
わが家の庭に咲いたネリネの花。2019 年 12 月 28 日撮影。
Diamond-lily flowers which bloomed in my yard; taken on December 28, 2019.
「故郷を離るる歌」にまつわる思い出
「まくらが歌謡楽団」のブログ "makuragakayogakudan" を書いている櫻ミサさん(ペンネーム)と、このほど 「ブログサークル」という SNS を通じて、「歌声」のキーワードから知り合った。そして、櫻さんが同 SNS に作った「歌声の催しで最も好きな 1 曲は?」という趣旨の掲示板に投稿をしたところ、「美しい文で、私だけが読ませていただくのはもったいないような気がする」といわれ、彼女のブログにもその投稿を転載して貰うことになった。
投稿文は、あまり長くならないように書いたため、説明不足の点があり、拡張版をここに掲載しようと思った。しかし、それは「好きな曲」から外れた長い昔話になりそうなので、まずは、投稿文そのものを、若干修正して引用し、この記事の中心は、その投稿文の前半にある思い出の詳述ということにしたい。
実は、引用文中の「1947 年 1 月頃」というのは半ば創作で、もう少し早い時期だった可能性が大きい。Y 子さんも私も小学校 5 年生だった遠い昔のことである。祖父、伯母、従姉、母を含む私の家族が大連から引き揚げたのは Y 子さん一家より一足先だったが、どちらも 1947 年 2 月だった。したがって、Y 子さんと 1 歳年長のその姉君・R 子さんによる「故郷を離るる歌」をよく聞いたのは、2 月よりも前であることだけは確かである。それは、何日間かに及ぶ早朝、元々は私たち家族の住まいでありながら、当時 5 家族が同居していた家の中でのことである。6 人家族だった Y 子さん一家に、私たちの家の 2 階の一室に入って貰わなければならない事態になっていたお陰ともいえる。
私は、そのような事態になったのは、大連港からの引き揚げに備えて、旧満洲を含む中国各地から参集した人たちを受け入れるためだったとばかり思っていたが、それ以外にも大きな理由があったことを、のちに本を読んで知った[文献 1、2][注 1]。戦後間もなく中国人が支配するようになった大連市政府から「日僑人民住宅調整」という命令が 1946 年 7 月初めに出されたというのが、その理由である[文献 1、p. 125]。中国人と日本人の住宅不均衡を平均化しようという提案のもとに、その調整権限は日本人労働組合に委ねられたのだった[文献 2、p. 383]。
Y 子さん一家が、わが家の後ろにあった自宅から私たちの家の 2 階へ移って来た時期についても、私は記憶がはっきりしていなかったが、いま文献 1 を見ると、その p. 136 に、住宅調整期限ぎりぎりの 1946 年 9 月末だったように記されている。そうだとすれば、Y 子さんたちが「故郷を離るる歌」を盛んに歌いながら、2 階から 1 階の台所へ降りて来ていたのは、引越し早々で、まだ自宅生活の気分から抜けきれなかった秋のことだったのかもしれない。私は台所に隣り合う部屋に起居していて、食糧不足の苦しい生活の中[注 2]、彼女たちの歌声を心温まる思いで聞き、「故郷を離るる歌」を覚えたのである。
Y 子さんには、もう一人、私より数歳年長の姉君・K さんがいた。文献 1 を読み返すと、一家がわが家の 2 階へ引っ越すにあたっては、K さんの誕生以来備わっていたピアノを、ブローカーの手を経て、ソ連人将校夫妻に買って貰ったことが述べられている。このことから思えば、Y 子さん姉妹は幼少時から音楽によく親しんでいたのである。K さんはのちに小学校の音楽教師になり、R 子さんも中高年頃に地域のコーラス・グループに参加していたと聞いた。Y 子さんは大学生時代に、学内の歌声運動でリーダー的役割を務めていたと、間接的に聞いたことがある。
歌声の催しで私がリクェストして来たいろいろな歌の中で、Y 子さんが歌っていたのを聞いたのではないが、彼女を思い起こす歌が他に 3 曲ばかりある。そのうちの一つ、「ケセラ・セラ」については先に記した(ここでの「Y 子さん」を、その記事では「A さん」と記している)。残りの歌については、またの機会に書きたい。
なお、Y 子さんが亡くなった知らせを聞いて記した追悼記事でも、「故郷を離るる歌」に一言触れた。それによれば、私は大連で一旦聞き覚えたこの歌の歌詞を忘れていて、「歌声喫茶」の歌集で改めて覚え直したのであった。また、「故郷を離るる歌」の日本語歌詞の訳詞者が吉丸一昌であることは、いま知ったばかりだが、彼は、父が好んでいたと母から聞いた唯一の歌「早春賦」の作詞者でもあることは、不思議な巡り合わせである。
[注]
「まくらが歌謡楽団」のブログ "makuragakayogakudan" を書いている櫻ミサさん(ペンネーム)と、このほど 「ブログサークル」という SNS を通じて、「歌声」のキーワードから知り合った。そして、櫻さんが同 SNS に作った「歌声の催しで最も好きな 1 曲は?」という趣旨の掲示板に投稿をしたところ、「美しい文で、私だけが読ませていただくのはもったいないような気がする」といわれ、彼女のブログにもその投稿を転載して貰うことになった。
投稿文は、あまり長くならないように書いたため、説明不足の点があり、拡張版をここに掲載しようと思った。しかし、それは「好きな曲」から外れた長い昔話になりそうなので、まずは、投稿文そのものを、若干修正して引用し、この記事の中心は、その投稿文の前半にある思い出の詳述ということにしたい。
1 曲を選ぶのは本当に難しい。この 1 月という月にプライベートに関係することを理由に選べば、ドイツ民謡「故郷を離るる歌」である。戦後の大連で、引き揚げを前にした 1947 年 1 月頃、幼友だち・Y 子さんとその姉君がよく歌っていた。私は石川県の金沢市で生まれ、たまたま敗戦前年に大連へ移住した。他方、彼女たちは大連生まれで、引き揚げを待ち望んではいても、「故郷を離るる」悲しみも深かったに違いない。Y 子さん一家の引き揚げ先も同じ石川県だったので、彼女と大学生時代に再会し、友人関係はずっと続いた。そして、彼女は 9 年前の 1 月に金沢の病院で亡くなった。今月参加する歌声の会では、この歌をぜひリクェストして、彼女の追悼をしたいと思っている。
実は、引用文中の「1947 年 1 月頃」というのは半ば創作で、もう少し早い時期だった可能性が大きい。Y 子さんも私も小学校 5 年生だった遠い昔のことである。祖父、伯母、従姉、母を含む私の家族が大連から引き揚げたのは Y 子さん一家より一足先だったが、どちらも 1947 年 2 月だった。したがって、Y 子さんと 1 歳年長のその姉君・R 子さんによる「故郷を離るる歌」をよく聞いたのは、2 月よりも前であることだけは確かである。それは、何日間かに及ぶ早朝、元々は私たち家族の住まいでありながら、当時 5 家族が同居していた家の中でのことである。6 人家族だった Y 子さん一家に、私たちの家の 2 階の一室に入って貰わなければならない事態になっていたお陰ともいえる。
私は、そのような事態になったのは、大連港からの引き揚げに備えて、旧満洲を含む中国各地から参集した人たちを受け入れるためだったとばかり思っていたが、それ以外にも大きな理由があったことを、のちに本を読んで知った[文献 1、2][注 1]。戦後間もなく中国人が支配するようになった大連市政府から「日僑人民住宅調整」という命令が 1946 年 7 月初めに出されたというのが、その理由である[文献 1、p. 125]。中国人と日本人の住宅不均衡を平均化しようという提案のもとに、その調整権限は日本人労働組合に委ねられたのだった[文献 2、p. 383]。
Y 子さん一家が、わが家の後ろにあった自宅から私たちの家の 2 階へ移って来た時期についても、私は記憶がはっきりしていなかったが、いま文献 1 を見ると、その p. 136 に、住宅調整期限ぎりぎりの 1946 年 9 月末だったように記されている。そうだとすれば、Y 子さんたちが「故郷を離るる歌」を盛んに歌いながら、2 階から 1 階の台所へ降りて来ていたのは、引越し早々で、まだ自宅生活の気分から抜けきれなかった秋のことだったのかもしれない。私は台所に隣り合う部屋に起居していて、食糧不足の苦しい生活の中[注 2]、彼女たちの歌声を心温まる思いで聞き、「故郷を離るる歌」を覚えたのである。
Y 子さんには、もう一人、私より数歳年長の姉君・K さんがいた。文献 1 を読み返すと、一家がわが家の 2 階へ引っ越すにあたっては、K さんの誕生以来備わっていたピアノを、ブローカーの手を経て、ソ連人将校夫妻に買って貰ったことが述べられている。このことから思えば、Y 子さん姉妹は幼少時から音楽によく親しんでいたのである。K さんはのちに小学校の音楽教師になり、R 子さんも中高年頃に地域のコーラス・グループに参加していたと聞いた。Y 子さんは大学生時代に、学内の歌声運動でリーダー的役割を務めていたと、間接的に聞いたことがある。
歌声の催しで私がリクェストして来たいろいろな歌の中で、Y 子さんが歌っていたのを聞いたのではないが、彼女を思い起こす歌が他に 3 曲ばかりある。そのうちの一つ、「ケセラ・セラ」については先に記した(ここでの「Y 子さん」を、その記事では「A さん」と記している)。残りの歌については、またの機会に書きたい。
なお、Y 子さんが亡くなった知らせを聞いて記した追悼記事でも、「故郷を離るる歌」に一言触れた。それによれば、私は大連で一旦聞き覚えたこの歌の歌詞を忘れていて、「歌声喫茶」の歌集で改めて覚え直したのであった。また、「故郷を離るる歌」の日本語歌詞の訳詞者が吉丸一昌であることは、いま知ったばかりだが、彼は、父が好んでいたと母から聞いた唯一の歌「早春賦」の作詞者でもあることは、不思議な巡り合わせである。
[注]
- 文献 1 は Y 子さんの母君の作品で、ご自身とその家族や周囲の人たちをモデルに、戦後の大連での日本人の暮らしを描き、第 13 回金沢市文学賞を受賞した。
- 私の家族には祖母もいたのだが、引き揚げのわずか前の 1947 年 1 月 29 日、かの地で亡くなった。死因についての医師の診断書は、「栄養失調」だったと母から聞いた。より詳しくは文献 1(p. 116)で知った。口内から食道や胃に至るまでの粘膜が炎症に冒される「高梁病(こうりゃんびょう)」が元だったということである。高梁は中国で主食に使用されていた作物であり、高梁食には油脂の併用が欠かせない。戦後の大連の日本人は白米が入手出来ないことから、高梁食を白米食の時と同じ淡白な(かつ少量しか入手できない)副食物と一緒に摂取していたため、繊細な体質だった祖母にその弊害が出たのである。
- 浅野幾代、『大連物語』(北国出版、金沢、1985)。
- 富永孝子、『大連・空白の六百日』(新評論、東京、1986)。








