2018年1月25日木曜日

2017 年 9 月 27 日〜 2018 年 1 月 5 日分記事への M・Y 君の感想 1 (M.Y's Comments on My Blog Posts from September 27, 2017, to January 5, 2018 -1-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭に咲いたネリネ。今年、茎が 1 本増えて、2 本になった。
2018 年 1 月 3 日撮影。
Flowers of spider lily in our garden. This year, the second stem newly appeared.
Photograph taken on January 3, 2018.

2017 年 9 月 27 日〜 2018 年 1 月 5 日分記事への M・Y 君の感想 1

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2018 年 1 月 22 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。(M・Y 君の感想には「筆者」の語が多く出てくる。この語は文を書いている自分自身を指す場合にも用いられるが、ここでは感想の対象になっているブログの筆者 T・T を指していることに留意されたい。)



1. 母校の旧校舎が国重要文化財に
 郷里に住む中学同期生の K・T さんからの賀状に、「我らが紫中(旧二中)の三尖塔がなんとかかんとかの遺産に指定されました」という添え書きがあった。インターネット検索をしてみた結果、私たちが学んだ時代にはまだ現役の校舎の一部として使われていた「三尖塔校舎」が、「旧石川県第二中学校本館」として昨 2017 年 11 月 28 日に国重要文化財の指定を受けたのだということが、同校舎を現在利用している「金沢くらしの博物館」のウェブページ「三尖塔校舎」で分かった。
として、これにまつわる話が述べられています。リンクされているウェブページ中に金沢市立紫錦台中学校の変革などが書かれており、同校は由緒ある優れた学校で、下記のような戦後の学制改革の混乱時から新制中学校として勉学の場を提供する役割を果たしたことが分かり、感銘をうけました。

 戦後 1946 年に新学制(6・3・3・4制《小学・中学・高等学校・大学》)が施行されました(アメリカ教育使節団の報告に基づく改革)。一時私の住んでいた県では新制中学校として新しい学校が建設され、高校は旧制中学校と女学校が校舎として利用され、いずれも男女共学でした。私どもは新学制の 2 回生でしたので、中学創設後 2 年目に入学しました。新制中学校が創設されたものの、校舎はまだなく、間借りした小学校と廃止になった青年学校の校舎をとりあえず使用することで、新制中学校はスタートしました。新しい校舎が出来、講堂を含めた中学校学舎が完成したのは、卒業の直前で、辛うじて卒業式に間に合いました。

 この過渡期に生徒は A 小学校、B 小学校(A、B は中学校の通学区域の小学校)青年学校に学年毎に分散して通学していました。先生は自転車などで、時間割に応じて三つの学校を行ったり来たりして授業を担当していました。今からは考えられないのんびりしたものでした。家が農業の人も多かったので、春・秋の農繁期(田植え、稲刈り)には農繁休暇が 4~5 日ありました。農家でない生徒にはありがたい休暇でした。石川県では新学制移行期に立派な学舎があったことを初めて知りました。

 [T・T の注:私たちの学区の新制中学は、幸運にも旧制中学の校舎を転用することになりましたが、新しく校舎を建設する必要のあった学区も多く、そういうところでは一時的に他の新制中学へ分散して学んだり、仮校舎時代があったりして、石川県全体としては、Y 君の住まわれた県と事情は大差なかったと思います。]

2. 2018 年始めのごあいさつ

 奥様の年賀状の挿絵として、奥様が登った思い出の山の一つである燕岳を、筆者が『週刊 続 日本百名山』Vol. 2(朝日新聞社、2002)の表紙写真(撮影・白旗史朗)を参考に描いたという絵は、2017 年 9 月 11 日掲載の水彩画『鳳凰山・地蔵岳』の絵[『週刊 日本百名山』No. 05(朝日新聞社、2001)の表紙写真による]と比べると、前者は白、黒、空色の3色で日本画的な絵画であり、後者は色彩豊かな洋画風です。筆者の長年にわたる趣味の絵画がこのような域に達していることをこの二つの絵が如実に語っているようです。

 [T・T の注:前者の絵は、参考にした写真が冬景色だったことと、短時間で簡略化して描いたことのため、たまたま日本画風の雰囲気になりました。白、黒、空色の他に、薄茶色や紫色なども少し使っています。]
(つづく)

2018年1月22日月曜日

有馬温泉へ (Went to Arima-Onsen Hot Spring)

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「かんぽの宿有馬」の客室からの眺め。上の 2 枚が水彩絵具による今回のスケッチで、
3 枚目は色鉛筆による約 1 年前のもの。
Sketches at Kampo-no-yado Arima Hotel. The top two pieces are watercolor works of this time,
and the third piece was made with colored pencils about one year ago.

 2018 年 1 月 17 日から「かんぽの宿」を利用して、妻と有馬温泉へ一泊の旅をした。昨年も 1 月に「かんぽの宿有馬」に宿泊したが、その折には宿の温泉施設が工事中で、宿からバスで外湯へ連れて行かれた(その不便さの分だけ、宿泊費が割安だった)。今回は、会員向けの「ゆったりのんびりプラン」(昼食付き)というのがあったので、それを利用した。このプランでは、二日目の午前いっぱい部屋でゆっくりできるので、いつもの旅行に携行するスケッチ用具中の色鉛筆に替えて、水彩画用の道具を持参した。

 上掲のイメージのうち、上の 2 枚が今回のスケッチで、3 枚目は昨年のもの。いずれも部屋の窓からの風景を描いている。今回は 3 階の和室、前回は、階は記憶していないが、洋室だった。宿が斜面に建っているため、 3 階の和室の床と同じくらいの高さのところに、宿の側面にある庭園の地面があった。

 1 枚目と 3 枚目の左寄りに描かれている建物は、どちらも「かんぽの宿」の隣に立つ同じホテルの一部で、1 枚目では前を通る道路から見て奥の部分、3 枚目では前方の部分が見えている。水彩絵具によるスケッチでは、筆を洗ったり、別の紙に試し塗りをしたりする必要があるため、時間がかかりそうに思われたが、色鉛筆の場合よりも広い面積を一気に着彩出来るので、むしろ早く仕上がるようだった。

 2 枚目に描いた苔のむす古木は、何の木か分からないが、その立派な姿に見とれて描いた。見とれるあまり太く描き過ぎてはいけないと思い、手加減をした。その結果、帰宅後に写真と比較すると、太さが不十分だったと気づいた。

2018年1月5日金曜日

母校の旧校舎が国重要文化財に (Old Building of My Alma Mater Became a National Important Cultural Property)

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旧石川県第二中学校本館の一部(1950年頃の撮影)。
Part of the main building of former Ishikawa Prefecture Second Middle School (taken around 1950).

 郷里に住む中学同期生の K・T さんからの賀状に、「我らが紫中(旧二中)の三尖塔がなんとかかんとかの遺産に指定されました」という添え書きがあった。どういう名称の遺産だろうかと、インターネット検索をしてみた。その結果、私たちが学んだ時代にはまだ現役の校舎の一部として使われていた「三尖塔校舎」が、「旧石川県第二中学校本館」として昨 2017 年 11 月 28 日に国重要文化財の指定を受けたのだということが、同校舎を現在利用している「金沢くらしの博物館」のウェブページ「三尖塔校舎」で分かった。

 同校舎は、明治 32 年(1899)に石川県第二中学校の校舎として建てられ、入り組んだ屋根、玄関の車寄せ、上げ下げ窓、胴蛇腹、ランプ吊りなど、明治時代の西洋風木造学校建築を今に残した貴重な建物だということである。同ページの略年表によれば、石川県第二中学校は明治 40 年(1907)3 月に石川県立金沢第二中学校と改称されたのである。私が母校の前身として知っていた名称は、この改称後のもの(略称「金沢二中」)である。そのページには、「三尖塔校舎」という呼び名は、左右両翼の尖塔に加え、正面玄関の上にある屋根も尖塔と見立てて、金沢二中時代から広く使われてきたものである旨の記述もある。尖塔は二つしか見当たらないのに、どうして「三尖塔校舎」かと、中学生時代から不思議に思っていた謎が、ようやく解けた。

 私は 2011 年に金沢を訪れた際、同校舎の一部の写真を撮っている(こちらに掲載)。その写真には、正面玄関上部の三角屋根と左翼上部の尖塔が写っている。卒業時の記念に学校で購入した校舎の写真はどうなっていただろうかと、古いアルバムを引っ張り出してコピーしたのが上掲の写真である。こちらには逆に、半ば木の陰になった右翼上部の尖塔と正面玄関上部の三角屋根とが写っている。「三尖塔」を揃えて写すことは、大きく成長した植木もあって、正面付近からでは困難なようだ。私たちの時代から現在に至る母校の正式名称は「金沢市立紫錦台中学校」で、そのウェブページの一つ、「紫錦写真館」上の航空写真の何枚かには「三尖塔」をまとめて見ることのできるものがある。

 この「国重要文化財指定」の件を、神戸に住む元同級生 T・K 君に携帯電話へのメールで知らせたところ、「中学の新聞のトップの挿し絵になっていた建物ですね。すごいですね」という返信が来た。そういえば、T・K 君も私も中学の新聞部に所属して、学校新聞『紫錦』の初期の号の編集にあたっていたのでる。題字とつり合いよく縦長の枠内に描かれていた、避雷針を伴った尖塔の一つの巧みな絵(図画の先生が描かれたのだろうか)は、いまでもおぼろげながら頭に残っている。

 なお、上掲の写真の当時には、中学の前の通りを市電が走っていたので、そのレールも写っているが、その後市電がなくなったのは残念である。

2018年1月1日月曜日

2018 年初めのごあいさつ (Greetings for the New Year of 2018)

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妻の年賀状の挿絵として、彼女が登った思い出の山の一つである燕岳を、私が『週刊 続 日本百名山』Vol. 2(朝日新聞社、2002)の表紙写真(撮影・白旗史朗)を参考に描いたもの。
A picture I made for my wife's New Year card, showing Mt. Tsubakuro-dake,
one of the mountains she climbed.

新年おめでとうございます

犬を解きおのれを解くや大枯野
         ——萩原季葉『雁の頃』

 同じ句集に「元旦の袴の腰に万歩計」
 大岡信『折々のうた』の解説から推定すると
定年退官後に句集を出し始めた萩原氏が 4 冊目の
上記句集を出したのは 91 歳の時
 氏の元気さにあやかるとともに
わが国を戦争する国に逆戻りさせないよう
声を上げ続けたいものです

 皆様のご健康とご幸福をお祈りします

2017年12月8日金曜日

京丹後へのバス旅行 -5- (Bus Trip to Kyōtango -5-)

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旧川嶋酒造の酒蔵。
Sake cellar of old Kawashima Brewing Company.


井筒屋旅館。
Izutsuya Inn.


天神橋の欄干の模様。
Design of Tenjin Bridge railing.


旧加悦町役場庁舎。
Old Kaya Town Hall.

 [以下の記述は、 ウェブページ「ちりめん街道観光マップ」を同時に開いておいて、そちらと見比べながら読むと、分かりやすいであろう。そのマップでは、右側が北になっていることに注意されたい。]

 旧尾藤家住宅の少し北、右手に、旧川嶋酒造の酒蔵が残っている(1 枚目の写真)。酒造という生業と生活空間を組み合わせた昭和初期の建築として注目されているという。写真右上に見えるのは、換気・煙または蒸気出しなどのための「越屋根」で、普通は屋根の上の簡略な小屋根だが、この酒蔵ではガラス窓入りで部屋風の立派な造りになっている。

 街道をさらに北上すると、左手に井筒屋旅館がある(2 枚目の写真)。明治 23 年(1890)創業の老舗旅館で、建物は昭和 8 年(1933)に再建された。玄関は堂々とした構えになっており、昔ながらの街道の雰囲気を残し、今も営業している。井筒屋旅館の近くを流れる小川に昭和 9 年(1934)に架けられた天神橋があり、その欄干には、今の若い旅行者たちが喜びそうな模様がある(3 枚目の写真)。45 度傾斜したハート型の集まりと見られるものである。

 街道の最北端には、道の西側に旧加悦町役場庁舎が残る。丹後大震災後の昭和 4 年(1929)に完成したもので、甲子園球場を設計した、当時大林組設計部長の今林彦太郎が設計を担当したそうだ。私たちはここへ最後に到達したが、現在は「ちりめん街道案内・休憩所」として使用されており、個人的に観光するには、ここを出発点とするのが便利だろう。

 語り部の説明を聞きながら、同行の旅行客の見学の邪魔にならないように、また、同旅行客が写真中に大きくは入らないようにしながらの写真撮影で、被写体に対して絶好のアングルで狙えなかった場合が多かった。しかし、「ちりめん街道観光マップ」と照らし合わせてみると、大部分の観光ポイントをなんとか撮影できていた。帰途のバスは交通渋滞に会って、予定よりも 30 分ほど遅れて大阪に到着したが、充実した旅だった。なお、「ちりめん街道」の各観光スポットの説明には、同街道ウェブサイトにある記述を参考にした。(完)