2007年9月19日水曜日

「ふと思いあたった」の謎

 湯川秀樹博士は1933年4月、東北大学で開催された日本数学物理学会年会において、「核内電子の問題に対する一考察」という、「生まれて初めての研究発表」(湯川著『旅人』の表現による)を行った。その要旨 [1] 中には、次のようなところがある。

…輻射との類推により(輻射が電子、陽子間の相互作用の仲介者であつたと同様な意味で)電子が陽子と中性子との間の相互作用の仲介者であって、核内に於ては電子は一種の場の如く作用すると考へられる。
而して上に述べた様な形の電子に関する方程式を解けば、中性子と陽子との間の相互作用がわかる筈である。電子には静止質量のあることからして中性子と陽子との間の距離が h/(2πmc) に比して大きくなれば相互作用の勢力は急激に減少することが想像される。…

 これによれば、湯川博士はこの要旨を書いた時点において、すでに、核力の到達距離と、核力を媒介する粒子の質量が逆比例の関係にあることに気づいていたことになる。

 他方、湯川博士の自伝『旅人』には、次のように述べられている。

十月初めのある晩、私はふと思いあたった。核力は、非常に短い到達距離しか持っていない。それは十兆分の二センチ程度である。このことは前からわかっていた。私の気づいたことは、この到達距離と、核力に付随する新粒子の質量とは、たがいに逆比例するだろうということである。こんなことに、私は今までどうして気がつかなかったのだろう。

 「十月」とは1934年10月のことであり、この記述は、1933年春の学会講演要旨と矛盾するように思われる。湯川博士は『旅人』を書く際に、講演要旨のことを忘れていたのだろうか。または、中間子論の着想をドラマティックに表現するため、ここでは創作を行ったのだろうか。あるいは、『旅人』を連載していた朝日紙の担当記者の入れ知恵によって、このように書いたのだろうか。――この謎に対する答えは、日本物理学会誌・湯川追悼特集号中の、河辺・小沼両氏による記事 [2] に見出すことができるようだ。

 その記事には、湯川博士が1933年春の学会講演要旨を書いたすぐあとで、要旨に記した核力の到達距離と媒介粒子の質量の関係を、いったん否定していたことが記されている。すなわち、湯川博士は講演原稿中では「実際計算すると出てこない」と訂正し、また、その頃書かれた「ボーズ電子論」という草稿(「談話会及び Colloquium 原稿, 1934-1935」というファイルに保存されていたもの)に「…電子のコンプトン波長を含む項は一種の位相因子として入り、…距離と共に急激に減少するとは言えないという結論に導かれる」と記していたのである。このように一度はほうむり去られた関係だったので、再発見の必要があったと見るべきだろう。

  1. 『数物学会誌』第7巻第2号; 日本物理学会編『日本の物理学史』下 資料編 (東海大学出版会, 1978) p. 319 に再録; 朝永振一郎「量子力学と私」[『朝永振一郎著作集11』(みすず書房) と『物理学と私』(岩波文庫) に所収] にも解説とともに引用されている.

  2. 河辺六男, 小沼通二, 日本物理学会誌 37, 265 (1982); 九後汰一郎, 数理科学 No. 522, 19 (2006) に、関連箇所が引用されている.

2007年8月5日日曜日

被引用の多い湯川論文は?

 湯川博士のノーベル賞論文(中間子論第1論文)は、偉大であるといっても、発表から72年を経過した古典であり、要点は教科書などで読める。最近の論文がその原論文をわざわざ引用することは滅多になさそうである。その後に発表された博士の非局所場の理論や、素領域の理論などの論文は、これと比べて、どの程度引用されているのだろうか。――このような疑問を解くため、Google Scholar で、"H Yukawa" と入力して検索したところ、66編の論文が出て来た。各論文の書誌データのあとに被引用数が記されている。ただし、現在 Google Scholar に出るのは、ある年以降の論文で、被引用数も主要な専門誌に引用されたものに限られているようだ [1]。

 被引用のベスト3は、次の通りである(2007年8月4日調べ)。

  1. 1950年の Physical Review に掲載の非局所場理論の第1論文 "Quantum Theory of Non-Local Fields. Part I. Free Fields" 101件

  2. 1953年の同誌に掲載の素粒子の構造と質量スペクトルに関する第1論文 "Structure and Mass Spectrum of Elementary Particles. I. General Considerations" 85件

  3. 1955年に Supplement of the Progress of Theoretical Physics に再録されたノーベル賞論文 "On the Interaction of Elementary Particles. I " 39件

 [1] 私の共同研究者たちと私による論文は、67編が Google Scholar の検索にかかり、最も被引用が多いのは、1972年に Nuclear Instruments and Methods 誌に掲載の、電子の外挿飛程の経験式に関する論文で、34件である。しかし、引用データ収集の専門誌 Science Citation Index による1999年までの調査で、同論文の被引用は89件に達していた。昨年、Google Scholar で同じ検索をしたときには、被引用数がもっと少なかったということもあり、Google Scholar のデータべースは、なお充足中の段階と思われる。さらに、さる2007年7月2日の検索では、湯川博士のノーベル賞論文(再録)の被引用数が200件あったのが、今回の検索では、39件に「減っている」という、不思議な不安定さもある。

2007年7月23日月曜日

アテネ会議湯川講演

 先に日本物理学会誌7月号掲載の湯川関連記事の一つを紹介した [1] のに続き、もう一つの関連記事「アテネ会議湯川講演と科学の理想」[2] を紹介する。

 著者はまず、朝永が随筆「鏡の中の世界」に記した「過剰ならざる哲学」や、パウリが真に革新的な理論に必要としたクレージネス(狂気、そしてまた、群れを抜く素晴らしさをも意味する)は、湯川にとってはどんなものだったか、と問いかける。

 次いで、湯川が1964年6月5日に開かれたギリシャ王立協会主催アテネ会議で行った講演「科学的思索における直感と抽象」[3] での問題提起、「なぜ科学は古代ギリシャだけから生まれたか」と、その答えとして抽象と直観の釣り合いの重要性を述べた部分を引用し、そこに湯川の「群れを抜く素晴らしさ」についての考えも出ていることを示す。

 さらに、直観と抽象についての湯川の考えを裏付けるような C・N・ヤンやバートランド・ラッセルの言葉を引用している。また、物理学者が示した「過剰ならざる哲学」の例として、ファインマン、サラム、T・D・リーらの著作の末尾の言葉を挙げている。最後に、湯川の問いである「科学はなぜ東洋から生まれなかったか」に対するコロンビア大・ドゥブレの指摘や、関連したことがらについてのサラムの見解を述べている。

 ――著者自身の問題提起に続いて、湯川の問題提起とそれへの答えが紹介され、その問題と答えが、後の章で、著者自身が出したものと並列の問題として扱われている、という複雑な構造の一文である。また、引用の多いこともあって、このエッセイには、一読しただけではその趣旨をとらえがたい面がある。しかし、関連の記述をよく収集していることは、称賛に値すると思われる。私にとっては、湯川のアテネ会議講演を通読してみたいという気持ちを起こさせて貰った点で、ありがたい文であった。――

  1. 日下、オッペンハイマー、湯川の関係, Ted's Coffeehouse 2 (2007年7月20日).
  2. 法橋登:日本物理学会誌 Vol. 62 p. 555 (2007).
  3. もとは英文で、河辺六男訳が『湯川秀樹自選集4』p. 244 に収められている。法橋氏は『科学』誌掲載の「川辺」訳を参考文献に引いているが「河辺」の誤りだろう。

2007年7月22日日曜日

湯川の想いを引き継いで

 今年の原水爆禁止世界大会・科学者集会は「北東アジアに非核兵器地帯を―核兵器廃絶への湯川の想いを引き継いで―」と題して、8月2日(木)10時から16時30分まで、ひと・まち交流館京都(京都市下京区河原町通り六条東側)で開催される。

 京都は湯川博士のゆかりの地であり、また今年は博士の生誕100年に当たるとして、この集会では、博士の想いを引き継ぎ、核兵器廃絶を実現するための具体的道筋の一つとして、北東アジアに非核兵器地帯を設けることを提案し、その実効性ならびに実現可能性について議論したい、としている。

 愛知大学教授、日本物理学会会長の坂東昌子さんによる「湯川博士の想い」と題する講演もある。集会の詳細について興味のある方は、「原水爆禁止2007年世界大会・科学者集会 サーキュラー」[1] を参照されたい。

 没後20数年を経て、このように、その想いを引き継ぐ動きがあることは、湯川博士の核兵器廃絶にかけた熱意の大きさと、方向の正しさを裏付けるものであろう。

  1. 北東アジアに非核兵器地帯を―核兵器廃絶への湯川の想いを引き継いで―, 原水爆禁止2007年世界大会・科学者集会サーキュラー (2007年6月).

2007年7月20日金曜日

日下、オッペンハイマー、湯川の関係

 日本物理学会誌2007年7月号に湯川博士関連記事が2編掲載されていた。ここではその一編、「日下周一(1915-1947)―もう一人の中間子研究者―」[1] を簡単に紹介する。著者の加藤賢一氏は大阪市立科学館勤務で、この文は同館の斎藤吉彦氏(「湯川秀樹を研究する市民の会」顧問)との共同調査に基づいて書かれ、「歴史の小径」欄に投稿されたものである。

 日下は大阪生まれで、4歳で両親や姉とカナダに渡り、MITで修士課程を終え、カリフォルニア大でオッペンハイマーの指導を受け、博士号を得た(1942)。1939年から1945年の間に、中間子関連のものを中心として10編ほどの論文を発表し、パウリ、セグレ、ウィグナー、ウー、アインシュタイン、湯川らと交流もしたが、1947年夏、遠泳中に溺死し、彗星のように学問の舞台から消えた。31歳だった。その頃、プリンストン高等研究所長に就任したオッペンハイマーは、翌年に湯川を、翌々年に朝永をプリンストンに招いたのである。

 加藤氏は

オッペンハイマーは愛弟子の日下を通し、日本にある種の親しみを感じ、それゆえに[原爆の開発と日本への投下に関して]悔恨の情にとらわれることがあったのではなかろうか。そうした気持ちが湯川や朝永への支援となり、ノーベル賞の推薦へと結びついたと想像される。

と記している([]内は引用者の注)。プリンストン大学には日下奨学金が設けられ、現在でも物理の優秀な学生の表彰を行っているそうである。日下の年譜と業績の詳しい紹介については著者と斎藤氏のウエブページ [2, 3] を参照されたい、とのことである。

  1. 加藤賢一, 日本物理学会誌 Vol. 62, p. 555 (2007).
  2. http://www.sci-museum.jp/~kato
  3. http://www.sci-museum.jp/~saito