が池の風景だった。描いていると、私より低学年と思われる他校の女児たち数名が寄ってきて、多勢を頼りに冷やかしの言葉をかけたりした。私は小用をたしに行く必要を感じていたので、彼女たちを絵と画材の見張り役に利用した。

 描き上げて学校へ戻ると、図画の先生がちょっと首をかしげてから絵筆をとって、上からベタベタと修正された。私の着彩は弱々しくて、そのままでは惜しいと思われたのだろう。T 君が修正結果を見て 「見違えるようになったね」といってくれたのは、喜んでよいのかどうか、迷うところであった。その絵は講堂へ向かう廊下の上部に飾られた。あれから 70 年近く経ったいま、同じ風景をもう一度描いてみたいと思っている。(つづく)